白昼夢

伊島糸雨

白昼夢


 安岐あき美幌みほろという人をどう捉えるべきなのか、未だによくわからずにいる。

 夜、卓上灯とパソコンの光に照らされた横顔をガラス越しに見て、そんなことを思う。ベランダには涼やかな風が吹いて、吐き出した紫煙を攫っていく。安岐は吸わないから、彼女の家に泊まる時はいつもここにいる。

 目を細めて剣呑な表情で文字を打ち込んでいく様を、不可視の敵と戦っているようだと思う。

 私には見えない彼女だけの敵。安岐美幌が誰にも見せない、頭の奥底にあるもの。そうして物語を編む姿を目にするたびに、彼女の一片だって私は理解できないのではないのかと考えずにはいられなかった。

 同じ高校に別の大学、合計およそ四年間。適度な距離でささやかな関係で、ふとした時に少し話したいと思うような、そんな程度の仲だった。私にとっては数いる友達の一人でしかなくて、安岐にとっては数いる人間の一人でしかなかった。けれど、私たちが道を別っても時々会い続けていた理由も、その距離感にあるような気がする。

 互いが互いの日常に無関心で、それぞれの感情をそれぞれのものとして放置して、価値観の違いとかすれ違いから目を逸らしていられた。どうせこの程度だという諦観が先にあって、それゆえに個人に対して過度な踏み込みをしないでいられた。

 未来とかいう茫漠とした妄想を、ぼんやりしたまま脇に置いていて構わなかったのだ。

「安岐」

 時折、集中している彼女の名前を小さく口にしてみる。そういう時の彼女は、耳に入っていないか返事をしないかの二択だということはよくわかっていた。自分の中で作り上げた世界を出力するのに忙しくて、現実どころじゃないのだった。

 安岐が小説を書いていることは以前から知っていた。どこの集団に属するでもなく、賞に出すでもなく、ネット上の小説投稿サイトに細々と載せていることも。

 中学から始めたのだと聞いている。私も人並み程度には本を読むし、一時期書いていた時期もあったから、それを七年近く続けることの難しさも多少はわかるつもりでいる。少なくとも、私は続けられなかった。

 安岐は功名心なんてものはこれっぽっちも持ち合わせていないみたいだけど、彼女の実力があればどこまでも行けるように私には思えた。その才能と努力の上に積み上げられていく言葉たちの群れは、いつだって私を打ちのめして、魅了して、やまない。

「ただ、いいものが書きたいだけ」

 そう呟く時の彼女は決まって憂鬱そうに頬杖をつくけれど、私はそれを羨ましく思う。格別打ち込むようなことも持たず、目標や人生の指針なんてものもないままふらふらと彷徨うゾンビみたいな私とは大違いだった。

 彼女は確かに生きている。苦しみと痛みをしっかり抱えて携えて、言葉にして物語性の皮膜で覆って、くっきりと足跡を残していく。

 安岐のことを、特別だとは思ってこなかった。私が私なりの選択の果てに私なりの生を築くように、彼女もまた同程度のクオリティの生を積み上げていくものだと自然と思い込んでいた。でもそれが大間違いだということに、彼女の小説を初めて読んだ時、気づいた。

 その才に。評価されずに数多の物語の中に埋もれていく、彼女の美しさに。

 そして、そんな安岐のことを支えたいと思った。

 この人が目指す高みへと到達する手伝いができたらどれほどいいだろうと夢想した。どんな形でも構わなかった。たった一人で戦い続ける安岐に、寄り添っていたかった。

 フィルターの直前まで灰になった煙草を携帯灰皿にねじ込むと、窓を開けて室内に戻った。彼女はまだ作業を続けている。猫背の背中が思い出したようにピンと伸びては、また徐々に曲がっていった。

「先、寝るね」

 儀礼的に声をかけて、床に敷かれた布団に潜り込む。ちょうど、安岐の背中が見える私の定位置。

 身体を横たえて、彼女の様子を盗み見る。そうやって、眠くなるまで見つめている。

 しばらくすると、ひと段落ついたらしい彼女がふらりと立ち上がって、緩慢な動きで台所に向かい、コップ一杯の水を一息に飲み干した。ため息をついてから「寝るか」とつぶやいて、隣の布団に潜り込む。

 けれどしばらくすると突然起き上がって机に戻り、パソコンを開いて何かを打ち込み始めた。思いついたことを忘れないようにとすぐにメモしているのだろう。よく見る光景だった。

