後編

 あの日からどれだけ時間が経ったのかなんて、もう覚えていない。数えていたって仕方がないから。

 だって、私はもうあの部屋にはいない。

 彼が会いに来てくれることなんて、もう二度とないのだから。


 成人の日を迎えるより前に、私の嫁ぎ先、つまりは婚約者が決まった。

 子爵令嬢に対して、なぜか侯爵家の跡取り息子というちぐはぐな組み合わせ。あり得ないとは言い切れないけれど、あちらから声をかけられるなんてどう考えてもおかしいではないか。

 実際、この婚約には裏があった。

 なんてことはない。単純に跡取り息子には愛人がいたというだけの話だ。しかも使用人の。

 立場上文句も言えないし、お断りすることもできない。我が家は粛々と、受け入れるしかなかった。


 それをあの日、ハイルに話そうと思っていたのに…。


 結局何も話せぬまま、明日は婚約発表のパーティーだ。

 成人もしていないのに、花嫁修業だとあの数日後には侯爵家の離れに連れてこられた。成人したらすぐに結婚させたいらしい。

 確かに使用人との子供を跡継ぎにするくらいなら、多少身分は低くてもれっきとした貴族の令嬢に子供を産ませた方がいい。言いたいことも、やりたいこともわかる。

 貴族としては正しいのかもしれないけれど、筋は通っていないと思った。せめて、その使用人を辞めさせるべきではないのか。こんなに性急に事を進めなくても、他にもっとやり方があるだろう。少なくとも、その使用人より先に子供を産ませようとするのは正解ではないはずだ。だってそれでは、二人の仲を非公式とはいえ認めているようなものではないか。


「こんな……」


 こんな、愛されることのない結婚なんて、望んでいなかった。

 政略結婚なのは当然だとしても、せめて結婚後にゆっくり愛を育める人がよかった。だって、そうでなければ……


 "リーファ"と優しく呼ぶあの声が、今もまだ聞こえる気がして。

 胸が締め付けられるのは、本当に愛してしまったから。



 あの、美しいヴァンパイアを――



 始まりは本当に偶然だった。だから、飽きるまで子供の戯れに付き合ってくれているだけだったのだと思う。

 それはきっと、彼なりの暇つぶし。


 けれど関わっていく内に優しく触れてくるその手も、名前を呼べばふわりと緩む目元も。すべてが嘘だとは思いたくなかった。たとえ決定的な言葉が一つも出てこなくても、少しは彼の中に自分がいるのだと思いたかった。だから最後のあの日、向けられた視線に込められた熱が、甘く呼ばれた声が、とてもうれしかった。「私の」と、言われたその言葉が。彼の独占欲を初めて見られた気がして、うれしかった。うれしくて、うれしくて……そして、悲しかった。

 だって彼は最後まで、決定的な言葉をくれなかったから。


 数年前、たまたま手に入れた本の中に『伯爵家の悲劇』をもとにした物語があった。病弱で、貴族としてデビューも出来ていなかった伯爵令嬢に、幸運にも婚約話が持ち上がる。その令嬢が嫁ぐことになる、ほんの数か月前。彼女は忽然と姿を消したのだ。物語は関係者から聞いた、突拍子もない話として挙がっていた"ヴァンパイアが連れ去った"という結末で書かれていた。もちろんそれは物語として書かれているだけだと明記されていたけれど、私はそこで確信したのだ。これが、真実の一端なのだと。

 その頃にはもう、何度もハイルと会って話を聞いていたのだ。彼らの世界のことを。人間には行くことのできない、ヴァンパイアだけの世界を。

 そして悲恋として書かれているこの物語が、実はハッピーエンドなのだということにも気づいた。だって、そうではないか。美しいヴァンパイアがたった一人の貴族令嬢を連れ去り、その後彼女が帰ってこなかったのならば。行く先は、一つしかない。きっと今も、この物語の二人は幸せに暮らしているのだろう。


