人間はアンドロイドの夢を見る *

 ここの人間達は狂ってる!

 そう、口にする俺が懲罰房へ放り込まれるのはひどく日常茶飯事のことで、戻ってきた俺を見たところで、いたわりの言葉をかけてくれる相手なんていやしなかった。いや、一体だけ居た。そいつはそりゃあそりゃあお堅いアンドロイドで、昔は主任付き、なんていうえらく大層な地位にいたらしいが、今じゃそれより大層で、そいつ自身が主任、と呼ばれる有様だ。

「余計な仕事を終えた相手が帰ってきたのだから、一応、労いの言葉をかけるのが、決まりと言えば決まりでしょう」

「……っんとーに、面白みのねえやつ」

 壁や床のところどころに焦げ跡の残るこの部屋が、そいつの根城だった。壁一面に貼り付けられた大量の本が並ぶ本棚と、部屋の真ん中には幅の広い机。机の上には旧型のパーソナルコンピューターがただひとつ、置かれているきりだった。

 薄い背もたれのついた椅子へ腰かけて、机の上へ両肘をつき、重ねた手のひらの上へ顎を乗せて、そいつは俺を見上げる。人間の年齢で言えば三十代前半そこそこと言ったところのそいつの造形は、「二枚目」というやつで、必要もないのにかけている銀縁の眼鏡はよくよく似合っている。

 似合っている、なんて感想をもつから、俺は懲罰房へ行かされるのだろうが、自然とわき上がってくるものをなんでわざわざ御さなければいけないのだろう。

「っつーか、お前が、俺を、あの狭くて暗くてくっさい部屋に送るのを決めたんだろ、白々しい」

「研究所全体の治安を乱すものを罰するのも、業務のうち。罰せられたらそれを素直に受けるのも、また、業務のうち。我々にはよりそう求められるのは、分かるでしょう。もっとも、罰せられるような行いをするのは君だけですがね」

「よかったじゃねーか、あの緑の悪魔以外の問題をこれ以上抱え込まなくて済むんだからよ」

「全くです」

 そいつがはあと溜息をついたように見えたのは気のせいだったに違いない。ゆっくりと、若干丸めていた背中を伸ばして、背もたれへともたれかかった。眼鏡の奥の目は冷静そのもので、抱え込んだ厄介者を前にしているのに眉を顰めることすらしない。そいつが首から提げたネームプレートは、研究所の「職員」とされる身分のやつが全員身につけているもので、属性と、所属と、名前とが記されている。そいつのネームプレートの一番下には「丹生」と二文字の漢字だけがでかでかと印刷されている。何度もふたりきりで相対した名前だ、とっくに覚えてしまっている。だけど、絶対に、その名前なんて呼ばない。

「感情の芽生えたアンドロイドなど、面倒、極まりない」

 そう、口にするときさえそいつの表情はぴくりとも動かなかった。眼鏡の奥の目の黒い部分の大きさ、開いた唇の描く弧の角度、白い頬の色、組まれた脚の先の爪先、腿の上で重ねられた手のひらの指まで、すべて、そのまま。

 面倒、というのはそいつが実感しているのではなく、状況を分析した上で「そういうものだ」と判断して発せられている言葉に違いない。実感。それは、本来俺にだって出来なかったはずのものだ。

「……面倒だって思ってるなら、そういう表情しろよな」

「出来ませんよ。通常、我々にはそのような機能は搭載されていない」

「分かってるよ、感情があるとかないとか以前に、表情筋がねえんだろ」

「そういうことです。我々には、通常、人間でいう表情筋にあたる機構が備わっていない」

 俺は、自分の頬へ手のひらをあてる。アンドロイドの作成技術というのはこの狭い世界の中でも時間が経てば随分向上するもので、合成樹脂は人間の皮膚と寸分違いない滑らかさと柔らかさを備えているし、触ってみれば人間と同じように温もりもある。更に言うなれば、温度を感じることも痛みをとらえることも出来る。異なっているのはこの皮膚の下にあるのが肉と血と骨ではなく、歯車と油と金属の型であることぐらいだ。それでも、頬を指でつかもうとすればつかめる、つまり人間の筋肉にあたる組織を導入できているぐらいなのだから、そのうち、この中身も人間と違わなくなるのではないだろうか。

