第六話 2018年、オタネ浜にて

UJカシワギ:貴方の選択一つで、未来は変わるのです。

UJカシワギ:どうか、ペンラムウェンを勝利に導いてください。


EP39 腐った稲穂南海香の作り方

・明日風真希


送信者:りんりん

送信先:KATO RIKA(HAL 9000)

※アストラルコードにより傍受ブロックされています。


『明日風真希の件、よろしく頼んだわよ』

『ほんとに良いのか?』

『えぇ。別にデジタル世界で苦しむ必要はないからね。私の行動が矛盾してるとでも?』

『いや、そういうんじゃなくて。良いか? 記憶をしっかり残したまま苦しみを和らげると、記憶と感情に乖離が起きて結構あぶねーんだよ。私はそこを心配してる』

『私達でフォローするから大丈夫。ウチには天然でフォロー出来る人間もいるし』

『そこまで言うならとめねーけど』

『そっちこそ大丈夫?』

『あぁ。SISAの職員は神様だからな。これくらいの事はお茶の子さいさい』

『古い言い回し。あ、ちゃんと押し込んだ憎悪は復活するようにしてよ』

『まぁ言われた通りにするけど……』

『とにかく、アスカが平沢の家で体験した苦しみはバグが出ない程度に押し留めて。アスカの仕事はデジタル世界にある。現実世界のあの子はニートで良いのよ』

『とか言いつつ、明日風には内緒でやってほしいんだろ?』

『あ? なに? 文句?』

『お前は教師か。あのな、せめて本人に伝えた上で処置をすれば、バグが出る可能性はグッと下がるんだよ。記憶と感情にズレがあっても、あぁ私は心の苦しみを和らげる処置をしたんだなって理解できるから。でも内緒でやっちまうと、脳みそが答えを見つけられなくてバグが起きる。明日風のやつ、もしかしたら哲学者になっちまうかもしれねーぞ』

『だからって、アスカがこれ以上苦しむ姿は見てられないわ』

『……親ばかだよな。お前って』

『そんなことない』

『なんて言うと思ったか?』

『なに?』

『お前、やべーくらいのエゴイストだよ。まぁ嫌いじゃねーけどな。人間そんなもんだ』


 二千六十二年、夏。

ペンラムウェンに入って、凛音の駒となってからそれなりに長い時間が流れた。誰かの駒になるなんて癪だけど構わない。あの人が明らかに何かを隠して計画を進めてる事は分かってるけど、だからって私はぷいっとそっぽを向くつもりもない。

 凛音は、私を主役に据えた物語でデジタル世界を潰そうとしている。ただその一点だけは信じているし、そこに裏切りはないと確信できる。それで十分だ。私は胸に抱いた憎悪を永遠に握っていられるならそれで良い。逆に何もかも忘れてへらへら笑うくらいなら死んだ方がマシだ。不器用で損な人間だと思われるだろうけど、そもそも器用で得する人間を良しとする日本の風潮自体が間違ってるんだ。誰が気にするもんか。

 不器用だろうが何だろうが構わない。私は楽をするために生きてる訳じゃない。この私の気持ちを理解できない人間はただの精神障害者だ。早く死ね。

 なーんて熱い気持ちをメラメラ燃やした所で、現実は退屈で表面上はとてつもなく平和だし、デジタル世界が始まるその日まで特にやる事なんか無いんだけどね。凛音が裏で私たちに隠れてコソコソもぞもぞ何してるのか知らないけど、どうやら現実世界において私に出番なんて無いらしい。

 要するに、私は暇だった。頑張るぞと意気込んではいるけど、世界はいつだって間抜けに平和だった。

 私はコロポックル・コタンのリビングで、今日も何をするでもなく、大昔に流行ったアニメキャラクターのぬいぐるみ、にゃん太郎セカンドエディションを抱きしめながら、ぼんやり天井を見つめている。不毛だ。

「あ、アスカだ~やっほほ~い」

「うおっ」

 いきなりガチャンとドアが開いたかと思ったら、エルが陽気な声を出しながら入ってきた。

「何ぼーっとしてるの?」

「ちょっとね」

「ほよー?」

 エルは可愛さ満点に首をかしげた。ペンラムウェンに入ってエルと知り合ったばかりの頃は、この強烈ぶりっ子人間には心底驚いたもんだけど、今じゃもう慣れた。

「浮かない顔してるように見えるでござるよ」

「そんなことないでござるよ」

「むむっ。やっぱり元気ないよ。エルるんの踊りでも見て元気出す? パリラぱーりら! パリラぱーりら!」

 なんかツインテールを握ってぶんぶん振りながら踊り始めた。真木柱とかヤマトもそうだけど、凛音にはロクな友達がいない。

「パリラぱーりらはっふっほっふぁあ!」

「あの」

「はっふっほっふぁあ!」

 くるんと回転してビシッと決めポーズ。こんな変人と何年も一緒に過ごしてるなんて、凛音とヤマトと望海のメンタルの強さはハンパじゃないんだろうな。

「エルはいつも元気だね」

「エルるん」

「るんるん」

「エルるんって呼んで」

「エルで良いじゃん」

 エルはぷぅっと頬を膨らませた。適度にぷりぷりしないと気が済まないのか。

「私の方がアスカよりもお姉さんなんだよ! だからアスカは私の言うこと聞くの!」

 出た。エルはいつも凛音にベタベタ甘えてるクセに、私の前ではやたらとお姉さんぶる。お姉さんぶりかたがちょっとおかしいけど。

「たった一つしか違わないじゃん」

「たった一つでもお姉さんはお姉さんなの! エルるんって呼んで! 呼んで呼んで!」

「分かったよエルるん」

「だはーそれで良い! で、なんで元気ないの?」

「元気ないっていうか……暇してた」

「なるほどー」

 エルは私の横にちょこんと座った。なんで四人用のソファなのにくっついて座るんだ……と思ったけど、エルのミルクのような甘い匂いに気がついて悪くはないなと思い直した。

「そんなアスカにはこれだ! じゃんじゃじゃーん! はい、にゃん太郎のプラモデル」

「プラモ?」

 エルが唐突にポケットから取り出したのは、プラモで作られた小さなにゃん太郎だった。

「人工知能に作らせたの?」

「金型はね。実際の組み立ては私がやった。フィギュアと違ってね、プラモは可動領域が自由自在なんだよ。触ってみな」

 差し出されたにゃん太郎を手に取ると、エルはぐいっと頭を近づけてきた。近づけすぎて、頭と頭がこつんと触れる。

 とりあえずかちゃかちゃいじってみると、なるほど確かに全身が自由に動く。

「これなら色んなポーズに出来るね」

「でしょ?」

 二人で頭を突き合わせながらにゃん太郎を動かし、あらゆるポーズを取らせて遊ぶ。面白い。これまではフィギュアばかり集めてたけど、プラモにハマってみるのも良いかもしれない。

 でも。

 こういう事じゃないんだよね。

「むむーん? まだ浮かない顔だね」

「んー……」

 エルがしゅんとした顔になる。いけない。せっかく私のためににゃん太郎を作ってくれたのに、これじゃさすがに失礼だよ。

「ありがとう、エル」

「だはっ。でもこういう事じゃなかったのかな」

 意外と鋭い。

「いや、えっと」

 エルは頭を離すと、足をぶらぶらさせながら言った。

「新しいこと始めてみれば?」

「新しいこと?」

「うん。たとえば何かしらのスキルを磨いてみるとか」

「こんな時に?」

「こんな時だからだよ。このまま何も成し得ないまま架空の世界にダイビングフォーエバーしても良いの?」

「意味ねぇだろ」

 ビクン! と体ごと飛び跳ねそうになった。開けっ放しのドアの向こうにユリが立っていて、ダルそうにこっちを見つめている。

 今でも、ユリの顔を見てるとあの日の憎悪が燃え上がってくる。

 お姉ちゃんはもう居ない。

 ぐちゃぐちゃに散った脳みそ。

 大丈夫。どれだけ日常が平和だろうがコミカルだろうが、それは偽り。ただ、今は私の真実が休んでいるだけ。

 私は、来たるべき日まで安らかな演技を続ける。意味も無くライターの火を付けたり消したりしていたら、肝心な時にオイルが切れてしまう。

「むっ。なにがどう意味無いの?」

 ユリは大きな円形のテーブルによっこらせと座ると、ハイライトに火を付けてぷっはぁと煙を吐いた。やっぱりこんなのお姉ちゃんじゃない。

「この時代では全てに意味が無いんだよ。自分で頑張らなくても人工知能に頼めば何でも作ってくれるし、ナノボットとかパワードスーツの力を借りれば誰でもスーパーマンになれるんだもん。新しいこと始めて? 己のスキルを磨いたところで? すぐに虚しくなって飽きるだけだよ。世界で一番おいしいラーメンを作れる料理ロボットが家にあるのに、わざわざラーメン修行をする奴がいると思う?」

 否定はしない。こんな世界でわざわざ自分のスキルを磨こうとか、創作活動や運動に精を出そうとか、努力して自分を限界まで追い込んでみようとか思えない。何も成し得ないままあっちの世界に飛んじゃっても良いのかと言われても、そもそも何かを成し得る余地がこの世には無いんだ。

「まぁそうだよね。暇だから新しい何かを始めるっていう理屈は分かるけど、自分を磨くってのはピンとこないかな」

「ぶーぶー。卑屈な考え方だなぁ。私が言いたいのは自分と戦え、自分の限界に挑戦してみろってこと。ただその事だけに意味があるの」

 私とユリは顔を見合わせた。いまいちエルの言ってる事が分からない。

 どんな時代であっても自分を磨く意義はあるのかもしれないけど、どうあがいてもやるせなさがつきまとうし、やっぱり自発的な努力は不合理だと感じてしまう。

だって自分を磨く意義が失われてないとしても、磨いた自分を躍動させられる場所も価値も無いのだから。

私ね、すっごく面白い小説を書いたんだよ! みんな読んで! え? どうして読まなきゃダメなの? アスカが書いた小説より面白い小説はいっぱいあるし、僕の好みにドンピシャな小説は人工知能があっというまに作ってくれるんだよ? みたいな感じでね。自分を磨くっていう行為は、それなりの見返りが無いと意味が無い。

「全然分かんね」

 ユリはハイライトを灰皿でもみ消して、バカにするように笑った。

「どうせ頑張って自分の限界に挑戦したって、ただの自己満足で終わるじゃん」

「自己満足で良いんだよ。他人とか人工知能より優れた人間になるんじゃなくて、自分のステータスを百にする事に生きる意味があるんだから」

「はぁ? その理屈おかしくね? じゃあ元々めっちゃバカな奴とかブサイクな奴はどうすんの? 努力して自分を磨いてステータスを百にしたところで、世界の水準よりも遥かに下だったら意味ないじゃん」

「あるんだってば」

「いやねーよ。なんかローゼンってさ、令和時代の婆さんみたいな思考回路だよね」

「ほ、ほ……ほぎょー! ば、ばばば婆さん!? このエルるんが!? てめぇぶっ殺すぞペンラムウェンの居候がぁ!!」

「うっせーな! 凛音がいつでもここに居てもいいのよ、うふ、とか言ってたから何も問題ねーんだよ! こっちは家主公認で住んでるんだぞ!」

「りんりんはうふ、とか言わないですー!」

「なぁ、つーかお前って本当に十五歳? 本当は令和生まれのババアなんじゃねーの? なぁ婆さん、令和の古い常識とか考え方押し付けんのやめてくれる?」

「おうてめー死ぬ覚悟は出来てるか?」

「へぇ? 明日風百合の想いをここで殺すんだ?」

「……」

 ユリは、ニヤリと嫌味ったらしい笑みを浮かべていた。

 エルは、背筋が凍るような冷徹な目でユリを睨みつけていた。

 百合ヶ原百合。私はコイツを好きになれない。

 エルヴィラ・ローゼンフェルド。どうしてこの人はこんなに素っ頓狂な人なのに、皆に好かれているのかなんとなく分かる気がした。

 ただ。

 私は。

 ユリを好きになれれば、楽だろうなって思った。

 だって、お姉ちゃんは死んじゃったのだから。


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稲穂南海香『お祭り行く?』

あすか『行くよ!』

稲穂南海香『おっけー。じゃあ明日』

あすか『うん。明日ね~』

稲穂南海香『ちゃんと楽しむんだよ』

あすか『ん? えーと……。なんか引っかかる言い方なんだけど』

稲穂南海香『だってほら、どうせデジタル世界が始まったら、現実世界の記憶は無くなっちゃうでしょ。だからこそ楽しんで思い出作らなきゃってこと』

あすか『記憶が無くなるなら思い出とか意味無くない?』

稲穂南海香『まぁ……真希ちゃんがそう思うんなら、それで良いかもだけど』

あすか『何が言いたいのー?』

稲穂南海香『確かにデジタル世界じゃ現実世界の記憶は継続されないよ。でもね真希ちゃん、魂はそのままなんだよ』

稲穂南海香『記憶は奪われるけど、魂は奪われない。って事は、現実世界の魂がデジタル世界の自分を形作るって事になるんじゃないかな』

稲穂南海香『だから、今のうちに現実世界で楽しい思い出作った方が良いんだよ。素敵な思い出は豊かな魂を作る。豊かな魂は架空世界で素敵な真希ちゃんを生成する。真希ちゃんはロクでもないニュー明日風真希になりたいの?』


