中編
「ハイル!」
半月が照らし出す白いバルコニーに降り立った青年に、嬉しそうに駆け寄る美少女。あの初めて出会った日から既に十年以上の月日が経ち、今年で十六になる彼女は予想通り美しく成長していた。
「リーファ。せめて淑女らしく何か羽織って下さい。いくら昼間は暖かくなってきているとは言え、夜はまだ冷えます」
言いながら、羽織っていたマントを使ってリーファの身体を包み込む。
「風邪を引いたらどうするんですか」
「……そこは、抱き寄せてくれてもいいんじゃなくて?」
「リーファ…」
拗ねたようなリーファの言葉に、困ったような咎めるような顔をする青年。こちらは出会った頃と一切変わらない見た目のまま。少し冷たい印象を与える、この世のものとは思えないほどの美貌を持った青年である。けれど表情が豊かになったからか、はたまたリーファといる時が特別なのか。険しく冷たい雰囲気だったものが、少し柔らかくなったハイルである。
「仕方ないじゃない。ハイルは滅多に来てくれないから、何かを羽織ろうなんて考える時間すら惜しいもの」
「毎晩のように淑女の部屋に訪れるわけにはいきませんからね」
「あら。私は毎晩でも構わないわよ?」
さらりと言ってのける言葉の意味を、理解しているのかいないのか。成人前とはいえ、そんな簡単に男を誘うようなことは言わないで欲しいと切に願ってしまうハイルである。無自覚なのは分かっていても、だからこそ危険なのだと理解してほしい。
「リーファ…。お願いですから、もう少し淑女としての慎みを持って下さい」
「そんなもの持っていたら、こんな時間に殿方に会おうなんて思わないじゃない」
斜め上の言葉は、正論なのか屁理屈なのか。どちらとも言えないような気がして、ハイルは深く溜め息をついた。
「そんな事よりも。ねぇ聞いてハイル。あのね――」
「おや。先客がいましたか」
第三者の声が聞こえたのは、男性にしては白く美しい手を引いて、リーファがいつものように彼を部屋の中に招き入れた時だった。
先ほどまで二人がいた場所に佇んでいたのは、ハイルとよく似た格好をした、けれど見た目はハイルに遠く及ばない青年。くすんだ茶色の髪も、暗い青の瞳も。その何もかもが、ハイルから美しさを引いて引いてさらに引いて引けなくなったころ、漸くそうなるのではないかというものだった。
「何か?」
さりげなくリーファを背に隠すように振り向くハイル。その口から発せられた言葉は、熱を全く感じさせないような冷たい響きをしていた。
「おやおや、これはこれは…」
恭しく腰を折って見せてはいるが、その姿は無条件に敬意を払っているようには見えない。むしろどちらかと言えば、少し小馬鹿にしているようにリーファには感じられた。
「まさかこの様なところで、クラシカ家のご長男にお会いするとは思っておりませんでした」
「…奇遇ですね。私もまさか、ここで同胞に出くわすとは思ってもみませんでしたよ」
表面上は穏やかな会話のようだが、双方の瞳は確実に相手を牽制している。その証拠に、青年は前髪の間からギラつく瞳をハイルに向けていた。
そしてそれはハイルも同じ。いやむしろそれ以上の、リーファの前では決して見せたことのないような鋭い視線を向けていた。
「このような場所で人間の娘とお戯れですか?」
リーファをちらりと一瞥するもののすぐにハイルへとその視線を戻し、さらには許しもないまま上体を起こす。人間の常識で言えばこの流れはハイルが上位のはずなのだが、それが果たしてヴァンパイアの世界にも通用するのかはリーファにはわからない。
ただ貴族としての教育を受けてきた彼女からしてみれば、もしハイルの方が上の立場であるのなら。上位の者に許しを得ることもしないまま言葉を発するのも体を起こすのも、そして明らかな敵意を含んだ視線を向けているのも、不愉快極まりないものだった。
しかしそれを今、わざわざ間に割って入って口にするのも憚られると思い、ぐっとこらえる。
「それに答える義理はありませんね」
だからこそ、ハイルのその歯牙にもかけていないかのような返答は胸がすくような思いだった。それどころか先ほどの警戒は何だったのかと思うほど、彼の口調や態度はあっけらかんとしたもので。それはまるで目の前の青年が警戒するに足る人物ではないと言っているようなものだった。
事実そう受け取った青年は、悔しそうにハイルを睨みつけながらもギリッと歯噛みする。
「これ以上時間を無駄にするつもりはありません」