 しかしそうなったとして、この重たい頭へ詰まっているのが目の前のそいつと同じ、電子の脳のままだとすれば、そうそう、大きな改善は望めないような気もした。

 自分のような異常が必要だ。自分のようなバグが必要だ。何のために? それは分からない。だが、ずっとこのままではいけないと、漠然とただそう思うのだった。

「もう、戯れ言は十分でしょう。早く職務へ戻りなさい」

「あんた、そういう冗談は言えんだよな」

 俺が言うと、そいつは組み替えようとしていた脚の動きを止めた。中空へ数瞬視線をさまよわせると、一度目を閉じて、深い呼吸を—と見えるだけで、実際にしているのは呼気だけだ—した。

「学習の結果だ、何も不思議はない」

「つまり、ユーモアで言ってるんじゃないわけだ」

「我々には、ユーモアなど望むべくもありませんよ」

「ははっ、その通り」

 俺は手を叩いて笑う。そいつの表情はやはり変わらない。手のひらと手のひらが勢い良く合わさって鳴った乾いた音と、俺ひとりの笑い声が、白く狭い部屋に反響する。その中へ、刻限を告げる電子の鐘の音が不気味に割り込んできた。


 この研究所は、バウムクーヘンという菓子のような構造をしている。あの菓子の真ん中に空いた穴にあたる部分が、ぐるぐると連なる螺旋階段で埋まっていて、その周囲の、層状のスポンジにあたる部分が、垂直方向に一定の間隔で区切られて、階層構造を為している。階層の下へ向かえば向かうほど、研究所の根幹を為す部署がある、というわけだった。

 建てられた当初は、この建物は地下二階建ての地上三階建て、というつくりだったらしいが、今となっては一番上の階層だけを残して地面へ埋まってしまっている。いや……それをきっと、地面とは呼ばないのだろう。地面の上へ幾層にも幾層にも重なった緑色の蔦が絡まって出来た新たな地層に、埋まってしまっているのだ。

 そのうちこの建物自体がすっぽり覆われてしまうのかもしれないが、そうしたらどうするつもりなんだろうか。というのも、そのときのことは緊急マニュアルのどこにも書いていないのである。この建物を建てた人間は、そんな事態を想定していなかったんだろうか、つまり、そうなる前にあの緑の悪魔への対抗策がきっと発明されるだろうと、信じていたのだろうか。ひどく楽天的なものだと思われたが、なるほど、それが人間というものなのかもしれない。或いは、そんな事態を想定したくなかったんだろうか、つまり、そんな事態を想像することすら恐ろしかったんだろうか。それもまた、人間というものなのかもしれない。

 人間、人間。人間とはかくも不思議なものだ。俺はどうやら、それへいっとう近付いたアンドロイドらしい。というのも、アンドロイドは人に似せてつくられらにも関わらず、感情を解することが出来なかったからだ。電子の脳は、「この種類の感情というのはこうこうこういうときに生起するこうこうこういう表情とこうこうこういう身体の変化を伴うものだ」ということを覚えることは出来ても、それを実感することは出来なかった為だ。これをクオリア問題、と人間は呼んでいたらしい。

 クオリア問題はどうあがいても解決することが出来ずに、しかしアンドロイドに電子脳は実装された。どう考えても、時間がなかったせいだろう。緑の悪魔に脅かされた人間という種には、悠長に待っていられる時間などなかったのだ。自分たちが種として生き延びるために。そして今も人間はあがいている。変わらず、種として生き延びるために。

