第38話 6-17.
アイリーンは、まるで人目を避けるようにキャンパス内を歩き、やがて学生会館の屋上へ出る非常階段を昇り始めた。
ふと振り返ると、いつも学友に混ざってガードに入っている女性SPが訝しげな表情でついてきていた。
マヤはSPに視線でその場に留まるように指示し、再び前を向いた。
マヤはただ、黙ってアイリーンの後をついて歩く。
今は何も聞かないで。私の話を聞いて。アイリーンの華奢な背中が、そう言っているように思えたから。
やがて二人は屋上に出で、アイリーンは換気口のダクトの上に崩れ落ちるように腰をおろした。
マヤもアイリーンに向き合うようにして、隣のダクトに座る。
黙ったまま、虚空に視線を彷徨わせるアイリーンを刺激しないようにと心掛けながら、マヤは静かに切り出した。
「ねえ、アイリーン? ……一体、どうしちゃったの? 」
それでも喋るうちにだんだん激してきて、涙が零れてきた。
「ベティだって、ルーシーだって……、勿論私だって、みんなみんな、心配してたんだよ!」
アイリーンは、マヤから目を逸らし、苦しげに答える。
「お願い……。お願いだから、マヤ、泣かないで! 」
無理だよ、と呟く。
アイリーンはぽろぽろと大粒の涙を零しながら、やがてダクトから崩れ落ち、コンクリ打ちっ放しの床に座り込んで、叫んだ。
「貴女は、私の為に泣かないで! ……私は、貴女に心配してもらえる資格なんてないの! 」
嫌な予感が心臓を鷲掴みにする。
出来ることなら、このままアイリーンを置き去りにして、逃げ帰りたかった。
けれどそうもいくまい。
マヤはアイリーンの顔を覗き込むように、彼女の正面に、同じように座り込んだ。
「ねえ、アイリーン。お願い……。私に全部話して? 私達、友達じゃない」
アイリーンは泣き顔をゆっくりとマヤに向け、ポツリ、と言った。
「私の話を聞いたら、きっと、私と友達じゃいられなくなるわ……」
もはや聞くしかない。
覚悟を決めて、マヤは口を開いた。
「とにかく、アイリーン……。話して。全部」
アイリーンはゆっくりと、小さい声で、けれどしっかりとした口調で話し始めた。
マヤと涼子の仲に嫉妬していた事。
マヤを取り返す為に考えた計画を、悩んだ末に実行に移した事。
クラブで知り合った3人のチンピラを金で雇い、涼子をレイプする様に指図した事。
涼子のレイプシーンを写真やビデオに撮影し、それをマヤに見せ、涼子を諦めさせようとした事。
そして、その犯行は未遂に終わり、実行犯3名とアイリーンは涼子とその部下に捕まった事。
最初マヤは、アイリーンが一体何を言い始めたのか判らなかった。
しかし、話が進むにつれ、身体が震えてきた。
血の気が引いて行く音が、確かに耳の奥で響いた。
いつのまにか立ち上がっていて、顔面蒼白のアイリーンにまるで噛みつくような至近距離まで顔を寄せて話に耳を澄ませていたマヤは、最後に未遂、と聞いて、全身の力が抜け、思わずふらついた。
差し伸べられた手を、思わずマヤは払い除ける。
マヤが払った手を、顔を歪めて胸に抱くアイリーンの姿を見ても、怒りや憎しみしか湧いてこなかった。
「じゃあ……。じゃあ、涼子様は、無事だったのね? 」
アイリーンは力なく頷いた。
深く長い溜息を吐いて、再びアイリーンの正面に座り込んだ。
マヤは、静かに、しかし迫力のある声で、問い重ねる。
「あなたは、どうしてここにいるの? ……涼子様はあなたを警察に引き渡さなかったの? その男達は? 」
アイリーンはビクッ、と肩を震わせた。
何度か逡巡した後に、漸く彼女が発した言葉に、マヤは今度こそ衝撃を受けた。
「私、涼子様に言ったの。自首します、って……。そしたら『貴女がそう言ったんだから、もうそれでいいわ』って……。許してくれた」
アイリーンが涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、マヤを見据えて言葉を継いだ。
「雇った男達も警察から引き取って、『性根を一から叩きなおす』って……、UNDASNに入隊させた」
「それじゃあ、事件は」
マヤの言葉に、アイリーンは頷いた。
まるで彼女の泣き顔は、微笑んでいるようにも見えた。
「特別職国際公務員特権を行使して、UNDASNで事件を丸ごとアメリカ政府やニューヨーク州政府から引き取って、なかった事にするって、……そう、言ってらしたわ」
マヤはその予想外の涼子の決断に呼吸が止まるほど驚き、そして次に呆然となった。
なぜ?
