5.恋心
第16話 5-1.
駐英武官事務所は、チューブと呼ばれるロンドン地下鉄ピカデリー線、グリーンパーク駅から徒歩5分、駐英日本大使館の並びにある、8階建ての古いビルにある~古い、と言っても、軍事施設には違いなく、防諜やテロ対策等最低限の手は入れられているが~。
地下が駐車場と車寄せ、1階から5階がUNDASN駐英武官事務所、6階がUNDA英国事務所、7階8階が宿泊施設と職員食堂、201師団から分派されてくる警衛分隊の詰め所等に割り当てられていて、ロンドン市民からは「UNビル」と呼ばれている。
「ほんとなら、地下鉄で行きたいんだよねぇ」
涼子はエレベータの階数表示ランプを見ながら呟いた。
地下駐車場でエレベータを降りると、2台のジャガーがアイドリングで停車していた。
先頭の1台は小野寺がサザンプトン軍港から乗ってきた、統幕政務局港務部1課西ヨーロッパ統括港務センターサザンプトン港務管理事務所のジャガーXXK1で、彼のB副官であるイボーヌ・シャロン一等艦尉がドア脇で立っている。
余りにも頻繁に涼子が軍務部長室へ遊びにいくものだから、彼女ともすっかり顔馴染みになった。
小野寺も忙しい身だ、留守や会議中で会えない時には、よくイボーヌのデスクで雑談を交わすのだが、銀色のボブが可愛らしい顔立ちに映えて実年齢よりは幼く見える彼女は、実は親父ギャグ連発の楽しいトーク・テクニックの持ち主で、涼子はいつも大笑いさせてもらっている。
続く1台は駐英武官事務所のジャガーXXJ2、1号車と呼ばれる、普段はマズア駐英武官の専用車だ。涼子がロンドンに軸足を置くようになってからは、マズアは1号車を彼女に譲り、自分は専ら2号車、デイムラーX3080を使用している。
XXJ2のドア脇には涼子のB副官、銀環が立っていて、向こうの駐車スペースでアイドリング中の5号車、レンジローバーの運転席に駐英武官補佐官のヒギンズ・スタックヒル三等空佐の顔が見えることから、今日はマズアは5号車でヒースローに向かうのだろう。
CA370でヒースローに降り立つヒューストンからの”訪英部隊”用の車列、警備の都合上、英外務省の手配した車両群が、そろそろヒースローに到着する時間になっていた。
ちなみに、ヒースローに到着する統幕本部長や政務局長軍務局長等のアドミラルの面々は防弾防爆仕様のロールスロイスを4台用意していて、事前にヒューストンからロンドンへフェリー済、201師団に預かってもらっていたもので、今夜はそちらから回送してもらう予定だ。
涼子の後ろを歩いていたリザが、追い越して銀環の隣に立ったのを切欠に、涼子は立ち止まり、小野寺に向かって敬礼した。
「では、艦長……、じゃなかった、軍務部長。後ほど空港で」
小野寺は無言でラフな答礼を返し、先頭のジャガーに向かった。
”艦長らしいや……”
思わずクス、と笑うと、背後からマズアの声が聞こえた。
「では、1課長。私とコリンズ二佐は5号車で参ります」
「うん。じゃ、後で」
涼子は今度はマズアとコリンズを振り返り、敬礼ではなく友達にするように手をひらひらと振る。
敬礼しかけていた手のやり場に困ってあたふたするマズアと、私服の為に腰を折るだけの脱帽敬礼で済んでいるコリンズの冷静な表情の対比が面白く、涼子は自分がその原因であることも忘れ、思わず笑ってしまった。
「では、室長代行」
「うん。銀環は今回もお留守番ね? 悪いけれど、後お願いね? 」
わざとらしい自分の台詞が胸にチクリと刺さる。
銀環がいつも、自分の”籤運”を嘆き、そしてリザに不満を訴えていることも知っている、けれど。
自分が娑婆に出ると、大なり小なり何かしらの騒動が起きる。
今日まではなんとか無事に乗り切ってきた、けれど、今夜は? 明日はどうなる?
同じ東洋人で背格好も似ている黒髪の女性二人が並んでいるシーンを見て、テロリスト達はいったいいつまで”正確に”涼子を涼子と認めてくれる?
