第37話 6-16.


 涼子と連絡が取れない事に痺れを切らして、マヤが駐在武官事務所を思い切って訪ねたのは、その翌朝のことだった。

”明日はクリスマスイブ。何としても、今日中に涼子様と連絡をつけなきゃ”

 イブーキ王国摂政殿下、国連特使と名乗れば簡単に駐在武官事務所には入る事ができた。

 だが。

「石動一等艦佐は、昨日付けで太陽系外某実施部隊に配置転換となりました。この時間ですと、太陽系某惑星の集結地点に到着した頃だと思いますが」

 総務班長と名乗る小山のような大男が、申し訳なさそうな表情で告げる言葉が、まるで遠くで響く海鳴りのように思えた。

 放心状態で国連本部ビルをさ迷い出た後、セントラルパークのベンチで蹲っていたところをイブーキ王国のSPに保護されるまでの4時間の記憶がマヤには、ない。

 領事館に連れ戻されたマヤは、部屋に篭ったまま、1週間、一歩も外に出なかった。

 泣いてばかりいた。

 人間とは、こんなにも泣き続けることが出来るものなのかと、内心、驚き、呆れながら。

 もう苦しくて苦しくて、死のうとまで思った。

 涼子がUNDASNの高級幹部である事、配置転換が多い事、そして今はミクニーとの戦争中だと言う事。

 そんなことは、頭では充分すぎるくらい、判っていたつもりだった。

 だが、マヤの心がその事実を受け付けなかった。

 想いが事実を拒絶していた。

「なんで、涼子様が、そんな危険な所へいかなければならないの? なんで涼子様は私を残して行ってしまわれたの? 」

 頭に浮かぶのは、涼子への呪詛、そんな涼子を好きになってしまった自分への呪詛、そして。

 涼子への、熱い想いだけだった。

 知らぬうちに、涙は乾き果てていた。

 涙さえ枯れ果てた、今。

 もう、自分の両手には何も残っていない。

 涼子に届かない自分の手など、切り落とされても惜しいとも思わない。

 広い寝室の真ん中、ぼんやりと座り込んで喪失感だけが充満する室内を見渡しながら、ひょっとして自分はこのまま狂ってしまうんじゃないだろうか、と、ふと、思う。

 狂ってしまった方が、楽かもしれない、思わず苦笑を浮かべて視線を彷徨わせた、その時。

 マヤは、ドアの下の隙間から白い封筒が差し込まれているのに気付いた。

「……ま、さか? 」

 閃く何かに背中を押され、マヤはペルシャ絨毯の上を獣のように這って、引っ手繰るようにして封筒を抜き取った。

 それは、魔法のアイテムだった。

 魔法のアイテムは、厚手の合成紙で作られた、白い封筒の形をしていた。

 震える手を深呼吸3回で黙らせ、霞む眼を励まして見たそれは、羽根をひろげた鷲がUNDASNのロゴ入りリボンをその鋭い爪で持ち、逞しい背に国連マークと錨をモチーフにした赤い矢印アンカーマークを背負った、正真正銘の『UNDASNマーク』が片隅に印刷された、公用封筒だった。

「これは……! 」

 切手欄のかわりにUNDASN外交通信のスタンプが押されている。受付はリトオオ星政務管理事務所通信部、消印はクリスマスイブの2日後。

 表書きには、マヤの名が正式名称で書かれ、『国連特使』と肩書きまで書かれている。

 逸る心を押さえつけて、ゆっくりと裏を向けたマヤの目に飛び込んできたのは、ドイツ語で丁寧に書かれた、”リョーコ・イスルギ”という、サイン。

 マヤが、待って待って、待ち焦がれた人の名前。

 初めて出逢ったその日から、その名を口に、いや脳裏に思い浮かべるだけで、果てしない未来が開けた、そして何の予兆もなく眼の前から、地球から消え去ったあの日以来、何千回、何万回、唱えさえすれば消え去ったあの時と同じくらいの唐突さで、目の前にその人が現われるかもしれない、半ば本気で信じつつ口に出しては、ただ虚しく空気を震わせた人の名前。