何故、そこまで酷い、理不尽な仕打ちを受けながら、それでも許せると言う、その大きさは、いったい何処から来るというのか?
知らぬうちに、声に出していたようだ。
「涼子様、仰ったわ。……マヤと、私は……。二人は自分に似てる、って」
アイリーンの声に我に帰る。
もう、彼女は泣いてはいなかった。
普段よりも少しだけ湿った声で、話し始めた。
涼子の生い立ちの事。
両親が戦死して、おばの家に引き取られた事。
そこまではマヤも聞いていた。”おばさんとお姉ちゃん”と一緒に写っている涼子の写真も見た。
しかし、アイリーンが続ける話は、今度こそ本当にマヤを打ちのめした。
世の中に、そんな酷い話が本当にあるのか?
涼子が、伯父、つまりは養父に襲われた事。
だが、レイプは幸い未遂に終わった事。
その事件をキッカケに、伯母と伯父は離婚し、そして伯母は引き続き涼子を育ててくれた事。
マヤは吐き気を催していた。意識が遠のく感じがした。
”涼子様……。幸せそうに見えたあの写真……、あれは何だったの? ”
今や床にしゃがみこんで、両手を突いて泣きじゃくっているマヤの肩に、ポン、と手が置かれた。
そのささやかな感触に顔を上げると、アイリーンが、何もかも悟りきったような透明な表情を浮かべてマヤの顔を覗き込んでいた。
「あの人は言ったの。マヤも、私も……、そして自分も……、胸に空いた空白を埋めあうだけじゃ、だめなんだって……。自分の空白を相手に埋めて貰うんじゃなく、相手を空白ごと包んで、守ってあげなきゃって……。そう、思いたくなる人は、きっと自分を掛け値なしで、愛してくれるからって……」
ああ。
あの方らしい、とマヤはしみじみ思う。
まるで、涼子が傍らに寄り添ってくれているような錯覚さえ覚えて、思わず微笑を浮かべてしまったほどに。
いつの間にか、アイリーンへの怒りや憎しみは、薄らいでいた。
「私の犯罪計画、今回のレイプ未遂であの方、中学生の時の事件を思い出しちゃったって言って……。それから、今まで心の底に閉じ込めてたのが、浮上して来たから……、だから、マヤごと、今日の事件は忘れちゃう、もう一度、心の奥底へ沈めるって……」
涼子の手紙の裏にあった秘められた『出来事』が、マヤの疑問が、全て氷解した瞬間だった。
ああ。
だから、涼子様。
構いません。貴女がそうしたいと仰るならば、マヤは忘れられたって構いません。
ゴトン、と金属質な音が唐突に響き、マヤは我に帰った。
アイリーンと自分との間に、ピストルが置かれていた。
「こ、これ……」
アイリーンは自分のセーターの左袖を肘までめくって、マヤの前に差し出した。痛々しいリスト・カットの後が、無数に残っていた。
「ア、イリーン……」
マヤから目を逸らして、アイリーンは自嘲気味に呟いた。
「私、最初は、あの方が大嫌いだった、憎くて、嫉ましくて仕方なかったわ。……でも、あの方に会って、話して、とても勝てない、と思った。ううん、それどころか……」
そうだろうな、とマヤはアイリーンが続けるであろう言葉が容易に予測できた。
あの方は、涼子様は、そうなのだ。
世界中の誰もが、あの方と出逢うと、恋せずにはいられなくなるのだ。
「私も、あの方を好きになってた……。涼子様を」
アイリーンは突然、涙をボロボロこぼしながら、声を荒げた。
盛られた毒を吐瀉するように、苦しげに叫んだのだ。
「私は! あんな素敵な方を辱めようとしたのよ! ……それどころか、昔の傷跡までナイフでほじくり返す様なマネまでして……! このまま、ノホホンと生きていける訳、ないじゃない! 」
狂ったように叫ぶと、アイリーンはそのまま蹲り、頭を抱えて暫くの間は泣き喚いていたが、やがて、ポソリと言った。
