1.自覚

第2話 1-1.


「私、もうすぐ……、死んじゃうのかな……」

 悪夢に魘されて飛び起きた石動いするぎ涼子が、荒い息を整えながら思わず声に出した不安は、見慣れない、だけど清潔そうな白くて柔らかい照明の輝く天井に、思いのほか大きく響いた。

 慌てて口を手で押さえ、周囲を見回して初めて、自分が白いカーテンに囲まれたベッドの上にいることに気付いた。

「あれ……? 病室、かな? 」

 人の気配は感じられない。呟いた言葉はどうやら他人には聞かれずに済んだようだ。

 安堵の溜息を吐き、涼子は手の甲で額に浮かんだ嫌な汗を拭いながら、自分の言葉を反芻して苦笑を浮かべる。

”もうすぐ死んじゃう……、か。何言ってんだろ、私”

 確かに今は、戦争中で、しかも自分は現役の軍人だけれど。

 『シャバ』の一般人に較べれば、病死老衰事故死以外の『非業の死』を遂げる確率は高いけれど。

 戦線は遥か遠く太陽系を離れて十数年、しかもデフコン2と比較的安全な~5段階あるデフコン上の話だ、マスコミの流すニュースに目を瞑り耳を塞げば、今がとても戦争中だとは思えない平和さだ~地球本星にある統幕勤務に就いている自分が、そんな不安を覚えること自体、涼子は不思議でならなかった。

 幹部学校入学から14年、卒業して三等艦尉を拝命してから12年。後方の幕僚配置と艦隊勤務の実施部隊配置を比較すると前線暮らしの方が長いし、実際、10ヶ月ほど前までは、第5方面作戦域の基幹艦隊である第7航空艦隊第2航空戦隊旗艦、空母F121翔鶴の艦長として最前線で戦ってきたのだから。

 その間、死を覚悟するような瞬間も何十回とあったが、それでも~喉元過ぎれば何とやら、ではないが~こんな不安感を持つ事など滅多にはなかった。

 勿論、生きて帰れないかも知れない、明日を迎えられないかもしれない、そんな緊張感~『覚悟』と言った方が良いか~を感じる事は、言えば、毎日と言って良いほどだった。

 だが、今のこの気持ちとは、違う。

 単なる『そこはかとした不安』ではない。

 予兆があるのだ。


 最初は微かだったその兆しが現れたのは、今にして思えば、昨年の4月、ヒューストンの統合幕僚本部に着任してから数週間を経た頃だったように思う。

 まず、頭痛が起きる。頭が心臓になったような、ズキン、ズキンと脳が鼓動を打っているのかと思うほどの、リズミカルな痛みだ。

 短いときで1時間くらい、長いときなら半日くらい、この頭痛に悩まされる。

 それでも最初は、2週間から3週間に一度、あるかないかくらいの頻度だった。

 それが、ここ数ヶ月はだんだん酷くなってきている気がするのだ。痛みも、時間も。

 そして頭痛を覚えた直後の睡眠では、悪夢に魘される。

 どちらが上か下か、左右もよく判らない、灰色の深い霧の中で気味の悪い浮遊感を覚える。はっきりと『見えている』のは確かなのだが、視界には何も映らない。やがて、ぼんやりと何かが浮かび上がってくる。最初のうちはそれが何なのか、判然としなかったのだが、最近、それがこちらに背を向けてしゃがみ込んでいる人間であるように思えてきた。

 そして、1ヶ月くらい前から、この夢に『音』と『匂い』がつき始めた。

 聞いているだけで死にたくなってしまいそうな、儚げな、悲しげな、女性のすすり泣く声。

 どうやら、背を向けている人物の声のようだ。とすると、女性なのか。

 声をかけようかとも思うのだが、思いとは裏腹に、足が竦んで近寄ることが出来ない。

 それは涼子の、生物としての警戒本能故か。

 ”彼女”と接することは、涼子自身の破滅に繋がる、そんな気さえする。

 そしてもうひとつ、”彼女”に近寄れない理由は、どうやら”彼女”が発しているらしい『異臭』のせいだった。

 思わず顔を顰めてしまうほどの、生臭い臭い。生物の体液や血液などといった類の生臭さなのか、腐臭なのか、排泄物のそれか、あるいはそれら全てが入り混じっているのか。

 夢でも、臭いを感じるのが、不思議だった。

 そして大抵、ここで飛び起きる。

 身体中汗に塗れていて、私宅の寝室ならまだしも、移動中の乗り物の中などでは、周囲の人間から『大丈夫ですか』、『魘されていましたが』、『酷い顔色ですよ』、『泣いてるんですか』等々心配されてしまい、恥ずかしさと申し訳なさで居ても立ってもいられなくなる。