 丸まって前のめりになる彼女を薄目で覗いて、再び瞼を閉じる。

 彼女のその姿を、かっこいいと思う。滲む思いは憧れに似て、私にいったい何ができるだろうと考える。

 そして思いつく限りの“私にできること”のあまりの少なさに、一人静かに凹んでみせる。

 どうすれば、彼女をそばで支えていられるだろう、と。

 そんなことばかりを、いつも考えている。



 朝、食事を用意するのが面倒な時は、近場の喫茶店でモーニングを注文する。

 食事はほとんど外食だという安岐が気に入っている店で、サンドイッチのセットが私は好きだった。

 安岐は対面の座席で一番安いセットのトーストをもそもそと口にしながら、ぼんやりと窓の外を行き交う人波を眺めている。食事に対するこだわりの薄い彼女は、値段と早さを基準にして食べるものを選ぶことが多い。時々不安になって私の分を勧めるけれど、彼女は決まって断るし、あまりしつこくても良くないから最近は何も言わなくなった。生き方は十人十色で、安岐がそれでいいと選ぶのなら、私がいちいち口を出すことではないのだろうと思う。お節介も行き過ぎれば余計なお世話で、果てには嫌われるのがオチだとわかっている。

「今日も一日書くんだよね」

「うん」

「じゃあ、洗濯とか、やっておくね」

「うん……ありがと」

 その日の予定を確認して、行動を決定する。とはいえ、やることはさほど多くないし、苦になることは何もないから、一定のパターンに沿うだけなのだけど。現状だと、洗濯とか食事の用意とか、そういうことくらいしか私にできることはない。まぁでも、それが多少なりとも安岐の助けになるのなら、なんだって構わなかった。

 部屋に戻ってから、バッグに洗濯物を詰めて近場のコインランドリーに向かう。改めて空を見るとよく晴れていて、青く澄んだ一面に綿状の雲が幾つか散りばめられている。乾いた空気は爽やかで、自然と気分は盛り上がっていく。ふんふんと鼻歌を歌うと、気持ち良さはひとしおだった。

 洗濯の間は本を読んで待つことにしている。洗濯機が回るのを前にベンチに腰掛けて、開け放たれたままの入り口から差し込む穏やかな日和をつま先で蹴る。印字された言葉の一つ一つを目で追って咀嚼して、形づくった映像を動かしていく。

 より鮮明な風景で、より生き生きとした人物で。

 そんな時に思うのは、いつも安岐のことだ。

「安岐……」

 彼女はどこまで行くのだろう。きっと、どこまでも行こうとするのだろう。力の限り、全力を尽くし、生涯を賭して。それだけの意志が、彼女にはあるのだと思う。

 私はそれを、少しだけ、羨ましいと思う。

 私にはないものだから。彼女を通してしか、見ることのできないものだから。私はきっと憧れている。彼女の生き方を、美しいと思っている。

 洗濯機が回っている。

 私は静かにページを捲る。


 洗濯物を抱えて戻ると、彼女は机に伏して眠っている。空気がこもっていたから窓を開けて、そのままだと少し冷えるから、私は彼女に毛布をかける。それから床に座って洗濯物を畳み、所定の位置にしまっていく。

「安岐」

 彼女は眠っている。パソコンの画面はスクリーンセーバーになっていて、初期設定のままの味気ない画像が次々にスライドして移り変わっていく。

「安岐」

 台所に立って、二人分の昼食を用意する。あり合わせで、食べやすいように簡単に。彼女の分にはラップをして、「いただきます」私は一人で静かに食べる。「ごちそうさまでした」

 洗い物をして時計を見ると、そろそろ出なければならない頃合いだった。私は安岐宛に書き置きを残して、荷物をまとめて家を出る。「安岐」

 午後から大学の授業があった。安岐の家からはさほど遠くない。電車に乗って、たったの数駅だ。

 友達は、あまりいない。たまに食事をしたり遊んだりする人が数人いるけれど、プライベートのことはほとんど話したことがなかった。私が開示をしないから、彼女たちも口を閉ざしている。私はそれでいいと思っていたし、彼女たちだって、それ以上のことは望みもしなかっただろう。

 かつての、私と安岐の関係がそうだった。あるいは、今も同じなのかもしれないけれど。

 すべての講義を終えた頃には、あたりはすっかり暗くなって、街灯があちこちで淡い光を放っていた。夜が来るのもずいぶん早くなったと思う。こんな生活をするようになってから、二年近くが経っていた。

 車窓を流れる街灯りはどこかよそよそしさを滲ませている。反射する自分の姿と重なって、後ろへ、後ろへと消えていく。日々の営みは虚しさを孕み、たった一人では、やりきれないと思う。

