第8話 東の森4
再びラインズに乗り、シエルシアンの反応があったという西を目指す。段々とキャロル家の屋敷から遠ざかっていることに気付いていた。しかし今はラインズもいるし、魔術に秀でたマリウスもいる。何よりロイは、側近見習いではあるがキャロル家に仕える者は、ただそれだけでは務まらない。いざとなれば主の剣として戦う術を身に付けている。
それでもアリスは得体の知れない寒気を感じていた。予感にも似た感覚には覚えがある。彼女が一児の母親として暮らしていたあの世界では度々感じていた。虫の知らせとでも言うのだろうか。勘は鋭いほうだった。
「ねえ、やっぱり――」
やっぱり今日の所は引き返しましょうと言いかけた、その時だった。ラインズは急に大きく背を反らせる。
今までに聞いたことのない悲鳴のような嘶きに驚いて、アリスは動けなくなってしまう。落下する恐怖を感じたのは木々の葉が己の身を切ってからだった。
「お嬢様!」
同じく落下したロイがアリスの体を覆うように抱きしめる。枝の折れる音と共に地面へと叩きつけられた。アリスはすぐさま身を起こす。ロイが彼女を庇ったおかげで目立った傷はない。心配なのは、下敷きとなってまともに衝撃を受けた彼の方だ。
「……っ、ロイ!」
獣人の彼は呻きながらも何とか立ち上がった。迷うことなくアリスの前に跪き、小さく震える主の手を取った。
「申し訳ございません、お嬢様。お守りするのが遅くなってしまい、傷を負わせてしまいました」
彼の視線の先には腕についた小さなかすり傷があった。
「そんなことどうでもいい! あなたの方が怪我をしているじゃない!」
「いえ。わたくしのことなど、それこそどうでも良いのです。他に痛むところがあれば教えてください。塗り薬でしたら持っています」
平然と自分の体を蔑ろにするロイにアリスのほうが涙が出そうになる。グッと堪えて彼の手を握り返した。
「怪我したところを教えてちょうだい」
「ですから、わたくしのことなど――」
「お願いだから、そんなこと言わないで」
「……はい」
少し迷ったようだが、言われた通りに口を噤むことにしたらしい。
手当をするアリスの手元をじっと黙って見つめている。
「さあ、できたわ」
左腕にひどい裂傷を負っていた。簡単に消毒をした後、躊躇うことなくハンカチをあてる。
「あの、お嬢様……少々、生意気なことを申し上げてもよろしいでしょうか?」
「ええ」
「そのハンカチはわたくしなぞに使うには些か勿体ない品ですので、次からは適当に自分の服でも千切ります」
金糸を使った綺麗な刺繍に滲む血を見て、勿体ないと言っているのだろうか。刺繍と自身の怪我を比べて、前者に価値があると断じたのだろう。忠誠心なのか、自己犠牲なのか。分からないし、分かりたくもないとアリスは思う。
「却下よ」
「きゃ、却下でございますか……」
「私は私のしたいようにする」
「はぁ……それは、勿論そうしていただくのがわたくしの第一の望みですが……」
戸惑いつつも、アリスのハンカチをそっと撫でる。感情の置き所が分からないのだろう。なにせ、今までのアリスの性格はそれはそれは苛烈で、周囲の人間に全く優しくなかった。
ロイもそんな扱いをされることに慣れきってしまっている。アリスはそれが不満で仕方がなかった。
彼のように温和勤勉な者はもっと良い待遇を受けるべきだ。
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