 だから本当は知っていたのだ。彼が本気で私を望んでくれるのならば、いつか連れ去ってくれるのだろうと。


 けれど実際は、彼に何も言われなかった。次の約束をして…二度と、会えなくなったのだ。

 いや、もしかしたら会いに来てくれていたのかもしれない。もう私がいなくなった後の、あのからっぽの部屋に。

 もしそうだとすれば、私はきっと彼を裏切ったことになるのだろう。守れもしない約束を押し付けて、何も告げずにいなくなるなど。


「……っ…」


 あぁ、だから…。

 天罰があたったのだ。愛を乞うことも出来なかった、臆病な私に。

 告げれば二度と会いに来てくれなくなるのではないかと、怖くて最後の一歩が踏み出せなかったから。

 だから、愛することも愛されることもない結婚を強いられた。


 なんて惨めで、なんて滑稽。


 だってこんな風になってもまだ、私は彼を求めている。ほかの男に嫁ぐと約束する、その前日の夜になってもまだ――





 翌日。パーティーの主役らしく、磨かれて飾り立てられて。周りが忙しそうに動いているのに、私はそれをどこか遠くて見ているような気がしていた。

 この離れに連れてこられてから一度も、婚約者となる男は私に会いに来ていない。最初の日に挨拶をしたのが最初で最後。それ以外は、時折遠目で見かけた程度だ。もちろん、愛人である使用人の女性と逢引きしているところを。

 不思議と彼らが一緒にいる場面をよく見かけていた気がする。単純にこの離れが今まで使われていなかった上に本館からも少し遠いので、今までの感覚で彼らが逢引きを繰り返しているだけなのだろうけれど。

 侍女に手を引かれて会場へと向かむ途中、そんな男と本当に婚約するのだとふと思い出して、思わず自嘲気味に笑ってしまった。だって笑うしかないじゃないか。こんなにも大勢の人間が忙しそうに働いて、こんなにもキラキラしく着飾って、大勢のお客様を呼び寄せて。そこで行われるのはただの茶番なのだから。

 会場へと続く扉の前で同じようにキラキラしく着飾った男が、私のことを上から下まで目だけで流し見た後、小さく馬鹿にするようにフッと嘲笑わらった。


「まともに見れるようになったとはいえ、やはりまだ子供だな。せいぜい人前で恥をかかせないようにしてくれよ?」


 この男の愛人に比べれば、確かに私は子供なのだろう。何せ相手はこの男よりも年上なのだ。妙に納得してしまって、反論する気すら起きない。

 何も反応を返さない私に、一瞬不可解そうな視線を向けてきたが。時間が来たことを知らせる音楽が鳴り響き、特に追及されることもなかった。そのまま会場である侯爵家の大広間へと二人で歩みを進め、仰々しい婚約発表式が行われ、順番に招待客から挨拶を受ける。その間私は黙って貴族らしい笑顔を浮かべているだけで、別段何をするでもなく。ただただ男の隣に立ち続け、時が過ぎるのをひたすらに待ち続けるだけだった。


 そうしてほとんどの招待客と挨拶が終わったころ、不意に遠くの入り口付近がざわめき始める。そのざわめきは徐々に近づいてきているような気がしたけれど、それよりも女性たちのの色めきだった声があちらこちらから聞こえてきていることが不思議だった。今日の招待客のリストは事前に目を通しておいたけれど、女性陣があんなにもソワソワするような人はいなかったはずだ。それなのに、老いも若きも関係なく浮足立っているように見える。目だけで周りを確認してみても、誰も何が起こっているのかを把握していないようで。困惑の色を浮かべたまま、近づいてくる正体不明の原因を探ろうとしていた。

 ふいに、人の波が割れて一本の道を作る。その中をまるで当然のように歩いてくる姿を見て、私は一人息をのんだ。


(だって、そんな…こんなこと、あり得ない…)


