6.慕情
第22話 6-1.
ロンドン市内、ハイドパークを目の前にした、パークレイン沿いにあるホテル、ル・メリディアン・グロブナーハウス。
500年を超える歴史を誇る、五つ星の超高級ホテルであり、英国を訪れる国賓級の滞在宿泊施設のひとつだ。
今英国は、国王即位式典の為に訪れる各国首脳は170ヶ国以上に上り、グロブナーハウスを筆頭とする”英国国賓御用達”のホテルは先月下旬から全て超満員となっており、各国使節団も随員の半分以上は、他の安ホテルや自国の大使館、総領事館等に押し込まれている。
現に、このグロブナーハウスの正面玄関前のポールには、日本やスイス等8ヶ国の国旗が掲げられている。
その8本のポールのひとつに、東欧の小国、イブーキ王国建国以来の正当王室であるシュテルツェン王朝の紋章、ライオンを象った国旗が翻っていた。
世界でも残り少なくなった立憲君主国家であり、小国と雖も歴史上英国王室との関係も深く、この由緒あるグロブナーハウスでの使節団滞在の権利を、他の大国を差し置いて英国政府より融通させることに成功したようだった。
そのイブーキ王国使節の部屋、6階~イギリス風に言えば5階~のロイヤルスイートで、今夜、ちょっとした騒ぎが起こっていた。
「姫、許しませんぞ! こんな深夜に、お一人でお出かけなど! 」
姫、と呼ばれた美しい少女のスカートの裾をつかまんばかりに叫んでいる老人は、侍従長だった。
「大丈夫だって、じい! タクシー拾って、ちょっと行ってくるだけです! 」
彼女は、もうこのガンコジジイにはうんざり、と言った感じで、さっきから10回以上同じセリフを繰り返している。
「いいえ、いけません、許しません! 姫はお父上様のご名代として訪英中、言わば英国王室にとっても国賓の身でございます! これまでのような、例えばニューヨーク留学の時も、このじいはどれほど心配いたしましたことか。ましてや、今回は我がイブーキ王国の名誉を担った外遊だと言うのに」
”あーもうっ! じいの頑固者っ! ニューヨークに比べれば数十倍も安全じゃない、ロンドンなんか! ”
いい加減じれったくなった姫は、そのままベッドに飛びこんでわめいた。
「もー、わかった、わかりましたっ! じい、もうわかったからっ! 外出しません諦めます! だからもう出てって! 」
「姫、本当でしょうな? 」
侍従長はかなり疑わしげだ。どうやら姫には、過去何度もだまされてきているらしい。
「本当です! ちょっとじいを困らせてみたかっただけ! だからもう、出てって! 」
「しかし……」
姫はベッドから飛びおき、上品なスーツの上着をばっと脱ぎ捨てた。
「着替えるから出ていって、そう言ってるのっ! ……それとも、じい? そこで私の着替え、見る? 」
スカートのホックに手を掛け、台詞の後半はそれまでとは打って変わってセクシーな声~本人はそのつもりだが、侍従長には、叫びすぎて声が嗄れたようにしか聞こえなかった~で、姫は悪戯っぽく言った。
「わ、判りました、姫。……じいは退散いたします! 」
そそくさと次の間に引っ込み、ドアを閉める前にもう一度顔だけだして念押しした。
「じいは、控えの間で寝ずの番をいたしますからな! 抜け出そうとしても無駄ですぞ! 」
バタンと閉まってから、ドアに向かってアッカンべー! と舌を出していた彼女は、暫くしてニヤリ、とほくそえむ。
「ふふふ……、じい。甘いわね! 」
言いながら素早くスーツを脱ぎ捨て、じいには「下着が入ってるんだから、見ちゃダメ! 」と言って検査を逃れたカバンの中から、ハイネックセーターにジージャン、ジーパン、スニーカーを引っ張り出して~この手のカジュアル・ウェアを発見されれば、侍従長の警戒レベルが急上昇してしまうからだ~、大急ぎで着替え始めた。
