久瀬 春親・3
なんてことない、当たり前のこと。
「あーあ、ハルが男だったら絶対付き合ってるのにな~」
私の腕に腕を絡め、私の指に指を絡め、ぴったりと体を密着させて歩くのは、彼女にとって当たり前のこと。
私以外の女子にだってする、至極自然な仕草。
「……女同士だからこんなに仲良くなれたんじゃない?」
ただでさえ容赦なく押し付けられる彼女の質感にクラクラしそうなのに――他意は無いとわかっていても期待してしまう――思わせぶりな発言で心が高ぶったことを悟られないよう、平静に努めて返した。
「あーそれもそっかー。ハルは大人だねー」
話はそれでおしまい。彼女は鼻歌を歌い始めて放課後の開放感に浸っている。
私の高ぶりなんて気づかれるはずもなかった。なぜなら、なんてことない当たり前のことだから。
私が私の恋愛対象を自覚したとき、今よりもずっと時代は遅れていた。
女が女に恋をするわけがないという、当たり前のこと。
女が女に欲情するわけがないという、当たり前のこと。
同性愛は奇異なことで、同性愛者は偏見の眼差しを向けられ、テレビでは笑われるべき存在として扱われるのが当たり前。
この世界の当たり前は私を急いで大人にしていった。そのせいで培われるべき大切な何かが欠けたまま、体は少女の期間を終えてしまったのだろうか。
×
勉強は嫌いだったけれど、大好きな人に教えるのは好きだから一生懸命頑張った。
けれど偏見を恐れる女の初恋が実るはずもなく、それは音もなく散っていった。
それでも植え付けられた『将来絶対先生になった方がいいよ』という使命を果たすべく養護教諭の資格を取るために上京し、初恋の残り香を堪能するために生まれ育った町へ戻った。
とある事情でその学校から、その町から追放された私は再び上京し、資格やスキルがなくとも魂を燃やすか悪魔に売り渡せば金を得られる営業職に就いた。
今思えばあの頃の私は、魂を捧げるべき場所を失って自暴自棄になっていたのだろう。
そんな私を救ってくれたのが、同時期に入社した年下の、強気な吊眼が特徴的な女性だった。
一緒に残業をして、飲みに行って、愚痴を言って。プライベートでも一緒に買物に行ったり、映画を観たり。
恋していることを忘れるくらいに楽しい日々は、しかし唐突に終わった。
入社してから三年目の雨の日、彼女が嬉しげに妊娠の報告をしてくれた。相手は私に対して何度も何度もアプローチをしてきた軟派でいけすけない上司の男だった。
呼吸ができないほど止めどなく涙が溢れて、こみ上げる吐き気を必死に隠した。
彼女は『そんなに喜んでくれるなんて』と笑っていたけど、当然、涙の真意は伝わらない。決して伝えてはいけない。それが当たり前のことなのだから。
×
愛に生きられないのなら金に生きるしかなかった。
女だから色仕掛けで業績を上げたと揶揄されても立ち止まらなかった。
少し経つと方々から、飢えた男達による憐憫に見せかけた汗臭いアプローチが止まなくなった。
その日は資産家の男に呼び出されていた。上手くやれば多額の契約が取れるだろうが、はなから上手くやる気はなかった。
こういう人種は大抵美しく
安くて不味い酒による酩酊、下卑びた視線、不躾な手つきで太ももを撫でる無骨な手、耐えられなくなって立ち上がった瞬間、男は私の体を引き寄せ頭を掴み距離を零にした。許容を超えた不快感にパニックが訪れ視界が真っ赤に染まる。
抵抗する私の腕を痣ができるほど強く掴んで逃すまいとするその男を、ようやく椅子ごと突き倒し店を出て走り、路地に逃げ込んでから不快感と悔恨に打ちのめされて転ぶように倒れた。
唇に、舌にこべりついた最低な感触は毒のように心を蝕み、次々と込み上げる胃液が奥歯を溶かしていく。涙も鼻水も垂れ流す体は、毒素を排出するために必死だった。
『大丈夫ですか?』
『…………大丈夫じゃない……もう嫌だ……もう嫌だ……もう嫌だ……』
そして私は、天使と出会う。
限界まで追い込まれた剥き出しの心を、暖かく、優しい柔肌に包み込まれてしまって、何もかもがどうでもよくなった。
彼女以外の全てがどうでもよく思えた。
その代わり、彼女の全てが欲しくなった。
次第に客と店員では満足できなくなった。私生活が知りたくなって仕事を終えた彼女の後をつけたりした。これは見守るためだとかなんとか、自分自身に言い訳ばかりして。
だけどそんなことはやはり、するべきではなかった。彼女を観察すればするほど、私は思い知ることになるのだから。彼女が誰かに恋をしていることを。
――私ではない、誰かに。薄汚い男に。私からあらゆるものを奪い、私の尊厳を蹂躙した存在に。
最初は心配で、不安で仕方なかった。しかし私が指名を入れていた日に彼女の休みを告げられ、純然たる怒りが込み上げて……更にそれを塗りつぶすような冷たい恐怖が全身を駆け巡った。
嫌だ。
もう嫌だ。
もう、心を許した誰かが自分から離れていくことに耐えられない。
――――――――――――耐えられないよ、もう。もう、嫌だ。
それからの記憶は朧げで、ただ、靄が掛かったような景色の中で、血に沈んでいく彼女の虚な瞳だけが――私をじっと見つめている。
「あの、大丈夫ですか?」
「っ」
背後から声を掛けられて意識が一気に現在へ――廃校舎のグラウンドに突っ立っている現状へ――引き戻された。
ただの声ならばあのまま追憶に没頭していたかもしれない。けれどその声には、あまりにも聞き覚えがあった。
「…………久瀬、先生?」
振り向けば、そこにいたのは一人の女性。大人びた雰囲気を纏っているが高校生くらいだろう。
「……」
私の本能が正しければ、あまりにも大人びてしまった彼女は、私の幸せな記憶、そのもの。
目の前にいるのは蠱惑的な美女だが、あの頃の可憐な少女が成長した姿というのは確認しなくても理解できた。
「………………幸廼ちゃん……」
養護教諭をしていた時代、私達以外誰もいない保険室でその体とその精神を貪らんとした少女が、幽霊でも見るような瞳で私を眺め、やがて憐れみに満ちた微笑みを浮かべるとこちらへ歩を進める。
それはまるで――罪人の首を落とす為に巨大な斧を携える――処刑人のような足取りだった。
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