2号車に咲く桜

三山 響子

2号車に咲く桜

 一目惚れなんて自分の人生には無縁だと思っていた。少なくとも今朝電車に乗るまでは。


 朝の通勤電車。7時半発の上り電車の2号車、前から2番目のドア付近が私の定位置だ。片手でつり革を掴み、もう片手で文庫本を開き、まだ半分眠っている脳を覚醒させながら終点までの長い道のりを過ごす。

 今朝も普段と変わらぬ朝だった。いつも通り2号車の2番目のドアから乗車し、網棚にお弁当を入れた手提げ袋を載せ、バッグから文庫本を取り出してつり革を掴む。ふと目線を下ろし、対面して座っている男性を視界に捉えた。

 今まで私の目の前の椅子に座る人はランダムに変わっていたけど、この男性を見たのは初めてだった。黒い短髪、カットされていない自然な形の眉毛、切れ長の一重目にスッと通った鼻筋。スーツ姿でも分かるガタイの良さから体育会系のように見えたが、彼は熱心に本を読んでいた。座っている人の大半が眠りこけている中、ちゃんと革製のカバーをかけた本を両手で持ち黙々と読みふける真面目な姿。

 体中に電撃が走り、一瞬で恋に落ちた。


 その日から、朝の通勤が1日の中で最も楽しみな時間に変わった。

 彼はその椅子を定位置に決めたようで、毎朝必ずそこに座って読書をしている。おそらく始発から乗っているのだろう。私が乗車した駅から7駅先の駅で彼は降車する。いくつもの路線と接続している駅なので、彼の最終目的地までは分からない。

 昔読んでいた少女漫画には電車での出会いから始まる恋のストーリーがごまんとあったけど、いざ自分が主人公になると、静まり返った人混みの中で想い人に話しかける事がどんなにハードルが高いかを痛感した。一言も言葉を交わした事のない彼に連絡先を書いたメモを渡す?そんな事できるか。恋はそう簡単に成就するもんじゃないぞ、現実を甘く見るな、と全車両のドアを開け放して作者に向かって叫びたくなる。

 それでも、私の服装は無意識にパンツスタイルからスカートにシフトしていったし、無頓着だった髪にも人生初のパーマをあててみたりして、叶わない恋と分かりつつも乙女スイッチが入ってしまっている事に気付かざるを得なかった。

 神様、私は決して欲深い人間ではないのです。こうやって本を読みつつ彼をこっそり見つめる事ができれば十分なんです。だから、どうかこの幸せな時間がずっと続きますようにーー


 

 私の願いが天に届いたのか、彼と出会ってから3ヶ月経った今でも、彼とはほぼ毎日顔を合わせている。

 今朝も彼は熱心に本を読んでいた。目の前に人が立っても全く気にならない様子で、彼の細い瞳は黙々と文字を追っている。

 ちょっぴり寂しさを感じながらも、彼につられるように私もバッグからプレゼン用の資料を取り出す。社内の会計システムの仕様が大きく変わったため、今日は社員向けに説明会を開催するのだ。

 人前でのプレゼンを控えていつに無く緊張している私は、いつもは意識の8割くらいを彼に向けているのを2割程度に抑え、プレゼンの準備に集中した。

 乗車してから5駅を過ぎた時、社内アナウンスが流れた。


 「只今、〇〇駅ー△△駅間で人身事故が発生しました。こちらの電車も次の駅で運転を見合わせます。運転再開時刻は分かり次第ご連絡いたします」


 車内に無音のどよめきと溜息が漏れた。朝の人身事故ほど迷惑なものはない。

 腕時計を見て心臓がひやりとした。説明会は10時からだ。運転再開に1時間かかるとしたら間に合わないかもしれない。

 上司に連絡するために次の駅で電車を飛び降りた。何度電話をかけても出ない。もう出社しているはずなのに、どうしてこんな時によりによって。何度目かの発信ボタンの押下後、ようやく上司の声が耳に届いた。


「人身事故で電車が止まりました。もしかしたら説明会に間に合わないかもしれません」

「そうか、それは大変だな。間に合わなかった場合は僕が説明するから、要点だけ確認させてくれる?」


 上司にプレゼンの要点を簡潔に伝えて電話を切り、乗ってきた電車に戻ろうとして足が止まった。電話をしている間に多くの人が電車に乗り込み、すでにすし詰め状態となっていた。しまった、1番早く終点に到着する電車を逃してしまった。仕方がない、次の電車に確実に乗れるようホームに並んで待つしかない。プレゼン資料と腕時計を交互に見ながら、落ち着かない時間がだらだらと過ぎて行く。

 

