第32話 6-11.
首席武官はまだ仕事されるんだろうか、とグレイマーは左腕のG-SHOCKに目を落とした。
いや、仕事ではない事は判っている。
疲れて、眠り込んでしまわれたのだ。
けれど、あの安らかな寝顔は。
「まるで、天使の……、いや妖精か」
赴任してきて初めて出逢った時は、心臓が止まるかと思った。
神々しいくらいに、美しい女性だと思った。
次に、さすが国際三部の幕僚ともなれば、ビジュアルの美しさが重要な要素か、と納得しかけた。
そして、涼子のドレスブルー左胸、4段に届かんばかりの略綬を見て、歴戦の勇士なのだと気付いた。
後から、次席武官に彼女の艦隊時代の二つ名が『戦闘妖精』、『マルスの憑依したヴィーナス』だったと聞き、今度こそ深々と、何度も頷いてしまった。
暫くして、とある出来事から涼子の人柄を知り、一層敬愛の念を深めた。
両手の指では足りない程の最前線の惑星を野戦指揮官として渡り歩いて来た彼が、防大卒後初めての幕僚勤務に戸惑い、失敗を重ね、やがて僻みにも似た感情が胸に湧き、いじけ気味になっていたある日の事だった。
首席武官に指示されてUNDA事務局長との会談アポを入れる際、連絡ミスと勘違いを重ねて、結果的には涼子が一方的にキャンセルしたように見える、そんな拙い状況に陥れてしまった事があった。
上官に、外交官失格のレッテルを貼り付けるような失敗をしてしまったグレイマーは、予備役引入申請を懐に首席武官室を訪れた。
彼の大声での謝罪~実施部隊現場では、まずは大声で、しかも端的に非を詫びるのが通例だ~を無言で聞いていた美しい上官は、
「ねえ、総務? 」
涼子は、まず、何故そのようなミスを犯してしまったのか、を穏やかな口調で質した。
彼のたどたどしい言い訳を聞いた後、美しい上官は、コクリと小さく頷いた。
「じゃあ、これからはこうなさい。アポ入れして先方の了承が得られたら、相手がシャバのひとであろうがなんであろうが、復唱なさい。相手が政治家だから、外交官だから、軍人口調を使わないように、なんて思わなくてもいいの。私達は軍人で、先方もそれは承知。ましてや事務連絡なんだもの、言葉遣いよりも間違わない事の方が重要。だってこのデューティだって、テッポーこそ撃ち合いなんてしないけど、私達にとっては作戦行動には違いないんだから、ね? 」
そして、両の瞳を弓のように細めて、微笑んだ。
「大切な事は、失敗しない事じゃないわ。同じ失敗を繰り返さないことなの」
ね? と言うように、涼子は小首を可愛らしく傾げて、微笑んでくれたのだった。
「予備役引き入れではないのですか? 」
思わず、縋るような口調で問うてしまったグレイマーに、涼子は心底不思議そうに、大きな瞳をぱちぱちと数度瞬かせた。
「やめちゃうの? グレイマー」
涼子の唇が呼ぶ、自分のファースト・ネームが、甘美な恋の囁きにも聞こえた。
「しかし自分は、首席武官に恥を」
ああ! と涼子は瞳を大きく見開いて、それから、ゆっくりと、優しい笑みを浮かべて静かに言った。
「物事の責任ってものを取るために、上官はいるの。それを貴方が考えちゃ、駄目。ましてや貴方は
自分の方が2つも年上なんだけど、と思いながら、それでも口の中でいやしかしそれではあまりにも等とグチグチ言っている彼の肩を、涼子はちょっと背伸びしてポン、と叩いた。
「私の周囲にいるUNDASNの人達は、みんな私の仲間なの。だから、誰かが失敗したら、皆が手の届く範囲でフォローする。そして一晩経ったら、馬鹿みたいに笑ってる。それがいい軍人ってものなのよ? 」
涼子の言葉を噛み締めながら立ち尽くす彼を斟酌する風もなく、涼子はそのままああそうだ忘れてた今度の安保理で提出する資料なんだけれどと、自然に話題は目の前の仕事へと移り、そしてそのままグレイマーはお咎めなしで今日に至る。
以来グレイマーは、涼子を徳として、敬愛している。
以前、武官補佐官には「貴様、敬愛の念、と言うより、憧れ……、いや恋い慕っている、って感じがするぞ」とからかわれたが、強いて否定はしなかった。
打ち明けるつもりはないけれど、確かに恋なのだろう、そう思っていた。
首席武官に恋するなんて。
いや、階級も立場も何もかも違いすぎるかも知れないけれど、だから告白できない訳じゃない。
ただ、自分から見て、首席武官は、涼子という女性は。