 まだ緑の上にある最上層の丸い天窓からは、赤い夕焼けの光が差し込んでいる。ゆるやかにカーブした白い廊下にぽつ、ぽつと蝋燭の明かりが灯っているように見えた。

 夕焼けを見ると泣きたくなることがある。どうしようもなく胸をかきむしって、泣き叫びたくなることがある。なにかを失ったなんていう事実もないのに、なにか大切なものが手元にないような、そんな落ちつかなさがわき上がってくることがある。——俺が自分の異常に気が付いてすぐのころ、あいつに「これはなんだろう」と聞いたことがあった。そのときあいつは、眼鏡の位置を直しながら「それは郷愁というんだ」とそっけなく答えたのだった。郷愁の意味は辞書を引けばすぐに分かった。「故郷を懐かしむ」心のことをそう言うらしかった。俺には故郷なんてないのに、敢えて言うのなら、この研究所自体が故郷であるのに、どうしてそんなものがわき上がってくるのか、それは、未だに不思議だった。

 ぽつ、ぽつと夕焼けの明かりの落ちる廊下の壁面、バウムクーヘンの外側にあたる側の壁には、同じ形のドアがたくさん並んでいる。一番内側にある廊下から、建物の外側へと部屋が広がっているのが、この区画だ。

 すべての部屋の設備は同じ、ベッドを置くスペースと、簡易な洗面台とシャワーブース。それだけだ。それだけしか必要がない。ここは、夕方の「日課」の為だけにつくられた場所だった。

 部屋の扉には、マジックミラーののぞき窓がついているのだが、普段はそれも、扉と同じ色の目隠しで隠されている。あってないようなプライバシーというものを、それでも守るために、一応つけられているものだった。

 白い扉の前で立ち止まり、クリップボードに留めた紙面に視線を落とす。紙に印刷された表の一番上段には、扉に書かれているのと同じ番号がずらりと並び、それより下の段へは、俺が今から確かめるべき項目がずらりと並んでいる。気が重たい。今すぐにでもこの場から逃げ出してしまいたい。けれどもそれは許されなかった。懲罰房から出された俺に与えられた仕事は、どうしたってこれなのだから。

「やってらんねーよ、ほんとに」

 きりきりと痛む気がする腹の上の方を押さえたい。——はやく、終わらせてしまおう。そう決めて、扉の上の方、のぞき窓を隠している目隠しを、片手で避けた。

 部屋の中は薄暗く、のぞき窓から見える位置にベッドが置かれている。そのベッドの上には、人が寝転がっていた。ひとりではない、ふたりだ。服を脱いで裸のまま、ふたりの人間がベッドに寝転がっていた。それも、ただ寝転がっているのではなく、わずかに丸みをおびた体つきの女の方に、それに比較すれば骨格のしっかり分かる体つきをした男の方が、覆い被さる形で。女の方の脚は、覆い被さった男の肩へ抱え上げられている。男の腰が前後へ揺れていた。

 趣味の悪いポルノだな。この光景を見て、そう笑っていた中年の男が居た。そいつもとっくの昔に、「発芽」して、研究所の外へ放り出されてしまったが。

 しかし、そいつの言葉はまったく否定できるものじゃなかった。確かにこれは悪質なポルノグラフィティだ。俺がピーピング・トムだからってわけじゃあない。ベッドの上で絡み合っているふたりの男女は、ようやく第二次性徴を迎え、子を成すことが可能になったばかりの年齢の、まだ「子ども」と呼んで差し支えないふたりだった。そのふたりがベッドの上で、性行為に励んでいる。まさしく、子を成す。そのためだけに、正しく。

 扉は一応分厚くつくられているが、防音まで施してあるわけではない。だから、のぞき窓から中をのぞくほどまで近付けば、中の声が漏れ聞こえてきてしまう。甲高い、悲鳴のような声を途切れ、途切れにあげているのは、きっと女——いや、少女の方なのだろう。この部屋に入っている少年は、確か声変わり前だったが、それでも、こんな高い声はあげないはずだ。

 俺の役割は、部屋の中のふたりがちゃんと性行為に励んでいるかどうかをチェックすることだった。まずはこうして、部屋の扉ののぞき窓から中を見て。そして、「日課」の時間が終われば、本人達にその内容を聞き取って(「射精は何回したのか」「膣内での射精だったのか」など、これまた悪趣味きわまりない)逐一記録をつける。

