第6話 2-3.


 国際司法裁判所長としてハーグに滞在しているとき、統幕政務局国際条約部の司法裁判所駐在武官補佐官として赴任してきたのが涼子だった。

「統合幕僚本部、政務局国際条約部、ハーグ駐在武官補佐官に上番しました、石動涼子三等艦佐です。爾後、宜しくお願い致します! 」

 緊張に震えながらの敬礼姿が、まるで学芸会で主役を任された孫娘の姿と重なって思わず微笑んだマクドナルドに、涼子もまた赤く染めた頬に幼い笑みを浮かべた。

 新しく着任する武官補佐官が、未だ23歳という若さであること~23歳で三佐に昇進したらしい、なんでも、佐官任官最年少記録だという~、戦時中につき相対的に昇進速度が上がっているとは雖も、流石記録を打ち立てるだけのことはあって、戦場にあっては常に目の醒めるような大活躍でブロンズスター勲章三度、シルバースター勲章二度を含めて胸の略綬は3段に届かんとする歴戦の勇者、一等艦尉の2年目で防衛大学に合格して、第一専攻こそ艦隊作戦幕僚課程だが第二専攻では外交幕僚課程、副科では国際関係学を選び、卒業後、通常ならば『娑婆ッ気を抜いて潮ッ気に漬ける』と称して実施部隊へ配属されるところを、国際関係学主任教授の熱烈な推薦で統幕政務局の所謂『国際三部門~国際部、国際条約部、国連部を総称してこう呼ぶ~』に配属された『政務幕僚のホープ』であること、そんな前評判は聞いてはいた。

 だが、その経歴と評価がこれほどまでに外見のイメージと遙かに懸け離れているとは、それこそ予想だにしなかった。

 軍神マルスの憑依したヴィーナス。

 初対面でそんなイメージを持った彼だったが、その後、任務遂行の過程でそのイメージを修正せざるを得なくなるまでに、時間は然程掛からなかった。

 マルスの憑依したヴィーナスの仮面を被ったエルフ。

 ひょんなことから彼と妻を『本当の祖父母のように思ってます』と恥ずかしげに言い、それに応えて腕を広げてみせると、それからはまるで本当の孫娘のように甘え、はしゃぎ、笑いながら話す涼子は、まるで妖精のようにキラキラと輝いて見えたのだ。

 『私、両親とは中学のときに死に別れて、その両親ともに孤児だったらしくて、だから祖父母ってどんな感じなのか知らないんです』

 仕事の合間にふと始まった雑談の折に、寂しげな笑みを浮かべてそう言った涼子は、だからマクドナルド所長とこうやってお話してると、おじいちゃんってこんな感じなのかなって、と恥ずかしげに言葉を継ぎ、頬を染めた。

 彼は思わず、結婚して南アフリカのヨハネスブルグで暮らしている娘の幼い頃と目の前の涼子の笑顔をだぶらせて、次の休日に自宅に招待した。

 初対面で妻のニコルと、まるで本当の母娘のように打ち解けてキッチンに並んで夕食を作っている涼子の楽しげな表情が、甦る。

 それから休みのたびに自宅を訪れるようになった涼子との関係は、彼女が駆逐艦の艦長として~確か、D1045不知火しらぬいだったか~太陽系外へ転出するまでの半年間続いたのだったが、任地へ赴任していく涼子をアムステルダム国際空港まで見送った帰路、ニコルは寂しげな表情を見せてこう言った。

「涼子ちゃん、これから大丈夫なのかしら? 」

 今更何だ、彼女の経歴はいつか話した通りで、実施部隊のお偉方からは早く前線へ戻せと矢の催促だったらしいぞと彼は妻に言ったが、彼女の曇った表情は晴れなかった。

「いつだったか、涼子ちゃんと一緒にお夕食の買い物にマーケットへ出かけた時の事なんだけど」

 買い忘れがあったからと、涼子を近くのカフェテラスに座らせてマーケットへ走り、20分ほどで戻ってみると、涼子は学生らしい若い男達数人に囲まれて顔を真っ青にして震えていた。

