第20話 5-5.


 自室へ飛び込み、驚いた表情の美香先輩にも無言のままで、私は自分のベッドへ潜り込み、カーテンを閉めた。

 涙が、後からあとから零れてきて、仕方がなかった。

 私の様子に驚いた美香先輩が声を掛けてくれた。

「涼子……」

 だけど、とても答える余裕なんか、なかった。

 鼻が詰まり、喉は嗚咽に塞がれ、息が出来ない。

 人間は涙で溺死することも可能なんじゃないか、そんなことをチラ、と思った。

 暫くカーテンの向こうに、美香先輩が佇んでいるだろう気配がしていたけれど、やがて、微かな吐息、後を追うように、柔らかい声が耳に届いた。

「私、行くわ。アンタ、ワッチ明けじゃろ? ゆっくり寝り。お昼に、食事持ってきてあげるけぇ」

 先輩が、部屋の灯りを消して、外へ出て行く気配がした。

 先輩の優しい気遣いが嬉しかった。

 人の気配が消えた部屋で私は、堪えていた声を、思い切りあげて泣いた。


 ワイズマン先生は、凄い美人だ。

 ハニー・ブロンドの豊かな髪、まるで塑像のような彫りの深い顔立ちに、シャツのボタンやスカートのスリットを弾き飛ばさんばかりの豊満な肢体の持ち主。

 そんな先生を、艦長は『サム』と呼んでいた。

 私室からシャツを羽織りながら出てきて。

 先生は、艦長の事を『アンタ』、『セクハラ親父』って呼んでいた。

 シャツのボタンをとめながら、白く細い首についた痕を隠そうともせず、口調とは裏腹の愛惜しそうな笑顔を浮かべて。

 私は、気付いた。

 気付かされた。

 二人が、そういう関係だってこと。

 ……ううん、違う。

 それは判っていた事だ。

 そんなの、このフネでは公認同然の事実じゃないか。

 私みたいな、鈍ちんだって知ってた。

 第一、あの事件の後、私が医務室のベッドで目覚めた時。

 普段のカラッと爽やかな表情や性格からは想像できないくらい、先生は、彼女は『女』だったじゃないか。

 私みたいな、鈍ちんにだってすぐに判った。

 だから、それはいいんだ。

 よくはないけど、今はいい。

 いけないのは、私が、自分にすら隠していた本当の気持ちに気付いた事。

 私が、艦長のこと、好きだってことに。

 私は、艦長に、恋しているんだって、ことに。

 気が狂うほど、愛してしまったということに。

 気付いて、しまったこと。

 私の想いは、届かない。

 私の姿は、彼の瞳に映らない。

 私の手は、どれほど伸ばそうと、彼を捉えられずに空を切る。

 そんなの、最初から。

 最初から判っていたから、隠そうとした。

 傷付く事が判っていたから、知らない振りをした。

 傷付く事が怖かったから、見て見ぬ振りをした。

 このまま自分を騙し続ければ、艦長の傍に佇めるから。

 このまま自分を誤魔化しきれば、微温湯のような日常に浸っていられるから。

 だから、気付かぬ振りをした。

 だから、亡くなったお父さんの力を借りてまでして、自分に嘘をついた。

 だから、自分の心の傷痕と弱さを利用して、自分の気持ちを裏切り続けた。

 これは、その、報い、なの? 

 どうしよう? 

 どうすればいい? 

 ……どうしようも、ない。

 それすら、判っていた事なんだ。最初から。

 最初から判っていたから、隠そうとした。

 だからもう、どうすることも、できないんだ、私は。

 気付きたくなかった。

 隠し続けていたかった。

 誤魔化し切りたかった。

 結局、私は、弱いまま。

 艦長を、このフネのみんなを、ましてやUNDASNのみんなや地球の人々を、守る事など出来ないくらい、弱かったのだ。

 折角艦長がああ言ってくれたのに。

 折角美香先輩が、変ったねと言ってくれたのに。

 私は何一つ、変る事などできないままだ。

 私には、皆を守る事など出来ない。

 私には、皆に守ってもらう価値なぞない。

 こんな私、消えちゃえばいいのに。

 こんな私、もう、死んじゃえばいいのに。


 刹那、私は凶暴な力でベッドから引き摺り出された。

 パジャマ代わりのお馴染みUNブルーのトレーナーの襟首を掴まれて、壁やらベッドのフレームやらサイドボードやら、そこら中に身体のあちこちをぶつけ、最後にドスン、とお尻にキツイ衝撃を感じた。