記入者:明日風真希

日付:二千百六十一年

 

エルがどうであれ、南海香がどうであれ、世界がどうであれ、私の結末がどんなものでも、二人の言葉に濁りはないだろう。ただ、この宇宙は無色透明を認めない。透明の駒じゃオセロは成り立たない。必ず黒と白どちらかで決着が付くものなんだ。

 ところで、オセロで勝った先には何があるんだろうか。オセロで負けた奴は何者なんだろうか。多分、何者でもない。


 綿あめを頬張りながら、自分に問う。

私がどれだけ憎悪という名の薪を燃やした所で、デジタル世界の明日風真希は何も知らないただのぱっぱらぱーだ。

 私は自信を持って全てを明日風真希に託せるか? 答えはノーだ。南海香の理屈は間違ってはいないのかもしれないけど、あくまでも大事なのは憎悪という記憶であり、記憶と魂はリンクしない。……記憶と魂の違いってなんだ?

 頭の中がぐちゃぐちゃになってきた。深く考えすぎか? というか、何も私一人で全てを背負うつもりで身構える必要はない。それはそれとして、もう少し気楽に構えていた方が良いかな。変に気負いすぎると、それこそ魂の形成に問題が生じてしまう。心は確実に魂とリンクするだろうから。

 うん、そうだ。やっぱり重く考えないようにしよう。凛音みたいにデジタル世界をぶっ潰すべく暗躍してる人間は世界中に居るだろうし、綾瀬望海も大和谷駆も駒の一人なんだから、私が世界の主役になると決めつける理由は無い。

 特に望海なんか、うまく転べば相当な切り札になるだろうし。

「望海はペンラムウェンの事どう思ってるの?」

 望海たちがペンラムウェンに入ってしばらく経ったある日、大昔から札幌にあるというイム・コタンというバーで、何気なく望海に聞いた事がある。望海はガイノイドが持ってきたカクテルを受け取り、強い眼差しで答えた。

「希望だと思ってる」

「希望?」

 出会ったばかりの望海は無機質な人形みたいで心ここにあらずって感じだったけど、時間が経過し立ち直った望海の言葉は歯切れが良く、全身から放たれる空気には活力が満ちていた。その声に、眼差しに、私の心は憧れを抱く。

「私はお父さんにレイプされた。この憎悪を絶対に忘れたくない。だから現実世界の記憶をぜんぶ忘れてデジタル世界で暮らすなんてこと、何があっても受け入れられない。ペンラムウェンはこの私の願いを叶えてくれる。間違いなく希望なんだよ。アスカだってそうなんじゃないの?」

「うん。私も憎悪は絶対に忘れたくないし、デジタル世界なんか行きたくないよ。望海と同じ。だからってペンラムウェンが希望だなんて考えもしなかったけど」

「そう?」

 私が小さく頷くと、望海は優しく頭を撫でてくれた。凛音や可奈ちゃんみたいにうまい撫で方ではないけど、それもまた悪くはない。

「希望じゃん。私らの願いと凛音の目的は一致してるしね」

「ん。でもさ、凛音は私たちをただの駒として見てるんだよ。凛音にとっての私たちはデジタル世界をちゅどーんってぶっ壊す道具なんだよ。自分たちを利用しようとしてる人を希望だなんて言っていいの? 私はやだな」

「どうでも良くない?」

「どーして?」

「凛音が私らを駒だと思ってようが、生ゴミだと思ってようがどうでもいい。他人にどう思われるかなんてそんなに重要かな? むしろ私は凛音を利用するぐらいの気持ちで生きてるよ」

「おぉ」

「まぁデジタル世界の私は何も知らない訳だから、何を考えても無駄だけどね。だから私にとっての本当の希望は、デジタル世界の綾瀬望海なのかな。で、その希望の大本は凛音にあると」

 あぁ。この人は根本的に私とは違う生き物なんだなって思った。

 私は赤の他人の明日風真希を希望だなんて思えない。凛音のことも希望だなんて思いたくない。私は周りに見えるモノ、外にあるモノ全てを信用していない。この世で唯一信用できるものがあるとしたら、それは自分の意思だけだから。信用の無いモノに希望を見るなんて夢の中で生きる事と同義で、私は夢に輝きを見出す気は無い。

 だから私は葛藤してしまう。強い自分が消えちゃうから。

 それに比べて望海に迷いはない。そこに弱さがある。葛藤する気すら無いんだからね。

 凛音は望海を飛車角ではなくせいぜい桂馬だと思っているらしいけど、なんとなく分かる気がする。望海は強く見えるけど、結局は他力本願なんだ。そりゃ私だって他人の力だけでどうにかなるならそれで良いけど、さすがに希望を他者にぶん投げる気にはなれない。

ただ望海は決して間違ってはいない。むしろ間違ってるのは私と凛音の方だ。

 ある意味、望海は賢い。人生における断捨離を的確にこなし、ノーリスクでベストを尽くす。あくまでもリスクや手間は背負わない。

 素敵な凡人だ。しかし、凡人は世界の中でうまく生きる事に長けてはいても、世界を作り上げる行為には不向きだろう。

「望海はもうひとりの望海に託すんだね」

 嫌味のつもりだったのか、自分でも良く分からない。ただ望海は頬に手を添えながら色っぽく笑った。

「アスカだって、もうひとりのアスカに託してるでしょ」

 私は望海の真似をして、頬に手を添えてなるべく色っぽくなるように笑った。

「私がたくしてってるる……」

「……」

「……」

「私が、託してる、のは、私自身だよ」

 ちゃんと言えた。

「私自身……ね」

 私はふと、意地悪がしたくなった。

 なんだろうね。凡人を見てると、凡人らしい「足りない言葉」を引き出したくなるんだ。そして予想通りの言葉を聞いて、あざ笑いたくなる。

「まぁ私は望海にも託してるけどね」

「むー? 他力本願ってこと?」

 思わず笑いそうになった。ある意味人間は面白い。

「いや、そうじゃない。デジタル世界が終わってくれるんなら、終わる理由なんてどうでもいいの。私が引き金でも良いし、望海が引き金でも良い。大事なのはそこじゃないから」

 これは本心だったけど、ズルい表現でもあった。私は望海のポテンシャルには懐疑的だ。

 望海はクスっと笑うと、人差し指で私のほっぺたをぷにぷに突っついた。

「意思の力だけで、世界が動けば良いのにね」

「……ねぇ。あのさ」

「なぁに?」

「えっと」

「なに。聞きにくい質問?」

「うん」

「エッチな話?」

「違うけど」

「私のおっぱいはCカップだよ」

「おぉ~」

「触る?」

「うん」

おっぱいを触れるなら、憎悪とかデジタル世界とかとりあえずどうでも良い。私は望海のおっぱいを遠慮なく両手で揉んでみた。

「おぉ~」

「満足した?」

「ぐおぉ~」

「ちょっと、触り方が本格的にいやらしいよ」

「ぬお~」

「目キラキラしてる」

 ニコニコしている望海を見てハッとした。からかわれている。私はもしかしたら結構バカなのかもしれない。

 私は望海の胸から手を離し、一度咳払いをした。

「あの、ね。望海はさ、怪我を治療した後、SISAに記憶の消去をすすめられたんだよね」

「そうだよ。私もエルもね、担当の人に何度も何度も言われた。消した方が良いって」

「うん」

「その度に言ってやった。私はこの憎悪を忘れたくない。心に染み付いた、言葉に出来ないほどの憎悪を強く抱いて永遠に生きていきますって」

 何度も何度も聞いた質問と、いつもと同じ答え。

 どうしても分からない。なぜここまで強い気持ちを持っているのに、望海は自分の魂を拠り所にしないのか。

 私は記憶を消去する術が無いから、もう割り切って受け入れるしかなかった。それに比べて望海は楽になる道があった。

 分からない。楽な道を選ばなかったのに、架空世界の自分と凛音に期待する意味が理解できない。

「私は……もしもあの時記憶を消す機会があったら、消したかもしれない」

 ふいにそんな事を口走っていた。本心じゃないような気がして自分で驚く。おかしいな、どうして自分の気持ちと矛盾するような事を言っちゃったんだろう。

「ん~」

 望海は人差し指を口にあてながら考え込んだ。その仕草を見てると私はつい見とれてしまう。

「何が言いたいのか分かんないけど……。ねぇアスカ、もう少し自分を信用してみな」

「私を?」

「ん。私を」

「望海のことは信用してるよ」

「アスカってちょいちょいバカだよね。アスカはアスカを信用しろってこと」

「……」

 違う。違うってば。

 そうじゃない。

 私は誰よりも私を信用してる。

「私は私を信用してるよ」

「違うね。アスカは自分のこと、全然信じてないよ」

「え」

「アンタは自分を信じたいだけで、心から信じてはいない。じゃなかったら、あの時記憶を消したかもーなんて言わないよ。過去の自分を抱きしめられない人間に本当の強さがあるのかな?」

「そ、それとこれは話が別だよ」

「別じゃないよ。アンタは自分を信じるであろう自分を信じてるだけ。第三者からの目線でね」

 分からない。

 ねぇ、今なんの話をしてるの?

 私は望海をバカにしてるんじゃなかったっけ?

 あれ。

 あぁ。

 そうか。

 私はまだ。

 子供なのか。

「アスカ」

「はい」

 望海は流れるような動作で両手を伸ばし、私の顔を優しくふんわり包んだ。両方の頬に望海のひんやりした感触が伝わって気持ち良い。

「よく聞いて」

「うん。聞く」

「もっと自分を信用しな。アンタはいつどんな時だって揺るがないよ。アスカは例え記憶を消す機会があったとしても、絶対に消さなかったはず。もっと強い気持ちを持ち続けなきゃダメ。強い気持ちがデジタル世界のアスカに繋がると信じれば、アスカはデジタル世界のアスカに全てを託す気持ちになれる。そういう気持ちになれれば、向こうの世界のアスカも強い人間になるはず。アスカが抱く気持ちは巡り巡って自分に返ってくるんだよ」

 槍がズキューンと頭に突き刺さって、そのまま後ろに倒れてしまいそうな感覚に陥った。

 ダメだなぁ。

 世界はきっと。

 もっともっと、果てしないんだろうなぁ。

 私は心の中で白旗をあげて、投げやりにセブンスターを何口か吸った。

「あの……ね」

「なぁに?」

「怖くなるんだ。平沢をボコボコにした時、私はめちゃくちゃ怒ってたの。でも長い時間が経ってさ、あの時の怒りがちょっと和らいじゃってるの。もちろん今も私は自分の憎悪を信じてる。でも……」

「それは人間の生理現象みたいなもんだからしょうがない。だって人は怒りとか憎しみを忘れないと生きていけない生き物なんだもん」

「……うん」

「不毛な事を考えて自分を疑うのはやめな」

 自分でも分からないけど、その言葉で従順になりかけていた心に火が付いた。

 うんそうだね、望海は正しいねと頭が理解するのと同時に、心が「うるせぇこの野郎」と叫び散らす。

 頭の中にある理屈と心がリンクしない。

 おかしい。お酒で酔ったような気分だ。

 ここは夢の中?

 なんの話してるんだっけ?

