第24話 6-3.


 いつの間にか4曲目が終わり、5曲目の「スケーターズ・ワルツ」をUNDA事務局長と踊りながらも、マヤの心は石動涼子という女性一色に染め上げられていた。

”なんて素敵な方なんだろう! まるでヴィーナスの化身の様な完璧な美しさ、それに上品で優雅な身のこなし、加えて、勇士と呼ばれるくらいの力強さまで併せ持っていらっしゃる”

 でも、とマヤは自問する。

”ちょっと、完璧すぎて、近寄りがたいって感じもするのよねぇ。……どうかな? 例えば私と、お付き合いして頂けるものなのかしら? ”

 少し飛躍しすぎかも知れない、とマヤは頬を染める。

 同じテーブルに座るUNDA事務局長が不審そうに眉根を寄せたのを見て、マヤは慌てて営業用の笑顔を貼り付ける。

 そう、お付き合いなんてそんな大それた事など望まない。

 お友達でもいいわ、無理なら、二人きりでお話だけでもしたい。

 いえ、それが無理なら、せめて。

 せめて、もう一度。

 あの、甘い声で、自分の名前を呼んでほしい。

 心臓を鷲掴みするような、甘美な衝撃を、せめて、もう一度。

 5曲目が終わり、席に戻る振りをして会場を見渡す。

 会場エントランスの近く、末席の辺りに、UNDASNの礼装を着た集団の座るテーブルをみつけた。

 今夜のパーティが、ミクニー戦役継続遂行の広告塔になったマヤが主賓と言う事で、UNDASNも招待されているのだろう。

 けれど、そのテーブルに涼子の姿はない。

 彼女はエントランスから出て行ったきり、未だ戻ってきてはいなかった。

 ひょっとして、もう戻らないのかもしれない。

 折角の出逢いを、このまま終わらせたくはなかった。

 その想いが、マヤを行動に移らせた。

「皆様、少しの間、失礼いたします」

 マヤは自席へは座らず同席のメンバーにそう挨拶をして、テーブルの間を縫ってエントランスへと移動した。

 視界の隅に、侍従長が心配そうに見つめているのが見て取れたが、来賓が大勢いる中では、なかなか制止できないだろう。

 エントランスからロビーへ出ると、入り口の警備員や国連職員が驚いた様子で一斉に近付いてきたが、マヤは得意の『王室スマイル』を武器に皆を制止し、ラバトリの方を指差す。

 全員、目礼して引き下がってくれた。

 マヤはお手洗いに行く途中を、出来るだけゆっくりと歩き、柱と柱の間にセッティングされたウェイティング用のソファに視線を飛ばし、涼子の姿を探す。

 だが、数人が携帯電話で小声で喋っている以外、彼女の姿はどこにも見当たらなかった。

 涼子が、何処へ立ち去ったのかは判らない。

 事務総長はUNDAに関する緊急用件だったと言っていた。ひょっとすると中座してオフィス~それがこのビルのどこにあるのかマヤには判らなかった~へ戻ったのかもしれない。

”まさか、もう、会場へは戻ってらっしゃらないのかしら? ”

 そう考えた途端、自分でも驚くほど涙が次から次へと頬へ溢れ出してきた。

 マヤは、誰かに見られないうちにと、慌ててハンカチで目頭を押さえながら、もう目前まで近付いていた女性用トイレに駆け込もうとした。

 その刹那。

 聞き覚えのある女性の声が、トイレの中から聞こえてくるのに気付いた。

「涼子様の声! 」

 さっき一度聞いただけなのに、何故か懐かしく、心地良さを感じさせる、魅力的なメゾ・ソプラノ。

 ロビーから姿が見えぬように、そして中にいるらしい涼子からも見つからぬように、入り口の大理石の柱の影に身を潜ませて、眼を閉じ、耳を澄ます。

 洩れ聞こえる会話で、涼子がロシア語を話しているのが判った。

 携帯電話のようだ。

 マヤは帝王学の一環として、自国語であるドイツ語以外に、英会話、フランス語会話を習っている。

 が、ロシア語は不得手だった。

 だが、判らぬなりにも、その会話の中に現ロシア共和国大統領の名前が何回か出てくるのを聞き取る事ができた。

 それだけでもう、マヤは舞い上がってしまった。

”素敵! 涼子様、外交官のようだわ! ”