 ニコルの顔を見た途端、大きな瞳からボロボロと涙を零して胸に飛び込む涼子を見て、男達は呆れたような表情で肩を竦め、ニコルに謝罪の言葉を述べて立ち去ったのだが、宥めすかして事情を聞いてみると、ナンパされたのだと言う。

 余程怖い目に遭ったのかと聞くと、違うらしい。近くのハーグ経済大学の学生だったらしく、身分を名乗ったあと、美しいお嬢さんご一緒しても良いですかと頗る紳士的なお誘いを受けたらしいのだが、それでますます涼子の態度が理解できなくて、思わず問い質していた。

「私、駄目なんです。昔から、見知らぬ男性が苦手で……。最近漸く、UNDASNの人達は仲間なんだって思えるようになって平気になったんですけど、それでも、娑婆の若い男性達が、私を女性として見てるなってシチュエーションに出会うと、身体が震えてきちゃって・・・」

 ごめんなさい心配おかけしましたでも所長にはお願いですから言わないで下さいきっと心配して下さるだろうから、と懇願されて今日まで黙っていたらしい。

「あの日以来、私、涼子ちゃんのあの可愛い笑顔が何だか儚げに思えて……。なにか、トラウマがあるんじゃないかしら? 」

 だから、これから先、軍人としての涼子は兎も角、一人の女性として生きていけるのかどうか、不意に心配になったのだと、ニコルは語った。

「私も彼女の口から聞いたことがあるが、UNDASNの、特に同じ艦や艦隊の同僚達とは、弾の下を潜った運命共同体というか、同じ釜の飯を食った仲間意識が強くて、安心感があると言っていたよ。UNDASN以外での話は今日初めて聞いたが、まあ、彼女のことだ、大丈夫なんじゃないか? 」

 その場は適切な答えも思い浮かばず、そう心配するなと妻の肩を叩いて話を切り上げたが、その日以来、彼の中の涼子に対するイメージは、ヴィーナスよりもエルフ、そしてエルフよりも妖精、フェアリーに近いものとなった。

 エルフとフェアリー、どちらも今では『妖精』ととらえれることが多いが、本来は別物だ。

 エルフの発祥はゲルマン神話、小さな愛らしい子供の姿をしていて、人間に好意的な魔法を贈ったり、時には人間をからかったりして遊ぶ。

 フェアリーの方は、起源はスコットランドやアイルランドのケルト神話まで遡り、近世のフェアリーを描いた作品は大抵、背中に蝶や虫の翅を持つ、一般の童話やファンタジーに登場する『妖精』により近いイメージで、どちらかと言うと、人間に友好的でありながらも、人間の必要以上の介入に棲む世界を狭められ、無理に手を伸ばせば葉陰に隠れてしまう、儚さが感じられる。

 妻の話を聞いた後では、涼子の持つイメージは、エルフよりもフェアリーに近い儚さが、そう言われれば彼にも感じられるように思えたのだ。


「しかしそれにしても……」

 ハーグで初めて逢った日から7年。

 涼子は大方の期待を裏切ることなく、順調に略綬の数を増やし階級も上がり、そして『政務幕僚のホープ』の呼び声通り、今やUNDASNの国際三部門にはなくてはならぬ人材になった。

 まるで天才的且つ老練な外交官のような、情報収集能力と分析能力、それを戦略に組み立てる企画力と実行に移す行動力、行く手を遮る全てを排除するネゴシエーション能力は、お世辞抜きで、国連本部スタッフとして今すぐ引き抜きたいほどだ~実際に彼は、親友でもあるUNDASN統幕本部長統合司令長官に何度も転籍を要請し、その都度断られていた~。

