第28話 6-7.
どうにか車まで辿り着いた涼子は、リアシートにマヤをそっと下ろし、車の中に差し入れていた上半身を外へ出そうとした。
が、マヤが涼子の腕を掴んで離さない。
「涼子様……? 領事館まで……、ご一緒していただけませんか? 」
縋るような、甘えるような表情だった。
行き掛かり上、事務総長の優先度の方が高かったとはいえ助けもしたし、お姫様抱っこだってした~自分だってされた事ないのに!~、車まで運んだ。
もう、勘弁して欲しかった。
1分1秒でも早く家に戻り、ベッドに潜り込んで泥のように眠りたかった。
だから、自分に許可を出した。
即ち、困惑を表に出した。
「殿下……、それは致しかねます。それにもう、ご心配は無用です」
袖を握るマヤの手を解こうとその掌に触れて、涼子は気付いた。
儚いほどに薄い掌が、今にも壊れてしまいそうに激しく、震えていた。
恐ろしさに未だ捉われているのだ、マヤは。
一杯まで見開かれた大きな黒い瞳は映された涼子の顔がふるふるとたゆたう程に潤み、長く美しい睫が漣のように細かく震えている。
プリンセス・ドレスから露出した肩や二の腕が粟立っているのは、ニューヨークの初冬の寒さだけではないのだろう。
それが当たり前なのだ、と涼子はつい数分前の自分を思い出して密かに苦笑した。
自分だって、通用口で顔見知りの警備員の無残な姿を見たときは腰が抜けて立てなかったし、45口径を突きつけられた時だって泣き喚いてしまいそうになるのを堪えるのにどれほど苦労したか。
だけど、それは私も一緒なんだけれど。
どうしようか、と首を傾げた刹那、誰かに優しく背を叩かれた。
振り返ると侍従長が立っていた。
懇願するような表情で。
ああ、と涼子は吐息を零した。
「石動大佐。私からもお願いします……。姫は大層心細がっておいでじゃ……。叶うならば付き添っては頂けませぬか? 」
これも自業自得か、と涼子は苦笑を浮かべて侍従長には無言で頷き返し、ゆっくりとリアシートに身体を預けた。
花が咲くように、マヤが笑った。
この笑顔がご褒美だと思って、と涼子が自分を納得させた途端。
「じいは後の車で戻るように! 」
まるで怒っているかのような鋭い声に、涼子に続いて車に乗ろうとしていた侍従長は、意外と素直に身体を車外に出した。
あらあら、と涼子が驚いていると、ドアが閉められ、車は音もなく動き出した。
「涼子様。改めまして、お助け頂き、本当に有難うございました」
振り向くと、マヤが涼子の手を取って、押し頂くようにしながら頭を下げていた。
「貴官の勇気ある行動で、我が王国は救われました。このご恩は、私個人のみならず、国王は勿論、王室、政府、全国民に至るまで永く忘れる事はありませんでしょう」
つい数瞬前まで迷子の子猫のように打ち震えていた人間とは同一人物とは思えない、堂々とした、如何にも病弱の父王を援ける摂政殿下振りだった。
だから涼子も、外交幕僚としてそれに相対した。
「有難きお言葉、身に余る光栄にございます。しかしながら本職は国連軍軍人としての職責を全うしただけのこと、お言葉は光栄の極みにしてありがたき所存にはございますが、これ以上のお気遣いは無用につき、いざ早々とお忘れになりますように」
涼子の口上を、満足そうな微笑を称えて頷きながら聞いていたマヤは、聞き終わると同時に片手を伸ばし~残る片手は涼子の掌を握ったまま~ボタンを押して、運転席との境の電動ウィンドウを閉めると、徐に涼子の肩へ自分の頭を預け、夢心地でいるようなふわふわした口調で言った。
「だけど、マヤは今夜のような素敵な夜を過ごした事は、生まれて初めてです。……なんだか、夢のようだわ」
何を暢気な、と涼子は思う。
今夜、この事件だけでも何人の人々が右往左往し、人生を狂わされただろうか。
犯人や犯人をそそのかしたイブーキ王国の反マヤ派の連中は自業自得としても、責任を問われる官僚や政治家もいるだろうし、国連側だってそうだろう。ましてや人の命まで奪われていると言うのに。
