三 面具の鬼

 ここでしばらく、西夏の実情について記す。

 繰り返し述べているように、西夏はチベット系党項族が建てた国で、宋の首都開封から見てほぼ真西にあった。

 時を遡ること唐代、党項族の中から現れた拓跋赤辞という人物が唐に降り、その姓の李と平西公の地位を譲り受けた後、一族と共に慶州(現寧夏回族自治区)に移り住んだのが、かの国の起源とされている。いわゆる「冊封」を受けたことになろう。

 冊封、というのは、とある大国が、名目上の君臣関係を結んだその周囲の小国へ、時刻の称号や印章を与えることを指す。属国である側から宗主国へは、その地方の特産物を献上したり、宗主国の暦や元号を使うことなどが定められている。

 こうして唐の属国となった党項族の国は、赤辞の子孫である拓跋思恭が、唐末に起きた黄巣の乱において上げた功績によって、夏国公・定難軍節度使の地位を与えられたことで、着々と発展していった。

 やがて唐が黄巣の乱によって滅び、五胡十国時代を経て宋という統一国家が現れると、いささかの紆余曲折があったものの、思恭の子孫らは唐同様、宋へ臣従を誓ったのである。

 その従属関係が決定的に怪しくなったのは、皮肉なことにそれと時を同じくする。

 宋朝廷が、徹底した「軍人嫌い」であることと、それが宋の太祖、趙匡胤の方針であったことは既に述べた。全くの第三者からしてみれば、その方針は己の国内のみで留めておけば良いものを、と思うのだが、太祖はそれを周辺の国家にも求めてしまった。

 つまり、冊封国側にも自国同様、軍部の力を削ぐように命じたのである。

 太祖は、自身が軍人であったにも関わらず、血生臭さを嫌った。例えば、戦乱の原因となっていた節度使にも、辛抱強く話し合うことで納得させ、少しずつ軍部の力を削いでいった。さらに、次期皇帝となる己の子孫らへの遺訓として、

「皇位を禅譲してくれた後周の柴一族を、子々孫々まで厚遇せよ」

「言論を理由に士太夫を殺すな」

 との二つを、石に刻ませた。この石は、皇帝位を継ぐものにだけに存在を伝えられた、いわば「秘伝中の秘伝」であったらしい。

 代々の皇帝は、即位する際、この石を拝むことが絶対条件とされていた、とあるから、太祖自身はただ単なる軍人嫌いではなく、大変に英邁な、情にも厚い人間であったことが伺える。冊封国側への命令も、軍事力を削るという目的はもちろんあったろうが、その国々が「これ以上、血で血を洗うことのないように」との配慮から、というのが一番の理由だったかもしれない。

 しかし、その人間性は、必ずしも皆に正しく理解されるとは限らない。

 「軍部の力を抑えよ」との命令が届けられた折、党項族の「国王」は、李元昊の祖父、継遷であった。この折、当然ながら既に宋の太祖趙匡胤は亡くなっていて、孫の真宗の代になっている。

 恐らく真宗自身は、祖父の遺訓に従って、忠実にその命令を届けた、というつもりだったのであろう。それを李継遷は息子の徳明と聞いたわけだが、

「何かの冗談であろう」

 若い息子を振り返って笑ったものだ。

 生まれながらに立派な歯が生えていた、と、史記に記されている継遷は、当時、宋と契丹、互いに敵対している国の双方に従属を誓っていた。自国を守るためと、彼に野心があったため、双方の理由からである。

   ただの武一辺倒の人物ではない証拠に、国内でも民衆に中原地方の文化や学問などの吸収を奨励し、交通の便を図っている。息子の徳明もまた、後に西涼府(現甘粛省武威市)、甘州(同、張掖市)、瓜州(同、安西市)、沙州(同、敦煌市)を次々に己の支配下へ組み入れ、最終的には玉門関から河西回廊までを領土としたほどの人物である。

 いわばこの二人が西夏の土台を作った人間、と言っていい。果たしてそのような覇気もあり知勇もある人物が、いかに宗主国とはいえ心服していない国の、これまた意に染まぬ命令を唯々諾々と聞くであろうか。

 もしもここで真宗が、かつて祖父が自国軍部の人間にしていたのと同じように、継遷とも膝を突き合わせて徹底的に語り合えば、結果は違ったかもしれない。だが、あいにくとその折、宋は契丹との交渉に悩まされていたので、「その時間」など、到底取れる相談ではなかったのだ。

 ゆえに、

「宋の奴らは、俺の国が繁栄するのが気に食わないのだ。俺たちを見下しているのだ」

 継遷は、そんな結論に達してしまった。自国の国力、武力は共に充実しているし、宋は契丹との戦いで消耗していて、何より兵士が「文弱」である。

「この間に奪ってしまえ」

 というわけで、彼は宋国内の領土であった慶州、環州(現環県)への侵入を企てた。しかし、吐藩族の寝返りによって惨敗、重傷を負って、西平府へ逃げ帰ることになる。

 そして息を引き取る際、息子の徳明へ、

「宋の力は侮れないが、心からの恭順はするな」

 と言い残して、景徳(一〇〇四)元年に世を去った。ちょうど宋と契丹が「澶淵の盟」を結んだ年に当たる。

 継遷の後を継いだ徳明の行動は、先に述べた通りである。父の死後、祖父から続く覇業はさらに孫の元昊に受け継がれた。今までの経緯が経緯であるから、元昊も宋を軽蔑しこそすれ、決して良い感情を抱いてなどいない。

 そしてこの、面差しや性情まで祖父や父生き写しの「王太子」は、宋の元号では明道十(一〇三二)年、首都とした興経府(現寧夏回族自治区銀川)にて王位に就くや否や、先代たち以上に国力の充実に努めた。二十九歳の時のことである。

 この精力的な青年王は、即位と同時に宋の年号であるところの明道を、「父の名にも含まれているから」という理由で、「顕」道と変えている。そして宝元元(一〇三八)年現在までに、まだ己に従っていなかった党項諸部族のほぼ全てを従え、国名を「大夏」とした。

 彼は宋に倣って、宋よりもさらに実力を重視する主義の官僚制度も整えた。学校を増設して、庶民の教育にも力を入れた。いわんや軍備をや、である。さらには、

「民族は問わぬ。有用な人間は重く召抱える」

 としたところが、元昊の聡明さと懐の広さを物語っている。

 父が確保した領土の安定を得て、

「このまま勢いに乗って、慶州、渭水へも行きたい。宋の奴らより、俺のほうが上手く治められるし、治めてみせよう」

 つまり先述のように、

「朕自ラ渭水ニ臨ミ、直チニ長安ニ寄ラン」

 と、周囲へも憚り無く公言する彼を、臣下の者たちは、さぞかし畏敬の念を込めて見つめたに違いない。何より慶州は、元昊にとって祖父以来の悲願の地である。

 かつて狄青の兄が、「北の奴らからの略奪が終わったと思ったら、今度は西の奴らだ」と言っていたように、西夏の民が「勝手に」宋との国境付近に侵入してくるのは、今までにもよくあることだった。

 それでも三十五年あまり、表面上とはいえ……朝廷からすれば、庶民同士の争いでしかない……両者の関係は、小康状態を保っていたと言えよう。しかし今回は、ついにその国王自身がはっきり「侵入する」と宣言した。従ってその小康状態は一気に破られた、というわけである。

 宋側も、西夏が元号を変えた時点で、西夏への警戒を深めるべきであったろう。宋の元号を捨て、独自の元号を採用する、つまり元昊は王になった時から、これ以上宋の冊封は受けぬ、と、既に言っていたのである。

 元昊の「反乱」に対し、宋側はまず、西夏との貿易を一切絶つことで応えた。宋との貿易が成り立たなくなった、ということは、徐々にではあるが、西夏の懐具合も寂しくなっていく、ということに繋がるのだが、

