第五話 放火魔 岩野 有斗
藤田さんのアパートが燃えている。猛烈な吹雪の中で勢い良く姿を無くしていくアパートを見て、俺は笑っていた。開け放たれた窓から入ってくる冷気なんて気にならなかった。死ぬほど面白い。床に寝転がり、腹が痛くなるまで笑い転げた。
笑って笑って、外に出た。炎上するアパート。野次馬。そして野次馬から離れた所に立ち尽くす白コートの女、遠山紗月。俺は笑うのをやめた。
紗月が俺に気が付き振り返った。すぐに分かった。遠山紗月が藤田さんのアパートを燃やしたのだと。もちろん、その理由も。
紗月はビッチになり、いじめっ子になり、随分と狂ってしまった。彼女は元に戻りたかった。諸悪の根源を潰したかったのだ。
でも意味がない。藤田さんのアパートを燃やしてもどうにもならない。
紗月と視線が合う。顔が赤い。酒でも飲んでいるのかもしれない。紗月は無表情で頷いた。何に対して頷いたのか分からなかった。俺は紗月に背を向けて、逃げた。
紗月、ダメだろう。意味がない事をしても、ダメなんだ。
葬られた子どもは、戻ってこないんだから。
翌日。藤田恵子の死亡が確認された。出火場所はもちろん藤田さんの部屋、ニ〇三号室のドアの前。大量の新聞紙に火が付けられていた。寝ていたせいで火事に気がつくのが遅く、起きた時にはもうドアから逃げる事は困難になっており、建て付けの悪い窓はうまく開かず、そのまま死んだのだろうと言われていた。
放火事件が迷宮入りになるとは思えない。日本の警察は鼻でもほじりながら遠山紗月を逮捕するだろう。それは困るし、可哀想だと思う。
だから俺が罪を被る事にした。やり方はもう決めている。
計画の実行は二月十五日。特に意味はない。ただキリがいいから。
もう時刻は十二時を切って二月九日になっている。俺の人生が終わるまで一週間。せいぜい楽しもう。
土曜日。計画実行まであと七日。
今日は昼から爺ちゃんが経営するイノンチプという本屋でアルバイト。店長職とバイヤー職を務める爺ちゃんは海外旅行に行っているので、いま店を守っているのは俺とパートのおばちゃんだけ。貧弱な体制だ。
店の規模は小さく客も全然来ない。近所の美容室とか歯医者の定期取り置きや、ネットが使えず街まで足を運ぶことも面倒なお年寄りのおかげでなんとか成り立っているような本屋だ。仕事内容はレジ打ち、返本、梱包、袋詰めや輪ゴム掛け、入荷した本の陳列、本棚整理、電話対応。他にも細かい作業は多々あるが、やる事自体は難しくない。
「いらっしゃいませー」
真面目そうな女子高生がやって来てカウンターの前に立つ。
「本の取り寄せお願い出来ますか?」
低姿勢でしっかりとしゃべる女の子だ。安心して承り書をカウンターに置く。
「こちらにタイトルとお客様のお名前とお電話番号をお願いします」
「えっと。タイトル分からないんですけど」
死ね。
「申し訳ありませんが、タイトルが分からないとちょっと、お取り寄せは出来ないのですが……」
「関ジャニが表紙のテレビジョンなんですけど」
女子高生は困り果てた顔をしている。困るのはお前の方じゃない。俺だ。なぜ、俺が悪いみたいな態度をされなきゃいけない。殺すぞ。
「週刊と月刊と増刊と……。とにかく色々あるんですけど、どのテレビジョンか分かりますか?」
「えっと……。分かんないんですけど」
いいから死ね。
女子高生はスマホをいじり始めた。十分後、歓声をあげた。
「あ、多分これです! 月刊の十一月号!」
家で調べてから本屋に来い。親の遺伝子に障害でもあったのか?
