第36話 6-15.


「私も、今の貴女の話を聞いて、思ったわ。国連本部ビルで、初めてマヤ殿下とお話したときと同じ事を、思ったの」

 アイリーンが、何故? と問うように小首を傾げた。

 ……あれ? 

 涼子も一瞬小首を傾げる。

 私は、この娘の問いに、答えを持っているのか? 

 いや、それ以前に、私は今から何を話そうとしているのか? 

 けれど、涼子の舌は滑らかに動く。

 まるで自分の身体ではないかのように。

「私の両親は科学者で、UNDASNに勤めていたんだけれど、私が中学1年のとき、二人とも太陽系外で戦死しちゃった。それで孤児になった私を、母の姉、伯母が引き取ってくれたのね。伯母も、その家の一人娘の従姉もとっても優しい人で、すごく私を大切にしてくれたわ。そりゃあ、淋しくない、悲しくないなんて言ったら嘘になるわね。最初のうちは、毎晩のように両親の夢を見た。今でも時々見る事があるんだけどね? 」

 この話は、まだ、いい。

 夢の内容はよくないけれど、確かに事実で、私自身、ちゃんと知っているもの。

「私は夢の中では小さな、幼稚園くらいの私になってて、どんどん遠くへ離れて言っちゃうお父さんとお母さんに、泣いてお願いしてる夢なの。お願い、何処にもいかないで、涼子を置いていっちゃ嫌だよ、ってね。だけど、伯母や従姉の優しさに包まれて、だんだん笑えるようになって、夢を見る頻度も減ってきて……。それでもやっぱり、どうしても埋まらない心の空白があるんだけれどね? でも、それだって、普段は笑って忘れたふりをしていられるくらいには小さくなっていったの」

 話しながら涼子は思う。

 何で私は自分の身の上話なんかしてるんだろう?

 それも、自分自身で判っていない『身の上話』を。 

 私の身の上話は、結局どこへ落ち着き、彼女に何を与えるのだろう? 

 そして。

 いったい、私は、なにを話そうとしているのだろう? 

 けれど、唇は言葉を紡ぎ続ける。

「こんな素敵な親戚がいて、きっと私はまだマシな方なんだろう、って、思うようになっていた。反面、チラ、と思うことがあったの。なんで伯母一家は、こんなに私に優しくしてくれるんだろ、って。だって、伯父さんだって、別に特別お金持ちじゃないんだよ? 従姉の進学や新しく買った家のローンで生活だって楽じゃない、って聞いたこともあったし。だけど、突っ張ったって仕方ないな、って思うようになった。なんて言ったって、まだ中学生なんだもん。高校に入ったら、アルバイトして、卒業したら働こう、ってその程度。だけど、私に優しくしてくれた理由、私を引き取ってくれた理由が、ある日突然、判る日がやってきたの」

 なにが判ったと言うんだ、私は。

 全然、判らない。

 この話は、一体、どうなるの? 

 話の内容が、どんどん、自分の知らない話になっていくのだ~まるで、子供を寝かせつける為にお話をせがまれて、喋りながら創作しているような~。

 だが、唇は言葉を紡ぐことを止めようとはしない、止まらない。

 まるで、出来上がっている話をなぞっていくかのような流暢さで。

 急に、頭の隅に鈍い痛みを覚えた。

 これは、あの。

 さっき、男が自分の身体の上に圧し掛かり、抗いようのない凶暴な力で乱暴しようとした時に。

 目の前にいるアイリーンが、そんな自分の姿をカメラで撮影していたあの時に。

 感じた頭痛と一緒だ。

 そこで涼子は、突然、悟る。

「あれは中学2年の、夏休み前だったかな? 試験か何かで私がいつもより早く家に帰ると、伯母さんもお姉ちゃんも留守で、伯父さん一人家にいたの」

 この話は、自分が知らないだけで、憶えていないだけで、”あの日”、本当に起こった話であることは、どうしようなく真実でしかないことを。哀しいけれど。

 気付いてしまった、けれど。

 やめられなかった。

「『ただいま』、『おかえり』って、そこまでは別に何も普段と変わりなかった……。私は、お姉ちゃんと2人でひとつの部屋をもらってて、ね。で、制服から部屋着へ着替えてたの。そしたら、なんだか誰かに見られてるような気がして」

