第34話 6-13.


「えぇ。あのチャーミングな大佐なら30分ほど前にお戻りですよ」

 数回言葉を交わした事のあるドアマンが眠そうな顔でそう言った。

 グレイマーは最上階を見上げた。涼子の部屋には確かに灯りが点っている。

「車、回しておきましょうか? 」

「いや、結構ですよ。すぐ済みますので」

 言いながら玄関に向かおうとした、刹那。

 バンッ、と小さいけれど鋭い音がした。

 頭上からだ。

 少し戻って玄関から車道まで張られたテントの下から見上げると、10階の角部屋、涼子の部屋の窓が道路に向かって開いていた。

 凄い勢いで開いたのだろうか、ガラスが反射する室内の灯りがゆらゆら、窓枠の揺れに合わせて動いている。

「まさか……? 」

 隣で、やっぱり眠たそうな顔で最上階を見上げていたドアマンに、グレイマーは噛み付くように訊ねた。

「怪しい人物は見なかったか? 」

「いや、見た覚えはないな」

 ドアマンは猪首を器用に捻りながら答えた。

「こんな夜更けだし、ここから建物へ入っていったのは、大佐と、チェルシー夫妻と、ついさっきのミス・ダグラスと」

 彼はそこで口を噤み、言った。

「23時過ぎだったかな、ニューヨーク・ハロルドの取材許可証を持った4人組が入っていったが、そう言えば帰る姿を見ていないな」

 言葉の後半は背中で聞いていた。

 丁度1階ホールで止まっていたエレベーターに飛び乗る。中に乗っていた黒人の若い女性が「ヒッ! 」と喉を鳴らした。

「失礼、お嬢さん。UNDASNのものです」

 言いながらグレイマーは10階のボタンを押そうとして既に点灯しているのに気付き、伸ばした指をそのままクローズボタンに伸ばした。

「ミツビシ製か」

 日本製のエレベーターで助かった、欧米製は開延長ボタンしかついていない。

 そして背後の女性を振り向いた。

「失礼ですが、貴女も10階に? 」

 女性は不審げな表情を浮かべたまま、無言で頷いた。

「トラブルが発生しているかも知れません。自分が先に下りますから、貴女は安全が確認できるまでここで待機するように」

 言い捨てて、グレイマーはヒップアップ・ホルスターから銃を抜き出した。

 背後で女性が息を飲む気配を感じたけれど、もう構っている余裕はない。

 レンジャー試験に合格した記念に買ったハンドガン、SIG229のセイフティをオフにする。

 総務班長として武官の秘書業務と同時に警護任務も負わされている為、常にコンバット・ロードで持ち歩いているこの銃だったが、ニューヨークへ来てから1回も使用する機会がなかった。

