独占・3

「エプロン付けて、おたま持ってる有喜ちゃん……ほんとに可愛いなぁ」

 ベッドに身を投げていた先輩が――いい香りに誘われたのか――キッチンで鍋をかき混ぜる私にフラフラと近寄ってくると、背中から優しく抱きしめてくれた。

「もう少し待っててくださいね、そろそろ出来ますから」

「はぁい」

 お腹に回っている先輩の手がどう悪戯イタズラに動くのか気が気じゃなかったけど、しばらく佇んでまたベッドに戻っていく。どうやらちゃんとしてくれたみたいで良かった。


「どう、ですか?」

 入念に味見をしたあとテーブルに並べ、先輩が咀嚼を終えたタイミングで問う。

 作ったのはロールキャベツ。なんとなく、寝起きの体には優しめに味付けしたコンソメスープが合いそうだと思ったから。

「美味しいよ。美味しいに決まってる。有喜ちゃんが私の為に作ってくれたんだから」

 若干煮込む時間が足りなかったかな、なんて不安も、ほころんだ先輩の表情を見て杞憂に終わる。

 本当はパスタを作る予定だったけど、朝食からそんなに間が空いてないのにガッツリ過ぎるし……予定変更して第一案として挙がったサンドイッチも、朝食パンで昼食もパン……? なんて思考を巡らせて再変更した甲斐があった。

 よしよし、料理は大成功。この調子でまたマッタリして……帰りには……今日まで放課後の暇な時間を駆使して完成した手作りチョコを渡す! 

 レギュラー争奪戦で住良木先輩に勝ってもらうためにも! 不肖福添有喜、先輩の背中、押させてもらいます!

「次はどんな映画観ましょうか?」

「そだねーさっきは邦画観たし、次は洋画?」

「いいですね! ド派手なアクションのとか!」

「うん、そうしよー」

「先輩は吹替派ですか? それとも字幕派ですか?」

「そんなに好みはないかなー。有喜ちゃんの好きな方選んで」

「わかりました! では字幕で観ましょう! ……あっ、そういえば」

 映画の話題なんて安直、と思われがちだけど、安直な話題には安直なりに意義がある。

 どういう意味かと言えば、最近私はヘンレズと呼ばれなくなって久しくなり、クラスメイトとお喋りする機会が多くなった。

 その一番最初、とっかかりとして岡島さんが私に振ってくれたのが映画の話題。

 流れはさっきと大体同じ。邦画と洋画の話をして、字幕か吹替かの話をして――そんな普通の会話を、私は女子高生になってようやく、クラスメイトと交わすことができた。

「聞いてくださいよ、前にクラスの人ともこの話になったんです。そしたら岡島さんが、『私は吹替も字幕も違和感しか無いから、映画館には行かないわ』って言ってたんです。もーみんなどんな反応していいのかわかんなくて、空気凍っちゃいましたよ~」

「……ふぅん」

 これまでフォークでロールキャベツを、スプーンでスープを気持ちよく口に運んでくれていた先輩の手が、ボタンでも押されたように停まった。

「……で、でもですね、それに対して私が『じゃあ一緒に映画館行けないね』って言ったら、慌てて『一緒に観る人次第ではやぶさかではないわ』って……見事なツンデレで、みんなも私の切り返しを褒めてくれて……空気が和らいで……良かったって、いう、話、なんですけど……」

 コミュ障特有の語尾が弱くなっていく途中、カタン、と、先輩の手から食器が放された。……やってしまった。身内話はつまなんないってどっかで見たのに……!