パソコンで在庫を調べる。もちろん無い。出版社から取り寄せるしかないが、そうなると二週間くらいかかる。
「出版社から取り寄せる事になるんですが、その場合二週間くらいかかりますけど、宜しいでしょうか?」
「え……。二週間もですか?」
パソコンを操作して、アマゾンの月刊テレビジョン十一月号の商品ページを表示する。女子高生にパソコンの画面を見せる。
「アマゾンで売ってますよ」
「いやでも私、パソコン全然出来なくて……」
「家にネットはあるの」
「あります」
アマゾンの会員登録と買い方を教えてやる。女子高生は喜んだ。
「ありがとうございます! 家に帰ってやってみます!」
おう、もう二度と来んなよ。
夕方。事件発生。週刊ジャンプを毎週取り置きしている人がいるのだが、昼のシフトに入ってるパートのおばちゃんが取り置きしておくのを忘れていたらしい。しかも運悪くジャンプの在庫は無くなっていた。これはまずい。
「ジャンプ無いの? どういう事?」
三十代後半の男は結構キレていた。俺は言った。
「……いま在庫を確認しますので、少々お待ち頂けますか?」
「あ? しょうがねぇなー。じゃあちょっとそこのスーパーで買い物してくるから」
客は店を出て行った。チャンス。俺はレジから二百四十円を取り出して、向かえにあるセブンイレブンに行った。運良くジャンプが一冊残ってたから、それを買って店に戻った。
すぐに客が戻ってきた。いま買ってきたジャンプを二百四十円で売った。レジを打つと二百四十円の違算になるから、ただひっそりと二百四十円をレジの中に入れた。プラスマイナスゼロ。あのクソババァ、いつも偉そうにしてるくせにミスが多い。俺が機転を利かさなかったら大変な事になっていた所だ。
夜。小学校からの付き合いがある佐伯可奈子がやってきた。俺みたいな地味な奴が可奈子みたいにちょっとガラ悪くて可愛い女の子と仲良くしていられるのは、小学校からの縁があるからだ。俺と可奈子はタイプが違う人間だが、何故か昔から気が合った。
「やっほー」
可奈子は黒色のコートを羽織り白色のスカートを履いていた。カウンターの前にずかずかとやって来る。
「それ欲しいんだけど」
「あ?」
可奈子は俺が手に持っているヤングマガジンを指さしている。
「まだ全部読んでない」
睨みつけられる。仕方なく雑誌を閉じてスキャンする。可奈子がお金を出し、俺はお釣りを返して雑誌を袋に入れて渡す。そして暇人はカウンターの横に置いてある椅子に勝手に座り、喋り始める。
「もう少しで三年生じゃん?」
「バカナコは進級出来るのか」
「アンタ、卒業したら何するの」
「考える必要はない」
「ニートにでもなるの?」
「お前はどうすんの」
「専門学校」
「ふぅん」
「紗月はどうすると思う?」
俺は黙りこむ。可奈子はもちろん俺と紗月に事件があった事を知らないし、そもそも俺達に面識がある事すら、可奈子含めて誰も知らない。
「俺に聞かれても困る」
「風俗嬢とかになったら、どうしよう」
「さぁ」
「なんでこうなっちゃったんだろ」
「ビッチはどこにでもいる。沢山いる訳じゃないけど確実に存在する」
「まぁ、そうだけど」
「いじめっ子は星の数ほどいる」
「うん」
「だからビッチないじめっ子が居ても不思議じゃない」
「そういう問題じゃなくて」
「なんだ」
「あ、でも、うん。最近、いじめはしてない。ほら……」
「藤ケ崎事件か」
「そう」
可奈子は紗月と藤ケ崎と同じクラスだが、あの日は学校をサボっていたらしい。つまり、暴走を止める人間が居なかったという事だ。俺はクラスが違うから現場は見ていないけど、相当悲惨な光景だったらしい。紗月がいじめをやめるのも、当然だろう。
可奈子は何度もため息をついた。
「でも援交はまだ続けてる。あのね、紗月は色々あって変わっちゃったんだよ。元に戻ってほしい」
「いつかやめるさ」
「アンタ冷たくない?」
「可奈子」
「なに」
「お前、彼氏いるのか」
「いないけど。なんで」
「なんとなく」
「アンタこそどうなのよ。いるの?」
俺は何も答えなかった。まぁ、そんなもんだろう。可奈子は追求せず、黙って立ち上がった。
「じゃ、帰るわ」
可奈子は帰っていった。相変わらず、シャンプーの良い匂いがした。
日曜日。計画実行まであと六日。
四十代後半の男がカウンターの前にやってきてコミックを一冊カウンターの上に置き、手に持っていた紙切れを見ながら自信満々に読み上げ始めた。
「妖怪激烈バトル! 宇宙大戦編十二巻!」
「……」
「……」
「これ、合ってる?」
「はぁ?」
「息子に頼まれた。これでタイトル合ってる?」
コミックのタイトルを確認。今聞いたタイトルと完全一致している。
「合ってますね」
「そう? じゃ、これお願い」
一つ聞きたい。
お前、字が読めないのか?
