第12話 4-3.


 思い返せば、不思議な事件だと思う。

 いや、事件全体は今のところ表層を一通り嘗めただけであり、からくりまでは解き明かせてはいないし、概要だけを眺めると別に情報部がわざわざ担当しなければならないようなものでなく、謂わば単純なストーカー犯罪のようなものだ、ただその被害者が特殊且つ重要な立場に立っているというだけで。

 コリンズは統幕軍務局情報部情報2課所属、その任務は特定要監視指定国際危険思想団体担当であり、例を挙げればフォックス派のような反UNテロ組織を相手取る。今回のような内部犯行の疑いもあるような事件の場合なら、内部情報監視担当である情報6課、外部のストーカーが機密情報を探り出しているのならば情報5課が担当すべきものであり~いや、そもそも単なるストーカー事件だとすれば、それは情報部の管轄ですらなく、政務局警務部の内務捜査担当に任せれば良いのだ~、何れにせよコリンズには関係などない筈の事件だった。

 それが、何故自分にお鉢が回ってきたのか? 

 はっきりとした理由は上官から告げられた訳ではない、けれど大凡の見当はついている。

 昨年の秋口、抱えていたヒンズー教系を名乗る過激派の爆弾テロ事件になんとかカタをつけて久々にヒューストンへ戻ったコリンズは、帰着と捜査終了の報告をする為、2課長室のドアを開いた。

 久しぶりに顔を見た2課長は相変わらずの仏頂面、眉間にヒマラヤ山脈のような深い皺を刻みつけてコリンズの簡単な報告を黙って聞いていたが、やがて大儀そうに口を開いた。

「ご苦労だった、二佐。……ところで話は変わるが、君は、確か二佐になって6年目だったか? 」

「ノー・サー。8年目ですが」

 ふんふんと軽く頷いた後、2課長は手元の書類に視線を落として、ぼそりと言った。

「そろそろ、考えてもいいんじゃないかね? 」

 すぐに、彼の言った言葉の意味は理解できた。

 けれど、どう答えればいいものか、逡巡している間に、二課長は右手を振った。

「まあいい。暫くゆっくりしていたまえ」

 胸にモヤモヤを抱えたまま約1週間、ノロノロと纏めたレポートを提出した翌日、二課長に呼び出され、新たなミッションへのエントリを命令された。

 それが、涼子の件だった。

 拝命して、課長室を出てドアを締めた途端、ガクン、と身体中から力が抜けたように感じ、その場で立ち尽くした。

 判っていたことだった。

 情報部エージェントからの『引退』。

 確かに、自分はもう過酷な非公開非合法活動の最前線に立つには、しんどい年齢だ。

 だからと言って一等陸佐に進み管理職に落ち着けるような器でもないのだろう。人並みに出世欲はあるつもりだし、それだけの活動と成果を上げてきたつもりだ~もちろん、所属が所属だ、公式に記録されるような『戦果』は殆どないのだけれど~、いや、情報部エージェントとしては自惚れでも何でもなく、多分有能だと認められているくらいだろう。

 けれど。

 何をどう繕ったって、自分は公務員だし職場は軍隊と雖も行政機関に違いなく、そして間違いないのは自分はUNDASNという軍事組織内ではどう足掻いたって裏街道を余りに長く歩き過ぎ、今更表街道になど戻れない身体になってしまった、と言うことだ。

 それを悔やんだり運のなさを嘆いたりするつもりも自分を可哀想に思うつもりもないし、肩を叩いた二課長を恨む事もない。いや、そもそも彼は、腕利きだけれどそろそろくたびれ始めた部下を心配さえしてくれたのだろう。

 判っているのだ。判ろうとしているのだ。

 しかし、誤魔化しきれない寂しさが、どうしても残る。

 唯でさえ陽の当らない道と揶揄される情報部で、それでも必要悪なんだ、俺達が頑張っているからこそ表街道の実施部隊や幕僚部の連中が光っていられるんだと言い聞かせて命を的に戦ってきた、この職場で。

 その職場にすら、裏切られたように思えてしまう。

 子供っぽい、拗ねた感情だとは判っていても、それでも。

 寂しいと感じてしまう。

 ストーカー犯罪とそれに絡む内部情報漏洩。被害者本人にとっては重大事だろうが~本件では被害者は自分をそうとは未だ認識していないけれど~、軍隊の諜報部隊が動くほどの事案でないのは明白、つまり。

 体の良い、窓際族の一丁上がりだ。

 思わず自嘲したコリンズの耳に、その時届いたのは。

 統幕の他部局と比べてダークスーツや私服の人間が多く、部署柄デスクにつく人間も少なめで、良く言えば静かな、悪く言えば全体的に暗く沈んでいる印象がある情報部オフィスには似つかわしくない明るい笑い声だった。

