第29話 6-8.


 涼子が、豪華さに浮かされたように、ブツブツ独り言を呟きながら、他人の寝室を”査定”して回っている、その間。

 これまた涼子のアパートの一部屋分ほどもあるバスルームで、マヤは、スカートの中から涼子のハイヒールのパンプスを取り出した。

 舞踏会だからと用意した今夜の夜会服は、パニエを入れてタップリ膨らませたプリンセス・ラインのドレスだ。

 手練の絹のレースをふんだんに使った、まるでラビリンスの如き乙女のスカートの中、パンプスの一足や二足、幾らでも隠しようはあった。

「涼子様のハイヒール……。お手洗いで修理なさってたけど、確かにちょっと歪んでるわ」

 まるで手に入れたダイヤの指輪をうっとりと眺めるような視線で、マヤは両手で捧げ持ったパンプスに見入る。

「……これが私の”シンデレラ・ストーリー”のガラスの靴、になります様に」

 マヤは、エントランスで倒れた時に脱ぎ散らかした涼子のパンプスを見た瞬間、思わず、自分のスカートの中に隠してしまったのだ。

 だから、立ち上がれずに『腰が抜けた』と言ったのだった。

 耳に馴染んだシンデレラ・ストーリーとは些かシチュエーションは違うけれど、希みを明日へ繋ぐ王子の気持ちが、マヤにはよく理解できた。

 靴を取り敢えず戸棚に隠し、部屋着に着替えて寝室へ戻ると、ベッドサイドに置かれた椅子に座った涼子は上半身をベッドの上に投げ出し、ぐっすりと眠り込んでいた。

 本人も言っていた通り、余程疲れたのだろう。

 鼾こそかいていないが、微かに眉間に皺を寄せて、苦しそうな寝息をたてている。

 眠っている涼子は、まるで別人みたいに一回りも二回りも小さくなったように見えた。

「涼子様ったら……。余程お疲れなのね」

 起こさないよう、そっと近寄って顔を覗き込む。

 こうして至近距離で眺めると、一層涼子の美しさが際立つようだった。

 白磁の肌をピンクに染めた柔らかそうな頬、微かに開かれた捥ぎ立て果実のように瑞々しい唇が、初めて出逢った時に感じた人間離れした美しさを良い意味で否定し、今自分の目の前で長い睫を震わせながら息づいているそのひとが、本当に美しいだけの、唯の人間の女性なのだという事が良く判る。