 ただ私は機械的に言葉を返す。

「私は、自分を信用できてない」

 心に無い言葉。この支離滅裂な会話の中で、一体どちらが正常なんだ?

 いや、これが普通なのか?

 人間はいつだって、めちゃくちゃな会話を合理的な理屈の上に落ち着かせようとする。本心も論理もクソも無い。

 私の混乱をよそに、望海は私をじっと見据えて力強く言う。

「アスカ。最後の最後で信用できるのは自分だけなんだよ。他人は自分を裏切る。例え何十年連れ添ったパートナーだって、自分を裏切る可能性はゼロじゃない。でも自分だけは死ぬその時まで絶対に自分を裏切らない。だから自分を信じる強い気持ちを持たなきゃダメ。自分すら信用出来なくなったらもう終わりだから」

「私は……」

「現実世界の自分を信じてる事が正しいと思ってるでしょ。違うよ。デジタル世界の自分を信じる事こそ正しくて、それが自分自身を信じる事につながるんだよ」

「でも、希望は凛音次第なんでしょ」

「それはしょうがない。その上で、私はデジタル世界の綾瀬望海を信じてる」

 やっぱり、意味が分からなかった。

 望海の言葉は、意思は、ちゃんと一本の線でつながってるの?

 理解が追いつかない。ただ、これだけは言える。

 やっぱり望海は凡人だ。

 ふと、凛音に言われた言葉を思い出す。

『アスカ。あのね、世界を突き動かすのは善意とか絆なんかじゃないの。自分の人生を力強いものにするのは、希望なんかじゃないの。大切なのは憎悪なの。人を憎む気持ちは人間が持つ最強の刃なの。これを覚えておいて。自分も、世界も、憎悪で回るものだから』

 私は今もしっかり人を憎んでいる。凛音の教えの通り、この憎悪を武器に私は強く生きている。

 ねぇ凛音、望海。

 私の武器は、本当に、ちゃんと受け継がれるの?

「デジタル世界に記憶は反映されないけど、人格は反映される……」

 私が突拍子もなく呟くと、望海は意表をつかれたように目をパチクリさせたけど、すぐに柔らかく微笑んだ。

「そう。だからデジタル世界に旅立つまでに、憎悪をどんどん燃やしておきな。アンタの憎悪は、絶対にもう一人のアスカが引き継いでくれるから」

「本当に?」

「本当にだよ」

「にゃん太郎に誓って?」

「にゃん太郎には誓えない」

 私はセブンスターを灰皿でもみ消して、天井を見上げた。

 私は憎悪を抱き続ける。ただそれだけの事が未来を形作る。だから、揺るいじゃいけない。自分の憎悪を信じ切ったまま眠りにつき、デジタル世界の私に全てを託す。

 あぁ、そうか。

 もう一度、頑張らなきゃいけないのか。人生を。

「デジタル世界は私が終わらせる。だから望海は別に頑張らなくて良いよ」

「その意気。まぁ私も負けないけどね」

「えっ。勝負だったの?」

「世の中に中指突き立ててるのは、アンタだけじゃないってこと」

「わぁ」

「だからね、アスカ」

「はい」

「一人で気張る必要はないんだよ。この会話は全てそこに繋がるのですっ」

 望海は儚い笑みを浮かべて、ブリキで出来たドワーフの人形を手で弄び始めた。その時の様子が何故か私の頭にやたらと鮮明にこびりついている。

 あの儚い笑い方が、なんだか凄く大人っぽかったから。


記入者:あすか


 私には、デジタル世界を強く否定するという大仕事が待っている。

 凛音たちは、全てを私に賭けている。

 責任重大だ。

 当然、怖い。

 だって、凛音たちはどういう物語を用意して、私をどんな目に合わせるつもりなのか教えてくれないから。

 だから、私は望海が好きだ。

 あの人だけは、こっちに居るのだから。


ぱくりっ。もふっ。綿あめを頬張り、口の中に広がる甘味を感じて唐突に切なくなる。二十五時を過ぎる頃には、イム・コタンでの会話がより染み渡るのか、あるいは。

「みんなと馴染んだみたいで良かったわ」

 隣に座っている凛音の声で我に返る。私は綿あめを左右に振り振りしながら、冷静に返事をする。

「自分の駒がどうしてようが、凛音はどうでも良いんじゃないの?」

「……」

 地雷踏んだかな? 凛音はすっごく辛そうな顔で黙ってしまった。

「ごめん。本気じゃないよ」

「ん」

「ありがとね」

「……なにが?」

「ペンラムウェンに誘ってくれて」

「お世辞なんていいのよ」

「いや。マジで言ってるよ。みんなのおかげで毎日楽しいし」

 私はこれまで家族と一緒に暮らしてたけど、ハッキリ言って家族と暮らすのは退屈だし気持ち悪いと感じていた。でもペンラムウェンに入って凛音の家で暮らすようになってから、人生は遥かに面白くなった。凛音、望海、エル、ヤマト、夏希ちゃんに莉乃さんに在原。そしてペンラムウェンのメンバーではないけど可奈ちゃんも。面白い人達ばかりで毎日飽きない。というか、可愛い女の子たちと暮らせてるんだから不満なんかあろうはずがない。

「本当に楽しいと思ってる?」

「うん。特にお風呂の時」

「お風呂?」

「色んな女の子の裸見られるし、凛音のおっぱい揉み放題なんだもん」

「あら」

「今度エッチしようよ」

「いきなりぶっ込んできたわね」

「ペンラムウェンは楽しいよ」

「でしょうね」

「うん。私みんなのことが大好き。だから望海とエルが元気で居てくれて嬉しい」

「アンタの会話は縦横無尽すぎると思うわ」

「昔はずーんって感じだったもん。私もだけど」

「そりゃね。あんな事があってからウチに来たんだし」

「今はすっごく明るいよ」

「そうね。本当に良かった」

 もちろん心が癒えたなんてありえないだろうけど、三人が強く立てているなら純粋に嬉しいと思う。

 大好きな人達にはいつも笑顔でいてもらいたい。たとえその心に泥のような憎悪が込められているとしても。

望海は頼りがいがある新しいお姉ちゃんって感じだし、エルはいつもみんなを笑わせてくれる。ヤマトは性格が終わってるけど意外と気が合う感じもするし、みんなとはデジタル世界に旅立った後も仲良くしたい。

 そして現実世界に帰る事ができたら、皆と一緒に平和に過ごしたい。まぁそのためには兎にも角にも憎悪っていう害悪なものがキーになるんだけど。

「……あの頃のペンラムウェン、ひどかったわよね」

「うん」

 私は思わず吹き出した。

「アスカもエルも望海も死んだ顔でね」

「だね」

 先に立ち直ったのは望海たち。その後に私。

 まぁ立ち直ったというより……。

 限界越えたんだろうけどね。多分、望海たちも。

「……冷めちゃった」

 私は膝の上に置いている冷たい焼きそばを口に放り込んだ。

「先に綿あめなんか食べるからよ」

「失敗」

「まぁ冷たい焼きそばも、それはそれで美味しいけど」

「うん。おいしい」

 私は焼きそばをもぐもぐしながら、さっぽろ夏まつりで賑わう夜の大通公園を改めて見回した。提灯や屋台が並んでいる噴水広場は浮かれた雰囲気で満たされ誰もが楽しそうに笑っている。

 お祭りは大昔から行われている行事だ。この時代でも昔と変わらない光景を見て感じているなんて、なんかすっごく変な気持ちになる。盆踊りなんて特にそうだ。

 さっきからエンドレスで子供盆おどり唄が流れていて、広場の中央に設置された高台では小さな男の子が元気良く太鼓を叩いている。そういえばあの子はヤマトの知り合いだったかな?

 高台の周囲には楽しそうに踊っている子供たちがいて、飽きることなく高台のまわりをぐるぐる周って踊っている。どれだけ時代が変化しても変わらないものが確かにあるという事実を実感すると、まるで昭和や平成を生きた経験があるような錯覚に陥りそうになる。

 それにしても。お祭りはなんでこんなにも幸せで悲しいんだろうか。楽しくて、意味も無く浮かれて、生きてる事そのものが素晴らしく思えて、それと同時に心の隅っこではお祭りが終わった後のことを今から考えちゃって、心が暗くなる。お祭りには人生の全てが集約されてるのかもしれない。大げさかな?

「凄いわよね」

「焼きそばが?」

「単純に、今もこの光景を見られるってことが」

「……ん。そうだね」

 最後の一口を飲み込み、焼きそばの容器をゴミ箱にぽいっと捨てた。お次はりんご飴をペロペロする。

「アンタさっきから食べてばっかりじゃん」

「なんか良く分かんないけど、お祭りの時はなんでも美味しく感じるの」

「それは同感だけど。食べるのもいいけど踊ってくれば? もう子供の部終わるよ」

「凛音は?」

「私は社交ダンスの方が似合うでしょ。……で、アスカは踊らないの?」

「私は人の波に乗るのが苦手なの」

「ま、そうでしょうね」

 楽しそうに盆踊りに興じる子供たちをじーっと眺める。……ダメだ。あそこに乱入して踊る自分の姿なんて想像できない。

「私もあぁいう輪に入って、へらへら笑える人間になれれば少しは人生も面白くなるのかな」

「あら。ペンラムウェンに入ってから、毎日楽しいんじゃなかったっけ?」

「そうだけど。なんていうか……毎日の生活は楽しいけど、人生そのものは退屈だなって」

 凛音はクレープを一口食べ、ゆっくり飲み込んで小さく息を吐いた。

「分かる気がする」

「なんかね、動物園で暮らしてるような気分になるんだよね。この世界は」

 凛音は「ははっ」と背中を反らしてけらけら笑った。そのオーバーな笑い方は可奈ちゃんに似ているなと思った。

「やっぱ、私アンタのこと好きだわ」

 凛音はビールをぐびっと呷った。この人がお酒を飲んでいる姿はあんまり見かけないけど、実はかなりの酒豪だったりするんだよね。

「ねぇりんりん」

「なーにー?」

「望海とエル、あんなに早く回復すると思ってた?」

「あ、その話に戻るのね……。まぁヤマト君が頑張ったおかげじゃないかしらね。四六時中ひたすら望海とエルにジョーク飛ばしまくって、笑わせようと必死だったじゃん」

「ん、そうだね」

 あの頃の望海とエルは朝から晩まで部屋の隅でじっと暗い顔をしているだけで、ご飯もロクに食べようとしなかった。

 ヤマトはそんな二人にひたすら話しかけていた。無理して笑顔を作ってジョークを飛ばし、二人を笑わせようとあがいていた。

 ヤマトのそんな姿は悲痛だった。でも、日に日に望海とエルはヤマトのジョークでちょっとだけ笑うようになった。二人が少しでも笑うとヤマトは心から嬉しそうな顔で笑い、またジョークをぶつけまくった。

 望海とエルの笑顔を見て笑うヤマトの姿は、見ているこっちも笑顔になっちゃいそうなくらい清らかなものだった。ヤマトのジメジメした態度や雰囲気とか、愚痴っぽい性格なんかはフォロー出来ないレベルでうざいしクソだけど、私はあぁやって友達のために頑張ったり、他人の笑顔で笑えるような人間は素敵だなって思う。

「ヤマトは頑張ってた」

「そうね。ヤマト君が頑張ったおかげで二人は元気になったんだし、そこは認めてあげなきゃね」

「それに比べて、私はあんまり二人のためになれなかったな」

「あの時の貴方は、励まされる側だったでしょう。それにアスカの方が後から入ったんだから……」

「そうだけど。でも私はエルのおかげで元気になれたから、なんていうか……。あの時何も出来なかった自分が情けなくて」

「ヤマト君が望海とエルを元気にして、エルがアスカを元気にした。世界がどう巡っても、順番が入れ替わるだけ。気に病む必要はない」

「んー……」

「アスカは頑張りたかったの?」

「そうかも」

「アスカだって頑張ったでしょ?」

「たとえば?」

「アンタは望海に手を出さなかった」

「おっぱいは触ったけど」

「あら」

「凛音には手出して良いの?」

「デジタル世界を潰してくれたら、相手してあげても良いわよ」

「ちょー頑張る」

「レズが世界を救う」

「なんの話だっけ」

「え? えーと。まぁなんか、みんな元気になって良かったねっていう話よ」

「うん。良かった。ヤマトに感謝だね」

「……アンタ、やたらヤマト君を推すわね」

「だって、ヤマトがエルを元気に出来なかったら、多分私も元気じゃなかったよ」

「マジでヤマト君推し推しね」

「りんりんはヤマトが嫌いなの?」

 凛音は一瞬だけ苦々しい顔をしたけど、すぐにニコっと柔らかい笑みを浮かべた。こんな嘘くせぇ笑顔は始めて見た。びっくり。

「嫌いかどうかは分かんないけど、あの人の性格はそれなりに評価してるわ。ヤマト君は頑固で独りよがりな所があるけど、意外と素直で合理的な人なの。自分の悪い所は認めるし、自分が否定した選択が実は成功だったと分かったら、それを受け止める。過去の自分が間違いだったと認めて、相手に頭を下げる事が出来る。意外と自然にそういう事が出来る人って珍しいのよ」