けれどそれは、彼女の責任ではなく、今ここでそれを責めてもマヤの精神を追い込みこそすれ、何も解決などしないし救われる人などいない筈。
涼子は胸に渦巻く想いを飲み込み、唯、己の正直な想いだけを吐き出すに留めた。
柔らかなヘッドレストにがくっと頭を預けて、吐息混じりに。
「正直、私は、こんな恐ろしい思いをした夜は初めてです……」
瞼を閉じたら、途端に睡魔が襲いかかってくる。
駄目だめ、と目を開くと、マヤが顔を覗き込んでいた。
驚いたような表情で。
「嘘、涼子様。だって、事務総長閣下は、涼子様は歴戦の勇士だって仰ってましたわ」
涼子は思わず笑ってしまう。
「あら? 事務総長閣下がそのような事を? ……うふふ、それは違います。それこそ嘘ですわ、嘘」
涼子はマヤを押し戻すように、ゆっくりと頭を起こした。
「それは確かに、私はミクニー相手にこれまで幾度となく戦い、何度も死にそうな目にも会ってまりました。……けれどそれは、何も私一人が奮闘し、暴れ回ってきた訳ではないのです」
映画やテレビ、エンターテイメント小説のように、ヒーローやヒロインさえいれば大勝利が手に入る世界だと言うのならば、それこそ大歓迎だ。勲章も年金も熨斗をつけて返上するから、今すぐ自分を含む3,500万人の将兵を、地球へ、故郷へ戻してやって欲しい。
けれどそれは、所詮空想の産物に過ぎないのだ。
それこそ、見果てぬ夢でしかない。
「誰だって、死にたくない、死なせたくない、怖い、恐ろしい、果たして自分は今夜眠りについて明日という日を手にする事が出来るのか? ……そんな恐怖と戦いながら、涙を堰き止め、震える身体を抱き締めながら、狂ってしまいそうになるプレッシャーを下らない噂話や大して可笑しくもない冗談に紛らわせて、危ういバランスを保ちながら一日一日を乗り越えて歩き続けているのです。英雄なんて、勇気や智謀なんて、ご免遊ばせ、クソでも喰らえ、ですわ。そんなものよりも、自分の役割を可能な限り間違なく遂行し、誰かがミスすれば周囲皆でそれをフォローしリカバリしながら、日々を、1分1秒を乗り越えてゆく……。戦争なんて、そんな泥臭い、人間臭い試行錯誤の繰り返し、積み重ねでしかないんです」
最前線で、今日は馬鹿話で笑い合った友人が翌日には永遠に物言わぬ冷たい身体になり果てて宇宙の涯へ永遠の旅に送り出されてしまう、あの胸が締め付けられる宇宙葬の光景。
あの厳かにして荒涼とした光景を一度でも見た者ならば、勲章など爪の先程の有り難味も消し飛んでしまうであろう。
「私なんてほら、力も弱いし格闘技も銃の腕前も全然駄目。運動音痴で通ってましたし、卒配後は上官や部下達の足をさんざん引っ張り、迷惑を掛け捲ったものです。だけど、さっきも言ったように、私の失敗を皆がよってたかってリカバーしてくれて、自分も必死になって誰かのミスをフォローして……。そうするうちに気が付いた。……私は、私達は、3,500万のUNDASN将兵は、互いに呉越同舟、守り守られ、叶うならば全員が、ただ唯、昨日と同じような今日を、今日と同じような明日を、平凡だけど愛惜しくて堪らない日々を抱き締めていられるように……。そう祈りながら、願いながら、戦い続けているんです」
ああ。
彼等を想うと、涙が溢れてしまいそうなるくらいに、笑顔を禁じ得ない。
愛しくて愛しくて、たまらない。
「だから、殿下? 涼子の本当の意味でのお仕事は、ね? 」
涼子はだから、マヤにもそれを理解して欲しくて、精一杯の笑顔を浮かべる。
「どんなに恐ろしかろうが、涙が零れて仕方なくても、腰が抜けて立てなくなっても、絶対に退いてはいけないんです。最後まで諦めない、最後まで死んではいけないんです。そして、本当に最後の最後まで追い詰められたら、一人でも多くの部下を、仲間を逃がして死ななくてはならない。それでも、必ず、どんな事があろうとも生きて帰るんだ。そんな誓いを胸に抱いて戦い続ける、ということなんです」
艦長?
それを教えてくれたのは、艦長?
貴方なんですよ?