部屋のアンティークな掛け時計を見ると、既に21時半を過ぎている。
「大変、急がなきゃ! さっきの話だとUNDASNの飛行機が着くのが、23時……。ヒースローまでタクシーで50分だから……」
夕食後、随員の外務省広報官が英国外務省辺りと電話で話しているのを偶然耳にして得た、貴重な情報だ。
”ラッキーだったわ。あの情報がなければ、夕方から深夜まで待ちぼうけだったもの”
それに夜更けの方が、彼女がこれから実行しようとしている計画には、都合が良い。
当初の彼女の計画では、ホテルとヒースローの往復2時間を含んで、午後3時から夕食の午後7時の4時間しか持ち時間がなかったのだから。
午後11時着ということは、障壁となる侍従長の”就寝時間帯”、いわば姫にとっての安全時間帯であり、しかも夕食後から明日の朝食まで、一挙に10時間にも制限時間が延びるのだ。
それに、周囲の人目を忍ぶという意味からも、ラッキーというわけである。
彼女は着替え終わると、ベッドの掛け布団をめくって、抱き枕を縦におき、枕の部分にウィグを被せて上から掛け布団を被せた。
「うーん、暗いと人が寝てる様に……、見えるよね? 」
兼ねて用意の懐中電灯を取りだし、軍手をはめて部屋の灯りを消す。
そして懐中電灯を頼りに、暖炉に器用に足を掛けて天井近くまでするすると登る。換気口の金網に手を掛けると、簡単に外れた。これも計画通りだ。
丁度小柄な人間一人が這って進める”通路”が口を開け、マヤは暗闇の中ほくそ笑む。
イブーキ王国の英国訪問時の定宿はグロブナーハウス、病身の父~今上陛下~の名代として何度もこのホテルの同じ部屋に宿泊したことのある彼女は、二度目の滞在時にこの換気口の螺子止めされた金網が、数度揺さぶればすぐに螺子が緩む事を発見、試しに換気ダクトを辿ってみると同じフロアのリネン室に通じている事が判明して、それ以来彼女はこの脱出ルートを”愛用”していたのだった。
勿論、東京警視庁と並んで優秀と言われる英国首都警察、所謂スコットランドヤードのことだ、国賓公賓滞在前には必ず入念な防犯検査を行うが、それは宿泊前に限っての事であり、国賓が宿泊してしまってからは、出入りの検査のみに重点が置かれることも調査済みである。
彼女は、特に今回の訪英での脱出計画の立案には、これ以上ないと言う程、念には念を入れたのだ。
一昨日チェックインした深夜、予め用意したドライバーや懐中電灯を使い、既にリネン室までの通路は確保済みである。
姫は、昨夜のリハーサル通りの手順で、換気口に懸垂の要領で這い入り、外からちゃんと金網を元通りにつけて、音を立てぬようにそっと換気路を匍匐前進で50m程進み、リネン室の回収済シーツの山の上に軟着陸した。
身軽な動作でシーツの山から脱出した姫は、リネン係員のロッカーの裏に、これも昨晩のうちにちょっと拝借して隠してあった白い作業着を身につけ、頭を三角巾で覆い、ポケットに入れてあったマスクを着用した。
薄暗い照明の下、そこには、遠めではホテルの清掃担当従業員にしか見えない、姫の姿が出現していた。
リネン室のすぐ横、屋内非常階段を下りて1階駐車場裏の搬入通路を進み、途中制服警官の巡回に引っ掛かりかけて少々冷や汗をかいたものの難なくやり過ごし、路地の木陰で漸く、変装用衣装を脱いで自動販売機の裏に隠し、元通りの姿~と言っても、今のいでたちは姫ではなく、夜遊び大好き女子大生にしか見えないのだが~に戻ったところでオックスフォード通りへ走り出て、丁度やってきたブラック・キャブを掴まえて飛び乗った。
