久瀬 春親・終

「お久しぶりですね」

「……ひ、久しぶり、だね」

 弁護士以外の人間と会話をすること自体、あまりに久しぶりで、上手く言葉が出てこない。

 一瞬合ってしまった視線は彼女の眼光により火花が弾け、怯えた私はすぐさま逸らす。

 今、彼女が私に抱いている感情がわからない。怒り? 侮蔑? 怨恨?

 ただ、怖い。彼女が次に発する言葉が怖くて……怖くて……背を向けた、私へ――

「また逃げるんですか?」

 挑発的な、嘲笑混じりの声が突き刺さる。

「五年前と同じように、何も言わないで消えるんですか?」

「……」

 何も言えなかった。けれど、それ以上歩を進めることもできなかった。ただ、彼女の次の言葉を待つことしかできなかった。

「道路に停めてあるの、先生の車ですよね」

「あ、ああ」

「乗せてくださいよ。立ち話もなんでしょう?」

 それは提案でも要求でもなく指令だった。幸廼ちゃんは返答を待たずに歩き出し、私は軋む心臓を抑えながらそれに付き従った。


 ×


「へぇ~。つまり仕事についていけなくて、心身の養生のためにこっちに帰ってきたと、そういうことですか」

 なんの躊躇もなく車に乗り込み、助手席に座った彼女はあっけらかんと世間話を始めたが、私は本当のことは何も言えなかった。

 エンジンも掛けていない車内は常に重くてざらついた沈黙に満ちていて、それをかき消してくれる幸廼ちゃんの声は救いに思える。

「そんなにやつれるほど大変だったんですか? 変わりすぎて遠目からじゃわかりませんでしたよ。……昔、あれだけ傍にいたのに」

「……幸廼ちゃんは、本当に綺麗になったね」

「でしょう?」

 やっとの思いで言えた本心は、しかしおべんちゃらと受け取られたのか、薄っぺらい笑み混じりに返された。

「ちゃんとした恋をしましたからね。悪い大人に遊ばれるんじゃなくて、ちゃんとした恋を」

「私は……遊んでいたわけじゃ」

『悪い大人』は否定できずとも、あの頃の真剣な気持ちを茶化すことはできずにささやかな反論を試みる、も――

「ならどうして逃げたんですか? 私一人置いて。あのあと私がどんな思いで、どう生きたか想像できます?」

 ――彼女に逆らうことが許されるはずもなかった。

「それは……」

 あのときは私一人が遠くへ消えれば全てが解決できると本気で思っていた。

 けれど、多感な少年少女が無数にいる空間で、妙な噂を流されてしまっては……まともな学園生活なんて……。

「……ふふっ、安心してください。いじめられてなんかいませんよ。

 先の雰囲気から一転、言葉に纏わり付いていた棘がこそげ落ち、柔和な女声が軽やかに溢れ出す。

「私にとっての救世主が現れたんです」

「救世主?」

「ええ。私を守ってくれたその子は、ちょうどあの辺りの窓から飛び降りたんですよ。足を骨折して。それから私は彼女を意識するようになった。崇拝と恋心を同時に教えてもらったんです」

 意図的なのか肝心な部分が端折られ十全には理解できなかったが、少なくとも何者かが幸廼ちゃんを救ってくれたことは間違いない。私はその何者かに、心の中で、心からの感謝を述べた。

「そう……良かった」

「良くないですよ。その人、高校で恋人作っちゃって。私もいろいろ画策したんですけどね、結局は失敗しちゃいました」

 高校、恋人、画策、失敗。幸廼ちゃんにとってはそのとおり良くないんだろうけれど、世間の言う当たり前の青春を順当に歩んでいるらしいことに少し、安堵しながら話を聞いていた。

「その人達も今こっちに帰ってきてるんですよ。せっかくの秋休みに帰省なんて花の女子高生が何やってんだって感じですよね。こんな田舎に恋人連れてきたら幻滅して別れてくれるかもとか思ってけてたんですけど、なんか散歩してるだけでいい雰囲気になっちゃってて。バカバカしくなって適当に歩いてたらここに着いてました」

 適当に車を走らせてここに辿り着いた私と彼女は、やはり何か似たものを共有しているらしい。

 ……いや、そんなものはただの希望的観測だろう。この町では訪れるべき場所がここくらいしか無いだけだ。

「私の話はこれくらいですかね。今度は先生の話、はぐらかさないで聞かせてくださいよ。どんな悪いことをしたらそんな風になるんですか?」

 鎌を掛けているだけ、それか嫌味を言っているだけ。の、はずなのに。どうしてこうも見透かされているような気分になるんだろう。

「……」

 けれど結局、私はやはり、何も言うことができなかった。一回り以上年下の女の子にいいようにされて手も足も出ない情けない大人、弱くて見窄らしい大人が、今の私の、偽らざる姿だった。