 でもそれは私の話であって、誰もがそうとは限らないのだということもわかっている。一人で戦い続けることを苦とせずに、他者の干渉に辟易してしまう人がいるということも。

「ただいまー」

「おかえり」

 途中でスーパーに寄って夕飯の材料を買い足した。ビニールをガサゴソ言わせながらリビングに来ると、安岐がチラと私の方を見て、「ありがと」と言った。

「うん」

 私は頷いて、昼と同じように台所に立つ。下ごしらえを済ませ、フライパンの中身を菜箸でかき混ぜながら、丸まった背中を盗み見る。

「安岐」

 呟きは、料理の音にかき消されて、届くことはない。そうとわかっていて、私はもう一度、彼女の名前を口にする「……安岐」

 ねぇ、安岐。あなたがいるから、私も夢を見ていられるんだよ。

 あなたの存在は私の夢とニアイコールで、そんなエゴも含めて、力になりたいの。

 些細なことでも、支えていたい。私にとってのあなたの存在は、もうかつてと同じではなくなっているから。

 でも、

「安岐」

 今度ははっきりと聞こえるように呼びかける。焦がさないようにと様子を見て、コンロの火を止めた。

「もう直ぐ、できるからね」

 彼女は「ああ」と言って、打鍵を止める。

 振り向いたその表情を、死期を悟った猫のようだと思う。

「もう、終わるから」

 私は笑って、込み上げる寂しさを、下手くそなりに誤魔化した。

 永遠は存在しない。だから、浅ましく追い縋ってしまうのは、私の弱さなのだと思う。



「……お前は、夢を見てるんだよ」

 安岐は疲れ果てたように、猫背のままに呟いた。

 そんな彼女は、自分と戦っている時の毅然とした様子からは遠く、ひどく弱々しく見える。まるで道に迷って途方にくれた子供のようだと思う。

 彼女は前髪をかきあげると、露わになった双眸で私を見据え、

「その身勝手な妄想を、私に押し付けるなよ」

 苦々しそうに、息を吐いた。

「ごめん」

 反射的にこぼれたのは、稚拙な筋肉の蠢きだった。ねぇ、安岐。私、ちゃんと笑えてるかな。

 わかっていた。私が、他の誰でもない私が、この人をここまで追い詰めたのだと。

 そんなことは、ハナからわかりきっていたのだ。


 安岐。

 あなたを見つめる日々は、私の希望だった。目を伏せた後も、顔を上げれば遠くにあなたの姿が見えていた。だから、こんな風にいらない世話を焼いて、お節介して、押しかけ女房みたくあれこれをやっていたんだよ。

 ぜんぶ、言い訳だった。あなたに会う口実が欲しかっただけ。

 だって、安岐。

 あなたが私を必要としていないことなんて、とっくのとうにわかっていたんだから。


 ページを繰る感触が好きだ。

 本を読むのが好きだ。

 物語が好きだ。

 安岐美幌という物語が、私は大好きだった。

 この人のことを支えたい、力になりたいとどれだけ思っても、当の本人は助けなんてこれっぽっちも必要としていなかった。

 わかっていた。最初から。こんな願いは夢幻ゆめまぼろしで、理想という音形を描くエゴでしかないのだと。

 彼女は推進力を持って、前へ前へと進んで行く。それは私ではとうてい追いつけない速さで、私は手を伸ばすけれど、やがて諦めて拳を握る。

 あるいは、同じ方向に進んでいるんじゃなくて、本当は向かい合って近づいていたのかもしれない。すれ違った先で振り返っても、私はすでに帰り道を忘れている。

 引き返せない私。時間の流れに置いていかれるように感じるのは、私が時間に溺れて、息もできずにもがいているから。

 流れはただそこにあるだけ。つま先を浸すつもりが、私はうっかり沈んでしまったというわけだ。

 どちらにせよ、私は見えなくなった彼女を思い、自分の速度では二度と会うことが叶わないのだと知って、小さな子供みたいに、情けなく、泣きじゃくるだろう。

 たぶんそれは、必要な工程だったのだ。

 失って、馬鹿みたいに泣きまくって、そこでようやく、私は私という軸を手に入れられる気がした。彼女に依存せず、必要としない、ちょっぴり確かな私自身を。

 そうしてようやく、私は真に彼女のファンになることができるのだ。

 だから、私の白昼夢は、ここでおしまい。


 安岐。

 彼女が求めるものは、今ここにはないのだろう。それは存在しないがゆえに手に入らず、ひたすらに努力と時間を重ねた上でも、到達できるかわからない輝きだ。

 物語ることの真髄。憧憬の果て。

 夢の、終わり。

 納得できる場所なんてどこにあるかもわからない。評価されないまま続けていくことの空虚がある。それでも安岐は、書いていくのだと思う。相互性を求めず、孤独に寄り添って、戦い続ける。ただ一人、自分自身のために。

 恋い焦がれてしまった光、夢を追って、どこまでも。

 私では支えることままならず、側にいることもできない、遥か彼方まで。



 *     *



 いつもの喫茶店で、私は一人ページを捲る。テーブルの上のグラスは汗をかいて、アイスティーは氷とともに光を反射している。

 ずっと、待っている。彼女がまたここへ来るのを、私は心待ちにしている。

 ふと視線を上げると、入り口に彼女が立っている。周囲を見渡す彼女に、私は片手を振って合図をする。

「安岐!」

 読みかけの本には栞を挟み、私はそれをそっと閉じる。


 私が何をしたところで、意味などなかった。

 私が何もできなくても、彼女が生むものは美しかった。

 今となってはそれこそが、私にとっての一番の希望だ。

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