第26話 6-5.
涼子は、イースト川の川面に煌びやかな照明で彩られた姿を映している123階建ての国連本部ビルを仰ぎ見る。
このビルは国連本部としては二代目だ。
初代の39階建て本部ビルは、ミクニー第一次戦役開戦劈頭の『炎の二日間』と、第一次、第二次戦役を通して戦死した1億人以上の人々の慰霊モニュメントとして、この新本部ビルの懐にすっぽり収まっている。
新本部ビルの1階ロビーは地上45階まで吹き抜けになっており、初代本部ビルはその中央に被災時の姿のまま~もちろん、内部的には崩落せぬよう補修済みだ~佇んでいる。つまり、新本部ビルは、旧ビルを取り囲むようにして建設されたのだ。ちなみに旧本部ビルの隣に寄り添うように建っていた国連本会議場は空襲を無事に生き延び、その本来の機能は新ビルに移して、今は空襲記念館として余生を送っている。
地球文明の簒奪を目論むミクニーの開戦初頭の本星爆撃の目標から、文明が集約されている世界中の大都市が外されていたのは当たり前だったが、ニューヨークだけは例外だった。
ミクニーからは『惑星国家・地球』の代表政府と看做されていた国連本部があった為だ。
この一点の事実からも、ミクニーが後日地球側政府との戦後会談をするつもりなど全くなかったことが伺える。
彼等は、まさに、地球人類を根絶やしにした上で~とある文明系の支配種として立てぬほどに痛めつけて~、残った文明や資源を略奪するつもりでしかなかったのだ。
ほとんど一面焼け野原となったニューヨーク市、マンハッタン島にあって、相当の被害を受けながらも、奇跡的に~もちろん、ニューヨーク直接防衛の任に当たった、米軍及びニューヨーク州軍とUNSFインターセプター第2戦隊の決死的な防空戦闘の結果だ~遠目には原形を留めて聳え立っていた旧本部ビルと旧本会議場は、これから何年続くか、いや、勝てるかどうかも判らぬ未曾有の宇宙大戦争に否応なしに巻き込まれた人類にとって、正に希望の象徴にも、やってくるかどうかも判らない明日を照らす灯台にも思えたことだろう。
事実、誰ともなしに旧本部ビルは世界中の人々から、その形状も相俟って、ギリシャ神話に登場する無敵の盾になぞらえて『人類のイージス』と呼ばれるようになった。
「はぁ……。夜風が気持ちいい……」
新本部ビルは、川風を巻いて起きる強烈な高層ビル風、”かまいたち現象”を防止する為に、いくつもの曲面を組み合わせた複雑な形状を持った巨大建造物だが、それでも相当な速度の風が、涼子のセットした髪を~零種を着る時以外は、ピン1本うたないのだが~、美しく
が、涼子はそんなことは構わずに、ただ、アルコールで火照った頬や身体が冷やされていく快感と、美しくライトアップされた”イージス”の美しさに、暫くの間、身を任せていた。
自分では、結構アルコールには自信がある。
どんな種類の酒も然程美味しいとは思わなかったが、五十鈴のガンルームで先輩たちに鍛えられて~もちろん、その任期後半からだが~、ビールやチューハイなら人並み以上に飲めて、気分が明るくなってくる
今日の宴席でも、アペリティフにワインを1杯、始まってからワインとシャンパン、ビールを1杯づつ飲んだところで仕事がブレイク、席に戻ってビールを2杯飲んだところでマヤからダンスの申し込みがあり、結局それだけだ。
自分ではまだまだ宵の口、と思っていたのだが、イースト川に面した職員通用口まで、ヨッフム国連部長達同僚を送り届けるときに、何度かフラついて皆に支えてもらって、初めて涼子は自分が結構酔っていることに気付いた。最後のマヤとのダンス、あの相当な運動量が、止めの一撃だったのかも知れない。
「首席駐在武官……、ほんっとに、大丈夫なんですね? 」
「だーいじょぶだいじょぶ! あははは! 酔ってないよ、ほんっと! あはははは! 」
「それが酔ってる証拠だと思うんですけど……」
部下の総務班長、グレイマー・イム一等陸尉が、ニューヨーク監督官事務所の宿舎まで帰るイエローキャブに乗り込む前、首を捻りながらそう言っていたのを思い出す。