電話が鳴る。出る。甲高くて、なんだかねばっこくぬるぬるした喋り方をする男だった。
「あの~。本の取り寄せしたいんだけどねー」
「で、ではタイトルを教えて頂けますか」
噛んでしまった。男が笑った。
「ん~。なんかアンタ慣れてないねぇ。新人かい?」
「まぁ、そうですが」
本当はもう結構長いです。
「なに~。もしかして学生さんー?」
「そうです」
男がぶっと吹き出して笑う。
「おいおいダメだよ学生なんかに店番やらせてー。ちゃんとした従業員いないのぉ~?」
うっぜー!
「今は僕一人ですね」
「ふぅ~ん。ねぇところでお宅の本屋さんさー。店の名前なんていうの?」
知らなないで電話したのか。
「イノンチプです」
「はぁ~? イノンチプ~? え、それ、どーいう意味なの?」
「えーとですね……」
「んー? 変な名前だよなぁ。そんな名前だから、お宅の店、いっつも人居ないんじゃないのぉ~?」
「あの、本のタイトルは」
「えぇ~? なんかアンタ、信用出来ないなぁ。まぁいいや、えっとね……」
電話番号を紙切れにメモする。復唱しようとした瞬間、男に先手を打たれる。
「ちょっとアンタ、やっぱり信用出来ないから電話番号復唱してみなさい。三回だ。三回復唱して」
三回復唱すると、男は突然話しかけた。
「そうだ。お宅、何時までやってるのぉ~?」
「九時までです」
「えー! くじぃ~? ちょっとちょっとそれは長くなぁ~い? 七時くらいで閉めていいんじゃないのー? どうせ夜中に人なんて来ないでしょぉ~?」
俺は電話をぶった切った。理由は簡単だ。何故なら、俺は真面目に仕事がしたいから。ちなみにイノンチプとは、アイヌ語でくそったれとかバカ野郎という意味だ。
カウンターの後ろのテーブルにパソコンが置いてある。俺は画面を眺めて在庫の数をチェックしていた。後ろを振り向いた。四十代後半の女が物凄い形相で俺を睨んでいた。慌ててカウンターに駆け寄る。
「大変お待たせいたしました」
会計を済ませて商品を渡す。女は癇癪を起こした子どものように袋をひったくり、帰っていった。
そんなにイライラして、わざとらしく不貞腐れた態度取って私いまキレてますよとアピールするくらいなら、声をかければいいのに。
すみませーん。
会計お願いしまーす。
ちょっといいですかー?
そんな事すら、言えないのか。お前はこれまでの人生で何をしてきたんだ?