 その人の書いた文字。

「涼子様! 」

 マヤは、神への感謝を口の中で呟き、テーブルの上のペーパーナイフで、これ以上ない、と言うほど丁寧に、封を切る。

 そんな簡単な作業でさえ、途中溢れる涙で手先が見えなくなり、マヤはしばしば作業を中断しなければならなかった。

 涼子が太陽系外を遥かに越えた遠い惑星から送ってくれた手紙を、焦るあまり乱雑に扱うことなど出来る訳はなかった。

 苦労して漸く開いた封筒の中には、愛想のないUNDASN公用便箋(それもまた涼子らしい、とマヤは、涙で濡れた頬を歪めて微笑んだ)が数枚。

 そこには、涼子の美しい外見そのままの、そして美しい心がそのまま表現されたかのような、几帳面な文字が並んでいた。


 親愛なるマヤ・ハプスブルク・ゲンドー・シュテルツェン2世殿下。お元気でお過ごしの事とお慶び申し上げます。

 ……ああ、どうも、この文体ではしっくりきませんわね。失礼を承知の上で、もっとフランクに書かせて頂きます。これは、私からマヤ殿下への親愛の情の現れ、と思って、笑ってお許し下さいませ。

 まず初めに、殿下にはお詫び申し上げなければなりません。

 折角お気にかけて頂きながら、一言のご挨拶せずに、殿下の前から姿を消した私をお許し下さい。

 私共の定期異動は、通常4月と10月にございますが、そこはなにぶん『軍隊』という特殊な組織の事でもあり、急な異動も珍しくありません。

 私が配置転換を命ぜられましたのも、マヤ殿下とお会いしたあのパーティの晩(ああ、たった1ヶ月前の事なのに、随分懐かしく感じられます! )から数週間後でした。

 冥王星にある太陽系外幕僚部への出頭指定日がGMT12月25日、移動指定艦乗艦のケープケネディ出航が23日になっていました為、例えご挨拶出来たとしても、クリスマス・イブの夜はご一緒できませんでしたでしょうが。

 きっと殿下は怒ってらっしゃいますでしょうね? もっとも、私の事なんか気にもせず、素敵な方と素敵な晩を過ごされたのなら、それはそれで喜ばしい事ですが。

 私は、殿下もご存じの通りの、弱虫の泣き虫ですので(上官や先輩達からは『軍人にあるまじき』といつも怒られています)、殿下のお顔を拝見した途端、ご挨拶などとんでもない、きっと、洟や涎を垂らしてみっともなく泣いてしまうと思い(オバサンの泣き顔は酷いものなのです)、そうすれば、優しい殿下はきっと、一緒になってお泣き遊ばすだろう、と考え、黙って旅立つ事にいたしました。

 だって……。

 こんな事を言うのは本当に失礼なのですが。

 殿下は、畏れながら、私とよく似てらっしゃる様に思えたのですもの。

 まるでデジャヴの様に、その光景を思い浮かべる事ができました。

 ですから、お逢いするのは遠慮させて頂きました。

 何故なら私、こればかりは自信を持って断言できますもの。

 マヤ殿下に、涙はお似合いになりません!

 ですから、この手紙を読んでも、けっしてお泣きあそばしませんように。

 ああ! これが私の愚かな自惚れであれば、どれだけ嬉しいでしょう!

 でも、実は。

 さきほど、私は『殿下と私は似ている』と書きましたが、あれは、嘘です。

 だって殿下は、私などと比較にならぬほど素敵な方なんですもの。

 殿下は、私などよりよほど芯のしっかりした、強いお心の持ち主なんですもの。

 何故判るかって? 

 殿下の国連でのお姿を拝見すれば、いくら私が馬鹿だって、すぐに判りますわ。

 普通なら何の心配もなく遊びまくっている年頃に、御父君陛下をお助けになりながら、国民や侍従達、貴国政府閣僚に外交関係にある各国政府高官に対して、あれほど細やかなお心配りが出来るなんて、私のような弱虫な人間には、とても真似などできるものではありません。

 ……少し、意地悪が過ぎましたかしら? 

 おそらくマヤ殿下は、この様な事を言われるのがお嫌いでしょう? 

 でも、私が本当に言いたい事の、これは前振りなのです。

 ですから暫し、ご辛抱の程を。

 殿下が、殿下として褒め称えられるのを嫌がるその理由。

 それは、多分殿下が『仕事』としてやらねばならない『儀礼』、『外交』を、王室にお生まれになったと言うだけで受け入れざるを得ない運命として、感じてらっしゃるからではないでしょうか? 

 ……でもね? 