 しかし、クリーニングは週に3回、定期的にやっている。

 大丈夫だろう。

 チン、と安物臭い音が鳴って扉が開いた。

 ドア脇に身を寄せ背中に女性を庇いながら、懐から出した手鏡で左右、そして上下を確認する。

「……大丈夫そう? 」

 初めて女性が声を掛けてきた。

「貴女、部屋は? 」

 マズルをケージの外へ突き出しながら訊ねる。

「1005号室」

 涼子の部屋は、この廊下の突き当たりの端の部屋、1010号室。

「自分の背中に隠れるようにして」

 グレイマーは静かに一歩踏み出した。

 ビルディング・サーチ、インドア・アタックの類は、あまり得意ではない。

 まあ、UNDASNの陸上マークの殆どが、野戦軍なのだから都市型テロリズム・カウンターのスキルはあまり積んでいないのだけれど。

 廊下を半ばまで進むと、背後で「え、やだ」と声が聞こえた。

 1005号室のドアが、半ば開いていた。

「ここが貴女の部屋? 」

「そう。……ちゃんと鍵閉めた筈なんだけど」

 ふむ。

「安全確認がしたい。入っても? 」

 不安げな瞳が数度グレイマーの顔と自室のドアを往復したが、やがて渋々といった感じで彼女は頷いた。

「間取は? 」

「入ってすぐリビング、右側がダイニングキッチン、反対側に寝室、その奥にトイレとバス、その隣がクローゼット」

「自分がOKクリアを出すまで廊下にいてください」

 銃を構えて入室、家主が教えてくれた順にサーチして無人を確認してリビングに戻ると、いつの間にか女性がリビングの隅に立っていた。

「……誰か、このソファに座ったみたい。このカバー、クリーニングから戻ってきたから今朝出勤前に架け替えたところなのに」

 気味悪そうな表情を浮かべる彼女の視線を追ってソファを見ると、確かにクリーニング戻りたてとは思えぬほど皺が寄っていた。

「ご協力、感謝します」

 再びドアを静かに開き、廊下の安全確認をした後で、グレイマーは彼女を呼んで、二人して廊下に出た。

「携帯電話、持ってます? 」

「ええ」

「このまま1階まで下りて、警察に電話して。1010号室のUNDASN幹部公邸でテロ発生」

 女が驚いた表情で振り向いた。

「1010号室、って……。涼子ちゃん? 」

 無言で首肯すると、女は決然とした表情で頷き、サッと踵を返した。

 顔見知りのようだった。

 しかも、彼女の瞳は不安と怒りで、揺れていた。

 どうやら涼子は、職場だけでなく、ご近所からも慕われているらしい。

「流石です、首席駐在武官」

 我が事のように嬉しく、そして誇らしかった。

 その誇らしく、そして愛らしい上官が、今、危機に陥っているかも知れない。

 グレイマーは素早く1010号室前に移動した。

 背後でチン、とエレベータの扉が開閉する音がした。これで一般人の巻き添えの可能性は低くなった訳だ。

 そっとノブに手を伸ばし、ゆっくり回しながら、押す。

 びくとも動かない。

 制帽を脱いでそっと床に置き、耳をドアに当てた。

 微かに女性の悲鳴が聞こえた。

 気がしただけだ。

 涼子の声かどうかも判らなかった。

 けれど頭に血が昇り、瞬間的に視界が赤く染まった。

 サッとドアから身を離し、マズルをドアに向けた。

 ドアノブではなく、蝶番だ。

 鍵が3つ取り付けられているのは何度も涼子を送迎しているので知っているが、その機構の位置が判らない今、蝶番を破壊して蹴破った方が早い。

 廊下側から見ても判った。

 蝶番は上下1つづつ。

「レディ……」

 小さく呟いた。

 どうか、射線上に首席駐在武官がいませんように。

「エントリ! 」

 蝶番ひとつに3発叩き込み、そのまま右足でドアを蹴ると、信じられないような軽さでドアは室内に吹き飛んだ。

「首席駐在武官! 」

 叫ぶが、返事はなく姿も見えない。

 覆面を被りジーパンに手を掛けた男と、カメラを構えた女がこちらを振り向いた。女の向こうに、やはり覆面を被った男が二人、倒れている。