「きっと」
呟いた途端、背後でドアが開く音がした。
振り向くと、アタッシュケースを片手に持ち、小脇に制帽を挟んだ涼子がドアの前で大欠伸をしていた。
「首席駐在武官、お目覚めですか? 」
言ってから、しまったと思った。お帰りですか、と言うべきだった。
涼子は少し恥ずかしそうに頬をピンクに染め、けれど普段通りの少し甘えたような口調で答えてくれた。
「うん。ぐっすり寝ちゃったわ。ごめんなさいね、レマ君。ここのところちょっと寝不足だったから」
思わずグレイマーは苦笑を浮かべてしまう。
「寝不足どころの騒ぎじゃないでしょう、首席駐在武官。このオフィスの中で一番働いてるのは貴女ですよ」
仕方ない。
急な異動なんて、日常茶飯事、どうあれ自分達の職場はと言えば、戦争遂行中の軍隊なのだから。
けれど、せめて涼子には、毎日柔らかなベッドでぐっすり眠って、身体を休めて欲しかった。
「ありがと、でも大丈夫」
涼子の笑顔は、本当に綺麗だと思う。
見た目は勿論だが、それよりも、彼女の笑顔を見れば、いつも心が洗われるような気がするのだ。
今だってそうだった。
「こんな状態も、あと1週間だものね」
涼子の言葉に胸が痛む。
そうか、後1週間で、この妖精は。
「そんな顔しないで、レマ君」
ころころと鈴が鳴るような声でグレイマーは我に帰った。
「じゃね。お先に」
「あ、お車を」
言いかけて気付く。警護車両要員、首席武官専用車の運転手は、涼子自身が今日は遅くなるからと、先に帰らせてしまっていた。
「自分がお送りさせて頂きます」
「いいっていいって」
涼子はハイスクールの学生みたいに、手を振って見せた。
「君だって忙しいんだから、私自分で運転して帰るわ。2号車ある? 」
「いや、しかし」
渋るグレイマーを、涼子はその魅力的な笑顔で押し留めるように言った。
「君がホントに暇なら私、遠慮しないもの」
ね?
涼子は小首を傾げて見せた。
この仕草に、弱いのだ、自分は。
「イエスマム、それではお言葉に甘えます」
グレイマーはキーボックスから2号車~レクサス9908、日本ではセルシオで通っているこの車を、涼子は好んでいた~のキーを取り出して、涼子に差し出した。
「どうぞ、お気をつけて」
「うん、ありがとね」
グレイマーは、姿勢を正し、オフィス中に響く声で号令をかけた。
「アテンション! 首席駐在武官、退室されます! 」
艦長と同等の扱いをされる駐在武官に対し、室内にいた全員が起立して涼子に敬礼を送る。
対して、涼子は。
「じゃあ、お先にぃ。みんなもあんまり無理しちゃ駄目だからねー」
それこそ、シャバの女子学生みたいに、笑顔でバイバイと手を振るのが、国連本部駐在武官事務所での恒例だった。
本来なら、服務令、敬礼則違反の処罰モノだ。
けれど、敬礼のままで見送る事務所の全員が、そんな涼子を温かい笑顔で見送っている。
皆が涼子を信頼し、敬愛を寄せているのが判る笑顔だった。
けれど。
それも後、1週間か。
グレイマーは吐息を落としつつ、席につき、仕事を再開した。
それから30分も経っただろうか。
「
呼ばれて顔を上げると、次席駐在武官のチェリビダッケ二等空佐が私服のスーツ姿でこちらに歩いてくる姿が目に入った。
彼は今日は
「どうされたんですか、次席駐在武官」
グレイマーの敬礼に対し、私服のチェリビダッケは軽く手を上げて挨拶した後、顔を顰めて見せた。
「忘れ物だ。俺は明日」
「ああ、スイス出張でしたね」
グレイマーの言葉に頷きながら、チェリビダッケは後頭部を掻きながら頷いた。
「ジュネーヴ、
「なるほど」
言いながら首を傾げる。
それなら自室へ取りに入ればいい話だ。
「書類ケースごと、2号車のリアシートに置いてきちまった」
そう言って彼は掌を上にして手を差し出した。
渡してやりたいが、キーはもう、ない。
「あちゃあ」
グレイマーは自分の額に手を当てた。
「2号車は、30分ほど前に首席駐在武官が乗って帰宅されましたよ」
「あちゃあ」
チェリビダッケもまた、グレイマーと同じポーズをして見せた。
「すまん、総務班長。俺は今、108階のバーでカナダ国連大使とチリ国連大使を接待中。アルコールを入れてしまってるんだ」
グレイマーは、そのままデスクの上を片付け始めた。
「
「お帰りなさい、大佐」