 私は少し違うんじゃないかな、と思います(偉そうに! とお怒りにならないで! )。

 ひとには、もって生まれた環境、というものがあります。それに、後天的な環境もあります。

 もちろん、私にもあります。

 私の場合でしたら、大学を出てOLか教師にでもなろうか、それとも両親が理数系でしたので、何かのエンジニアがいいかしら? 

 ……いずれにせよ平凡な人生だったことでしょう。

 だけど実際の人生は、どこでどうしてこうなったのか、私は今、太陽系を遠く離れた漆黒の宇宙空間で、こうして手紙を書いています(まあ、今でも平凡には違いないのですけれど)。

 結局ひとは、眼の前にある環境、条件を自分の手足を、五感を駆使してクリアし、利用しながら、時には後ろ髪を引かれる思いで何かを捨て、思いもかけない何かを手に入れて胸に抱き、そして時には危険な綱渡りをして冷や汗を掻きながら、一歩一歩、歩いていくしかないのではないでしょうか。

 そうして手に入れた”何か”すら、それは運命の為せる業でしかないのかも知れませんが、それはひとが『if』を常に夢見ているからであって、そうなってしまったものはもう、動かしようがありませんよね? 

 だから、新たな環境、条件を手に取って、溜息一つ零した後に、ひとはまた、歩いてゆくのだと、思います。

 結局、なるようになる、ってことなのかしら? 

 だけど私は、それでも良い、と思います。

 手の届く範囲でベストを尽くしているのなら。

 でも、手の届く範囲でベストを尽くすその為には、パワーと、強靭な意思が必要です。

 そして殿下は、パワーと強靭な意志、その両方を持った方だと、私は思っているのです。

 殿下は、持って生まれた環境や条件を潔く受け入れたその上で、立派に戦い、そして自らの新しい道を切り開くことの出来る方だ、と。

 だから私は、あの夜、殿下をお守りしなければ、と思ったのです(無謀でしたけれど。二日後に筋肉痛が来た時のショックときたら! )。

 マヤ殿下は、ですから新しい環境、条件の下で。

 つまり、私の事は早く忘れて、地球で頑張って頂きたい、と思います。

 戦争の事は私共にお任せ下さい。マヤ殿下を始め、地球の人々は私達が命に代えても守ります(まあ! 自分で書いていて、なんて大それた事を、あぁ恥ずかしい! )。

 ですからマヤ殿下には、地球の事を宜しくお願いします。

 だって、マヤ殿下は、それが出来る方なんですもの。

 私はこの先、いつ地球に戻れるか、わかりません。UNDASNの佐官クラス(防衛大学出身者)は、通常実施部隊(戦闘する部隊ですね)→系内または系外幕僚部→実施部隊→内外幕僚部(時々統幕、つまり地球ですね)とのローテーションが一般的ですから、私が次に地球配置になるのは、早くて4年後、遅くて7年後(その頃、マヤ殿下ももう20台半ば! 失礼ながら、オバサンへの曲がり角時分ですわよ! 私は、おばあちゃんです)……。

 多分その頃には、すてきな殿方とお幸せなご家庭を築かれていらっしゃる事でしょう。ひょっとしたら、お子様も? 

 それに、私も戦死するかもしれません。

 勿論、そう簡単には戦死するつもりはございませんが、こればかりは相手のいることですし、時の運ですから……。

 ですから、殿下も私の事は一刻も早くお忘れになられますように。

 いつまでも覚えていても、これっぽちも得になりませんわよ(損しちゃうかも? )


 ……ええと。

 どうでもいいことを長々と書いてきたのには、実は訳がございまして。

 うん。

 ちゃんと、お伝えしなければならないことを、きちんと、書きなさい、私。


 失礼ながら、そして辛いのですが、私は殿下の事は、これっきりで忘れさせて頂きます。

 実は、地球を離れる前に、色々ございまして、殿下と違って弱虫泣き虫の私には、忘れなければこの先、辛くなるだろうという出来事がありました。

 本当は、殿下の事を忘れてしまうのはとても辛くて悲しいし、申し訳無いのですが、でもやっぱり、忘れる事にします。

 私はご存じの通り馬鹿ですから、忘れるのは得意ですわよ!