取り寄せしていた本が入荷した。電話をした。
「もしもし。イノンチプですが、お客様がご注文した『加工食品の危険に迫る』が入荷しましたのでお電話致しました」
『は?』
甲高い女の声。
同じセリフを繰り返す。
『あー。はいはい。あれね。ん、ごめん。もう読んだ』
「え?」
『ごめん、もう読んじゃった』
「もうお買いになったと……?」
『ふふっ。ごめんね。たまたま他の本屋で見つけたの。だ、か、ら、いらない。あはっ。ごめんね!』
電話を切る。売れそうもない本を入荷してしまった。今月も赤字だろう。
三十分後。三十代前半の男がやってきた。会計をする。千五十円。俺が値段を言う前に、男が千円札をカウンターに置き、笑顔で言った。
「釣りはいらねぇよ」
「……」
男は無造作に商品をつかみ取り、颯爽と店を出ていこうとした。俺は叫んだ。
「お客さぁん! 五十円足りないです五十円!」
客を追いかけて小銭を受け取る。レジの中に入れる。驚愕する。
受け取ったのは五十円玉じゃなくて一銭硬貨だった。脱力感に包まれながら、自分の財布から五十円玉を取り出してレジの中に入れる。
もう、嫌だ。
夜の九時に閉店。家に帰る。一時間だらだらネット。ニ時間ゲーム。約二時間の映画鑑賞。そして、就寝。
月曜日。計画実行まであと五日。
学校へ行く。ホームルームは友達と雑談。授業が始まる。寝る。昼休みは購買で買った冷たくてパサパサの炒飯を食う。地味系軍団と地味な会話で地味に盛り上がる。ガムをくちゃくちゃ噛みながら可奈子がやってくる。不良、美人、そもそも女に慣れていない地味系軍団は気まずそうに黙りこむ。
「岩野」
「なんだ」
「紗月、学校来てない」
「俺に言われても」
「皆に聞いて回ってる」
「電話とかメールは」
「反応無し」
「突然家出するのも、よくある話だ」
「何も知らないの」
「うん」
「分かった」
可奈子は教室を出て行った。なぜ可奈子はあんなに紗月にこだわるのだろうか。可奈子と紗月は幼稚園からの付き合いだから当然といえば当然だが、放っておけばいいのにとも思う。
まぁ、いいや。もう少しで、全てが変わるのだ。
バイトは休み。両親は仕事をしているから家には誰も居ない。飯は用意されてなかった。スーパーで二百九十八円の弁当、百円のおにぎり、七十八円の缶コーヒーを買い、自分の部屋でもそもそと食った。ゲームして映画観て本読んで、寝た。
火曜日。計画実行まであと四日。
朝起きる。昼学校。帰宅。バイトへ行く。遠山紗月が行方不明だと騒がれ始めた。可奈子が店にやって来て愚痴った。
「あの子、親に虐待されてたのかも」
「どうして」
可奈子はまた勝手に椅子に座って缶コーヒーを飲んでいる。俺もいつものように椅子に座り、手に漫画雑誌を持っている。いつもの光景だった。
「体に傷がある。太ももとか、見えづらい所に」
「虐待もよくある話だ」
「喧嘩売ってんの?」
「俺達に何が出来る」
可奈子は缶コーヒーを飲み干し、ゴミ箱に放り投げた。
「紗月どこ行ったんだろう」
「俺」
「ん」
「この店、燃やすんだ」
「なんで」
「さぁ」
「いつ燃やすの」
「四日後」
「なんで四日後」
「放火しようと思った時、一週間後と決めた。キリがいいから」
「へぇ」
「可奈子」
「なによ」
「色々悩みながらその悩みを解決して、また新しい悩みが出来て解決して。その繰り返しが人生だ」
「出家でもすんのか?」
「でも可奈子。どうあがいても解決できない悩みがあるとしたら、お前はどうする?」
「さぁ」
俺は立ち上がり、吠えた。
「ほら答えられない! どいつもこいつも答えられないんだ!」
可奈子は呆然と俺を見上げていた。おとなしく、椅子に座る。
「可奈子」
「脳みそ腐ったか?」
「俺はちゃんと家がある。自分の力でお金を稼ぐ事も出来る。。頭や体に障害はない。両親はまぁ、普通の人。学校に行けるくらいの金もある。虐待もされていないし、絶望的なこともない。ただ、どうしようもない悩みがある」
「悩みあるんなら言え」
「ただ少なくともハンデを背負ってる訳じゃない。飯食わせてもらって自分の力で小遣い稼いでいる子どもの俺に、不満を言う権利は、ない」
「言うだけならいくらでも言っていい」
