モールス・コードで、愛を ~地球防衛艦隊の職場恋愛~
おだ しのぶ
0.予兆
第1話 0-1.
国連防衛機構宇宙艦隊、というのが彼、小野寺太郎の働く職場の名称なのだが、その名の通りその職場とは軍隊であり、もっと読み解くと地球を守るために宇宙で行動する艦隊だ、と言うことが判る。
うん、判り易い。
彼は正直、自分の職場への愛着、などという得体の知れない感情は今ひとつ持ち難いと普段から考えているのだが~嫌だという訳ではない、一口では言い表す事が難しい、複雑な想いが渦巻いている、と言うだけのことだ~、この組織のストレートすぎる程の判り易い名称だけは、文句無しに満足していた。
尤も、軍隊などと言う組織は、知れば知るほど胸の内に重苦しく降り積もっていく澱のような薄気味悪さと鵺のような正体不明の活動に反して大抵、名称だけは単純なのだ、そうじゃないのは彼の母国の正規軍くらいのものだろう、なんだ、セルフ・ディフェンスって。
話が逸れたが、即ち、その艦隊を構成する『艦~専ら、それはフネ、と呼び習わされている~』は平たく言えば宇宙船であり、もっと言えば、20世紀頃の空想科学活劇では光の速さを超える速度で深宇宙まで瞬く間に到達できるというご都合主義の塊のような小道具だった便利アイテムを、地球人類の科学文明が3世紀に満たない時間で実現せしめた超光速宇宙船を指す。
なのに今、彼の乗るフネは、『フネ』という言葉本来の意味の通り、波頭砕ける黒に近い深い緑の大海~この海域を過ぎる度に彼は想う、大西洋とはなんと陰鬱な、旅という言葉が内包する負のイメージばかりを煮詰めたような景色なのか、と~に浮かんで大きな周期でゆったりとローリング、ヨーイングを続けながら波を掻いて進んでいるのだから、世の中というものは本当にままならないものだと、つくづく思う。
未だ膨張を続ける果てしない宇宙空間をワープエンジン~俗語だ、正しくは螺旋加速縮退炉空間跳躍用推進機関と言う~によって光の速度を超えて翔る事の出来るこれら地球防衛軍の艦も、地球大気圏内においてはその俗称のままに水上航走を義務付けられているからなのだが、それには理由がある。
地球の空は、民間航空機のネットワークが網の目のように広がっていて、そこを基準排水量200万噸を超えるような大型宇宙戦闘艦に飛ばれては邪魔だというのがひとつ。
もうひとつは、その昔、異星人によって地球全土が焼失してしまうほどの凄まじい大爆撃がなされた事があったのだが、その爆撃被害、つまり成層圏を覆うほどに吹き上げられた大量の土砂粉塵の回収のため、あるいは爆撃の影響で破壊されたオゾン層の修復のためにこの星の亜成層圏より高いところを飛び回る、数兆にも上る数のナノマシン群の活動を邪魔しないためだ。
こう説明すると大抵の者は理解するだろうが、彼の職場であるところのこの軍とは、その大爆撃を敢行した異星人の侵略の魔の手から地球を守るために組織された軍であり、そして付け加えるならばその戦いは数十年の休戦期間を挟んで1世紀にもなろうかという長い時を経た今もまだ継続中なのである。
「何処まで続く泥濘ぞ、か……」
思わず呟いた途端、ビーッと無骨なブザー音が、彼が今佇んでいる後部観測艦橋に鳴り響いた。
別に驚きはしなかったが、また面倒臭い連絡事項や調整事項でも追い掛けてきたんじゃなかろうな等と考えつつ音の方を振り向くと、それまで彼の後ろで控えていたアッシュ・ブロンドの美女が手近のインターフォンのハンドセットを持ち上げるシーンが視界に入った。
「
まるで傘を回した様に銀髪を綺麗な円錐形に靡かせながら彼の方を振り返った彼女は、笑顔を浮かべて言った。
「軍務部長。艦長が
まったくこのB副官は~三等艦将配置である統幕本部勤務の部長職には副官2名が付く規則だ、その内の1名、A副官はと言うと、彼は今回統幕本部の所在地であるヒューストンでの留守番を申し出たのだが、なに、その実彼が久々の地球本星勤務だと浮かれまくっている(らしい)奥方との結婚記念日を明後日に控えているから、と言うのが本当の理由で、きっとプレゼント選びやらレストランの予約やらで仕事など手にもついていないだろう、まことに結構なことである~、いったい何が楽しいのやら、彼に顔を向けるときは大抵笑顔だ。