「俺たちが貧しくなる前に、宋の奴らの領土を掠め取って、俺たちの領土と認めさせる。その後、国交を回復させる必要があるならそうすればよい」

 と、元昊はあくまで強気である。

 しかも、意気軒昂な自軍に対し、出発に当たって彼は、

「ただし、軍人ではない一般市民には手出しをするな。手出しをした者と、略奪した者には、俺自ら厳罰を処す」

 と、厳しく言い渡していたのだ。

 このような国王が、自身で兵を率いて攻め入ってくるのである。その数およそ五十万。それを伝え聞いて宋側でも、夏竦という人物を軍総司令官に、先だって登場した韓琦や范仲淹を副司令にして、なんとか頭数だけは五十万の兵を揃えた。

 ただし、くどいようだが韓琦や范仲淹は文官である。軍総司令官の夏竦に至っては、『古文四声韻』と銘打った古文収集書を著した、いうなれば学者中の学者だった。学問は確かに深かろうが実地体験に乏しいという、典型的な「頭でっかち」の官僚で、

「ここは、こうこうこういった戦法で守ればよろしい。兵法書にもそう記してある」

「ここの地方では、昔こういった武将が某戦法で防衛したという。ゆえに、われらもそうやって守れば間違いないのである」

 戦いというのは、その時によって変化する、つまり一種の生き物である、ということを理解しようとせず、カビの生えたような先例や防衛論を持ち出すばかりで、自分自身の頭で「次はどうするべきか」と考えぬ。

 そのような総司令官に率いられた軍隊が、防衛すべき各地点でことごとく西夏に破れた、というのは、むしろ当然の結果であったろう。

 狄青が赴いたのは、韓琦が於六盤山(現寧夏自治区隆徳)において、大敗を喫した時であった。

 聡明な韓琦は、李元昊が即位に際し、宋の元号を捨てた時から、「西夏に叛意あり」と考えていたらしい。朝廷内においても、

「今のうちに叩いておくべきである」

 と強硬に遠征を主張し、自ら「西夏討伐」を買ってでたのは、これもさすがに、教養ばかりを頭に詰め込んだエリート官僚ではない。

「私にならやれる。西夏の地理や主要都市は、全て私の頭の中にある」

 続けてそう宣言したように、戦いに臨むにあたり、彼は唐代から受け継いで、宋の宮殿内書庫に保存されていたものの、半ば忘れられていた地図を執念でもって探し出した。さらに、自らの手でそれを書き写しながら、彼なりに作戦を練ったのである。

 国境に赴いてからも、連日地図及び彼が信頼するところの范仲淹と「相談」し、導き出した結論が、「まず於六盤山を獲る」ということだった。

 もしか自国の軍隊がまともなものであったなら、彼の作戦は図に当たり、西夏に少なからず打撃を与えたかもしれない。だが当時は、何と言っても兵士たち一人一人の士気が低すぎたし、

「あんな女のようなやさ男に率いられて、『その気』が出るものか」

 韓琦自身が、荒くれ者の兵士たちから遠いところにいるエリートで、しかも「女性受けする男前」の風貌であるのも災いした。兵士たちは皆、彼に会った途端、心の中で彼からそっぽを向いてしまったのである。

 どんな優秀な作戦を立てても、戦果を左右するものは結局、兵士たちの士気と、指揮官のカリスマによる、ということなのだろうか。韓琦率いる部隊は、山を獲る前に西夏兵に発見され、いいように蹴散らされて、一万人もの被害を出してしまったのだ。下世話な話だが、この折の真実の敗因は、韓琦の作戦の拙さや、あるまじき士気の低さにではなく、兵士の韓琦に対する僻みにあったかもしれない。

 無残にプライドをへし折られ、肩を落として本陣へ戻ってきた彼を、同じ副司令官であった范仲淹は、

「あまり気に病まれるな。君の先見の明は、誰よりも私が認めているところである。物事は全て『先憂後楽』であるよ。君が今、ここで苦しんだことは、きっと後に生かされよう」

 あまりにも有名な彼の「座右の銘」である、

「天下ヲ以テ己ガ任トナシ、天下ノ憂イニ先ンジテ憂エ、天下ノ楽シミニ後レテ楽シム」

 を口にして慰めたものだ。ちなみにこの言葉は、我が国における「後楽園」の元になっている。

 范仲淹は、韓琦や狄青より二十歳ほど年長の、蘇州呉県の人である。乳幼児であった頃に実父を亡くし、苦労しながら学んで進士となった。政界のいざこざから一度は左遷されたが、李元昊が攻めてきた宝元がん(一〇三八)年に轉運使に任ぜられ、渭水から慶州を結ぶ「国境ライン」を守っている。

 そして数年、自国民から、

「号令厳命ニシテ士卒ヲ愛ス」

 との評判を得たばかりではなく、羌人からも、

「龍圖老子」

 と、好意で持って呼ばれるようになった。これは彼が先に、龍圖閣直学士であったところから来たものらしい。

 もちろん、尹洙に率いられて渭水に到着したばかりの狄青は、そのような雲の上にいる高官のことなど知らない。

(また負けたか)

 自国軍の大敗を知らされて苦笑しながらも、

「必ず勝つとは考えるな。負けねば良い。ただし敵には全力で立ち向かえ」

 己の部隊に言い聞かせて、面具を被った。

 これは、出立直前に尹洙からもらった件の物である。怒り狂う鬼の彫刻が施されている銅製のそれを被った上で、後頭部にまとめていた己の髪をざんばらにすると、

「実に恐ろしげな顔をしているな。何だそれは、鬼か」

 古くからの仲間にも、苦笑されながら見つめられるようになってしまった。

「鬼だよ、鬼だ」

「そうか、鬼か。お前が被るのだから、それは戦いの鬼なのだな」

「そうだ。闘鬼が現れるのだ。様子を見に行こう」

 言い合いながら、てんでに弓を持ち、彼らは陣を出る。

 ここは、渭水より二里ばかり離れた場所である。野営のために張った陣幕が、山間の強い風を受けて時折はためき、砂埃が沸き起こる。

 山間を縫うように三つ作られた街道のうち、北東へのそれは狄青らの故郷である汾州にも通じている。他に西と、北西への道が存在するが、黄河の支流に沿って続く北西の道は途中、黄河本流にぶつかって、そこから本流沿いに大きく北東へ湾曲し、西夏の首都、興慶府に至る。言うまでもないことながら、この道が、西夏への主要貿易路であったし、普通に旅する場合においても一番の近道だった。

 従って西夏側にとっても、この道を使うのが一番攻め易かったに違いない。加えて、彼らはこちらを「舐めきっていた」から、

「敵襲!」

 風によって引き起こされていた砂埃が一点に集中した。その途端、物見が叫んだように、宋側からも戦いを仕掛けやすいはずのその道を、昼日中から堂々と通ってやってくるのだ。

「来たらしいぞ。行こう」

 そして面具の鬼は、用意された馬に乗って駆け始めた。

「いいか、俺の後ろへ常に居ろ。俺の後ろから矢を射掛けろ」

 駆けながら後ろを振り返り、仲間に言い聞かせる。他の宋陣営からも彼ら同様、攻めかかる様子が見えた。宋、西夏がぶつかりあう有様を、狄青はこの時初めて目の当たりにしたのである。

 とはいえ、

(これは一体どういうことだ)

 彼はすぐ、味方のあまりの不甲斐なさに絶望することになった。

 味方の部隊の腰は皆、ほんの少し応戦したかと思えば、すぐに引けてしまっている。気が付けば、敵へ向かってまともに矢を射続けているのは彼の部隊だけ、という事態に陥りかけていた。だが、

「怯むな! 村でしていたのと同じようにやればいい! 俺たちは、俺たちの生活を自分で異民族から守るのだ」

 狄青は、味方の軍隊へそんな言葉を繰り返した。他の部隊にも、そのほとんどが、元は狩猟を主としていた農民であったから、その言葉を聞き止めて踏みとどまった者が多くいる。

 ともすれば総崩れになりそうな騎射部隊を、狄青が発するその言葉が救っていたと言えるだろう。そしてこの面具の鬼は、自らも矢を番えて敵へ射掛けた。その矢は、嵩にかかって駆けてくる西夏兵一人一人を、正確に、迅速に射抜いていく。

