第35話 6-14.
「ふぅっ! 」
涼子は思わず吐息を零した。
ドアの吹き飛んだ玄関でFBIの捜査官を見送ったグレイマーが、振り返り大きな体をコンパクトに縮めた。
NYPDの刑事は、UNDASN案件と言うことで最初から腰が引けていたが、テロ事件との第一報によりおっとり刀で駆けつけたFBIは、なかなかの粘り腰で、引き上げさせるのにグレイマーは大汗をかいていた。
「申し訳ありませんでした、首席駐在武官。……今夜はホテルかどこかにでもお泊りになりますか? 」
「ああ、レマ君、貴方が謝ることじゃないわよ。それどころか私は助けてもらったんだから」
涼子は恐縮しているグレイマーを安心させようと、笑顔を浮かべた。
「ほんと、ありがとうね。今こうして笑っていられるのも、君のお陰よ」
そして部屋を見渡しながら、言った。
「今夜はそうね、シェラトンにキープしているゲストルームなら空いてるわよね? そこに泊まるわ。ああ、それと、明日でいいからこの部屋のクリーニング、手配してくれる? 」
床に敷かれたカーペットは、血塗れだ。
自分は後1週間でここを出て行く予定だったから別に構わないけれど、後任の首席駐在武官の為にはそうもいかないだろう。
「イエス、マム。ああ、今夜はNYPDが終夜見張ってくれる段取りです。明日は102師団から警衛を立たせるように手配していますので、ドアが修理できるまでの心配はご無用です」
「ありがとう」
思えば、最前線でそれこそ『キッタハッタ』の命の遣り取りをしていた戦闘マシーンみたいな彼が、ここまで痒いところに手が届く、どころか痒くなる前に掻いてくれるほどの有能なバック・オフィサーにまで洗練されるとは、正直、思っていなかった。
まあ、それもこれも彼が元来生真面目で前向き、一所懸命な性質だったからだろうが。
「うふっ」
思わず武官事務所に来た当座の彼を思い出して笑ってしまった。
「なんです? 」
制帽を被りながら振り向いた彼に、涼子は右手を差し出した。
「立派な外交幕僚になったわね。しかも周囲の仲間を守れる実力もあって。私は何もしてあげられなかったけれど、嬉しいわ。これで思い残すことなく」
しかし涼子は、言いたかった言葉を全て言い終わる前に、口を塞がれた。グレイマーの人差し指が~涼子の指2本分はありそうだった~唇の前に立てられたから。
「光栄であります、首席駐在武官。最高の褒め言葉です、前半だけは」
涼子がグレイマーを見上げると、彼は、淋しそうに微笑んだ。
「後半は失礼ながら外れですよ。自分は、貴方がいてくれたから、今日まで何とか頑張って来る事が出来たんです。そして、明日からも貴方を目指して頑張ることが出来る」
そして、グレイマーは漸く涼子の求めに応じて、遠慮がちに右手を握った。
「では、おやすみなさい。首席駐在武官」
「おやすみなさい、総務班長。……私だって、貴方の言葉と行動のお陰でまた、明日から頑張ることが出来るのよ」
グレイマーは無言で嬉しそうに頷いて、徐に敬礼した。
それは見事な、陸式の綺麗な敬礼だった。
涼子は既に部屋着のセーター、ジーパン姿だったけれど、艦隊式の敬礼でそれに答えた。
ああ、ここにも。
艦長?