 そう、あり得ない。あり得てはいけないはずなのに。

 私と同じ闇色の髪も、輝くような蒼色の瞳も。十年近く間近で見続けてきたのだ。見間違えるはずがない。

 祝いの席なのに、黒いスーツを着込んで白いジャボに赤い宝石のブローチをつけているその人は、まるでいて当然とでも言うようにまっすぐ歩いてくる。

 数メートルの距離を開けて立ち止まると、そのまますい、と手を差し出して、


「来なさい、リーファ」


 瞳の色を紅く変化させた。


 その瞬間、周りの人たちのざわめきが掻き消える。そんなことにも気づかないまま、私は吸い寄せられるようにふらり、と。彼のもとへゆっくりと歩みを進めていた。

 もしかしたら、私もあの紅い瞳に操られて吸い寄せられていたのかもしれない。

 けれど、それ以上に。



 今、ここで、この手を、掴まなければ…


 本当にもう、彼とは二度と会えなくなるような気がしたから――



 差し出された手に、私の手を重ねる。ほんの一瞬だけ、彼が嬉しそうに微笑んで。そのまま強く手を引かれ、その腕の中に囚われた。

 リーファ、と。少し掠れたような声で、彼が私の名前を呼ぶ。耳にかかる吐息が熱くて、くすぐったくて。そして、とても、あまい。


「ハ、イル……」


 呟くのと同時に、涙が一粒頬を伝ってぽたりと床に落ちた。

 それがまるで合図だったかのように、次から次へと涙が溢れてきて。自分の意思では止めることができないほどのそれを、まさに人は"堰を切ったように"というのだろう。


「ご、めんなさい…ごめんなさい、ハイルっ…ごめんなさいっ…」


 ほかに伝えたいこともあったはずなのに、私の口はただ「ごめんなさい」と繰り返すだけ。時折ハイルの名前を呼ぶ以外は、まるでそれしか言葉を知らないかのように。それなのに他の言葉を伝えられないことがもどかしくて、言葉にできない代わりに彼の胸元の服を必死で掴む。離れたくない、このまま離さないでいてほしい、と。せめて態度で示しておきたかった。

 私の涙で床に小さな水たまりができるのではないかと思うほど泣き続けていると、ふいに顔を上向かせられる。何事か、と思う間もなく。涙を溢れさせ続ける私の目、その目頭に。ハイルの唇が、寄せられていた。


「っ!?!?」


 今まさに頬を流れ落ちようとしていた涙を吸われて、どうしてこんな状況になっているのか分からなくて混乱する。驚きにピタリと涙は止まったが、同時に思考も止まってしまった。


「甘い…」


 硬直してしまった私を気にも留めず、目元に唇を寄せたままハイルが呟く。その感触とかかる息に、背中がぞくりと震えた気がした。

 そのまま反対の目元にも唇を寄せ残っていた涙を吸い取ると、今度は頬を流れたまま床に落ちることなく顎のラインに留まっていた涙を、赤い舌を伸ばして舐めとられる。生暖かい舌の感触に、私の体は反射的にビクンと反応する。けれどそれすら気にせず、涙の跡をその舌が辿ろうと頬へ上がりかけていることに気づいて。そこではっとした私は、急いで掴んでいた胸元をそのまま押し返した。


「だ、だめっ…!」

「っ……リーファ…?」


 悲しそうにのぞき込んでくる紅い瞳に、一瞬絆されそうになって。けれどこれだけは譲れないので、その目をしっかりと見上げて告げる。


「き、着飾るためにお化粧をしているの…!粉をはたいたりしているから、口に入れちゃだめなのよ…!」


 涙で落ちているとはいえ、直接舐められたら残っている粉まで口に入ってしまうかもしれない。それはあまりよくない気がしたのだ。正直、頬を流れたあとの涙だって、あまりよろしくないと思う。

 私の言葉に大きく目を見開いて、しばらく固まっていたハイル。その彼が、ややあって深く長いため息をついた。


「リーファ、貴女は本当に……気にするべきはそこではないと思うんですけれどね……」


 少し困ったような顔をしてこちらを見てそんなことを言っているけれど、私にとっては大事なことなので仕方がない。

 そんなことよりも、せっかく涙が引っ込んだのだ。今のうちに疑問を解消しておきたい。


「ハイルは、どうしてここに…?」

「……私の前から消えた貴女が、それを聞くのですか?」

「そ、そうじゃなくてっ…!!どうして入り口から正々堂々と入ってきたのかを知りたいのっ…!!ハイルなら突然背後にいてもおかしくないじゃない!」


 一瞬周りの気温が下がったような気がして慌てて付け足した言葉に、彼は不思議そうにこてんと首を傾げた。


「無警戒な中で主役が連れ去られた方が、その瞬間の衝撃も大きくて印象に残りやすいではないですか」


 何を当たり前のことを…と呟いた姿を見て、私は初めて彼がものすごい策士なのではないかと思い至った。今までは二人だけで会話をしていたので気づかなかったが、そういえば公爵家の嫡男だと知ったのも前回だったと思い出す。まだまだ知らないことが多い気もするが、もしかしたら凄い相手を好きになったのかもしれないと考え始めて……ふと、気づく。