「でも、後1本、電話しなきゃ」
涼子は、マヤとの遭遇で話が中断していたフランス建設省施設局の長官との交渉が残っていたこともあり、この後駐在武官事務所のオフィスに戻ろうと考えていたのだ。
「よっし! もう大丈夫! 戻りましょう! 」
本部ビルを仰ぎ見続けて首が疲れた涼子は、カキコキと数度首を振り、ウン、と伸びをして踵を返した。
ふと目をやったイースト川は、まるで昼間のように明るく輝いている。
「なんだか、お魚さんが沢山、集まってそうだよね」
川面を明るく照らす国連本部ビルの灯りが、集魚灯のように思えて、涼子は一人クスクスと笑いながら、ゆっくりと職員通用口へ歩き始めた。
「わっ! 」
数メートル歩いて、街灯と街灯の間、陰になったポプラ並木の根元で、何かに躓いた涼子は、声を上げて踏鞴を踏んだ。
こんなに酔うほど飲んだっけかな、とぼんやり思いながら、躓いた拍子に脱げてしまった右足のパンプスを、闇の中、しゃがみ込んで手を伸ばし探ろうとした。
「……なに、これ? 」
指先が、街路樹でもなく歩道タイルでもない、布地らしきものに覆われた、硬い”なにか”に当たったのだ。
刹那、目の前の通りを走る車のヘッドライトが闇だった周囲を照らした。
「! 」
今見えたのは、人ではなかったか?
涼子は震える膝を励まして、漸く立ち上がり、恐る恐るその”なにか”へ近付いてみた。
「人だわ! 人が倒れてる! 」
酔っ払いか? 浮浪者か?
そんな筈はない。
この辺り、国連本部ビルを中心とした半径3kmは、重要拠点攻撃緩衝地帯として緑地化されている上、ニューヨーク市警とUNDASN陸上総群109師団により関係者以外は厳重に立ち入りを制限されているのだ。
「誰か、呼ばないと! 」
涼子はたった数メートルを何度も転びながら、這う様にして職員通用口に辿り着いた。
「だ、誰かっ! 」
通用口の金属探知ゲート脇にある警備員控え室には誰の姿もない。
大きな宴会が終わった直後だ、普段は二人以上詰めている警備員も、ひょっとしたら正面エントランスへ応援に回ったのかもしれない。
通路の向こうにも、人影は見えない。
已む無く涼子は、非常事態通知ボタンのカバーを拳で割って押下しておき、壁に架けてあった懐中電灯を手に取って、ポプラ木立へ、今度はゆっくりと、恐る恐るといった足取りで一人戻る。
「きゃっ! 」
遠くから照らして、一目で判った。
ポプラの木の根元に、誰かが倒れていて、その周囲には水溜りのような何かが、広がっている。
「だ、大丈夫ですかっ? 」
涼子は駆け寄り、跪いて倒れていた男を抱き起こした。
倒れていた男の顔を懐中電灯で照らすと、顔見知りの国連本部警備員、ダゲフという名の愛想の良い黒人男性だった。
「ダゲフさんっ! 」
胸から、抜けば刃渡り20cmはあろうと思われる登山ナイフの柄が生えている。
心臓を一突き。恐らく、即死だったろう。
「誰が……、こんな、惨い……」
地面に広がる白い零種のスカートの裾が、真っ赤に染まっていくのにも構わず、涼子は死体を抱き締めた。
涙が溢れて仕方なかった。
もう、嫌だ。
眼の前で、誰かが死んじゃうのは、もう嫌だよ。
「泣いている……、場合じゃ、ないわ」
漸く顔を上げ、袖で涙を横殴りに拭い、誰か助けを呼ぼうと道路に視線を向けた途端、ニューヨーク市警のパトカーに先導された黒塗りのリンカーンが目の前を通り過ぎた。
「お、おーいっ! ま、待っ……」
脳裏を嫌な予感が過った。
涼子の呼びかけに気付くことなく通り過ぎた車列の行く先には、国連ビル正面エントランスホールの車寄せがあるだけだ。
現在の時刻を考えても、あの車列はVIPを迎える為のもの。
嫌な予感に後押しされて、慌ててダゲフの右腰を探る。
「……ない」
腰のホルスターに銃がない。
”この時刻に迎えがやってくるVIP……、さっきのリンカーンの”
バンパーに掲げられた旗は、ライオンを象ったイブーキ王国の国旗ではなかったか?
