「丹生」の記録 Ⅲ

 その部屋に入った瞬間、何か液体を踏んだのが分かった。

 自分の足元を見ると、濁った黒色の液体がたまりをつくっている。それは水ほどさらさらと流れていく様子でもなかったが、ひとつの形で床に留まっていられるほどの高い粘性も持ち合わせていないようだった。

「なんだ、早かったな。もう少しかかるかと思ったのに」

 聞き慣れた声が、自分に向けられる。足元から、視線を部屋の奥へ移すと、彼女がいつもの椅子に腰かけていた。座面に浅く腰かけて、大仰に胸を張りながら背もたれへ背を預けている。足を組んで、腿の上に両手を重ねて置いていた。

 彼女の声だけはいつまでも変わらないように思う。出会った当初から、今の今まで。女性にしては低いのだろうが、良く通る声。今も、さほど大きな音量で喋っているわけではないのに、その声の紡ぐ言葉はよくよく聞き取れた。

「やっぱり、いくら時間をかけても本職ほどには出来なかったね、機械工学は。結構うまく、プログラムは弄れたと思うんだけれど」

「主任は毎日この時間、最上階の窓から外を眺めておられるでしょう。それに、来られなかったので、私は様子を見に来ました」

 主任が、銀縁の眼鏡の奥の目を大きく、丸くした。眉まで位置があがっている。それから、小さく開いた口の中でなあんだ、と呟くと、相好を崩して、いかにも可笑しいという風邪、笑い始めた。比喩ではなくて腹を抱えて、目尻に浮かんだ涙をもう片手で拭いながら、笑っている。

「そうか、細工がばれた訳じゃなかったんだ。君が、ここへ来たの」

「ええ」

「ああ、可笑しい……なあに、それ。まるで、人間相手にしてるみたい」

 主任が口にしたのは、我々にとってみれば最上級の褒め言葉にあたるフレーズであった。しかし、生憎それを喜べるような上等な思考回路を私は備え持っていない。私に限らず誰もが、持ち合わせていないことだろう。未だに、アンドロイドに感情は芽生えない。

 彼女はようやく笑うのをやめると、椅子を引いて、机に手を付きながら立ち上がる。髪は白くなり、顔にも手の甲にも皺が刻まれているが、背筋は真っ直ぐ伸びたままだった。

「可笑しいついでに、どんな細工をしたか教えてあげよう。ひとつもたいしたことじゃない、この階層の防火システムを一時的に切った、それだけだよ」

「それは、何の為に」

「何の為だと思う?」

 私の問いへ問いで返して、主任は思い切り唇の端を持ち上げて、笑みをつくった。その表情のまま、私から目を逸らさない。彼女は答えを求めているのだ、とはっきり分かる表情だった。

「防火システムを切ったというのだから、なにかを燃やすおつもりですか」

「うん、正解。その推論は気に食わないけれど、まあ仕方ないね。及第点だ」

「お褒め頂いて光栄です」

「そうそう、その調子。って、君をからかうような輩も、これで居なくなるな」

 目を伏せながら、彼女はそう言った。声が低くなる。私は彼女が再び顔をあげるのを待ちながら、今のやりとりを考えた。私をからかう輩、というのは、今や彼女しか居なかった。技術者はとうにいなくなっていたし、その他の人間は「アンドロイド」だからという理由で私をからかおうとはしなかった。彼女が言うには、「そういう個性の人間だ」と認識されているからだ、ということだった。それがどこまで本当のことかは分からなかったが、さして外れてはいないのだろうと思う。彼女の言葉はいつも、どこか真実を帯びているものだった。

 彼女が、居なくなる。これで。その言葉と、彼女の行いとを合わせて考えれば、導き出される結論など、ひとつしかない。清々しいほどに、ひとつしかなかった。

「寂しいか? 丹生」

「分かりません。私はそれをそうと感じられません」

「そうだった。ああ、悔しいなあ……私は君たちの進化も、人間の進化も、見ずに死んでいくのか」

「死んでいく、とは適切な表現ではありません。主任は、自分を殺そうとしている」

「そうだ。そして君はそれを分かってしまった以上、私を止めないわけにはいかないね?」

 立ち上がった彼女は、緩やかに首を傾げて笑った。まとめきれなかった白い髪が、首筋に細く一筋流れている。彼女はその髪を後ろへ払って姿勢を正すと、私の方へ歩いてきた。長年使い続けて汚れの染みついた、もう白くない白衣の裾がゆらゆらと揺れる。グレーのスラックスと黒いスニーカーも、彼女のいつもの服装だった。白衣の下へ着込んだ白いトップスも含めて、何も、特別なところなどない。全てがいつも通り、普段のままの装いだ。