 これは思い出したくない記憶なのだ。

 これは『憶えていてはいけない』記憶なのだ。

 可能ならばここで口を閉じ、アイリーンなんか放り出して、布団を頭から被って眠ってしまいたかった。

「振り返ると、いつのまにか、おじさんが部屋の中に立ってた。まるで別人のような顔つきで。なんて言うか……、今になって思うんだけど、男の目で、私を見てた。……そう」

 ついさっき、自分の身体に跨り服を引き裂いた男の顔が浮かぶ。

 煙草臭い口臭までが蘇るようだった。

 男の残忍そうな表情が、伯父の顔とダブった瞬間、漸く理解した。

 今夜の事件がトリガーとなって、忌まわしい記憶の封印が解けたことを。

「伯父さんが、私に、言ったの。『涼子ちゃん、涼子ちゃんの裸、伯父さんに見せてくれないかなあ』って。私、恐いって言うよりも、信じられなかった……。だって……。だって、孤児の私を、金持ちでもないのに、引き取って、育ててくれてる恩人なんだよ? その人が裸見せろって言うんだよ? しかも、自分の娘の部屋でだよ? 」

 知らぬうちに涙が溢れていた。止めようとしても、止まらなかった。

 頭痛は一層激しくなる。

「『おじさんねえ、毎晩涼子ちゃんの裸見てて、もう我慢できなくなったんだ』って。私……、その時気付いたの、なにもかも……。伯母さんやお姉ちゃんは、本当に善意で、私を可哀想と思って、伯父さんに私を引き取ろうって言ってくれたんだと思うの、きっと。だけど、それに賛成してくれた伯父さんは違ったんだって」

 そう言えば、伯母の家で暮らし始めた当初は、得も知れぬ違和感があったものだ。

 入浴する度、着替える度に、視線を感じた。

 けれど、その時はまだ、親戚とはいえ他人の家で、遠慮と気遣いで緊張しながら過ごしていたから、それを理由にして、自分を誤魔化していた。

 そう。

 誤魔化していただけで。

 予兆は、あったのだ。

「伯父さんは私を、自分の欲望を満たす為に……。引き取ったんだ、って。……その時、判った」

 ああ、忘れたい。叶うならば、もう一度、忘れたい!

 涙の向こうで、アイリーンの白い顔が、一層白くなったように思えた。

 それが涼子の心を落ち着かせてくれた。

 暫く考えて、ああ、お姉ちゃんも色白で奇麗だったからかな、と思い当たった。

「『黙ってないと、この家から放り出すぞ』って脅されて、押し倒された。まるで、誰かに喋ったらお前は地獄行きだ、そう言われたような気がして、もう抵抗する気力も失せちゃった。……けど、やっぱり、無意識のうちに暴れちゃったのね」

 もう、『これでいい』だろう。

 終わらせよう。

 どう話したって、救いのないオチなのだ。

 そう、終わらせる。

 とんだパンドラの箱を開けちゃったな、と苦笑を浮かべる余裕も出てきた。

 最後には希望も残らぬ、出来損ないのパンドラの箱。

 だけど、頭痛を引かせる事くらいの効能はあったみたいね。

「気がつくと、ベッドに、ちゃんとパジャマ着せられて寝かされてた。目が醒めたら、枕元に伯母さんが座ってた。私が気を失った直後に、伯母さん、偶然に帰ってきたらしくって……。家に帰ると、姪っ子が素っ裸で気を失っている。自分の夫は血塗れでその横に倒れている。どうやら私、無意識のうちに、伯父さんに噛み付いちゃったみたい。……まあ、状況は一目瞭然よね」

 『涼子ちゃん、ごめんね、ごめんね』と泣きながら何度も何度も謝り続けていた伯母の顔が目に浮かんだ。

「なんで、伯母さんが謝るんだろう、不思議で仕方なかった。私が、伯母さん一家の運命を狂わせちゃったって、言うのに。だから、余計に哀しかった。そして、腹がたったわ。……自分自身に」

 涼子は、漸く辿り着いた、という意味を込めて、ふぅっ! と大きな吐息を零した。

「結局、伯父さんと伯母さんは離婚して、お姉ちゃんも私を恨んじゃって。……ああ、勿論後で伯母さんとお姉ちゃんとは仲直りしたわよ。だってさ……。そうでないと伯母さん、可哀相だもの。だって、離婚した後、伯母さん一人で働いて、私が中学卒業して就職した後、お姉ちゃんを大学にまでやったんだから」