だから。
リザに、イカサマを依頼したのだ。
「お任せください、それより室長代行こそ、お気をつけて」
幼く見える笑顔を浮かべた銀環の優しさと気遣いが、胸の奥で疼く後ろめたさを再び強くなぞった。
「ありがとう、いってきます」
銀環に促され、涼子が車に乗ろうとした刹那、小野寺の声が響いた。
「ああ。石動、ちょっと」
「はーいっ! 」
反射的に手を上げて答え、踵を返す。
「あ、室長代行? 」
リザの声に涼子は「すぐすむよー」と手を振って答え、小野寺に駆け寄った。
「艦長、なんですかー? 」
涼子が小野寺の前まで行っても、彼は暫くの間、呆れたような表情を浮かべていたが、やがて、ボソ、と言った。
「犬か、お前? 」
「ふぇ? 」
意味が判らず首を捻っていると、彼は苦笑を浮かべた。
「見間違いだ。シッポがぱたぱたしているように思えたんだがな」
「シ、シッポ? 」
思わずお尻を両手で押さえる。
「いい。気にするな。それより」
小野寺は早口でそう言うと、ポケットに手を突っ込んで、何かを出し、涼子に差し出した。
「え? 艦長、なにこれ? 」
「いいから、見てみろ」
手に押し付けられたのは封筒だった。
受け取りながら、彼の様子を伺うと、顔は明後日のほうを向いている。
”な、なんだろう? ”
思いながら、涼子は封を開け、中身を引っ張り出してみた。
「え? 」
出てきたのは、ICカードだった。なにかのチケットのようで、2枚ある。
そこには、こう印刷されていた。
『戴冠記念特別演奏会:フィルハーモニア室内管弦楽団、ロイヤルフェスティバルホールS席』
日付は2月17日、ロンドン・ウィーク最終日。時間は夜8時開演、つまりバッキンガム宮殿で開かれる英国王室主催の即位記念舞踏会が済んだ後。
「あの……、艦長? これは、その……」
訊きたい事は山ほどあるのに、言葉が上手く紡げずに、浮かんだ単語だけを無意味に羅列する涼子にチラ、と視線を飛ばして、彼はボソボソと低い声で、まるで言い訳みたいな口調で話し始めた。
「予約しといた。2枚あるのは、俺と石動、お前の分だ。まあ、その……、なんだ。昔、お前がクラシックとか好きだって言ってたのを何でか、思い出して、な。で、まあ、ええと、俺もまあ、結構クラシックつうか管弦楽とか好きだし、それにほら、俺もお前も舞踏会には出席するんだし、その後は俺もお前も空いてるだろ? それにロイヤルフェスティバルホールだったらサウスバンク・センターだから宮殿からでも武官事務所からでもタクシー走らせても早いし、服も
「艦長」
涼子は高鳴る胸の動悸を受け取ったチケットで押さえ付けながら、掠れる声を励まして、非常に珍しい彼の長広舌を遮った。
「えと、この2枚は私と艦長のシート? ……それって、つまり」
今きっと私ってば、茹蛸よりも真っ赤な顔をしてるに違いない、と頭の片隅で思う。
ようやく彼は、涼子に顔を向け、しっかりと視線を捉えて、まるでヤケクソのようなブッキラボウな口調で、言った。
涼子が、夢にまで追い求めた、言葉を。
「つまり、石動。俺とロンドン・デートと洒落込もう、って誘ってんだ」
デート。
たった3文字の、しかし今の涼子にとっては、最大級の破壊力を持った言葉。
「私と? ……艦長と私、デートして、……いい、の? 」
彼はゆっくりと頷き、囁くように言った。
「いいんだ。お前さえ、よければ」
嬉しい。
今の気持ちを言葉にすれば、嬉しい、それだけだ。
だけど、そんな短い言葉しか思いつかない自分に、涼子は腹が立って仕方なかった。
腹立ち紛れに、問う。
「それって、その、つまり、艦長……? 」
「つまり、そう言うことだ」
彼はそう言うと、制帽を目深に被り直して言葉を継いだ。
「で、返事は? お姫様? 」
頷いた。
言葉が出なかった。
出そうと思えば出せたのだろうが、ついでに涙と泣き声と涎と洟も出そうだったので、頷くことでしか、胸に溢れる喜びの気持ちを、彼への愛を、表すことが出来なかった。
1回頷いただけでは判らないかもしれない、そう思い、何度も、何度も頷いた。
首が痛くなった。
「判ったわかった。もういい。安心した」
彼はそう言って涼子の頭に手を置いて、ごしごしと二、三度撫でると、踵を返した。
「行こう、B副官」
「アイサー」
彼に続いて車に乗り込もうとしていたイボーヌは、唐突に涼子を振り返り、グ、とサムアップのポーズを見せた後綺麗なウインクをして、囁いた。