「ずっと前な、なんか色々嫌な事があって、パートのおばちゃんに愚痴った。死にてーとか、人生クソまみれだーとか、そんな事言った」
「で?」
「パートのおばちゃん、真面目そうな顔になって、テレビで見たドキュメンタリー番組の話を始めた。ガーナの子どもは飯食えず学校も行けず体はガリガリ。でも、働いてお金を稼がなきゃいけない。まさに地獄みたいな人生を送ってる。おばちゃんはそう言った」
「おばちゃんは多分、アフリカをバカにしてる。ていうか、見下してる」
「そうだろう。で、おばちゃんはありきたりな事を言ったんだ。ガーナの人に比べたら、アンタは恵まれてるのよって。でもガーナ人と比べられても困るし、ガーナ人と俺の悩みは、また別なんだ」
可奈子は大笑いして帰って行った。
可奈子が帰った後、五十代後半の女がやってきた。生地の薄そうなコートを羽織り、やたらとつばの広い帽子をかぶり、ハイキングにでも行くんですかってくらいに大きなリュックサックを背負っていた。女は何かのチラシをカウンターに置いた。
「あの、これ、これね取り、取り寄せ、したいんだけどね」
今すぐぶっ殺したくなるくらいに細く甲高く、鼻が詰まったような声で、何故か無駄に早口で歯切れの良い喋り方で無性に気に障る。チラシには英語の教材八巻セットの説明が書いてあり、下の方には注文するための入力欄があった。ここに名前とか電話番号とか冊数を書き、書店に持っていけば本の注文が出来るし、個人で直接出版社に注文する事も出来る。
「こ、これ注文、書けば取り寄せ、してくれ、る、るるんですか」
「あ?」
脊髄イカれてんのか?
「ここで頼んだら、そ、送料とか、かかるんですか」
「本屋で注文した場合送料や手数料はかかりません」
「しゅ、しゅしゅ、出版社に頼んだら、お金かかるの」
知るか。
「送料がかかるかどうかは、ちょっと分かりません」
「ここと出版社で、ど、どど、どっちで頼んだ方が、いいのかしら。送料かかるなら、ここで、頼もうかしら」
「少々お待ちくださいませ」
出版社に電話をかける。聞く。送料はかからないが代引き手数料が二百円かかるらしい。本屋で頼めば送料はかからないが、客が直接取りに来なければならないし届くまで時間がかかる。しかしたった二百円で家まで運んでくれるなら、出版社に直接頼んだほうが良いだろう。それにこいつが注文したいのは分厚い教材八巻セット。わざわざ本屋に取りに行き、持って帰るのは大変だろう。
「そそ、それなら。二百円もったいないから、ここで頼もうかしら」
つーかそれくらい、自分で出版社に電話してくれ。サービス業は大変だ。
注文の処理を終えて、客は帰っていった。
六十代の男がやってきた。
「東京再開発2020という本、ありますか」
パソコンで調べる。ありません。
「そのようなタイトルはありませんね」
「じゃあ、取り寄せて」
「いや、ですから、そのようなタイトルの本が存在しないんです」
「なんで」
日本語が通じない。これも、よくある事だ。
「タイトルをお間違えになっているのではないでしょうか。似たようなタイトルなら見つかりましたが」
「そんなはずはない」
お引き取り願えませんでしょうか。
「でも、まぁ、しょうがない。調べてからもう一度来ます」
本のタイトルを覚えられないくせに堂々と本屋に来ちゃうお前のようなキチガイが何をどうやって調べるっていうんだ? アホか。ていうか調べる能力が無いからタイトル分からないんだろう。タイトルじゃなくて無くした脳みそがどこに落ちてるのか調べてこい。アホか。死ね。くたばれ。
閉店間際。七十代のお婆ちゃんがやってきた。
「えーと。あれよあれ、あの本、タイトル覚えてないんだけど……。あの、あの本、取り寄せてくれないかい?」
おう、ぶっ殺すぞ。
「テレビで見たのよ。おーさまのブランチ?」
「タイトルは?」
「分からないんだけど」
「タイトルが分からないとちょっと……。作者名とか分かります?」
「アンタ、テレビ見てないのかい」
「テレビは見ません」
「じゃあ、世間知らずなんだね」
すみません。俺はアンタみたいに家にこもってないで、外の世界を見てるんです。知ってますか? 世の中には、家を燃やす女の子がいるんですよ?
