第3話

 私はマリアと食事を取った。博士から貰った弁当箱を広げる。ありふれたサンドイッチと水筒が入っていた。小さいティーカップも付いている。私はティーカップの一つに紅茶を注ぐと、マリアに差し出した。マリアは受け取ると静かに口を付けた。私も自分の分を注いだ。

 おそらく、朝飲んだ紅茶と同じものであったと思う。ただ、味がはっきりと変わっていた。今は、深い香りのする紅茶の味がした。サンドイッチも、スポンジのような塊ではなくなっていた。瑞々しいレタスは口の中で弾け、肉は柔らかく沈んだ。


 私は、食事中にマリアと話そうとは思わなかった。しかし、驚くべきことにマリアの方から話しかけてきたのだ。


「イエナ、は、どうして、ここに」

 私はどう答えるべきか、困ってしまった。絶滅危惧星を救うためとか、協会に言われたからとか、人間を作るためとか、色々理由は考えられた。そのどれもがその通りであったが、そのどれもがその通りでなかった。私の本来の目的は、客観的に見れば酷く自己を冒涜していた。


「……ここで、死ぬため」


 私はマリアの表情を伺った。怪訝な顔をするのだろうか。少なくとも、一般的な人間はそうだった。しかし、マリアの眉も口元も、静かな笑みを湛えていた。無言の肯定だった。少なくとも、そう思いたかった。


 しかし、口に出してみて、死にたいという言葉は強烈な違和感を放った。私は本当にそうなのだろうか。紛れもなく、昨日の時点ではそれだけが意志だった。今ではもう、墓への欲求は影を潜めている。ただ、マリアとこの星のゆく先を見つめたいとだけ思った。


 私は、いつまで生きるのだろう。




 博士には、少女が言葉を発した、とだけ連絡した。少女の名前がマリアであることや、ずっと話そうとして話せなかったことは伝えなかった。感情の起伏が正常かどうかは、私には分からなかった。


 研究所に戻ると、博士が出迎えてくれた。マリアを見ると、途端に顔が綻んだ。

「本当に、話せるようになったのか」

 それは、私に訊いているのか、それともマリアに訊いているのか分からなかった。ただ、マリアが、うん、とだけ答えた。それを聞くと、博士は飛び上がらんばかりに喜んだ。

 詳しくは研究室で訊こう、と言うと、博士は一足先に建物の中へ入っていった。私とマリアも後へ続いた。手は、しっかりと繋がれたままだ。


 研究室には、昨日は見なかった新しい機械が増えていた。そのどれもが低い唸り声を上げている。博士はどこからかパイプ椅子を引っ張り出して、そこにゆっくりと腰掛けた。そして旧式のパソコンを起動し始める。


「名前は何と言うのかね」

 答えるべきは、私ではなかった。

「……マリア。マリア・マグダレナ」


 私はマリアの苗字を初めて聞いた。マグダレナ、という響きに覚えがあったが、それが何であるかは思い出せなかった。


「君の一家は、マグダレナで間違いないんだね」

 博士は冷たい目をディスプレイに釘付けにしたまま、念入りに訊いた。マリアが肯定すると、満足そうに呟く。

「確かに、あの一家はマグダレナという名前だったよ。やはり、この子──マリアは生き残りだったのだ」


 博士は何やらキーボードで打ち込むと、マリアの方に向き直った。青々とした光が、博士の半身を照らしている。また別の光がやってきて、マリアの頭に降り注いだ。マリアの髪は、やや緑がかった。


「君はなぜ、生き残ってるか分かるかい」

 博士の高い鼻からは、何も読み取れなかった。小さく落窪んだ目は静かな青を宿している。マリアは小さく、たどたどしく答えた。

「分からない。……お母さんも、お父さんも、みんな、毒を飲んだ。わたしも、飲んだ。でも、わたしだけ、生きてた。わたし以外、死んでた。それから、何も分からない……」

 マリアは無表情だった。しかし、底に潜んで静かにさざめく感情の波を、確かに博士は感じ取ったようだった。

 博士はディスプレイをじっと見て、何度も頷いていた。何かをまた打ち込んでいる。

「感情の起伏が、微量ながらも発見できる。君がどうやったのか知らんが、ハリストスカヤ君、お手柄だ」


 私はなぜ褒められたのか、疑問に思った。褒めるなら、あの青い花の美しさを褒めた方がまだ理にかなっている気がした。


「モンスターは、人間が死に至るような毒では死なないことが確認されている。どうやら、儂の仮説は間違っていなかったらしい」

 博士の目は、忙しなく動いている。口を片方だけ持ち上げて、薄気味悪く笑った。私はマリアの手を強く握った。

「博士、マリアの感情が取り戻せたなら、もう人間の魂を作る段階にあるのではないですか」

 咄嗟に出た言葉を、推敲なしに発した。人間の魂を作る、とは一体どういうことか、まだ理解出来ていなかった。ただ、博士がそう言っていたのだ。感情が取り戻せたら、と。


 博士は無感動な目をして、こちらを向いた。青い光が瞬く。


「この子を使う」


 皺だらけの指は、マリアを指していた。




 翌日から、私と博士は準備を始めた。三階にある倉庫から、古い機械を研究室へと運ぶ。私たちが往復を続けている間、マリアはまた一人で遊んでいた。着ているものは入院服に戻っている。