「さ、1課長。お車へお戻りください」
やっぱり涼子は、頷くだけしか出来なかった。
が、今度は、溢れた喜びが涙になって、一滴、頬を流れた。
車がスロープを昇り、地上に出てクルージングに入った途端、隣に座るリザが遠慮がちに声を掛けてきた。
「あの……、室長代行? どうかなさいましたか? 」
「あ、う、ううん。大丈夫。なんでもないよ」
涼子はニコ、と微笑んでみせる。
「そうですか」
諦めたような口調でリザが黙り込んで、車内に静寂が舞い降りる。
リザに向けた微笑みは、嘘じゃない。
デートのことを黙っているのは、単に、照れ臭いだけ。
だから。
気になっているのは、膝の上に置いた、アタッシュケースのサイドポケットの中身。
”艦長、あんな照れ屋さんで、面倒臭がり屋さんなのに、私みたいなのの為に、頑張ってくれた……”
デートに誘ってくれた事は勿論、嬉しい。
だけど、涼子にとっては、彼が。
大袈裟ではなく、自分が今ここでこうして人並みに”人生を暮らしていける”礎を作ってくれた彼が、多分、彼のキャラクターには似合わないことまで自分にしてくれたその意思自体が、気が狂ってしまうほどに、嬉しいのだ。
だから。
気になっているのは、膝の上に置いた、アタッシュケースのサイドポケットの中身。
今こそ、彼に、自分の熱い想いを届けなければ。
例え、叶わなくとも、想いの欠片だけでも届けなければ。
恋愛という、動物としての本能に基いた、極めて個人の自由意志に支配されている筈の遣り取りの中で、唯一存在する『義務と権利』。
『愛しい相手に、誰であろうと想いを届けることが出来る』権利。
『届けた相手の答えを、どんな答えであれ受け取ることが出来る』権利。
『真剣な想いを届けてくれた相手には、真剣に答えなければならない』義務。
「はぁっ! 」
思わず吐いた溜息の大きさに、隣に座るリザが驚いた表情を浮かべて振り向いた。
「お疲れですか? 室長代行」
「ああ、ごめん。や、そろそろ書類決済するか、って、ちょっとブルーな決意をば」
冗談めかした答えで副官を誤魔化して、涼子はアタッシュから携帯端末を取り出しながら、再び、物思いに耽る。
脳裏にちらつくのは、軍務部長の、これ以上ないくらいの無愛想な表情。
私が両親と死に別れたのは中学1年の終わり頃。すぐに母の姉に引き取られ、中学卒業後は就職して社員寮で暮らすようになったのだけれど、その少し前くらいから他人、特に男性との接触に恐怖を感じるようになった。
原因は、よく判らない。
時折、薄っすらと、何らかの切欠で思い出す事はあるようなのだが、何故かそれが記憶に残らないのだ。
だけど、思い出せたとしてもどうせロクでもないことなのだろうし、普段は別に困らないから、気にしないようにしている。
中卒で伯母の家を出て、女子寮のある化学繊維製造会社の工員として就職した。
お給料は安かったけれど、それ以上に嬉しかったのは、同年代の女の子ばかりの職場と暮らしを得、その上、業界団体が経営していた夜間高校に通えるようになった事だった。
「このまま、ずっと女の子ばかりに囲まれて暮らしていけるのなら、いいな」
半ば本気でそう願い、日々を過ごしてきたのだが、やはり、そうは問屋が卸さなかった。
夜学の担任~初老の優しそうな女性の理科教諭だったが、何処が気に入ったのか、「涼子ちゃん」と呼んで私を自宅に誘う等して特別に勉強を見てくれたりしていた~に勧められて受験した大検に一発合格、もう少しお金が貯まったらどこかの大学の二部でも受験しようかなと考えていた私に、彼女はUNDASN幹部学校受験を勧めてきたのだ。
「貴女のご両親は、確か、UNDASNの専科将校だったのでしょう? 後を継ぎなさい、というつもりはないのだけれど、貴女ほど優秀な人材が町の片隅の繊維工場で朽ちていくのは勿体無いと思うの」
自分が優秀なのかどうかは別として、担任に言われずとも後を継ぐつもりなどなかったけれど、幼い頃から父や母に聞かされた宇宙の話、職場としてのUNDASNの話は、確かに私の胸の内にしっかりと楔を打ち込んでいたようだった。
しかし、その一方でUNDASNが軍隊、しかも戦争状態にある軍隊であること、そしてその組織の半数以上は男性である~当時の男女比は6.5:3.5、現在では5.3:4.7と拮抗している~組織で果たして自分のような対人接触恐怖症、いや、男性恐怖症の人間が人並みにやっていけるのか?
