第14話 4-5.


「え? えっ? なにこれ? 」

 駐英武官事務所の第2ブリーフィング・ルームが、ここ数ヶ月の涼子と副官2名が詰めるロンドンにおける『欧州室長代行室兼欧州1課長室』として専有されている。

 涼子はケンブリッジから戻って仮の執務室のドアを開けた瞬間、間の抜けた声をあげた。

「お、お帰りなさい、室長代行」

 ”うわー、やっぱり驚いてる、涼子様……”

 先輩でもあり先任副官でもあるリザに留守番を言いつけられていた、国際部欧州室長B副官の李銀環リ・インファン一等艦尉は、先輩の顔をチラ、と見やる。

 美しい先輩は、涼子の背後で、ヤレヤレとでも言いたげな表情を浮かべ、肩を竦めて見せた。

「ん、あ、ただいま」

 それでも涼子はニコ、と向日葵の花のような鮮やかな笑顔で応えた後、再び困惑の表情を浮かべた。

「んと、それで……。この状況はなにかな? 」

「あ、はあ……」

 銀環は一瞬、涼子の笑顔に釣られて微笑を浮かべたが、すぐに再び困惑の表情に戻す。

「えと」

 チラ、とリザに視線を飛ばす。

 仕方ないわよ、言っちゃいなさい。

 リザが顎を微かにしゃくって見せたのを、銀環はそう言う意味に捉えて、腹を括った。

「ハッピー・バレンタイン! 涼子様ッ! 」

 ヤケクソで銀環はそう叫んだが、途端に恥ずかしくなって俯いてしまい、ボソボソ、と付け加えた。

「って、カードには書いてあります。殆どが、UNDASN各部局の、室長代行のファンからのプレゼントです。もちろん、ここに届いているのは、今日2月14日ほんマルフタヒトヨンに室長代行が駐英武官事務所にいらっしゃる事を職掌柄知っている国際三部門に所属している者からです。ですから……」

「てことは、ヒューストンの私の部屋にも同じくらい届いているのかしら」

「もっと多いんじゃないでしょうか」

 涼子の呟きに頷いてみせると、リザが鋭い突っ込みを入れてきた。

「B副官。さっき『殆どが』って言ったな? それ以外にもあるのか? 」

 仕方なく銀環は、先輩に正直に答える。

「アイ、先任。一部、熱心なシチズンからのプレゼントもあります。あっ、もちろん、内規に従い警衛にて内容物検査装置通過済、安全確認済です」

もちろん、信書の秘密はUNDASNでも遵守される、が、昨今の社会情勢を鑑み、封書や小包等は内容物検査機を通して安全が確認されたもののみ部内へ持ち込まれる仕組みになっていた。