運転手にヒースロー空港と告げて、やっとひと安心と胸を撫で下ろして吐息を落とし、彼女はシートに深く身を沈ませ、腕時計を見た。
「21時45分。……予定通りだわ。後1時間で、お姉さまに会える! 」
第一段階成功の安堵と1時間後に訪れるであろう感動の一瞬を胸に抱え、彼女は顔を夜の市街地の方へと向ける。
後方へ流れるロンドン市内の夜景をぼんやり眺めながら、4年前、”お姉さま”に初めて出会った日の事を思い出していた。
姫。
彼女の名前は、マヤ・ハプスブルク・ゲンドー・シュテルツェン2世。
東欧の小さな、けれどオーストリア帝国華やかなりし頃、ハプスブルク家と血縁のあるとある侯爵家を家祖とする、由緒正しく歴史の古いイブーキ王国の王女だ。
父である現国王ゲンドー3世は、年齢的には50歳半ば、未だ壮年と呼べるのだが、元来病弱で、子はマヤ姫一人だけ。
つまりマヤは王位継承権第1位、そう遠くない将来にはイブーキ王国の次期女王になる筈の身であり、病弱な父王を助けて各種行事の名代をも務める、摂政殿下でもある訳で、来年には立太子の儀も予定されている。
ところで、ドイツ、オーストリア系にしては珍しい、マヤ、という名の所以は、今は亡き王妃にある。
オーストリア国籍を持つ、そして生まれてから大学を卒業するまでは日本で生活していたと言う日墺ハーフの美しい女性を国王が見初め、王宮に迎え入れた当時は、世紀のシンデレラ・ストーリーとして世界中のマスコミを賑わせたものだった。
が、美貌の王妃は、まさかその美貌故ではなかろうが、儚い生命力しか持っていなかったようで、第一子である王女を出産して暫く後に病を得て床に臥せ、とうとうマヤが7歳の頃に逝ってしまった。
だから、かもしれない。
一人娘のマヤが、ゲンドーは目の中に入れても痛くないほど可愛くて仕方がないらしく、マヤの希望は何でも叶えてやりつつ、けれど将来の即位に備えて厳しく帝王学を叩き込んでいった。
教育方針の賜物か、それとも亡き母の美点を正しく受け継いだせいなのか、とにかくマヤはのびのびと成長し、そしてショートカットの黒髪、愛くるしいブラウンの瞳、小柄だが均整のとれたプロポーションと、亡き母、王妃に生き写しとも言われる美しさもさる事ながら、明るく活動的なプリンセスとして、国民からも慕われるように育っていった。
だが、プリンセス・マヤには、たった一つ、弱点があった。
王室がひた隠しに隠している、弱点が。
それは。
男性恐怖症。
溺愛の余り、父ゲンドー王は、小さい頃から遊び相手や学友、そして侍従長を除く全ての家臣を女性だけにし、男を一切近づけさせなかったのだ。
今年21才になるマヤ姫は、勿論、今では男だからと言って泣いて逃げ惑う事などない。
だが、心の底では、男性は恐ろしい、男性は乱暴で不潔、という故もない先入観を拭いきれず、思春期を迎えても、全く男性に対して興味を覚える事はなかったのだ。
そして、”王室”と言う特殊環境下において当然の如く普通の父と娘の様な関係も築けず、しかもマヤが次期女王という事もあり、徐々に彼女は歪んでいった。
歪みを決定的にしたのは、マヤが13歳の時。
首都近郊のとある福祉施設を慰問に訪れた時の事だった。
あろうことか、慰問中のボディガードを担当していた近衛連隊の士官が、マヤに向かって銃口を向けた。
事件後の捜査で判明したところによると、国粋史観に凝り固まっていた彼は、東洋人の血が混じったマヤが次期国王である事実に怒りを覚え、彼女を亡きものとし、王位継承権2位である国王の弟殿下の血筋を正統とすべく企んだらしかった。
幸い、犯人の同僚である別の
多感な思春期、唯でさえ価値観が歪みつつあったマヤは、けれど、心に深い傷を負った。
男の人は、やはり、恐ろしい。