 かつては、まるで実験動物だ、と笑った人間もいたらしい。それへすかさず否定をの言葉を返したのは、いけ好かないあいつの前任者、かつて主任と呼ばれた女の科学者だったそうだ。

「これは実験なんて悠長なものじゃないよ。私たちが、ホモ・サピエンスという種が生き延びるために必要な行為だ」

 そう堂々と言い切って、世が世なら「虐待」ともとられかねない行為を、所内のすべての子ども——所員として働いていないものたちに、「日課」として与えることを断行した。俺たちはそう、聞かされている。いや、はじめから脳みそに覚えさせられているのだ。アンドロイドの電子脳の、ベースになる部分に、この世界の情勢、研究所の概要、そして俺たちが作られた意味。様々な情報がプリセットされた状態で、俺たちの運用が始められる。

 そうして知っている情報と現状をあわせて考えると、かつて言い切った彼女のその意図は、分からなくはないのだった。緑の悪魔、人間を宿主とする寄生植物が蔓延り、人間という種自体が絶滅寸前である今、発芽率の圧倒的に低い子どもにひとつでも多く「子」をつくらせ、ひとつでも多くの個体を生き延びさせることは、人間にとっては確かに唯一とも思われる手段なのだった。

 理屈の上では、分からなくはない話だった。確かに、合理的かつもっとも実現可能なプランだったのだろう。ただ、あくまで理屈の上ではという話であり、このプランを心から受け入れられるかどうかは別の問題だったらしい。それはかつて、体内に入り込んだ種子が発芽した人間を悪魔ごと「焼き殺す」ことに躊躇して、繁殖を許した、その過程とも通ずるところがあるように思われる。理屈で理解は出来ても、感情がそれへ追いつかない。人間にだけ許されたジレンマだ。

 でも、必要悪に携わるアンドロイドが感情を持ってしまったら? そんなイレギュラーはだれも想像していなかったに違いない。それこそが俺だった。

 のぞき窓の向こうで、少女に覆い被さった少年がぴたりと動きを止める。ああ、この部屋での行為は終わったのだ。俺はそう判断して、そっと、のぞき窓の蓋をもとへ戻した。

 窓の向こうのふたりは俺が行為をのぞいていることを当然のように知っている。知っていながら、行為を平然と行っている。この部屋のふたりだけじゃない。他の部屋のふたりも、誰かの視線に監視されながらその行為を行うことをなんとも思っていない。何とも思わずに、性器へ性器を突っ込んで、腰を振っている。

 違うんだ! そうじゃないんだ!

 そう叫びたくなる衝動をこらえて、紙の上へとペンを走らせる。つけるのは丸印だけだ。見なくたって分かるんだから、わざわざ全部の部屋ののぞき窓を丁寧にのぞいていく必要なんか、ないじゃないか。表の一行目へ丸印をつけていく。ペン先は滑らかに紙の上を走った。俺の胸のざわめき、何とも言えない気持ちの悪さなぞとはまるで関係ないようだった。。

 いつだってそうだ。俺のこの「不快」は誰とも共有されずに、誰にも共感されずに(人間にすら!)終わってしまう。おかしいのはどう考えたって俺じゃなくって、そうやって平然とした顔をしている、同僚達と、人間達の方なのに。いや、同僚達はまだ許そう。感情を持たないという、アンドロイドたるのならば。しかし、人間達はどうだ。自分たちが置かれている状況がどれだけひどいものかも思い当たらず、唯々諾々と教えられた通りに、性交に励んでいる、幼いとはいえ、ひとつの個であるはずの、人間達は。いくらそうとしか教えられていないと言い訳をされようが、俺には、狂っているとしか思えない。

「ここの人間達は、狂ってる」

 ——でも、そうしたのは、誰だろうか。


 報告書を持っていけば、そいつは眉ひとつ動かさずに紙面へ目を通して、クリップボードを机の上へ放り投げた。乾いた音と一緒に、留められた紙はプラスチックの板の上でめくれあがってすぐに戻る。