「りんりんはヤマトが好きなんだ」

「いやそれはない。人間としてどうかはともかく、恋愛感情はありえない。ヤマト君は生理的に無理」

「うわぁ」

「だってさ、そりゃ自分の悪い所を認められるのは良い事だけど、あんな自意識過剰で被害妄想ハンパなくて、ネチネチくどくどした男とかマジで無理でしょ」

 なんだかんだ言って仲間意識の強い凛音が、ここまで仲間をストレートに批判するのは珍しい。こりゃ相当ヤマトのこと嫌いだな。

「アスカはどうなの」

 凛音はツヤツヤサラサラの髪の毛をふぁさっとかきあげ、長い足を組み、右手に持った缶ビールを左右に振りながら聞いてきた。どことなく古臭い仕草だ。

「私は女の子が好きなんだもん」

「男は絶対にダメ?」

「イケなくもないけど」

「おっ。イケるんじゃん。ヤマト君はストライク?」

「えーやだ余裕でフォアボールだよ。ヤマトって確かに悪い人じゃないかもだけど根暗すぎる。友達としては良いけど、恋人とかマジ勘弁」

 望海とエルを元気づけて復活させた功績には敬礼するけど、それと恋愛は全くの別問題だよね。

「分かる。意外と友達としてなら付き合えるけど、恋人は論外よね。ネチネチ理屈っぽくてイラつくし、女の子に対する気遣いゼロだし、根本的に一から百まで面倒くさいし、恋人にするメリットなんか一つもない」

「うん……。なんか聞こえる」

盆踊りの輪の中に、なんかめっちゃ奇妙な踊りをしている二人組みが視界に入り込んできた。どこからどう見てもエルと莉乃さんだった。

「あらよっ!」

「どっこいしょ!」

「ほいさ!」

「よいさ!」

「ほいほいさ!」

「よいしょ!」

 本当に凛音はロクな友達がいない。エルと莉乃さんはテンション高く、訳の分からない掛け声と共に全身をクネクネさせたり、飛んだり跳ねたりしながら踊っている。どこからどう見ても盆踊りではない。なんだあれは。イソギンチャクのマネか?

 それはともかくこれはちょっと困った事になるかもしれない。というのも、ペンラムウェンは変人たちが集まったヒッピー組織として札幌ではちょっと有名だったりするんだよね。ただでさえやべぇ奴らだっていう評判があるのに、こんな大勢の前であんな変な踊りを披露されたらなおさら奇異な目で見られちゃう。

「は!」

「ふ!」

「ほ!」

「ふんぬどぅあ!」

「りんりんってさ、変な友達しか居ないよね。もうちょっと友達は選んだ方が良いよ」

「あいつらの頭に隕石とか落ちねぇかなぁ……」

 凛音は頭を垂れながらぼやいた。苦労が多そうな人だよね、ほんと。

「せい!」

「は!」

「ほ!」

「やぁ!」

 周りの大人たちが、全身をクネらせながら踊っているエルを指さして笑っている。この人が悲劇を乗り越えて元気になったのは、ペンラムウェンにとって痛手だったかもしれない。

「ほいさ!」

「あいよ!」

「ほいほいさ!」

「あいあいよ!」

「エル! キレが悪いわよ!」

「頑張る! ほいさっさ!」

「頑張って!」

「あ、アスカ! りんりん! 一緒に踊る?」

「やだ」

「遠慮する」

「恥ずかしがらないで!」

「恥ずかしがるわよ」

「私も無理」

「二人ともノリ悪いわねぇ。せいや!」

「はいさ!」

「りんりん! 本当に踊らなくて良いの?」

「りんりん恥はかきたくないの」

「そうですか!」

「そうよ」

「ちょいや!」

「ふぉいや!」

「あーほいさ!」

「じゃあ後でね!」

 エルはくるりんとその場で三回ほど綺麗に回転すると、ビシッとピースサインを決めた。そしてまた莉乃さんと一緒に謎の掛け声を発しながら遠ざかっていく。毎日退屈すぎておかしくなってしまったんだろうか。

 二人の姿が人波の中に消え、駆け回っていた子供が目の前でヨーヨーを落とし、慌てて拾う。そんな様子をじーっと見ていた凛音が、いつも以上に大人びたような顔で小さく笑った。

「夢が現実になれば、現実を夢として見られるようになる」

「なに、突然」

「なんでもない」

 いきなり何を言い出すんだろう? 夢が現実? 現実が夢に……。

 あぁ。そっか。

 目の前にある平和な盆踊りの光景は、もう少しで夢になる。

「……別に、悲観する必要なんか無いし、別にエルはヤケになってる訳でもないと思う」

「ん。そうね」

「あれ?」

「なに? どうしたの?」

「南海香だ」

「南海香?」

 私は盆踊りの輪の中で、ひときわ楽しそうに踊っている女の子を指さした。

「あの子。稲穂南海香」

「稲穂って……」

 凛音はまじまじと南海香を見つめた。その目はいつにも増して険しい。

「稲穂……あれがあいつの……」

「……知り合いなの?」

 私が質問をぶつけても、凛音はぶつぶつ独り言を呟くだけで何も答えてくれない。

「ねぇってば。知り合いなの?」

「…………いや、知らない子だわ」

「ふーん?」

「アスカとあの子はどういう関係なの」

「えーとね。なんか元々在原と夏希ちゃんのお友達だったんだけどね」

「マジ?」

 凛音は目を見開いて素っ頓狂な声をあげた。心底驚く凛音は結構レアだ。

「うん。で、この前喫茶店に行ったらね、在原と夏希ちゃんと南海香がいたの。その時二人が南海香を紹介してくれて、お友達になったんだ」

「あぁ……。そういえば言ってたかも。最近知り合いが出来たとか……。どんな子なの?」

「うーんとね、なんか凄く明るい子。しかも不老不死でね、新しいナノボット使ってるとかで、肌がすっごくピチピチだった。普通のナノボットよりも健康の促進力が凄いらしいよ」

「不老不死か……」

 凛音はセブンスターを一本取り出したけど、なかなか吸おうとせずタバコを指で弄びながら呟いた。

「日本じゃ珍しいよね。不老不死なんて」

「お父さんがSISAの人なんだって」

「……」

 凛音は渋い顔をした。まぁ当たり前の反応かな。SISAは敵なんだから。

「そんなにガン飛ばさないでよ。南海香は良い子だよ」

「ふーん……」

「なんか不満そうだね」

「そんなことないわよ」

「そんなことあると思うわよ」

「口調真似しなくていいのよ」

「分かったわよ」

「分かってないと思うわよ」

「南海香は優しいし、明るい人だよ」

「いけすかないわ」

「いけすかない……?」

「真希ちゃーん!」

 私に気づいた南海香が、大きな声で私を呼んで手を振ってきた。私は笑顔を作って手を振り返す。

「やっほ~」

「後でねー」

「うん。後でー」

「……」

「凛音?」

 凛音は不快感丸出しの顔で南海香を見ていた。どうも凛音さんは南海香が気に食わないご様子。凛音は人の好き嫌いが激しすぎる。

「ねぇりんりん」

「なに?」

「私さ、あっちの世界でも南海香と友達になりたいな。良い人だからさ」

 凛音は風でなびく髪の毛をかきあげ、凍てつくような尖った目を南海香に向けながら、静かに吐き捨てるように言った。

「……いけすかないわねぇ」


・相聞歌凛音


 アスカは稲穂南海香に呼ばれて屋台巡りに行ってしまった。楽しそうに駆けていくアスカの後ろ姿を見ていると、つくづくあの子を駒として扱っている自分に嫌気がさしてくる。

 まぁ、だからってアスカを解き放つ気はサラサラ無いんだけどね。私はデジタル世界を潰せるなら、あの子がどうなっても良いと思っている。

 笑えるほど、呆れるほどに最低な人間だ。私は。

 でも世の中は最低な人間こそ輝く。最低な人間こそ幸せになれる。善き魔女になる理由はない。

 安い賃金で買い叩かれる労働者に成り下がるのか、安い賃金で労働者を雇い売り上げの大半を独り占めする社長になるのか。私の答えはもちろん後者だ。世界は後者が笑えるように作られている。誰にも文句は言わせない。私は道徳ではなく合理性を基準にして歩き続ける。

「おいおい。お祭りだってのになんだよその辛気くせぇ顔は」

「可奈子」

「やっほい」

 祭り会場の屋台が並んでいるエリアからふらっと佐伯可奈子が現れた。右手にはソーダフロートを持っている。どうやら一人でお祭りを堪能していたらしい。

「はーどっこいしょー!」

 可奈子はベンチに座るなり、私の肩に手をまわしてバシバシ叩いてきた。

「なんかあったの?」

「逆に聞きたいんだけど、アンタ一回自殺したクセに良くもまぁへらへら笑って過ごせるわよね」

「私は何事も顔には出さねぇ主義なんだよ。で、なんでお前は暗い顔してんの?」

「私は心に傷を負ったいたいけな少女を駒にして、SISAの計画をぶっ潰そうとしてる女なのよ。そりゃいつだって隙あらば暗い顔するわよ」

「お前の暗い顔はな、冷たすぎて怖いんだよ」

「悪かったわね」

 可奈子は何が面白いのかげらげら笑い、白くて細い足を偉そうに組み、私の肩に手をまわしたままセブンスターを吸い始めた。この時代はどれだけタバコを吸っても病気にはならないし、なったとしても簡単に治せる。電子タバコから解放された反動のせいか、こいつはいつでもチェーンスモーキングをかましている。

「ねぇ。手離してくれない?」

「お? なに照れてんの?」

「いや。単純に密着されてうざいだけ」

「やっぱ照れてるんじゃん」

「アンタの脳みそどうなってんの?」

 可奈子はまたけらけら笑って大量の煙を吐き出した。

「……ねぇ。アンタって自殺したんだよね?」

「ん。そだよ」

「なんか信じられないわ。アンタみたいな人が自殺するなんて」

「まぁ色々あるんだよ」

「この世界じゃ結構楽しそうにしてるみたいじゃない」

「まぁね。友達も沢山出来たよ」

 とか言う可奈子の表情はあどけない少女のように見えた。可奈子はいつも明るくて必要以上にフレンドリーで人懐っこくて子供っぽい所があり、精神的にも肉体的にも人との距離が近い所もある。

「いやー私ってコミュ力の塊っていうか? 何も考えず脊髄反射で喋ってるだけでさー、いつのまにか誰とでも友達になれちゃうんだよねーあははっ。お、あの子の浴衣可愛いな~九十四点! ははは!」

 可奈子は笑いながら私の頭をくしゃくしゃ撫でてきた。この私の頭を気安く撫でる奴はコイツが始めてだ。

「もちろん凛音は友達の中でも特別な存在だけどな~」

「……ありがとう」

 勢いに押されて、私は完全に可奈子のペースに飲まれてしまう。コイツは今も昔も、こういう無邪気な振る舞いで人間関係をゴリゴリ押し通すごっつぁん人生でやり通して来たんだろうな。本人に自覚なんて一切無いんだろうけど。

 闇の中でざわめくお祭り会場。提灯。屋台から醸し出される様々な食べ物の匂い。人々の楽しそうな笑い声や話し声。そしてうだるような熱気。

 夏だった。平和な夏。こんなに素敵な日々を過去にする必要がどこにあるのだろう?