 だからこそ、今では余計に、『UNDASN高級幹部である涼子』と『休日の涼子』の乖離が、不思議に感じられてならないのだ。

「……とは言え、今の私に、そして地球人類の明日にとって、彼女の才能が必要な事は確かなのだが」

 思わず呟いた途端、急に周囲の明度があがったような気がした。

 聖堂の出口が近いのだろう、差し込む陽光がキラキラと楽しげに反射している。

 まるで、フェアリーが舞っているようだな。

 その連想が、ついさっきまで考えていた涼子に因っていることは間違いないだろう。

「アテンション! 最高指揮官閣下に敬礼! 」

 聞き慣れた号令は、統幕政務局国連部長、ニールス・ブレクセン三等空将の声だ。

 きっと涼子は、デンマーク出身の大柄な彼の後ろに隠れるようにして、それこそフェアリーのような笑顔を浮かべていることだろう。


「ところでどうかね、気分は? 石動一佐」

 グラウンドの中央に駐機しているUHR60Jに向かって歩きながら、マクドナルドは背後の涼子を振り返った。

「あ、はい、えと」

 涼子は恥ずかしそうに頬を赤らめ、俯いた。

「その、もう大丈夫です。少し休んだから……。ご心配おかけいたしました」

 彼女がハーグを旅立った日の妻の言葉が脳裏に甦る。

 涼子がフェアリーたる所以は、7年経った今も変らないようだ。

 表情に心配が浮かぶのを見られたくなくて、マクドナルドは顔を前に向けつつ、口調を少しだけ冗談めかす。

「じゃあ、私の講義は聴いてくれたのかな? 」

「はいっ! それはもう、最初から最後まで! 」

 涼子の声も急に元気になる。

 漸く自分にも解ける問題を出されて張り切って手を上げる小学生のようだ。

 思いは周囲の人々も同じだったようで、クスクスと押し殺した笑い声が聞こえる。

「だって私、閣下のお声、大好きなんですもの! 」

「そうかね。涼子ちゃんはハーグ時代には、法廷の傍聴席でよく舟を漕いでいたがなあ」

 周囲が爆笑に包まれた事で、思わずハーグ時代の呼び方をしてしまったマクドナルドの失態に気付いた者はいない様子だった。

「やだもう、閣下の意地悪っ! 私、ちゃんと聞いてたもんっ! 」

 涼子が今度こそ顔を真っ赤にし、両手をバタバタ振り回す。

「でも、閣下? 」 

 突然大人しくなったかと思うと、声を顰めて涼子は言った。

「ん? 」

 急に様子が変った涼子に気付き、マクドナルドは思わず足を止める。

「少し、お疲れなのでは? 」

「何故かね? 」

 ドキリとして、顔から笑みが消えたのが自分でも判った。

「だって、その……。閣下のお話し振りが、ほんのちょっとだけ、ノリが悪かった、というか……、奥歯にモノが挟まったような、というか」

 これが涼子の真骨頂だ、マクドナルドは内心舌を巻く思いで、だがそれを表面に表わさず~事務総長に就任以来、身に付いた職業病だと、これまた内心で苦笑してみせる~意外な、と言う表情をして見せた。

「そうかね? 涼子ちゃんにはそう聞こえたかい? 」

 困ったような表情をして、涼子は子供のようにこっくりと頷く。

「ほら、だって閣下」

 そう言って涼子は美しいひとさし指をピン、と伸ばした。

「右の瞼がピクピクッ、って。それに二重瞼になっちゃってますよ? 」

 涼子は、自慢げな笑顔を浮かべて言葉を継ぐ。

「奥様が昔、仰ってました。夫は、疲れたときや、気乗りのしない仕事のときは、瞼を見ればすぐ判る、って」

 ああ、これこそ、『石動涼子一等艦佐』ではない、『涼子ちゃん』の真骨頂だ。

 年甲斐もなく、嬉しさを堪え切れない。

「あっはっはっは! バレたか、本当に涼子ちゃんには敵わない」

 呼び名を再びしくじってしまった事に気付いたが、言い直す気はなかった。

 本当に、この娘には敵わない。

 自分自身は、涼子に対し実の孫と変らぬ親しみを感じている~南アに住む娘が生んだ孫は、もう8歳、小学生だ、だが年に数度も会えない今の環境では、口には出せないが涼子の方が本当の孫では、と錯覚してしまう事は度々あった~し、涼子もまた、自分達夫婦に『祖父母』のイメージを重ねてくれているのも確かだろう。