了解アイ……」

 銀環がそっと上目遣いに涼子の様子を見ると、暫くは呆然としていた彼女はやがて、眼を細め、まるで大輪の薔薇が開いたような、見事に美しい笑顔を浮かべて言った。

「とっても嬉しいわ。だけど、手間かけちゃってごめんね、銀環」

 眩しいほどの笑顔と優しい心遣いに、慣れた筈の銀環でさえ、思わず足元がフラついてしまう。

 これは仕方ない”現象”なのだ。

 免疫がない人間には、この笑顔に耐える術はきっとない筈だ。

 毎日顔を合わせている自分だって、この笑顔は効く。

「でも、その、えと……。わ、私、女だし、こんなおばちゃんだけど……。みんな、いいのかな? 」

 おずおずとそう言った涼子の言葉を聞いて、銀環は思わず大声で否定した。

「涼子様でないと、駄目です! 」

 途端に、クール・ビューティな先輩が激しい叱責を飛ばす。

「こら、B副官! さては貴様、自分のも混ぜたなっ? 」

「ご、ご、ごめんなさいっ! 」

 銀環はビクッと身体を震わせ、頭を下げる。

「まあまあ、リザ、リーザ。怒っちゃ駄目だよぉ、折角銀環がくれたんだから」

 涼子はコロコロと鈴が鳴るような声でリザを宥めて、銀環に顔を向けた。

「うん、そっか。ほんと、ありがとね」

「えっ、あっ、いや、その、きょ、恐縮です」

 頭を下げると、盛大な溜息が聞こえた。

 頭を上げると、リザが肩を竦めていた。

「ああー? まさか先任」

「シャーラップ! 」

 リザは銀環の突っ込みを一喝で跳ね返しはしたものの、すぐに諦めの表情を浮かべて自分のアタッシュのサイドポケットから奇麗に包装された小さな箱を取り出した。

「ご迷惑かと思ったんですが……。ハッピー・バレンタイン、室長代行」

 まったく、先輩ったら。

 絵に描いたような『素敵なツンデレ』っぷりだわ。

「わあ、ありがと、リザ! リザと銀環のくれたふたつは、特別大事に食べるから、ね? 」

 柔らかな微笑を、ほんのり赤く染めた頬に浮かべながら礼を言う涼子の姿に、銀環は思わず膝から崩れ落ちてしまいそうになる。

 それをなんとか堪えて視線をリザに向けると、彼女もまた熱に浮かされたように、瞳を虚空に彷徨わせていたが、銀環より一足先に立ち直り~いつもながら彼女の自己を律する姿勢は見事なものだ、と銀環は『ライバル』ながら感心する~、コホンとわざとらしく空咳をして、気分を切り替えるように明るい口調で言った。

「来月のお財布の中身は厳しそうですわね、室長代行」

「うっ! 」

 涼子は顔を歪めて両手を鳩尾に当てると、そう呻いてヨロヨロとデスクに倒れ込むように両手をつく。

「ざっと見てここにプレゼントが100個、ヒューストンにも100個届いてると仮定して……。お返しが1人当たり10ドルとしても2,000ドル……」

 いくらUNDASNの給料が世界的にも高水準にあるとは言えども、確かにキツイだろう。

 ”でも、それでもちゃんと、お返しするんだろうな、この女性ひとは……”

 銀環が胸の中でそう思った途端、涼子が疲れた笑顔を浮かべてポツリ、と言った。

「でも、例え女の子からのバレンタインなんて複雑なプレゼントとは言え、文句言っちゃ駄目だよね。みんな、私の事想ってプレゼントしてくれたんだもの、それって」

 涼子はそこでリザと銀環、2人の顔を等分に見比べてニコ、と微笑んだ。

「やっぱ、嬉しいもの、ね? 」

 花の様な笑顔に、思わずクラ、ときたものの、同時に心に漣がたつのを覚え、銀環は思わずそれを言葉に出す。

「やっぱり室長代行は、その……」

 お相手は男性でなければいけませんか? 

 続きを舌にのせるのに、刹那、躊躇いを覚えて唇を噛む。

 たぶん、涼子はヘテロだ。判っている。

 ただ、それを涼子自身の口から聞かされるのは、やはり厳しい。

 毎日、傍に立てる幸せだけで、満足すべきなのだ。

 そう自分に言い聞かせ、自分でも納得したつもりになってはいるが、一方で、拒絶されてもいい、今の微温湯のような日常が崩れ去っても良いから、胸を焦がすこの想いを、カケラだけでもいいから愛するひとに伝えたい、狂おしいほどそう叫ぶ自分がいることも、銀環は理解していた。

 ふと気付くと、涼子が小首を傾げて自分を見ていた。

 ”あ……。まずい。泣きそう”

 途中で言葉を区切ったままでは、涼子に怪しまれる。だけど、口を開けば止め処なく涙が零れ落ちそうで、銀環はパニックに陥りかける。

「さ、それより室長代行。出発前に督促のあったECE向けの回答草案を早く作ってしまいませんと。それに、マズア武官と情報部から朝の情報の追加ヒアリングも行う必要がありますので」

 リザの言葉に涼子は弾かれたようにデスクから身体を離した。

「あ、そうだったそうだった! 」

 涼子は自分のデスクに移動して、アタッシュを開いて書類や携帯端末を机上に並べ始める。

 ”……助かった”