リーファの肩を抱き、室内へと足を進める。背を向けるのは無防備な状態のはずなのに、むしろそれこそがハイルの余裕を表しているかのように。
事実余裕なのだ。何せヴァンパイアの世界においては、美しければ美しいほど強い。そして強いものがより上の立場にいる。にもかかわらず、この青年がより強いはずのハイルにここまで強気に出ているのには、少し特殊な事情がある。
「……弟に、王位を奪われるほど力で劣っているくせにっ…!!」
「……ぇ…?」
青年の言葉に思わず振り返ってしまったリーファ。そのまま流れで後ろにいるハイルの顔を見上げ、反射的にびくりと体を強張らせた。
そこにあったのは、リーファの前では一度も見せたことのないような、感情も熱も何も映していない表情だった。
「ハ、イル…?」
「……まだ、面と向かってそんなことを言ってくる愚か者が残っていたなんて」
リーファにすら聞こえるかどうかギリギリの小さな呟きを一つ落として、ゆっくりと青年に向き直る。そのままひたと見据えるその視線は強くも痛くもないはずなのに、青年とハイルの間にわずかな緊張が生まれた。
正確には、青年が無意識に緊張を覚えてしまったのだ。思わず一歩後退りそうになり、慌てて脚に力を入れてしまうくらいには。
それに気づいたハイルがその脚を一瞥するが、すぐに興味を失くしたかのように青年の瞳へとその視線を移す。
「本能だけは、まだ使い物になる、と…」
「な、にを……」
月明かりが注ぐ中、コツコツと靴音を立てながらゆっくりと歩み寄ってくるハイルに、ヴァンパイアの青年は言い知れぬ恐怖を覚えていた。
感情を映さぬ瞳と、極限まで抑えられた力が、同族に近寄るにはあまりにも不釣り合いで。だがだからこそ、なおさら恐怖心を煽る。
「愚かな愚かな若者。力の差も本質も見極められずに、我がクラシカ家も次代の王となる存在も侮辱するなど……許し難い」
「ま、まさかそんな…!公爵家やノエル様を侮辱など、するはずが…!!」
「私がノエルよりも力で劣っているのは事実。けれどだからと言って、他の家の者にも劣っているとでも?」
「っ!!」
目の前に掌を翳された、ただそれだけ。
にもかかわらず、動くことはおろかうめき声すら出すことが叶わなかった。
単純な、恐怖――
「その身をもって、教えてあげましょう。本来どれだけの差がある相手に、無謀なことをしているのかということを」
感情を映さないままの瞳が、蒼から紅へ。同時に翳していた手で、鍵をかけるような僅かな動作を一つ。
その一瞬の変化に震えることもできないまま、青年の体は人の形からコウモリへと変化した。
「っ!?!?」
「とりあえずは、百年。その姿で自分の愚かさを自覚することですね」
とっさに羽を動かしたおかげで、無様に地面に叩きつけられることはなかった。だがそれで青年がすべてを悟れたのかといえば、否。
けれど混乱から抜け出せていない相手のことなどお構いなしに、溢れ出す魔力で紅の瞳を光らせたままハイルは告げる。
「クラシカ家に生まれた者が、他家に力で劣っているわけがないでしょう?ノエルよりも劣っているから弱いとでも?勘違いも甚だしい。そんなことで折角の時間を台無しにされるなど…」
ふと顔だけで振り返ったハイルの視線の先。胸の前で祈るように両手を握りこんでいるリーファの視線は、何よりも心配の色が濃く出ていた。
ハイルの視線を受けて、右手を覆うように握っていた左手の指先にぎゅっと力が籠る。けれどそれが恐怖からくる行動でないことは、何よりもハイルが一番よくわかっていた。その仕草に、視線に。ふっと安心させるように一度微かに目元を緩める。すぐに正面を向いて、感情のない表情に戻ってしまったが。
「そもそもノエルと誰かを比べるなどということ自体が烏滸がましい。王となる者は特別なのですよ?比べるという行為自体が侮辱だということを覚えておきなさい」
そう言って軽く腕を払う仕草を見せた次の瞬間には、コウモリの姿へと変化していた青年の姿は消えていた。
半月が照らし出すバルコニーに、一瞬の静寂が訪れる。言葉を発するどころか手を伸ばすことすらできないまま、リーファはその場で立ち尽くしていた。
「全く…」
小さなため息とともに呟かれたハイルの言葉には、先ほどとは違い感情が込められていた。呆れとも疲れともとれるような、いい感情ではないものだったけれど。
