第25話 6-4.
お手洗いを出て会場に戻る途中、マヤをエスコートしてくれていた涼子が、小声で話しかけてきた。
「あの、殿下? お尋ねしたいことが、ひとつ……」
「なんです? 涼子様? 」
「何故、私の名前と、階級を? 」
「ああ! マクドナルド閣下からお聞きいたしました。閣下は涼子様を大変御気に入りなご様子でしたわ。なんでもUNへ出向させたいとか交渉中だとのお話で」
「そうでしたか」
そして、小声でブツブツ呟いた。
「あー、そう言えばまた、閣下から出向の申し出があったって部長、言ってたなぁ……。ヤダって何回もお断り差し上げてるのに、もう……」
マヤは涼子の愚痴を聞いて、思わず吹き出しそうになったが、刹那、聞き慣れた声がロビーに響いて、思わず肩を竦めてしまった。
「姫……! おお、姫! ご心配申し上げておりましたぞ! 」
侍従長が心配そうな表情でこちらを見ていた。
「あれ、私のじいです。うるさくって……」
小声で涼子にそう言って、ぺろっと舌を出して見せた。
涼子も、それにウインクで応え、小声で言った。
「あれくらいのオッサンはうるさいものでございますわ。でも、あの方は殿下の事を本当の孫の様に思っておいでのようにお見受けいたしましたが」
ああ、やはりこの方は、優しい視線で周囲の人々を見ることが出来る方なのだ。
「……ええ、その点は、本当に感謝しております」
侍従長は、マヤの前に小走りで近付き、言った。
「姫、お身体の具合でも? 大丈夫ですか? 」
マヤは、チラ、と涼子を見て、侍従長に力強く言った。
「ええ、大丈夫です! ……頑張りますわ、私の
侍従長は、普段のマヤの言葉とは思えない発言に驚いた様子だったが、やがて満足そうに頷いた後、マヤの背後で控えている涼子に視線を飛ばした。
「……ところで姫、こちらのご婦人は? 」
マヤが、私の友人です、と応えようとして、涼子の方を見た、その刹那。
マヤの言葉より一瞬早く、涼子はその礼服に似合わぬ、直立不動の姿勢をとり、カンッと踵の音を立てて合わせて、眼の醒めるような鮮やかな敬礼を決め、声を張った。
「申し遅れました、国際連合防衛機構地球防衛軍宇宙艦隊、統合幕僚本部政務局国際連合部所属、国連本部駐在首席武官の石動涼子一等艦佐です! 殿下が道に迷われたご様子でしたので、失礼とは存じながら、自分がここまでご案内させて頂きました! お連れするのが遅くなり、申し訳ありません! 」
マヤは、宴の後にこの『口煩いじい』に怒られない様にと、涼子が機転を利かせて堅苦しい挨拶をわざとして見せたのだ、と瞬時に理解した。
嬉しかった。
そして、その凛々しい軍人らしい姿に、改めて涼子こそ自分が求めていた騎士なのだ、そんな想いがますます募っていくのを知る。
侍従長は、見事に涼子の作戦に乗せられたようで、一瞬口篭った後、渋々といった表情で、重々しい口調で言った。
「ん……。ああ、御苦労でしたな、大佐殿。感謝いたしますぞ」
そして、マヤに向き直り、小声で言った。
「……さ、姫。お早く。後半のダンスタイムが始まっております故」
涼子を後に残し、侍従長の先導でホールに入る直前、マヤはもう一度涼子を振り返った。
涼子は未だ敬礼の姿勢を続けたままだったが、マヤと視線が合った途端、舌をべーっと出し、マヤに悪戯っぽいウインクを送ってみせた。
マヤはそんなお茶目な涼子の姿を見て、また、ぶっ倒れそうになるくらい、参ってしまった。
「ふわぁ、お腹いっぱい! 」
メインディッシュのステーキが配膳され始めた直後に、オフィスからの連絡で呼び戻され、UNDAとUNの意見を取り纏め、関係各国首脳にホットラインを繋いでフランス以外をどうやら納得させた。
続いて、なんでそんな事になったのかは判らなかったが、思春期を拗らせたのか他になにか悩みでもあるのか、何処となく情緒不安定そうな、でも抱き締めたくなるほど可愛らしいプリンセスの面倒を見る羽目になった。
それも何とか片付けて、首を捻りつつも漸く席に戻った頃にはステーキはすっかり冷めて、まるで古タイヤのような頑固者に成り果てていたが、それでも空腹には勝てない。