 博士は大まかに説明した。マリアを母体として、この星の人類を増やしていく、という。理論上、マリアは子を産むことが出来ない。しかし、ベテルギウスの超新星爆発で生じたガンマ線、それを模したものをマリアに照射し続ければ不可能ではない。元々、それが原因でモンスターは生じたのだ。マリアの身体に影響がないことは、博士が証明している。

 私は当初、博士を疑った。マッドサイエンティスト、その言葉がお似合いに思えた。しかし、博士の真剣な眼差しは、一人の研究者の純粋な熱意を伝えた。マリアに被害がない、ということが分かって、私はようやく納得した。現に、今は博士を手伝っている。


 機械を運びながら、私は思った。もう死ぬ必要はない、と。時折、私はマリアと目を合わせることがあったが、その度に小さな私は泣き止んだ。井戸の奥底で、静かな寝息を立てているのが分かった。マリアにどんな力があるのかは不明だ。それがモンスターの能力なのだ、と言われれば、その通りであるような気がした。しかし、おそらくマリアには何の力もないのだろう。その赤い目を見て、私の身体が硬直することはなかった。


 私は一度、私と同じ歳のマリアを見てみたかったのだ。




 準備を開始してからどれほど経過したか、最早覚えていなかった。私も博士も、夢中でコンピュータを立ち上げた。とうとう装置が完成して、あとはマリアが入るだけとなった。

 私は、マリアにこのことを伝えなければならなかった。思えば、とっくに感づいていたのだろう。相変わらず感情の起伏は小さかったが、マリアは賢かった。

 私が雑駁に説明すると、マリアは表情を変えることなく承諾した。

「わたしが、役に立てるなら、それで」

 それだけを言った。


 マリアは博士に促されて機械に入った。ちょうど、大人が一人入れるぐらいの大きさのカプセルだった。マリアが入ってから、博士は入念に蓋をした。機械に入力して、二十四時間の照射を設定する。これはテストを兼ねていた。成功すれば、すぐさま協会から送られてきた受精卵をマリアの身体に仕込み、またガンマ線を当てる。今度は十ヶ月だ。非人道的だろうか。博士は無言だった。

 二十四時間の照射が始まった。私は椅子に座って、マリアの脳波を示し続けるディスプレイを見ていた。マリアは眠っているようだった。


 二十時間を超えたあたりで、私の意識は突然途絶えた。




 タイマーの電子音が鳴り響く。私は飛び起きた。……飛び起きた。 どうやら、眠っていたらしい。肩から、知らぬ間に掛けられた白衣が落ちた。


 機械に残留したガンマ線の除去が始まった。これには約十五分かかる。私はその間に顔を洗い、マリアのために新しい入院服を用意した。博士から渡されたのは、私が着るようなサイズの服だった。

 電子音がまた鳴って、機械の扉がゆっくりと開いた。ガンマ線除去剤の煙が機械から噴き出している。その白いもやの中に、私と同じぐらいの背丈がある黒い影が見えた。こちらに向かって歩み寄ってくる。


 煙が途切れたところで、黄金が光った。マリアの長い髪だった。マリアは、失った時を取り戻していた。


 連日の睡眠不足で死相が浮かび、黒い髪が纏まっていない、イエナ・ハリストスカヤ。美しい黄金の髪と、生気を宿した真紅の目に女性らしい身体をした、マリア・マグダレナ。この二人が同じ歳であると、一体誰が分かるだろうか。


 私はボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」を思い出していた。古い絵だが、未来がそこにはあった。


 私はマリアに服を差し出すと、博士を呼んだ。端末で連絡を取ると、数分のうちに博士はやって来た。マリアはもう着替えていた。


 大人の姿になったマリアを見ても、博士は大して驚かなかった。それどころか、妙に誇らしげな顔をしていた。

「やはり二十四時間の照射は、効果があったようだな。それでは、すぐに施術に取りかかろうか」

 そう言うと、博士は私に「レオナルド」の起動を命じた。「レオナルド」は手術機械「ダヴィンチ」の後続機である。人間の手を必要とした「ダヴィンチ」に対して、これは完全にAIが操作を担っている。


 私は既に研究室の隅に設置しておいた「レオナルド」のスイッチを押した。低いファンの音が響く。協会から送られてきた精子を専用の容器に入れ、機械に取り付けた。あとは、マリアが入るだけだ。


 二十八になったマリア。博士に促されて、機械に近づいてくる。私は直視できなかった。ずっと大人のマリアを見たいと思っていた。それなのに、目を逸らしてしまう。私は自らの罪に自覚的になっていた。今なら、磔にされても構わない、とさえ思った。


 マリアが私に罪を着せたのか、私がマリアに罪を犯したのか。それは誰が知っているのだろう。私は無神論者だ。「レオナルド」の手で受胎告知を受けるマリアを、祝福しなかった。


 機械に入る直前、マリアは私を見た。目が合った。赤い目が爛々と輝いていた。そしてマリアは微笑んだ。私に向かって。私は、それに応えることができなかった。右手にあった、小さな手の感触はまだ残っていた。


 無情にも機械は動き始める。私は、手近な所にあるメスを取って、博士の頭に振り下ろすこともできた。そういう考えが頭をよぎった。マリアは手術台に大人しく横たわった。施術が始まる。私と博士は、モニターだけを持って部屋を出た。


 今回の施術は約一週間かかる。私と博士は、次の十ヶ月間に渡るガンマ線照射の準備を始めた。その間、私は空だった。

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