「痛ッ! 」

 床に尻餅をついた姿勢で痛みを堪えつつ、ゆっくりと顔を上げると、美香先輩が、いた。

「痛い? 涼子」

 涙で先輩の表情がよく判らない。

 手の甲でゴシゴシ目を擦ると、美香先輩が怒っていることに、初めて気付いた。

「答えんね、涼子! 」

 今まで見た事もない、恐ろしい表情で、私を睨みつけていた。

 大きな、黒い瞳に、涙で顔をぐしゃぐしゃにした、見っとも無い私が映る。

 きっと、艦長の瞳に映っていた私も、こんな見っとも無い姿だったんだ、そう思うとまた、涙が零れた。

「泣いとらんで、答えんね、涼子! 」

「……痛い」

 掠れる声でそう言うと、美香先輩は怒った顔を、哀しそうに歪めて、言った。

「私は、もっと痛かったんで? 」

「え……? 」

 何を言っているのか判らず、思わず間抜けな声が洩れる。

「涼子の、消えてまいたい、死んでまいたい、言う言葉を聞いて、私は、もっと痛かったんで? 」

「先輩……」

 美香先輩は、哀しそうな表情のまま、私を抱き締めた。

「ごめんね、涼子。私が要らんこと言うたばっかりに、哀しい目、させてしもうたね。ごめん、ごめんね? 」

 堪えようとしていた嗚咽が、洩れた。

 もう、どうしようもなかった。

「そやけどね、涼子」

 美香先輩は、暫くの間私を抱き締め、背中に回した掌でとん、とんと優しくリズムを取っていたが、私の呼吸が少し落ち着くと、ゆっくり身体を離して言った。

「貴女は、艦長の話、ちゃんと聞いとったん? 艦長の話で、私らを信用してみよ、そう思ったのんと違うん? 」

 美香先輩は、切なげな、でもそれ以上に優しい微笑を浮かべていた。

「そやのに、涼子が消えて無うなってしもたら、誰が艦長を守るん? 誰が私を守るん? 誰がこのフネのみんなを守るん? 」

 だけど私、そんなこと出来ない。

 守れない。

 守れる強さがないことに、気付いてしまった。

「貴女は、変った。確実に、良い方向へ変ってる。それは私が、艦長が、皆が認めてる。今は未だ力不足でも、今と同じように、一歩づつ歩いていけば、貴女はちゃんと強くなれる。大切なひとを守れるだけの強さを、いつかきっと、手に入れられる。そしてそれは、貴女を守りたい、そう言うてくれるひとが、どんどん増えていく、言うことなんやで? 」

 私は、変ってなんかない。

 ただ、自分を誤魔化してきただけ。

 ただ、傷付くのが怖くて、知らない振りをしてきただけ。

 ただ、刹那の微温湯の日常が心地良くて、怠惰に身を委ねていただけ。

「そんなこと、ない。自分で気ぃつけへんのん? 」

 美香先輩は小首を傾げてふふっ、と笑った。

「そうかて涼子。貴女はちゃんと、艦長のこと、好きになれたやない」

 私が、艦長に恋したこと。

 それは、罪ではないの? 

 それは、愚かな私の、愚かな間違いだったのではないの? 

「変り始める前の涼子は、他人が怖かった。他人が好きとか嫌いとか、そんな感情を抱く以前に、貴女は周囲が怖くて恐ろしくて、ただ、バリアを張っていた。バリアは、確かに、貴女が傷つくのを防いでくれる。そやけど、涼子への好意も同時に跳ね返す。それに、貴女の周囲への想いすら、跳ね返す」

 まるでそれが、自分のせいでもあったかのように、美香先輩は苦しげに顔を歪ませた。

「それを、貴女は、自分の手で開いたん。貴女を傷つけるかも知れない、そんなリスクを承知の上で、貴女は、周囲からの好意を信じようとしたん。そして貴女は、同時に、貴女の想いを、バリアの外へ届けたい、そない思うたけえ、貴女は自分の手でバリアを開いたんちゃうんね? 」

 美香先輩は、再び微笑を浮かべる。

 さっきからずっと、私の両肩に置かれた手が、暖かい。

「周囲の人たちと触れ合う。傷つけられるかも知れない、ひょっとしたら傷つけるかも知れない。守ってあげられる、守ってもらえる。好きになるかもしれない、好かれるかもしれない。嫌いになってしまうかも知れない、嫌われるかもしれない。それでも、一歩、前へ出る。それがね、涼子」

 美香先輩の、美しい顔が、ぼやける。

 涙が滲んでいるからだ、と気付いても、私はその涙を拭うことさえ忘れて、ただ、みつめ続ける。

 だって。

「それが、生きていく、という事。強くなる、という事。艦長はね、涼子。貴女にそうなって欲しかったんで? そして涼子、貴女は、それを受け容れ、バリアを開き、一歩、踏み出したん」

 だって、お母さんの笑顔に、とても似ていたから。

「それでええんよ? それでええん。艦長も、私も、フネのみんなも、UNDASNのみんなも、涼子にそうなって欲しい、思うてたんで? 」

 でも、だって。

 艦長には、先生がいて。

 艦長はきっと、先生も、私も、そしてフネの皆やUNDASNの皆、地球の皆を守ってくれるだろうけど。

 艦長は、先生がいて、守ってくれる。

 私の想いは、届かない。

 艦長の瞳に、私の姿はきっと、映らない。

「あんたはもう、認めたんじゃろ? 自分の想いを。艦長のことが好き、言う自分の気持ちを。そしたら、次にすることは、なんね? 想いを届けることやないん? その為に、貴女はバリアを解いたんやないん? 」

