第2話

 翌日から、私の仕事は始まった。朝食を支給されたサプリメントで済ませようとしたら、博士から放送が入った。仕事の一環として、少女と食事を取れ、という。


 私が昨日の研究室に向かうと、博士から言われたのか、入り口付近で少女は待っていた。昨日とは裏腹に、今日は髪に赤い大きなリボンを付けて、これまた高そうな赤いワンピースを着ている。白い靴下に赤い靴。一瞬博士の趣味かと勘繰ったが、詮索は止した。


 少女の手を取って、指定された食堂へと向かう。少女は無口であったが、こちらの言うことは理解しているようで、大人しく従った。そういえば、この子は二十八だったな、と思い至る。博士は、私がこの子と年齢的に同世代で同姓であったから、私を指名したのだろうか。それにしても、この手は二十八と言うには小さすぎた。どうしても、慎重になる。


 食事の際も、少女は話さなかった。一応この子の心を開くことが課題とされていたので、私は所々話しかけた。しかし、たとえ肯定か否定かで回答可能な質問であっても、少女自身のことは何一つ答えてくれなかった。たとえば、「二足す二は五?」なら、少女は首を横に振る。ただし、「あなたは赤色が好きなの?」という質問には、何も反応がない。私はそれを悟ると、話しかけることを止めた。


 サプリメントではない、久々の食事だった。パンをちぎり口に入れると、口の中から水分が一気に失われた。紅茶を啜っても、香料が入ったお湯としか感じられない。地球に居る時は美味しいと感じていた食べ物が、今は無味乾燥な塊だ。少女を一瞥しても、美味しいといったような様子は微塵も感じられなかった。博士は食堂には来なかった。




 博士から命じられて、私と少女は所謂ピクニックに出かけた。こうなると、何のためにここに来たのかいよいよ分からなくなってくる。自分の墓探しのために学歴を積んで協会に入ったのに、やることは子供のおもりだ。厳密には、違うのだけれども。


 片手に博士から渡された弁当包みを持ち、もう片方で少女と手を繋ぐ。研究所の自動ドアを抜けると、灰色の世界が広がっていた。淀んだ空気に、冷たいビル群。モンスターの慟哭がまばらに聞こえる。ただ、姿は見えない。まだ人間がいて、賑やかに生活していた頃、この星は一体どんな景色だったのだろう。


 私は指先を目の前で滑らせ、空中に青いディスプレイを浮かび上がらせた。この星にも開けた丘や森があるらしく、そこへのルートを検索する。最短距離を表示させると、私は少女の手を引いて歩き出した。そこまでは、約三十分かかるらしい。

 私は歩いている間、小さな手を受け止めていた。その手は確かに少女のものだった。しかし、だんだんと別の少女に変わっていくように思えた。私は、記憶の中の小さな手を握っていた。そう、痣で紫になった手を。




 私も、無口な子だった。少女は後天的なものであったかもしれないが、私の無口も後天的なものだ。今の私は年齢的には大人だから、きちんと大人として振る舞っている。ただ、まだ小さなままの自分が、確かに深い井戸の底に居る。それは、突然飛び起きて、私の目の前に影として現れる。そして、消える。


 もう記憶にないことだ。私は虐待を受けていた。いじめを受けていた。これらは、後になって知り合いから聞いた。最初、私は病院のベッドで聞いたが、嘘だと思った。そんな記憶はなかったからだ。私の記憶では、母親も父親も友達も優しかった。誕生日パーティーを開いたり、テーマパークに行ったりするような、普通の家族の記憶しかなかった。しかし、身体中の痣がそれを裏切った。私は知り合いや、医者の言ったことを信じるほかはなかった。

 私にもよく分からなかった。知らぬ間に施設に預けられた。知らぬ間に裁判が行われた。知らぬ間に両親は獄中で死に絶え、遺産が入ってきた。大量の遺産だった。私は意志が欠落したまま、惰性で勉学に励んでいたので、高等教育を受けることが出来た。そして、大学に入ってから、小さな影が見えるようになった。


 きっかけは些細なことなのだ。街で物乞いをする子供を見た。それだけだ。その街では珍しかったが、当時近隣地域で内紛があり、難民が流れ着いていたのでおかしい事ではなかった。しかし、私はその子供を見た瞬間に、その場から逃げ去っていた。否、私が見たのはその子供ではなかった。紫の手足をした、みすぼらしい子供だった。私だった。




 突然右手を強く引かれた。


 私は我に返り、驚いて少女の顔を見た。少女は表情で何も示していなかった。しかし、周りを見渡すと気付いた。もう、開けた丘についていたのだ。


 私は、一面に揺れる青い草を見た。風が静かに揺蕩っている。空は青々とはしていないが、先程の街と比べると澄んでいた。灰色の雲は緩やかに流れている。

 私は斜面に青い花を見つけると、その傍に腰を下ろした。少女に促すと、少女も座った。少女の黄金の髪が揺れる。

 私は青い花を摘むと、そっと少女に差し出した。他意はなかった。花は綺麗だと思った。


「……ありがとう」


 意外にも少女は受け取った。そして……言葉を発した。私は、反応が一瞬遅れてしまった。そして、声に気付いて目を見開いた。か細い、鳥の囀りのような声だった。しかし、その一瞬の一言は私の心を掴んで離さなかった。狼狽えたまま、どういたしまして、と告げる。

 すると、少女は小さく微笑んだ。花が綻びるかのようであった。少女の目には心なしか赤い血のような生気が宿った気がした。


「あなた、名前は何ていうの」


 私は、いつもなら少女が答えられないことを、思わず訊いてしまった。少女は微笑んだままだった。私は落胆した。それは表には出さなかったが、研究の成功以上に胸に迫るものがあっただけ、大きかった。


「……マリア」


 息が詰まった。


 答えた。少女は答えたのだ。


 私は不安になって、また訊いた。

「本当に話せるの。私のことは分かる」

「ええ。……あなたは、イエナ。博士が、連れてきた人」


 話せるということが分かって、私は胸をなで下ろした。しかし、その分段々と少女が、マリアが疑わしくなってきた。

 なぜ、最初から話さないのか。なぜ、博士とは話さないのか。マリアが声を発した時、私は目頭が熱くなった。なぜかは分からない。ただ、その分だけ不信感は募る。赤い瞳は、真っ直ぐにこちらを見つめている。


「なぜ……」


 私は思いとどまった。また、マリアが口を噤んでしまったら。私に何ができるというのだろう。私の目的は墓だった。まだ、死神さえも見つけてはいない。それでも、今訊かねばならない気がした。これもまた、理由が見つからなかった。


「なぜ、マリアはずっと話さなかったの」

 マリアはしばらく黙っていた。今度は、落ち着いて待つことにした。マリアは少し下を向いた。赤いリボンが揺れる。


「わたし、ずっと話せなかった。声が、出なかった。博士に、言おうとしたの。たくさんのこと」

 黄金の髪が、手に持った青い花に降りかかった。

「でも、声が……哀しい声が、聞こえた。遠い所、から。響いて聞こえた。助けて、って言ってた。これは、あなたの声」


 マリアは顔を上げてこちらを見た。血の色が不安そうに揺れていた。


「そうだよ」


 私は、マリアの目を見て微笑んだ。もう、不信感も落胆もなかった。それどころか、墓への願望もなくなっていた。どこか、遠いところが透けて見えた。あの空の向こうの、限りない宇宙が。


「この花、綺麗だね」


 私は、なぜ博士が私を指名したか、ようやく分かった。

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