「有喜ちゃん、」

「は、はいっ!」

「――よく、そんな話ができるね」

「…………え?」

 たとえば『岡島さんらしいね~』。たとえば『有喜ちゃんやるねぇ』。たとえば『私達も今度また、一緒に映画館行こうね』。

 なんて、そんな風に返されると思っていたから、一瞬、媛崎先輩がなんと言ったのかわからなかった。

 わかったあとも、先輩の表情を見るまでそれが意地悪な冗談なんだと思っていた。

「その人と有喜ちゃん――」

 彼女は、笑っている。確かに笑っている。だけど、細まった目と微かに上がった口角はとても笑顔だなんて呼べなくて。笑顔という品名の仮面を付けているようで。

「――浮気したんだよ?」

「っ」

 食べかけのロールキャベツと飲みかけのスープをそのままに、先輩は再びベッドへ移動すると寝っ転がり、私に背を向け壁に向かって話す。

「たくさんキスしたんでしょ? ふれられたんでしょ? その記憶はあるんでしょ?」

 涙のせいなのか、怒気のせいなのか、先輩の声は仄かに揺れていた。そんな彼女の背中を見て、声を聞いて……が風化されるのには永い永い時間を要することを、痛感した。

 今まではただ、先輩が心の中で、抑えてくれていただけなのだと理解した。

「先輩には……本当に、つらい思いをさせて……申し訳ないと思っています。でも、私も岡島さんも、いろいろありましたけど……もう、今は普通の友達です」

「そんなの有喜ちゃんが思ってるだけ。本当に……何もわかってない。あんなことがあったのに、何も学んでない。何も変わってない」

「そんなことありません。私は先輩に会って、確かに変わりました」

「それも、有喜ちゃんが思ってるだけ」

 こんな風に冷たくあしらわれるのが初めてで、何をどう紡げば思いが伝わるのか……わからない。

「有喜ちゃんはずーっと鈍くて、ずーっと残酷なだけ。それだけ」

 言うと先輩は体を翻して私を見る。その表情はさっき付けた仮面のまま。薄い笑顔のまま、両手を伸ばした。

「おいで」

「……」

 逆らうことなんてできない。暗い潮の流れに従って、媛崎先輩の胸元に顔をうずめる。

 すると優しく、我が子に子守唄を聴かせるように頭を撫でながら先輩は続けた。

「私はね、有喜ちゃんがクラスの子と仲良くなったって、一ミリだって嬉しくないよ」

「……」

 声音とは正反対の冷たい言葉が、体温を奪っていく。

「クラスの子に褒められたとか、岡島さんの言動が面白いとか、聞かされたって妬ましさしか湧いてこない。有喜ちゃんが独りぼっちなら、それが一番いい。私だけを求めて欲しい」

 信じられない。信じたくない。

 だって私は……先輩のおかげで変われた。先輩が選んでくれた私を卑下しないようにしようって思えた。先輩のおかげで記憶を取り戻せた。先輩のおかげで……岡島さんとも友達になれた。なのに――。

「私もね、今日は一緒に映画とかドラマ観るの楽しみだったよ。でも実際会っちゃえば……触れたくて仕方がない。ずっと、一瞬も離れたくない。ずっとこうしていたい。学校でも部活でも一緒にいられないのに、やっと二人っきりになれるここでも距離置かれたら……つらいよ」

 距離を置くなんて、そんなつもりはなかった。私は、ただ――。

「ごめんね、有喜ちゃん。散々お預けさせられたのに聞きたくないこと聞いちゃって……止まらなくなっちゃった。……ね、仲直り、しよ」

 抱擁をほどいた先輩は私の顎に手をやって、自然と唇を重ねる。いつもなら体の芯から痺れるように溢れ出る快楽も息を潜め、心臓と涙腺が熱く痛む。

「やめて……ください」

 力の入らない両手で彼女を突き放し、その棘を持って私も先輩も傷つけてしまう言葉を、押し出す。

「……今日は、もう……帰ってください」

 だって、これから私は……どうすればいい? どうやって笑って、どうやって話せばいい?

 初めて……先輩の心に触れた気がする。

 それがこんなに――怖いものだなんて、思いもしなかった。

「……わかった」

「……」

 ……私、何してるの?

 映画は? マッサージは? リラックスしてもらって、リフレッシュしてもらうんじゃなかった? サプライズで渡す手作りチョコは? 背中の後押しは?

 なんで?

 どうして私、泣いてるの?

「それじゃあまた明日ね。服は……洗濯して返すから」

 ――どうして先輩は、笑ってるの?


 ×


 有喜ちゃんの家を出て、なんとなく小さな公園に立ち寄って、軋んだ音のするブランコに乗った。

「あーあ」

 見せちゃった。私の……汚くて、どうしようもない姿を。

 幻滅したよね。わがままで、嫉妬深くて、それを隠すことも出来ない性根に。

「どうしよう。……どうしようかなー。どうすればいいんだろう……」

 とても長い時間、何度も空を切りながら、反省と、謝罪と、後悔と、疑問とに苛まれていた。

「でも……」

 やがて、地面を蹴って加速する度に渦巻いていく黒い感情が――ある地点を過ぎた瞬間――脳を弾いて反転した。

「――でも」

 でもね、そんな私に気づかせてくれたのは有喜ちゃんなんだよ。

 ううん、もしかしたら有喜ちゃんが私を、そういう風に変えてくれたのかもしれない。

「嫌われちゃったかな」

 なんで私、そんな最悪な未来を思い描いて、笑ってるんだろう。

「――大丈夫。きっと……それも反転するよね。ブランコこれとおんなじ。前に進めば、今度は後ろに――」

 今まで築き上げてきた私達の関係は、終わってしまったかもしれない。

 だけど、だからこそ、終わったんだから、また――始めればいいよね。

 新しい、私達の関係を。

「……きれい」

 勢いの増したブランコに身を任せて空を仰ぐと、だいだいを塗り潰していく暗闇の中で――

「有喜ちゃん……楽しい夏休みが始まるよ。思い出、たっくさん作ろうね」

 ――いつか彼女に教えてもらった夏の大三角が、燦々と輝いていた。

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