「……まぁ、安心してくださいよ。先生みたいに小四の女児を手篭めにして心底嬉しそうな笑みを浮かべる人間が簡単に幸せになるわけないじゃないですか。人生これからです」

 ゴミを投げ捨てるように励ましてくれた幸廼ちゃんは、自嘲気味な笑顔を浮かべた。

「私も、さんざん汚いことをした挙げ句、何も手にすることができなかった時点で簡単には幸せになれないと悟りました」

 その後もしばらくは彼女の心無い揶揄の雨に打たれていたけれど、いつの間にか心臓からは軋む音がしなくなっていた。

「――あっ」

「? ……っ」

 突然、あられもない抜けた声を上げた幸廼ちゃんの視線の先には、二人の少女。私達が乗る車の横を悠然と通り過ぎて、軽い足取りで前へ前へと進んでいく。

 彼女たちは仲睦まじく手を繋いで歩き、時折顔を向かい合わせて微笑み合っていた。

 その瞬間に見えた少女の横顔に私は、網膜が焦げ付く程見覚えがあった。

「…………」

 彼女は、私には決して見せたことのない笑顔で、朗らかに存在している。

「…………」

 二人の後ろ姿は風のように早く遠ざかっていく。私達を突き離すように、前へ、前へ。

 もしも彼女がこちらへ振り返っていたら何かが変わっただろうか。最後に何か、一言を伝えることができただろうか。

 例えば――

 ハピちゃん、私はね、本当に、心から君に救われていたんだ。

 君に近づかない、関わらないということが、最も重要な贖罪であるということはわかってる。

 だけど……君の声が聞きたいよ。君に直接責められたい。君に直接罰してほしいよ。

 ――なんて、言えるわけがない。

「何泣いてるんですか、先生」

 ああ、やっと理解した。この人生でこれから先、一生君に会うことができない。それがどんなに痛烈で、効果的な罰であるかを。

「驚きました。大人でもそんな風に泣くんですね」

 まるで驚いている様子なんてない。けれど蔑むようでも、同情するようでもなかった。

「そういえば一つ、言い忘れていました」

 幸廼ちゃんは二人の背中をじっと見つめたまま、本当に、たった今思い出したかのように口を開いた。

「先生からしたら性欲のはけ口を見つけた程度にしか思ってなかったでしょうし、問題になったらすぐ離れればいいや程度にしか思っていなかったんでしょうけど……」

 再会してから今の今までつらつらと饒舌を重ねていた幸廼ちゃんが、初めて言い澱み――

「ありがとうございました」

 ――思わず耳を疑ってしまう言葉を、ぽつりと零す。

「………………え?」

「あの頃の私にとって……彼女に出会う前の私にとって、先生だけが私の、心の拠り所でした」

「…………私は……感謝されるような……ことなんて……」

「そうですよ。だから二度と言いません。さっき録音していなかったことを後々大いに後悔してください」

 幸廼ちゃんは喋りながら、前かがみになって涙を拭う私の背中を優しく叩き、呼吸を整えるためのペースメーカーを担ってくれた。

「どうして君はこんなにも、私なんかに優しくしてくれるんだい……?」

「知らないんですか?」

 言葉が湿気でよれて、背中を叩く手が震え、ペースメーカーのリズムが乱れる。

「人間が誰かに優しくできるときは、誰かに優しくされたいときなんですよ」

 自分のことでいっぱいいっぱいだった私はようやく、幸廼ちゃんが泣いていることに気づいて、無意識に抱きしめていた。

「ここに来て改めて思いました。私の方がずっと多く彼女との記憶を保有してる。あんなぽっと出の女に取られてはいおしまいなんて言わせるもんですか。私は……私は諦めない」

 抱擁は拒絶されない。けれど、視線は絶えず二人に送られていた。どれだけ離れても、小さくなっても、決して逸らされることはなかった。

「幸廼ちゃん……」

 彼女は強い。だけど、なりたくて強くなったわけではないんだ。誰にも甘えられなかったから、ただ強くなるしかなかったんだ。私が彼女から逃げ去った後の五年間を想えば想うほど、感情が綯い交ぜになって涙は勢いを増していく。

 私達はようやく得た機会に惜しみなく寄りかかり、互いの体がバラバラにならないようきつく、きつく抱きしめ合って、涙が枯れる前に喉が枯れるほどの慟哭に溺れた。


 ×


「それじゃ先生、さようなら」

 日が沈んできた頃合い、幸廼ちゃんを車で駅まで送ると、一言告げ助手席から降り、静かにドアが閉められた。

 目元が赤く腫れていても、彼女の強い眼光は淀みなく私を射抜いている。

「うん、さようなら」

 二人の背中を見送ってからこの駅に到着するまで、私達は一つの言葉も交わさなかった。喉が枯れて痛かったからか、もう何も話すことがないからなのかはわからない。

「しばらくこっちにいるんですよね」

「……いや、新しい場所を探そうと思う。……すぐにでもここは出なくちゃ」

 ハピちゃんがこの町の出身ということがわかり、一刻も早く離れなくてはならなかった。

「そうですか。なら連絡先を教えて下さい」

「えっ?」

 予想外の命令に動揺しているとスマホを奪われ、パスワードを聞かれたのでつい正直に答えてしまった。

「車を持ってる知り合いがいるといろいろ便利なんですよ。用があったら呼び出しますので、何を差し置いてでも私を優先してください」

 あっという間に処理を終えたらしく私のスマホを助手席に投げ捨てると、これで最後とでも言うように私の瞳をじっと見つめて、幸廼ちゃんは続ける。

「だから、死んじゃダメですよ」

「っ…………」

 自分自身でも知り得なかった本望を、彼女は密かに暴き、咎めてくれた。

「……死なないよ」

 何度も『もう嫌だ』と嘆き、何もかもを諦めていた私の眼前に、再び一縷の望みが細く、美しく輝き始める。

「いつでも好きな時に呼んでくれ。きっと力になると誓おう」

 これから先――きっと来ないであろう――彼女からの連絡を待ち焦がれる苦しみに心臓を焼かれながらでも、私は生きると誓った。

 二人の少女への想いと共に、二つの罪への罰と共に、私は、何があってもこれからを生きていく。

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