第2話
「――ねぇ。……ねえってば」
甘く、とろけるような可愛らしい声。
「ヨゾラ⁉」
誰よりも多く聞いている声。いつもは少しノイズがかったそれが今は妙にはっきり聞こえて、俺は思わず飛び上がる。
「――嘘、なんで⁉ って違う……きゅ、急に起き上がんないでよ。びっくりするじゃん!」
確かにそれは澄んでいて可愛らしい声だった。しかし、口調があまりにも攻撃的だ。
「天ヶ原、乙羽……」
目の前にいたのはヨゾラではなかった。しかし、俺の知る人物だった。尤も、知る、といってもこちらが一方的に知っているだけで面識はない。
だって、恐らく彼女のことを知らない生徒はこの学校にはいないだろうから。
清流のように美しい亜麻色の髪。一時陽に晒されるだけでも溶けて消えてしまいそうな雪肌。切れ長の目が特徴的な、綺麗系の整った顔立ち。
彼女、
「ていうかあれ……ここ、教室……?」
すっかり陽は落ちて、電気の消えた教室は夕陽のオレンジ一色に染まっている。
覚えている最後の記憶は、確か始業式を終えて、自分の席を確認して――
「まさか、こんな時間まで教室で寝続けてたなんて……」
クラスメイトなり担任なり、誰も起こしてはくれなかったのだろうか。いくら初日から爆睡してるやばい奴だったとはいえ、少し薄情過ぎやしませんかね。
明日からの学校生活が不安だ……
「ねえ、聞いてんの? 起きたんなら早く出てってくれない?」
呆然と後悔に耽る俺の思考を、天ヶ原の耳心地の良い声が現実に引き戻す。
……ていうかこいつほんとに似てるな、ヨゾラの声に。もっと可愛らしさがあれば完璧だ。
整った容姿と、理想の声に心惹かれ、叱咤されている事も忘れて俺はしばらく、天ヶ原に見惚れてしまう。
ドク、ドク……
なんだろう、この気持ち。今までにないくらい心臓が早鐘を打っている。
頭がぼーっとして、世界から彼女以外の全てが消えて行くような気がする。
これはまさか、恋……なのか?
ゆっくりと、俺は自分の気持ちを自覚していく。
――だが、現実は厳しかった。
「アタシたち、ここ『使いたい』んだけど。寝るなら家帰って寝てよ」
彼女がそう言うと同時にその背後から大柄な少年が現れる。
……確か、名前は羽鳥だったか。彼もまた俺の知り合いではないが、サッカー部の一年生レギュラーとして校内じゃかなりの有名人だ。おまけに糞イケメン。天は二物を与えたがるらしい。
「なあ乙羽、まだかかるのかよ。俺もう我慢してられそうにないんだが――」
羽鳥は焦った様子で、親し気に下の名前で天ヶ原を呼ぶ。
――それだけで、俺は何故彼女が声を掛けて来たのかを察した。
「……ごめん。邪魔した」
吐き気に似た耐え難い感情の奔流を感じて、俺は足早に教室を後にした。
しばらく廊下をゆっくりと歩く……次第に激情に駆られて足は早くなり、下駄箱に着き、靴に履き替えると同時にスタート。カタパルトにでも押し出されたんじゃないかってくらいに俺は思い切り加速し、全速力で駆ける。
校門を抜け、歩道に出て、信号待ちすらするのが億劫で別の道を遠回りする。先生、生徒、住人、色んな人から奇異なものを見る視線を向けられるが、あまり気にならない。
そんな全力ダッシュは、自宅近くの公園まで続いた。
喉がひりつく。肺が痛む。膝が笑って立っていられない。
「はは……何やってんだろ、俺は」
滑り台しかない小さな公園のベンチに座り、夕暮れの空を見上げて笑う。
多分、さっきは寝ぼけていたのだ。普段なら、あんな馬鹿なことになるはずもないのに。
――可愛い子には彼氏がいる。
それは世の中の不変の真理である。
ましてや校内一の美少女と名高い天ヶ原だ。いない方がおかしい。どのくらいおかしいかっていうと大企業の社長がお金ないって言ってるくらいおかしい。
「……全く生々しいにもほどがある。止めてくれ」
天ヶ原の『使いたい』という言葉。少し顔を赤らめ、我慢できないといった羽鳥の様子。そこから導き出されるのはつまり――、
「これからしっぽりお楽しみってわけだろ? 死ねよ」
とりあえずいつか羽鳥は殺そう。社会的に。
悪態を吐くも、起き抜け、夕陽に照らされて輝いていた天ヶ原の姿がしつこく脳裏を過る。
……何よりヨゾラに似たあの声が、耳奥に纏わりつき離れなかった。
「しかし、ほんとに似てたな……」
あの攻撃的な口調さえなければ、天ヶ原の声は星海ヨゾラにそっくりだ。
「意外に本人だったりしてな」
だがそんなことは、あり得るはずがない。それは俺が一番よく分かっている。
理由は今しがた届いた一件の通知。
『こんそら~! 本日十八時から!
今日は初めての壺おじ配信やります!
さっき気付いたら二十三万人いってた! みんなありがと~!』
と、ヨゾラがツイートしていたのだ。
天ヶ原は今頃羽鳥とお楽しみだろうし、そもそも現在の時刻が十七時。『ヤって』なくたって、今からじゃ配信準備が間に合わない。
「馬鹿馬鹿しい。早く帰ろ……」
家でヨゾラが待っている。それ以上、俺には何も必要ない。
一瞬血迷った自分に呆れてため息を吐くと、俺はゆっくりと立ち上がり帰路に着いた。
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