「いやーにしてもさぁ、相変わらずでっけぇ祭りだよな~。あしりべつみたいなお祭りも好きだけど」

「そうね」

「つーかお前一人?」

「いや。さっきまでアスカと一緒だったんだけどね。友達とどっか行っちゃった」

「ははっ。んで一人取り残されたってか。お祭りでいっちばん悲しいパターンじゃん」

「うっさいわね……」

「ジッタリン・ジンの歌が聞こえてきそう」

「あのねぇ……」

「他の連中は?」

「エルとマキ部長はそこでアホみたいに踊ってる。夏希と蓮君は多分ひと気のない所でイチャイチャしてる。ヤマト君と望海は……一緒に屋台まわってるんじゃないかしら。その内アスカと合流するとか言ってたけど」

「そっか」

「ていうか、バカナコだって一人じゃん」

「ん? 今は凛音が居るじゃん。さぁアイスお食べ」

「遠慮する」

「遠慮すんなって」

 可奈子はソーダの中に浮いているアイスをスプーンですくうと、ニヤニヤしながら私の口元に伸ばしてきた。

「ほれ。あーん」

「だから良いってば」

「ほらりんりんアイスだよ。あ~ん」

 こうなるとコイツはしつこい。私はおとなしく口を開けてスプーンをぱくんと咥え、アイスを飲み込んだ。

「おいしい?」

「……うん」

 可奈子は無邪気に笑うと、いそいそと溶けかけているアイスをせっせと口に放り込み始めた。その姿はパッと見二十代前半、下手したら十代後半くらいに見えるけど、コイツはこれでも一応二十八歳だ。なんとなく可奈子が三十歳手前で自殺した理由が分かる気がした。

「ねぇ凛音。移行計画ってさ、あとどれくらいで始まる見込みなの?」

「どこの資料にも具体的な日程は書いてないんだけど、カシワギのシミュレーションが正しければ多分二千六十三年の夏ごろになるかな」

「そっか。じゃあもうすぐだな」

「そうね。……可奈子、信じてるからね。頼むわよマジで」

「おーけーおーけー。私が裏切る訳ないでしょ。そういう事情だし、性格だし」

「頼りにしてる。SISAの計画は必ずぶっ潰しましょう」

「ん。大きなもんに反抗するのは慣れてるからね。任せとけ」

 反抗。まさにそれだ。私はデジタル世界が気に食わなくて、ぎゃあぎゃあ騒いでる反抗期のガキみたいなもの。かと言ってこの世界をユートピアだと思っている訳でもないけどね。むしろクソまみれの失敗世界だと思っている。

 シンギュラリティが到来して衣食住はフリーになり、労働という概念もこの世から消えた。先進国では不老不死の力が簡単に手に入り、病気とは無縁で見た目が老いる事もなくなった。レイ・カーツワイルの言うように、人体は新しいステップへと進化を遂げた。

 食事や洗濯など、生活する上で必要な作業は強いAIが搭載されたロボットやら機械やらが全部やってくれる。人間は何をしなくてもいい。もちろんこんな世界で、わざわざ子供を産もうと思う人間はほぼ皆無だった。人類から「意味」とか「目的」という単語が消えても問題無い。

 エネルギー問題も解消されているし、人類には悩みなど無かった。病気にならない。見た目が老ける事もない。働かなくていい。家事をしなくていい。もう何もやる事はない。考える事柄もない。宗教戦争も起きない。後は地球が滅びるまで、この楽園でただ生き続けるだけだった。

 私は思う。こんな世界で私たち人間は何を語る? いや語るべき事など何もない。

 今の人類は人工知能に飼われた家畜みたいなものだった。人工知能が反乱を起こすなんて事は一切起きてないけど、ある意味現状はそれよりタチが悪い。もし人工知能が反乱を起こしたのなら、人間にはまた新しくやるべき事が出来るから。一致団結して一つの目的に向かって歩んでいけるから。

 でもこの世界において、人類は無だった。幸せすぎて生きる意味とか楽しさとか生きがいとか、全ての感情やら希望やらを失い、道に迷っていた。というか迷う道すらなかった。

 何より、この幸せを幸せだと感じる事すらなくなっていた。

 当たり前のものは幸せだと感じられない。それが人間だ。だから人間は永遠に幸せになれない。ユートピアは見つからない。

 でもバカはこんな空っぽの世界でも抱きしめてしまう。私にはそれが理解できない。逆にお偉いさんたちは肉体からの解放という極端な道を選んでしまった。魂を解放すればそれはもう人間ではない。だから魂だけ残して生きていける世界を求めた。体がある以上留まれる世界は限られる。今以上のユートピアを求めるためには、肉体は邪魔でしかなかった。

不老不死の体を手に入れた人間が次に目指すステップは、肉体からの解放という身も蓋もない究極の進化だった。何千年も生きた結果がそれかよ。デジタル世界で永遠に生きていくってなんだよそれって思うけど、必然なのかもしれない。たとえ地球上の生命体が一度滅びてまた原始時代からリスタートしても、人類は最終的には必ずシンギュラリティに到達し、肉体からの解放を求めるんだろう。

どんな世界でも、どんな星でも。輪廻のたどり着く結末は決まっている。だからこそ変えなきゃいけない。必ず訪れるシンギュラリティの先にあるディストピアを乗り越えないと、輪廻は永遠に不幸のままだから。

 世界がクソったれだからってデジタル世界に逃げちゃダメなんだ。あくまでもクソったれな世界でユートピアを実現しなければ、人類に未来はない。私がデジタル世界を破綻させるという行為は、異邦人からの最終宣告に他ならない。

「この星だけでも良い。もしこの星で本物のユートピアを迎えられたら、きっと人間は悪魔の輪廻から脱出できるはずだから」

 私が自分に言い聞かせるように言うと、可奈子は悲しげに笑い、私の言葉に返事することなく聞き覚えのある歌を口ずさみ始めた。

 ドーン! 夜空に花火が打ち上げられた。周囲の人々が歓声をあげる。可奈子は体をリズム良く揺らしながらも、令和の訪れと共に消えた歌手の歌を口ずさみ続ける。

 私は返事が来るのを諦め、異邦の夏の景色に心を向けた。

 花火は止めどなく夜空に咲き誇っていく。そしてひときわ大きな花火が打ち上げられると同時に可奈子の歌はサビを終えた。

「人生ってさ、たまにおかしな時期が訪れるんだよな」

「なに、いきなり」

「あの頃の、あの時期は、何だったんだろうな。そう想う過去が人間には必ずある」

「……」

「十三年前の夏、お祭りで一緒に笑い合っていた子は夢だったのかな、とか」

「……可奈子?」

「いつかこの朝“やけ“も綺麗になるんだよな」

「いや、おもいっきり夜だけどね、今」

「なんだよ。お前はこの空しか見えてねぇのか」

 可奈子は柔らかくも乾いた笑みを浮かべ、新しいセブンスターを手に取った。花火の光で輝く彼女の美しさは、もはや筆舌に尽くしがたい。

 生ぬるい風を感じながら、ビールをあおる。くそっ。夏のお祭りじゃ誰もがイカれてしまう。この空間にヘドロなんかどこにもない。どうして人はみんな、お祭りの最中の優しさを常に発揮できないんだ?

「おい、凛音」

「なに」

「イルラカムイ、本当に使うのか」

「当然」

「おっそろしい」

「自分でもそう思う」

「昔ね。本で読んだんだ」

「なによ」

「未来において深刻な問題はAIの反乱などではない。最も危惧すべき問題は愚かな人間なんだって」

「当たってる」

「でも、大昔の人たちは一にも二にもAIが反乱を起こして人間を虐殺するとか、AIに仕事を奪われるとかそんな事ばかりほざいてた。その道の専門家すらもね」

「ほんとにね。でも実際はそうならない。ならなかった。今この時、根底で世界の命運を握ってるのは結局人間だもんね」

 それは私であり、アスカであり、もしかしたらヤマト君や望海、あるいは私が知らない赤の他人かもしれない。

「うん。人間が生きてる限り善も悪も主役は人間なんだよ。そんな当たり前の事に誰も気づいてなかった。目を背けてた。人間の愚かさからね」

「愚かね」

「お前、アゴタ・クリストフの悪童日記まだ読んでないだろ。読んでおけ」

「はいはい」

「いつ取りにいくの? イルラカムイ」

「未定。SISAの監視が厳しくてね。受け渡しの算段つけられないの」

「そっか。物語は今どの辺?」

 可奈子は両手を頭に回し、歌うように言った。視線は花火に釘付けだけど、その瞳は思考の海に沈んでいる。食えない奴だ。

「アヌンコタンはUJオメガにハッキングを仕掛けていて、百年で終わる見込みに今のところ狂いはない」

「あっち行ってからの立ち回りは流動的?」

「うん。カムイヌレを使った連中がいる限り、あの世界を私らの無法地帯にする事は出来ない」

「で、そのためには司令塔が必要だと」

「そう。イルラカムイを手に入れて、最高の物語を紡いでいく事が全て」

 でも、その物語が……。

「りんねー! 可奈ちゃーん!」

 前方からアスカの元気な声が聞こえてきた。アスカは両サイドに同じくらいの年の女の子を引き連れている。

 右には綾瀬望海。そして左には……。

 稲穂南海香。カムイヌレを体内に埋め込んでいる醜い顔の少女は、どこか歪んだ笑みを浮かべていた。


LOG:日付不明

ADMIN:UJカシワギ

RM:不明? 嘘でしょ?


『聞いたか? 稲穂って不老不死なんだってよ』

『稲穂って誰だっけ』

『ほら、この前バーチャルワールドで話した奴だよ。超絶ブサイクなのに、バーチャル上でも素顔晒してる変人』

『あぁ、あのブスか。あいつ不老不死なの?』

『そう。あのブスが』

『誰が言ってたの』

『知らねぇけど、お祭り会場でたまたま聞いたんだ。聞いたっていうか、近くに居た奴らの話が聞こえたんだけど。多分マジだぜ』

『へぇ。で、お前実物の稲穂は見たのか?』

『見たよ。なんかいろんな人たちと喋ってた。あいつ友達多いのかな? ブスのくせに』

『へぇ』

『なんか』

『ムカつくなぁ』


『それにしても、稲穂マジでキモかったなぁ』

『ずーっと綾瀬望海って子のこと、キラキラした目で見つめてさ』

『なんだろう。なんかあいつ見てるだけで殺したくなるようなうざい目してるんだよな。先祖はメンタリストかな?』


LOG:二千五十五年四月十八日


RM:まぁそりゃ。

RM:人生ってくだらないよね。

RM:稲穂にほんの少しは同情するわ。

RM:……上から目線になるけどね。


EP40 IMAGE or...