 人間の女性であるという存在感が、車中での涼子の話に一層のリアリティを加えているのだ。

 そんな涼子が、自分と涼子の立場が似ているから、とそれだけの理由で、マヤの盾になり、凶悪な銃口に真正面から立ち向かってくれた事が、一層マヤの心を熱くする。

「涼子様……」

 そんな事を考えていたから、と言う訳ではないだろうが、マヤは涼子の真っ白なスカートの裾がどす黒くそまっているのに改めて気が付いた。

「いつまでもこの格好でいさせる訳にはいかないわね」

 一瞬、女官を呼ぼうか、とも考えたが、やめた。

 涼子の世話は、可能な限り自分の手で焼きたい、そう思った。

 マヤは隣にある衣裳部屋へ向かい、適当な寝間着とスリッパを選んで~適当とは言っても、王室御用達の超高級品ばかりなのだが~寝室へ戻った。

「まあ」

 涼子は何時の間にやら両脚を椅子に上げ、ベッドと椅子の間に身体を渡して大の字になっていた。

 相変わらず、可愛らしい唇を開いて苦しげな寝息を立てている。

 このまま朝までだと、疲れが増すだけだろう。

 一旦起こして寝間着に着替えて貰い、改めて寝直してもらおう。

 そう考えてベッドの端を回り込んで涼子に近付いたマヤの手から、寝間着とスリッパが滑り落ちた。

「涼子様……、なんて……、お美しい」

 裾の乱れた、血塗れのスカートのスリットから、長く柔らかな曲線を描いて露出している涼子の脚を見た刹那、マヤはまるで心臓を鷲掴みにされたような苦しさを覚えた。

 耳の奥でドクドクと鳴る鼓動が五月蝿い位に頭の中で響く。

 我知らぬうちに、右手が涼子の美脚に伸ばされていた。

「す、裾を直して、差し上げる、だけ、なの」

 聞くものもいない言い訳でも呟いていなくては、とても理性が持ちそうになかった。

 けれど、それは逆効果だったようだ。

 自分で吐いた言い訳をマヤは鵜呑みにして、震える手を更に伸ばし、柔らかそうな太腿を、撫でる。

 恐る恐る涼子の顔を見ると、全く気付く様子もなく、寝息は苦しげだけれど規則的だった。

 再びマヤは言葉を口に上す。

「あらあら、涼子様ったら。こんな格好だと、余計に疲れてしまわれますわ」

 既に言い訳ではない。

 自分の行動への加速剤でしかなかった。

 足を両手で抱え、渾身の力を込めて持ち上げる。

「せーえ、のっ! 」

 およそ”姫”らしからぬ気合いを入れ、涼子の下半身をベッドに投げ込む事に成功した。

 涼子は、勢い余ってベッドの上をコロンと1回転したが、さすがに広いベッドだけあって、その程度では向こう側に落ちるような事はなく、丁度ベッドの中央で大の字になった。

 勿論、スカートの裾は乱れ放題だ。

 マヤは少しだけ、涼子の睡眠の深さに呆れたが、同時にそれがマヤの行動を更に大胆させるトリガーにもなった。

「涼子様? お着替え、いたしましょう」

 言いながらマヤはベッドに這い登り、上着の前ボタンを外し、続いて右腕をそっと持ち上げ、袖から抜いた。

「……まだ、大丈夫」

 思わず呟いた言葉は確かに自分の口から出たのだけれど、いったい何が大丈夫と言いたいのか。

 行き着く先は理解していたが、考えないようにした。

「んうぅ……」

 刹那、涼子が低く、短く呻いた。

 思わず洩れそうになる叫び声を防ぐ為、マヤは両手を口に当てて、瞬間的にベッドから飛び降りて2m程も距離をおいていた。

 ドキドキ跳ね回り、口から飛び出しそうな心臓を宥めながら、息を詰めて涼子の様子を伺う。

 涼子はううんと唸りながら、自ら左腕を袖から抜いて、上着をベッドの下へ弾き飛ばしてしまった。

 唯の服とは思えない程、重そうな音が響く。床には毛足の長い絨毯が敷かれているというのに。

 マヤは、涼子の胸を派手やかに飾っていた略綬や勲章の多さを改めて思い出しながら、じっと涼子の様子を観察していた。

 再び寝息が聞こえ始めるまでの10秒間が、1時間にも感じられた。

 もう大丈夫かと思われる頃、マヤはほぅと吐息を零し、再びそろそろとベッドに上る。

 自分でも、結構懲りない性格だな、とふと思う。

 思わず噴き出しそうになるのを、ウンと下腹に力を込めて堪え、マヤはそろそろと両手を涼子に伸ばした。

 大きく膨らんだリボンタイを手早く解く。

 上着を着ていた時には想像できなかったほどの、大きく形の良い胸が呼吸に合わせて上下している。

 広い寝室に、マヤが生唾を嚥下する音がやけに大きく響いた。

 次にマヤは、その胸を包んでいるスタンドカラーのドレスシャツのボタンに手をかけた。

 首元から順番に、飾りボタンをはずしていくと、涼子の何の飾り気もない白いブラジャーに包まれた乳房が、シャツをかきわけるようにしてその谷間を表した。

 視線は谷間から外さない。

 いや、外せなかった。

 意志の力で外せない視界に、誰かの手がそろそろと侵入してきたので驚いた。

 自分の手が谷間に向かって伸びているのだと判って、もう一度驚いた。

 慌てて手を引っ込める。

”わ、私、何をしようとしているの? だ、だめよ、マヤ!こんな事しても、涼子様が喜ぶわけ、ないじゃない!”

