そのあと

「リーファ?大丈夫ですか?」


 聞こえてきた声にリーファがゆるゆると顔をあげると、心配そうにのぞき込む蒼の瞳と目が合った。泣きはらした目がショボショボして、眠いわけではないはずなのに瞼が重い。


「だぃ…」


 大丈夫、と言おうとした声は少し掠れていて、涙のせいで鼻声になっていた。どう聞いても、大丈夫ではない。

 はぁ、と気だるげにため息をついて、


「大丈夫じゃないかもしれないわね…」


 困ったようにハイルを見上げて、少しだけ微笑んだ。その様子に聞いた本人は痛ましそうな顔を返して、ぎゅっと眉根を寄せる。一度何かに耐えるように強く目をつぶり、ややあってからゆっくりと瞼を持ち上げた。


「すみません。私がもっと早く貴女を連れ出していればよかったのですが…」

「それだと私にも疑いがかかるのでしょう?そうならないように、あんな舞台を選んだのではないの?」

「えぇ、まぁ。その通りなのですが……」


 妙にスッキリしない言い方が気になって、どうしたの?と問いかける。それに考え込むようにハイルが視線を落とすが、あまり間を置かずにゆっくりと、まるで覚悟を決めたかのように息を吐きだした。


「私は、貴女に何も告げることなく全てを進めてきました。伝える方法も会う方法もあったにもかかわらず、です」

「あら、それはお互い様でしょう?私だって、あの夜あなたに何も伝えていなかったわ。だからせっかく訪ねてきてくれたのにいなくなっていたんじゃない」

「そうですね、お互い様です。けれど少なくとも、貴女を不安にさせない方法はいくらでもあったのに、と今更ながら思ったのですよ」


 罪の告白、のようなものだろうか。確かにただの人間であるリーファに比べて、ヴァンパイアであるハイルには状況を覆す方法などいくらでもある。そもそも前提条件が違うのだから、時間も場所も人の数も関係ない。居場所さえ分かっていれば、それこそ簡単に会うことも出来ただろう。

 でも…とリーファは思う。最初にひどい仕打ちをしたのはほかならぬ自分の方だと。


「それなら、ハイルは全く不安にならなかったの?何も告げず、知らぬ間にいなくなった私に…裏切られたように、思わなかったの?」


 逆の立場だったならば、きっとそう思うだろうとリーファは目を伏せる。だってあんなにも分かりやすい態度で好意を向けてきていた相手に、自分もそれを返そうと最大の決意をしてやってきた途端、目の前からいなくなられていたのだ。これほどの裏切りはないと思う。


「……正直に言えば、逃げられたのだと思いました。私と共にいるのが、恐ろしくなったのではないかと」


 苦しそうに吐き出される言葉は、その時のことを思い出しているのだろう。感情をわざと押し殺しているような、それでいて悲痛な響きを宿していた。もちろん逃げたわけでも恐ろしくなったわけでもないが、否定したくても、そんな権利はないような気がしてぐっと押し黙る。


「もちろん今の貴女を見れば、そんなことはなかったのだと確信は持てます。だからこそ、初めから私に助けを求めてもらえなかったのは私の落ち度なのですよ」


 あの夜も…と呟いた彼が思い出しているのはきっと、バルコニーで最後に会った日のこと。本当は、あんな風に急いで帰る予定などなかったのだという。それはそうだろう。だって突然の来訪者など、二人とも予想もしていなかったのだから。


「よくよく思い返してみれば、あの日の貴女は私を引き留めようとしていた。それはきっと、何か話しておきたいことがあったのだと後から気づいたのです。そうして考えた末たどり着いたのは、婚約話が持ち上がったことを伝えようとしていたのではないか、と」

「……っ…」


 その通りだった。今までも婚約しそうになったことはあるが、当主である父から打診の話を聞くたびにハイルにそのことを告げていたのだから。不思議なことに、毎回その話は流れてなかったことになっていたけれど。


「急な上に理不尽な申し出。そんな婚約は嫌だとリーファの口から聞いていれば、私がそれを跳ね除けられたのに。あの夜に限って、私は貴女の話を聞こうとしなかった。それが、貴女にあんな行動をとらせた理由ではないですか?たった一度の機会を逃せば、手を伸ばすことすら叶わないと知っていた貴女に裏切りにも近い行為を選択させたのは、ほかならぬ私自身だったのですから」