他国の血が混じっているというだけで、別に自ら王位を望んだわけでもない年端も行かぬ少女を、躊躇いもなく殺そうとする程に、乱暴だ。
それは何も犯人に限ったことではなく、その犯人を有無をも言わさず射殺したSPも男性だ。
いや、元を質せば、私が命を狙われるような立場に追い込んだそもそもの原因にしたって。
美貌の母を、美貌故に迫り、娶って、この牢獄にも似た王宮に囲い、病を患わせその死まで里帰りすらさせなかったのは、父、即ち男性じゃないか。
やはり、男性は恐ろしい。
男性は、乱暴で、女の人生を狂わせようとばかりする。
男性なんか、嫌いだ。
私に優しくしてくれるのは、じいを除くと、みんな、みんな、女のひとばかりじゃないか。
けれど、一方でマヤは、厳しく帝王学を仕込まれ、そして未来を明確に指し示された、次期国王でもあった。
その後、病弱な父ゲンドー王に代わって益々、様々な国事を代行するようになったマヤは、表面上男性と雖も嫌悪をこれっぽちも表に出さず、友好的に社交的に交際の出来る立派な王族、淑女となったのだが、その実、彼女の性的興味を惹くのは、常に女性だったのだ。
変形のマザコンとも言えるし、歪んだエディプスコンプレックスとも言えるのかも知れない。
勿論、次期イブーキ王国の女王となるべきマヤが、男性恐怖症のままでは、断じて許されない。
彼女は、夫を娶り、子を生し血統を守らなければならないという、王族としての実質的に唯一の義務があるのだ。
王家を守り次世代へ繋ぐ事が、国家的最重要事項なのである。
それが一層、マヤのコンプレックスを圧迫し、歪めてしまう一因である事を理解していながら、それでも何れは子を生してもらわなければならないイブーキ王国の辛さが、そこにはある。
マヤもまた、それを理解しつつも、生物の雌としての生理的機能、そして動物の種族保存本能だけを抽出しそれを義務と呼び、その義務を生まれながらにして押し付けられた我が身自身に嫌悪すら抱きつつ、一層、男性への嫌悪を強めていく、負のループ。
一朝一夕にどうなるものでもない、しかしけっして諦めない。
そんな国家とマヤとの静かな睨み合いが持久戦の様相を呈しつつあった、マヤ姫16歳の頃。
慣習に従い、マヤ姫もまたアメリカへ留学することになった~20世紀後半以来、王室の子供達はアメリカまたはイギリスへ留学する不文律が出来上がっていたのだ~。
窮屈な王室を抜け出し、命の洗濯。
マヤは嬉々としてアメリカへ旅立ち、イブーキ政府もまた暫くの間の”休戦”のつもりで姫を快く送り出した。
だからマヤは、アメリカでの学生生活を心の底より、全身全霊でもって楽しんでいた。
そして彼の地での生活が1年を越えた頃、マヤの運命を変える出逢いが巡ってきた。
『お姉さま』との夢のような出逢い、そして哀しい別れ。
以来、彼女は4年間、その女性の面影だけを常に慕い追い続け、そして今夜、遂に再会の機会を掴んだのだ。
今、彼女は21歳。
普通なら、まだまだ遊びたい盛りの年頃。
マヤは、これまでは、お忍びで夜の町に出かけたり、一般人に混じってショッピングをしたり。
その為の”脱走”は何度もやってきた。
だが、彼女にとって、今夜の脱走はこれまでのそれとは、意味が違う。
一般的にはノーマルとはいえないかも知れないけれど、とにかく自分の愛を成就させる為。
この脱走が、その栄光への第一歩になるのだ。
改めて、そっと静かに気合いを入れるマヤ姫の想いは、再び、4年前のニューヨーク、国連本部での衝撃的な”お姉さまとの運命の出会い”に戻って行く。
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