 彼女は私の前で立ち止まる。私をじっと見上げながら、笑みを一層深くした。腕を胸の前へ掲げて、もう片手でトップスごと白衣の袖をまくり上げる。皺の刻まれた、老いた肌が露わになっていく。

 その、白い皮膚の上には、幾筋もの緑色の線が走っていた。

「今朝方かな、肩から芽が出ていたよ。そうしたら、後は早いものだね。あっという間に、上半身がこの有様。知ってはいたけれど、自分の身に起こるとやっぱり、おぞましいな」

「そうなる前に、徴候があるはずです」

「うん。知っているよ。当然、気付いてもいた。運命だと、天啓だと思ったね」

 目的を果たしたからか、彼女は白衣の袖を元へ戻した。それから、右の肩を押さえる。指先が白くなり、白衣に皺が寄るほど、その動作には力がこもっていた。

「死ぬなら今だ。けれども、ただで死ぬのは、面白くないから、さ」

「何を、莫迦なことを」

「それは君の本心か、冗談か、どちらだろう」

 おもしろそうに彼女は呟いた。呟いた後も笑みは消えない。まだ、まだ、言葉は終わらないと、そういうことのようだった。

「なあ、丹生。私は存外、君のことを気に入ってたみたいだ。だからね、君をそのまま残していくのは、本当に、惜しいんだよ」

「あなたのおっしゃっていることが分かりません、主任」

「うん、そうだろうと思った」

 小さな声で笑って、彼女は肩から手を下ろす。その手を白衣のポケットへ突っ込むと、がさごそと何かを探しているようだった。彼がそんなものを、取り出したのはぼろぼろの文庫本だった。その表紙へちらと視線をやった後、私の方へ投げて寄越す。手を伸ばして受け止めた、その表紙はすっかり日焼けして色褪せ、かつては書いてあったであろう題も何も、読み取れなくなっている。けれども、彼女が後生大事に持っていた本だ。

「あげる。それを持って、君は私をただ見ていればいい」

 彼女はそう言った。顔をあげると、彼女はさっきポケットに突っ込んでいた手を再び胸の前へ構えている。その手は空ではない。何か、金属製の小さな箱のようなものが握られていた。彼女の親指が、その箱の上部を押し上げると、蝶番だろう部分で支えられて、箱の蓋が開いた。その、蓋が開いた中身を見て、それが何というものかようやく了解する。ライター、と呼ばれるもの。火を点けるための、道具。

「忘れているのか、気付いているのか、いずれにしても面白いんだけど、丹生、君は残念ながら、私を止められなくなったんだよ」

 彼女の胸元に掲げられたライターから、ゆっくりと視線をあげる。皺の刻まれた首もと、乾いた唇をたどって、銀色の縁の眼鏡の奥の黒い目を、真っ直ぐに見つめる。

「君たちの行動原則は、ある一点で歪められている。それが所以に、君は私がたやすく引火する物質に囲まれながら火を点ける道具を胸の前に構えているのに、そうして馬鹿みたいに立っているだけだ」

 彼女の指が、ライターの歯車を押し込む。その上部に橙の炎が灯った。

「それでも君が私を助けようとしてくれたなら、私は、うれしいな」

 彼女はライターをゆっくりと自分の方へ引き寄せ、いつもの白いトップスの襟ぐりを橙色の炎が掠めたかと思うと、あっという間に、炎は彼女の服全体に燃え広がった。白衣が、グレーのスラックスが、橙色の炎に飲まれた。彼女は悲鳴ひとつあげずに、白い髪にも炎が燃え移って、彼女の頭部も炎に包まれた。ぐらり、と彼女の体が床へ倒れ込む。それと同時に、床の黒い水たまりは、あっというまに橙色へ変わっていった。

 そこで、ようやく私は理解をする。そうして、もう遅いと理解は出来ているにも関わらず、彼女へと駆け寄ろうと足を踏み出していた。


 私が——我々が守るべき「人間」には、種子を宿しそれを発芽させた人間は——主任のように緑の蔦を体内に巡らせてしまった人間は、含まれていなかったのだ。

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