 やがて彼らのほうでも、「面具の鬼」が宋側にいて、その鬼には敵わないという認識が出来たらしい。激しく射掛けられていた矢の雨が、少し収まったかと思われた頃、

「青ッ!」

「部隊長」の左肩に刺さっていた矢に気づいて、仲間は顔を青ざめさせた。

「平気だ。抜け」

 呼吸を荒げながら面具を取り、狄青は告げる。怯える仲間に、

「見ろ。敵は引き上げていく。だから抜け。俺は平気だ。毒など塗られてはいないようだから、平気だ」

 彼は、何ということもないような調子で繰り返した。

 心配した仲間たちが次々に集まってくる中で、狄青の肩に刺さった矢は、ぐいとばかりに引き抜かれる。途端に溢れ出す血を、仲間の一人が慌てて布で抑えた。それへ小声で礼を言って、

「……倒れた奴はいないか。お前ら、腹は減っていないか」

 狄青は、苦痛を堪えた声で、微笑を浮かべながら続ける。

 初秋の日は、あっという間に暮れていった。支給された薪に火をつけ、その周りに集まって粗末な夕餉を受け取った時も、彼は、

「皆に行き渡ったか」

 と、確認してから、

「それでは俺も食おう」

 そこで初めて、己の分の夕餉に手をつけた。これは、彼のその後の人生においても、変わることが無かったという。

 狄青にしてみれば、今までの暮らしで身についた習慣から、そうしたまでである。加えて、故郷から遠く離され、命のやり取りを強いられている仲間同士としての連帯感も、そこにはあったろう。

 歴史書ではそれを取り上げて、狄青がまことに部下思いの、義と情に厚い人物であったと記している。

 これは当時に限ったことではないかもしれないが、戦いの場においては、卑しくも部隊を率いる身であるから「己だけは特別だ」と、「いつでも補充の利く一兵卒ごとき」の体調のことなど気にせず、己だけさっさと食事を取る上官がほとんどである。またそれがごく当たり前のような観もあった。確かに周りがそんな風では、先ほどの狄青の言動が、実際に温かく、労りを持ったものに見えるのも当然だったかもしれない。

 その後も彼は、

「自分がした約束は守らなければならない。当然である。それが『信』を作る」

 自分に厳しく言い聞かせ、

「俺がいつも先頭に立つ」

 と仲間たちに最初に約束したように、己がどんなに酷い傷を負っても、常に自分の部隊の先頭に立って、敵に対し続けた。狄青は、生来朴訥で、まことに言葉を知らぬ。そう思っていても決して自分から口には出さない。

 不言実行……ただ黙々と、己に課せられたことをし、その功を決して自ら誇らない……その姿が、少しずつではあるが、古くからの仲間以外にも、彼を慕う者を出現させていったのである。

 それからというもの、戦闘の都度、その鬼は宋側のとある部隊の前に現れた。西夏兵が彼に向かっていくら矢を射掛けても、また、その矢やあるいは刀で、

「確かに奴に傷を負わせ、落馬させた……」

 と彼らが確信した折でさえ、すぐにむっくりと起き上がって、立ち向かってくるのである。これではいかな猛者でも、恐れを抱かずにはいられなかったろう。

 こうして「負けぬ戦い」の数を経るに連れ、

「賊軍皆被靡シ、敢エテ当タル者ナシ」

 そう史書に記されているように、面具をつけたザンバラ髪の彼が戦場に出ると、西夏兵のほうから、怯えて近づこうともしなくなることが増えた。狄青の思惑は見事に図に当たったのだ。

 これは後のことであるが、四年にも渡ったこの戦いの中で、彼は合計四つの砦を落とし、のべ五七〇〇人もの捕虜を得ることになるのだ。

 苦戦しながらも、宋側が西夏側の攻撃を防ぎきったのは、狄青の奮戦もさることながら、

「面具の彼がいれば、俺たちは守ってもらえる」

「彼がいれば、少なくとも負けることはない」

 宋側兵士たちのその思いが、加わったからに違いない。

 とまれ、故郷に帰ることも出来ず、戦いの見通しも経たぬまま前線で戦い続けて、二年も経ったであろうか。「面具の鬼」の評判が上がるに従って、戦場もまた、渭水付近でも特に宋側が苦戦している箇所を担当させられるようになったし、率いる部隊の人数も増えた。

 率いる人間が増えたということは、狄青自身の階級も少しではあるが、上がったということである。だが、

「兵たちに、存分に飯を食わせてやって欲しい。傷ついた兵の手当てを存分にしてやって欲しい」

 地位が少し上がったからといって、軍上部に対する狄青からの訴えは変わらない。

 そして今日も、

「敵襲!」

 早朝、いつものように物見が叫んで、狄青は寝床からむっくりと起き上がった。

「何をする。せめて今日くらいは横になっていろ」

 慌ててその上体を抑える古い仲間を、

「それでは俺が嘘つきになる」

 苦笑しながら、彼は逆に押し戻す。

 前日は、特に苦戦した。「面具の鬼」の評判を聞いて、その鬼を屠るべく西夏王自身がやってきたとの報せが、宋、西夏両陣営を駆け巡ったからである。そしてそれは、どうやら事実らしい。

 当然ながら、西夏側の士気は格段に上がった。結果、分厚い筋肉で覆われた狄青の体には、矢や刀による傷がそこかしこに出来たというわけだ。さらに、傷による熱も出た。軍医でさえ安静を言い渡すほどであったから、恐らくは、それまでに負ったことのないほどの重傷だったのだろう。

「やめておけ。お前に何かがあったら、俺たちはお前の両親に会わせる顔がない」

 そう言って止める仲間に、

「西夏王が直々にやってきているというではないか。ならばなおのこと、俺が出なければならない。王は俺を恐れないかもしれないが、兵士は違うだろう。せめて兵士を畏れさせる程度のことくらいはしたい」

 狄青は変わらず頑固に言い続けた。

 もともと、

(俺は故郷には帰れぬ)

 半ば以上、そういった覚悟を決めてこの戦いに参加したのである。

 それに矛盾するようであるが、

(今、この傷を理由にして戦いに赴かない、と口にしてしまったら、俺はすぐにでも故郷に逃げ帰ってしまうだろう)

 とも彼は思っている。特に、自分がいる慶州から故郷までは、馬に乗って数日ほどの距離でしかない。

 瞼を閉じれば、ありし日の異民族の兄妹や、隣家の幼馴染の顔が鮮明に浮かぶ。その顔は彼を見つめると憎しみに歪んで、

(俺は故郷には帰ってはならない)

 より一層募る郷愁を、狄青は、彼らのそんな表情を思い浮かべることで遠ざけた。

「俺の弓を取ってくれ」

 そして彼は、仲間にそう言って寝床から出た。途端に足が震えて、体がぐらりと揺れる。そのまま後ろへ倒れてしまいたくなるのを辛うじて堪えながら、

「俺も出る。馬を」

 いつものように、彼は面具を被って戦いに出た。




 さて、こちらは西夏側である。

(少々苦戦していたらしいが、俺が出てきたからには、宋の奴らに負けることなどない。今日こそ徹底的に奴らを殲滅し、凱旋を果たしてやる)

 自身満々、そう思ってやってきていた西夏王、李元昊は、

「何某砦が落ちました!」

「何某将軍が、面具の鬼の手に囚われました!」

 立て続けにもたらされる自軍側の不利な知らせに、

(ここまで来て、なんたるザマだ)

 渭水に近い山間の、急ごしらえではあるが堅固な砦の中で、王らしくなく、何度も舌打ちを繰り返すことになった。

 砦の前は、なだらかな斜面になっている。それを下ったところに黄河の小さな支流があり、その川を挟んでほどないところに、宋側の陣営がある。

 少々恐慌状態に陥っている斥候に何度も繰り返し話させた結果、己が「叩き潰す」としている相手が、まさにその陣営にいるらしいと分かったが、

(どうやら、宋側にもまだまだ人物はいるらしい)

 ということを改めて認識させられて、

「全く、クソいまいましいことだ」

 ついに彼は、不機嫌さを隠すことなく怒鳴り散らす。

 その人物が弓を良くするらしいことと、銅製の面を被っていることは、配下の者が、以前から頻々と報せてきているので既に知っている。その者のせいで宋側の防御が意外にも持ちこたえており、ためにこちらが逆に攻め倦んでいるというので、元昊は自ら前線にやってきたのだが、