 心理状態が最悪だったコリンズにとっては、それは苛立ちしか感じさせないものだった。

 普段から訓練して身に付いている筈のポーカーフェイスも忘れて苛立ちを表情筋に乗せて笑い声の方向へ顔を向けると、そこには。

 すぐには信じ難い情景が、あった。

 ドレスブルー姿の美しい女性が、コリンズ自身はよく知らないダークスーツ姿の若いエージェント数名と歓談していたのだ。

「やだもう、タックス君ったら食いしん坊過ぎ! 」

 タックスと呼ばれた男は片手にショートケーキらしき物体を持ちながら、口をもぐもぐと動かしていた。笑顔で。

「だって室長代行、これってあの有名な『ロリンズ・ロリーゼ』のラズベリー・タルトでしょう? 1日限定30個とか言う幻の! 」

「貴様、だからって手掴みはないだろう」

「ははぁ、貴様、さては室長代行の母性本能を擽ろうって作戦かっ? 」

 周りの同僚達の言葉に、室長代行と呼ばれた女性はアハハハと朗らかな笑い声をあげる。

「室長代行、タックス二尉の周囲10m以内は立ち入り禁止ですよ! 妊娠させられちゃいます! 」

 通りがかった庶務の女性下士官の声に、室長代行と呼ばれた女性はおどけた仕草で後退さるふりをして、それがまた周囲に笑顔を生む。

「警告ありがとう、ミレーヌ、助かっちゃったわ。あ、貴女も後で食べてね、お勧めはクランベリーパイなんだって」

 彼女はそう言うと、バイバイと子供みたいに手を振りながら、こちらへ歩いてきた。

 室長代行、という肩書が本当なら、相手は三将か一佐の代将なのだろう、けれどこちらへ真っ直ぐに歩いてくる女性は、コリンズにはとてもそうとは思えない。

 いや、そもそも彼女は人間なのか? 天使、いや女神ではないのか? 

 彼女がこちらへ一歩、また一歩と近づくにつれ、無機的で、事務効率向上のためだけにセットされている筈のオフィス照明は、何故こんなに煌びやかに輝く? 

 彼女が近づいてくるにつれて感じる、この暖かさの正体はなんだ? 

 いや、何を飲まれているんだ俺は、それでも情報部のベテランエージェントか。

 スパイ活動とSEXは切っても切れない、もちろん自分だってそうだった、ベッドでの諜報活動は得意な筈なのに、なんだ、この男子高校生のような体たらくは。

 コリンズは瞼を固く瞑り、己を叱りつける。

 けれど、それさえ、途中で中断させられる羽目になった。

 正体不明の、甘い匂いが鼻孔を擽るから。

 恐る恐る瞼を開くと、目の前には、優しい微笑を浮かべた女神がいた。

「こんにちは」

 小首を傾げてそう言った彼女の声は、まるで天から響く福音のようにも聞こえた。無信心の癖に。

 軍隊組織の執務室内、しかも職務中に交わされるべきではない彼女の挨拶~それは例外なく階級下位者からの敬礼、上位者の答礼で賄われる筈だった~は、けれど彼女に、とても、とても似合っているように思えた。

 急激に上がった体温のせいか霞む視界に抗って、それでも可能な限り彼女の情報を得ようとする。

 ドレスブルーの飾緒は銀色、政務幕僚らしい。右胸の階級章は一佐、その上に金色の星が輝いているのは代将の証。

 つまり彼女はアドミラルだ~話は聊か逸れるが、本来、代将とは階級ではなく職制上の地位を表す呼称であり、艦長である一等艦佐(大佐)と戦隊司令官(本来ならば少将配置、UNDASNなら三等艦将に当たる)である一等艦佐を区別する為に存在する単語で、単純に英訳すればそれは“Commodore”である。けれど准将の階級がないUNDASNでは代将は階級ではないが代将が職制と見合った階級を持つ他部隊の人間との間に上下が出来ないようにとの配慮から、代将もアドミラルとして扱われる慣習が出来上がっていた~。

 私服のエージェントとは言え自分は兵科将校、上級者に対しそれなりの礼を。

 今更ながら自分達の関係性と現在のシチュエーションを思い出し、まずは私服敬礼を。そう思うのに身体は動かない。

 漸く発する事の出来た言葉は、「こ、こんにち、は」

 敬礼則違反、しかも噛んでしまった。

 けれど彼女は失礼を咎めることなく、それどころかコリンズが反応を返したことが心の底から嬉しいとでも言うように、大輪の薔薇が開いたような笑顔を浮かべた。

「はい、こんにちは。……えっと、ところでちょっと、失礼しますね」

 彼女の言葉と背後を指差す仕草で、コリンズは漸く気付いた。

 彼女が二課長を訪ねてきた事に。そして自分が二課長室のドアを塞いで立っていた事に。

 慌てて身体を横にずらすと、彼女は「ありがとう」と鈴が転がるような声でそう言って、コンコンコンとノックして部屋の主の返事も待たずにドアを開いた。

「石動、来ましたぁ」

「ああ、涼子ちゃん。いらっしゃい」

 部屋の主は、いつの間に交代したんだ、とコリンズはゆっくりと閉まっていくドアを呆然とみつめながら考える。

 あれが、あの無愛想な2課長の声か? 