 いま、かれは、なんと、いった…?


 「連れ去られた方が」と、言わなかったか…?


(この場合、連れ去られる主役は、私で、いいのよね…?)


 まさか、あの男なわけがない。けれどそうなれば。つまり、それは……


「つ、連れて行ってくれるの…?」


 どこに、などと聞く必要はない。ヴァンパイアである彼が令嬢を連れていく先など、一つしかない。


「そのつもりで向かったのに、あの部屋にリーファがいなかった時の私の気持ちが分かりますか?結果的に、よりリーファの立場と体面を守ることができる状況になったとはいえ…もし今頃、貴女が誰か別の男のものになっていたらと思うと……本当に、間に合ってよかった…」


 言葉や口調は責めるような響きを持っているのに、私の頬に手を添えて親指で何度も撫でるその動きは、ただただ優しくて。紅の瞳に宿っているのは、安堵の色だった。

 私は謝ればいいのか感謝すればいいのか分からなくて、結果的に疑問を口にすることにした。


「あの…私の立場と体面って…?」

「こんなに大々的な発表をしている場で、か弱い女性が助けを求めているにも関わらずヴァンパイアに連れ去られてしまえば、そこに女性の意思はなかったと思うでしょう?」


 にこやかに告げられた言葉に、なぜだか妙に納得してしまった。確かにそれなら、女性の名誉が守られることだろう。ヴァンパイアと駆け落ちした不誠実な娘、ではなく、ヴァンパイアに無理やり連れ去られてしまった可哀想な娘、になるのだから。


「でもそれだと、ハイルが完全に悪者になってしまうわよ?」

「ヴァンパイアの求婚は、常にそうでなければならないのです。女性を守れない者が、婚姻を認められることはありません」


 きっぱりと言い切られてしまえば、それ以上何も言えなくなる。ヴァンパイアの世界の掟を、人間である私は一切知らないのだから。


「だからリーファ…私を、選んでくれますか…?」


 片手を胸に当て、もう片手を私の方へ差し出してくる。この手を掴めば、今度こそ彼の世界に連れて行ってくれるのだ。

 決定的な言葉は、先ほどからいくつももらっている。それなら、私がこの手を拒む理由などどこにもない。


「もちろん!あなたの世界に、私を連れて行って!」


 重ねた手を、もう一度引き寄せられて。

 今度は額に一つ、優しい口づけが落とされた。






「で、彼らに助けを求めろというの?私に?」


 高く宙に浮いているハイルに横抱きにされながら、広間にいる人々を手で指し示す。彼の紅い瞳の効力で一切動かないままのその姿は、まるで何体もの精巧な彫刻のようだった。


「えぇ。折角なので、より派手な形にして大きな話題にしてしまいましょう」

「……まさかハイルに、ゴシップのネタになる趣味があるとは思わなかったわ」

「人間界で大きな話題になればなるほど、こちらの世界では力の強さと愛の深さを称賛されるのですよ。一番最近のものとしては、私の弟の『伯爵家の悲劇』が最も有名でしょうかね」

「あれ、あなたの弟さんのお話だったの!?!?」

「おや、ご存じでしたか?ではぜひ我が家で弟夫婦に話してあげてください」


 にこやかにお願いされても、告げられた真実が余りにも衝撃的過ぎてそれどころではない。予期せぬ形で真相にたどり着くことになって思うのは、兄弟揃って凄いな、だった。もはや現実逃避と言っても過言ではないが、流石にそれ以上は考えることを放棄した。もう今更驚いていても仕方がない。それよりも目の前のことに頭の容量を使おう。