「……もっと詳しく知らせよ。面具の人物に関わることなら何でも良い」

 やがて怒りを抑えた声で、この時代において、恐らく誰より行動的であったこの蛮土の王は問うた。

(宋兵の士気が曲がりなりにも保たれているのは、間違いなくその面具の人物がいるせいである。であればやはり、彼からまず潰しておくべきだ)

 というわけで、己自ら当たることを決めた面具の人物、すなわち狄青について、もっと良く知るべきだと思ったらしい。

 西夏側にとっては幸い、と言っていいのだろうか、昨年、范仲淹、韓琦の二人が二度目に挑んできた戦いでは、西夏側の猛攻にあって宋側が再び大敗した。当然ながら、それは宋、西夏問わず周知の事実である。

(だから、士気の点でも、我らの方がまだまだ上回っているはずだ)

 范仲淹、韓琦が率いている部隊が、いうなれば宋軍本隊ということになるだろうし、同じ国境の「防衛ライン」上に布陣しているといっても、本隊のある地からここまでは、かなりの距離がある。

 よって、

(皆、腰抜けであるから、万が一にもあるまいが)

 その本隊が攻めてくるにせよ、かの人物の相手をするには充分の時間が取れよう、と、元昊は考えたのだ。

(まことに腹の立つ話だが)

 と、口には出さずに思いながら、

「宋の領土に攻め入る話はそれからだ。早く奴について教えろ」

 彼は再び急き立てた。

 だが、それに対し、部下たちが恐る恐る、と言った態で語ったところの、

「義に厚く、情の深い人物であるともっぱらの評判である」

「捕虜となった西夏兵も、事情に寄っては殺されることなく釈放されている」

 であるから、戻ってきた西夏兵のほうでも狄青の恩を思い、そのために己が戦っている相手が狄青の部隊であると知ると矛先が鈍る、との話を聞かされると、ついに黙り込んでしまった。

 意志の強さを表しているような濃い眉、その下で炯々と光る大きな二つの目、知性に秀でた額……それらが組み合わさって構成されている彼の顔は、傍目にはあまりにも大きすぎる怒りのために紅潮しているように見えたが、

(それほどまでの人物なら、俺の懐の中へ取り込めないか)

 心の中で考えていたことは、意外なことに、怒りとはまるで正反対のことである。

 それからしばらくして、おもむろに口を開いた王の、

「狄青とやらいう、かの面具の人物を捕らえたい。良い方法はないか」

 その言葉に、場にいたほぼ全員が驚いた。だが同時に、(またか)とも思った、というのは、

「もしも彼を捕らえられたら、俺が口説こう。西夏のために働いてくれるよう、礼と言葉を尽くそう。もちろん、捕らえた奴にも褒美は惜しまん」

 気性の激しいところはあるが、人を見る目はまことに公平で太っ腹な青年王の、これはいわば「癖」のようなもので、

「自分が、これ、と思った人物は、敵味方問わず欲しくなってしまう……」

 のを、皆、知っていたからである。

 その言葉に「応」と答えて、とある人物が右の列から進み出た。

 その人物は、西夏人ではない。元昊が宋への進軍を決めた頃、契丹から流れてきて兵に応募した者である。弓が上手いというので特に元昊に注目され、六年あまりであっという間に西夏軍枢密使(総司令官)の一人になった。

 本人が言いたがらぬため、正確な年齢は分からないが、立ち居振る舞いや表情から、王より十歳ほど年下の二十代半ばに見える。

「お前が行くと言うのか。何か策はあるのか」

「その面具の人間の名が、狄青であるということが何かの間違いでなければ」

 元昊の視線を見つめながら、その武将は頭を下げ、

「私が彼の部隊と戦い、わざと捕らえられましょう。彼が情に厚いのは事実です。何故かは詳しく申し上げられぬが、そのことは何よりも私自身が知っている。ですから、もしか失敗した場合でも、万が一にも私が害されることはありません。ただ」

 熱を込めて続けた言葉を、そこで一旦途切れさせ、息を大きく吸い込んだ。

 彼の話の間にあった不審な箇所を咎めず、

「ただ?」

 大きく頷いて、西夏王は先を促す。

「ただ……彼は、彼の故郷を大変に愛している。だから私が行っても、説得が失敗に終わる可能性のほうが高い。それでもよろしいか、王よ」

「構わない。やるだけやってみろ。どのような結果に終わっても、お前を決して咎めはしない。約束する」

「承知致しました」

 元昊へ再び深く頭を下げ、その武将は砦から出て行った。



 

 果たして、その日も激戦であった。

 それでも戦いの最中、面具を被った狄青の姿がちらとでも見えると、

「面具の彼がいる」

「俺たちの守り神がいる」

 といった風に宋の兵士たちは勇気付けられ、気力を持ち直す。

「傷ついた者は速やかに前線から退け。まだ戦える者は、戦える者同士、隊列を組んで集団で当たれ。決して敵に隙を見せるな」

 狄青はそう指示すると同時に、

「ここが破られたら、次は河中節度府、そしてその次は俺たちの故郷だ」

 とも言う。それが決して脅しではなく、事実だと皆が知っているから、

「……引き上げたか。今日も皆で、よく戦ったな」

 日が西の山に沈みかけた頃、狄青が大きく安堵の息をつきながら言ったように、宋側の兵士は思いの他、奮戦した。

「恐らくは明日までは大丈夫だろう。だが、警戒は怠らぬように。交代で見張りを立ててくれ」

 ともすればつんのめりそうになる体を、地面に突き刺した剣で支えながらの言葉である。そう言い渡した途端、目の前がかすんだ。自分でもはっきりと分かるほど、体が燃えるように熱い。だが、それでも、

「……西夏の兵に会おう」

 そんな彼を強引に寝床へ連れて行こうとする仲間へ、狄青は告げる。

 今日は、砦を落とす、とまでは行かなかったが、その代わりに、西夏側の捕虜を多く得た。

(彼らにも、国に戻れば故郷も家族もあろう。同じ人間なのだ)

 捕虜となった敵側の兵士たちへ、もしも傷ついていれば薬も食料も与えて説得する、というのが、最近新たに加わった彼の日課である。

 このことは、直属の上司である尹洙にさえも、正式に告げていない。全くの彼の独断であった。甚だしい越権行為であり、下手をすると軍規違反ということで処罰されてしまうことを、狄青自身も承知していないわけではなかったが、

(罰せられるというなら、とうの昔にそうされていたろうよ。どうせ俺の命は、いつ捨てても良い命なのだ)

 と、変に開き直ってもいたのだ。

 いかに戦いに気を取られているとはいえ、例えば韓琦が、彼のこの勝手な行為を知らないはずがない。ましてや尹洙なら尚更であろう。それでも、そのことについて今まで韓琦から何か言って寄越された、ということはないし、ほぼ毎日接している尹洙からも、それに対する罰らしきことを仄めかされもしない。

 従って、多少狐につままれたような心持ちではあるが、

「お前たちが、今日我らに捕らえられた西夏の者か」

 陣営の一角に引き込まれている、獣を入れるような鉄格子の前で、今夜も彼は捕虜の兵士たちへ声をかけるのだ。

 丸い月が、中天で柔らかい光を投げかけていた。季節はちょうどまた、夏から秋への変わり目に差し掛かっていて、月に照らされた捕虜兵士たちの顔は、その光のためなのか、どれも青ざめて見える。

「冷えないか。今、温かいものを用意させている」

 湯気の立つ雑炊を部下たちに運ばせながら、狄青は再び彼らに声をかけた。

「扉を開放する。食い終えたら、お前たちの家族が待つ国へ帰れ」

 彼の言葉を聞いて、常ならば涙ぐみさえする西夏の兵の中から、しかし今夜は、

「ああ、それがお前だ。やはりお人よしのままだ」

 そんな声がする。

 突然のこととて、ただいぶかしげに眉をひそめる狄青へ、

「覚えていないか。俺だ。俺はあの日から、一日たりともお前を忘れたことはない」

 相手は檻の中で立ち上がり、被っていた兜を取った。

 丸かったはずの頬はこけ、顎と目つきはいささか鋭くなっているが、幾分幼さの残るその声は変わっておらず、

「……ホウ、か?」

「なんだ、覚えていたのか。ああ、俺だ」

 信じられぬものを見ているような表情をしている狄青に向かって、ホウは嘲るようにニヤリと笑った。

「俺はあの時からずっと、お前に恋い焦がれている。会いたくて会いたくてたまらなかった。お前がこの近くで戦っていると知ったから、西夏王に従って戦い、わざと捕虜になったのだ」