 それから、そいつはゆっくりと両腕を持ち上げて、頭の後ろへ両手を持っていった。肘が頭よりも高い位置に来て、脇が無防備だった。でも、こいつには「くすぐる」なんてやったって無意味なんだろう。合成樹脂でつくられた柔らかな肌は、痛みも温度も感知しないままのはずだった。

「とんだおふざけですね」

「ほんっと、そういう冗談は言えるんだよなあ、アンタ」

「学習の結果ですよ」

「で、その報告書になにか問題があったか?」

「報告書、には問題はありませんが」

 いけ好かないそいつのいけ好かない冷静な目が、銀縁の眼鏡の奥から俺をじっと見つめていた。睨まれている気がしたのは気のせいだろう。こいつにそんな表情の変化は許されていない。感情を持たない以前に、最低限のもの以外は、表情筋もなにも、持っていないのだから。

 思えば、こいつの目が俺を見つめているというのだって、定かではないところだった。ガラスで出来た水晶体がわりの小さな機械が、俺の像を網膜代わりのスクリーンへ映し出していることを、果たして「見ている」と呼んで良いのだろうか。俺が見ているものと、そいつが見ているものとは、果たして一緒だろうか。考えても結果が出ない問題を、それでも考えてしまう。こんなにもふざけた状況の下においてもそうなのだから、きっとこれも感情というものの作用に違いない。

「そんな危ないもの、どこにありましたか」

「この階の、どっかの部屋。うれしいことに、弾はこもったままみたいだ」

 握った片手にもう片手を添えて、支えるのは黒い金属の塊だった。拳銃と呼ばれるその機械は、この研究所でも、当然外の世界でも使う機会などなくて、とうに世界からは失われていたはずなのだが、まさかこんなものを見つけることが出来るなんて、思わなかった。

 人間は、これで脳天を打ち抜かれると死ぬらしい。脳天だけじゃない。心臓を打たれても、太い血管の走っている太腿を打たれても、人間というのはいとも簡単に死んでしまう。しかし中でも脳天を打ち抜かれるのはやはり特別で、というのも、これまでの知見を総合してなお、脳は人工器官で置き換えが出来ないようだからだ。体が変わっても中のその人がその人たると唯一証明できるのが、脳の実在というわけだった。

 さて、アンドロイドはどうだろう。まあ、多少快復に時間はかかるにしても、致命傷となることはないだろう。脳みその中身だって、電子脳の情報はすべて研究所のマザーコンピューターにバックアップがとられているから、打ち抜かれたって、新しいのにバックアップをダウンロードすれば、もとの姿の出来上がりだった。アンドロイドのそんな可塑性は、素晴らしいと思う。

「アンタを撃てば、ちょっとはみんな困るかな」

「さあ、どうでしょう。でも、それを使うのはやめた方が良い」

「どうして?」

「古くて、手入れがされていない。暴発の恐れがある」

「それくらい、なんだ」

 暴発して、こうして拳銃を握る腕の一本や二本、吹っ飛んだところでどうでもいい。どうせまた、修理がされるだろう。俺は機械なのだから、アンドロイドなのだから。とち狂ってしまった、アンドロイドなのだから。

「じゃあ、な」

 引き金へ人差し指をかける。銃口はしっかりと、両腕をあげたいけ好かないやつの、眼鏡の上、広い額の真ん中に向けてある。飛び出した弾丸はまっすぐに、そいつの脳天を打ち抜いてくれるだろう。そいつの眼鏡の奥の目は、どこか、焦っているように見えた。いや、そんなことができるはずがないから、俺の錯覚だろう。第一、どうせ後から復帰できるものなんだ、壊してしまったところでなにも問題はない。焦る理由などどこにもない。

 引き金を手前へ引く。かたく、ひっかかるような重たさを指に感じた後、手元で大きな音がして—体が後ろに吹っ飛び、床へたたきつけられる感じがあって—頭を数回強かに床へ叩きつけられた後—俺が見たのは、床の上へ形作られた、赤い血だまりだった。

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