 これがオチだ。

 これでも大抵救いがないと言うのに、何だろう、この遣り切れなさは。

 まるで、もっと惨い、残酷な、救いの欠片すらない『if』があるようではないか。


 ゆっくりと、掠れる声で、しかし途切れる事無く話し切った涼子が、再び微笑んだのを見て、アイリーンは思った。

 さっきまでは、憎くて憎くて仕方のなかった目の前の美人の浮かべている柔らかな、儚いくらいに透明な笑顔は、いったいどこからくるのか、そればかり気になって仕方なかった。

 アイリーンはその儚さに、こんなにも儚いというのに大きな温かい優しさを感じさせる、泣き笑いの涼子の凄絶と呼べるほどの美しさに、息を飲む。

 果たして自分は。

 本当にこの美しい人を、憎んでいたのだろうか? 

 もしも自分の汚い企みが功を奏していたとしたら。

 自分は、この先、笑って生きていく事が出来たのだろうか? 

 結果、マヤの愛を取り戻せていたとしても。

「だから、ね? 」

 涼子は洟を啜り上げながら、言った。

 薔薇の香りが微かに鼻腔を擽った。

「貴女が、その胸に抱えている心の空白って話、よく判るわ。……同情、なのかな? 自分ではそんなつもりないんだけれど、貴女に同情しないで、って言われたら返す言葉がないかも知れないわね? ……だけど私、思うの」

 何故この人は、私を責めないのだろう? 

 だけど、勝手な話だけれど。

 この美しい女性から責められたら、私。

 きっと、生きていけないわ。

「自分の与り知らぬところで自分を利用しよう、そんな事を考える人は確かにいるし、私もそんな事してる時だって、正直、あるわ。誰だって、知らず知らず、もしくは知っていて、抗ったって抗いきれずに、誰かの掌の上で踊らされている事って、あるのよ。世界中の人々が友情と愛情って関係だけで動いているんじゃないし、哀しいけれど敵対関係だって利害関係だってあるわ。大人になれば、そんな関係が圧倒的に増えていく。それは、嫌な言葉だけれど、やっぱり仕方ない事、なんだと、そう思うの」

 涼子は言葉通り哀しげに暫く顔を伏せていたが、やがて、アイリーンに向き直ると、ゆっくりと眼を弓のように細めて微笑んだ。

 いったいこの女性は、何種類の魅惑的な笑顔を持っているのだろう? 

「だけど、世界中で、少なくともたった一人だけは。……なんの代償もなしに、自分をみつめ、慈しんで、笑って見守ってくれる人がいるんだって、そう思う。そして自分だって、そんな瞳で守りたい、ずっと見続けていたい、そう思いたくなるひとが、きっといるんだって、そう思う」

 ああ。そうだった。

 私にも、いる。

 思わず頷いたアイリーンに、涼子はよかった、とでも言いたげな、柔らかな吐息を零した。

「ミス・アイリーン? ……貴女にとってのそのひとは、マヤ殿下、なんじゃないのかしら? 」

 アイリーンは、ポロポロ涙をこぼして、涼子の胸に飛び込んだ。

 先に言われてしまっては、もう泣くしかないじゃないか。

 涼子の手が、背中を優しく叩く。髪を優しく撫ぜ梳いていく。

 そう言えば母は、ずっと遠い昔、夜中、悪夢を見て泣き喚く私を、こうして抱っこしてくれたっけ。

 なんで忘れていたのかしら? 

「マヤ殿下はね、貴女がさっき言ったように、王国の次期国王という決められた立場に生れ落ちたことに、遣り切れない感情を抱えていらっしゃるみたいね? 」

 涼子の甘いアルトが、まるで子守唄のように心地良く耳朶を擽る。

「でもあの娘は……、マヤ殿下は、自分が辛くて哀しい分だけ、他人に優しくなれる子よ? それが、貴女がマヤ殿下を慕っている理由だし、マヤ殿下が貴女を慕っている理由でもある。それは貴女が一番良く知っているのではなくって? 」