バターと握り拳大のジャガイモをお供にペロリと200gを平らげて、続くデザートのケーキとコーヒーも腹に収めたところで、涼子は漸く人心地がついた。
「なんだ石動貴様、行儀の悪い」
隣の席の上官、国連部長のヨッフム三等陸将が苦笑いを浮かべている。
「だって部長、食べ物を粗末にしちゃ、勿体無いお化けに怒られちゃうもの」
向かい側に座る、国連1課長、パク・ヨンサム一等空佐がからかうような口調で割り込む。
「なんだそりゃ、どこの
真っ赤な顔をしているところを見ると、彼は大好きなビールをしこたま飲んでご機嫌なようだ。
途端に、喉に渇きを覚えた。
アメリカのケーキはどれもこれも甘すぎるから、と涼子は自分に言い訳をして、瓶に残ったビールを空いたグラスに注ぐ。
「まだ飲むのか? 満腹だと言っとったじゃないか」
パクの隣席、国連2課長のギミック一等艦佐が、呆れたような声を上げた。
「いいじゃないですかぁ。女はねぇ、お酒と甘いものは別腹なの! 」
涼子がそう言ってグラスを一気に空け、続いて手酌でビールを注いだところで、パクの訝しげな声が響いた。
「ん? そろそろお開きじゃないのか? なんか、余興でもあるのかな? 」
声に釣られて正面舞台に視線をやると、件の『可愛らしいプリンセス』がオーケストラの指揮者になにやら耳打ちをしている。
「なんでしょうねぇ。アルコールかしら? 」
「アンコールだろう」
ヨッフムの突っ込みが決まった次の瞬間、涼子の脳裏を嫌な予感が過った。
「まさか……」
マヤが、指揮者から離れて、そのまま席に戻らず、真っ直ぐ歩き始めたのだ。
優雅な足取りだが、しかし、そこに強烈な意思を感じ、涼子はますます、さっき感じた予感が強くなるのを感じる。
マヤは、確かに真っ直ぐ、こちらへ近付いてくる。
「さっき、私のテーブルを聞いたのは……」
暫くしてマヤの表情がはっきりと判別できる距離になった時、涼子は思わず天を仰いだ。
「まさか、あの娘……! 」
今や、会場内の全員は、沈黙のままマヤの行動を注視している。
上品で優雅な微笑を絶やさず、そして愛くるしい瞳は、ある決意を秘めてキラキラと輝いていて。
そして、その視線は、涼子だけを見ていた。
「こ、このテーブルじゃないのか? 」
「ト、トイレかも」
「馬鹿! んな訳あるかっ! 」
半ばパニックに陥りかけている同僚達の声を耳にして、涼子は遂に諦めた。
「お、おいっ? 石動っ? 」
ヨッフムに答えず、涼子は席を立ち、マヤに向き直った。
背後で同僚達が起立し、キヲツケの姿勢を取る気配がした。
「あー……、えと、殿下……? どう、なさいました……」
緊張しているとはっきり判る涼子の声を聞き、マヤはチラ、と申し訳ないな、と思った。
同じテーブルにいた男性達~多分、上官や同僚達だろう~も固唾を飲んで成り行きを見つめている。
それでもマヤは、自分でも驚くほど、はっきりとした口調で、言った。
「石動一等艦佐。たいへん不躾ではございますが、ラストダンスをお相手願えませんこと? 」
マヤは、言い終わった次の瞬間、顔に昇った血が、一気に足元へ落ちていく音を、確かに聞いた。
涼子は、一瞬、その大きな黒い瞳を閉じ、微かに俯いて唇をぎゅっと噛み締めたが、すぐに顔を上げ、瞳を開いて微笑んだ。
そして、さっき侍従長に返したよりも更に鮮やかな敬礼をマヤにおくり、凛とした声で応えた。
「光栄です、喜んでお相手させて頂きます! 」
そう言って、涼子がマヤに手を差し出してきた。
信じられなかった。
夢を見ているのかも、とも思った。
夢か現実か、確かめたい、とも思った。
だから、マヤは震える手を伸ばし、涼子に預けた。
指先を握られた瞬間、脊髄を電流が走るような、それでいて甘美な感覚に囚われた。
涼子のたおやかな手を、自分は確かに握っているのに、それが夢か現実か、未だに判らない。
と、打合せ通りに、オーケストラが『青く美しきドナウ』を演奏し始める。
冒頭のゆったりとしたメインテーマをBGMに、涼子は優しげな微笑を浮かべたまま、手を取って、マヤを会場中央へ導いてくれた。