 後で知った事だが、軍人といえどもその時の涼子の配置、任務はまさしく外交官としてのそれだったのだが、その時は、またひとつ涼子の魅力的なスキルに触れたように思えた。そんな些細なことが、嬉しくて仕方なかった。

 大理石の柱に凭れ、興奮で高鳴る胸の動悸を必死で抑えようとして抑え切れず、それでも一言一句聞き逃すまいと涼子の声を聞いていたが、暫くするとピ、と電子音が鳴り、声が途絶えた。

”やばっ! 電話終わっちゃった! どうしよう、こんなとこに立ってたらヘンに思われちゃう! ”

 王族らしからぬ俗語~大学の友人達の口癖だ~を使って慌てるうちに、再びピピピとキータッチ音が聞こえてきた。

 どうも再び携帯電話をかけようとしているらしいと判って、胸を撫で下ろす。

 暫くすると、今度は涼子がイタリア語で話しはじめる。

 今度は、マヤも面識のある、イタリアのEU代表と話をしているようだ。

 その会話の途中、再び電子音。キャッチホンがブレイクしたようで、涼子は今度はオランダ語で話しはじめる。

 オランダ語会話は1分足らずのうちに終わり、イタリア語に戻って、それが終わるとまたキータッチの電子音、今度はフランス語。

 今度はマヤにも判る言葉だ。

”す、すごい……! 一体何ヶ国語話せるのかしら? ”

 涼子はマヤに聞かれているとは知らず、会話を続けている。

「……ですから、オラボー長官。……ええ、しかし。……は、勿論統幕本部長も事務総長と同じ意見です。……はい。……はい。……ああ、その借款の件でしたら、7月の事務レベル協議で交わしたプロトコールの通り」

 どうやら、何かのUNDASNの施設設置の件とその資金援助の件で、緊急の交渉をしている様だ。

 それがどんな難易度の交渉なのか、UNDASN、UNにとってどれほどの重要度と緊急度を持った交渉なのか、そして涼子はそれにどのような役割を持って関わっているのか? 

 何もかも、判らないことだらけだった。

 判らないことだらけだったが、今のマヤには、涼子の声が、心の底に溜まった澱を洗い流す福音のように思えたのだ。

 眼を瞑り、今はただ、その甘美な音楽にも似た涼子の声を、いつまでも、いつまでも聞いていたかった。

 暫くしてマヤは、会話の合間合間に、小さく『コン、コン、コン』と何かを叩くような音がさっきから混じっているのに気付いた。

”何の音かしら? ”

 マヤは、涼子の姿を見たいという思いと、その音の正体を探りたいという思いを抑え切れずに、遂に決心して、柱の影からそっと、中を覗き見ることにした。

 清掃の行き届いた、明るく広く清潔な国連本部ビルのトイレは壁から床から手洗い台まですべて、イタリア白大理石製である。

 全てが、ゆったりと、広々と作られている。

 洗面台も、ひとつひとつのシンクの間がゆったりと取られ、5つある手洗い台の広さは、普通のホテル等だったら、9つは手洗い台を設置するだろう、というぐらいのものだ。

 涼子は、その大理石の手洗い台の『上』にいた。

 見違いではない。まぎれもなく、『上』である。

 トイレの落ち着いた間接照明が、たくしあげたロングスカートの裾から見える健康的な太腿と、なめらかな曲線を描き出している脹脛を、まるで夢の様に輝かせていた。

 涼子は、一番奥のシンクと壁の間のスペースに、鏡を背にして、長いスカートをヒザまで手繰り上げて、胡座をかいて座っていたのだ。

 普段のマヤならばなんとお行儀の悪い、と眉を顰めたであろう涼子のその態度は、しかし、途轍もなく可愛らしく、自由奔放に振舞って常識の鎖に雁字搦めになっている人間をからかう、伝説や童話に出てくる悪戯好きの、だけど愛らしくて憎めない妖精のようにも思えた。