「申し訳ありません。ですが、せめて作者でも分からないと、ちょっと調べられません」
「困ったね……。ほら、あれ、あれなのよね」
お前、本当にその本欲しいのか?
「申し訳ありませんが、タイトルを調べてから来て頂けませんか」
死にぞこないのババアはうんざりした顔でため息をつき、憐れむような目で俺を見て、店から出て行った。
みんな、聞いてくれ。
俺は、エスパーじゃない。
水曜日。計画実行まであと三日。
学校へ行き、家に帰り、イノンチプへ行く。今日は客が少なく、特に何もなく終わった。スーパーで半額になっていたたこ焼き、サンドイッチ、おにぎり、りんごジュースを買った。家に帰って自分の部屋で食った。ゲームやったり本読んだりして、寝た。
木曜日。計画実行まであと二日。
紗月は未だ行方不明。死んでいるんじゃないかという噂が流れ始めた。可奈子は何度も紗月の家に行っているが、親が出てきた事は一度も無いらしい。東京に行っている姉との連絡も取れないらしい。紗月の親については未だに謎が多く、どういう人なのか、どういう生活をしているのか、紗月とどういう関係なのか、多分誰も知らない。
昼休み。購買で輪ゴムのような味がする焼きそば弁当とイチゴオレを買った。廊下を歩いている時、一年生の教室になんとなく視線を向けた。ドアは開いていて、めちゃくちゃスカートが短くめちゃくちゃ可愛い女の子と地味な男子が楽しそうにゲームの話をしていた。俺も昔は可奈子と楽しく色々な会話をしていた。でもある時から可奈子を避けるようになり、今でも親しい事に変わりはないが、昔のように屈託のない笑顔で会話する事は無くなった。全部俺が悪い。
何故か、見知らぬ一年生の女子に対抗心が芽生える。あの女より可奈子の方が足細いし綺麗だし短いスカート似合ってるし、顔だって百倍可愛い。ガラ悪いし不良っぽいけど、裏表が無くてまっすぐで、大らかでユニークで、普通が嫌いでなんか面白くてノリが良くて、嫌味が無くて、本当に、素晴らしい女の子だ。
可奈子と普通に話せていた時期が、懐かしい。でもそれは中一の時までの事。遥か昔の思い出だ。
放課後。地味系軍団と一緒に帰った。奴らは途中でオモチャ屋に寄り、トレーディングカードゲームを買った。そして自由に遊べるようにと用意された席に陣取り、カード対戦を始めた。バイトだからと嘘をつき、俺は一人で帰った。
帰宅。昼寝。起きたら久しぶりに母親がいて、米と味噌汁と魚と唐揚げとサラダを食った。風呂に入り、音楽聴きながらネットをやり、本を少し読んで、寝た。
金曜日。計画実行まであと一日。
紗月、未だ失踪中。昼休み、珍しく俺から可奈子に話しかけた。
「可奈子」
「なに?」
「ちょっといいか」
「はぁ?」
教室を出て、俺と可奈子は音楽室に行った。可奈子はピアノでアニメソングを弾き始めた。しばらく耳を澄ませていた。可奈子は無表情でピアノを弾き続けた。幸せではなかった。俺は言った。
「紗月はとあるおばさんのせいで、人生ぶっ壊れた」
可奈子がふいに指の動きを止めた。静寂。
「どうした?」
「……アンタ、何か知ってんの」