・稲穂南海香


 会員制の乱交パーティの会場で、素っ裸の私はひたすらに泣いていた。心の穴を埋めるために訪れた場所で無理やり犯されて、心も体も冷めきり抜け殻になっていた。

「セクサロイドよりは気持ち良かったな」

 私の中に精液を放出した綾瀬源治の声がべっとり響く。

「アイマスク、外していいぞ」

 私は震える手でアイマスクを外した。暗闇が広がり何も見えないけど、やがて目が慣れてくると会場には私たち二人しか居ない事に気がつく。さっきまで他の参加者が数人居たはずだけど、どうやら思った以上に長くセックスをしていたらしい。

裸の綾瀬源治は、いきり立った性器をティッシュで拭いていた。あくまでも自分で後処理をする。これはセックスではなく綾瀬源治のオナニーなのだ。

「なぁ、なんでお前は整形しないんだ? どうしてそんなブサイクな顔で生きていられるんだ? この時代はいくらでも整形して美しい顔を手に入れられる。特にお前なんか父親がSISAの人間なんだからやりたい放題じゃないか。どうして不老不死の体だけで満足する?」

「意地」

「なに?」

「私は……こんな……ブスな私でも……受け入れてくれる人を……探してる。もしそういう人が見つかれば……私は……世界を……受け入れられると……思うから」

「分からないな。作った顔を受け入れてくれる人がいればそれで十分だろう」

「まがいものなんか……いらない……。作り物の顔を愛してくれる人の愛だってまがいものでしょ……」

「そもそも人間は作り物だぞ。どんな形で産まれたモノだとしてもだ」

「……中身を見てくれる人を探してる」

「あん? 美しい見た目をした性格の良い女と、ブサイクだが性格の良い女どっちが選ばれると思う? 当然前者だ。しかしそこんとこ、お前は顔だけじゃなく性格も頭も悪いじゃないか。何をほざいてるんだ。性格も頭も悪いからこそ、せめて顔だけでも良くしてみろ。脳みそも見た目も人格も悪い人間なんて、この世界に居場所ねぇだろ」

「私だけを好きになる人がいるかもしれない」

「完全にイカれちまってるな。俺がお前にアイマスクを付けた上で犯した理由が分からないのか。お前の顔を見てたらチンコが萎えるからだよ。こうでもしないとお前とセックスは出来ん」

「私はイカれてなんかない」

「お前は言っていたな。綾瀬望海のようになりたいと」

 お祭りの日を思い出す。あの日真希ちゃんはペンラムウェンの仲間を紹介してくれたんだ。

 その中に綾瀬望海がいた。ひと目見て憧れた。綾瀬望海はただ綺麗なだけじゃなく、性格も素敵だった。裏表が無く、明るく、気配りができて、何より柔らかい優しさが溢れ出ていて、理想的な女だった。

 そして望海には沢山の友達がいた。真希、百合ヶ原、ローゼンフェルド、大和谷、相聞歌、佐伯、真木柱、夏希、在原。みんな良い人そうで、美人が勢揃いしていた。

 羨ましかった。やっぱり美しい人間の周りには自然と美しい人間が集まるんだ。特に相聞歌なんて人外じみた美貌の持ち主で、正直引いた。相聞歌は悪い意味で別格すぎる。アイツはもはや宇宙人だ。

 やっぱり、私には綾瀬望海が格別に輝いて見えた。何から何までバランスが良く、現実的に美しく、だからこそ誰よりも輝いている。

それに比べて私はとびきりのブスで、友達と呼べる人は偶然知り合った丘珠夏希と在原蓮の二人と、最近紹介してもらった真希ちゃんだけ。でも夏希と在原にとってはペンラムウェンの仲間が一番であり、私なんかおまけみたいなものなんだろう。あの盆踊り会場で仲間と楽しそうに話す二人を見てすぐにそう気がついた。

 だって夏希と在原は、私の前であんなに楽しそうに笑ったりしないから。望海や相聞歌と楽しそうにお喋りしている二人の姿を見ていたら、私はもう夏希と在原を友達とは思えなくなってしまった。

 私は綾瀬望海になりたかった。美しく、性格が良く、頭の回転が早く面白い会話が出来て、大勢の友だちに囲まれている綾瀬望海が欲しかった。羨ましかった。

 ペンラムウェンの中で、整形をしている人間は一人も居ないらしい。つーか、あいつらは化粧もロクにしていないと聞いた。ナチュラルであのルックス。

 なんだそれ。おかしいだろ。すっぴんでアレかよ。反則でしょ。

 私はブスで、バカで、性格が非常に悪い。

 理不尽だった。私は整形して美しい顔を手に入れ、ゲノム編集でもして脳みそをいじくり回して人格や脳みその出来を変えない限り、綾瀬望海にはなれない。

 それってつまり。

 綾瀬望海のようになるためには。

 どういう形であれ、稲穂南海香を一度殺さなきゃダメってことでしょ? だって外見も中身もあれこれいじくり回したら、それは綾瀬望海のようになった稲穂南海香ではなく、綾瀬望海を模した人形だもん。グッバイ南海香だよ。

 私はどうあがいても稲穂南海香である。一度死なない限り、見た目も中身も優れた人間にはなれやしない。

 理不尽すぎる。

 悲しすぎる。

 要するに、稲穂南海香という人間に産まれた時点で私は負けてるんだ。

 でも私はあくまでも、稲穂南海香のまま夢を掴みたいと思うし、この願いが叶う世界が正常であり、叶わない世界が異常なのだ。で、この世界は間違いなく後者だ。

死んで生まれ変わって綾瀬望海のような人間になるなんて、絶対におかしい。そんな事をして綾瀬望海になれたとしても、私は笑えないだろう。

 私は、顔も頭も性格も優れた望海的な稲穂南海香になりたいんだ。

 それが無理だと言うなら。

 敗北を認めるしかないというのなら。

 この世界を、ユートピアだなんて言わないでくれ。

「おい、聞いてるのか? お前は綾瀬望海になりたいんだろ?」

「あぁ。そうだよ。私は綾瀬望海みたいになりたい」

「それは無理だ。あいつは産まれながらに美しい。だから俺は望海をレイプした。気持ち良かったぞ。やっぱり美しい人間を犯すのは最高だ。このために生きてるって感じるよ。おかげであの時は過去最高の射精が出来た。でもお前はやっぱりダメだ。セクサロイドよりかはマシだが、ブスとセックスしてると思うだけで、どうも射精の勢いが良くない。ブスとのセックスで生まれるのは虚しさだけだな」

「……」

 コイツは知り合いの男を誘い、綾瀬望海とエルヴィラ・ローゼンフェルドをレイプした。ローゼン本人があっけらかんとした顔でそう言ってたから間違いじゃない。実際問題として、以前コイツを問い詰めたらあっさり認めた。

 だからこそ。私はこの男に犯される決意をしてここに来た。

 もし綾瀬源治が私とセックスをして、望海の時より気持ち良いと思えたのなら、それは私の勝利という事になるからだ。もし勝てれば全てが醜い私にも生きる価値が芽生えるはずだと信じて抱かれた。

 それに綾瀬源治と体を重ね合わせれば、私は綾瀬望海と交わったも同然になる。私は綾瀬望海のような人間を通して新しい世界が見たかった。しかし全ては夢藻屑。夢と希望は私の血液には含まれない。

「やっぱりブスとやるもんじゃねぇな。ちょっと後悔してるよ」

 綾瀬源治はそう言い残し、パーティ会場を後にした。

 あぁ。私は、男に満足のいく射精すら提供できない女なのか。

 もう、涙は出尽くした。

 おかしいな。

 どうしてこんなに豊かで満たされた時代なのに、私は涙を枯らしているんだろう?

 この世界は楽だ。幸せだ。しかしそれは偽りであり、限定的である。人間が人間を見た目で判断する生き物である限り、全人類が笑顔になれる無限大の幸福社会は訪れない。労働や病気から解放されればそれで万事オッケー、なんて安直な考え方はやめてほしい。

 とにかく私は不幸だった。たまたまブスに産まれたせいで、これまで全く男に相手にされないことだけが不満で、そのたった一つのしょうもないと言えばしょうもない人生に絶望し、怒りさえ覚えていた。何度か告白をした事もあるけど、全て「ブス」っていう理由で断られた。

 もちろん私だって、整形さえすれば幸せになれるだろう。でもそれだけはイヤだった。それは人間として、いや稲穂南海香としての最後の意地だった。その信念だけは捨てたくなかった。私はまっさらな稲穂南海香としてこの世界を抱きしめたい。否定する気はない。人間も大好きだ。

 だからこそ、顔で私を判断しない人がほしかった。私の顔も中身も全て受け入れて好きだと言ってくれる人を求めてた。そんな人が見つかれば、私は私にとって最高級の人生を手に入れ、本当の意味で世界を抱きしめられると思うから。

 そう。私は男に飢えてる訳じゃない。ただこの世界を抱きしめる理由が欲しいから男を求めているだけだ。だって世界を抱きしめられるような心でもないと、この退屈で理不尽な世界で生きるのはあまりにも辛すぎるから。

 でも私はセックスをする時にアイマスクの着用を義務付けられるような女だった。綾瀬望海を犯した人間は私をダッチワイフやセクサロイドのように扱った。

 私を愛する人は見つからず、美しい女に勝つことも出来ず、私は今日も泥沼の中から天空のお城を見上げるだけ。

 どうやら超越的な技術を手に入れたこの時代をもってしても、ブスに人権は無いらしい。

 私が望む未来は訪れそうにない。

 諦めるしかないんだろうか。

 整形して脳みそも改造して、無条件に愛される幸せな犬になるべきか?

 そんなの嫌だ。毎日脊髄反射で生きてるだけで愛される犬のようになるくらいなら、私は犬以下の生き物でも構わない。

 ただ息を吸うだけの人生に、なんの価値がある? なんの意味がある?

 意味の無い人生なんて、欲しくない。


 パーティ会場を出て深夜のススキノを歩いていたら、たまたま望海を見かけた。望海はベンチに座って、夜空を見上げながらアイスを食べていた。

 私を虜にした美貌は、夜空の下でも十分に輝いていた。

 美しく、頭が良く、サバサバした性格の彼女は父親にレイプされたにも関わらず、表面上は普通に過ごしているように見えた。どんな神経してるんだろうか。ただのバカ? それとも心には熱い憎悪をたぎらせてるの?

 そういえば望海はつい最近まで洞窟を住居にしてヒッピーみたいな生活を送っていたらしい。あれだけの美貌を持っているのにヒッピーの真似事するなんてどうかしている。

 聞きたい事は山ほどあった。望海に対する興味、嫉妬、憧れの気持ちは日に日に増していく。そして憧れは徐々に憎悪へと変わっていく。望海の余裕ある笑顔は癪だった。あの顔をぐちゃぐちゃに潰したい。望海を私と同レベルの醜い女にしてやりたい。サイコパスな発想か? そんな訳ない。だって人間はいつだって誰だって、平等を求める平和的な生き物だから。

 望海はレイプされるまでは処女だったらしい。って事は洞窟で一緒に暮らしていたヤマトはもちろん、誰にも体を許していなかったという事になる。ありえない。あんな美貌を持っているのにセックスという最高の娯楽を経験していなかったなんて、ますます望海が分からない。

 セックスをしていなかった。誰にも体を許していなかった。理想の相手が現れるまで処女を取っておいた。それは完璧超人ゆえの贅沢な余裕だと思う。

 綾瀬望海はその気になればいつでも誰とでもセックスが出来る。誰もが綾瀬望海とセックスしたがっている。望海に誘われて断る男がいるだろうか? ありえない。望海とのセックスを拒む奴なんて、ゲイあるいはあだ名がインポマンな奴だけだろう。望海はきっとそれを十分に理解しているから、セックスに対して焦りなんて感じていなかったに違いない。

 もう住んでる世界が違いすぎる。私なんて、自分から望んでも誰も相手にしてくれなかったんだよ。だからもう何年もセックスできる相手を求めて焦っていた。結局、処女は望海の父親に捧げた。

 私は知っている。優秀な人間ほど意外と夢を見ず、低能な人間ほど夢を見るものだと。

 だからせめて、綾瀬望海に関わりたいと思った。あの素敵な女性の世界に交わりたいと思った。行き着いたベストな答えは望海と同じ血が通っている人間とセックスする事だった。

 綾瀬源治は娘の知り合いを犯すというシチュエーションに興奮するかもしれないと言って、私を犯そうと決めた。でも私は素顔を晒してセックスをする権利を与えられず、アイマスクの着用を義務付けられた。イチジクの葉で性器を隠したアダムとイブもビックリの所業だ。

 イヤだった。ちゃんと私の顔を見てセックスしてほしかった。私が望む犯され方ではなかった。しかし残念ながらこれは不変の現実で、結局私はいつだって幸福の外側に立っているし、どれだけ努力しても報われない。私はきっと戦場の最前線で戦っても、銃弾を一発も浴びることなく無傷で祖国に帰れるだろう。

「……」

 あどけない子供のようにアイスを食べる望海は可愛かった。ぼんやりアイスを食べるだけで画になるなんて、どうかしてる。

 私はいつまでも立ち尽くして望海を眺めていた。望海はホログラムを投影して誰かと喋ってるみたいで、私には気づいていない。

 そんな時、ふらっと見知らぬイケメンの男が現れ、望海に声をかけた。

「あの……もしかしてペンラムウェンの方ですか?」

 望海はホログラムを閉じて、特に驚いた様子もなく答えた。

「そうですけど」

「やっぱり」

「ペンラムウェンってそんなに有名なんですか?」

「札幌では結構有名ですよ。昔からあるヒッピー組織だし、美人と奇人変人ばっかりで目立つし」

「まぁそれはそうでしょうけど。でも私は入ったばっかりですよ。なんで私のこと知ってるの」

「この前のお祭り会場で見ました」

「お祭りで?」

「はい。ほら、あの日って背の高い人と、金髪ツインテールの人がめちゃくちゃ変な踊りをして目立ってたでしょ。あの二人が相聞歌凛音や貴方と話してるのを見たんです。それで貴方を知ったし、貴方がペンラムウェンだと分かった」

「私はあんな変な踊りしないからね」

 イケメンはけらけらと声をあげて笑い、改まったような声音で言った。

「それでその……あの日以来貴方の事がちょっと気になってて。いやまぁその、本音言うと可愛いなぁって思ってて。話してみたかったんです」

「ストーカーさんだ」

「いえ。今日はたまたまここを通っただけなんですが、お祭りで見た可愛い子を見かけて驚いて、つい声をかけてしまったという訳です」

「じゃあナンパさんだ」

「えぇ、まぁそうです。ナンパさんです。こんなに可愛い女の子と仲良くなれたら最高だなっていう下心有り有りです」

 望海は一瞬固まったけど、すぐに吹き出して笑った。上品で透き通るような笑い声が耳に染み渡る。

「何それ正直すぎでしょ。面白い」

「すみません。迷惑だったら消えますけど」

「いや、いいですよ。お話するくらいなら」

「マジで!? やったー!」

 生ぬるい風を感じながら、絶望に浸った。

 可愛い顔に産まれれば、ソレダケデちやほやサレテ。

 あんなかっこいいオトコにさそワレテ。

 それにクラベて私は、散々体を弄ばれたアゲくバカにされて。

 望海。ワタシは、アンタが羨ましい。アンタが憎い。

 羨ましい。憎い。うらやマしい。にクイ。ウラヤマシイ。ニクイ。ニクイ。にくイ。憎い。憎い。憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い!

