二律・1
午前四時、窓を痛烈に叩く雨の音で目が覚めた。
嫌な夢を見ていたような感覚があるけれど、テーブルの上に放置された料理達がそれを否定する。昨日の出来事は……現実なんだ。
「媛崎先輩……」
もっと喜びなよ、私。媛崎先輩が本心を話してくれたんだよ?
何を傷つくことがあるの? 先輩がいてくれればいいって思ってたんだよね?
先輩の言っていたことと自分の理想は一致してるじゃない。
浮ついてたのは自分じゃない。友達とかいうものに触れて、浮かれて、媛崎先輩を蔑ろにしたのは自分じゃない。散々我慢させて、散々傷つけてきたんじゃない。
「謝らなきゃ……」
力の入らない体を無理やり起こし、スマホを手に取って気づく。
「そっか、もう夏休み……始まったんだ……」
一大イベントの幕開けというのに、驚くほど喜びも感動も湧かない。
アプリを立ち上げても、自分からメッセージを送信する勇気が出ない。
なんて言えばいいのかも……わからない。
「…………はぁ」
曖昧な思考を漠然と繰り広げ、結局ベッドから降りることなくうだうだ、微睡みの中で最適解を探っていたけれど、やがて部屋に鳴り響いたピンポンで体が跳ねる。
「……」
時計に目をやると既に八時を回っていた。……四時間近く思考を回していたら……頭がネガティブに埋め尽くされるのも仕方がない。
ここは一度寝よう。寝て起きて脳をリセット、リフレッシュして……改めて……。
「っ」
甲高く鳴る二度目のピンポン。今度は驚きよりもイラつきが上回った。
……そういえば、前にもこういうことがあったような。あの時は……郵便屋さんかと思ったら媛崎先輩がお見舞いに来てくれてて……恥ずかしかったけど……嬉しかったなぁ……。
今日こそはどうせ仕事熱心な新聞勧誘か回線のセールスだろうと思ってインターホンのディスプレイを確認する、と――
「せ、先輩……?」
大雨のせいでずぶ濡れのジャージを纏った媛崎先輩が、微笑をたたえてこちらを覗き込んでいた。
「おはよっ有喜ちゃん!」
「え、えっと、おはようございます。あの、どうして?」
さっきまでの思考はなんだったのか、発するべき言葉が見当たらない。
「あははっそんなに驚くこと? 『もう帰って』とは言われたけど、『もう来ないで』とは言われてないしな〜……だから来ちゃった!」
話す素振りに怒りは見えない。今までテニスコートで見ていた天真爛漫な彼女と同じ雰囲気だ。だけど……なんだろう、この、違和感。
「ほら、昨日借りたトレーナー洗濯したから返すね! ドア、開けてくれる?」
「は、はい」
言われてようやく私の足が動き、タオルを一枚持って玄関に向かった。
「わー、タオルふわふわだー! ありがとっ」
ペタンと額に張り付くほど濡れている髪を拭きながら、更に明るい笑みを浮かべる媛崎先輩。
「傘はどうしたんですか?」
私が目覚めた時には既に豪雨だった。先輩が家を出る頃にも間違いなく降っていたはずだ。
「なんとなーく雨が気持ちよさそうだったから置いてきちゃった。今日は蒸し暑いしね~。ちょっと濡れるくらいでちょうどいいよ」
「そう、ですか」
手渡してくれたトレーナーはテープで封をしたビニール袋に入っており浸水を免れている。
「あの、でも……部活は? 今日から毎日、練習がありますよね……?」
「……んーとね、テニス部、やめちゃおうかなーって」
「え?」
「だってほら、もういいかなーって。あはは、いろいろ考えたんだけど……んー、頑張る理由が――」
「そんなのダメです!」
もしも昨日、あんなことがなかったら――
もしも私が、媛崎先輩に負担を掛けていなかったら――
やめるだなんて決して考えなかったはずだ。だから……私のせいで先輩が、先輩の才能がこんな風に投げ捨てられていいわけがない。
「じゃあ……有喜ちゃんがキスしてくれたら、やめない」
雑に拭かれて乱れた髪をかき上げ、先輩は私を見つめる。
「本気だよ」
瞬間、彼女の口元から笑みが消え、視線と声音が昨日のソレに戻り、私は瞳を閉じて機械的に唇を重ねた。
それから十秒間――先輩の香りと感触以外は、雨音しかない世界が訪れる。
「……えへへ、これでやめるなんて言いません!」
離れて瞼を持ち上げると、そこには私の知っている――暖かくて、甘く柔らかいマシュマロのような笑顔を浮かべている――媛崎先輩。
けれど心には未だ、さっきまでの――冷たくて、硬く溶けることがない鋭い氷のような――視線が、抜けることなく楔のように打ち込まれたままだ。
「あのね、今週みっちり練習したら、土曜日は出場枠争奪戦があるの! 私は、シングルスの枠を懸けて住良木と試合するんだ。だから有喜ちゃんに、応援に来て欲しいな!」
「それは……もちろん」
「ありがとっ! よっし、じゃあ行ってくるね!」
「い、行ってらっしゃい」
「有喜ちゃんもおうち時間楽しいのはわかるけど、たまにはお外出て運動しなきゃだよー!」
「はい。あっ傘――」
それを手渡すよりも早く私の前から去り、雨の中を駆けて行く先輩の後ろ姿に……混乱は増すばかりだった。
昨日のことを無かったことにしようとしている……ようには、見えない。
でも、深く掘り下げたいようにも見えない。
それに支離滅裂だ。言ってることも、やってることも。
――わからない。
先輩のこと、今でもこんなに好きなのに……全然、わからない。
×
そして、前まであんなに届いていた媛崎先輩からのメッセージが、この日を境にパッタリと止んだ。
×
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