しかもその笑顔は、職務上必要な~主に人間関係を円滑化させると言う意味で~最低限の愛想の範疇を常に大幅に超えている。
「アイ」
ぶっきらぼうにそう答えて小野寺はキャノピーに背を向けて歩き始めた。
それでも、どんな時だって能天気に笑っていられるのは良い船乗りの必要条件の一つには違いない。
「後任」
「アイサー」
小気味良い返事に振り返ると、やっぱり彼女は、心底楽しそうな、子供のような無邪気な笑顔を浮かべていた。
釣られて、彼も苦笑を浮かべてしまう。
「貴様、まったく良い士官だなぁ」
「光栄であります、サー」
初級幹部でもあるまいに~部長、室長クラスにつくB副官は一等艦尉、高級幹部で、しかも副官部に配置されるのは大抵エリートだと決まっている~そのブルーアイを煌かせながら堅苦しい敬礼をしてみせる彼女に、漸く浮かべた苦笑を彼は早々に引っ込めて叱言を吐き出した。
「その軽いノリだけは感心できんがな」
「いや、軍務部長」
彼女の声が一際明るくなって彼の背中を追尾した。
「なんたって自分は、ライト・スタッフですから」
軽い、と有能な~いや、明るい、もかかっているのかも知れない~、を掛けたシャレだとすぐに判ったけれど、リアクションがとれないままで彼は航海艦橋へ向かうエレベーターに突き当たってしまった。
「10点だ、10点」
「何点満点ですか? 」
「1000点」
ケチ、と呟く声すら、まるで自分をからかっているような口調に聞こえて、いっそ彼は素直に笑うことが出来た。
「何か難しい問題でも? 」
親展緊急電を艦橋で受け取って読み下した後、思わず大きな溜息を吐いてしまった彼に、B副官は少しだけ心配そうな表情を浮かべて尋ねてきた。
「あぁ。……まあ、な」
確かに難しいと言えばこれほど難しい問題もないだろう。タイミング的にも最悪ともいえる。
「イースト=モズン作戦域で敵に動きが……」
そこまで言ってB副官は小首を傾げる。
「って訳じゃなさそうですね。それだったら緊急親展電などという面倒な方法を使わずとも、堂々統幕基幹系通信を使用して艦隊ダイレクトに通報するだろうし」
まったくその通りであり、そして親展緊急で送られた通信内容は政治的にも非常にセンシティヴで、例え信頼できる副官であろうとも30名ほどが立ち働く艦橋内で詳しい説明などは出来かねる内容だった。
「サザンプトン帰港後、早めに上陸なさいますか? 」
やはり彼女はライト・スタッフだな、と小野寺は思う。もちろん、本来の意味での。
「そうだな。そうしよう。
「アイサー、お車を手配します」
携帯端末を取り出しスケジューラーの訂正を始めた彼女の笑顔を見ながら、小野寺は艦橋右舷、今は空席になっている司令部席のキャノピー側に身を移動させて海原を見渡した。
前方1,000mには艫から白いレースのようなウェーキを長く引き摺る空母サラトガの艦影。右舷、左舷、それぞれ2時方向と11時方向、2,500m程先には護衛の駆逐艦の艦影が煙って見える。
つまり彼の乗る艦を含むこの艦隊は、所謂
本番前最後の演習を終えてサザンプトンへ帰港する艦隊の足はホームスピード、原速30kntを超えて今では35knt近くまで上がっているだろう。母港への帰路、自然と船脚が早くなるのは、船乗り一般の習い性だ。
「やっぱり、フネは水上航走ですねぇ」
溜息交じりで呟いたB副官の楽し気な声に、小野寺は思わず首肯する。
「まったくだ、な」
さっきは愚痴めいた事を考えていたけれど、彼は水上航走が実はお気に入りだ。
宇宙艦隊のフネは、地球大気圏内では水上を走ると前述したが、それは他の惑星の大気圏内でもそうだ。
地球人類は枯渇しようとしている埋蔵資源を求めて、ワープ技術を持って太陽系外に飛び出し、他恒星系へ勢力を伸ばす。その見知らぬ惑星での資源採掘を容易にし、そしてただ資源を採掘するだけでなく簡単な加工や半製品化を行って輸送効率を上げるために、そしてその惑星上で『宇宙空間活動の訓練を受けていない一般人でも容易に作業に従事せしめる為』に、自らの活動適性に合わせてテラフォーム化する。