 言い終えてゆったりと檻を出、地面へ唾を吐いた。

 途端、ホウの周りを狄青の部下たちが取り囲む。

「やめろ!」

 咄嗟に狄青が叫ぶと、部下たちは反って驚いたように彼の顔を見、それから渋々囲みを解いた。

「彼は、な」

 ゆったりとホウへ近づいて、そちらへ右手を伸ばしながら、狄青は、

「俺の、古い……友人だ」

 震える声で言う。そして、

「彼と話がある。……いや、危険ではないよ。だから、しばらくここで、彼と二人だけにさせてもらえないか。お前たちも、戻って休め」

 続けると、部下たちはしばらく顔を見合わせた後、振り返り振り返り、それぞれの陣営へ戻っていった。

「今夜、西夏側からの奇襲はない。安心しろ」

 それを狄青と共に見送りながら、ホウはぶっきらぼうに告げる。再び驚いたように自分を見下ろす狄青を同様に仰いで、

「なぜだ、と問うか。分からないか。俺が西夏側の使者だからだよ」

 ニヤリと笑った。かと思うと次の瞬間、少し俯いて微苦笑を漏らす。

「どうした」

 狄青が問うと、

「……またあの時と同じような再会の仕方をした、そう思っただけだ」

 ホウは再び顔を上げ、今度は少しだけ柔らかく笑った。その表情は、十年ほど前、故郷で初めて出会ったあの頃の彼を髣髴とさせる。

 そうこうしているうちに、どうやら雑炊を食い終わったらしく、西夏の兵がぽつぽつと檻から出てくる。その兵士たちへ、

「お前たちは先に戻れ。大丈夫だ、こいつは信頼するに足る奴であるから、俺もすぐ、お前たちの後を追うだろう」

 と声をかけるホウを見て苦笑しながら、

「お前はどうして西夏にいる」

 狄青は問うた。

すると、ホウは腰に下げていた刀をすらりと抜いて、

「……俺は、早くから契丹に見切りをつけていた。契丹に居続けていたら、正式にお前を討ち果たせぬからな。お前のせいで死んだセイは、お前を好いていた。だから、卑怯なやり口でお前を倒すことだけはしたくなかったのだ。正々堂々と勝負して、妹の仇を取りたかった。だが、俺の腕ではお前には敵わないし、何よりもお前を殺す前に、お前の村の奴らに見つかったら、俺のほうが先に殺されてしまう」

 そんな時、西夏と宋の間で戦いが起こると聞いた、と、狄青の鼻先へ刀の先を突きつけながら言うのである。

「国境は広い。お前に直接会えなくとも、宋の奴らを苦しめることで、セイの仇を取るのと同じになると思った。だから契丹を抜けて、西夏へ走ったのだ」

「そうか。そういうことだったのか」

 狄青はそこで、夜空を仰いで大きく嘆息した。そして、

「すまなかった」

 己より顔一つ分、背の低いホウを見下ろして少し笑い、襟元へ手をやる。

「ここで再び会えたのも、何かのめぐり合わせであろう。……返す」

 びりびりと音を立てながら、狄青の太い指が件の縫い目を破った。そこから現れたのは、セイの耳飾りである。

 大きな手のひらに載せたそれを、無言で目の先へ示されて、ホウの刀先は震えた。やがて、

「……お前が相変わらずそういう奴だから」

 泣き笑いのような声を漏らしたかと思うと、ホウは刀を己の鞘へ仕舞い、妹の耳飾りを引っ手繰る。

「もしも嫌な奴に変わっていたら、ためらいなく殺せたものを。お前の噂を聞いて、お前がまるきり変わっていないのを俺は知った。そしてどうして良いものか、本当に悩んだというのに……どうしてお前は、あの頃から変わらずいい奴なのだ。ああ、そうだ。だから俺は、西夏王の依頼を買って出たのだ」

 その耳飾りを両手で大事そうに包んで目を閉じ、ホウは恨み言とも懐かしさともつかぬことを言い続けた。

 そんなホウへ、慈愛と哀しさを込めた眼差しを注いでいた狄青が、

「……俺を殺すというのなら、それでもいい。俺は抵抗せぬから、お前の手柄にしろ」

 やがてぽつりと言う。

 するとホウは顔を上げ、

「クソッ、やっぱりお前はとても嫌な奴だ」

 涙に濡れた目で彼を見て、苦々しげに吐き捨てた。

「なら、今ここで俺を殺すか?」

「馬鹿な、そんなことはしない」

 狄青の問いに、ホウは首を振り、

「俺がわざわざ捕虜になったのは、お前を殺すためではなくて、お前を西夏へ連れて行くためだ。ここでお前を殺してしまっては、手柄にならないどころか、俺が元昊の奴に叱られてしまう」

「俺を、西夏へ?」

「そうだ。お前はいい奴だ。そうだろう?」

 驚きを隠さない狄青へ、ニヤリと笑う。

「西夏王は、太っ腹な奴だ。異民族である俺でも、役に立つと分かったらすぐに受け入れて、高い地位をくれた。西夏では、民族には関係なく、実力があれば誰もが出世できる。だから、王の周りには、俺と同じような奴らがごろごろしている。自分の国の民族しか出世できない宋とは違うのだ」

「それは、すばらしいな」

 ホウの話を聞いて、狄青は素直に頷く。

「そうだろう」

 そんな彼に(これも相変わらずだ)と苦笑しながら、

「お前が俺の妹の仇だということは、私事だ。だから、それはひとまず退けておいてやる」

 ホウは一息つき、

「さっきも言ったが、俺は元昊の命令で、お前を説得しに来たのだ。俺と共に西夏へ来い。西夏は、宋と違ってこれからまだまだ伸びる国だ。あたらお前ほどの者が、宋のくだらん体制のせいで、頭打ちになるのは惜しすぎる。お前ならすぐにでも、王の片腕にさえなれよう」

 熱意さえ込めて続けた。その言葉には、ホウ自身が言う「恨み」をどこにも感じさせぬ。

 すぐに答えることが出来ずに、狄青は黙り込んでしまった。その間、互いの顔を照らしていた月の光を流れてきた雲が覆い、辺りは少し暗くなる。

 やがて、

「お前の評価には深く感謝するが、俺はそこまでの人間ではないよ。それに俺は、俺の故郷を愛している。生きている限りは、俺を気にかけてくれた村の奴らの暮らしを、俺の手で守らねばとも思っている」

 狄青が苦しげに言葉を返した。それへ、

「ああ、知っている。だが、それでも尚俺は、お前が俺と共に来ることを望む」

 ホウは即座に頷いて、彼の次の返事を待っている。

 再びいくばくかの時が経った。ようやく狄青が、

「お前は、十年前のあの時も、同じように俺をお前の国へ誘った」

 少し分厚いその唇から、ぽつりぽつりと言葉を紡ぎ出す。同時に、強い風が二人の間を吹き抜けて、その風は月を覆っていた雲をも払ったらしい。月の青い光が照らしたその顔を見つめながら、

「ああ、覚えている」

 ホウはまた頷く。

「だが、すまない。俺は、故郷のあるこの国からは離れられぬ。何時死んでも良いし、今お前に討たれるならそれでも良いという覚悟もあるが、やはり無理だ。矛盾しているようだが、分かってもらえるか」

「ああ、分かる。ならば仕方ない」

「仕方ない、ではないだろう。それではお前が、西夏王から罰を受けないか」

 かなり考えて言ったつもりの言葉を、意外にあっさり受け取られて、狄青は大層戸惑った。するとホウは、

「また久々に、何ともお前らしい言葉を聞いたものだ。気にするな。元昊はお前の国の皇帝のように、度量の狭い奴ではない」

 唇をゆがめて笑うのである。

「しかし」

「お前ほどの奴を招こうというのだ。この戦いがいつまで続くか分からないが、その間、俺もまたわざと捕まりに来て、お前を説得し続けるさ。今日は、お前に再び会えたというだけで満足だ。妹の仇を、いつかこの手で取れると分かったからな。お前を西夏へ引っ張れば、お前の寝首をかける機会も出来ようというものだ」