 そう、1週間前もそうだった。

 早朝GMT0500マルゴーマルマル時(現地時間0600マルロクマルマル時)からブリュッセルのEU本部で行われたEU経済社会委員会の会議で提出されたUNへの要求決議草案を持って、サベナ・ベルギーのライナーに国際公務員特権でブレイク、ニューヨークの国連本部ビルに到着したのが米国東部標準時UTC1000ヒトマルマルマル時過ぎ。

 機中で召集依頼していたECOSOC(UN経済社会理事会)のECE(欧州経済委員会)の会議に駆け込んでバーター案を取り纏めて、EUへ今日中に文書で報告する旨を伝え終えたのがUTC1300ヒトサンマルマル時、ふっと気が緩んだのがいけなかったのか、会議室を出た途端に例の頭痛がリズミカルなセッションをいきなりスタートさせて、堪らずロビー隅のソファに座り込んでしまった。

 ブリュッセルから同行していたA副官のエリザベス・ショートランド三等艦佐に、15分だけ休憩させてそれとお願い薬をみたいからお水を頂戴、と言って目を瞑った途端に声を掛けてきたのは、顔見知りの国連事務総長室官房長だった。

 医療センターへ行くよう勧める彼の好意に感謝しつつも、涼子はこの後のスケジュールが押せ押せである旨を告げた。

「ありがとうございます、官房長。ですが、自分は今夜、ロンドンへ立たなければいけませんし、その前に今日の会議の結果をEUへ文書で提出しませんと」

 ソマリア出身の官房長は、ネイティヴ・アフリカン特有の哲学的な陰影を浮かべる彫りの深い顔に心の底からの同情を浮かべ、溜息混じりに言った。

「……そのワーカー・ホリック振りが、体調不良の一因ではありませんか? 石動一等艦佐」

 嘗て国際労働機関ILOに出向していたこともある彼が、率先垂範すべき国際公務員~涼子の場合は『特別職国際公務員』だが~がILO勧告を無視しまっくている状況を皮肉っていることに気付き、涼子は思わず頬を染めた。

「ロンドンの件も勿論知っています、どうせここ数ヶ月は殆ど休みなしなのでしょう? 今日にしても、たった半日で会議を2件、しかもベルギーとニューヨーク、大西洋を股にかけて。おまけに朝昼食事抜きとお見受けしましたが? 」

 悪戯を見つかった小学生のように項垂れて見せた涼子に、彼はアハハハと真っ白な歯を見せて笑った後、不意に目を細め、心配そうな表情を浮かべて口調を変えた。

「悪いことは言わない、リョーコ。体調管理も仕事のうち、明日のために今日、思い切って休むことも立派な貴女の任務ではないかな? 」

 まるで本当の身内のような誠意溢れる言葉に、中学のときに死に別れた両親を思い出して、涼子は一瞬、痛みを忘れたものだ。


 そんなことをぼんやり思い出しながら、涼子は、はたと疑問にぶち当たる。

「……あれ? 」

 そう言えば、今日は私、なんで? 

 ……あれ? 