「その話はあとでね。それよりも、彼らに助けを求めなければいけないのでしょう?…正直、気が進まないわ」


 ハイルとこれから一緒にいられるというのに、なぜそれを邪魔するような相手に助けを求めなければならないのか。理由は分かっているけれど、気持ちとして納得はできない。

 そんな私を見て少し考える様子を見せたハイルが、何かを思いついたかのように「あぁ」と呟いた。


「では、こう考えてみたらどうです?いま貴女を連れ去ろうとしているのは、私ではなくあの男なのだと」


 あの男、と視線で示された先にいたのは、先ほど婚約式を済ませた相手。


「あそこにいるのは私で、私から貴女を奪おうとしているのですよ」


 耳元で囁かれた言葉を想像しようとして、むしろ先ほどまでの状況がまさにそうだったのだと思い至る。

 突然の断れない婚約に、通例も準備期間も無視した引っ越し。成人の日を家で迎えることも出来ないまま、すぐさま結婚。それまでは花嫁修業に明け暮れる日々が予定されていた。そして極めつけが、夫となる相手の愛人。しかも使用人!!

 なんの冗談だと思ったし、とてもではないけれど許容できなかった。けれど怒りも悲しみも、理不尽は全て飲み込まなければならなかったのだ。家格が全く違うから。ただそれだけの理由で。


「貴女は、納得した上で受け入れていたのですか?一度も、私のことを思い出してはくれなかったのですか?私に、助けを求めようとは思ってくれなかったのですか?」


 私は…………


「教えてください、リーファ。本当の、貴女の思いを…」


 ハイルの言葉に引き出されるように、次々と感情が溢れ出す。それは彼と最後に会ったあの夜から、ずっと言ってはいけないと、思ってはいけないと、心の奥底に閉じ込めてきたもの。貴族の令嬢として、そんな我儘は許されないのだと押し込めていたものが、口をついて出てくる。言葉に、なる。


「ぃ、ゃ……」


「リーファ嬢!?」


 聞こえてきた声に目を向ければ、驚愕の表情でこちらを見ている大勢の姿。そこにハイルの姿はない。当然だ。だって今、私を抱きかかえているのがハイルなのだから。

 けれどこの時の私は、そのことがすっかり抜け落ちてしまったかのようにハイルの姿を探していた。見つからない相手を求めて、必死に手を伸ばす。


「いや、だ…いやっ!助けて…!!お願い…、お願いっ…!!行きたくないっ!!どこにも行きたくないっ!!お願い、助けて…!!助けてっ…!!!!」


 ハイル!!と、愛しい人の名前を呼びそうになった瞬間。


「よくできました」


 耳元で囁かれた声に、ふっと体から力が抜ける。欲しかった声が聞こえてきて、私は心の底から安堵した。緊張から一気に弛緩した体をくて、とハイルに預ける。


「リーファ嬢…!!」


 婚約者だった男の焦ったような声に、ハイルがふっと微笑う気配がした。


「この娘は私のものだ。人間ごときにくれてやるつもりはない」


 ハイルの声で、ハイルらしくない言葉が聞こえた気がした。

 あまりのことに信じられなくて、視線だけで見上げた先。


 そこには、とても、悪い顔をした、ハイルがいた――


 まるで物語に出てくる魔王のようだと、思った私の頭は果たして正常だったのかどうか。そもそもハイルのことを知らない人たちには、この顔はどんなふうに受け取られるのが普通なのかも分からない。

 未知の力を持った存在なのだから、やはりそこは恐怖心を煽るものなのだろうか?それとも、その冷たい美しさに畏怖の念を覚え息をのむのか?

 どちらにしても、怖い存在であることに変わりはないのだろうなと思う。

 ハイルはそれ以上何かを言うつもりも、関わるつもりもないらしい。いつの間にか羽織っていたマントを翻し、広間の人間の視界から私を隠してしまう。

 光が完全に遮られた瞬間、広間にいた人々のざわめきも私の耳には届かなくなった。




 こうして私とハイルは、侯爵家の婚約をすべて台無しにして。


 夜の闇の中に、消えていった――


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