 ですから殿下も、どうぞ私のことなどお早くお忘れになりますように……。


 ああ、長々と、思いつくままに書いてしまいました。

 ご多忙な殿下には、大層ご迷惑な事でしたでしょうが、お許し下さい。

 本当は、この手紙を書く事も、随分と迷いました。

 でも、忘れる前、最後に、きちんと。

 殿下にお詫びがしたかったのです。

 だからこうして、着任や引継ぎの一連の行事が終わった後、艦長室で、なにやら訳の判らない、長い長い手紙を書いています。

 私は今、太陽系から数百光年離れた暗闇の宇宙を、僚艦と共に航行中です。

 もう、太陽系の惑星は全く見えず、私達の太陽も、宙の数多な星々に紛れてしまって、どれがどれだか判りません。

 次の物資搭載の為の寄港地で、この手紙を出します。

 それより先は、地球への郵便物はいつ届くのやら、本当に届くのやら当てになりませんので。

 私は、元気です。

 嘘。

 ほんとは、少しだけ、恐くて、淋しいです。

 だから、今の私は、カラ元気を出してます。

 カラ元気も元気のうち。

 嘘でも元気を出さないと、ホントに”戦死”してしまいますもの、ね? 

 さて。

 この辺でそろそろ、筆を置かせて頂きます。

 最後に、殿下。

 御身、御大切に。


 そして、もうひとつ。

 殿下は決してお一人ではありません。

 殿下がどう思っていらっしゃろうが、沢山の人々が、殿下を心の底から応援し、一緒に泣き、笑い、ハラハラドキドキしています。

 お父上も、殿下のご学友の方々も、侍従長様始めとして殿下のお側の方々も、見ていてうらやましくなる程、皆様殿下の事を愛してらっしゃる筈です。

 そして、私も。

 私も、遠い宇宙空間から、殿下のお幸せを心よりお祈り申し上げております。

 (さっきは、忘れちゃいます、と書きましたが……。私は、野生ですから、殿下の事を忘れても、殿下のお幸せを祈ることだけは忘れません! )


 それでは、ご自愛下さい。

 マヤ・ハプスブルク・ゲンドー・シュテルツェン2世殿下。



 マヤは涼子の手紙を読みながら、声を上げて泣いた。

 途中、何度も、何度も、涙で視界が滲み、読む事を中断しなければならなかった。

 そうして苦労して読み終えると、また、何度も、何度も、繰り返しては読み、そしてその都度泣いた。

 勿論、この手紙は、涼子からの一方的な~別に二人は付き合っていた訳でもないが~別れの手紙であり、しかも、全体的に優しい口調ながら、通り一遍の『別れの手紙』ではなく、『貴方の事を、記憶から消し去る』という、激しすぎるほどの別れの宣告であった。

 マヤとてその意味に気付かない訳ではなく、溢れる涙の半分は別れの哀しみ、そしてあの夜の、煌くような思い出すらなかった事にしようと言う涼子の申し出に関してだ。

 けれど、残りの半分は、涼子への感謝の想いからくる涙だった。

 マヤは、まさに涼子の指摘通り、王室の一員としての自分の存在意義に疑問を感じていた。

 イブーキは、王国とは言え、勿論実態は立憲君主制の議会民主主義国家であり、王室の一員にはなんの権限もない。

 その意味で、王族というのは、単に国家と国民にとってのアイドルでしかないのでは、と考えていた。

 人権も、夢も希望も、なにもない。いや、持ってはいけない。

 その範囲を逸脱せぬよう、出来るだけ何も考えず、驢馬の様に生きてゆく。

 それが自分の変え難い運命だと、信じ、割り切ろうとし、それゆえ、埋め難い胸の隙間は、マヤが歳を重ねるに連れ大きくなる一方だった。

 だが、違った。

 違うと、涼子が教えてくれた。

 空白を埋めて余りある愛を、自分は享受していたのだ、今までも、これからも。

 涼子の、大きさが、優しさが、温もりが、嬉しかった。

 それは、甘く切なく夢のように柔らかで優しい恋ではなかったけれど、それこそ今まで味わった事のない、大きな、家族のような愛で自分を見守っていてくれるひとがいるという奇跡に、そんな奇跡のような存在である涼子に、感謝したかった。