貴方が教えてくれた、守りたい、そして守ってくれる仲間がいます。
「さて、と」
温かな気持ちも、寝室の前まで来てス、と冷えていくのがありありと判った。
けれど、放って置く訳にはいかない。
その為に、普段は出来るだけ行使しないようにしている国際公務員免責特権や、懲罰大隊メソッドまで使って、今夜の不愉快な事件の真相を歪めたのだから。
それだけに、余計に腹立ちは収まらない。
理不尽で、しかも抗いようのない凶暴な力の行使、ましてやそれは言い掛かり、嫉妬の果てという、下らなさ。
甘えるな、と怒鳴りつけてやりたかった。
男達だって、元々は街のチンピラだったのだろう。放っておけば一般市民を傷つけるような犯罪に、遅かれ早かれ手を出していたかもしれない、いや、もう色々と手を汚していただろう。
けれど、そんな連中の横面を札束で張り飛ばすようにして、憎い相手を傷つけさせようとする、そして挙句の果てに自業自得とはいえ男達の人生を狂わせ、両親の顔に泥を塗り。
そんな心根が、どうしようもなく淋しく、そして哀しく、腹立たしかった。
だから涼子はノックもせずに、寝室のドアを乱暴に開け放った。
彼女、アイリーン・ツイストマンは、灯りも点けずに暗闇の中、涼子のベッドの下、カーペットに膝を立てて座り込み、顔を膝に埋めていた。
薄い肩にかかったふわふわのブロンドが、廊下から射し込んだ弱々しい照明を反射して、ふるふる震えているのがよく判った。
さっきまでの怒りが、スッと、嘘みたいに虚空へ消えていくのがよく判った。
辛いのだ、彼女は。
下らない嫉妬、しかも勘違いに違いない空想への妬み、そんなもの、と言い切るのは他人には簡単なことだけれど。
本人にとっては、まさに生きているのが苦しくなるほどの、どうしていいか判らなくなるほどの、哀しみに他ならない。
よく、判る。
涼子にだって、それはよく判る。
大好きな、好きで好きでたまらない彼の傍に寄り添う美しい女性、何もかもその腕に、胸に抱く事の出来る人間だけが浮かべることを許された幸せそうな彼女の笑顔に、何度、憎しみの視線を送ったことか、何度呪詛の言葉を密かに吐きかけたことか、何度狂ってしまいたいと血が出るほどに唇を噛み締めたことか。
涼子は、そっとドアを閉め、手探りで寝室の照明を点けた。
それでもアイリーンは、まるで塑像のように動かない。
涼子はゆっくりと彼女の傍に歩み寄り、ぺたんと正面に腰を下ろした。
微かに嗚咽が漏れ聞こえてくる。
取り返しのつかない事をしてしまったという後悔か、失敗してしまった悔しさ故か、将来どうなるのかという不安なのか、両親への謝罪か。
それとも、愛する人への、何をしようと振り切ることの出来ない、未練なのか。
「ねえ、アイリーン? 」
たぶん、それら全てが彼女の身体中で激しく渦巻いているのだろう。
涼子は、呼び掛けてもやはりピクリとも動かないアイリーンに、動かざるを得ない言葉を投げ掛けた。
「貴女、マヤ殿下のこと、好きなんでしょ? 」
図星を突かれて、アイリーンは傍目から見て可哀想なくらいの狼狽を見せた。
首の座っていない赤ん坊のようにガクガク揺れるアイリーンの、二の腕をそっと掴んで涼子は自分の方を見させる。
アイリーンの瞳は恐怖の為か、瞳孔が開きかけていて、身体も小刻みに震えていた。
普段は、おとなしい『いい子』なんだろうな。
そうだろう。
小なりとは言えども一国の王家の姫君、そのご学友に選ばれたのだから。
涙が一杯に溜まった蒼い瞳を見ているうちに、涼子は、まるで自分が苛めて泣かせたような申し訳ない気持ちになってしまい、思わずその柔らかな金髪を撫で梳いてやっていた。
そんな涼子の行動は、アイリーンの理解を超えていたのだろう。
限界一杯に見開いた瞳が悔しげに細められ、キッと鋭い視線で涼子を睨み付けると、アイリーンは自分の髪を触る涼子の手を右手で弾き飛ばした。
けれど、その痛みすら感じないほどの彼女の拒絶が、涼子には哀しく思えてならない。
「ねえ、アイリーン? ……貴女の気持ちは、私、理解できる、ような気がするの」