 美香先輩はふっ、と短い吐息をついて、それはそれは優しい、だけど何処か儚く、切なげな笑顔を浮かべた。

「届かない想い。堰き止めようとして、だけど堰を切って溢れる想い。だけど、そんな、切ない想いを胸に抱きながら、それでも好きなひとの傍にいられる喜び。一瞬でも、欠片でも、熱く狂おしい想いが届いた刹那の、震える胸、爆発するような嬉しさ。そんなあれこれを感じられるのは、涼子。貴女が一歩踏み出したから」

 ふわ、と美香先輩は私を再び抱き締めた。

「今迄、周囲の暗闇しか映さなかった貴女の瞳は、貴女が一歩踏み出したから、そやから、艦長の姿を瞳に映す事が出来るようになったん。……ちゃうんね? 」

 鼻を擽る甘い香り、耳を掠める優しい囁き。

「じゃけえ、人生は素敵なんよ? 」

 駄目じゃないの? 

 私が艦長を好きになったのは、間違いじゃないの? 

 私は、私を誤魔化さなくても、いいの? 

「諦める必要なんか、これっぽっちもないんよ? 人がひとを好きになるのは、誰にも止められへんの。人を愛する気持ちに間違いなんか、ないのん。大切なのは、想い。そう感じることが出来たという、貴女の想いなん。勇気を持って一歩踏み出した、貴女の人生それ自体が、素敵なんよ? 」

 美香先輩の笑顔が涙で流れるその刹那、淋しげに見えたのは、錯覚だったろうか? 

「やけど、私にも正直、この先どうせぇ、こうせぇ、言われへん。確かに想いを成就させるのは難しいかも知れん。やけど、それは、今、やから。こんな熱い想いに、期限を切るような勿体無いこと、したらあかん。諦める、捨ててしまう、そんなことだけは、あかん」

 先輩も泣いているのかな? 少しだけ、湿った声になっているのに気付いた。

「そんな貴女の想いを、腐らせたら、あかん。胸に抱いたまま消えてしもうたら、あかん。そんなに熱い、自分の想いを、貴女は見失ったら、あかん」

 私を抱き締める先輩の腕の力が、少しだけ強くなった。

「この世界は、哀しみで出来ているのかも知れへん。そやけど、そこで、涼子も、艦長も、皆が生きてるのは確かなん。そして、その世界に一歩踏み出したのは、確かなんよ? 涼子の恋は、果たせへんかも知れん。やけど、その横に、私が居るのもやっぱり確かなんよ? 」

 先輩は、再び私から身体を離し、ゆっくりと微笑んだ。

「じゃけえ、そんな素敵な人生から、消えたらいけん。涼子の人生は、始まったばかりや。終わらせたら、いけん。歩いていかな。私がいるけえ。みんながいるけえ」

「先輩、先輩、先輩せんぱいセンパイ先輩ぃぃっ! 」

 私は首っ玉に抱きついて、喚くようにして、泣いた。

 それまでに、随分と泣いたつもりだったけれど、それでも後から後から留まるところを知らず涙は零れ落ちる。

 だけど、私の心は、すごく温かかった。

 懐かしい優しさに抱かれて、このまま眠りに落ちてしまいそうなくらい。

 許されたんだ、そう思った。

 まるで懺悔の後に、免罪符を得たような。

 いいんだ、好きでいて、いいんだ。

 届かないかも知れないけれど。

 誤魔化さなくても、嘘をつかなくても、いいんだ。

 狂おしいほど求めても、届かないかも知れないけれど。

 今の私は、求めてもいい、権利を得たんだ。

 艦長を信じて、踏み出した世界は確かに、哀しみに満ちていたけれど。

 傍には、美香先輩がいてくれる。

 手を伸ばした先には、そしてその手は届かないかも知れないけれど、艦長がいてくれる。

 嘘じゃなかった。

 私が、恐ろしさのあまり、甘んじていた孤独な世界は、傷つかないけれど、優しくはなかったのだから。

 一歩踏み出す勇気をくれた、この世界は、確かに哀しくて、切なくて、涙の味がするけれど、だけどこんなにも優しくて、そして淋しくはないから。

 私、やっぱり、艦長を信じてよかった。

「あは、えへへ……」

 思わず、泣き笑いをしてしまった私の顔を、美香先輩はすこし身体を離して不思議そうにみつめていた。

 ごめんね、先輩。

 だって、可笑しかったんだもん。

 私が艦長に恋するのって、よく考えれば当然だったんだ。

 今頃そんなことに気付いた私が、可笑しかったんだもん。

 だから、ごめんね、艦長? 

 もう少し、好きでいさせて下さい。

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