「UNDASNだ! 動くなフリーズ! 」

 叫ぶと、男がポケットに手を差し込んだ。

 女はカメラを持ったまま両手を上げた。

 床に沈んだ二人はピクリとも動かなかった。

 当面の脅威は一人。

 グレイマーは男の腕、太腿にそれぞれ2発づつバレットを叩き込む。

 声も出さずに倒れた男の向こうに、涼子が見えた。

 蛍光灯に照らされた、床に横たわる涼子の無残な姿を見てグレイマーは息を飲む。

 襤褸雑巾みたいに裂かれたスカートから伸びる白く長く美しい脚はピクリとも動かない。

 上着とシャツを肌蹴られた、夢のように白い豊かな胸の双丘が、ゆっくりと上下しているのに気付いて、生きていると知れた。

 安堵の吐息と同時に、涙が零れそうになった。

「首席駐在武官! 」

 上着を脱ぎながら駆け寄る。両手を上げたままの女の頬を力加減も考えずに張り飛ばして部屋の隅に沈め、グレイマーは涼子に自分の上着を掛け、ゆっくりと抱き起こした。

 背中に回した手の感触で、手錠をされているのが判り、怒りが再燃した。

「首席駐在武官! グレイマーです、しっかり! 石動一佐! 」

 長い睫がふるふると揺れた。

 やがて瞼がゆっくりと開かれると、現れたのは普段の理知的に煌く大きな黒い瞳ではなく、まるでブラックホールのような恐怖さえ感じさせる黒い、暗い穴のような瞳。

 途端に涼子はグレイマーの腕の中で身を捩り始める。

「やだよ、涼子痛いのやぁっ! やめて、お願い助けて、堪忍してえっ! 」

「武官、首席駐在武官! しっかり! 気を確かに! 自分です。総務班長のイム一尉です! 」

「嫌あっ! もうヤダ痛いのやぁネトネトするのもやぁ熱いのも縛られるのもやぁっ! 」

 何をしたんだコイツラは。

 この、美しい、外見だけはなく心根まで天使みたいに優しいこの女性に。

「しっかり! 武官、もう大丈夫です、安心なさって下さい! 」

 ぽろぽろと涙を零しながら嫌だ助けてお願い許してと叫ぶ涼子の悲鳴の合間に異質な呻き声が微かに聞こえてきた。

 顔を上げると、窓際で倒れていた男が身を捩って起き上がろうとしていた。

 くそったれこの蛆虫野郎共め。

 グレイマーは右手に持ったままのSIGを男に向けて2発。腕と脚に当たって悶絶する男の向こう、未だ動かない男にも太腿に1発。

「……え? 」

 涼子の声が聞こえた。

 SIGの発砲音が偶然にも涼子の意識覚醒に作用したらしい。

「武官! 気が付きましたか? 自分です、イム一尉です。もう大丈夫、大丈夫ですっ! 」

 涼子の暗い洞みたいな瞳に、ゆっくりと煌きが戻って来た。

 忙しなく天井のあちこちを彷徨っていた瞳が、グレイマーをみつめる。

「レマ、く、ん……? 」

「そうです、首席駐在武官! 大丈夫ですか? 安心して下さい、侵入者エネミー片付けキルしました」

 ふぇ、と捥ぎ立ての果実みたいな唇がわなないた。

 眼から零れる涙が、雫ではなく、川の様に溢れ出し、そして。

「うわああっ! レマ君、レマ、くうんっ! こわ、怖かったよおっ! 」

 ヘッドパッドするみたいな勢いで、涼子はグレイマーの胸に顔を押し当てて、泣き喚いた。

「大丈夫、もう、大丈夫ですから」

 それ以外、言葉がみつからなかった。

 掛けてやった自分の上着が、涼子が泣きじゃくり啜り上げる度にずれて行き、豊かな美乳が零れそうになって慌てて眼を逸らす。

 逸らした視界に飛び込んできたのは、真っ白な、美しい曲線を描く、涼子の脚。スカートの裂け目から覗く両脚の付け根と白い下着が艶めかしすぎて~なんで服装令どおりにスパッツとソルジャーブラを付けてないんだ、バックオフィス勤務者は面倒がって着けないことは知っているが~、立て続けのブービー・トラップにグレイマーは為す術もなく、しかし眼を閉じれば犯人グループの動向も掴み難く、已む無く視線を虚空に彷徨わせた。