 だが、少なくとも今は、パブリックな関係で相対している、という認識は彼も、そして涼子も持っている筈である。

 そして、それが涼子以外の人物ならば、二人の遣り取りはこうなっていた筈だ。

『元気だったかね? 』

『ありがとうございます、お蔭様で。閣下もご健勝なご様子で何よりです』

『や、それが疲れてるのかな、最近寝不足なんだよ』

『とてもそうは見えません、閣下。日頃のご節制の賜物ではないかと』

 大袈裟かも知れないが、UN職員、UNDASN将兵、彼女以外の誰と話をしても、大抵こんな流れになるだろう。

 だが、涼子は違う。

 杓子定規な遣り取りに捉われず、かと言って土足で相手の心中に踏み込むような真似をせずに、けれど知らぬうちにするりと相手の心の中に暖かな空気と共に入り込んで、癒されている、と言う満足感、安らぎを与えながら、結果的には相手の中心に自分を据えさせている。

 言葉は悪いが、天性の人誑しとは涼子のことではないか、と思うことが時々ある。

 その意味でやはり、涼子のイメージである『フェアリー』とは詩的な感覚と縁遠い法学者である自分にしては、言いえて妙な喩えだと、マクドナルドは自画自賛してみた。

「そうそう、思い出した。ニコルが涼子ちゃんに会いたいと駄々を捏ねて仕方ないんだ。忙しいだろうが、また、遊びに来てやってくれないかね? 」

「奥様、お元気ですか? 私もお会いしたいですっ! 」

ハイティーンの少女が映画スターの話をするように、涼子は胸の前で両手を組んで瞳をキラキラさせている。

 これだけ想われれば、ニコルも満足だろう、少しだけ妻に嫉妬してしまう。

「あ、そうだっ! 」

 涼子は突然、組んでいた掌を解いてパンッ! と手を打つと、ブレザーのサイドポケットに手を突っ込んで、10cm四方の、シックな黒い包装紙に包まれた箱を取り出して差し出した。

「なんだね? プレゼントかね? 」

 涼子は微かに頬を染めると、コクンと頷いた。

「今日はバレンタイン・デーですから」

 そう言えば、聞いたことがある。

 バレンティヌスとか言う聖人の命日に~彼は、改めて自分の不信心さ加減に苦笑した、やはり法学と宗教は水と油なのだ~、日本では何故か、女性が男性にチョコレートを贈る風習がある、と。

 あの、第一次ミクニー戦役開戦劈頭の『炎の二日間』から1年も経たぬ、荒廃し切った中~日本の被害は然程でもなかったが、それでも北海道や東北北陸、九州南部を中心に1千万以上が死んだ筈だ~、世界中の人々が食うや食わずの飢餓状態だというのに彼の国ではこの風習は廃らなかった、という程らしい。

 そこでマクドナルドは、漸く探していた単語を脳内から引きずり出す事に成功した。

「ああ、これが有名な『義理チョコ』というヤツだね? 」

 涼子の後ろに立つブロンドの美しい副官が、カクン、と身体を揺らすのが見えた。

「えへへへ。でもでも、3日前、ブリュッセル出張の時に買った、本場のベルギーチョコなんですよ? ゴディバ! 奥様、きっとご存知です! 私、奥様と閣下に食べて頂きたくて」

「判った判った、ありがとう、涼子ちゃん。ニコルもきっと喜ぶよ」

「事務総長、ご自宅へ届けておきましょう」

 後ろからンバヨ官房長が手を伸ばしてきたので箱を渡す。

「今回、奥様はご一緒ではないんですね」

 不思議そうな表情で問う涼子に、マクドナルドはどう答えようかと一瞬、躊躇ったが、止むを得まいと口を開く。

「うん、一緒に来る予定だったが、少し風邪を拗らせてね」

「ええっ! 」

 見る見る眉が哀しそうに下がっていくのを見て、マクドナルドは後悔を覚える。

「だけど、涼子ちゃんが遊びに来てくれると知ったら、すぐに元気になるさ」

「閣下、奥様にお伝え願えますか? どうかご無理なさらないように。戴冠イベントが落ち着いたら、お見舞いに伺います、と」

「なるほど、涼子ちゃんに見舞いに来て欲しいと思って、ニコルは仮病でも使ったのかも知れんな」

 そう言ってアハハハと笑うマクドナルドの声を掻き消すように、UHR60Jの1番エンジンが音を立て始めた。

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