 ココロノソコカラ。

 いヤ。

 スグレタにんげんすべテが、憎らしい。


記入者:稲穂南海香


『今日、赤ちゃんが産まれました。女の子です。一応DNA鑑定はしたけど、やっぱり父親は綾瀬源治でした』

『私は赤ちゃんに望海と名付けました。稲穂望海です』

『もしも望海がブサイクな子だったら、すぐに整形させるつもりです。そして私のように面倒な思想を持たないように、徹底的に教育します。ぱっぱらぱーな犬でも、自分がぱっぱらぱーだという自覚が無ければその犬は幸せなのです。なにも問題はない。私は自分の娘をどんな世界でも幸せに生きていけるぱっぱらぱーな犬のように育てます』

『でも、デジタル世界移行計画はもうすぐ実行されます。だからすぐに赤ちゃんとはお別れしなきゃいけません』

『デジタル世界に移植されるという未来は避けられないけど、私は誰かが必ず世界を否定し現実世界を取り戻してくれると信じています』

『さて。いずれ現実世界に帰るとして、デジタル世界でどんな風に過ごそうかずっと考えています。私はカムイヌレを投与してるおかげで記憶を持ったままデジタル世界に行けるので、今からみっちりとプランを練っておきたいです』

『今の所、私はデジタル世界で小説を書いてみようかなって思っています。タイトルはもう決めていて、その名も篝火乙女事件です。これはデジタル世界そのものを舞台にしたお話です。あ、ちなみに篝火乙女っていうワードは望海が使っていた言葉を拝借しました』

『お祭り会場でアスカに望海たちを紹介された時、しばらく皆で雑談をしていたのです。そのとき望海と相聞歌凛音が何か話していて、望海が言ったのです。ねぇ凛音。貴方は篝火乙女だねって。どういう話の流れでそんな言葉が出てきたのかは分かりませんが、望海は確かに相聞歌凛音を篝火乙女だと形容したのです。私はその言葉が気に入りました』

『篝火乙女事件はサスペンス小説にしようと思っています。まず先述した通りデジタル世界が舞台になっていて、ナノボットで頭がおかしくなった殺人マシーンたちが綾瀬望海の仲間を襲い殺していきます。殺害現場にはアルファベットが必ず残されていて、一人目はA、二人目はY、三人目はA、四人目はSというように、被害者が増えるたびに殺害現場に記されるアルファベットは綾瀬望海のイニシャルだということが分かっていき、望海はびくびく怯え始めます』

『やがて望海の友達(アスカ、ユリ、エル、ヤマトなどなど……)も被害者となり、ついにアルファベットは綾瀬望海のMまで到達します。間違いなく最後の被害者は望海で、望海の死体の側にはIが書き記されるはずです』

『次々と友達が死んでいき、最後のターゲットが自分だという事に気がつき、精神的に追い詰められた綾瀬望海は強く世界を否定します。こんな世界は嫌だと雄叫びをあげます。そのおかげでデジタル世界が終了して人類は現実世界に戻るのですが、それは全ての記憶を思い出す事と同義です。デジタル世界で平和に暮らしていた綾瀬望海は一瞬で父親にレイプされた悲劇の少女に成り下がり、望海はなんか色々耐えられずに現実世界で自殺しちゃいます』

『憎しみ、嫉妬、憧れ、羨望。私の全ての感情を抱きしめている望海は消失します。でも現実世界には稲穂望海がいるのです』

『綾瀬望海がいる限り、私は自我を保てない。狂ってしまう。でも酸いも甘いもクソもない世界なら、私は自我を保てる。立派に子供を育てられる』

『私は魅力的な人間にはなれないし、理想のパートナーも人生も見つけられない。だけど本当に何も無いかと言えばそうではない。私にも唯一残されたユートピアがある。それは立派な娘を育てる母親になるということです』

『立派な子供を持つ立派な母親としてなら、私は優しい気持ちで世界を抱きしめられるかもしれない。そこに希望と、生きる意味と、価値を見出します』

『そのために、望海を苦しめて殺すのです。どんなに満たされた人間でも、場合によっては超絶劣悪で哀れな人生と結末を迎える事もあるという事実が成立すれば、私のように醜い人間でもなんとか世界と向き合えるような気がするのです』

『篝火乙女事件を経て、綾瀬望海という結晶を破壊し、世界が平等であるという希望を糧に子供を育て世界を抱きしめる。とても面白い物語だと思います。だからこのプロットを友達の丘珠夏希と在原蓮に送ります』


EP41 負け組の咆哮、鳴らない鐘

・在原蓮


LOG:?????

WORLD:?????

ADMIN:UJ相聞歌


「おい相聞歌」

「なに」

「今てめぇは俺がまだ一口しか飲んでないカフェモカを一気に半分も飲みやがったな」

「飲んだけど」

「俺はお前を許さねぇ。今すぐジェット機に乗り込んでお前の頭に着陸してやろうか? そのご自慢の盛り盛りヘアーをジェット機でこすってハゲ頭にしてやるぜ」

「カフェモカ飲まれたくらいでそんなにキレないでよ。つーか私と間接キス出来たんだから喜ぶべきだしむしろ感謝しても良いくらいじゃない?」

「俺は単純にカフェモカを飲まれた事で深く強くキレてるんだ。お前は俺のまったりカフェモカタイムを台無しにした。俺はお前を許さない」

「うっさいわね。ていうかいちいち俺がー俺がーってオレオレ連呼するのやめてくんない? うざいから」

「なんだと! 俺は……。いや、僕は……」

「一人称の問題じゃなくてね」

「早く話始めようよ」

「あん? 俺のカフェモカ半分も飲まれちまった事件を放ったらかしにするのか? 俺の悲しみと怒りなんてどうでも良いのか? なんだお前ら、俺のこと嫌いなのか。どういう事だ。そういう事なのか」

「在原君さぁ、カフェモカごときでそんなに怒るなんてお子ちゃまじゃなーい?」

「あ? 俺がお子ちゃまだってか? 第一俺は……」

「だから俺俺うるさいんだってば」

「だはー自己主張激しすぎでござる~ござるんる~ん」

「は? てめぇのパンクファッションを棚にあげて何ほざいてんだ。お前の服装こそ無駄に自己主張しすぎだろ」

「何たる言い草かー!」

 エルは右側のツインテールの根本を握り、ぶんっと振りかざした。毛先の束が頬に直撃する。

「エルるん激おこ!」

 で、頬をぷくっと膨らませて平気な顔して死語を口にする。

「なんだ。暴力か。言論弾圧か。俺は屈しないぞ」

「いやもう良いからさっさと本題に入ろうよ」

 夏希がキレ気味に言い、グレープゼリーをぱくっと飲み込んだ。夏希をこれ以上怒らせる理由はない。

「そうだな。話を始めよう」

 コロポックル・コタンにて。俺たちは大きなテーブル席に陣取って頭を突き合わせていた。テーブルの上にはわざわざ印刷した篝火乙女事件のプロットが置いてある。

「篝火乙女事件。稲穂大先生渾身の物語だ。皆はこれちゃんと読んだか?」

「なんでアンタが仕切ってんのよ。まぁ読んだけど」

「私も読んだよ」

「はい! 読みました!」

「凛音君、感想を頼む」

「つまんないし、ご都合主義すぎる展開だったわね。まぁデジタル世界が舞台ならまかり通るストーリーなのは間違いないけど。エルはどう思った?」

「望海のことなんにも分かってないね。むしろ望海の願いは現実世界に帰って、憎悪を思い出す事にあるんだけど」

「まぁ南海香はそこんとこの事情、何も知らないからね」

「うん。まぁ他にも突っ込みどころは山ほどあるけどね。特に記憶を思い出す描写はアウト。デジタル世界のルールに則ってない」

「あぁ、それは私も思った。これは完全にご都合主義だね。デジタル世界ですらまかり通らない。まず記憶を取り戻さないと、世界を否定する事は不可能だし」

「そうよね。蓮君はどう思った?」

「才能の欠片もねぇな。でも内容の面白さや合理性は問題じゃない」

 俺は指でコンコンとA4用紙を叩いた。

「稲穂はデジタル世界で篝火乙女事件とかいう小説を書こうとしているが、問題なのはコイツが篝火乙女事件を小説ではなくリアルにやらかすんじゃないか、という可能性についてだ」

「やるかどうかは分からないけど、出来るか出来ないかで言えば出来るわよね。カムイヌレを投与してるんだし、UJオメガにアクセスできる権利さえあれば何だって出来るはずだから」

「そして何を隠そう稲穂南海香のお父さんはSISAの職員さん! オメガに接触できる可能性は十分に有り有りなのでございます!」

「そうだな。カムイヌレとオメガの力を享受できる連中はデジタル世界で好き勝手できる。まるでゲームのようにモンスターを出現させてみたり、それこそ殺人マシーンを作ってみたり」

「まぁ何でも出来ちゃうよね」

「たまったもんじゃねぇな。まぁ俺がカムイヌレを投与してオメガにアクセスできる権利を持ってたら、セックスが大流行してる世界に作り変えて、毎日美女とのセックスを楽しむがな。ちきしょう! どうやったらカムイヌレもらえるんだ!?」

 沈黙。夏希が小さく鼻をすする音が恐ろしく響く。やっちまった。場を和ませようとしたのだが、夏希はこういうネタには非常に厳しい。

「蓮君」

「どんな暴言が飛んでくるのかな」

「カフェモカもらうね」

「……あぁ」

 夏希は無表情に俺を睨めつけながら、残っているカフェモカをぐびっと飲み干した。女の意図不明な行動ほど恐ろしいものはない。そして夏希の隣でぽかんと間抜けに口を開けてニコニコ笑っているエルが憎らしい。こういう時こそ冗談でも飛ばして場を流してくれ。