 その姿が思い出になりつつある今日思い返してさえ、それが惚れた弱みであるとはマヤは思わない。

 幼さと優雅さと美しさが絶妙のバランスで織り成す、芸術品のごとき、涼子の魅力が具現化した姿なのだ、と思っている。

 その夜の涼子は、とても”勇士”だとは思えない、儚ささえ感じさせる、細く美しい首と薄い肩の間に携帯電話をはさみ、フランス語で外交上の重要案件の交渉を続けていた。

 それと同時に、マヤは、『リズミカルに響く、謎の音』の正体も知った。

 涼子が首と肩で携帯電話を保持しながら、空いた両手で銀色のラメが鏤められたバックベルトのパンプスの、10cmはあるだろうピンヒールを大理石に打ちつけていたのだった。

 右手でパンプスを鷲掴みにし、コンコン、コンコン、とヒールを大理石に打ちつけ、時折もう一方の手で角度や向きを調整しながら、また、コンコン、コンコン、とやっている。

 涼子のそのアンバランスな姿は、シュールと言えばシュールだが、それでも、マヤには途轍もなく美しい、まるで一幅の名画のようにさえ見えた。

 マヤは一瞬唖然とし、そして暫し陶然として涼子の姿を見ていたが、やがて、自分の目の前にある”風景”が、現実のものか夢なのか、一瞬判らなくなってしまい、思わず眩暈を覚える。

 刹那、身体中から力が抜けて、不覚にもヨロッと一歩踏み出してしまった。

 踏み出した僅か一歩は、しかし致命的に高い音をトイレ内に響かせた。

 涼子が、会話を続けながら、驚いた表情で顔を上げた。

 咄嗟の事で動けずに、そして何者かに操られているかのように剥がせない視線が、涼子の黒い、そして銀河を詰め込んだように煌く瞳に捉えられた。

”みつかった……”

 何故か、嬉しく思えた。

 そうするうちにも涼子の瞳はみるみる大きく開かれて、やがて、フランス語の言葉は途切れた。

 マヤも勿論、1ミリたりとも動けない。

 2人は、みつめ合ったまま、完全に凝固してしまっていた。

 5分以上もそうしていたように感じられるが、実際は1秒にも満たないのかも知れない。

 最初に動いたのは、涼子だった。

 但し、口だけ。

「失礼いたしました、オラボー長官。この件につきましては、私共で再度協議の上、改めましてお電話差し上げます。……はい。……はい、それでは……。はい、失礼いたします」

 携帯電話を切った涼子は、震える声で、しかしドイツ語の発音はやっぱりネイティヴのように正確に、言った。

「マヤ殿下? ……な、何故、かようなところに」

 そこで涼子は驚いたような表情をして口を噤んだ。

 白磁のような肌理細やかな白い頬に朱を挿して、右手に掴んでいたパンプスを慌てて背中に隠した。

「何故」

 再開された言葉は、すぐにまた中断した。

 涼子はトス、と手洗い台から飛び降りて、スカートの裾を整え、わざとらしくコホンと咳払いをしてから、漸く、唇が三度開いた。

「し……、失礼いたしました。とんでもないところをお目にかけてしまいまして……」

 恥ずかしさと思いがけない事態で動転してしまっているのか、涼子は両手を前で組み、女子高生の様に、もじもじしている。

 そして、その手には一旦は背中に隠したパンプスが、未だに握られている。

 まるで、魔法が解けたみたいだった。

 違う。

 想像とは、ことごとく違う。

 楽しい。

 このひと、エリートだとか、勇士だとか、そんなこと関係ないくらいに、可愛らしくて、楽しい。

 一気に身体中から力が抜けて、堪え切れず笑い出してしまった。

「うふ! うふふふふ! あは、あはははは! 」

 マヤに釣られたのか、それとも照れ隠しか、ひょっとして助かったとでも思ったのだろうか。

 涼子も声を上げて笑った。

「えへ。えへへへ! あはははは! 」

 国連本部の女性用トイレで、二人笑いあっている事実が不思議で、けれど楽しくて、マヤは笑い続けた。

 大学で友人達とお喋りしている時でさえ、こんなに笑ったことはなかったかも知れない。

 ひとしきり二人で笑い合った後、マヤは涼子に声をかけた。

「さ。そろそろ、お靴をお履きになってはいかがですか? 石動一佐」

 思った以上に、気軽に話しかけることが出来て、マヤは内心驚いていた。

 涼子はマヤに言われて、折角元に戻りかけた顔色を再び朱に染め、慌ててパンプスを履く。

 案外、ドジっ娘なのかも知れない、履いた瞬間、涼子はバランスを崩して足首を捻り、よろけながら「イタッ! 」と声を上げた。

 それを見てマヤは、今度は堪えることさえせず、笑う。

 笑い終えて呼吸を整えながら、マヤはもう一度、改めて涼子を眺める。

 セミロングの美しい髪はどこまでも深い黒で、大きな瞳はまるで銀河を映したかのようにキラキラと輝いており、それでいて少し下がった目尻が、ともすればきつささえ感じさせる瞳の輝きを和らげ、優しげな雰囲気を醸し出させている。