「……でも、……死ねなかった」
そして、アイリーンはガバッと顔を上げ、マヤを見上げた。
「私は、今でも忘れられない。リビングの灯りに浮かび上がる……、破れたシャツから覗くあの方の肌の白さ……。男に圧し掛かられて、絶望に瞼を閉じた蒼白の顔……」
苦しげに顔を歪めていたアイリーンの表情が、不意に、柔らかくなった。
何処か遠くをみつめるように、眼を細めた。
「だけどあの方は……。私に微笑みかけて、髪を優しく撫でてくれたの……。私の零した涙を、自分の服で拭ってくれたの……。あの方をそんなにした張本人の、私に! 」
細められた瞳から、再び涙が溢れ出した。
アイリーンはマヤに縋りつき、叫んだ。
「私はあの美しい、天使のような笑顔を私は汚そうとしちゃったの! ねえ、マヤ! 教えて! あの方は、両親に突然死に別れ、引き取られた伯父にレイプされかけた、そんな壮絶な青春を送ってきたのに! それでも、涼子様はあんなに美しくて、天使の様な優しさを周囲に分け与えながら生きているというのに……」
アイリーンはマヤの身体から床へ滑り落ち、身体を丸めて嗚咽を洩らした。
「私、そんな人を襲わせちゃった……、もう、最低よ、生きる資格なんて……、もう、ないわ」
かけるべき言葉がなかった。
こうやって、彼女は。
今までの数ヶ月、一人で地獄のような苦しみに苛まれ続けてきたのか。
泣き叫びながら、両手で床を何度も何度も叩いたアイリーンが、突然上半身を起こした。
一転して、遠い眼をしてここにはいない誰かに向って微笑みを浮かべているアイリーンの表情を見て、マヤは息を飲む。
一瞬、狂ってしまったのだろうか、そんな思いが脳裏を過ったが、けれどアイリーンは、静かに、静かに話し始めた。
「だけど、涼子様は、そんな私を、それは違う、死んではいけないと、優しく、そして根気よく諭して下さった。そして私に、私が今出来る最善の償いを指し示して下さったの……」
涙を拳で横殴りに拭ったマヤに、アイリーンは瞳の焦点を合わせて言葉を継いだ。
「涼子様、仰ったわ。私がいない間、そしてこれから先も、マヤを守ってあげて、って。マヤの苦しんでいた心に最初に気付いて、今日まで励ましあいながら一緒に歩いてきた貴方にしか、それは出来ない事なのよ、って」
マヤは、初めてこの
そうだ。
眼の前で哀しんでいる彼女がいなければ、私の今日までの日々は、もっと、それこそ真冬のニューヨークの鉛色の空よりも、暗く、重苦しい日々になっていたのだろうな。
「だけど私、悩んでいた」
ポソリ、と独り言のようにアイリーンは呟いた。
「人間としてあるまじき行いを仕掛けた私を、けれど涼子様は許して下さって、その上、明日を指し示して下さったけれど。私は、それにうまうまと甘えて良いの? えぇ、きっと涼子様は甘えて良いと言って下さる、だけど、例えそれに甘えたとしたって、私は私が許せない。だって私は、傷つけようとしたのは確かに涼子様だったけれど、だけど、もっと大切なひとを私は同時に、傷つけようと、いえ、傷つけてしまったのでは……? 」
アイリーンは、そこで言葉を切って、唇を噛み締めた。
数瞬の後、絶叫が響いた。
「マヤ! 私をその銃で撃って! 私を殺して! ……お願いだから! 」
体内で暴れる毒を吐瀉するような、苦しげな叫び~いや、悲鳴といったほうが良いだろう~だった。
「私は、貴方に罪を裁いてもらわなければ! 誰よりも大切なマヤ、貴方に断罪してもらわなければならないっ! そうでないと私は本当に許されたことにはならないの、貴方に許されなかったとしても、それが当然で、だからこそ貴方に殺してもらわなければ、本当の意味で私は許されはしないのよおっ! 」
