感情と裏切りと、それから想いの捨て方。

大町がい

第一話 冷たい部屋

 意識が戻って初めて気が付いたのは、身を震わすような寒さだった。

 脊髄に滑り込んでくるような、そんな寒さ。コーヒーが恋しくなる、そんな寒さ。

 視界が不明瞭だ。音もよく聞こえない。気絶でもしていたのだろうか。自分自身のありとあらゆる感触が、どこか遠くに離れてしまったような、そんな不思議な困惑と倦怠感が体に染み込んでいる。

「…ぅ、ん…あれ、ここは」

 気怠い身体に鞭を打ち、無理やり視界を開く。こんなに瞼が重かったのは久しぶりだ。目を開き、何度か瞬きをして光に目を慣らすと、ようやく自分がどういう状況に置かれているのかが分かってきた。

 視界に飛び込んでくるのは青く薄暗い世界だった。深海の色に無理やり光を当てたような、不気味でいて爽やかで、どこか神秘的な闇が満ちていた。

 闇が浮かび上がらせていたのは、無骨な建造物…の成れの果て。壁がひしゃげて容赦なく突き出した鉄骨。仄暗い無機質な混凝土を引っ搔くように突き出したそれは、未だ万全でない視界でも分かるほど、朽ちていた。赤黒く広がった錆は、時の経過とこのビルディングが受けた傷跡を象徴しているような、そんな虚しさと痛々しさを放っている。

 意外にも電気は通っているのか、頭上の蛍光灯がひどく緩やかなスパンで明滅する。あってないようなものだし、ともすれば気が散るのでない方が良いのかもしれない。役目を終えてもなお、身を光らせているその様子は健気だが、憐憫の情も同時に僕の胸中に浮かび上がらせた。もちろんこんな場所、僕の記憶にはない。いつかホラー映画で見たセットには少し似ているけど、ただ似ているだけだ。撮影はとっくに終わってセットは撤去されているだろうし、もし実際にあったとしても、その作品の舞台は日本ではないから、僕がその場に行くことはありえない。まぁ要するに、知らない場所。

 おかしいな。昨日の夜、僕は塾を出て、いつものように路地裏を歩いて…。

 そこまで思考して気が付いた。家に帰った記憶が、無いのだ。もちろん家で眠った記憶も、熱いシャワーを浴びた記憶も、そうした普段身近に感じている当たり前の動作に対する記憶の一切合切が抜け落ちている。いや、もしかしたら抜け落ちたというよりも、実際そんな動作をしていなかったのかもしれない。家に帰るまでの道中で、何らかの原因で意識を失って、いやでも帰り道で何かがあったような記憶も…。

 ・・・だめだ、思考が堂々巡りだ。情報を整理しきれなくなってきた。

 まずは親に連絡しないと。きっと心配している。夜遅くに息子が塾に出かけたまま帰ってこないのだ。今が何月何日の何時かなんてのは分からないけれど、少なくとも安心できるような状況ではないだろう。速やかに連絡をしないと。自分が無事であることくらいは言っておかないと、さらに心配をかけることになってしまう。

「…っ、あれ…?おかしいな、腕が…なんだこれ」

 右ポケットに突っ込んでおいた携帯に手を伸ばそうとした僕は気が付いた。腕が背面で拘束されているのだ。しかもご丁寧に、鉄柱を背中で抱き込むような状態で。

 ・・・どうやら拘束されているらしい。もっと言えば、拉致監禁されているらしい。らしい、と他人事のような言い方になってしまったが、実際に監禁されてみるとあまりに現実感が無さ過ぎる。未だ脳の回転が遅く、思考がぼんやりとしていることも手伝って、実際に自分の身に起こっていることだと身近に認識できないのだ。

 普通はもっと慌てるものだと思っていた。混乱してわめき散らすようなものだと思っていた。けれどどうしようもならないと分かったとき、意外にも人間とは冷静になるらしい。

 今僕の周りには、僕をこうして誘拐して監禁した犯人らしき人もいないし、実感がわかない。

 さて、どうしたものか。

 僕は一度大きく深呼吸をして…張りつめた凍てつく空気が肺腑に満ちていく感覚を味わいながら、思考を始めた。





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