「怖かったよ、レマ君……。あうっ、えぐっ、うえっ……、う、う、うぅっ……。馬鹿ぁ、レマ君の馬鹿ちん! ほん、ほんっとに怖かったんだからっ! 」

 漸く意味の聞き取れる言葉が口から漏れ出したのを機に、グレイマーは涼子の上半身を起こし、そっと床に座らせてやった。

 パサ、と膝の上に落ちたグレイマーの上着に視線を落とし、涼子は自分の姿に気付いたらしい。

 殴られたらしい、赤く腫れた頬も、泣き腫らして真っ赤な目元や鼻も、全てを包み込むほどの茜色が、瞬間的に、爆発的に涼子の顔を、耳朶、胸までも染めた。

「み、見ないで! 」

 小さく叫んで腰を折り上半身だけうつ伏せた姿を見て、グレイマーはホッと安堵の溜息を吐き、同時に後ろ手の手錠の存在を思い出した。

「少し待ってください」

 グレイマーは床の上で上半身だけを起こし、呆然と涼子をみつめていた若い女に近寄った。

「おい、貴様! 手錠の鍵は何処だ? 」

 怯えたような表情で女は羽織っていたコートのポケットに手を突っ込もうとした。素早くその手を掴んで捻り上げ、グレイマー自身がポケットに手を突っ込んで鍵を手に取った。

 グレイマーは鍵と女を交互に見渡しながら、思う。

 若い女だ。

 大学生くらいか。

 しかもなかなかの美人だし~涼子を見た直後だと、他の女性をなかなか冷静に評価できないのが困ったものだと常日頃グレイマーは思っていたのだが~、身に纏う服装も全て、上品且つ高価に思えた。

 対して床に転がる男3人は皆、ストリート・ギャングにしか見えない。

 一体、どういう関係なんだ? 何が、彼女、彼等をこんな愚劣で卑怯な犯行に走らせたのか? 

「首席駐在武官、手錠外します、もう少しだけ、そのままで」

「あり、が……、と」

 掠れるような声だったが、先程よりも余程しっかりした声に聞こえた。

 安心しながら、グレイマーは手錠を開錠してやる。手首に残る赤い痕が痛々しかった。

 涼子はゆっくりと両手を動かして身体の下に潜り込ませると、やがてシャツや上着を掻き合わせて上半身を起こした。

 もう一度、自分の身体を確かめるように眺め渡してから、右手で両目を擦り~まるで迷子の子供のようだった~、それから、恥ずかしそうにグレイマーを見て、弱々しいけれど確かに微笑んでくれた。