うわあああっ、と春休みで森閑とした構内に、ニューヨークのまだ肌寒い初春の高い青空に、身体を、心を引き裂かれるような、悲しげな泣き声が、響き渡る。
ああ、涼子様。
貴方はきっと、アイリーンと私の、ここまでも予想して、見守ってくださっていて、だから彼女を、お許しになられたのですね。
空を見上げて、マヤは涼子に微笑みかけた。
そして。
縋りつくアイリーンに、マヤは。
優しく、微笑みかけていた。
これは、彼女の罪。
そして、私自身の、罪でもあるのだ。
マヤは足元の銃を拾い上げ、暫く眺めていたが、やがてそれを自分のハンドバッグに閉まった。
「マヤ……」
アイリーンの瞳が驚愕で真ん丸に見開かれた。
二人の罪は、二人で償いましょう。
想いを、口にする。
「アイリーン、もういいのよ……。あなたの気持ちは良く判ったわ。その腕の傷を見ればわかるもの」
思った以上に、優しい声が出て、ホッとした。
「マヤ……! 」
マヤはアイリーンの涙を、ハンカチで拭いてやる。
たぶん、涼子もこうして彼女の涙を拭ってあげたんだろう、そう思いながら。
「だって、涼子様が許したんだもの。私が許さない訳にはいかないでしょう? ……それに、私も貴女に謝らなければいけないわ。……だって、この街にきた時、最初に私を好奇の目以外で見てくれたのは……」
そうだ。
これは、私の罪。
傷つき震える孤独な心を癒してくれた彼女の、それ以上に疼く痕に気付いてあげられなかった、私の罪なのだ。
「貴女だけだったんだもの……。あの時私、凄く、嬉しかった」
泣き崩れるアイリーンを、マヤは胸に掻き抱く。
「ごめんなさい、アイリーン。……そして、ありがとう。苦しかったでしょう? もう、いいの。一緒に、泣きましょう」
春休み明けから、アイリーンは大学に復帰した。
休学前の華やかさがなくなり、少し翳のある表情を見せるようになったアイリーンを、友人達は再会直後は訝しんでいたものの、今まで以上に周囲へのさりげない気遣いを見せる彼女の振る舞いに触れるうちに、どうやら変化は良い方向へ向かったようだと気にせず接するようになった。
それまで以上に仲睦まじいマヤとアイリーンに、学友達は事あるごとにひやかし、からかいの声を投げかけていたけれど、二人は気にすることなく、学生生活を楽しんだ。
今でもマヤとアイリーンは、メールや電話で月に数度は楽しい会話を交わしている仲だ。
マヤの大学卒業、帰国の後、アイリーンは社会福祉学部に籍を移して博士号を取得し、今ではとある財団の主催する児童福祉施設で、事件や事故の被害に遭い、
これも、涼子との一夜の触れ合いが齎した、小さな奇跡のようなものだと、マヤは思っている。
対向車のクラクションで、マヤは長い回想から現実へ戻った。
車は既に、ヒースローへと向かうハイウェイに入っているようだった。
オレンジ色の道路灯が、現れては後ろへ飛び去り、車内を非現実的な色で染め上げてゆく。
この幻想的な風景は、涼子との4年ぶりの再会という、待ちに待った非日常の序曲に相応しい、とマヤは思う。
涼子が現在、統幕勤務、欧州室で英国担当課長を務めている事は、マスコミ報道で知っているし、そんな涼子が英国新国王戴冠式関連行事で、連日ロンドン市内に詰めていることも周知だ。
そして、今夜、涼子達UNDASN全軍のトップに立つ統幕本部長統合司令長官がロンドン入りすることも確実で、しかもラッキーなことに時間まで知る事が出来た。
英国担当課長であり、しかもUNDASNでの戴冠式関連諸行事の事実上の責任者である涼子が、それを出迎えない訳はない~と思うのだが、残念ながらここだけは賭けだ~。
