第3話 バリア

 ――数日後のある日、事件は起こった。


 その日、結局雨は降らなかった。

 天気予報では午後から雨かも、と言っていたが外れたらしい。

 夕方でも燦々と日光が降り注ぐ道を、出番の無かったビニール傘を片手に僕は帰っていた。

 そんな日に僕は再び神立旱と出会った。


「あ」


 十字路の真ん中で彼女は僕を見つけて。

 僕は彼女に手を挙げて応えようとして。


「え」


 それは、本当に突然。

 彼女はその両目から大粒の涙を流し始めた。


「……え、いや、え?」


 あまりに唐突な展開に慌てた僕は、しゃがみ込む彼女に「どうしたの」と訊く。


「ポチ太郎が、死んだの」


 彼女の丸まった背中から、掠れた声と途切れがちな言葉が聞こえる。


「もう、寿命だったんだって。お医者さんも、そう言ってた」

「……そっか」

「小学生の頃から、一緒、だったんだよね」

「……それは、悲しいね」


 慰めの言葉は違う気がして、僕はそんな何でもない反応しかできなかった。


「うん、悲しい」


 神立は僕の言葉を繰り返して鼻をすする。


「……でも、もっと悲しいんだ」

「もっと?」


 彼女は小さく頷いて、短く息を吐いた。


「お母さん、変わっちゃった」


 時折嗚咽を混じらせながら彼女は続ける。


「ポチ太郎は、うちの家族なの。……昔は、お母さんも、そう言ってたのに」


 なのに、と。

 涙が一滴、コンクリートに落ちて乾く。


「なのに、ポチ太郎が死んだ日、『死んだら帰ってこないんだから、もう忘れなさい』だって。はっ、なにそれ。なに、それ……っ!」


 彼女は歯を食いしばりながら泣く。

 ぼろぼろと雫が流れ、微かに開いた口元から何度も小さな嗚咽が漏れる。


 ――人は変わるよ。雨は止むのと同じように。

 

 彼女の言葉を思い出す。 

 それは本当なんだろう。僕だって今まで生きてきた中で、自分を変えなきゃいけないと思った瞬間はいくらでもある。

 前を向くために殺さなきゃいけない自分もいる。


 ……でも、だからって。

 なんで彼女がこんなに苦しまなきゃいけないんだろう。

 

 僕は泣いている彼女の下へ歩み寄る。

 空は透き通るくらいに青く、太陽は憎らしいほどに眩しい。

 近付いてくる僕の足元が見えたのか、彼女は顔を上げる。


「え」


 涙を乗せた瞳を丸くして、彼女は目の前に立ち尽くす僕を見た。


「……なんで、傘を差してるの」


 僕は彼女の頭上に傘を差していた。

 持っていた透明のビニール傘。

 そして彼女に、なんで、と訊かれたから。


「――傘を」

 

 僕は彼女の赤くなった目を見て答えた。


「傘を差さなきゃと思って」


 それは到底答えにはなっていなかったけれど。

 透明な膜を通って、歪んだ光に照らされた彼女は。


 小さい声で、ありがとう、と言った。


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