 珍しく自嘲気味に吐き出される言葉の数々と、うつむいたまま合わされぬ視線。全てが彼の後悔から来ているものだと、リーファは今更ながらに気づいた。彼はきっと自分自身の行動が引き起こした事態なのだと、ずっと後悔していたのだろう。けれど流石のハイルにも、時を遡ることも巻き戻すことも出来ない。


「けれどだからと言って、貴女を諦めるつもりもなかった。もしも自発的に逃げたのだとしても、私は貴女を手に入れる。そう決めたのです」


 熱っぽく告げられた言葉に、あら?と初めて疑問を抱いた。見つめてくる視線は熱く甘く、頬に触れる手はとても温かいのに。なんだか少し、不穏な言葉に聞こえたような気がしたのは、果たして気のせいなのかどうか。


「幸いにも、貴女はあの婚約を良しとしていなかった。性急すぎることにも、家格が違いすぎることにも疑問を抱いていた。だから真実を直接見てもらおうと思ったのですよ」

「ちょ、ちょっと待ってくださいなっ…!その言い方だと、まるで……」

「えぇ。あの男と使用人の逢瀬を何度も目撃させたのは、貴女の疑問を解消すると共に真実を知ってもらうためです」


 ハイルがわざと作り出した状況のようではないか、と思っていたら、肯定されるどころかにこやかに理由まで付け足されてしまった。確かに、不思議なほどよくもまぁ逢引きの場面に遭遇するものだとは思っていたけれど。まさか完全に裏で操られていたなんて。想像もしていなかった事態に、頭を抱えたくなる。


「とはいえ私がしたのは、貴女につけられた護衛や使用人をほんのわずかな時間遠ざけただけですよ。あの二人の逢瀬は、彼ら自身の意思であの場所を選んで行われていただけですから」


 それこそ、迂闊というか愚かというか。何とも言えない新たな真実に、微妙な顔を返すしかできない。それなのにハイルはといえば、張り付けたような笑顔を浮かべて、


「腸が煮えくり返るというのは、あぁいうことを言うのでしょうね。リーファを私から奪っておきながら、愛する気がないどころか使用人の愛人がいるなど。衝動的に八つ裂きにしてやりたいと思ったのは、あの時が初めてでした」


 そんな爆弾を落としてくれたのだ。本気で頭が痛くなってくる。いったいどれから考えてどう答えるべきかと頭を悩ませて、ハイルの言葉を吟味しようとして…ふと、気づく。これが、初めてなのだろうか?と。先ほどから話を聞いていて思ったのだが、このハイルという男はどうも途轍もなく用意周到な性格をしているのではないのか、と。もしそれが彼の本性ならば、今までだってそこかしこに張り巡らされた思惑があったのではないのか。そう、例えば。不思議なほどにすべての話がお流れになってきた、婚約に関する打診とか。

 もし、本当に、そうだと、するならば……。


「あ、の…ハイル?まさかとは、思うのだけれど…今まで、私に正式な婚約話がなかったのは……」

「もちろん、私がすべてエレメント家の当主に丁重にお断りさせていたからですよ。断れそうにないものに関しては、直接相手方にまで出向いて諦めさせましたから」


 一体いつから始まっていたというのか。いやむしろ、今まで一方通行の身勝手な想いだと疑いもしていなかった、幼いころの自分は何だったのだとか。それ以上に、まさかこんなにも計算高い男だとは思わなかったとか。一気に受け入れるには、まだ成人もしていないリーファにとって衝撃が大きすぎる。それを分かっているのかいないのか。いや、たぶん分かっているのだろう。分かったうえで、ハイルはさらに爆弾を投下する。


「そもそもヴァンパイアという種族は、唯一と決めた相手をどんな手段を使ってでも手に入れるのです。リーファが私の唯一だと分かったその瞬間から、ヴァンパイアらしく手段は選ばないと決めていましたから。貴女を逃がすつもりなど、私には初めからありません」


 まるで当然とでも言いたげに、いやヴァンパイアとしては当然なのかもしれないが、そんなことを誇らしげに伝えてくるハイル。とてもいい笑顔の彼を見て、今まで常識のある大人だと思っていたその印象が、そもそもにして間違っていたのだと今更悟った。考えてみれば当然なのかもしれない。人間とヴァンパイア。大前提として、種族が違うのだから。両者の間にある常識が違うことなど、何の不思議もない。