逢える。
ようやく、逢える。
戴冠式関連の各種行事にはもちろんマヤも出席予定だし、たぶん、かなりの確率で、それぞれの会場では涼子と逢う事は可能だろう。
しかし、そんな公式行事の場で、愛しい涼子との再会を喜び合う~手紙通り、涼子が『忘れ去って』いた場合はまた別だろうが~時間などないことは、容易に想像がつく。
だから、この冒険に踏み切ったのだ。
だけど。
心の奥底に、疼く疑問が時折マヤの想いを中断させる。
涼子は、忘れたい、と望んだ。
この先の人生を歩んでゆくには辛すぎる過去、漸くの思いで葬り去った悪夢を浮上させかねないトリガーたる4年前のニューヨークでの出来事を、そしてそのキーパーソンであるマヤという人物を、忘れたい、と涼子は望んでいるのだ。
その真摯な願いを、自分は今踏み躙ろうとしている。
会いたい、美しい心を奇跡的に美しい肢体で包んだヴィーナスのような涼子を、胸に抱きたい、抱き締めてほしい、そんな自分勝手で我侭な想いに囚われて、涼子の苦しい胸の内を無視しようとしている。
それは果たして、許される行為なのだろうか?
「駄目。弱気になっては、駄目」
マヤはきつく眼を瞑り、雑念を追い払うように首を激しく左右に振る。
確かに、我侭かもしれない、自分勝手な、涼子にとっては迷惑極まりない行為かも知れない。
けれど、涼子が逃げ出した過去も含めて、マヤにとっては大切で愛おしい涼子なのだ。
あの頃と違って、自分は成長した、甘い自己採点かも知れないけれども、あの短すぎる涼子との出会い、心の交流で自分は、自分に欠けていた大切な”なにか”を教えられた。
今日までの4年間は、マヤにとってはあの日涼子に教えられた、自分が歩んでいくべき道を辿るのに必要な強さを身につける為の修行の日々だったのだと、マヤは想う。
まだまだ、理想の自分には届かない。それは理解しているし、今後も自己研鑽あるのみだ。
だけど。
小なりと雖も一国の元首たる自分が、超エリートだろうが元を質せば一般市民でしかない、封建制度は遥かな過去の遺物となったとは言えど、確実にその生きるバック・グラウンドの違う涼子と袖触れ合う事の出来る機会など、片手で余るほどにしかないのだから。
その機会をみすみす棒に振るような真似など、あの夜までの自分ならいざ知らず、今の自分には到底出来ない。
そして今の自分は、傷ついた涼子を癒すだけの度量と優しさを、あの頃に比べれば少しは身につけることが出来ている筈だ。
そして何より、マヤの胸に溢れる涼子への想いは、愛は、とっくに限界を超えていた。
もう、涼子が愛しくて、欲しくて堪らない。
自分と再会したことで涼子が再び過去の暴虐の嵐に苦しめられるような事になったとしたら、その時こそ自分は、あの夜涼子に救われた時の様に、出来得る限りの優しさと溢れる愛で、例え自分の持つ全てを犠牲にしたとしても、涼子の傷痕を癒し、震える心を宥め、そして自分の一生を賭けて涼子を守る。
その覚悟だけは、誰が何と言おうとも、本物だ。
今日までの4年間を、私はそうあれかしと、それだけを念じて生きてきたのだ。
それこそ、何処の誰にだって、当の涼子にだって否定はさせない。
「だけど、本音は」
マヤは、道路照明のオレンジ色の光に一定の間隔を置いて浮かび上がる自分の顔が窓ガラスに映るのを眺めて、自嘲気味に笑う。
「私がもう、限界なのよ」
その冥い笑顔から、マヤは眼を逸らす。
このまま膨らみ続ける涼子への想いを宥め賺し押さえ付けるのは、本当にもう、限界だった。
これ以上、自分が正気を保って生き続けてゆける自信が、もう、爪の先程もマヤにはなかった。
