涙の理由

 瞳を閉じると、別に自己暗示をしたわけでもないのに決まって夢の中に姉さんが出てくる。


 夢の中の姉さんは、今回は怒っているようだ。


 小さいとき、俺が『姉さんのためなら何でもするよ』と言ったら怒られたのを覚えている。


 姉さんは膝を曲げて俺に目線を合わせれば、頭の上に手を置きながら言った。


『自分の意志で動けない男が、誰かのために何かをしようなんて言っても、それはその誰かの重荷おもににしかならねぇよ。邪魔なだけだ。だから、自分の意志で初めて何かを成し遂げることができる時までは、おまえは自分のために生きろ。そして、そのために強くなれ。今はそれだけで良い』


 その時の姉さんの表情は、どこか悲しげだったのを覚えている。


 ズバズバと言いたいことを言う性格は、多分姉さんから移ったんだと思う。


 姉さんの口は荒っぽかったが、その奥には本当の優しさがあった。


 優しさとは何かを教わった。強さとは何かを教わった。俺が生きる意味を与えてくれた。恐怖を持つ意味を教えてくれた。


 たくさんのことを教わり、それが今の俺を構築している。


 しかし、それはあの夏の日に、崩れて行った。


 雨の日だった。


 夏休みの期間に帰国し、俺は初めてもらった勲章くんしょうを早く姉さんに見せたくて急いで家に走った。


 俺はやっと自分の意志で何かを成すことができた。


 戦争に勝利することができた。


 だから、これでやっと姉さんのために生きれるんだと言いたかった。


 俺が戻ってくる日には、いつも姉さんが玄関の前で腰に手を当てて笑顔で待っててくれていた。


 しかし、今回は違った。


 代わりに、母親と黒服でサングラスをした男が玄関で話しているのが見えた。


 そこで、姉さんが学園内で首を吊って自殺していたと言うことを聞かされた。


 その瞬間、自分の中で積み重ねてきた積み木が、絶望と言う血の津波に飲み込まれていった。


 感情に任せるように、俺は目の前の黒服男を殴っていた。


 何度も何度も殴っていた。


 そして、殴りながら…冷たい雨が降り続けている中で、目から熱い雫(しずく)が流れた。


 流れが治まる頃には、俺の中から感情が消えた。


 その日から俺は姉さんの部屋に引きこもり、彼女が書いていた日記ノートを読み始めた。


 そこには俺の知らない、才王学園さいおうがくえんの教師としての姉さんの想いが書かれていた。


 『人付き合いが苦手な生徒にはどう接すれば良いのか』とか、『できの悪い生徒を更生させるためにはどうすれば良いのか』、『力とは何のためにあるのか』と言うことに苦悩しているのが見える。


 そして、最後のページをめくった時、俺は目を見開いた。


 白紙だった。


 書いたけど消しゴムで消したあとが在った。


 鉛筆でその上をこすれば、そこには信じられないことが書いてあった。


 学園の奥深くの闇を知ってしまったこと。それが原因で誰かから苦しめられ、もう精神が壊れる寸前だったこと。誰かに助けを求めても、権力が全てのこの世界では誰も味方にはなってくれないと言う嘆き。そして、最後に……俺が今、日本に居なくて良かったと、俺だけは生き残ってほしいと言う願いが…。


 日記を閉じると共に、俺の中で積み木がまた急速に積み重なっていくのがわかった。


 その頂点にあるのは、『憎しみ』だった。



 -----



 目が覚めると、寮の自分の部屋の天井が見えた。


 時間は午前4時で、すぐに起き上がれば寝服からジャージ姿に着替えて部屋を出た。


 地下の中とはいえ身体をなまらせるわけにはいかないので、1時間の制限時間を計って寮を出れば耳にイヤホンをしてランニングを始めた。


 走っている時は何も考えない様にしている。


 頭を覚醒させることだけを目的とし、ただ1時間走り続ける。軍に居た時は、これが朝起きて最初にしていたことだった。前の者の背中を見ながら、掛け声を出しながら走るだけ。


 転入初めの3日間は押し入れに仕舞っていた段ボール詰めの荷物の整理で忙しかったからできなかったが、それも一段落したので日課に戻る。


 この迷路のような街中は山中ほどではないが、ランニングには良いエリアだ。


 放課後の街の騒がしさが嘘のように、朝は廃墟かと思うほど静かでまだ暗い。店の入口の前を走る度に、ゾンビが出てきて襲い掛かってくるんじゃないかと思えてきて不安だ。


 そんなことを思いながら、1時間走り切った。


 そして、空白の3日間のせいで、体力が少し落ちていることは良くわかった。



 尞に戻って部屋の中でコンビニで買ったミネラルウォーターを飲めば、ランニングで流した汗を流したいと思った。


 この寮は大浴場が1つあるだけで、男女で入る時間は決められている。しかし、朝シャンの時間は決められていないので、流石に誰も起きていないだろう5時、着替えとタオルを持って向かった。


 大浴場は尞の中でも奥の方にあり、入る前に男子か女子の使用中の札を扉にかけておく必要がある。


 今はどちらの札もかかってないので『男子使用中』の札をかけて入れば、すぐに違和感を感じた。


 脱衣場の向こうの大浴場から、シャワーの音が聞こえてきたのだ。


 そして、誰かが話しているのが聞こえてくる。


「あ~、やだやだ。どうして人間って思った通りに動かないんだろう。使える奴らが全然居ない。馴れ合ってばっかのクズばかり!向上心ってのはないの!?ずっとぬるま湯に浸ってるつもりなら、あたしを巻き込むな!!こっちは早くFクラスのようなゴミの掃き溜めから脱出したいんだから!!最悪、最低、あたしのことを邪魔する奴らは、全員地獄に落ちろ、ゴミが!!」


 聞こえてくるのは女子の声だが、何だか聞き覚えがあるような気がする。


 この学園の知り合いで、成瀬でも少しきつい口調で留まっているのに、こんなに暴言を吐く女が居ただろうか?