アイリーンの睨み付けてくる瞳が、一瞬、揺れる。
「貴女、私とマヤ殿下の仲を、嫉妬したんでしょう? 」
アイリーンの瞳が、一層鋭く、そして悔しさの涙を湛えた。
きっと涼子の前では涙など見せたくはなかっただろう、けれど。
堰き止めようとして堪え切れず、涙は堰を切って頬に溢れ始めた。
「あんた……、あんたが、マヤの前に現れてからっ……! あの
アイリーンはグズッと洟を啜り上げ、それでも涼子から視線を逸らさずに言葉を継いだ。
「あの朝……、あんたがマヤを大学まで
堪え切れずアイリーンは、両手で顔を覆った。
「あの娘、この街に来てから、ずっと……、ずっと、私と一緒だったのに。あんたに向けるその瞳は、笑顔は、私の……、私だけのものだったのにぃ……」
ひょっとしたら、と涼子は思う。
この娘は、私よりも、もっと、もっと辛かったのかも知れない、と。
私の場合は、最初から手が、言葉が、想いが届かないままだったけれど。
この娘は、一度はその手に、その胸に、マヤを抱き締めたのだから。
その温もりを、想いを、言葉を、その瞳に映る自分の幸せそうな笑顔を、自分のものだ、そう叫びだしたくなるような想いを胸に抱いていたのだから。
「涼子様、涼子様って……。私、マヤを誘ったの、クリスマスパーティ、二人っきりでしましょって……。そしたら、あの子……」
一度手にした温もりが、するりと、まるで掌から、指の間から零れる水のように擦り抜けてしまった時の、喪失感、温度が失われた冷たさは、いかばかりだったか。
届かなかったのではない。
選ばれなかったのだ。
一度は選ばれながら、知らぬうちに捨てられていたのだ。
少なくとも彼女は、そう思い込んだ。
事実かどうかなんて、マヤならぬ自分には判らない。
けれど彼女には、愛するひとが急に離れていってしまったように、思えた。
そんな、微かな気配だけで、彼女には充分だったのだ。
この、目の前で肩を震わせて泣きじゃくる、美しい娘には。
「クリスマスは、涼子様をお誘いするの、って、マヤは、幸せそうなキラキラ輝くような笑顔で、あの娘は」
煌くような笑顔で切り捨てられたのだ、この美しい娘は。
ああ、いやだ。
涼子は思わず首を激しく左右に振る。
辛い、哀しい、切ない想いを胸に抱いて歩くのは、自分であれ、他人であれ、もうご免だ、と心底思った。
挙句彼女が、一度失くした温かな美しい想いをその手に取り戻す為にした事は。
けっして許されることではなく、恥ずべき行為だと判っていたのだろうけれど。
「ミス・アイリーンにとって、私は恋敵って事か」
涼子は、そう言いながら、顔を覆う彼女の両手を取り、そっと自分の胸に引き寄せた。
白い頬が真っ赤に染まり、涙でぐしょぐしょになった顔が涼子を向いた。
その瞳は、もう先程までの怒りや妬み恨みの炎は消え去って、ただ、永遠に失われようとしている愛する人への惜別と悔恨の涙で揺れていた。
「私、マヤが留学してきた時、に、……思ったの。『この娘を守ってあげられるのは私しかいない』って」
アイリーンは、自分の手に重ねられた涼子の指をみつめながら、意外としっかりとした口調で言った。
「そして、マヤを守ってあげられるような、マヤに相応しい自分になりたいって、心の底から思ったわ」
ああ、やっぱり。
この娘は、自分だ。
いや、自分よりももっと、欲しいものを欲しいと言える、強さがある筈の娘なんだ。
涼子は無言で頷いて、先を促した。
「あの娘は本物のお姫様で、大勢の御付きの人々やボディガードに囲まれて、だけど、いつも淋しそうだった。上品な笑みを浮かべながら、だけど瞳はいつも泣いていた。……私には、そう見えたの」
淡々としたアイリーンの口調が、余計に涼子の胸に突き刺さる、アイリーンの、マヤを想う真っ直ぐさが、余計に胸に沁みる。
「そんなの、すぐに判った。だって、あの娘は……、マヤは」
アイリーンはそこで口を噤み、そして、まるで当時を目の前に思い浮かべているような表情を浮かべた。