正直、助けて欲しかった。
助けて貰えるのなら、それは愛を受け容れてくれるのならば文句はないけれど、最悪拒絶されたって構わない。
日々膨らみ続けるこの臨界を突破した想いを一瞬でなかった事にして貰えるのならば。
「馬鹿だわ、私。本当に救いようのない」
これではあの時のアイリーンと変わらない。
いや、涼子の抱える危険な爆弾の存在を知っていて尚狂気の計画を実行しようとしている分、余計に性質が悪い。
再会によって涼子が傷ついたって、自分はこれっぽっちの責任も取ることが出来ないというのに。
判っていて尚、自分はそんな涼子を癒し、守り続けていけるだけの成長を遂げた筈だと何の自信も根拠も裏付けもない空虚な理由を舌先に上す自分という人間は、結局のところ、あの頃と、4年前よりこれっぽっちも成長なんてしていないではないか。
だけど。
一方で、想う。
これまで、豪奢な家畜でしかなかった、優雅な社交界で飼い殺されようとしていた、意思も夢も何もかもスポイルされた空虚なマヤという人形に、生命を吹き込み、明日への夢と想いの存在を知らせ、それを掴み取る為の戦いをするだけの知恵と勇気を教えてくれたのは、他ならぬ涼子なのだ。
「マヤをこんな女にしたのは、涼子様。これは、謂わば涼子様の自業自得なのです」
それこそ一方的で、涼子にとっては理不尽極まりない言い掛かりに過ぎないだろう。
マヤにしたって、ひとめ逢いたいと祈るように願ってはいるけれど、なにも涼子に正面から迫り、肩を掴んで振り回し好きです愛しています抱いてくださいなどと無理強いするつもりなどない。
今夜の脱出行にしたところで、涼子様お久しゅうございます毎夜貴女様を夢にまで見ておりましたなどと言うつもりなどさらさらなく、ひとめ生きて歩く涼子の姿を瞼に焼き付けたいと考えているに過ぎない。
涼子の反応を見て、今後の計画を練り直そうと実は考えているのだけれど。
「それにしても」
マヤはもう何度も繰り返した答えの出ない自問自答を切り上げて、もうひとつの答えの出ない問いを思い浮かべる。
気になるのは、一点。
”涼子様、本当に私のこと、忘れてしまっているのだろうか? ”
聡い女性だ。
まさか、本当に忘れている筈はないだろう。
しかし、名乗り出ても、知らぬ振りをされたら?
可能性は、ある。
本当に涼子が忘れてしまっているのなら、それはマヤにとっては僥倖だ。なにせ、涼子の過去を強制的に引き摺り出して傷つけたいなんて、これぽっちも想っていないのだから。
忘れているのなら忘れているで、そう、マヤと涼子は、もう一度、一から始めれば良い~もちろん、あの夜から始まる4年間をそれこそ闇に葬り去らなければいけないことは辛いけれど~。
何れにせよ、涼子を傷つけずに済むのなら、マヤはそれこそどんな苦労でも背負ってみせる。
けれど。
涼子が、忘れた振りをしたならば?
それは、何より明確な、涼子の拒絶に他ならない。
それは、想いを告げて拒絶されるよりも、悲しく辛く、そして絶望的だ。
”それでも私は、涼子様に逢うべきなのだろうか? ”
それだけが、気懸りだった。
弱気に萎えてしまいそうな自分をマヤは叱咤する。
拒絶など、4年前の手紙ではっきりとされているではないか。
今更、何を恐れることがある。
そうよ、そうだわ。
初恋なんて、実らないもの。
それが相場だと、世間では言うではないか。
「詭弁だわ」
けれどその詭弁が、マヤには妙に優しく感じられて。
まるで、涼子様のようだわ、と、ふと、思った。
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