「何が起きたかは、紗月の名誉のために言えない」
「それで?」
「紗月の事を抜きにしても、俺だって人並みに、ジンセイというものに対して色々考えたりはする。でも、そういう細かい事はどうでもいいし、考えるのも面倒くさい。それに自分の考える事もよく分からない。だから俺は簡潔な答えを出した」
「言ってみて」
「紗月を少しでもいいから、助けたい。別にそれだけでさ、十分なんだと思う」
なぜ今ごろ藤田さんのアパートを燃やしたのか。どうして運良く藤田さん以外の住人が居なかったのか。その事だって多分、紗月はあの日たまたま藤田さんのアパートの近くを通って、酒に酔った勢いで燃やした。そして偶然藤田さん以外の住人は全員留守だった。そんなもんなんだろう。多分、そうだ。
「どうやって助けるの。ていうか、もしかしてアンタ、紗月がどこに居るのか知ってるの。紗月とどういう関係なの」
「知らない」
「ねぇ、さっきから何が言いたいの」
「可奈子。お願いがある」
俺は椅子に座る可奈子の正面に立ち、彼女を見下ろした。シャンプーの匂いが漂う。
「なに」
「抱きついていい?」
可奈子は目を見開いた。そして顔を真っ赤にして、頷いた。俺は黙って可奈子を抱きしめた。調子に乗って頭を撫でた。可奈子が言った。
「どうしたの。いきなり」
「なんとなく」
「あの……。その。なんつーか……。あの、あのさ、岩野。私達さ、ずっと変だったけど。ていうかアンタが変だったけどさ、でもさ、何か、悩みがあるなら、なんでも言って欲しいっていうか。その……」
俺は可奈子から体を離した。
「何を言っているのか、よく分からん」
学校が終わり、イノンチプでバイト。三十代後半の男がカウンターの前までやって来る。
「ここ、予約とか出来ますか」
「出来ますよ」
「惨苦物語の八巻で」
承り書をカウンターに置く。
「ここにお名前とお電話番号と本のタイトルをお願い致します」
客が必要事項を書き、顔を突き出して言う。
「この本っていつ発売するんですか?」
「は?」
「発売日、いつか分かりますか?」
驚きだ。発売日も分からない本の予約をする人間が居るなんて。
ポケットからスマホを取り出し、「惨苦物語 八巻」と検索する。一番上に表示されたアマゾンのページを開く。発売日は三月二十五日と書かれていた。四ヶ月くらい先じゃねーか。
「三月二十五日ですね。あと、特装版と通常版がありますね」
客は鼻で笑った。
「いやだから、特装版が欲しいからわざわざ予約するんじゃないか」
それはそれは申し訳ありません。あやうく通常版を予約する所でした。
「入荷したらお電話でご連絡致しますか?」
「あぁ、よろしく」
「では入荷次第、お電話致しますね」
多分、こいつは予約した事を忘れるだろう。なにせ発売日を把握していない本の予約をするくらいなんだから。
間抜け男の後ろに並んでた中年の女が質問をしてきた。
「ここ、図書カード売ってるの?」
「売ってますよ」
ていうか、カウンターの前に「図書カード販売中」と書かれた看板が置いてありますよ。お前は失命してるのか?