 涙で眼が霞む、洟で息が詰まる、涼子への想いで胸が詰まる。

 言葉が上手く紡げない。

 何度か喘いで、漸く唇から出た言葉は「ごめんなさい! 」、それだけ。

 子供みたいな謝罪の言葉に、思わず自分の舌を噛み切ってしまいそうになる。

 けれど、一言空気を振るわせたら、何となく身体中の力が抜けたみたいになって、胸に湧き上がる想いがポロ、ポロと続いて転がり出てきた。

「私、マヤに選んで欲しかったの。それだけなの。ただ、マヤと並んで歩いて行きたかった。歩いて行く道を、マヤと二人で、決めたかったの。それだけなの。……だけど私、マヤが涼子様に盗られちゃったって、思って、もう焦っちゃって頭に血が上っちゃって、何とかしてマヤを取り返さないと、って、それで……、それで、涼子様に、こんな酷い仕打ちを」

 あはは、と鈴が転がるような笑い声が優しくアイリーンの火照った身体を心地良く包む。

「無駄な心配、させちゃったわね? ごめんなさいね? 」

 涼子の言葉に違和感を感じる。

 無駄な心配とは、どう言う意味なのだろうか? 

 ひょっとして、涼子自身は何の感情も持ってはおらず、マヤの片想い、だとか?

 答えは、アイリーンの予想よりも遥かに衝撃的だった。

「私、1週間後には地球からいなくなっちゃうのに。クリスマスの夜は、たぶん冥王星よ? 戦局の急変で、艦隊編成が変わっちゃって、最前線に戻ることになったの」

 言われてアイリーンは、漸く気付く。

 マヤは大切だ、それは今も変わらない、けれど。

 この温かい、大きくて優しい、美しい女性もまた。

 自分にとって、大切な女性になっていたのだと。

「涼子様! ごめんなさい! 私を……、許して! 」

 いつだって、自分は大切な事に気付くのが遅いのだ。

 泣きじゃくるアイリーンの背を、髪を、涼子は黙って撫ぜ梳いてくれていた。

 まるで、それが人生ってものよ、とでも言いたげに。


 マグカップを両手で包むようにして口に運んでいるアイリーンを見て、涼子はそろそろか、と思った。

 漸く泣き止んだアイリーンをベッドに座らせ、コーヒーを淹れてやって30分。

 瞳は充血しているけれど、理知的な煌きが戻ってきているように思えた。

 涼子は、隣に座るアイリーンに、何でもない風を装って話しかけた。

「ねえ、ミス・アイリーン? 」

 マグカップを唇から離し、ゆっくりと涼子を振り返る。

 大丈夫だろう。

「これから貴女は、どうしたい? ……貴女の雇った男達はNYPDに連行されて、今頃は事情聴取されていると思う。いや、病院で治療中かも。だけど、貴女の身元を彼等は知らなくても、貴女と言うクライアントの存在は警察にも知られている、もしくは遅かれ早かれ知られる、そう思った方がいいと思うんだけれど」

 アイリーンの表情に、動揺は見られなかった。

 ゆっくり瞼を閉じ、暫く唇を噛んで黙って顔を伏せていたが、やがてゆっくりと顔を上げ、瞼を開いた。

 その瞳は澄んでいた。

 この姿こそが『本来の彼女』なのだろう。

「涼子様。私……、自首します」

 声は微かに掠れていたけれど、口調には力強さがあった。

 彼女は彼女なりに、自分を断罪したのだ、と涼子は思い、ゆっくり頷き返した。

「……涼子様に与えた傷、それで償えるなんて思ってないけれど。……とにかく、法の裁きを受けます」

 やっぱり、私の今夜の行動は、間違ってはいなかったのだ、と涼子は嬉しく思う。

 正解ではないかもしれない、けれど、けっして間違いでもなかったのだ。

 こんな悪夢の、何も生み出さず傷だけが広がって行く負のスパイラルは、もうごめんだ。

「オーケー。偉いわ、いいね、ミス・アイリーン」

 そして、実は自分こそが一番、今日の事件をなかった事にしたがっているのだ。

 弱い私は、もう、こんな哀しく苦しい、切ない心の疼きに、耐えられそうにはない。

「さっき貴女に話した、私の昔の出来事、ね? 私、今日まですっと、心の底に沈めてきたの。沈めて、そして、沈めたことすら忘れてきたの。こんな時、頭が悪いのって、便利よね? 」

