「丹生」の記録 Ⅱ

「アンドロイドがいよいよ人間と区別がつかなくなってきた頃に危惧される疾患がひとつある」

 彼女はそう言いながら、本のページを繰っている。それは、白衣のポケットに収まるサイズの、「文庫本」と呼ばれる小さな本だった。表紙がぼろぼろになって、色も褪せているその本を、彼女は始終大事に持ち歩いているようだった。彼女の専攻する学問とも、ここの業務とも、直接の関係はない本であるようだけれども、彼女の白衣のポケットにはいつも、その文庫本が収められているようだった。

「それは、人間の側にということですか?」

「そうだよ、お前も冗談を言うようになったね、丹生。アンドロイドも病気にかかる時代が来るのか。それとも、もうそんな時代になったかい」

 私の問いかけに、彼女は至極可笑しそうに口元に手をやって笑う。くっくと、まるで性別の分からない笑い声が聞こえた。

 彼女の返答を自分なりに検討してみる。確かに、可笑しい問いかけだったようだ。我々アンドロイドに「病気」と呼ばれる類の事象は、基本的にはない。仮にあるとすれば、それは人間に生じる伝染していくような身体疾患ではなく、個々人の脳の中の要因によって生じる、こころの疾患、精神の病になるだろう。しかし、我々に生じるそれを「病気」と呼んで良いのかは、疑問の残るところであった。ある種のコンピュータウイルスへの感染であるにしろ、プログラム内に残されていたエラーであるにしろ。

 だが、そのような検討事項を問題の内部へ残しながら、自分がその検討よりも先にそのことについて口にしていた、という事実は恐らく驚愕に値するものだった。故に、彼女は可笑しくてたまらないという風に笑ったりしたのであろう。まるで、私が冗談を言ったかのように。

「私はそうなったらうれしいよ、丹生」

「そうとは」

「アンドロイドが病気にかかることが出来たら」

 彼女は手元の文庫本を閉じる。その本をいつものように白衣のポケットへと収めておいてから、背もたれへと小さな背中を預けた。きい、とわずかに金具の軋む音がする。金具へ油が足りていないのだろうか。それとも、単純に古いのか。この建物もどこもかしこも古くなってきている。最近、あまり良い値を見せない環境チェックの結果が良い証拠だろう。

 その中でも、この彼女の部屋は群を抜いて値が悪いのではないかと思う。部屋の床面積の大部分を占め、積み上げられた大きな水槽の中には、緑色をした蔦が這っていて、いくつかの水槽ではその中をぎゅうぎゅうに埋めているように見えた。水槽の上部はぴたりと蓋がされている。水槽の背面へとりつけられた小さな換気扇様の機械によって水槽内部の空気は入れ換えられ、かつ、それぞれの水槽へついた小さな散霧機によって、適湿を保つようになっている。水槽の中へ「飼って」いる植物の生育に適するように、水槽内の環境を調整しているのだ。

 水槽内の植物というのは、この研究所の外の世界を埋め尽くしているのと同じものだった。つまりは、ヒトへの寄生を行う寄生植物。やがて体中の皮膚を芽が食い破り、地面へ根を張るという奇妙な病の原因。彼女はその生育を、この狭い部屋の中で行っている。

 いくら水槽へ換気扇を設置しているとはいえ、この部屋の大気中には、目には見えない大きさの多数の病原種子が舞っているに違いなかった。また、水にしても、こう多量を使っていては、外部からの病原種子を環境中へ取り込むリスクが大きくなるに違いない。いくら機械を使っても、大気中のものも水源中のものも、病原種子を完全に取り除くことは、出来ていない。

 けれども彼女はそんな状況へ少しも不安を、翳りを見せない様子で、笑みを浮かべながら私を見つめている。彼女のその心境は何から来るものなのだろうか、と聴かざるを得ない。同じような状況に置かれれば、他の人間なら、気が狂ってしまう方が早いのではないだろうか。