そんな中出逢った人類初の地球外生命体との接触、その相手がどんな奇妙な偶然か、地球人類と同じ大気組成下、環境プラットフォーム上での生存ミニマム条件を持っていたという事実が、幸か不幸か、そして何を意味するのか~怪しげな学説では、敵異星人と地球人類はその祖先を同一であるとし、遥か昔の先史文明華やかなりし頃、大宇宙に乗り出し、時を経て辿り着いた植民惑星、つまりそれぞれの母星に取り残されたのだとされている、もちろん証拠も何もないし、そうであろうがなかろうが、自分達が今、彼等と果てのない泥沼の戦争状態にあるのは確かなのだ~は、彼は知らない。
知らないけれど、彼等の戦場はだから、真空絶対零度の宇宙空間では嘗ての
だから、やっぱり彼は、宇宙空間での戦闘よりも、惑星大気圏内での『海戦』の方が好きだ~いや、正直、戦闘がないのならその方が断然良い、税金泥棒万々歳だ~。
合理的な理由ならある、例えば
彼が水上航走が好きな理由なんて、もっと単純でしかも個人的な感情でしかない。
波に揉まれて揺れる足元が、如何にも、『フネに乗り、前に向かって進んでいる』と感じられるから、だから彼は水上航走の方が好きだった。
宇宙空間を亜光速で飛んでいても、本当に動いているのかなんて眼で見ても判りはしないし、動いている実感なんぞ、これっぽっちも感じられないのだ。
特に、惑星間や恒星間のエンルート航行なんて、艦橋キャノピー越しに見える光まばらな宇宙空間なんぞ舞台の書割のようなもので、振動なんてしやしないし、巨大な鉄の塊が亜光速で進んでいる現実なんて、まったく受け入れることなんて出来ないほどだ。
亜光速航行と跳躍航行を繰り返して一晩経って自分が地球から、太陽系から数百光年も離れてしまったと知った時の、まるで詐欺にあったような、性質の悪い冗談に付き合わされたような、名状し難い胸糞の悪さよりも、どんぶらこっこと波に揉まれながら遮二無二走り続け、振り返れば白く水平線の彼方まで続くウェーキが、自分達の進んで来た事実を馬鹿正直に知らせてくれる方が、少なくとも彼にとっては、納得出来るし、割り切りやすい。
それと、もうひとつ。
シャバの、シチズン達が自分たち軍人に持つイメージを大きく裏切ることになるのかも知れないけれど。
大気に包まれた水上での戦闘は、生き残れる確率が宇宙空間よりも高いだろうから。
だから彼は、水上航走の方が好きだった。
「いい船乗りの条件は、いつだって能天気に笑ってられること、そして必ず生きて帰ってくること、か」
独り言のつもりで呟いた言葉に、B副官が反応したのは予想外だった。
「それと同じような事を、以前欧州室長代理が仰ってたの、聞いたことがあります」
どう答えようか、いや無視しとくのが一番だろう、そう思いはしたが、意図せずB副官を振り返り目を合わせてしまったのではそれも適わないのだろう。
彼は再び視線をキャノピーの向こう、前方を滑る空母の艫から吹き上がる水飛沫に綺麗に掛かった虹に向けながら、彼は頷いた。
「当然だな。そいつは俺が欧州室長代理に昔、教えた言葉だ」
「ふふっ」
道理で、と納得顔で頷くB副官が憎たらしい。
そっぽを向いて先行するサラトガの
「発光信号、ですね」
瞬く光源を暫く見つめていたB副官は、再び携帯端末を取り出した。
「そろそろサザンプトン入港か、じゃあ、携帯端末通信も解禁ね」
言いながら操作をし始めた彼女に、小野寺は声を掛けた。
「貴様もモールスは得意なのか? 」
「え? あ、あぁ、はい」
きょとんとした顔で答えた彼女は、すぐに視線を携帯端末のディスプレイに落として言葉を継いだ。
「『入港に備え、
確かに彼女の言う通り先の発行信号は、もうすぐサザンプトン港入港、護衛が横一列、主隊である航空戦隊と小野寺達が乗り組んでいる随伴艦が単縦陣を組む第二警戒航行序列から、航空戦隊、随伴艦、護衛戦隊の順で単縦陣を組む第一警戒航行序列に隊形を組み直せ、との旗艦からの信号に間違いなかった。
「自分、卒配が航海分隊だったもので。なんか、癖になっちゃったんですよね」
遥か前方では、護衛艦が単縦陣後方へ回り込もうと、