判らなくたって、夢であろうが現実であろうが、どっちだっていいじゃない。
だって、こんなにも幸せなんだもの。
会場にいた全員が贈ってくれている割れんばかりの拍手が、どこか遥か遠くで鳴り響く雷鳴のように思えて、不思議だった。
刹那、マヤの意識は涼子の声で現実へ~もしくは、元の夢の世界へ~と引き戻された。
「いざ、殿下」
いつの間にか、ホール中央に二人立っていた。同時に、導入部を終えてテンポが上がり、独特なウィンナ・ワルツの三拍子をオーケストラが奏で始めた。
自然と、脚がステップを踏む。
涼子の脚も、すこしぎこちなかったけれど、それでもステップを踏み始める。
立ち返った現実は、もしくは夢の世界は、けれど今まで見たどの夢よりも、甘く、優しい夢の世界だった。
これまで誰にも話した事はないが、涼子は幹部学校時代に、半年間だけ社交ダンスクラブに友人に誘われて在籍していた事がある。
涼子が男性恐怖症気味だと知ったクラスメイトが勧めてくれて、三日三晩悩みに悩み抜き、一大決心の末、入部したのだ。
すっかり忘れているだろうと思っていたステップを身体が覚えていた事に、一番驚いたのはしかし涼子本人だった。
チラ、とマヤの顔を見ると、申し込みに来たときの血の気の失せた白い顔とは打って変わって、今は頬にほんのりと朱を差している。
どうやら自分は、知らぬうちにこの可愛いプリンセスの心のツボを突いてしまったようだ~涼子にとっては、地雷、だった訳だが~。
うかつと言えばうかつだったが、それでも目の前のマヤの表情を見て、涼子は、正直、嬉しかった。
”それに、『プリンセス・マヤ』ではない、『17歳の女子大生マヤ』の苦しみを知ってしまったんだもの、ね”
涼子自身、そんな趣味などないものの、思春期の女の子の夢と憧れくらいは理解できる。
だってそれは、自分が同じ年頃の時、手に入れようとして遂に手に入れられなかったのだから。
同情ではなく、生身の人間としての弱みを見せつけられて、それでも相手を突き放せる程クールではなかった自分を、少しだけ誉めてやりたくなった。
今夜は、この子の『星の王子様』に徹してあげる。
涼子はマヤの、緊張で今にも倒れそうな様子のプロポーズに、一瞬のうちに決めたのだった。
だから、婦人としてのカーテシーではなく、軍人としての敬礼でもって応えたし~本来、女性の零種軍装着用時の敬礼は脱帽敬礼なのだ~、今も男性パートを必死に思い出しながら、勤めている~既に10回、自分の足を踏んでしまったが~。
『ドナウ』が、エンディング前のテンポが緩やかになる部分。
マヤがその細い手を涼子の美しい首に巻きつかせ、その美しい肢体を思い切り良くぐんと後に反らすのを左手一本で支える。
顔で笑って心で泣いて、涼子は痺れて千切れそうになる腕の筋肉を必死で励ましつつ、殆ど根性だけで彼女の体重を支えていたのだった。
『青く美しきドナウ』。
ヨハン・シュトラウスⅡ世の、10分を超える大作である。
軍人とは言え、涼子は決して力が強い訳ではない。どちらかといえば、UNDASN中でも非力な方である。
いや、一般人と較べても、たぶん『非力で運動音痴』な部類に入るだろうと、自分で素直に思える。
10分以上踊り続けて、いくらマヤがスレンダーだとは言え、この態勢はキく。
”手……、千切れちゃう! ”
そう思った瞬間、マヤが身体を自ら起こし、もう一方の手も涼子の首に回して、お互いに抱き合う態勢になった。
”た、助かった! ”
そう思ったのも束の間。
マヤはその可愛らしい唇を涼子の耳に近づけ、そっと囁いた。
「涼子様とラストダンスをご一緒して頂けるなんて……。マヤは幸せです」
その17歳の娘にしては異様に色っぽい囁きに、思わず涼子はマヤの顔をみつめてしまう。
するとマヤは、蕩けるような、熱い、湿度の高い視線で、涼子をみつめかえした。
”や、やだ! な、なに、この娘? ”
涼子が、思わず顔を赤らめた途端、曲調はラストのアッチェルランドにかかり、みるみるテンポが早くなり始めた。
”あ、脚が! も、もつれるぅ! ”
いつ転んでも可笑しくないな。
そう、チラリと考えた途端、音楽が消えているに初めて気付いた。