「相変わらずお前は途方もないことを言う」

「そんなことはない。俺は半分以上本気さ。さて、もう俺は戻らねばならぬ。長居しすぎた」

 苦笑する狄青から背を向けて、ホウは連なって見える山の、とある一角へ手をかざした。恐らくそちらに、西夏の陣営があるのだろう。

「ではまたな」

 いともあっさりと言ってのけて、ホウは山のほうへと歩き去っていった。小さくなっていくその姿が、部下の者に咎められる様子が見えたが、続いて「俺は狄青殿に雑炊を馳走になった西夏兵だ。これより戻るところだ」という声が聞こえ、しぶしぶながら部下が彼を解放する姿も見えた。

(あの様子なら、無事に西夏の陣営に戻るであろう)

 苦笑した狄青の陣営へ、軍総司令官である范仲淹、韓琦らがやってきたのは、まさにそのあくる日である。

 二人はその日の戦闘が終わったと見極めるや否や、早々に狄青を己の陣に呼んだ。

(俺の勝手な行為が、いよいよ咎められるか。覚悟を決めねばならぬ)

 そう思いながら、彼は二人の前へ案内されたのだが、

「そなたが『面具の鬼』か。そなたの名は韓琦殿や尹洙殿ばかりでなく、西夏兵からも聞いたよ。我が国の兵ばかりではなく、敵の兵の心も掴むとは、さすがだ。見事な働き、ご苦労である」

 両膝をつき、深く頭を垂れた彼の上から、思いがけない言葉が降ってきた。驚いて思わず顔を上げた狄青に向かって、

「皇帝陛下も、大層お喜びである。君を一度、朝廷へ召したいとさえ仰っておられる」

 中央の人物が、微笑を漏らして深く頷いた。目と眉が同じ三日月形をした、少し下膨れの文官で、身につけている物も、被っている冠も、さほど瀟洒なそれではない。

 当然ながら、今まで見たこともない人物である。しかしその左右に韓琦、尹洙が控えているところを見ると、

(彼が范仲淹とやらいう人か)

 大方、そういった予想はつく。

 それにしても、

(皇帝も、俺のことを知ったのか)

 范仲淹や韓琦でさえ、到底手の届かぬ、遠いところにいる人物だと思っていたのに、皇帝など尚更で、そう聞かされてもいまいちピンと来ない。

「ところで狄青。そなたの名は、どういった文字で記すのか。戦場のこととて、聞いた音でしか私は知らないのだ。幸い、私の手元に筆と紙がある。そなたさえよければ、こちらへ来て記して欲しい」

 戸惑っている彼の様子をそれと察し、その心をほぐそうとしてか、范仲淹はいささか狄青のほうへ上半身を傾けて尋ねた。ばかりか、右の手のひらを上へ向け、己のほうへ柔らかく差し招くのである。

(困ったな)

 尋ねられて、狄青は窮した。繰り返すが、今まで生きてきた中で、己の名を自分で書いたことなど、数えるほどでしかない。なるほど、かつてセイに教えられて思い出しはしたが、それも今回の戦いに気を取られて、記憶のかなたになってしまっているのだ。

 ゆえに、

「申し訳ありません。俺は、俺の名が書けぬのです」

 狄青は、顔を赤くしながらそう答えることになった。

 すると范仲淹は、「ほう」というように片方の眉を挙げ、左右の韓琦、尹洙を見やって互いに微笑を漏らし合った後、

「では、私がそなたに文字を教えよう」

 と言った。

「貴方が、俺に文字を教えてくださるというのか」

「そうだ。戦いの合間でよければ、そしてそなたに学ぶ意志があれば、の話だが、どうだ」

「それは願ってもないことですが……しかし、俺はもう三十歳を数年超えた。遅すぎる、といったことはありませんか」

「なんの、学問をするのに、早すぎ遅すぎといったことなどあるものか。それに、そなたには大いに見所がある。ことに尹洙殿などは、そなたを早くから褒めていた。『良将の材である』と言ってな」

 范仲淹の口から飛び出す言葉は、狄青にとって意外なことばかりである。しかし、韓琦や尹洙もその言葉に深く頷いているところを見ると、どうやら彼の知らぬところで、この三人は彼を高く評価していたらしい。

「ありがとうございます。至らぬ俺を導いて下さい」

 狄青は、前の三人に心から頭を下げた。そして、

「ですが、俺独自の判断で、西夏兵を解放してきたことの罪は、きちんと罪としてお裁き下さい。俺はこの国のため、などという高尚な気持ちから、捕虜とした彼らを解放してきたわけではない」

 何ともまた、真っ正直に己の「罪」を告白したものである。

 案の定、范仲淹は少し驚いたような顔をして、

「ほう、これはまた正直なことだ。では、何故にそなたは、捕虜どもらを解放した」

 しかし、どことなく微笑を含んだ表情で彼へ問う。

「ただ単に彼らが哀れすぎた。彼らも同じ人間です。国に待つ者がいようし、それらの者が、傷つき飢えて帰ってきた彼らを見たら、どう思うであろうかと、そう考えた。ただそれだけの話です」

「そうか、そうか。ならばそれでよい」

 率直さの続く彼の答えに、范仲淹はあっさり頷いて、

「文字が読め、書けるようになるまで、僭越だが私がそなたの世話を焼こう。一通り読み書きが出来るようになったら、これを読んで、思うところを述べに来たまえ」

 と、端々の擦り切れた書物を懐から出した。

「『春秋左氏伝』、略して『左伝』という。文官の身であるが、軍事をも預かっているので、私もこれの世話になった」

 訳が分からない、といった顔をしている狄青の両手に、范仲淹はそれを渡しながら、

「良材も、研磨されなければ光らない。勇も確かに必要だが、智が伴わなければそれはただの『匹夫の勇』である。左伝を熟読して知識を蓄えたなら、蓄えたその知識を、それからはちゃんとこの国のために使ってくれよ」

 おずおずと頷く彼の手の甲を軽く叩く。

 そしていかにもついでといった風に、

「ああ、そうだ、もう一つ忘れていた」

 彼らの陣を退出しようとする狄青を呼び止めて、手を二つ鳴らした。

「先ほども申したが、皇帝陛下が、ぜひそなたに会いたいと仰っておられる。しかし、今は危急存亡の折ゆえ、そなたのような名将に前線から離れてもらうわけにはいかぬ。従って、まことに申し訳ないことだが、陛下には、そなたの似顔絵で我慢して頂くことにした」

「は、そうですか……」

 范仲淹の背後から現れた、彼よりもさらに小柄で痩せた人物と、范仲淹その人とを交互に見やりながら、狄青はあいまいに頷く。

「絵描きだ。彼にそなたの似顔絵を描かせようと思う。その分、余計にそなたの時間をもらうが、それでもよろしいな」

「は、はい」

 一方的に決めて、よろしいな、も何もあったものではない。展開の早さについてゆけず、呆然としている彼へ、

「では、行ってよろしい。呼び止めてすまなかった。ご苦労であった」

 范仲淹はニコニコしながら結んだ。

 そこでようやく我に返って、

「待ってください」

 狄青は范仲淹に向かって叫ぶ。

「俺が、勝手に捕虜を逃がした罪はどうなるのです」

「ああ、何かと思えばそのことか」

 何事かといった風な表情をした范仲淹は、まさに「なんということもない」ような顔に戻って、

「一切不問に付す。では、戻って休まれよ。私も休む。では失敬」

 再びいともあっさりと言ってのけたのである。

 己の陣幕に戻って狄青がした「結果報告」に、

「お前が皇帝にも知られたというのか。いや、めでたい。男ぶりを数段良く描いてもらえ」

「いやいや、それだと皇帝は、実際に会った時にお前が誰だか分かるまい」

 古くからの仲間は心から安堵して祝福を述べながら、彼の頭や肩を力任せに叩きつつ口々にからかった。

(俺は何のことだか未だに分からないのだが)

 手荒い「祝福」を受けて苦笑いしながら、

(だが、あの人々が俺を評価してくれているのだから、それを裏切ってはならぬ)