モールス符号、所謂モールス・コードは電信で用いられる可変長符号化された文字コードだ。
短点と長点の組み合わせで構成される単純な符号であることから、無線信号のみならず音響や発光信号でも扱いやすいこともあって、1837年の発明以来、もっともポピュラーな通信信号となったのだが、通信手段の多様化と効率化、ディジタル化、セキュリティ技術の進歩により徐々にその使用度は低くなり、遂に人類が宇宙へ飛び出し、通信自体も超光速化通信が開発されたことによって、モールス信号は決定的に過去の技術になってしまった。
……筈なのだが、実際は宇宙艦隊の軍事行動中における特定の場面では未だ活用され続けていて、だから幹部学校や防衛学校の授業でもモールス符号については初歩中の初歩技能として叩き込まれる。
使用される場面としては、例えば艦隊行動中の簡単な指示を出す際に行われるモールスコードの発光信号による伝達が代表的だ。
敵が電波的耳目を張り巡らしている作戦行動空間では、どんなにディジタル暗号化されて傍受、解読し難い極超短波で構成された直接作戦行動に影響を与えない指令でも、人為的な電磁波を発すると言う行為自体がリスクとなる。
その点、後続艦や併走艦へ光の明滅で伝達できる発光信号はローリスクと言える。同じ理由で航空マークや陸上マークでも場面によっては未だに活用されているのがモールスコードなのである。
もっとも、大昔の艦船のように人間がサーチライトの遮光板を開閉して、それを相手の人間が望遠鏡で確認して読み取るのではなく、例えば宇宙艦隊の艦船では自動で発光を制御し、読み取りは艦備え付けの発光信号機読み取り照準機構が自動で読み取って乗員へ言語変換し伝達するので、今では目視できる発光信号を自分で解読するような乗員は少なくなっている~航空マークや陸上マークでは読み取り照準機が装備されていない場合も多く、彼らは艦隊マークに比べれば肉眼読み取りが得意な者は多いのだが~。
「そう言えば」
B副官の言葉に彼は意味もわからないままギクリとする。
「なんだ」
「軍務部長も欧州室長代理と、よくモールスで会話してらっしゃいますよね」
まったく、なんなんだ、このB副官は。
なにを、何処まで感付いている?
「知らん」
咄嗟に吐き出した誤魔化しの言葉は、まるで彼女の指摘を肯定しているだけの素直過ぎる反応で、ますます彼は自己嫌悪を募らせた。
B副官の指す欧州室長代理は、幹部学校卒業後、
もっとも、12年で顔を合わせることのできる配置になった事など、数える程しかなかったし、それは通算すれば5年にも満たないくらいだろう。
思い返せば、欧州室長代理もその頃からモールス符号は得意だった。
艦橋配置時、旗艦からの発光信号を視認して、自動翻訳を待たずに信号に見合った指示を出し行動を取る航海分隊士、後の欧州室長代理を褒めたことがあった。
褒められて、恥ずかしそうに、そしてそれ以上に嬉しそうに顔を綻ばせるのに中てられて、彼は言わずもがなの言葉を言ってしまったのだ。
「いい船乗りの条件は、いつだって能天気に笑ってられること、そして必ず生きて帰ってくること」
彼はその時の欧州室長代理の、美しい笑顔を脳裏に思い浮かべる。
欧州室長代理という重要職に就く彼女の外見に対する周囲からの評価、ビーナスの化身かと謳われる程の奇跡的な美貌は、何も最近だけでなく当時だってそう言われていたけれど、しかしその笑顔は儚げで、そしてどことなく哀しげで。
今だって、そう見える。
それが悔しくて、そしてなんとかしてやりたくて、けれどそれが自分の手には余るように思えて、反面、何とかできるのは自分だけかもしれないという裏付けのない自信も心の何処かにはあって。
一回り以上も歳が離れた彼女に、草臥れた中年男に似合わぬそんな感情を持ち始めたのはいったい、いつごろからだったろうか。
彼はそっと、上着の内ポケットを上から手で押さえる。
コンサートのチケット、二人分。
数日前、思いついて、そして思い悩んだ末に、ヒューストンの統幕総務局ビル内にあるPXのプレイガイドで買い求めた。