 銀環がそっと吐息をつきながら胸を撫で下ろしていると、いつの間にか隣に並んで立っていたリザが、涼子からは見えないところでそっと、背中を優しく叩いてくれた。

「先任……」

 リザの端正な横顔に思わずそう呟くと、彼女は、チラ、と銀環を見てコクンと頷いて見せた。

 彼女もきっと、自分と同じ想いを抱えている。

 辛く切ない想いを胸に抱きながらも、それでも慰め、力づけてくれる『同志』がいてくれる幸せを再認識し、銀環も”大丈夫です、ありがとう”の思いを込めて、頷き返す。

「あ、そうそう! 」

 刹那、聞こえてきた涼子の声に二人揃ってそちらを見ると、涼子が再びこちらに微笑みかけてくれていた。

「リザ、銀環」

「イエスマム」

 返事すると涼子は微かに頬を染め、アタッシュに突っ込んでいた両手を出して、二人に差し出した。

「いつも二人には助けてもらってるから。ありがとね、ハッピー・バレンタイン! 」

 シックなラッピングに包まれたゴディバがふたつ。

 銀環の霞む視界の隅で、リザがハンカチで眼を押さえるのがチラ、と見えた。

 今度は泣いてもいいんだ、と銀環は、安心して身体から力を抜いた。


「はい。……その点は了解です、ハッティエン政務局長。ええ……、はい。あ、ボールドウィン軍務局長の記者会見は先ほど、モニタしました。ええ、あれで結構です。……最終的には、第4方面作戦域での敵主力撤退の陽動、挑発行為だったことにすれば、辻褄は合うと思います。……ええ。はい、感謝します。それでは英国外務省にはその旨、こちらより連絡を……。ああ、はい……。ええ、心得ております。コルシチョフ部長からも釘を刺されております。予定では、英国外務省からはジョンソン審議官とハリソン儀典課長がヒースローに……、ええ、時間が時間ですのでハーバー副大臣は今回のところ……。イエッサー。それでは車列をご用意して2300フタサンマルマル時にお待ち申し上げます」

 受話器を置いて涼子はソファのマズア、コリンズ、小野寺を等分に見渡し、ニコ、と微笑んだ。

「到着時間以外は、全て予定通り。メンバーは統幕本部長の他、ボールドウィン軍務局長、ハッティエン政務局長、コルシチョフ国際部長と随員25名、警務9課ルース二佐率いるSP901、905小隊の計71名、本2300フタサンマルマル時、CA370シリウスでヒースロー空港ターミナル7~普段はチャーター専用、今回は海外来賓送迎専用に指定されている~に到着予定」

 CA370シリウスは、エアバスインダストリー社製旅客機A3701の7発エンジンという特徴的なフォルムを殆どそのまま受け継いで、UNDASNの要人輸送専用機として開発された機体である。

20世紀後半から主要各国政府が装備し始めた、所謂『政府専用機』のUNDASN版だ。

 即ち、空飛ぶ統合幕僚本部、である。

 あらゆる指揮通信機能や会議システム、戦闘管制システムを装備しており、万が一~統幕統合司令センター壊滅~の場合にはCA370がその機能を一時的に引き受ける。勿論、民間向け旅客機であるA3701の航続距離を飛躍的に伸ばし、高度30,000mで巡航速度マッハ2.5なら地球を7周でき、その上空中燃料補給装置も装備している。有事には、同型機が5機編隊を組み、統幕・軍務・政務・その他・バックアップとそれぞれ役割分担をしてUNDASN全軍を暫くの間は指揮する事になる。

 但し、その編隊は、系内航空総群第1輸送航空団におかれた、第99特別輸送航空隊の任務だ。

 統幕本部長やそれに匹敵する幹部の移動に供されるのは第2輸送航空団の第99特別輸送航空隊の8機のシリウスであり、その内2機は常に国連本部と国連防衛機構に乗員毎貸与されている。

 今回統幕本部長一向が利用しているのは、この内の1機、国連防衛機構貸与機の方であり、国連事務総長や国連防衛機構事務局長は、もう1機の国連本部貸与機で昨日のうちに移動済である。

 彼等の足となるCA370に国連貸与機を指定した事ももちろん、ヒースローへの来着、これみよがしに車列を連ねた出迎え、記者会見での延着理由の欺瞞。

 それら全てが、今回の英国新国王戴冠へのUNDASN統幕本部長他幹部の参列が国際政治の檜舞台において、対ミクニー戦の立役者がUNとUNDASNであること、そして対ミクニー戦継続こそ地球の唯一残された道であることをアピールする為の布石であり、涼子の推し進めてきた戦略上での必要最低ミニマム条件だった。

「あ、それとロンドン・ウィークの警戒監視用に英国上空に張り付けてあった警戒監視衛星団の監視衛星1基に加えて、もう1基、ルックダウン能力の高い警戒衛星を追加して貰える事になったわ。3時間後に軌道投入完了、稼働予定。これで今回の暗殺計画を専用監視できる態勢が整ったことになるわね」

「ご苦労、石動。よくやった」

 今日までの苦労全てを労うつもりで声をかけた小野寺は、涼子が嬉しそうにコクンと頷く姿~本来、軍人ならば将官から労をねぎらわれれば『光栄です』と敬礼を返す場面だ~を見て、それを咎める事も忘れて感慨に耽る。

 欧州1課長の辞令を貰いました! とまるで運動会で一等賞を取った小学生のような笑顔で軍務部長室に駆け込んできた涼子が、である。

 今、世界中の海千山千の政治家や官僚、古強者揃いのUNDASNのアドミラルを前に堂々の論陣を張り、誰もが尻込みする壮大な計画を力任せに推進し、しかも今や殆ど成功ともいえるステータスを叩き出した涼子と、今目の前で佇む子供のようにキラキラと輝く笑顔を浮かべている彼女は、果たして同一人物なのか? 

