第六話 まだ名乗ってなかったっけ

 人間がどうして死にたいと思うのか。何を以て自分の人生をなげうつに値するのか。僕にはわからない。僕が理解できないそれが、僕にとって理解するべきものなのか、その深淵を覗き込んで、その労力の果てであってもなお、知るべき価値があるものなのか、それすらも分からない。

 そもそも僕という人間の人生において、苦労というのは例えば自転車に乗れない、シュートが決まらない…あとは…思いつかない。つまるところ、その程度だ。確かにこれが全てとは言わない。何かに苦労した瞬間はもっとたくさんあっただろう。ただ忘れているだけだ。

 そう、忘れている。

 忘れることが、できている。

 だから過去を振り返らない。というか縛られない。

「…ねぇ、どうして私は誰かと…君と死にたいのかな」

「死にたいという感情から分からない…と言ったら、怒るか」

「……少し」

 よって、彼女の疑問に、僕が返せる言葉と言えばそれくらいだ。付け加えるとすれば、その言葉で彼女を怒らせるくらい。その程度だ。言葉に重みなどありはしない。自分が何をすべきなのか、分からない。

 目の前の少女は笑っている。

 文面に滲ませた怒りなど、微塵も感じさせない。そんな笑み。

 隠しているのだろうか。

 もしそうなら、それは上手く隠されていた。僕には彼女の真意は見抜けない。縛られたまま、僕は目の前に移動した彼女と視線を交錯させていた。

 時間は朝。具体的には…冬の明け方ということを考慮すると、大体八時過ぎくらい。ようやく朝日が宵闇を押しのけきる、そんな時間。肌を刺すような寒さは依然として変わらないが、彼女のルーティンなのだろうか、何やら軽い運動をしている。

 屈伸をしたり背伸びをしたり、バレエのようにくるりと回ってみせたり。体を鈍らせないようにするためなのか。それとも特に意味はないのか。

 ふわりと舞うスカートの裾に、僕は状況も弁えずどきっとした。

「…ま、それもしょうがないか。私たち、お互いの事なんも知らないし…あはは、なんかお見合いみたい」

 ある意味正しいともいえるけどね、人生の幕引きの為の関係としてさ。

 などと。

 のたまいながら、少女は前に体を倒すようにして、僕の顔に端正な美貌を近づけた。

 息がかかりそう、だなんて距離ではない。もう多分鼻くらいは触れている。ゼロ距離に近い。

 彼女は大きな栗色の瞳を動かして、僕の至って平凡な、面白みのない眼球を覗き込んだ。

 そしてこう呟く。

「…綺麗だね。おめめ」

「は?」

 素っ頓狂なことを言い出した少女は、僕のそれから視線をそらさず、小さく唸ってから一瞬だけ目を伏せて、頭を振って続けた。

「違うか…汚れてないんだね。人の目って最初はこんなにきれいだったんだ。知らなかった」

 勝手に独りで納得する少女。

 そして何故か僕の何倍も美しいその瞳を、僕の視線から隠すように逸らして、また僕の隣に腰を下ろした。身を寄せ合うようにして座っている。やはりその薄着では寒いらしい。

「私ね、思うことがあるんだよ。人間って成長って言いながら、歪んで矯正されていってるんじゃないかなって。瞳ってのは、凄くそれがよく表れるんだ」

 だから私の瞳は歪んでる、とでも言いたげな口調だった。要領を得ない言葉だ。確かに視線は人間の意識などを如実に表すとされているが…彼女のそれというのは、また僕が知っているものとは違う、体験なのだろう。

「…さっきから話が全くわからん上に胡乱だな。歪みながら矯正って、意味わかんないぞ」

 聞き手として最低限のブーイング。

 残念ながらそれは、彼女に全く届いていないようだった。

「あはは、そうかも。胡散臭いよね、でもそういうもんだよ、思想って。性善説って知ってる?まぁ知らなくてもいいんだけど、それに似てるんだよ。私のコレ。人間は生まれながらにして善良である、悪事を働くのは外的要因が関係している、ってやつ。人々は経験に学び、成長するというけれど、もともと真っすぐなものを合うべき形に無理やり矯正してるだけなんだよ。それが『正しさ』って定義されてるものの正体。本質といってもいいかな」

 息をつく。重苦しい膿を吐き出すような呼吸だ。

「だからね、私はやっぱり歪んでる。そして君の濁らない瞳がとっても好き。君自身のことも好きになっちゃいそうなくらい」

「冗談でもよせよ」

「あはは、童貞さん?面白いね。可愛いよ。本当に好きになりそう」

 よく笑う少女だった。けれど間近で見ていれば気が付く。彼女の髪は、お世辞にも手入れされているとは言い難い。亜麻色の綺麗な髪の毛だけれど、最後に洗髪されたのはいつなのかは想像もつかない。一日二日の荒れ方ではなかった。枝毛は目立つし、濃密な人の香りがする。彼女自身がいい香りをしているからか、それ自体はあまり気にはならないけれど、その事実が告げる暮らしの悲惨さはどうにも僕の心を穿った。

 その事実から目を背けるというか、意識を逸らしたくて、僕は彼女の軽口に応じる。

「好きだとか何とか…名前も知らねえ奴に言われたって困るだけだ」

「名前を知っていたら?」

 鋭く返される。

「…普通に困るだけだ。でも、今はお前の名前を――」

酔花すいか

「――え?」

笹浦酔花ささうらすいか。笹浦って呼ばれるのは好きじゃないから、酔花って呼んで」

「えっと…その、うん…酔花」

「ん?なぁに?」

「…ふぅん、そう」

 いたずらっぽく笑う少女・・・もとい、酔花。彼女は自殺したいとか抜かすくせに。

 なんだか随分、楽しそうだ。

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感情と裏切りと、それから想いの捨て方。 大町がい @ookikumatigatteiru

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