知らないうちに、二人、ポーズを決めていた。
一拍おいて巻き起こった嵐のような大喝采で、涼子は初めて、マヤの脚を踏み付けることなく、踊り切ることが出来たのを知った。
涼子はマヤと、お互い顔を見合わせ、同時にニコッと微笑を交す。
マヤの足を踏まずに踊りきる事が出来た安堵感からの微笑みを浮かべた涼子だったが、マヤの微笑みはまた違う感情から沸き起こったのだろう、それはマヤの煌く瞳を見ていると自然と理解できた。
そして、お互いほぼ同時に、自分達に贈られる拍手と歓声が未だ続いている事に気付き、二人取り合ったままの手を上げて、歓声に応えた。
冷たいビールに、一秒でも早くありつきたかった。
この際、コクもキレもないアメリカン・ビールでも文句は言わない。
「いや、今夜は最後の最後で、たいへん素敵なパフォーマンスを見ることが出来ました。たいへんお似合いの、可愛いペアでしたな」
席に戻るとマクドナルドが立ち上がり拍手をしながら笑顔で言ってくれた言葉に、マヤは頬を赤らめる。
まるで学芸会での孫の演技を褒め千切るような賛辞の言葉に、普段のマヤなら内心舌を出したであろうが、今夜は心の底からその言葉を嬉しいと思うことが出来た。
「ありがとうございます、事務総長閣下。拙いステップでお恥ずかしい限りですわ。でも、楽しゅうございました」
マヤに椅子を勧めながら、マクドナルドはうんうんと頷きながら、独り言のように言った。
「首席駐在武官の方は時々ヒヤリとするような危うさも見て取れましたが、それでも彼女にとって今宵の殿下とのダンスは、良い思い出になりましたでしょう」
何気ないその言葉が耳に届いた瞬間、思わずマヤは、その場で立ち尽くす。
マクドナルドの言葉が胸に突き刺さったから。
『良い思い出になるだろう』
それは、なにか?
涼子にとって、自分とのダンスは、偶々袖が触れ合うような微かな縁から降って湧いたような『僥倖』で、このマヤにとっては夢のような出来事も、近い将来には色褪せて『ああ、あんな事もあったな』と時折思い出す程度のことになるだろう、そう言いたいのか?
そうなのだろう。
いや、確かに涼子にとっては、まさしくこれはそう言う類のことなのだろう。
それでは自分は?
自分はそれで仕方ない、とこれまでのように溜息ひとつ零すだけで済ませられるのか?
これまで通り、これも運命だ、あれは一夜の夢だと諦めて、良い夢を見たと、素敵な思い出だわと温かい幸せ未満の欠片を抱いて、その後は再び閉塞感に包まれながら生きて往くつもりなのか?
嫌だ。
それは、嫌。
運命に抗うとか、自分を取り巻く環境や周囲の状況、それを強いる周囲の皆に逆らうとか、そんな大それた話じゃない。
ただ、今そこにある『些細な夢を一歩、現実の幸せへと近付ける』チャンスを、手に取るかどうか、それだけの話なのだ。
そして自分は、その夢を現実の幸せに昇華させたいと願っている。
機会がそこにあり、自分はその実現を心の底から希んでいて、しかも自分にはそれを掴む為の手も足も考える頭脳もあって、しかも熱い想いがある。
そして、貴方は自分の眼で見て手で触って足で歩み寄って、それを感じる心があって、どうすべきかを考える脳があるのよと、優しく説いてくれたのは、誰あろう。
「涼子様、貴女ですのよ? 」
よし、判った。
マヤは素早く席に着き、テーブルクロスの下、両の拳を握り締める。
私は、今宵を、今宵限りにするつもりなんかサラサラない。
私は、今宵を綺麗な思い出のまま凍結させて、一生胸に抱いて歩いて往くつもりなんか、ないのだ。
私が歩いて往くべきは。
「まずは、1ヶ月先に迫った、クリスマス」
天にまします我らの父には怒られるかも知れないけれど、事実上その日は、恋人達の一大イベントの日じゃないか。
ターゲットは決まった。
後は、自分で考え、動き、涼子目掛けて歩き出すだけなのだ。
聖なる夜には、このビッグ・アップル・シティに白い雪が舞い、涼子と自分二人を包みこんでくれれば良い。
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