 だからこそ。

 涼子が自分に与える愛が、マヤが涼子に対して抱く想いとは違うものだと判っても、なお。

 涼子への恋心は、一層、募る。

 ますます涼子に逢いたくなった。

 そして、それが叶わない事も知っていた。

 だから、また、泣いた。

 そして、いつしか。

 涙を流すたびに、マヤは、身体が軽くなってくるような気がした。

 そして同時に空腹も訴えてくる自分の身体の現金さに、苦笑さえ浮かべる事も出来た。

 カラ元気も元気。

 涼子の手紙に書かれた言葉。

 元気をださなくっちゃ、と思った。

 こんな情けない姿を知られたら、涼子様に怒られちゃう……、いやあの方は怒りはしない、きっとオロオロと心配して下さるだろう。

 だから、まず。

 涼子に相応しい自分になるために。

 涼子に並び立ち、恥ずかしくない自分になるために。

 元気をださなくっちゃ。


 その日、マヤは1週間振りに、部屋から外へ出た。

 少しフラフラしたが、頑張ってダイニングまで行き、食事を採った。

 ばあやは驚きを隠そうとしないながらも無言のままで、スープとサラダ、焼き立てらしいクロワッサンと暫く絶食状態だったマヤの身体を気遣うような優しい食事を用意してくれた。

 それでも完食することは出来なかったけれど、ばあやの優しい心遣いが久々に採った食事の栄養と一緒に身体に染みて、明日へと向かう勇気が湧いてくるように思えた。

 マヤが食事を終えて、食後の紅茶を飲み終えて席を立った時、ばあやから報せを聞いたのだろう、侍従長が食堂に駆け込んできた。

 普段、所作振舞に煩い侍従長らしからぬ”振舞”だった。

「姫! 」

 侍従長は一声叫ぶと、テーブルを見、マヤが食事をとった事を確認して、頭を下げて、小さな震える声で言った。

「姫……。ご機嫌麗しゅう」

 侍従長はそう言い終わった後も頭を上げない。

 肩が細かく震えている。

 泣いているのだ、とマヤは思った。

 マヤは侍従長に駆け寄り、抱きついて耳元で囁いた。

「じい! ……ごめん、ごめんなさい! ……心配かけちゃったね? でも……、もう大丈夫です」

 侍従長は、ついに堪えきれず、頭を下げたまま、嗚咽を洩らした。

 マヤは、侍従長をそっと抱き締める。

 こんなに小さかったのかな、と少しショックを受けて、一緒になって泣いてしまった。

 その翌日から、マヤはこれまでキャンセルしていたスケジュールを通常モードに復活させた。


「マヤ! おはよっ! 」

「ベティ、ごきげんよう」

 冬休みが明けるとマヤは、再び気のあった友人達と交わり、普段と変わる事なく、暮らしはじめた。

 一見、普段と変わる事なく。

 マヤは、心に決めていた。

「涼子様が忘れたって、構わない! 私が、涼子様を一生忘れなければいいんだから」

 そんな素振りは誰にも見せなかったが、マヤは涼子からの手紙と、アイリーンから郵便で送られてきた涼子の写真~アイリーンが父親の新聞社から入手したと郵送してきたものだ、それは国連本部でワルツを踊る二人の写真だった~を、いつもバッグにひそませていた。

 どんなところへでも持ち歩き、時々人に隠れてそれを取り出しては、眺めて涙ぐむのが、いつしかマヤの隠れた日常になりつつあった。

 涙ぐみ、表情が翳るその理由は、ふたつあった。

 ひとつは勿論、涼子への思慕、戦死や戦傷していないかという心配。

 そしてもうひとつ、それは、涼子の手紙に感じた疑問、だった。

 涼子の手紙にあった、『忘れなければこの先、辛い事』とは、一体、なんだろう? 

 お互い忘れましょう、とは別れの手紙に書く言葉としては特段、おかしくはないだろう。

 けれど、涼子の手紙は、別れるだけではなく、『なにかが起きたから忘れる』と明記されているのだ。

 手紙に関しては、もう一点、不可思議な部分があった。

 涼子の手紙は、『地球を離れる前に、色々ございまして』までと、『実は、殿下と違って弱虫泣き虫の私には』以降で、確実にインクの色が違うのだ。

 インクが薄くなりペンを変えたのか、とも思ったが、その付近の文字が、何かに濡れて、微かに滲んでいる事に気付いたマヤは、直感で気付いた。

「涼子様は、ここまで書いてその出来事を思い出されて……、泣いたんだわ。それで手紙を書くのを一時、中断されたんだ」

 一体、記憶自体を消し去りたい、とまで涼子に思わせた事件とは何だろう? 