 いや、もっと言えば。

”あの対人恐怖症気味だった、こいつが……”

 卒配で自分が艦長を務める軽巡五十鈴にやってきた、まるで虎の檻に放たれた兎のような、視線を周囲に泳がせ、掠れる声でどもりながら喋る、コミュニケーション不全の挙動不審な小娘だった涼子、笑顔など想像できない、怯えきった表情が顔に張り付いていた涼子と、今、目の前で頬を染めて微笑む彼女は、同じ時間軸で繋がる同一個体だと、誰が言えるだろう? 

 それを思うと、感動さえ覚えるほどだ。

 半年ほど前、軍政両局部長会議の席、休憩時だったか、涼子の上官であるコルシチョフ国際部長が甘酸っぱそうな顔で言った話が甦る。

「欧州室長が退院されたのに、なんで私、いつまでも代行パテなんですかぁ? 」

 泣きそうな表情で~実際、その大きな瞳には零れんばかりに涙が溜まっていたとか~そう、詰め寄られたらしい。

 辛いのだろう、なんの抵抗もなくすんなりとそんな言葉が浮かび上がった。

「人手不足だ辛抱せい! と、追い返したが、ね」

 コルシチョフだって判ってはいるのだ、そのまま口を噤んだ彼の表情が、何より雄弁に物語っている。

 計画的犯行だろう、とすぐに判った。

 彼女にエンパワーメントするのが、今次ミッションの完遂、成功への早道であることを、この国際三部門のエキスパートである、ヒゲもじゃのブルドッグのようなロシア親父は誰より正確に見極めていたのだ。

 ”そう、俺を除く誰よりも、だが……”

 そこまで考えて、小野寺は口をへの字に結ぶ。

 40を過ぎて俺は何を考えているのか、と苦々しくさえ思う。

 日々、生きていくのにどことなく疲れを感じ始めるような、しがない中年男だ。

 それが『不惑』どころか、戸惑いまくっているのが我ながら見っとも無い。

「あ、そうそう。201師団におねだりしておいてほしいなぁ、マズア。ヒースローへ展開する201師団のレンジャー、出来たら目立たず、LAPES~超低高度物資投下、タッチアンドゴーでランウェイを滑走しながら後部ペイロードハッチからドラッグシュートで貨物(この場合は兵員の搭乗した兵員輸送装甲車APCだ)を引き摺り下ろす~で運んで、って。ああ、それと英外務省へも連絡、お願い。記者会見は、今夜はキャンセルね。あ、ホテルの手配と警備配置確認も、到着予定時刻ETAの修正に併せて再確認、ね。えと、ペニンシュラだったっけ? 」

 統幕本部長移動時間決定に伴う追加手配をマズアに指示し終えたところで、涼子は不意に、こちらを振り返った。

 えへっ!

 子供っぽい笑い声が聞こえた……、ような気がするくらい、完全無欠、花のような笑顔だった。

「! 」

 思わず視線を外し、意味もなく手元の携帯端末を見る。

 ディスプレイの縁から見える、下半分隠れた涼子の形の良い眉が、刹那、気落ちしたみたいに歪んで見えたのは、自惚れだろうか? 

「あ、そう言えば、明日の夜、メキシコ大統領と統幕本部長との会談、セットされてたよね? ストーリー・シートあったら、ヒューストンの米州3課に……、そう、マルソーロ課長に送って。彼は、明朝こっちに到着予定の筈だから」

 再びビジネスモードに戻った涼子の横顔に、小野寺はそっと溜息を吐く。

 ”やれやれ……”

 やけにドレスブルーのジャケット、右ポケットが重く感じられ、小野寺はそっと右手を突っ込む。

 小さな封筒に指が触れた。

 これが、重さの原因だ。

 ”……どーすっかなぁ”

 四十代なんてまだまだガキだ、と自嘲した途端、ますます気分とポケットの重みが増した。

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