 懐にある「左伝」へそっと片手をやり、狄青は思った。

 それからというもの、その誓い通り、戦いの合間に彼は范仲淹を、彼が多忙な折には韓琦や尹洙を訪ね、熱心に学び続けたのである。

 恐らく范仲淹は、彼のこのような素直さと謙虚さを初対面で見抜き、

(これは韓琦や尹洙の言うように、見所がある)

 と思って、大いに愛したに違いない。だからこそ、昔から武将の教科書とされている左伝を狄青に与えたのだろう。

 事実、その折の彼の様子を、狄青伝は「節ヲ折リテ書ヲ読ミ、悉ク秦漢以来ノ将帥ノ兵法ニ通ジ、コレニ由リテ益マス名ヲ知ラル」と記した。つまり、プライドを捨てて書物を読み、兵法に通じ、智も勇もある武将として名声を上げた、ということで、これはひとえに范仲淹らのおかげである。

 もともと范仲淹は、熱心に学ぶ者を導くことに、大いに情熱を燃やす人物でもあったし、狄青もまた、

(俺は何も知らぬ。もしもこれからも戦いが続くとなれば、俺の経験だけでは不足する時が必ず来よう。それが俺の弱さにもなる)

 と考えて、范仲淹の期待に違わず「熱心に知る」ことに努めたから、范仲淹の指導にもかなり熱が入ったに違いない。

 范仲淹が、狄青の知らぬ所で彼を朝廷に推薦し始めたのも、恐らくはこの頃からであろう。

 戦いを終えるたび、教えてもらった文字を記した紙を眺めながら、狄青は左伝に取り組んだ。彼の顔を描くことを命じられた絵描きもまた、彼が戻ったと聞く都度、その陣営を訪れて描いていたのだが、

「ようやく貴方の顔を九割方描き終えられました」

 言い、ホッと息をついて微笑ったのは、それから一年半後のことだ。

 西夏との戦いは、未だに続いていた。「また来る」と言っていたホウが、あれきり姿を見せなくなってから、それだけの時間が経過したということになる。

 それに従って、戦況のほうもなんとなし、宋側に有利なほうに動いている気配がする。当初西夏側兵士たちに漂っていた気力が、最近はまるで感じられないからだ。

 宋が、西夏との貿易を絶ったことは以前にも述べたが、

(腹が減っては戦は出来ぬ、というから、宋側の『兵糧攻め』が効いたのであろうか)

 だからホウも来られないのかも知れぬ、などと考えながら、

「貴方も、さぞやお疲れだったでしょう」

 狄青もまた、書物から顔を上げて微笑んだ。戦いの合間合間に、しかも互いの休息の時が合わぬ、といったことも多々あったため、彼の似顔絵はどうしても少しずつしか進まない。

「いやいや、私はともかく、陛下がさぞや待ちくたびれておいでではと思いまして」

 すると絵描きも、凝った肩をほぐすようにぐるぐると回して、

「……非常に申し上げにくいのだが……」

 と、口ごもった。

「何でしょう。何なりと仰ってください」

 励ますように狄青が言うと、

「……貴方の頬にある刺青を、そのまま描いてよろしいか」

 恐る恐る、その絵描きは言葉を返す。

(なんだ、そのようなことか)

 絵描きが描き残した一割部分というのは、どうやら己の刺青であるらしい。

「構いません。どうぞありのままを」

 彼は微笑したまま頷いた。皇帝ともあろう者が、彼がただの一兵卒であるということを今更知らぬというわけでもあるまい。

 それに、

(刺青を入れられた兵士が皇帝に知られた、ということは、他の兵士たちにとっても、大いに励みになるのではないか)

 とも、彼は思っている。

「は、では」

 そして絵描きもまた、安心したように頷いて筆を走らせる。やがて「出来ました」と、自慢そうに言いながら、絵描きはそれを狄青に示した。

「少し良く描きすぎではありませんか」

「なんのご謙遜を。貴方様ご自身も、大変に良い男ぶりでございますよ。私も久方ぶりに、良い仕事が出来ました」

 狄青が苦笑した彼の似顔絵をくるくると巻き、大事に筒の中へ入れて、絵描きは彼に深々と頭を下げる。

 すぐに范仲淹らの陣営に戻る、と言った絵描きを送るように部下に命じて、

(まあ、まさかに俺が皇帝自身に会うこともあるまい)

 そう考えていた狄青は、

「皇帝陛下の命令によって、そなたを本日から将帥に任じる。明日からは私や韓琦殿同様、この軍全体の司令官も兼ねてもらう。要領を得ぬところがあれば、遠慮なく尋ねて欲しい」

 一週間後、范仲淹からそう告げられることになったのだ。

 狄青が将軍になったことで、西夏王李元昊はさらに狄青を欲しがり、同時に我が軍の不甲斐なさを嘆いて舌打ちの数を増やすことになった。

 今では、面具の鬼、刺青将軍が前線に現れるだけで宋側の士気は増すし、逆に西夏側の士気は格段に落ちる。加えて、宋との貿易を絶たれたことが、戦争当初から六年後の今になって大きな痛手となって現れている。

 よって、

「こちらの条件を呑んでくれたら、もう一度そちらに従う」

 西夏王がそんな意味の書を送ってきたのが、狄青が将軍となって半年後のこと。

 気が付けば季節は再び春になっており、

「やあ、やっとまた会えたな」

「お前が使者だったのか」

 西夏側から、交渉のための使者としてやってきたホウが、狄青の陣営を訪ねてきたのである。

「陣営に帰るまで、まだ少しの間がある。せっかくだから、ついでに将軍殿になったお前に会っていこうと思ったのだ」

 陣幕の外で突っ立ったまま、ホウはあっけらかんと話す。その話し方には、相変わらず飾り気がない。かりそめにも一国の将軍相手に話しているのに、

「彼の言動はあまりにも無礼である」

 と、顔をしかめる部下の者たちを、微笑でもってなだめながら、

「あれから、どうしていた」

 狄青もまた、彼のほうへ近づいていきながら言葉を続けた。

「どうしたもこうしたも、お前のせいで『大夏』本国との繋ぎに奔走していたのさ。元昊の奴は、相当参っているぞ。范仲淹も、お前を将軍に推薦するなど、ずいぶんとまたお節介なことをするものだ。まあ、宋の奴らにも、まだ人を見る目を持つ奴は残っている、ということか」

 ホウはまことに多弁であった。言い言い天幕の中へズカズカと入ってきながら、

「おかげで、俺は飛んだトバッチリだ。元昊にも、かなり八つ当たりされた。だが、それでも俺の首が飛んでないのは、さすがに奴の偉いところだと思わんか」

 ニヤリと笑う。

「奴は俺の恩人で、本当に偉い奴だ。だがな、お前という人間がいるのを知らなかった。これが奴の欠点だ」

「世話になった恩人を、そのようにけなして良いのか」

「ああ、構わんさ。元昊は自分でも己の欠点を良く承知している。それが、今回の和議でも出た」

 さらりと言ってのけて、ホウは狄青へぐっと顔を近づけ、

「どうせ後でも知られるだろうが、今回の和議の内容を教えてやる。人払いしろ」

 囁く。苦笑しながら頷いて、狄青は部下のものを遠ざけた。

「さきほどから和議、和議、と決まったことのようにお前は言うが、范仲淹殿や韓琦殿が受け入れるとは、まだ決まったわけではない」

「いや、この要求は呑んでもらう。呑んでもらいに来たのだからな。宋側にとっても、面子は保たれる。悪い話ではない」

「どのような条件を出したのだ」

「李元昊がこれまでのように宋を君主とする代わり、宋から毎年銀五万両、絹十三万匹、茶二万斤、そのほか、必要に応じてこちらが要求する金品を寄越せばよい、ただそれだけの話だ」

 これでも譲歩したほうだ、と、ホウは言う。

「范仲淹や韓琦やらには最初、もっと多くを要求した。交渉の結果でこういった数字になった。とはいえ、さっきお前に言った数字が、そもそも元昊が要求していた量なのだから、狙い通りではある」