 確か、ロンドンの駐英武官事務所で迎えた徹夜明けのブレックファーストのフォークを持ち上げた途端、武官事務所に顔を出した軍務局情報部2課の在英エージェント~えと、確か……、そう、ジャック・コリンズとかいう如何にも偽名っぽい二等陸佐だった、でも、まるでエージェントとは思えない優しい眼をしてたっけ~の口から聞いた最重要情報の第一報、『統合幕僚本部長統合司令長官暗殺計画』の存在発覚に驚きつつも即座に情報分析と精査、確度の検討を行い、武官には在英UNDASN実施部隊と後方支援部隊、幕僚系機関、それと英国政府関係機関にアラームを飛ばさせて、涼子自身は上官である政務局国際部長を通して統幕や在英各部隊間のTV会議を設定、対応策を確度に応じて10プラン程粗くだが策定、その後コリンズ二佐から状況詳細と周辺関連情報のヒアリングを行い、更なる精度と確度の絞込み、対応する対策の見直しと手配、その他指示済み対策の進行状況チェックとフォロー、おっとり刀で腰を上げた英国政府関係各機関との交渉を駐英武官や武官補佐官達と手分けして……。

「そうだ、お昼ご飯抜きでギリギリ、ケンブリッジ行きのVTOLに間に合ったんだっけ」

 マリオット・ロンドンの屋上VTOLポートに到着した途端、国連事務総長が私の酷い恰好を見て、大笑いしたんだわ。

「ほんと、失礼しちゃうわ、まったく! 」

 口ではそう言いながら、涼子は実のところ、この国連事務総長の優しげな笑顔と、温かみのあるテノールの声が大好きだ。

「だから、今日の記念講義は絶対逃せないからって、無理したんだもんね」

 だけど。

 そこから先が思い出せない。

 ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジのグラウンドにVTOLで着陸したことは確かなのだ。

「その後、予定ではセント・メアリー教会で、国連事務総長への国際法科名誉教授号の授与式典が30分、10分の休憩の後、名誉教授就任記念講義……」

 しかし涼子の記憶は、臨時VTOLポートに指定されたグラウンドに着陸した乗機から地面に降り立ち、尖塔の美しい大学教会のシルエットを見ながら歩き始めて暫くしたところで、プツンと、まるでテレビのスイッチを切ったように途切れている。

 ええと。

「そうだ、リザは? どこ? 今何時? 記念講義は始まったのかしら? 」

 呟いた途端、シャッ、と自分の周囲を囲っていた白いカーテンが開き、探していた当のエリザベスが心配そうな顔を覗かせた。


「お目覚めですか、室長代行。現在GMT1414ヒトヨンヒトヨン時です」

 エリザベスは、出来るだけ心配が顔に出ないように、そう思い、一度深呼吸をしてからカーテンを開いた。

「リザ……! 」

 顔色は、けっして良いとは言えないけれど、倒れる前に較べればかなり頬に赤みが戻っている。

 小さく叫ぶようにエリザベスの愛称を呟いた涼子の表情が、まるで捜し求めていた母親に再会した幼子のように見えて、今度こそ本当にリザは顔の表情筋を緩めた。

「ご気分は如何です? 」

 そう訊ねながらリザは、ベッド脇の丸椅子に腰掛けた。

「うん、頭痛も治まったし、大丈夫だよ。……ねえ、リザ? 」

 小首を傾げ、こちらの機嫌を伺うように上目遣いで問い掛ける涼子は、とても年上の上官には見えなかった。

「なんでしょう? 」

 きっと私は今、ドギマギして顔は真っ赤に違いない、リザはそれを隠そうとポケットからハンカチを取り出し、汗の滴が浮いた彼女の額を拭いてやりながら答えた。

「ここ……、どこ? 私、あの……」

 自分の手とハンカチの隙間から覗く涼子の黒い瞳は、まるで銀河を圧縮したように煌いている。

 直視できずに顔を逸らしながら、リザは早口の、まるで怒ったような口調で経緯を説明した。

「教会の手前、学生達のギャラリーから飛び出した男が、室長代行に抱きつこうとしたんです。事務総長閣下の警護にあたっていた警務部のSPが男を取り押さえました。室長代行はそのまま聖堂内の控え室に入った途端、気を失われたのでここに運びました。ここは聖堂内の救護室です」

 リザはここで漸く言葉を区切りブレスを取って、少しだけ口調を緩めた。

 涼子の瞳が、哀しげに潤んでいるのが判ったからだ。

「ご心配なさらずに、室長代行。狼藉に及ぼうとした男はキングス・カレッジの学生でした。なんでも、貴女の熱烈なファンだそうで、プレゼントをお渡ししたかったとのことです。反省の色も濃く、事務総長閣下直々のお執成しもありましたので、反省文をA4に50枚でシニア・チューターと手を打ちましたから」