「失礼なことを考えているだろう」

「いえ、主任は頑強な精神をしていらっしゃると、感銘を受けていたところです」

「良いように言い換えやがったな、こいつ」

 そう言い返して、彼女はまたくっくと笑う。黒いスリッパを履いた足が床を蹴って、彼女は椅子ごと、後ろへ遠ざかった。

「まあ、いいや。問題は、人間誰しもが私みたいな精神をしているわけではないってこと」

 彼女が言うのに口を挟みたくなったが、黙っておく。

「こんな部屋に放り込まれてみろ、他の連中なら三日と言わず根をあげるだろうね。確かに、自分たちの生命を脅かす寄生生物を育てようなんていう試み、学者じゃなきゃ頓狂のすることだ。私は幸いなことに学者の範疇だから、頓狂じゃないわけだけど」

「主任は植物学者であると、うかがっています」

「その肩書きにはもうそろそろ元、をつけていい気がするけどね。何もかもやらされるんだもの、数が少ないからって」

 はあ、と溜息をついて肩をすくめる。言葉ほど、現状を呆れてはいないようだった。表情が笑みのままだったのでそう判断する。言葉と表情の不一致もまた、我々には生じさせようのないところである。そもそも、少なくとも私には、表情を変えるための機構が備わっていない。

「まあ、それは置いておいてさ。普通はこんな環境に居れば「怖い」ってこと。当然だね。自分が死ぬリスクを自分で高めてるんだもの。それも、寄生植物に寄生されるっていう、惨たらしいやり方でね」

「惨たらしい、ですか」

「そうだろう。体の形は原形を留めないし、精神の方だってそうだ。思考と感覚の鈍麻と人格の崩壊が、種子の発芽の後の植物体の侵食と成長とともに、顕著に認められる。自分で自分の命を絶つ選択すら出来ないほどね」

 彼女の目の焦点が合わなくなる。どこか、この部屋ではない遠くを見つめているかのようだった。何を見つめているのだろう。どこを見つめているのだろう。何故だか、尋ねることは出来ずに、私はただ、彼女の次の言葉を待つ。

「……だからさ、普通は怖いんだ。いつ、自分が死ぬかということは。この世界で言い換えるならば、いつ、自分がそれへ「感染」するかっていうことは」

「それが、疾患となんの関係があるのでしょうか」

「よく覚えてたね。うれしいよ」

 やや首を傾げて曖昧に笑うと、彼女は続けて口を開く。眼鏡の奥、目元の表情がおだやかに緩んだ。

「自分が死ぬ、いつか惨たらしく死ぬだろうという予測可能な「恐怖」こそが、危惧される疾患の原因だ」

「と、いうのは」

「きっと、自分をアンドロイドだと思い込む人間が現れるよ」

 ——彼女の言っている意味を承伏しかねて、数瞬、思考が停止した。彼女の言葉を繰り返す。自分をアンドロイドだと思い込む人間。それはまるで奇妙に思えた。似せ者、所詮は偽物。虚ろでしかない造物だ。自らを偽物思い込む本物。それは。そんな存在は、確かに奇妙ではある。

「君たちは、この病気には感染しないからね。だからこそ、機械の体の君たちが大量につくり出されて、現在があるわけだ」

「その通りに、我々は機械ですから。主任がここで調べている、発芽の条件といったようなところからは尽く外れているのでしょう」

「だってそもそも、生体環境がないもんなあ、君たちには。決して、この病に冒されることはないというわけだ。そこで、恐怖から逃れるために、認識の錯誤を行う。自分は人間ではなくアンドロイドだ、だから、あの病に冒されて死ぬことはない。決してない、とね」

「それが、人間に危惧される疾患ですか」

「そうだ。近い将来必ず、そんな精神の不均衡を患った人間が現れる」

 いやに自信のある口調で彼女はそう言う。いつのまにか背もたれから背中を離し、前のめりになって、広い机へ肘をついていた。口元を隠すような位置で組んだ手の指先は、祈りのときのそれの形とよく似ているようだった。

「そんな人間があらわれたとき、君たちは、どう私たちを断罪するんだろうね」

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