 これから話がどう進むのか、予想がつかないのだろう、眼をパチクリさせているアイリーンは放置して話を進める。

「それに、私、弱虫の泣き虫だからね? こんな辛い出来事は、忘れないとやっていけないもの。……だけど、それが今夜の事件で、思い出しちゃった」

 アイリーンが、身体を縮めて顔を伏せたのに、いささか慌てる。

「ああ、違うの、ごめん、ごめんね? 別に貴女を責めてる訳じゃなくって、ね? ……こう言いたい訳よ」

 涼子はアイリーンの肩をそっと抱いた。

「だから、昔の辛い記憶を、もう一度忘れたい。忘れる為には、今夜の事件も一緒に心の底に沈めたいの。……だから、今夜の事件に関係のある、貴女も、マヤ殿下も、あれこれ一切合財、綺麗さっぱり忘れちゃおって」

 驚いたように涼子をみつめるアイリーンに、涼子は微笑んだ。

「だから、今夜の事件は……。ううん、事件なんてなかったの」

「だ、だけど私っ! 」

 アイリーンの肩に乗せた手に、少しだけ力を込める。

「貴女の口から、自首するって言葉を聞きたかったの。それだけで、もう、充分だわ」

 アイリーンの瞳から、再び涙が零れ始めた。

「もう、泣かないの。ほんと貴女、私に負けないくらいに泣き虫ね」

 そして、肩から手を離し、アイリーンの頬に流れる涙を拭ってやりながら、言った。

「何にも心配いらないわ。今夜の事件は、UNDASNでは反動勢力による武官公邸襲撃テロ事件として処理する。だからUNDASN基本駐留条約に則って、NYPDが連行した犯人3人の引渡しを要求する。だから米国法、ニューヨーク州法上では不起訴、犯罪の事実はなくなる。そしてUNDASN側でも同様にテロ事件ではなかったとして不起訴。その代わり、おイタが過ぎた彼等には反省してもらう為に、懲罰大隊に入って貰い、地球防衛に貢献してもらう。それで、終わり」

 懲罰大隊と涼子が呼ぶのは、正式には統幕政務局直轄部隊として登録されている『0099師団』のことだ。

 4桁の師団番号の前二桁、編成国・地域コード欄が『00』、つまりあり得ないコードで示されたこの部隊には、ふたつの大隊しかない。

 ひとつは、対UNテロの標的となった関係者やその家族を、魔の手が届かない地球の外でほとぼりが冷めるまで保護する為に、便宜上部隊扱いされた『A大隊』。

 そして『B大隊』。

 UNDASNと雖も、大層な理念や理想、綺麗事を並べ立てたところで所詮は軍隊だ。非合法非公開の作戦行動は勿論、スポンサーである国連加盟各国や調達先企業、一般市民達に隠しておきたい内部犯罪や権力闘争のドロドロなんて腐るほど、ある。

 それらを隠蔽するための移動先が、0099師団B大隊。

 この部隊に送り込まれて、危険な前線へ送られ、”戦死”した連中も多いだろう。

 だが、涼子は抹殺までは考えていなかった。

 地獄の1丁目と世間で呼ばれる、レンジャー訓練課程か何かへ入隊させて、系外の辺境惑星の前線で3年も戦えば、いっぱしの悪党でも、除隊後はたいてい改心していた。

 ……もっとも、それこそ『生き延びれば』の話であるが。

「……い、いいんでしょうか、涼子様。私、本当にそれで? 」

「いいのよ? ……て言うよりも、貴女がこのニューヨークに残ってくれないと、誰がマヤ殿下を守るの? 」

 アイリーンの顔に、驚きの表情が浮かんだ。

「貴女は、今夜の事件で、そりゃやり方に問題はあったかも知れないけれど、ちゃんと気付いたでしょう? 」

 涼子はマヤをゆっくりと抱き寄せた。

「さっきも言ったように、私はもうすぐ地球からいなくなる。当分地球へは戻れないし、ヘタすると一生帰ってこられないかも知れないわ。何せ、戦争だもん、ね? 」

 涼子の背中に回ったアイリーンの手に、ぎゅっと力が加わった。

「だから、貴女が、マヤ殿下を守ってあげなさい。マヤの心の空白を埋めてあげて。そしてマヤに心の空白を埋めてもらいなさい」

「やあっ……! 出来ないよぉ……」

 くぐもった声が胸に響いた。

「大丈夫。出来るわよ、貴女なら。マヤ殿下と初めて出会った時のことを思い出して、ね? 」


 アイリーンに予備の第一種軍装の上着と帽子を被せて見張り番の警官の目を誤魔化して部屋から連れ出し、2号車で彼女の自宅へ送り届けると、もう0300マルサンマルマル時をとっくに回っていた。