涼子のアパートメント、というか、国連本部駐在首席武官公邸の入るアパートメントは、コロンビア大学の近く、ブロードウェイから西へ一本入ったクレアモント・アベニューとウェスト120番通りの角にある。
正面エントランス前に停車したレクサスに、顔馴染みのドアマン、昔はUSアーミーでグリーンベレーにもいたと言う元一等軍曹が歩み寄り、ドアを開いて中の涼子に挨拶をした。
「こんばんは、お疲れ様です
「こんばんは、ディアマンさん、いい夜ですね」
涼子が笑いかけると、ディアマンは顔を皺だらけにして笑って見せた。
「今日も遅くまでご苦労な事ですな、大佐」
「えへへ……。実は、オフィスで眠りこけちゃって」
照れ笑いして見せると、彼は器用にウィンクをキメて見せた。
「それだって任務のうちです。眠れる時に眠っておけ、それが明日への命の絆だ。グリーンベレーじゃそれが合言葉でした」
「うふふ! いい言葉ね。UNDASNでも流行らせようかしら? 」
笑いながら答えると、ディアマンは嬉しそうに目を細めた。
「車は私が駐車場へ回しておきましょう。キーは集合ポストに入れておきます」
部屋は最上階10階の一番奥、角部屋だ。
エレベーターを降りると、さすがにシンと冷えた空気だけが涼子を出迎えた。
ニューヨークは寒いと皆、特に日本人は言うけれど、涼子はそれほどこの街の冬が嫌いじゃなかった。
けれど、この寒い深夜の、淋しい雰囲気は嫌だな、と思う。
「私って、淋しがりやさんなのかしら? 」
言っても詮無い事でも呟かなければ、泣いてしまいそうになる。
普段でさえそんなセンチメンタルな気分になってしまうのに、まして、今は。
「この街とも、もうすぐ」
涼子がエレベーター・ホール前の窓から見下ろした街の通りは、アパートの内部の淋しさに反して、もう日付が変わったというのに、車も人も、未だ多い。
昔の自分だったら、きっと、見知らぬ異性達が闊歩するこの街が恐ろしくて恐ろしくて、1分1秒でも早く、艦隊に帰りたい、そう祈るように願ったことだろう。
けれど、今。
恐ろしさは消えてなくなった訳ではないけれど。
少しだけ、この街を去るのが、名残惜しく感じられるような、気がする。
「艦長、誉めて? 」
言った途端、急激に恥ずかしさが込み上げて。
涼子は、足早に、自分の部屋へ向かった。
自室のドアの前に立ち、涼子はほぅ、と吐息を落とす。
白い息がほわんと綺麗な球になって、すぐにもやもやと形を崩し始めた。
人差し指を襟元に差し込み、きゅ、とネクタイを緩め、そのままシャツの第一ボタンを外す。
更に指を突っ込んで頸元のチェーンを引っ掛け、シャツの中から引き摺り出した。
チェーンにはドックタグ、認識票、UNDASNのIDカード、UN本部ビルとUNDA本部の入館許可証、そして自室のシリンダー錠のキーとカードキー。
シンとした廊下にじゃらじゃらと場違いな、ふざけたような金属音が響く。
この瞬間は、キライだ。
鍵っ子だった子供の頃の、淋しさと不安と不満と情けなさと妬み嫉み、そんな大ッキライな負の感情が隙を突いてぐるぐると胸の中で渦巻いて、泣いてしまいそうになるから。
つくづく私って甘えん坊さんだ、と苦笑のつもりで「あはは」と声に出して笑った。
そうすると、不思議ときれいに胸の中の渦巻きが消え去る、それが涼子のみつけた折り合いの付け方だった。
「ほんと、寒い。早くお風呂入ろっと」
治安は悪くないとは言え、そこはやはりアメリカ、シリンダ錠を開け、カードキーを差し込み、最後は指紋認証と暗証番号。
毎回毎回、面倒臭いわぁ、と吐息を零しながらノブを回した刹那。
カーペットを敷き詰めた廊下だと言うのに、ドタバタと騒々しい足音が突如響いた。
「ふぁ? 」
音のする方を振り向いた瞬間。
覆面を被った男が3人。
もう、距離は1mもなかった。
叫ぼうと口を開いたが、声が出なかった。
室内に逃げ込もうとしたが、足が竦んで動かなかった。
耳の奥を、血液が一気に足元へと流れ落ちる音が聞こえた刹那、涼子は男に突き飛ばされるようにして、部屋の中へ押し込められていた。
「きゃあっ! 」
漸く口から飛び出した叫びは、床に尻から倒れた痛みのお蔭。
しかしその悲鳴も、ドアが乱暴に閉められた音で掻き消されたみたいだった。
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