第二話 おはよう、私と被害者。

 思考すること十分ほど。結論から言うと、何も思い浮かばなかった。情けない限りだが、この状況では冷静にはなれても、聡明にはなれないらしい。

 本当に何も思いつかないのだ。ここから脱出する方法はおろか、自分が今から何をすべきなのか、何を念頭に置いて行動すればいいのか。微塵も検討が付かない。ざっと周囲を見渡してみたところ、ここはどうやら郊外にある廃ビルらしい。近所の小学生の中では幽霊が出ると有名な、廃ビル群。一時期はかなりの数のテナントが軒を連ね、その足元には賑わいがあったらしいが、今では物音すらしないような、そんな朽ち果てた廃ビルになってしまった。ここまで落ちぶれた原因について詳しくは知らないけれど、一つには不名誉な噂が挙げられる。ここがいわゆるオカルトスポットとなったのもその噂が原因で、なんでも、ここから定期的に人が飛び降りて死ぬ…だとか。

 率直なところ、僕はもう十七歳なわけだし、あまりそうしたオカルトチックなことに恐れをなしているわけではないけれど、それでもやはり気味が悪い。実際にこのビルから自殺者が数人出ているのも事実らしく、厳重封鎖区域として有刺鉄線や金網が周囲に張られていることも手伝い、その気味悪さは一級品だ。

「…にしても、物好きもいるもんだな」

 いや、誘拐場所をここに選んだという点では賢いというべきなのだろうか。

 まぁいいや、どちらにしろ、奇特な人間には違いない。

 わざわざそんな曰く付きの建造物に、こうして住み着くというのはそれだけで自分は普通ではないと喧伝して回っているようなものだ。金をもらってでも住みたくないというのに、不法侵入までして生活の場所をここへ選ぶとは。

 やんごとなき理由でもあるのだろうか。

 ・・・いいや、分からない。人を監禁するだけでも大概なのに、そのうえで放置だなんて。そんなことをするような奴、理解しようとするのは土台無理な話なのだ。

「けど、どうしたもんかな…。この鉄柱がある以上動けないし…」

 背負った鉄柱からは、滲むように冷気が染み出している。これが真夏ならよかったのだが、現実は冬だ。肌寒いとかそういう話ではない。体感気温は一桁。特に触れている手首の部分はむき出しの皮膚。凍傷になりかねないし、もしかしたら自分では気が付いていないだけでもうなっているのかもしれない。

「あぁもう…寒いな…」

 そう、寒い。寝起き…というか寒い夜を通気性抜群のここで過ごし、気絶からようやく回復した僕の身体は、どうやら自分が想像しているよりも冷え切っているようだ。吐く息は白く凍てつき、脳の動作とは対照的に冴えすぎた視界のせいで目の奥が痛い。

 僕はさっき、自分を冷静だと形容した。けどもしかしたら、いや実際問題かなりの確率で、僕の胸中の半分くらいは疑念で満たされている

 だからだろうか、思わず悪態をついてしまう。今が何月の何日なのかすらわかっていないのだ、分からないことが多すぎて何もかもが嫌になっても、何も不思議ではない。

 そしてその状況を『不味いな、落ち着かないと』と冷静に俯瞰している自分も同時に存在している。

 欲望に揺られる時、人は欲と抑止力を天使と悪魔のように喧嘩させるという。どちらの意見も一理あるから悩ましいものらしいが、僕の状況も似たようなものだ。むしろそれらが分離しきっておらず、根本では僕の思考と一体化しているという点から見れば、なお一層たちが悪いのかもしれない。

 これが俗にいう、極限状態というやつなのかもしれない。

「…あぁもう、誰か教えてくれよ」

 答えなんて帰ってくるはずのない問いを虚空に投げかける。口にしなければやっていられない。

「一体どういう状況なんだ?誰が僕をここまで攫った?…いったい何が目的だ?」

 声を荒げることはしないけれど、それなりに苛立ちを滲ませた声が室内に響く。その余裕を失った自分の声に、わずかながら動揺する。

 何を焦っているんだ、自分は。焦りは何も生まない。少なくともメリットなんて絶対によこしてくれない。そういうものだ。

 落ち着かないと。

 どうせ感情を発したって誰にも届きはしないのだから。

 あまり意味はないと分かっていても深呼吸をする。脳天を直接氷漬けするような外気を吸い込んで自らを僕は律した。

 今すべきことは動揺ではない。己の弱さに打ち勝ち、冷静になること。

 そう、今はとにかく建設的な思考を巡らせて、意味のあることだけを考え――。


「――ん、元気がいいね、君は。おはよ、よく眠れた?」


 再び思考の渦に飲み込まれようとしたその時。

 僕の波打つ感情を一息で沈めるような、落ち着いた声音が響く。

 可愛らしい女の子のような、柔らかさと拙さと、背伸びした達観さが、その声には滲んでいた。



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