その二点で、私は二の足を踏んだ。
前の一点、軍人となり前線へ送られた挙句、両親同様、戦死するかも知れない、という可能性については、少し考えて、まあどうでもいいか、という気になった。
だから、心配なのは後の一点。
そう言うと先生は、淋しげな微笑を浮かべながら、言った。
「だけど、いつまでもこのまま、という訳にはいかないでしょう? そりゃあ、今は良いかもしれないけれど、将来、きっと苦労するわよ? 同じ苦労するのなら、民間で周囲に気遣いながら苦労するより、軍隊という規律正しい縦社会の方が、却って煩わしさや気苦労も減っていいと思うのだけれど」
彼女の言葉があまりに具体的なことが不思議に感じられ、訊ねてみると、先生の今は亡き旦那様はUNDASNの下士官だったらしい。戦死ではなく除隊後の病死だったらしいが、先生が旦那様との生活で感じ取った軍隊という世界は、男女と言う性差より階級と能力だけがモノを言う世界であり、それに同じ釜の飯を食った、同じ敵の弾の下を潜った仲間との連帯感は、性別も階級も何もかも乗り越える、一種運命共同体的な不思議な繋がりを持てる世界だと言う。
その点、直接的な利害関係のみで成り立つ一般企業社会の方が、封建的で閉鎖的な社会とも言え、却って気苦労が多いのだ、と。
私が、自分でもその資質を危ぶみながらもUNDASNを志願したのは、突き詰めればその一点に絞り込める、とも言えた。
が、やはり身を投じてみると苦しかった。
幹部候補生時代は、座学やシミュレータ実習等は難なくこなせたものの、基礎体力養成や陸戦教練と言った身体を使う教科はもともとの運動神経のなさが祟ってクラスメイトについていくのが一苦労で、バディの年上のクラスメイトにも散々迷惑をかけたものだったけれど、それは女子内務班宿舎での賑やかな集団生活の楽しさに相殺されて~物心ついた時から両親共働き、一人娘の鍵ッ子と淋しい思いをしていた私にとって、賑やかな暮らしは眩しい憧れの対象でもあった~、楽しいとも言える日々だった。
本当の苦労は任官直後、卒配で乗艦した艦内に在った。
唯でさえ任官直後の若い三尉など、任務配置では右も左もわからない素人同然、高級幹部からはオモチャ扱い、科長クラスは鬼より怖い指導官であり容赦なくシゴかれる、ガンルームに戻れば先任の三尉や二尉の使い走り、階級では部下に当たる下士官兵からはからかわれナメてかかられる、まさに四面楚歌の哀れな子羊と相場は決まっているものだ。
私の場合、卒業席次が自分でも驚くほど良かった~
ハンモックナンバー上位者への期待と興味、同僚下僚からの妬み嫉み、セクハラまがいの揶揄。
それに加えて、私みたいなサエない根暗な女のどこが良いのか、男女問わない交際申し込みの嵐。
やがて久しく遠退いていた異性嫌悪が現れ始めると、ノイローゼ一歩手前まで神経が衰弱するのはあっと言う間、それが任務の足を引っ張り始めると途端に失望と誹謗中傷の嵐、それが一層神経を圧迫して……。
悪夢のような負のループにどっぷり頭の先まで嵌り込み、喘ぎ苦しみ泣き叫ぶ事すら出来ず、崩れてしまいそうになる心と身体を独り抱き締め震えていた私を、しっかり抱きかかえて離さず、引き摺り上げて叱咤し激励……、いや、と言うよりも『しっかりと、優しく温かく見守って』くれたのが、彼だ。
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