 思わず笑顔を浮かべてしまう寸前で、グレイマーは大事な事を思い出して慌てて立ち上がる。

「首席駐在武官、賊は男3人、女1人? 」

「……そう。それ以外は見てないわ」

 ビルディングサーチをうっかり怠ってしまっていたのだ。

 勝手知ったる5LDKを順番に確認して回る。

 玄関を入ったすぐ、凶行現場であるリビング以外の部屋は全て、冷たい空気が澱んでいて、人の立ち入った形跡は確かになかった。

「こいつらだけのようですね」

 リビングに戻ると涼子はぺたんと床に座ったままグレイマーを見上げ、安心したように微かに笑った。

 思わずこちらの頬まで真っ赤になってしまいそうになり~いや、もう真っ赤だったに違いない~、グレイマーは慌てて言葉を継いだ。

「もう落ち着かれましたか? ……いや、それにしてもお見事でした、首席駐在武官。そっちのふたりは武官がしたんでしょう? ここまで腕が立つとは思いませんでしたよ」

 涼子ははにかむ様な笑顔を浮かべた。

「えへ。うふふ。レンジャー徽章と格闘徽章持ってるレマ君に誉められたら、嬉しいな」

 涼子は、よいしょと言いながら立ち上がり、ペコリと頭を下げた。

「ほんとに、ありがとう。助けてもらって……。私、何てお礼を言ったらいいのか……」

 グレイマーは慌てて顔の前で両手を振る。

「や、止めてください、当然の事をしたまでですから! 」

 そして、ついさっきまで、訊かずにおこうと思っていた疑問を、つい舌に上してしまった。

「だけど自分は、貴女を助けることが出来た……、ん、です、か? 」

 言葉の途中でしまったと臍を咬んだのだが、とうとう最後まで言い切ってしまった。

 涼子は質問の内容が判らなかったのか、最初は瞳をパチパチさせていたが、やがて、はっと口を開くと、俯いてしまい、それでもきちんと答えてくれた。

「えと、あの、う、うん! た、助かったわ、ちゃんと! ……な、なにもされてないもの」

「そ、そうですか」

「えと、オ……、オッパイと、パンツ、見られちゃったけど」

 そのまま二人とも、黙り込んでしまった。

 なんだこれどこの中学生だよ。

 自分で自分に突っ込みつつ、グレイマーは言葉を検索しまくり、漸く、もうひとつ疑問があったのを思い出した。

「それにしてもなんですかね、こいつら。計画的な匂いがするんですけど」

「計画、的? 」

 問い返す涼子にグレイマーは頷いて見せた。

「マスコミを名乗って館内に入ったようですね。それと、1005号室がピッキングされてました。たぶんそこに潜んで首席駐在武官のお帰りを待っていたんでしょう。ひょっとしたら2300時フタサンマルマル過ぎの名乗らない若い女性からの電話ってのも、ソイツが所在確認のために架けてきたのかも知れません」