 その疑問も、マヤの表情の翳りの、一因だった。


 そして遂に、マヤの疑念が全て判明する日が来た。

 その事実の全容は、マヤに、彼女の想像していた以上の衝撃を与えた。

 マヤに全容を伝えたのは、アイリーンだった。

 アイリーンはクリスマス前から大学を休んでいて、その時マヤは涼子で心を一杯にしていたから気を回す余裕もなかったけれど、冬休みが明けても顔を見せず試験にも出てこなかった親友のことが心配でならなかった。

 それが、マヤの表情が翳りがちだった、涼子とは関係ない部分での一因だ。

 涼子が消え去った今、身勝手かも知れないけれどマヤは、アイリーンの存在の大きさが身に沁みて理解できた。

 けれど今、アイリーンは、何があったのか、マヤの傍にいない。

 涼子を消失した事で大きく開いた心の空白が、一層大きくなったような気がした。

 マヤと友人達は、寄るとさわると、アイリーンの消息について話した。

 ある友人が調べたところによると、休学届が提出されているらしかった。

 それを聞いて友人代表が、アイリーンの家を数度訪ねたが、その都度、執事に”病気で臥せっている”と言われ、会えずに帰ってきた事が、マヤ達の不安をある意味鎮静化させ、そして病状を案じて 新たな不安も覚えた。

 病気なら仕方ない、行方不明になった訳ではないのだ。

 けれど、どうやら病状は重篤らしい。

 心配だけれど、それこそマヤ達にはどうしようもないのだ。

 お見舞いが可能になったら連絡して欲しいとツイストマン家に伝える事しか、アイリーンの為に出来る事はなかった。

 だんだん、友人達の口にアイリーンの名前が上らなくなり始めた、早春のウイークデー。

 春休み前の期末試験を終えたマヤが、人気のない図書館へ行き、このところ日課になっている『マンスリー・スペース・コンバット』誌を閲覧している時だった。

 マヤは、この雑誌を手に取ったら一番に目を通す記事、『2月の太陽系外作戦行動』欄を読んでいた。

 艦船や航空機、兵器のグラフ写真が中心のこの手の雑誌の中では、地味なコーナーだが、これを外すわけには行かない。

 ここには、UNDASNの実施部隊の1ヶ月間の作戦行動が、戦果や被害状況まで、一般の新聞記事では読み取れない詳細が記載されている。

 涼子の階級は一等艦佐、手紙によると彼女は艦長職を拝命した筈で、そうだとすれば、戦艦、重巡洋艦、または空母か強襲揚陸艦と限られている。

 加えて、涼子の手紙~クリスマスに冥王星集合、リトオオ星経由で作戦行動中のそれら艦種を擁する艦隊~から推測して、マヤは、第4艦隊もしくは第28艦隊に涼子の乗艦が所属している、と考えていた。

「ええと、第4艦隊は……。ふーん、そっかー。フカインを出て、損害ゼロでガシコーに帰還予定、ね。28艦隊は……? あれ、イースト=モズン星域を離脱、3月中旬まではハルミー方面を」

 と、隣りに誰かが座った気配がした。

 マヤが紙面から顔を上げると、そこには、予想を裏切る人物がいた。

 アイリーンが、寂しそうな微笑みをうかべて、こちらをみつめいていた。

「アイリーン! 」

 思わず大声を出したマヤに、アイリーンが人差し指を唇にあてた。

「ハイ、マヤ……」

 弱々しく軽く手を振るアイリーンの姿を見て、マヤは絶句した。

 それほど、アイリーンの容貌は激変していた。

 瑞々しく輝いていた白い肌は土気色に変わり、豊かだった金髪も、今は後にひっつめて、艶も輝きも失っている。ふくよかだった頬はげっそりと落ち、眼窩は窪んでいる。

 服装も、派手なワンピースから地味なセーターとジーパンにスニーカー。

 これがあの、華やかさを絵に描いたような、アイリーンか? 

 余程酷い病気だったのだろうか? しかし出歩いているのならば、もう、危機は脱したのか? 

 驚愕で言葉が上手く紡げないでいるマヤを尻目に、アイリーンは図書館の出口の方を指差して、静かに言った。

「マヤ。ちょっと……、外へでない? 」

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