 しかし漸く戻りかけた理性の輝きは、次の瞬間、涼子が無意識下でとった行動に打ち砕かれて、遥か天頂で煌く星となった。

「ん、うぅん……」

 涼子は低く呻くと、片足の膝を立てたのだ。

 その白い、形の良い膝小僧が視界の隅に飛び込んできた時、マヤの両手は彼女の本能に従って動いていた。

 右手は涼子の胸に。

 左手は涼子の脚に。

 ゆっくりと、慎重に、マヤは手を伸ばす。

 あれほど震えていた手だったのに、今はまるでマニュピレーターのように、静かに、僅かのブレもなく、目標めがけて動いている。

 数秒の後。

 マヤの両手が、それぞれの着陸予定地点にタッチダウンした刹那。

 マヤはフリーズした。

 涼子の閉ざされた瞼を縁取る長い睫がふるふると、まるで風に吹かれた白爪草のようにそよぎ、葉を伝う夜露のような涙が一滴、白い頬を伝っていったのが見えたから。

 次の瞬間、涼子は僅かに身を捩じらせて、哀願するような口調で、言ったのだった。

「……お母さん、お父さんも……、なんで死んじゃったのぉ……? ……んぅ、……、涼子を一人に……、しない……、で。……良い子にしてる、……から」

 マヤはゆっくりと両手を引き戻す。

 今は亡き母の故郷の言葉、日本語を日常会話程度ならば理解できる自分のスキルを、ついさっきまでは感謝していたというのに、けれどこの一瞬、マヤは呪った。

 そして、それこそ見えざる神の警告だったに違いないのだ、と己の馬鹿さ加減を胸の内で罵った。

 膨らみ上がった欲望は、依然として膨張しつつあり、いっこうに萎む気配を見せない。

 けれど、出来ない。今ここで欲望に身を委ねて、動くわけにはいかない。

 だって自分は、本当に、心の底から。

 涼子との間に、きちんと、正しく愛を育んだ上で、欲望を満たしたいのだ。

 自分の本当の本気を、知って欲しいのだった。

 大きく吐息を落とした後、マヤは右手で涼子の頬の涙を拭い、左手で自分の頬をつたう涙を拭った。

 そして無言のまま、今度はてきぱきと両手を動かした。

 涼子の服を脱がし、用意していた寝間着に着替えさせ、頭をそっと持ち上げて下に枕を差し入れてやり、羽毛のシーツをそっと首元までかけてやってから、そっと、ベッドを降りた。

 いつの間にか涼子の表情は安らかな寝顔に変わっていて、苦しそうだった寝息も、健康的なそれになっていた。

「涼子様……。さっきはごめんなさい。私、どうかしてました……」

 耳元でそう囁き、白い頬へそっと唇を落とす。

 くすぐったそうに、むぅうと唸りながら、涼子が顔を振り、まくらに頬を撫でつけた。

 その仕草が子供みたいに可愛らしくて、都合の良い解釈かもしれないが、マヤの破廉恥な行動を赦してくれたように思えて。

 マヤはそっと、涼子の隣に潜り込み、部屋の灯りを消した。


 翌朝。

 マヤが目を醒ますと隣は空っぽだった。

 サイドボードのお気に入りの置時計を見ると、早朝、5時半。

「涼子様? 」

 まさかこんなに早く、出て行ったというのか? 

 慌ててベッドの上で起き上がったマヤは、何やら聞き慣れぬ音が、どこからか聞こえてくるのに気付いた。

 音源はどうやら、マヤの寝ているのとは反対側のベッドの下らしい。

「うふっ! 涼子様ね? 」

 そっとベッドの上から下を覗き込むと、案の定、涼子がペルシャ絨毯の上で転がっていた。

 どうやら、夜中にベッドから落ちたようだ。

 一体どんな経緯を辿ったのかは謎だったが、涼子はうつ伏せに寝転がり、妙に捻れた形の右腕はスリッパを掴んでおり、背中には昨日彼女が座っていた椅子が逆さまになって乗っていた。

 その上、あろうことか、左手はパジャマのズボンに突っ込まれ、ボリボリと尻を無心に掻いている。

 そうして、しきりに寝言を言っているのだ。

「うーん、うーん、かんちょおー……浸水ですぅ……、ダメコン立ち上げ……。沈没するー。もう、息が出来にゃいいー……。うーん……」

 よく見ると、涼子は大量の涎を高価なペルシャ絨毯に流出させ、顔をその水溜り(? )の真ん中に置いて苦しげに呻いているのだった。

 どんな夢を見ているんだろう? 