自分には相当似合っていない、そして自分だけではなく、世の同世代の、つまり中年不惑の四十代男性全てに似合っていないであろう行為だと判っていながら、それに走らせたその切欠は。
B副官にも指摘された、欧州室長代理の送るモールス・コードだった。
数日前、今回ロンドンで行われる国連と国連防衛機構宇宙艦隊にとっての重要イベントに関する最終ブリーフィングの席上。
ロンドンにある駐英武官事務所よりテレビ会議で欧州室長代理として出席した彼女は、統幕政務局長の話の間、画面に映るように左手を自分の首元に添えて~そうとバレないようにネクタイを弄る振りをして~、親指と人差し指の開閉をリズミカルに繰り返していたのだった。
それは彼女と顔を合わせる配置になる度に、彼女が周囲の人々に気付かれぬよう小野寺と会話する為に採用した『通信手段』、モールス・コードだと言う事は、直ぐに判った。
『ロンドンで、いつ逢えますか? 』
艦隊でのモールス・コードはその昔19世紀にITU~国際電気通信連合、国際連合の専門機関の中で最古の歴史を誇る組織だ~の前身である万国電信連合が発表したコードを元に、20世紀にIMO~国際海事機構、これも国連の専門機関のひとつで、地球防衛艦隊の艦艇が大気圏内で水上航走することを求めた機関でもある~が定めた国際規格に則った欧文モールス符号を使用することになっているが、二人の間で交わされるそれは二人の国籍を考慮して和文モールス、平文通信だ~暗号化なんぞする意味もない~。
けれど彼女の通信速度は欧文並みの速さで、測ったことなどないけれど多分、PARIS速度で25WPMと自動発光信号機並みではないだろうか。
彼もまたネクタイを弄る振りをして、彼女よりはかなり遅いスピードで返信する。
『ヒースロー、
『GMTマルフタヒトヨン、フタヒトマルマル』
ヒースロー空港への統幕本部長一行の到着予定日時が返されてきた。
指で肯定を返信すると、テレビ会議中だと言う事を忘れたかのように、彼女は大輪の薔薇が開いたような、艶やかな笑顔を画面一杯に咲かせた。
『楽しみに待ってます』
そう彼女がモールスで返した時には、会議室内には静寂が広がっていた。
全員がディスプレイの中に咲いた薔薇をみつめていたのだった。
あの馬鹿、と呆れる想い。
そして、そんな艶やかな笑顔を、誰であろうがホイホイ安売りのように見せるな、と言う腹立ち。
「何か意見でも? 欧州室長代理」
政務局長の不機嫌そうな~そうと装っただけだろう、何せ彼女は政務局長の大事な右腕、秘蔵っ子だ~言葉に、今更ながら気付いたのか彼女は、笑顔を照れ笑いに変えて~笑顔を隠さなかったのが如何にも彼女らしいとそう思う~言った。
「失礼しました。なんでもありません」
会議後、彼は考えたものだ。
彼女がモールスで問うたその意味を。
確かに、昨年4月、二人とも数年振りでヒューストン統幕配置となって以来、彼女は暇を見つけては自分の部屋へ顔を出す。
用事があろうとなかろうと。
そして、お昼ご飯だオヤツだ夜食だ、中庭で方面軍楽隊のたそがれコンサートだ何某とか言う歌手の慰問だなんだ、ねえねえ一緒に行きましょうよぅと彼を振り回すようになった。
人目がなければ「ねえねえ、艦長ぉ」と甘えた声で旧職名を呼んで、人目があればモールス・コードで一緒にいきましょうと機械並みの速さで。
そんな日常と、さっきの会議と、それは、同じか?
迷った末、彼は、二人が共にロンドンで滞在できる期間に開催される管弦楽のコンサートを大急ぎで検索し、発見するなり慌ててPXへ走ってチケットを購入したのだった。
それが今、内ポケットにある。
「軍務部長」
呼ばれて彼は我に返る。
「自分は何も知りません」
B副官の笑顔はそうは言っていなかった。
「和文モールスも読めませんし」
「やっぱり貴様、艦で留守番」
「申し訳ありませんでした、サー」
言葉を遮り大声で謝罪して敬礼するB副官に、艦橋の全員が何事かと注目している。
「馬鹿モン」
溜息混じりに投げ出すようにそう言うと、彼女はニヤリと笑って見せた。
まったく、大したライト・スタッフだ。
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