 すらりと、均整のとれたボディはまるで神が創り給うたかと思える完璧さで周囲を圧倒し、見事に成熟した女性の輝きを放ちながらも、さっき目の当たりにした様な、ヒール修理の姿や、見つかった時の慌て振り、照れた表情、そして大輪の薔薇をも凌ぐ煌く笑顔は一瞬彼女を、マヤの大学の同級生達よりも遥かに幼く見せる、その不思議さが、外見以上に魅力的に思える。

 マヤは再び、日頃は疎遠な神に感謝を捧げる。

”ああ、こんな美しい……、いいえ、外見以上に素敵な魅力に溢れる女性を目の前に遣わせて下さるなんて! 神よ、感謝いたします! ”

「ああ、よかった……。ちゃんと、年相応に可愛らしく笑えるのね」

 涼子の、独り言だったのだろう、ぽつりと洩らした日本語の台詞、一瞬遠い何処かを彷徨っていたマヤの意識を現実世界に~まあ、そこはトイレなのだが~引き戻した。

 今は亡き愛する母の故郷の言葉だ、日常会話程度なら嗜むマヤに、涼子の洩らした独り言を聞き取ることなど容易い。

 だけど、判らなかった。

 意味が、ではない。何故、涼子がそんな優しげな表情で、自分が笑ったという事実に安心してくれたのか。

「あの……、それは、どういう意味ですの? 」

 マヤの問い掛けに、涼子はしまったとでも言いたげに口元を手で覆った。

「殿下……。あの、ええと、日本語を……? 」

 黙って頷くマヤを見て、涼子は暫く逡巡していたが、やがて諦めたようにおずおずと話し始めた。

「こんな事を申し上げては、誠に失礼かとは存じますが。ひょっとして、かなりお疲れなのではございませんか? 」

 虚を突かれて、マヤは弾かれたように口元を手で覆い、それでも涼子から視線を外さない。

 さっきまで銀河のように煌いていた彼女の瞳は、今は慈愛に満ちて潤んだように輝いていた。

「私のような庶民には所詮御理解申し上げる事が出来ない程の、御苦労がございますのでしょう? 」

 涼子の瞳と、継がれた言葉で、じっくりとその優しさが心に沁み込んできた。

 マヤは、今まで他人からその様な言葉をかけられた記憶がなかった。

 だから、最初、涼子の言っている言葉の意味が判らなかったのだと、気付いた。

 涼子は、答えを期待していないのか、マヤの返事を待たずに、再び言葉を継ぐ。

「殿下は、確かに慣れていらっしゃるのでしょうけど……、でも、この様な場は、お気遣いが大変だろうな、なんて……」

 マヤは洩れそうになる嗚咽を漸くのところで堪えて、掠れる声で問い返す。

「石動様は……、何故そうお思いになりますの……? 」

 涼子は少し恥ずかしそうな表情で、自分の足元とマヤの顔を交互に見ながら話し始めた。

「殿下、失礼ですが御歳、確か17歳でございましょう? 私が……、いえ、私の様な一般市民と比べては大変失礼なんですが……、私が17歳の時といえばまだまだ子供で、UNDASNの幹部学校の2号生徒……、ああ、2年生でした。未だ大した責任もなく、それは暢気でいられました頃ですわ。それに比べて殿下の大会議場でのステートメント発表のお姿や、パーティでのご様子を拝見しておりまして、私、なんだか心配になってしまいまして」

 涼子は一瞬、躊躇いを見せたが、すぐに微笑を浮かべて続きを言った。

「……それに、その差し出がましいのですが。歓談やダンスの合間にお見せになる、殿下の表情が……、なにやら、晴やかな様には、私には感じられませんでしたので、つい……」