「そうする為には、恐ろしいときには恐ろしいと、出来ない時には出来ないのだとはっきりと自覚し、はっきりと口に出して言わなければならないんです。今日のような向こう見ずな、無謀な行動は、だから皆の為に、みんなの明日の為に、一番戒められなければならない、そんな行動だったんです」
そこまで一気に喋り切ったけれど、涼子は最後の一言を言う前に躊躇ってしまう。
だって、あんまり照れ臭い。そしてそれ以上に、マヤには残酷かもしれない。
けれど、このまま口を噤むのは、卑怯なのかもしれない。
だから涼子は、マヤから視線を逸らし、独り言のように小声で呟いた。
「でも、さすがに今日は、抑えることが出来ませんでした……」
けれど、最後の言葉はマヤの耳に届いてしまったようだった。
「なあぜ? どうしてですの、涼子様」
仕方ない。
これも、自業自得なのだろう。
今日は自業自得の大バーゲンだと、涼子は微笑を浮かべてマヤの顔を見た。
「だって、マヤ殿下は……、マヤ殿下のお立場は、
「……涼子、様」
ああもう、キリがないわ、と涼子は会話の打ち切りを決意した。
だって、マヤの黒い瞳が再び、今にも溢れそうに潤み始めている。
この感受性の豊かな~きっと、底抜けに優しい娘なのだろう~女の子と、これ以上シリアスで、彼女の深層心理的にセンシティヴな会話を続ける気力は、もう残ってはいなかった。
涼子は慌てて笑顔を作り、マヤの手を握り締めて言った。
「ホホホッ! いやだ、私ったら。まだ酔いが醒めていない様ですわね」
そして、これから一緒に悪戯をしようか、と言うようにウインクしながら言葉を継いだ。
「ですからね、マヤ殿下。今日の私のみっともない活劇は、内緒ですわよ! 」
「まあ! 涼子様ったら! 」
マヤはそう言って、やっと笑顔に戻った。
「なんだか、湿っぽい話になってしまいましたわね……。申し訳ございませんでした」
涼子は軽く頭を下げると、改めてマヤの顔をみつめる。
セントラルパーク沿いの道路を走っているのか、薄暗い車内でもはっきり判るほど、頬に朱を差したマヤの肌は、肌理細やかで、ふっくらと瑞々しい。
「でも……。殿下は、全くお疲れではないのですか? やはり私などとは違ってお若くていらっしゃるからかしら? 」
マヤはきょとん、とした表情で小首を傾げて見せた。
「涼子様、涼子様はおいくつですの? 」
「私は……、イヤですわ、殿下」
そう来るか。
また地雷を踏んだらしい。
まったく今日って日は、地雷踏みまくりだわ。地雷原処理車の出動を要請、施設科中隊は
「もう、おばちゃんです。三十の大台まで後3年半……」
ここが重要だ、といわんばかりに涼子は『半』にアクセントを置く。
マヤは心底驚いた様に、大きな声をあげた。
「えええっ!……本当ですの? 」
「嘘など言いません。……ほら」
そう言って涼子は、自分の頬を突付きながら顔をマヤに近付けた。
「全然、肌の張りが違いますでしょ? ……ティーンの殿下と比べるのも、我ながら大胆すぎるとは思いますけど……」
自分で言いながら、哀しくて肩が落ちてくる。
「そんなこと、全然ありませんっ! 私、まだ20代前半かと」
マヤの表情を見ていると、強ちお世辞でもなさそうだわ、と涼子の肩が少しだけ復元してきた。我ながら現金なものだと苦笑が浮かぶ。
「まあ、殿下ったらお上手ですこと! 」
そこから漸く、当たり障りのない、気の置けない女性同士のお喋りが始まった。
確かイブーキ王国のニュヨーク領事館はマンハッタン区、ミッドタウンの48丁目辺り、ロックフェラーセンターの1本か2本裏にあった筈。
だとしたら後5分ほどもこのお喋りを続ければ漸く今夜はお役御免か。
しかし涼子の予測は、領事館に到着した途端、打ち砕かれる。
結局、マヤと、先着していた侍従長の懇請を断り切れず、涼子は領事館で一泊、しかもマヤと同衾する事となってしまった。
”ヤレヤレ……、今夜はこの子が寝るまで仕方無いか……”
涼子は密かに吐息をつき、開き直って笑顔を見せた。
「承知致しました、殿下。今日は殿下がお休みになられるまで、石動がお傍におつき申し上げます」
マヤに拉致されるように寝所に連れ込まれた涼子は、マヤが続き部屋にあるお手洗いに入っていったのを見届けて、改めて室内を見渡した。
「……つか、『寝室』って呼んでいいのかしら? ……ひょっとして私ったら、寝室の”概念”を根本的に間違えているのでは? 」
涼子が暮らしているアパートの部屋に較べて~それだって一佐の首席武官の”公邸”だ、一人暮らしには勿体無い程の、贅沢な間取りなのに~、広さは倍以上、天井の高さだって優に1.5倍はあるだろう寝室は、豪華な内装、美術品と見紛うほどに見事な家具、寝具で埋め尽くされていた~天蓋付きのベッドなんて
改めて、自分が縁を結んだ若くて可愛らしい女性が、本当に『お姫様』なんだな~職業、姫、……と言うだけでも結構なインパクトだ~と実感する涼子だった。
「それにしても、豪華な寝室……。このベッドだけで高級車が買えるんじゃないの? あらあら、この枕も高そうだわ。え? やだ、何であの娘一人寝るのに枕が3つも4つもあるの? ひとつ貰って帰ろうかしら? 」
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