 起きたら聞いてみよう。

 何にせよ、マヤにはとにかく彼女の寝相は、とてつもなく健康に悪そうに見えたので、まず、椅子を下ろしてやり、涼子の左手をズボンから引き出してから、背中を優しく揺すってやった。

「涼子様、おはようございます。涼子様」


 起床から、1時間後。

 涼子はようやく、自分のアパートに戻ってきた。

 マヤを連れて。

 涼子をアパートまで送り届ける為に侍従長が用意してくれた車にマヤが乱入し、「涼子様のお宅で朝ご飯を食べたい! 」とおねだりした為である。

 今日はそのまま大学に参ります涼子様朝ご飯をご馳走してくれないとペルシャ絨毯を弁償して頂きますわよ! とかなり強硬な態度でマヤが臨んできた為、涼子も折れざるを得なかった。

「本当によろしいんですか、殿下……」

 涼子は取り敢えずセーターにクラッシュジーンズ、サンダルという私服に着替えて、キッチンでコーヒーを淹れながら訊ねた。

「ええ、マヤは本当は、こういう方が好きなのです」

 マヤはそう言いながら、瞳をキラキラさせて部屋の中をうろついている。

 涼子の部屋の中は、シンプルだ。

 意識してそうしている。

 本棚代わりのスチール製アングルと、事務用机、飾り気のないシングル・ベッド、薄汚れたファンシーケース、何やら雑多な小道具が押し込まれている、1m四方程の木製の箱。

 元々、UNDASNの軍人達は、その転勤の多さから、特に独身者は極端に家財が少ないのは有名な話だ。

 それに加えて、自分の『無頓着さ~時折、周囲からはガサツだ、と指摘される度、涼子は反論している、ガサツと無頓着は全く別次元のもので、私は無頓着なのだ、と~』を知っている涼子は、ちらかしようが無いように、極力私物を置かないようにしているのだった。

”……そんなに下々の様子がお気に召した、のかなぁ? ”

 涼子は首を傾げつつ、シンクの中、1週間前の皿やボールが洗われないままに静かにエントロピーを増大させているのをボンヤリとみつめた。

 まあ、本人が良いと言っているのだ、構わないだろう。

 シンクの中の惨状に眼を瞑り、涼子は背後を振り返って、必要以上に明るい口調で言った。

「さあ、殿下。お待たせいたしました、完成しましたわよ! 」

 眼をキラキラさせて駆け寄ってきたマヤが、差し出された皿の上の”物体”を見て、「ウッ」と小さく呻いたのを、涼子は聞かなかった事にした。

 人々が『目玉焼き』と聞いて思い浮かべる、白身と黄身というビジュアル・イメージは徹底的に破壊されていて、白と黒、ツートーン・カラーの世界に沈んでいた。ベーコンに到っては、炭化している。

 うん、脂が落ちて健康的だわ、と涼子は思う事にした。癌は既に現代医学の前にひれ伏しているしね。

 添えられたレタスは、魔女の呪いがかけられた様に萎びている。ドライフラワーのようだ、と涼子は眼を背けた。料理は彩りが大切なのよ。

 食卓の上の品々の中で、どうやらまともそうなのはコーヒーにバターロールだけのようだった。プロの技とは、このように殊更万人の眼を楽しませてくれる。

 こんなの、作った本人でも食べたくない。

 涼子の傷心を他所に、マヤはそれでも健気にも、神に感謝の祈りをささげ、「いただきまーす! 」と元気よく”その物体”を口に運び、コーヒーで胃に流し込んでいく。

 まるで、密教修行僧の苦行を見ているかのような気分に、涼子は陥った。良心が痛んだ。

 マヤの目には見る見る涙が溜まってきたが、それを涼子に悟られまいとしているかのように、明るい声で話しかけてきた。

「涼子様! 本当においしゅうございますわ! 」

 空元気の好例だった。

「涼子様は召し上がりませんの? 」

 マヤの瞳が刹那、恨み言を言っているかのように揺らいだ。

「えっ? や、その、あ、あの私、食欲が、その……」

 ああ、オトナってズルい。

 涼子が胸の内で自分を責めている間に、マヤはヤケになったかのように皿の中の物体Xを胃の中に押し込み、コーヒーを3杯おかわりして漸く、人心地がついたように微笑んだ。

 何かを遣り遂げた人間の表情をしていた。

 その表情に打たれて涼子は口を開いていた。

「殿下。大学まで、私がお送りさせて頂きますわ。もうすぐ駐在武官事務所の車が迎えにまいりますから」

 涼子の言葉に、マヤは先程の苦行を忘れたかのように、華やかな笑顔を浮かべた。

 謝罪の代わりになり得たようだった。

「嬉しい! 涼子様! ぜひお願いいたします! 」

 声が弾んでいた。

 涼子もマヤの元気に引き摺られて、にっこり微笑む事が出来た。昨夜から、初めて心の底から笑えたような気がした。

「私、少しの間失礼して着替えさえて頂きたいのですが、よろしいでしょうか? 」

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