たちまち、涼子の脳裏に、イブーキ王国に纏わる情報が浮かび上がった。
彼の国に、次期王座を巡る小さな内紛が燻っている事を、いつか新聞で読んだ。
”確か、現国王の弟の長男を担いでる一派とマヤ殿下サイドとの間で”
そこで涼子は、マヤの死んだ母親が、オーストリア人と日本人のハーフだった事を思い出した。
反マヤ派は、ハプスブルクの血を引く
”それで、マヤ殿下はゲルマン系には珍しく、黒髪で瞳も黒いのか……”
およそテロとは関係のない、暢気な事を考えながら涼子はダゲフの顔にそっと触れる。
「まだ温かい」
涼子は男の身体をそっと地面に横たえて、立ち上がった。
「ごめんなさい、ダゲフさん。寒いだろうけど、もう少しここで待っていてね? 」
未だとまらない涙を掌で拭いながら、涼子は車列が去った方向を睨む。
この道を川沿いに50mも回り込めば、本部ビル正面エントランス、50段の大階段を下がったところには車寄せがある。
国家首脳級の来賓の送迎は、専らこの入り口か、イースト川に張り出し、地下駐車場から通路で抜けられる専用VTOL発着場のどちらかで行われるのが慣例である。
涼子は急いで脳内の記憶フォルダ~今次国連総会に関係する国家情報と言う名の~を検索した。
確か、マヤ殿下は現在コロンビア大学に留学中、住まいはニューヨーク領事館ではなかったか?
となると、VTOLでの送迎はないだろう。
とにかく、緊急連絡。
マヤ姫は今次総会でメッセージを読み上げた、主賓。
となれば、その見送りには国連事務総長も立ち会う筈。
国連事務総長は、同時にUNDASN最高指揮官でもある、と言う事は、UNDASN政務局警務部のSPが常に警護で張り付いている。
「携帯端末で連絡」
しまった。
腰に手を回し、歯噛みする。
今夜の服装は、パーティドレスにも似た~全然、可愛らしくないのが気に食わなかったけれど~零種軍装、無骨な装備品を、いやそれどころか財布すら忍ばせるような収納機能はついていない。
せいぜいが個人所有の携帯電話くらいだけれど、いくら同僚とはいえ、SP一人一人の携帯番号など登録されている筈もない。
「くっ! 」
そうすると次善の策。
正面エントランスホールへ駆け付けて、マヤ姫や関係者に注意を喚起すべきだ。
ついさっき警備員詰め所で鳴らした非常警報は確実にこの本部ビル常時警備の任に就いている警備員やニューヨーク市警の警官達には伝わっただろう、彼等はこの通用口へまもなく駆けつけるだろう。
正面エントランスの警備担当は持ち場を離れはしないだろうが、下手をすればこれから事件が起きる可能性が高いエントランスから員数が割かれてしまい、却って警備が手薄になりかねない。
結局、国連事務総長警護に当たっているUNDASNのSPになんとか危機を知らせに行くしかない。
けれど。
大声で騒ぎ立てる訳にはいかない。
事がばれたとなると、最悪犯人はヤケになり銃を乱射するという事態にもなりかねないだろう。
涼子は懐中電灯で足元を照らし、血溜まりに浮かんでいた右足のパンプスをそっと履き直し、裾を左手で取って正面エントランスへ向かって駆け出した。
血に塗れた両脚は、さっきまでは火傷しそうなくらい熱かったのに、駆け出した途端、11月のニューヨークの風が刺すように冷たくて、思うようなスピードで走れなかった。
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