 少し戸に耳を当てて集中しようとする。


 すると、戸に手が触れた瞬間にパタンッと大きな音がした。外れやすくなっていたのか。


 中から「何!?」っと言う声が聞こえ、近くの掃除用具入れのロッカーの物陰にすぐに隠れる。


 不味まずい状況になった。警戒をおこたり過ぎたか。

 大浴場から、1人の女子が裸のまま出てきた。


 俺はその女子を見て目を見開いき、思わず「マジかよ」と小声を出してしまった。


 出てきたのは、住良木麗音だった。


「誰か…居るの?」


 麗音は、小さなかごの中に在ったバスタオルを身体に巻き、そして、スタンガンも取り出して構えた。


 おそらく、覗き対策だろう。


 ここで出てしまえば、俺は覗き魔としてクラス中に広がるかもしれない。それだけは阻止しなければならない。


 麗音が辺りを警戒しながら横に長い鏡を見ると、目を細めて睨んでいる。


「そこのロッカーの後ろに隠れているの、椿くんだよね?」


 名前を呼ばれて鏡を見れば、隠れている俺が映っていた。


 しまった。俺としたことが、焦り過ぎて初歩的なミスをした。


 ロッカーの後ろから出て両手を挙げれば、敵意がない事を示す。


 しかし、胸元を隠しながらスタンガンを向けられて睨まれるだけだった。


「うわーぉ、目が成瀬よりも怖ーい」


 できる限り基樹っぽく冗談で言ったつもりなのだが、麗音は表情を微塵みじんも変えてくれない。


「この時間から起きているのは私だけのはずだったんだけど…そっか、軍人だったら起床時間も早いのね」


「ちなみに、4時から起きてました」


「ふ~ん、それで…いつから居たの?」


「そうだな、ざっと2分前から。札がかかってないから、使っても良いのかと思って」


 しばらくの沈黙が流れ、麗音が一歩近づいてくる。


「どこまで、聞いてたの?」


「あー、やだやだってところから、地獄に落ちろってところまで。ストレスを解消するのは別に構わないと思うし、他言することはないけど…随分とキャラが違うんだな?ビフォーアフターが半端ねぇ」


 無表情で言えば、戸惑いを見せない俺に気持ち悪さでも感じたのか、麗音はスタンガンのスイッチを入れようとする。


「ねぇ、汗だくみたいだけど、その状態で高電圧の電気を流されたらどうなるのかなぁ?」


「試したことはないが、おまえのそれが俺に届くと思うか?体術は心得ている、体格差や戦闘経験からして、俺の方がポテンシャルは上だ。余計なことは考えるな。俺はおまえを傷つけたくない」


 説得しようとすると何かが気に障ったのか、麗音は舌打ちしをして、身体が震えながら「めるな!!」と言って俺に向かってスタンガンを振るってくる。


 その目からは、怒りに我を忘れているのが見て取れた。


 必死にスタンガンを当てようとしてくるが、それを全て体捌たいさばきで避ける。


 単純な動きは読みやすい。


「落ち着け、麗音!!」


「うるさい!!私は弱くない!!」


「そんなことは誰も言ってないだろ!?」


「そう言って、あんたも私のことを見下しているくせに!!」


「それは被害妄想だ!!」


「違う!!みんな…みんな!!私のことを見下して笑いものにしてるんだ!!知ってるんだから、わかってるんだから!!」


 涙を流しながら怒りをあらわにしている麗音を見て、俺はすぐにでも止めないと不味いと直感した。


 この涙が自然に止まれば、麗音は何かを失う。2年前の俺のように。


 それだけは、阻止しなければならない。


 最初にスタンガンを握っている手首を掴み、俺はもう片方の腕で麗音を抱き寄せる。


 そして、そのうるさい口を俺の口で塞いだ。


「んんっ…!?」


 すると動きが止まり、麗音は目を見開いた。そして、力が抜けたようにスタンガンを手から離した。


 落ち着いたのかと思って唇を離して麗音を見れば、彼女は何が起きたかわからないと言うような表情をしており、鏡の前に在った椅子に座らせた。


「すまない。アメリカに居た時の友人に、女を落ち着かせるなら、キスするのが一番だって言われたのを思い出したから実行したんだが……効果は絶大だったようだな」


 俺の声が聞こえているのかはわからないが、麗音は小さく頷いて唇を人さし指で触っている。


 このまま置いていくわけにもいかないので、どうしたものかと思ったが麗音がボソボソっと何かを言っている。


「……っ…よ」


「な…何だ?どうした?」


「出てってよ!!1人にして!!」


 あまりの怒声に俺は震えてしまい、敬礼して「イェッサー!!」と返事をして大浴場を出た。


 結局、シャワーは使えなかったので濡れタオルで身体を拭くぐらいしかできなかった。


 ちなみに最後に麗音の顔を見たとき、真っ赤になっていたような気がするが…熱でもあったのだろうか。

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