 見る見る涼子の頬に安堵の色が浮かぶ。

 ”そうなんだ……。この女性は、こんなにも優しい。自分に害を為そうとした人間にまでも……”

 私ならあんなケダモノみたいな男、八つ裂きにしてやるのに。いや、その場で殺しては勿体無い、懲罰大隊送りにして、ミハランの灼熱の砂漠を武器なし食料なしでミクニー軍主力正面の最前線に放り出し、恐怖に震える表情を逐一録画してそんな男に育てた両親の元へ送りつけ……。

 そこまで妄想が転がったところで、涼子の声が聞こえてリザは我に返る。

「ごめんね? びっくりしたでしょ? 」

「……正直、慌てました」

 リザはハンカチだけでは彼女の汗を拭いきれないと見切り、枕元に置いてあったタオルに持ち替える。

 このハンカチは洗濯せずに保管しておこう。

「ですが、警務部のSP達がいて助かりましたわ。彼等が室長代行をこの部屋まで運んでくれたんですよ? 私一人じゃ正直、貴女を支えられませんでした」

「んもう! それって私が重いからってこと? リザ、意地悪だもん! 」

 ぷぅっ、と膨れる彼女は、一見普段の”可愛いモード~リザのつけた呼び名だ、この他に涼子はビジネスモード、戦闘モードと、まるで多重人格のようにコロコロと表情が切り替わる~”だったが、ついさっき耳にした~したくはなかったが~彼女の呟きが未だ生々しく耳に残っているせいか、リザは完全に安心する事はできなかった。

「それこそ意地悪ですわ、室長代行。首も腕も腰も足も、全部私より細いくせに」

 そこまで言ってリザは、ふと覚えた不安を紛らわせる為に、この可愛らしすぎる上官を少しだけからかってみる。

「……ああ! でも、バストとヒップは私よりも大きいから、差し引き私の方が軽いかもしれませんね? 」

 そう言ってリザが、ベッドに寝かせた時にネクタイを抜き取り、第3ボタンまで開いて寛げておいたシャツから覗く、深い胸の谷間を指差してやると、涼子は顔を真っ赤にしながら自分で自分を抱き締めた。

「やっぱ、リザのほうが意地悪だ! ……んでもって、スケベ」

「はいはい、仰るとおりです、リザは意地悪でスケベですよ」

 軍人どうし、しかも相手はリザより2階級も上の一等艦佐……、いや、三将配置ポストの統幕室長職を代行している今、彼女は代将だから3階級か? 何れにせよ、こんな失礼な物言いは、他の上級職ならとてもじゃないが出来ないし、しない。

 でも、彼女が”可愛いモード”になっている時は、何故か庇護欲を擽られてしまい、ついつい子供をかまう様な口調になってしまうのが常だった。

 そして涼子もまた、それにノッてくれるのだ~まあ、彼女の場合は付き合いというより、天然なのだろうが~。

「ごめんなさい! リザ、ごめん! 怒らないで! ……ね? 」

 泣きそうな表情で私に両手を差し伸べる彼女を見て、リザは思わず眩暈を覚える。

 きっと私だけじゃない筈だ、そんな気分になるのは。

 相手の母性本能を全開にさせるその可愛らしい表情と仕草に加え、本来の外見通りの、絶世の美女がシャツを肌蹴て頬を紅に染め、白く陶器のような肌理細やかな美しい肌に汗で黒く艶やかな髪を張り付かせてベッドから両手を伸ばしているのだ。

”どうにかならない方がおかしいのよ! ”

 リザは涼子を抱き締めようとして伸ばしかけた腕を、賢明に理性の鎖で雁字搦めにして抑え付け、代わりに手に持っていたタオルを阻止線とすべく彼女の顔の前に差し出した。

「怒ってませんよ、室長代行。それより、汗を拭きましょう。気持ち悪いでしょう? 」

 涼子は、嬉しそうな表情を浮かべてコクン、と頷き身を捩ってリザに背を向けた。

「シャツ、肌蹴て頂けますか? 」

 言いながら、リザは彼女よりも先に、自分の額に浮いた汗を手の甲で拭った。

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