くるりと振り返りわずかにできていた距離を一気に詰めると、リーファを覆っていたマントを掴んでふわりと纏い直しつつ、ハイルはリーファに向き直る。その表情は、いつもに比べるといささか硬い。ハイルはそのまま羽織り直したマントの端を掴んで優雅に礼をとり、薄い唇を開いた。
「申し訳ありません、リーファ。貴女をこんなことに巻き込むつもりはなかったのですが…急ぎ報告しなければならないことができましたので、今日はこれで失礼します」
「え?ぁ…ま、待って…!」
ハイルの言葉に急いで駆け寄ったリーファが、焦ったように彼が片手で掴んでいるマントを両手で握ってその顔を見上げる。
「ま、まだ来たばかりなのに…久しぶりに会えて、まだ何もお話できていないのに。それに、王位って……」
それではまるで、彼が王族みたいではないかと。そう思うリーファに、少し困ったような顔をしてハイルは告げる。
「現在私に王位継承権はありませんよ。我々の世界では、最も強い力を持つものが王となるのです。血筋は関係ありません。力こそがすべてなのです」
語られるのは、ヴァンパイアの世界とハイルの真実。今までリーファが知らなかった、彼の世界のこと。
「もちろん強い者から強い者が、弱い者から弱い者が生まれるのが基本なので、確かに血筋に近いものではあるかもしれません。現に今の王は私の父ですし、前王は祖父です。そして現在唯一の王位継承権を持っているのは、私の弟です」
それだけ聞くとやはり王族ではないかと思ってしまうが、それは人間の世界の理。姿かたちは似ていても、人間とヴァンパイアは別の存在なのだ。現に兄弟なのに、一人にしか継承権が与えられていないのだから。
「ハイル、は…その……王位には…」
「興味ありませんよ。強い者が王になればいいのです。それが弟であるのならば、なお喜ばしいことではないですか。私はあくまでクラシカ公爵家の跡取りですし、何より我が家は家族仲がとても良いのです。周囲の者たちがどう思っていようと、関係のない話です」
ハイルの告げた言葉にほっと息をついたリーファを見て、一瞬目元を緩める。だがすぐにひやりとした冷たい目をして、ただ…と言葉を続けた。
「我が家に関する何事であろうとも、侮辱されるのは赦し難い。不穏分子は全て取り除かねばならないのです」
そこにあったのは怒りでも憎しみでもなく、純粋な強者の瞳だった。
貴族である以上、不穏分子の排除は必要になってくる。それは人間でも同じこと。そして彼は、そんな人間たちと同じような目をしていた。上に立つ者の、強さと覚悟を持った目を。
「あぁ、もちろん…」
ハイルの上流貴族としての美しさと強さに見惚れていた、リーファの闇色の髪を一筋すくい上げて。そのまま流れるように唇を寄せる。
「貴女に近づく害意あるものは、たとえ何であろうとも排除してみせますよ。私のリーファ」
その、今までにない熱のこもった視線に。甘い声に。羞恥に赤く染まった顔を、リーファは両手でぱっと覆い隠す。
こんなにもまっすぐな言葉を向けられたのは初めてだった。いつも困ったように微笑んで、それなのに触れてくる手はとてもやさしくて。ちぐはぐなそれに、決定的な言葉はなかったのに。
でも、だから。
油断を、してしまったのだ。
「全てを終わらせて、ひと月以内にまた会いに来ます。それまで、待っていてください」
「ひとつき……」
覆った手の中の顔が、絶望の色に染まる。リーファにとっては、とても残酷な宣告だ。
けれどそれに気づくことなく、ハイルは続ける。
「えぇ。急がなければいけないので、その分次回に埋め合わせをさせていただけませんか?」
ここで、行かないでと言えたらどんなに楽だったろう。私も連れて行ってと、わがままを言えたのなら。
そう思っても、口にはしない。子爵とはいえ、貴族令嬢としての矜持がある。役目もある。
だから代わりにこう告げる。
「約束、ですよ?必ず、会いに来てくださいませね?」
貴族らしい笑顔で、言い方で、彼を見上げて。
それに気づいて申し訳なさそうに眉尻を下げたハイルが、リーファの手を取ってその甲に口づける。
「約束します。必ず会いに行きますから、それまで待っていてください」
そうしてマントを翻し夜の闇に消えていった彼は、きっと本当の意味には気づいていない。
リーファは、最後の意地悪として口にしたのだ。
守れない、約束を。
「……さようなら、ハイル…」
ひと月と経たず、約束通りにこの場所に訪れたハイルの前に。
リーファの姿は、なかった。
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