 運転再開は思ったより早く、40分程で電車が動いた。少し間隔を空けて到着した次の電車に乗り込み、ほっと一息ついたのもつかの間、再び呻き声を上げそうになる。お弁当を入れた手提げ袋を網棚の上に置きっぱなしにしてしまったのだ。上司に電話する事で頭がいっぱいで、網棚から降ろすのをすっかり忘れたまま降車してしまった。泣き面に蜂とはまさにこの事だ。

 とにかく終点駅で忘れ物が届いているか確認するしかない。説明会には間に合うだろうか。はやる気持ちとは裏腹に動き出したばかりの電車は徐行中の車並みのノロノロ運転で、頭の中は到着時間の事で埋め尽くされ、もはやプレゼン資料の内容はほとんど入ってこない。


 もどかしい程長い電車の旅がようやく終わり、開いたドアから吐き出される人混みに乗ってホームに降り立つと、猛ダッシュで改札へ向かった。遅延証明書を受け取り、改札を出て忘れ物センターの窓口に飛びついた。


「すみません。7時半ヒノキ台駅発の上り電車の2号車の網棚に忘れ物をしてしまったんですが、こちらに届いてますか」

「今朝は人身事故の影響でダイヤが大幅に乱れていて、忘れ物はまだ確認できていないんですよ。すみませんが、またお帰りの際に来てもらえますか」


 ことごとくついていない。普段占いは信じないタイプの私だけど、今日の双子座の運勢は最下位に間違いないと確信した。

 駅員さんにお礼を言うと、私は駅を飛び出し、職場に向かってラストスパートをかけた。





 帰路に就いた時には20時を回っていた。説明会にはギリギリ間に合い、何とかプレゼンを終える事はできたものの、社員からの質問にうまく答えられなかったり鋭い指摘を受けたりして、悔いの残る説明会となった。

 今朝は説明会に遅刻しないかどうかで頭がいっぱいだったけど、今はお弁当の安否だけが心配だった。母親が作ってくれたお弁当を失って初めて、毎日どれだけお弁当から元気を貰っていたかを身に染みて感じた。お母さん、せっかく朝早く起きて作ってくれたのに、食べられなくて本当にごめんなさい。忘れ物をした自分へのやるせなさやら母への申し訳なさやらプレゼンの疲れやらで、もう身も心もクタクタだった。

 今日はお母さんへのお詫びと自分への励ましにケーキでも買って帰ろうーー忘れ物センターに到着すると、今朝話した駅員さんとは別の男性が窓口で業務を行っていた。


「すみません。今朝、7時半ヒノキ台駅発の上り電車の2号車の網棚に忘れ物をしてしまったんですけど…」

「ああ、手提げ袋ですね」


 駅員さんは私を一瞥すると後ろの事務スペースに一旦引っ込み、すぐに紺色と白色のチェック柄の手提げ袋を手に戻ってきた。紛れもなく私の忘れ物だ。お弁当箱も中にちゃんと入っている。

 胸にどっと安心感が押し寄せるのと同時に、なぜ駅員さんは私の顔を見ただけで忘れ物がすぐに分かったのだろうかと訝った。そんな私の表情を見て、駅員さんは朗らかに言った。


「届けてくれた若い男性がね、ご丁寧に教えてくれたんですよ」

「え?」

「ワンピースの上からグレーのジャケットを羽織っていて、パーマをかけた若い女性の忘れ物です、と。いつも自分の目の前に立っている女性だと言っていました。自分が先に降りるから女性がどの駅で降りるか定かではないけど、以前女性が首からかけていた社員証に書かれていた会社が終点駅にあるので、ひとまず終点駅で保管してください、とお願いされましてね。物騒な世の中ですが、良い人に届けてもらえて本当に良かったですね」


 驚きと嬉しさと恥ずかしさが入り交じって感情がショートし、言葉もなかった。

 言葉が出ない代わりに手提げ袋の中に目をやると、四つ折りにされた白い紙切れが入っている事に気付く。

 指でつまみ上げ、そっと開くと、黒いボールペンで走り書きされた一文が私の両眼に根強く映った。


“あなたがいつもどんな本を読んでいるのか気になっています”




 *




 翌朝。いつも通り2号車の前から2番目のドアの停車位置に両足を揃え、電車の到着を待つ。

 白い封筒を持つ手が緊張で微かに震えるけど、もう私の心に迷いはない。

 彼との距離が縮まる事はないと思い込んでいたのに、なんと彼の方から橋を架けに来てくれた。今度が私が架け橋を渡る番だ。彼の勇気と優しさを決して無駄にしてはならない。

 今日こそ彼に話し掛けよう。昨日のお礼を伝えるために、彼からの問いかけにお返事するために、そして私の想いを込めた手紙を渡すために。

 駅の時計の長針がブルッと震えて5を指した。

 諦めかけていた片想いが一歩前進するまでのカウントダウンが始まる。






 fin.

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