 眠くて帰路が不安な涼子だったが、アイリーンの屋敷を見た途端、簡単に眠気が吹き飛んだ。

 全米マスコミ界のドンと呼ばれるツイストマン邸は、クィーンズ区のジャクソンハイツに広大な土地と豪壮な屋敷を構えていた。

 小さな森のような邸内は静かで、立地的にはジョン・F・ケネディ空港の近くのはずだが、24時間開港している筈の喧騒は届かない。

 門の前までで良い、とアイリーンに言われて、涼子はレクサスを停車し、降り立って思わず声を上げた。

「ふぇえぇ……」

 こりゃ確かにアイリーンもお姫様だわ、本物のお姫様のご学友に選ばれただけのことはあると納得してしまった。

 どうも、お姫様に奇妙な縁があるな、と苦笑が浮かぶ。

「涼子様、どうしても最前線にいっちゃうんですか? 」

 アイリーンは、一旦門内に入りかけたが、くるっと振り向くと、涼子の下へ駆け戻ってきた。

「そりゃそうよ、お仕事だもの。……でも、どうして? 」

 思わず首を傾げて、アイリーンの顔を覗き込んでしまう。

 月明りの下、はっきりとは判らなかったが、頬が赤く染まっているように思えた。

「ああ、言い忘れたけれど、私が転属になるって件、マヤ殿下には黙っててくれないかな? 」

 そして、ぺろっと舌を出して、小声で付け加えた。

「私、自分が泣き虫だからよく判るんだけど……。マヤ殿下に泣かれたら、困っちゃう。一緒になって、わんわん泣いちゃうかも」

 あはは、と笑って、そしてアイリーンが笑っていないことに気付いた。

 そういえば彼女はまだ、涼子の質問に答えていない。

「だけど、ほんとにどうして? 私がいない方が、貴女とマヤには都合いいでしょ? 」

 アイリーンは、首をブンブン左右に振って、叫んだ。

「だって……。だって私! ……涼子様のこと、好きになっちゃったんですもの! 」

 涼子は、微かに眩暈を覚えて、ふらっとよろめいた後、ようやく言った。

「貴女、ねぇ。今度はマヤに、私を襲わせたい訳? 」


 2日後、漸く警察の許可も下り、クリーニングも終了したアパートに戻ると、留守番電話に切なそうな吐息と共に切れた無言のメッセージが3件、入っていた。マヤだな、と思った。

 3日後、マヤから事務所に電話があったが、涼子は居留守を使った。

 4日後、マヤから事務所にクリスマスの招待状が届いたが、涼子は開封せずに、処分の書類トレイに投げ込んだ。

 5日後の深夜、やっと引継ぎを終えてアパートに戻ると、マヤのメッセージカードが郵便受けに入っていた。家まできたらしい。

 涼子はだまってメッセージカードをポケットに入れ、部屋にはいった。

 留守電にはマヤからのメッセージが15件も入っていた。それを再生し、涼子は胸に刺さるような痛みを覚えながらも、これも仕方がないと、自分に言い聞かせた。

 マヤの為でもあり、そして何より、これから先、自分が生きていく為に必要なことだから。

 その15分後、UNDASN統幕輸送本部の業務隊1個分隊12名がトラックで乗り付け、涼子の部屋の荷物をさっさと片付け、トラックに積み込み走り去った。

 更に10分後、チェリビダッケ次席駐在武官やグレイマー・イム総務班長他、主立つ駐在武官事務所職員15名がアパート前に整列、敬礼に見送られて、石動涼子前国連本部駐在武官事務所首席駐在武官は、系外幕僚部艦隊総群第4艦隊第2戦隊2番艦戦艦B0777土佐艦長に上番するため、ニューヨークを、アメリカを、地球を去り、艦隊集結中の冥王星第2軍港『リトル・ロサンゼルス』へと旅立った。

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