瞳が、慈愛に満ちていた。
この街へきたばかりのマヤを、マヤだけを見ているのだろう。
「マヤは、私によく似ている、そう思ったから」
アイリーンは、フ、と息を零すと、涼子を見て自嘲の笑みを浮かべた。
「もう、あんたは私のパパの正体、知ってるでしょう? 」
ああ、そうか、と涼子は無言で頷き返す。
「そりゃあ、マヤ程じゃないにしろ、私だって何不自由ない生活を今日まで送ってくる事ができた。それは両親にちゃんと感謝してるわ、だけどパパは……。ううん、ママだってそうだった。毎日毎日、パーティや慈善活動、名家や政治家との社交に明け暮れて、私はいつも、ばあやと2人だけだった……。傍にいて欲しい時に、パパもママも、いつだって家にはいなかった……」
そんなところまで、私と同じなのか、と涼子は苦笑を禁じえない。
まあ、経済力は雲泥の差、なんだろうけれど。アメリカのセレブは、ハンパない。
「だけど、自分達の都合で私を独り放り出してきたパパとママは、私がハイスクールに通い出したらすぐに、社交界へデビューさせたの。私は私なりに、なんとかそんな両親との関係に折り合いをつけて、周囲の友達との交際や趣味の活動をみつけて、漸く寂しさを紛らわせる術を覚え始めたばかりだっていうのに。パパとママは、今度はそんな全てを無理矢理私から取り上げて、社交界を引っ張り回し始めたの。すぐに判ったわ。それはもう、完全にパパとママの政略だって」
再びアイリーンの目から涙が溢れた。
「私、気付いたの。気付いちゃったの。子供の頃から、何不事由なく育ててくれたのだって、この日の為なんだって……」
涼子も、涙を流していた。
止めようとしても、止まらなかった。
「マヤもそうだって、すぐに判ったわ。あの娘も、王室に生まれて、大事に大事に育てられて、けれどそれは王国を、王室を守り未来へ繋げていく為の、生殖能力だけを期待されているんだって、そんなの、すぐに判っちゃった」
ハンカチが見当たらず、已む無く涼子は掌で涙を拭う。
「だから、二人すぐに惹かれ合った。互いに身を寄せ合って、お互いの胸に開いた空白を埋め合うようになったの。……もちろん全てを埋めることは、穴を完全に塞ぐことは出来なかったけれど、だけど、少なくとももう、それまでみたいな寒さは感じずに済むようになったわ……。だけど、あの娘……、マヤったら……」
アイリーンのブルーアイから止め処なく零れる涙はもう、滝のようで。
息が出来ないのか、アイリーンはそのまま絶句してしまう。
涼子は自分のセーターの袖を伸ばして、アイリーンの頬を拭ってやった。
暫くは黙ってされるがままになっていたアイリーンだったが、突然、涼子の手を払い除け、涙に濡れる瞳で睨み付けて、叫んだ。
「なんでっ! なんでっ! ……なんでアンタ、私にそんな事できるのっ? 私はっ! 私は、アンタを無茶苦茶にしようとしたのよっ! 判ってんのアンタ馬鹿じゃないのっ? 」
血を吐くような声で叫び、涙を、洟を涎を、まるで毒を吐くように撒き散らしながら。
アイリーンは、自分の膝を力任せに、バシバシと何度も、何度も叩いた。
涼子は慌ててアイリーンの腕を取り、自分の胸に再び引き寄せる。
「うああぁ……」
実も世もない、子供のような嗚咽がとうとうアイリーンの口から漏れた。
「私……、私、どうすればいいのよお……」
涼子は腕に力を込めた。
「ミス・アイリーン。ほら、こっち向きなさい! 」
アイリーンは洟を啜り上げながらも、素直に涙に濡れた顔を涼子に向ける。
「あのね? ……私は貴女にとっては恋敵な訳で、貴女はそんな私から、同情なんてされたくない、そんなの余計に惨めになっちゃう、って思ってるだろうけど……」
アイリーンは、こくんと頷く。
「素直でいい子ね」
涼子は、思わず微笑んでしまう。
今日、私が取った行動は、少なくとも間違いじゃなかった、ベストではなくともベターだったんだ、と思った。
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