「それではまるで詐術ではないか」

「詐術? 笑わせるな、これが交渉というものだ。俺がお前に告げたかったのは、ここから先だ。よく聞け」

 そこでホウは、再び狄青を手招きし、その耳へ口を近づけた。

「西夏も、どうやら元昊の代限りらしい。俺はそれをなるだけ防ぎたい」

「どういうことだ」

 驚いて彼の顔を見直す狄青に苦笑しながら、

「元昊が和議を言い出した真実の理由は、戦いが長引いて契丹が加わるのを恐れたからだ。俺はお前も知っての通り、契丹人だ。だから」

 囁き続けたホウは、そこで一旦言葉を切り、少しだけ唇をゆがめた。

「……だから、今の契丹に、戦いに介入するだけの根性などないことを良く知っている。そのことを元昊に告げても、奴はいっかな耳に入れなかった。つまり、ぎりぎりの所で俺を信じなかったということだ。だから、奴の国もきっと、いつかは駄目になる」

(やはり、信、か)

「だが、言った通り、俺は奴に恩がある。だから」

 いつしか黙り込み、俯いてしまった狄青の顔を覗き込むようにしながら、

「元昊を助けたい。それには、お前が必要だ」

 続けたホウに、(またか)と狄青は微苦笑して、

「残念だが、今ははっきりと答えられる。俺はもう、西夏へは行けぬ。俺をここへ留めた要素は、これだ」

 懐から、すりきれた左伝を彼に示し、きっぱりと答えた。

「お前は、俺のために西夏が追い詰められたといった。もしもそれが真実なら、それは俺という人間を信じ、導いてくれた范仲淹殿や韓琦殿らのおかげだ。だから、俺もその信に応えたい」

「そうか、ああ……そうか。まことに残念だ。俺はお前に再会するまで、お前という人間を心のどこかで信じていなかったものな。その報いが今来た、ということか」

 するとホウは天を仰いで嘆息する。そこにはやはり、肉親を殺された者の恨みといった感情はまるきり感じられず、

「だが、お前はこの話が成立したとしても、しばらくはここにいるのだろう」

 言いながら狄青をまっすぐ見つめる目には、初対面の折と同じ、しみじみとした光が湛えられていた。

「ああ、よく知っているな。確かに俺は、この地の安定を任されている。しばらくは長安や渭水付近から離れられぬ」

「ならばまた、いつでも会えるな」

 狄青の言葉に、ホウは二つ三つ軽く頷き、「また来る」と、いともあっさりと言いながら、彼の元を去ろうとする。

「ホウ」 

 十年前より、ほんの少しだけ筋肉が盛り上がったように見えるその背中へ、狄青は声をかけた。振り返ったホウに、

「和議が成立して、全てが良い方向へ向かったら、共にあの場所へ行かないか」

彼は微笑でもって話しかける。

「あの場所には、セイがいる。白百合が目印だ。今頃は大いに根を増やしていよう」

 すると、ホウは「クソッ」と吐き捨てた後、くしゃりと顔を歪めて、

「……承知した」

 狄青からくるりと背を向けたのである。

 こうして足掛け六年、とにもかくにもこの「宋夏戦争」は終わった。誰の目にも、当初は西夏側の圧倒的勝利であろうと思われたこの戦いを、辛うじて宋の面子を保つ結果に終わらせられたのには……いかに本人が否定しようと……やはり狄青の存在があったからであろう。

 また、彼を「逸材である」と認めて、皇帝に推薦の労を惜しまなかった范仲淹、韓琦といった、当時には珍しく清廉な上官に恵まれたのも、彼の幸運であったと言える。

 宋夏戦争が終わっても、渭州の警備に勤めていた狄青の元へ、

「枢密副使(軍事副長官)に任ずる」

 といった辞令を持って開封からの使者がやってきたのは、彼が四十代半ばに指しかかった頃ではなかったろうか。

 彼がその辞令を受け取ったのは、渭水の城内にある長官府である。使者は同時に、かの戦いが終わった康暦三(一〇四四)年に開封へ戻っていて、その折に枢密副使・参知政事となった范仲淹からの私信も手渡した。そこには、韓琦もまた同じ地位にいる旨……韓琦はかの戦いから二年後に揚州長官となったが、また都に戻ってきて枢密副使となっている……等、近況がちらりと書かれており、「そなたも早く開封へ戻ってくるように」と結ばれている。

 枢密副使というのは、高級官僚にのみ用意されていた地位である。科挙合格者専用の出世コースとも言えよう。当然ながら、文官のみに就くことを許された高位であった。

(范仲淹殿が、またしても俺を引き立ててくれたのだろう)

 これが、ホウの言うところの「お節介」ということになるのだろうが、

(ありがたい)

 その時、狄青が感謝したのは、高い地位に就いたことではなく、范仲淹が己に抱いてくれているであろう親愛に対してである。

 官位の名前など聞かされても、その価値が未だにピンと来ないせいもあるが、もともと己自身は、出世することなどまるで望んでいない。だが、それでも、

(家族以外にも、俺という人間を解そうとしてくれる人がいるというのは、なんとありがたいことであろうか)

 狄青は、その手紙を両手で押し頂いて、そのことに純粋に感謝したのである。

 それを見て、使者は満足したように頷き、戻っていく。

 時に、晩夏であった。開封の方角から、ゆっくりと上ってくる満月を見上げて、

(ホウとの約束が果たせるのは、どうやらまだまだ先になりそうだ)

 狄青は思った。

 山間の小さな村から「渋々」徴収された一兵卒が将帥に、そして副司令官になってしまったのである。二度と帰らぬと誓って十五年、故郷にはその誓い通り一度たりとも帰っていない、というよりも、帰ることが出来なかったのであるが、

(いつか、きっと)

 己も、役に立てなくなる時が来ようし、その時には官を退いて余生を送ることも出来よう。そう考えながら、狄青は机に向かい、一片の手紙を書き上げた。使い始めて数年来になるが、豪華な彫刻や光る石が多く埋め込まれた椅子は、座ると今でも、尻がむず痒くなるような気がする。

「かの西夏陣営へ渡しに行ってくれ」

 ここから去る旨を記した手紙を託されて、部下は、恭しく頷きながら走り去っていく。ようやく早く筆が運べるようになったとは言っても、己の書く文字は、未だにあまりにも拙い。

(かの手紙を見て、彼はどう思うだろう)

 「また来る」と言ってから、再び音信普通となった契丹の古い友人は、さぞや苦笑するだろう、と思いながら、狄青は部屋の窓を開け、ぼんやりと外を眺めた。

 かの西夏王、李元昊が四十六歳で亡くなったのは、康暦八(一〇四八)年のことである。彼は、実子であり太子であった寧林格に殺害されたのだ。

 朝廷に命じられて、己の元から追悼の使者を送ったが、

(それでホウは訪ねてこないのだろう)

 太子の寧林格は、父殺しの罪で処刑された。元昊の後は、彼の次子である李諒祚が継いで、毅宗と名乗った。それがほんの数年ほど前のことなのである。そんな「大事」が国で起きてしまっては、異国の知り合いを訪ねる時間などあるまい。

 風評によると、晩年、元昊は酒におぼれて政治が疎かになっていた、という。だが、当然ながらそれだけでは、我が子に殺されてしまう原因足り得ない。

 少し知恵のあるものなら、その政変の原因を、さまざまに愛憎の絡み合った後継争いの末、と結論付けたろう。しかし、

(父を殺す、か……一体、どのような心境になると、それが出来る。俺には到底出来ん)

 皇帝の家庭事情など、己にはそもそも無縁な人々のことであるから、狄青には想像もつかない。庶民の家庭で、貧しくはあるがごく普通に父や母に愛されて育った彼には、やはりただ素朴に不思議がることしか出来なかったのだ。

 狄青の父母も、元昊とほぼ同時期に亡くなっている。彼に口伝えで報せるように頼んだのは彼の兄で、「両親は狄青の出世を心から喜び、村の者に自慢しながら逝った」というのであるが、

(公事を優先させねばならぬとはいえ、死に目にもついに会えなかった。親不孝のまま、逝かせてしまった)

 この心優しい「面具の鬼」は、吐息をつきながら窓を閉めた。

 今年もまた、どこかで行われているらしい野焼きの香が、部屋の中にも濃く漂っていた。


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