「え、ここの図書カードはどこでも使えるんですか?」
むしろ限られた本屋でしか使えない図書カードがあるなら、見てみたい。
「どこでも使えますよ」
「あ、そうなんだ。ふーん。あ、分かりました」
客は帰っていった。意味が分からない。
五十代後半のせわしない男がやって来た。三百八十円の雑誌をカウンターに置き、一万円札を皿の上に載せた。小銭を出さないかどうかしばらく確認。財布をいじっている様子はなくぼんやり俺を見ている。
「一万円、お預かり致します」
一万円をレジの中にしまい、一万円と入力し現計ボタンを押してレシートを出し、お札を数える。顔を上げる。驚く。男はのろのろと財布の中を漁り始めていた。
おいおい。それはさすがにマナー違反というか、遅すぎだろう。
客は何食わぬ顔で小銭を皿の上に置いた。もうレシートは一万円の預り金で出してしまった。仕方なく引き出しから電卓を取り出した。小計さえちゃんと入力していれば、レシートと違う預かり金をもらっても、レジのお金は合うから再計算しても大丈夫。小学生でも出来る計算だが、一応計算間違えの無いように一万八十円から三百八十円を引き、また一応お札を数えた。客がキレ始めた。
「ん? え、え、え。あ、いくら? い、いいいっいくらなのさ?」
キレそうになりながらもお札を返す。残るお釣りは七百円。
「あれ、お金もう全部返してもらったっけ? ん、ん、い、いやだから遅いんだって。早くして早くして。んんー、んーもう何トロトロやってんの。えーもうこれでいいの? 全部渡してもらったよね?」
もうどうでもよくなった。
「あ、もう全部渡しましたよ」
「あーうんいいんでしょいいんでしょ。これで全部でしょ」
客はやっぱりせわしなく帰っていった。俺は七百円をポケットの中に入れた。
バイトが終わり、五百五十円と高価な弁当と百五十円のジュースを買い、家で食った。丁度七百円消費した。映画を観てネットやって、寝た。
土曜日。計画実行日、当日。午後四時半。
住宅地の外れにある旧町内会館の中に入る。今は使われておらず、建物の中には何もない。唯一見当たるのは、遠山紗月だけ。
紗月は両手両足をロープで縛られ、口にはガムテープが貼り付けてある。腹に巻きつけたロープは柱にしっかりと結びつけている。紗月はぼんやり座り込んでいた。俺を見ても反応無し。紗月のそばには大量の保存食と水が置いてあり、パンツが落ちている。冬だから食べ物は腐りにくいし、トイレの目の前の柱に結び付けてるから排泄の心配もなし。俺なりに配慮したつもりだ。
遠山紗月を監禁した理由はただ一つ。一週間経つまでに紗月が捕まったら困るから。
「紗月。もういいぞ」
俺はロープをほどいてやった。でもガムテープは外さなかった。会話をしたくなかった。これは俺の個人的で一方的な計画なのだ。いくら紗月のために実行すると言っても、彼女と何か話しをする必要はない。
「監禁して悪かった。本当にごめん」
それ以上何も言わず、俺は町内会館を出た。
冬は日が暮れるのが遅い。時刻は五時。空は藍色で、まだ明るかった。
俺はイノンチプの前に立ち、息を大きく吸った。この店は藤田さんの家の近くだから紗月を助けるためとしては都合が良い。それにこの本屋は気に食わない。訳分からん客の相手してると頭がおかしくなる。
俺はイノンチプの中に入り、ガソリンをばら撒き、ライターで火を付けた。
イノンチプは豪快に燃えた。俺はぼんやりと燃えるイノンチプを見ていた。野次馬の悲鳴。救急車のサイレンの音。雪がちらちらと降っていた。だからなんだ。札幌は毎日のように雪が降っている。
藤田さんのアパートが放火され、数日後には近所にある本屋も放火された。これは同一犯の可能性が高い。そしてイノンチプが燃えている現場で、一人の少年が突然狂ったように叫ぶ。
「うわー! もう嫌だー! あー! うわー! みんな死んじまえー! クソったれな客みんな死んじまえー! くそーっ。こんな本屋があるから悪いんだ。この店さえ無きゃ、こんな辛い思いしなくて済んだんだ。人間がアホだって事にも気づかなかったんだー!」
野次馬達は病的な少年を一斉に見る。皆が目撃者だ。
「藤田のクソババア! お前もムカつくんだよ! ちょっと一回家に遊びに行っただけで、毎日電話してくんじゃねーよ! うぜーんだよ!」
警察官が駆けつけてくる。俺はポケットからナイフを取り出し、振り回しながら警察官に立ち向かう。若い警察官は拳銃を構える。紗月がいつか、好きな人と結ばれ子供を産める日が来る事を祈りながら、警察官に向かって突進する。
そして、警察官は、拳銃の引き金を引いた。
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