 そして彼女は、黙って睨むだけでシャバのカタギなら1分持たずにチビってしまいそうになるあの強面の一等陸佐にファースト・ネームで呼ぶのを許すくらいに馴染んでいると言うのか? 

 やっぱり彼女は軍人ではなく、美の女神の化身ではないのだろうか? 

 視線を感じて我に返る。

 首を振ると、さっき女神にミレーヌと呼ばれていた下士官が郵便物の束を胸に抱えてこちらに訝しげな視線を投げかけていた。

「おい、貴様」

「はっ」

 姿勢を正して敬礼に代え、歩み寄ってきた彼女に、コリンズは噛みつくように訪ねた。

「今の代将、誰だ? 何者だ? 」

 コリンズの勢いに若干引き気味になりながらも、ミレーヌは答えた。

「政務局国際部欧州室長代行の石動涼子一等艦佐です」

 どこかで聞いた名前だと首を捻りかけて、思い出した。

 つい今しがた、2課長から命じられたミッションの、ブルズアイの名前じゃないか。

 そう言えば渡された書類に貼ってあった彼女の写真を見て、なんともまあベッピンさんじゃないか、そりゃストーカーの一人や二人湧いたって仕方ないと感じたことを思い出した。

 どうやら身分証明IDカード用のバストショットは、確かに証明写真とは言えないほどに美しい彼女の魅力を最大限頑張って切り取ってはいたが、それでも実物の持つ美貌を50%も切り出せてはいなかったらしい。

「彼女、ここの顔馴染みか? 」

「イエッサ。4月にヒューストンへ着任されてから、ちょくちょく情報部へ顔を見せられます」

 4月着任なら、自分が知らなかったのも当然だ。ここへ戻るのも1年ぶりなのだから。

 それに、外交を司る国際部なら、情報部との関係が密接でも不自然ではない。

 けれどそれならメールや内線で事足りるし、いやそれ以前に初級幹部ならいざ知らずアドミラルが自ら相手部門に足を運ぶなど、普通はないだろう。

「その度に室長代行ったら明るい笑顔で皆に声をかけてくれて、しかも手土産や差し入れもして下さって……。ああ、ほんと美人なのに可愛くって優しいなんて反則だわ! 」

 顔を赤らめて一人舞い上がっている下士官ミレーヌを放置して、コリンズは自分の席に戻る。

 彼女は、石動涼子は、間違いなくUNDASNの表街道を堂々と歩くエリート中のエリートだ。

 対して情報部は、その活動や行動から裏街道を歩かざるを得ない運命を背負っている。

 どちらもUNDASNにとって必要不可欠な部門である事は承知し、互いに認め合い、協力し合ってはいるのだが、とは言え、そこに所属する個人個人の感情はそれほど理解し合えている訳ではないだろう。

 特に情報部側からしてみれば、表街道を歩く制服組は眩しく羨ましく、そしてそれ以上に妬ましい存在であることは間違いない。

「じゃあ、今」

 自分が見た、あの和気藹々とした、情報部らしからぬ~いや、そもそも軍隊組織のオフィスらしからぬと言っても良いだろう、あれじゃあまるで民間企業の給湯室での休憩タイムじゃないか! ~光景は、なんだったんだ? 

 徐に席を立って足を動かし、コリンズはタックスと呼ばれていたエージェントに歩み寄った。

「コリンズ二佐……! 」

 タックスの方は自分を見知っていたらしい。

 驚いた表情を隠すことなく浮かべたタックスに、コリンズは心の中で彼のエージェントとしての資質に駄目を出しつつも、全く違うセリフを言い放った。

「俺にもひとつ、分けてくれんか? 」

 指をさしたのは、涼子の手土産。

「ど、どうぞ」

 差し出された箱から、クランベリー・パイを掴み上げた。

「あ」

 タックスの声を無視してガブリとかぶりつく。

 甘かった。

 その甘さは自分には似合わない、そう理解しつつも今はその優しい味覚がささくれだった胸に心地良かった。

 まるでケーキの甘さが、涼子の甘さのように思えて、もう少しだけ、甘えさせていて欲しかった。

 二口でパイを片づけ、ごちそうさんとタックスに投げかけて自分のデスクへ戻る。

「よし」

 決めた。

 今回の見当外れに思えたミッション。

 ひょっとすると、これが自分のエージェントとしての最後の活動になるかも知れない。

 さっきまでは肩叩き、体の良い窓際族、そんな風にいじけて捉えていたけれど。

「ラスト・ミッションに相応しい、甘さじゃないか。デザートにはもってこいだ」

 背後で、ミレーヌの情けない叫び声が上がった。

 すまんな、ミレーヌ。

 その代わり、と言っちゃあなんだが、な。


 俺が、あの女神をストーカーの手から、必ず守ってやる。

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