 マヤは、手を口に押し当て嗚咽を堪えつつ、けれど堪え切れぬ想いは目尻に溜まり、後は溢れるのを待つばかりだった。

「だけど、今しがた殿下の可愛らしい、素敵な笑顔を拝見いたしまして、ああ、良かった、ほんの少しでも殿下のお心を晴れやかにするお手伝いができたかな、なんて……。それで、つい、嬉しくなってしまって……」

 そこまで聞いて、マヤはとうとう堪え切れずに、涙を一滴、零してしまう。

 そうなると、もう止められる筈もなく、とうとう、両手で顔を覆って声を上げて泣いてしまい、思わず涼子の胸に体当たりしてしまった。

”この方は……、今日初めてお会いしたこの方は、こんなにも私を見てくれていたんだ! ……こんなに優しいお言葉を頂けるなんて。これほど、私の事を判って下さっていたなんて! ”

 マヤはこれまで、儀礼的に会う外国の高官や、自国の閣僚官僚は勿論のこと、プライベートで親しい筈の学友達にもこれほどストレートに、胸に秘めた苦しみを言い当てられた事はなかった。

『なんと、お美しい』

『お目にかかれて光栄至極に存じます』

『殿下にはご機嫌麗しゅう』

『マヤ殿下、羨ましく存じます』

『マヤ殿下、素敵ですわ』

『マヤは言葉通りのお姫様育ちよね』

『ほんと、苦労知らずよね、マヤは』

『映画の世界みたいで素敵、憬れちゃう! 』

 それが当然なのだと、自分に言い聞かせてきた。

 所詮、住む世界が違うのだ。

 ついに私は誰とも交わる事なく生きていく。

 それしかない、と諦めていた。

 それが。

 これほど労わってくれる人が、ダイレクトに気持ちを伝えてくれる人が、そしてマヤもダイレクトにそれに応えられる人が。

 そんな人がまさか、目の前に現れるなんて。

「涼子様っ! 」

 突然抱きついてしまう、その上許可もなく名前で呼んでしまうという不躾な行為をしてしまった自分を、涼子は許してくれるだろうか? 

 一瞬、そんな不安が脳裏を過る。

 次の瞬間、まるでマヤが不安を感じたことを知っていたかのように、涼子の甘い声が耳を擽った。

「まあ、殿下。申し訳ございません、泣かせてしまいましたわね」

 そして涼子は、右手でマヤの黒髪を、左手でしゃくりあげるたびに大きく上下するマヤの背中を優しく撫でながら、囁くように語りかけた。

「さあ、殿下。どうぞ、私のような者で良ければ、存分にお泣き遊ばせ。泣くと……、それだけで、かなり気分が違いますもの、ね? 」

 マヤは泣きながら、思った。

”涼子様……。あなたでなければ……、マヤは、この様なはしたない事は致しません……。だから、もう少しこのままで……”

 5分ほども、そうしていただろうか。

 マヤの涙が収まりかけたと知った涼子は、優しく肩を抱いてマヤを胸からそっと離すと、内ポケットからハンカチを取り出し、差し出して言った。

「さ、殿下、涙をお拭きください。それに、お化粧も直しませんと……。これからまた、殿下の”デューティ”の時間ですもの、ね? 」

 マヤは、ようやく微笑むと、涼子に頷き返し、ポーチから化粧道具を出して、メークの補修にかかる。

 鏡の中で、涼子が控えている。

 どうやら、マヤと一緒にホールに戻ってくれるつもりらしい。

 マヤは、口紅を塗りながら、鏡に映る涼子の顔を、そっと覗き見た。

 その瞬間、素晴らしい閃きがマヤの脳裡に浮かんだ。

「あの、涼子様? 涼子様の会場でのお席は? 」

「は? ……エントランス近くの末席に侍らせて頂いておりますが。あの、なにか? 」

「いえ、少し聞いてみただけです。お気になさりませんよう」

 よし。

 実行に移そう。

 この素敵な、奇跡のような一夜を、このままで終わらせたくはない。

 公の場で、いつも人形にしか過ぎなかった自分が、初めて、自分の願い、自分の欲望を満たす為、自らの意思で動くのだ。

 涼子様、貴女にはご迷惑かも知れませんけど。

 マヤを動かしたのは、貴女なんですのよ? 

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