 グレイマーは未だ床に座り込み、虚ろな表情をしている女を見下ろした。

「首席駐在武官は、ご存じない顔ですか? 」

 涼子はじっと女を見下ろした。

「見覚えはないけれど、心当りは、あるかも」

「え? 」

 意外な答えにグレイマーは驚いて顔を上げた。

 涼子はじっと女をみつめたまま、ポソリ、と意味不明な一言を呟いた。

「泥棒猫」

 刹那、ぴくりと女の身体が震えた。

 涼子を見上げた女の虚ろな表情が、みるみる怯えの色に染まってゆく。

 うん、と涼子は頷き、そしてグレイマーに視線を移した。

「総務班長。身体検査、ビデオカメラ回収」

「イエスマム」

 女の横に転がっていたカメラを拾い上げ、二の腕を掴んで少々乱暴に立ち上がらせる。

 女性の身体検査は初めてだったが、憎さと怒りが勝って男同様遠慮なしにやった。

 所持品は、そう多くはなかった。

「財布……、ひぃ、ふぅ、みぃ……、凄いな4,000ドルは入ってる。ああ、学生証ですね。……って、ハーバード大学ぅ? 」

 とんだエリートお嬢様だ。

「経済学部、アイリーン・ツイストマン、か」

 どこかで聞いた事のあるファミリー・ネームだった。

「あ! 」

 すぐに思い当たった。ついさっきドアマンから聞かされたばかりだ。

「ニューヨーク・ハロルド新聞の取材が、ってまさか? 」

 女が顔を伏せ、両手で覆った。

「レナード・J・ツイストマン、ニューヨーク・ハロルド紙の社主で、大統領経済諮問委員会CEAの副委員長ね」

 涼子の記憶する知識の膨大さはスーパー・コンピューターの巨大データベースに匹敵する事は、UNDASNの人間ならば誰でも知るところだ。ビンゴだろう。

「後は? 」

 涼子に言われてグレイマーは慌てて所持品のリストアップを続ける。

「ティッシュ、化粧品の入ったポーチ、かな? ……カード入れに、携帯電話」

「携帯電話、貸して」

 答えるより早く涼子はグレイマーの手から携帯を奪い取り、操作し始めた。

PWパスワードなし、生体認証セキュリティもOFFね、良かった。これか……。えと、これ押して……」

 指が止まった。目指す名前がアドレス帳に存在している。

 涼子は携帯のディスプレイからゆっくりと視線を女~アイリーンへ移した。

「やっぱり、そうだったのね? 」

「なにが、ですか? 」

 おずおず訊ねると、涼子は振り向いた。

「ええと、ね? 」

 何から話そうか、迷っている風だった。

「お知り合いで? 」

 切欠のつもりでそう問うと、涼子は首を横に振った。

「直接会うのは初めて。私のお友達のお友達」

 そして女を振り返る。

「よね? 」

 女のブルーアイから、ボロボロッ! と涙が零れた。

「つまり彼女は」

 涼子が吐息混じりに説明を再開しようとした刹那。

 パトカーや救急車のけたたましいサイレン音が聞こえてきた。

「警察、呼んだの? 」

 涼子が窓の外を振り向きながら早口で言った。

「はっ。この部屋へエントリする前に、1005号室の女性に警察を呼べと依頼しました」

 涼子は再びグレイマーに向き直った。

「レマ君、これは命令じゃないわ。お願いなの」

 命令されるより忠実に『お願い』を遂行してみせる、そんな決意が瞬間的に固まっていた。

「なんなりと、首席駐在武官! 」

 ありがとう、と涼子は呟いた。

 けれどその表情は哀しげに見えた。

「男3人は、ニューヨーク市警NYPDに引き渡して。……ってまあ、病院送りだろうけれど、構わないわ。で、次席武官……、ああ、駄目ね。ワシントンの駐米武官事務所に連絡して、即座にUNDASN駐留基本条約ベース・プロトコールのテロ防止条項に則り、ニューヨーク市当局に引き渡し要求、そのまま懲罰大隊送致手続き」

「い、いいんですか、それで? 」

 思わず訊ね返してしまった。

 涼子は複雑そうな表情を浮かべて頷いた。

「今夜のこの事件の真相は隠したいの。つまり、私が襲われたのは事実だけれど、それはテロだった、って事にしたいのよ」

 女性としてこのような性犯罪が、しばしば事件発生後、理不尽だが被害者に不利な事実として人生に、心に傷を残すという話はよく聞く、けれど。

 涼子の表情からは、そんな自分の人生や経歴に対する不安や心配は、これっぽっちも見つける事が出来なかった。

 じゃあ、何故? 

 その答えはすぐに涼子の口から聞くことが出来た。

「そして、彼女は」

 涼子はチラリ、とアイリーンを振り向いた。

 もう、パトカーのサイレンは止まっている。そろそろ警官が突入してくるだろう。

「私の寝室に匿って上げて。寝室は、中からラッチ錠で閉められるから。そして主犯らしき女は隙を見て逃亡した、と。寝室への警官立ち入りは軍機を盾に私が阻止するから」

 涼子の背後で、アイリーンが驚いた様な表情を浮かべていた。

「イエスマム、お任せを。寝室への警官の入室も、首席駐在武官への事情聴取要請も、国際公務員免責特権で拒否する、でよろしいですね? 」

 涼子が、まるで自分の犯罪を見逃してもらったような安堵の深い吐息を零して、涙を一滴、頬に零した。

 優しいひとだ、としみじみ思う。

 優しいどころか、底が見えないほどの懐の大きさ、心の深さがあるのだ、とグレイマーは思う。

 だから、信じていいのだ、信じるべきなのだ、とグレイマーは大きく頷いた。

「自分の目的は、もう果たしましたから」

 え? と口を開いて首を傾げる涼子に、グレイマーは人生初のウィンクを試みた。

「首席駐在武官のセミヌードを拝見することが出来ましたし、その上貴女が無事だったんですから。もうお腹一杯ですよ」

 しまった、これはもしや包括内規抵触セクハラか? と一瞬グレイマーは思ったが、おどけた口調が功を奏したようだった。

 涼子はまあ! と叫んで、まるで大輪の薔薇が開いたような、それはそれは見事な笑顔を浮かべてくれたから。

 真っ赤な薔薇は、少女のような声を上げた。

「やぁっ! レマ君、エッチ! 」

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