「あぁ、ちなみに。侯爵家の人間は、あの男と愛人以外の使用人を含めて全員、私の傀儡になっていますから。今後のことは何も心配しなくていいですよ。招待客も全員手駒にしましたし」

「……はい…?」


 もはや許容量などとっくに超えているというのに、この男はまだ爆撃を続ける気なのかと少々恨めしい気持ちになる。なんだその、傀儡とか手駒というのは!という心の叫びは、しっかりとハイルに届いていたらしい。にっこりと笑って、補足説明までしてくれる。


「貴女の住環境を整えるにも、あの家の情報を得るにも、手っ取り早かったもので。せっかくなので、不測の事態など起きないように先に手をまわしただけですよ。おかげで会場の入り口にいられましたし、初めから招待客に暗示をかけておけたので、あの場を支配するのもとても容易かったのです。もしリーファが彼らに何か望むのであれば、簡単に動かせますよ?」


 貴族令嬢としてはしたないことだとは分かっていても、開いた口が塞がらなかった。口元を隠す余裕すらない。貴族どころか、いっそもう人としての常識すら別の次元にあるのに、今更そこを気にする必要があるのかどうかは甚だ疑問ではあるが。それでも何とか口を動かして、問う。


「ま、って……そんな、どうして……そこまでする必要……」

「約束しましたから。必ず会いに行く、と。そのために必要なことだと判断すれば、手段など問いません。私の唯一は、リーファしかいないのですから」


 さらりとそんなことを口にして、流れていたリーファの闇色の髪をひと房手に取る。そのまま口元へと持っていき、そこに口づけを一つ。その行為にもだが、伏せられた長いまつげが頬に落とした陰に、妙に色気を感じて。リーファの顔は真っ赤に染まる。それを下から覗くように眺めて、ハイルはふっと微笑った。


「愛しています、リーファ。私の唯一。どうか、共に生きてもらえませんか?」


 それは紛れもない、プロポーズだった。今まで確定的な愛の言葉は何一つくれなかったくせに、こんな時ばかり。いや、こんな時だからこそだろう。でもだからって、ずるいではないか。断るという選択肢もない状態で、しかもこんなにカッコイイなんて。


「ハイル、は…ずるい、ひとね…」

「えぇ…」


 それでもやっぱり、うれしくて。ようやく手に入れられたと思った彼の愛は、予想以上に大きすぎたけれど。それでもずっと、ずっと欲しかったのだ。だからぽろぽろと零れ落ちる涙は、体の内側に入りきらなくなってしまったうれしさの象徴。目元を優しく拭ってくれる指が、今まで以上に愛おしい。


「わたしの、気持ちなんて…知ってるくせに…」

「それでも、聞かせてください。貴女の口から、直接聞きたい」


 そう言ってまっすぐに見つめてくる瞳の奥には、あの夜に感じたものと同じ熱が宿っていた。声すらも、同じように甘い。

 リーファは今、初めて気づいた。自分はこの状態のハイルに、とても弱いのだと。愛を乞うような、懇願にも似た言い方でありながら、ひたすらに熱く甘いそれに、無条件に応えてあげたくなってしまう。

 熱を宿しながらも薄く潤んだ瞳。柔らかな弧を描く赤い唇。滑らかな白い肌に対比するように流れる、さらりとした黒髪。この世のものとは思えないほどの美貌が放つ色気に、なんだかくらくらしてくる。これが男の人だというのだから、世の中は不公平だ。けれど目を離すことも出来なくて、とろんとした瞳をまっすぐ向けたままリーファは口を開く。


「好き、よ。ずっと、変わることなくあなただけが好きよ、ハイル。あなたの世界に私を連れて行って。この先ずっと、あなたの隣にいさせて…」


 彼女は気づいていなかった。ハイル以上に潤んだ瞳に、上気したバラ色の頬。その状態でぽってりとした少女らしい唇から紡がれた言葉が、確実に目の前の美青年の心を打ち抜いていったことを。

 リーファっ…!!と、吐息と共に名を呼ばれ、その胸に強くかき抱かれる。その温かさに、ふふっと微笑んで頬を寄せた。ハイルの胸元の服を、小さくきゅっと握る。


 そのぬくもりに包まれたまま、リーファは知らぬ間に深い眠りへと落ちていた。



 次に彼女が目を覚ました時には、既に愛しい人の世界にいることなど。


 この時はまだ知らない――



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