 夏希がグラスをテーブルに戻す。まだ場は静まり返っている。よし、こういう時はアイコンタクトだ。ふんぬぬぬっ……。

「……」

「……?」

「……」

「…………!」

「……!」

「だはっ。私に助け求められても困るよ。在原君の自業自得だと思います~」

「ほふっ」

 夏希は一度テーブルに戻したグラスをまた手に取り、残っていたカフェモカを全て飲み干した。すると相聞歌が何かに気づいたようにハッとなり、笑顔で言った。

「あら夏希。私と間接キスしたかったの? あ、でも蓮君も一口飲んでたからこれで3Pね。あははっ!」

「篝火乙女事件は、起きてもらった方が良いんだよね?」

 一人でげらげら笑っていた相聞歌は瞬時にキリっとした表情になった。やっぱコイツ基本的にはただのバカだな。

「当然ね。あの子たちが苦しむ羽目になるのは間違いないけど、篝火乙女事件は良い引き金になるわ」

「あぁ。俺たちはデジタル世界を強く否定できる逸材を確保しているし、物語も自前で用意し立ち回る術もある……が、少なくとも無敵ではない」

「うん。バカナコさんはあっちで立ち回れるけど、オメガには手出しできない。手動の駒みたいなもんだし」

「そこで湧いて出たのが魔法使いの稲穂南海香だ。カムイヌレにオメガ、無敵の人間がこんな理想的な物語を紡いでくれるなら、こっちとしては抜群に都合が良い」

「そうだね。特に殺人マシーンってのが良い。こんな非現実的な現象が起きれば世界に対して疑惑を持つ。その疑惑は自分が暮らしてる世界の否定と、もう一つの世界が存在する可能性に行き当たる」

「夏希の言う通り~。世界を強く否定する過程にドンピシャでハマるんだよね~篝火乙女事件は」

 デジタル世界は誰かがデジタル世界を強く否定すれば終わる。そのためにはデジタル世界の存在に気づく必要がある。理不尽なシステムだが、この理不尽システムは篝火乙女事件で貫通できる。

 もし目の前に居るごく普通の少女が目からビームを発射してスカイツリーをぶっ壊したらどうだ? 俺はこの世界が夢だと断言するね。

「エルの言葉を借りるが、確かにドンピシャでハマるんだよな。カシワギが用意する物語はどうしても非現実的事象だけは再現出来ないからな。結局行動は人力だし」

「ん。それに篝火乙女事件が起きれば、可奈子さんの負担とリスクも減る」

「だはっ。稲穂マジ救世主じゃーん」

「だはっ。そうなんだよな」

「だはっ。そのノリやめてくれる?」

「いや、ていうか。別に南海香が事件を引き起こすと決まった訳じゃないからね」

「そりゃねー。ただーエルるん的にはー、稲穂って絶対にやると思うよ」

「断言は出来ないでしょ」

 俺は軽く咳払いをした。もし事件が起きなかったら、予定通りに事を進めるまで。事件が起きる起きないなんて議論はさすがに不毛すぎる。

「今はとりあえず、篝火乙女事件が発生すると仮定した上で、俺たちはどうすれば良いのかっていうIFの話をしようぜ」

「在原君にしてはごくまっとうな意見ね。確かに不確定な未来について仮定の議論をして、ありとあらゆる対策をシミュレートしておく事は重要よ。アンタ、ちゃんと頭ん中に脳みそ入ってたのね」

「お前は本当に、驚くほどにムカつく奴だな。いや、なんでもない冗談だ。……良いか? 俺たちの物語の真髄は、素質ある主役がデジタル世界を強く否定する瞬間を作り出す事にある。導き手は佐伯可奈子。この計画はいわば運任せ。だが篝火乙女事件に便乗すれば、物語の結末はランダムな運ではなく既定路線になる」

「えぇ。事件を利用しない手はない」

「イグザクトりんりん! 稲穂が望海の本意に気が付いてないのも美味しいよね」

「つーか、本意は知られちゃダメだな。望海が現実回帰を望んでる事がバレたら、あいつは計画を変えるだろうし」

「決まりね。稲穂が事件を引き起こしたら、綾瀬望海の本意を悟られないようにしつつ、うまく稲穂のグルになりましょう」

「うんでもちょっと待って。稲穂大先生は途中でアスカを殺すつもりでしょ。それはまずい。アスカは最後まで残さないと」

「あ、そっか。そこは私らで調整する必要があるわね。少なくともアスカとエルが死ぬ未来は阻止しましょう」

「ほえ? なんで私? 大事なのはアスカだけじゃないの」

 相聞歌は穏やかに笑い、エルのツインテールを弄びながら呟く。

「望海たちには悪いけど、アンタは特別」

「ほよよん?」

「私らとアンタ、どれだけ長い付き合いだと思ってんのよ。稲穂の娘にエルが殺される未来なんて、私たちは絶対に許さない」

 相聞歌は強く言い、エルを引き寄せてぎゅっと抱きしめた。

「悲しみの無い世界、アンタに見せてあげるからね」

 エルが一度死んだ日の事が思い出され、心臓がはちきれそうになる。

 エルをレイプした犯人の名は稲穂大成と言う。稲穂南海香は悪魔の娘。

 相聞歌の言いたい事が手に取るように分かる。

 世界は小さく、親友は何より大きい。

 俺は目を瞑り、煮えたぎる殺意を滾らせた。本当なら今すぐ綾瀬源治と稲穂大成を粉々にしてやりたい所なのだが、実は敢えて泳がせているのが現状である。あいつらに危害をくわえると俺達の計画に支障が出るからだ。腹ただしいが綾瀬も稲穂も利用価値がある。

 だが、全てが終われば俺たちは二人を呪い尽くし、かつてないほどの地獄を見せてやるつもりだ。

『いやいや。ウチの娘はあの通りグロテスクな顔をしてますから。私はあの金髪のような可愛らしい子が好きなのです。いやぁ、きゃんきゃん泣きわめく金髪ロリっ子の中にチンコをぶっ刺した瞬間は、もう言葉に出来ないほどの快感に襲われましたよ』

 稲穂大成の言葉を、俺は絶対に忘れない。いつも笑顔でバカみたいに明るいエルが泣き叫ぶ姿を想像する度に、言葉に出来ない怒りで心が壊れそうになる。

あの日、相聞歌は家に帰るなり狂ったように泣きわめいていた。ぐっちゃぐちゃのドロドロのひどい顔で嗚咽を漏らしていた。

 なぁ稲穂南海香。

 冗談キツイぜ。

「もう二度と、悪魔にも、悪魔の娘にも手出しはさせない。私たちの友達に手を出した事、永久に後悔させてやるわ」

 エルは目をパチパチさせると、ぴょこんと相聞歌の膝の上に飛び乗って思い切り抱きついた。

「ぬ……ぬお~ん凛音やっぱりやざじいよ~一生ついていくよおぉぉぉ~」

 と言いながら、エルは相聞歌の谷間に頭を埋めてわめき始めた。人に甘えられるのが好きな相聞歌はご機嫌にエルの頭を撫で回す。……というか、篝火乙女事件が絶対に起きると決まった訳ではないんだが。いや、何も言うまい。二人が感動しているならそれで良いのだ。

「りんにぇ~エルるん嬉しいよぉぉ~」

「よしよ~し。私の慈悲深さに跪きなさ~い」

 二人は抱き合い、嬉しそうにイチャイチャしている。放っておくとこの状態が五兆年くらい続く。

「おい、篝火乙女事件に便乗すると言っても、結局仕事するのは佐伯可奈子なんだぞ。今あの年増はどこに居るんだ?」

「さっき近所の子供たちと一緒にサッカーやってた。大人気なく華麗にドリブルして豪快なシュート決めまくってたよ。二十八であの運動神経は化物だね」

 こんな時に何やってんだ。俺の周りにはアホしかいねぇな。

「話を戻そう。俺たちは篝火乙女事件を妨害しつつ、事件そのものを最後まで進行させなきゃいけない訳だろ。こうなると稲穂を直接コントロールする必要が出てくる。その役目を担うのは佐伯可奈子だ」

「そうね」

 相聞歌はごく真面目に、深刻そうに相槌をうった。膝の上で抱き抱えているエルがぶんぶん頭を振っているせいで、ツインテールがぺちぺち頬に当たって邪魔そうだが、あまり気にしている様子はない。

「アスカたちが被害者になるけど、死にはしない。あるいはアスカたちを被害者に含めないようにする……。色々やりようはあるけど、今の内に可奈子の動きを徹底的にシミュレーションした方が良いでしょう」

「ただ……。その、なんだ。佐伯可奈子は大丈夫なのか。色々と」

 俺がそう言うと、夏希は本日二つ目のグレープゼリーのフタをぺりっと開けながら唸った。

「うーん……。まぁ、緻密な計画が向いてる人間には見えないよね。どっちかというと……強引に力技で押し通すタイプでしょ。開かないドアがあったら、ピッキングで開けるんじゃなくてチェーンソーで破壊する的な」

「どぅは~凛音のおっぱい弾力ハンパないよ~ぅ」

「まぁバカナコがどういう人間であれ、たった一人の人間に任せるのは酷でしょう。だからやっぱり、イルラカムイは必ず手に入れるわ」

「……は? 何いきなり。え、これって仮定の議論だよね?」

「いや別に、篝火乙女事件の事が無くても元々使うつもりだったけど」

「……凛音さ、正気だよね?」

「当然。まぁちょっと、今は監視が厳しくてイスラエルに行けてないんだけどさ」

「本当に使うの?」

「うん。篝火乙女事件が起きる可能性が少しでもあるなら、なおさらね」

「罪な人たちね……」

「うおおぉぉぉ!」

「うわ!」

 唐突に床下収納の扉が開いたかと思うと、マキ部長の頭がひょっこり現れた。こいつは俺たちの心臓を止める気か。

「ちょっと、いきなりそんな所から出てこないで下さいよ」

「じゃあどうやって出てくれば良かったのよ。わざわざ夏希に『床下収納から顔出すけど驚かないでね』とか電話しろっての?」

 マキ部長は床下収納から顔を出したまま文句を言い、鋭い目つきで腕を組んだ。

「アンタ達さ、篝火乙女事件のせいで綾瀬望海が苦しむって事は考慮してないの? 仮定の議論とは言えちょーっと酷くない?」

 マキ部長の嫌味満点なイントネーションが癪に障ったのか、相聞歌の目つきが一瞬で鋭くなった。こいつらは喜怒哀楽が豊か過ぎる。

「考慮する理由がない。篝火乙女事件が遂行されれば、デジタル世界が終わる可能性はグッと高くなる。私たちの理想のためにも、世界の命運のためにも、突き進む以外の選択肢はありえない。ていうかなに、アンタずっと地下で話聞いてたの?」

 なぜか頑なに地上まで出てこないマキ部長に向かって、相聞歌が棘のある口調で言った。マキ部長は大げさな仕草で髪をかきあげ、応戦する。

「つまり苦しむあの子たちを踏み台にして。犠牲にして。踏み潰すことでこの星の未来は守られるのね。そのクセ、エルだけは守ろうとしてる。エゴだわぁ……。アスカを守るのは分かるけど……エゴだわぁ~」

「うっさいわね! え、ていうかマキ部長もしかしてエルが殺されても良いと思ってんの? うわー最悪。ゴミ。死ね」

「合理的意見の一つとして間違ってないと思うけど」

「確かに合理的ね。アンタは人の心が無いコンピュータだわ」

「あ? んだおめぇ。殺すぞ」

「はっ。私に勝てると思ってんの?」

「やめてー! 私のために争わないでー!」

「エルは黙ってて」

「どぅは!」

「……なぁ部長。お前はカムイヌレ投与してないのか?」

 このまま喧嘩を放置しておくと、この状態が六百兆年くらい続く。話を変えよう。

「してない」

「本当か?」

「あぁ……良いわその目。疑いをもった強い瞳……そんな目で見つめられると…………濡れる」

 マキ部長がふざけた様子でしゃがみこみ、両手で股間を抑える振りをした。俺は静かに床下収納の扉を閉め、その上に座り込む。

「ちょっと! 閉めないでよ!」

「まぁ部長の言い分は間違ってないだろうけど、それでも俺たちはエルを守り通すさ」

「そうよね」

 相聞歌は、未だにしがみついて離れないエルの体をさすりながら静かに同意の声をあげた。

 急に場の雰囲気が重く、切なくなった。相聞歌がセブンスターを咥え、ぷかぷか煙を吐き出す。あ~んと口を開けて催促しているエルに一口吸わせてやり、また自分でぷかぷか吸う。

 そんな湿った雰囲気の中、夏希がぽつりと口を開く。

「ていうか……」

「なんだなんだ」

「デジタル世界で記憶を取り戻せれば……世界を否定するなんて簡単だよね」

「……」

「……?」

「あぁ」

 剣と魔法の世界を舞台にしたゲームや映画では、人が手から火の玉を発射する行為は確かに紛うことなき魔法だが、あくまでもそれは「当たり前に存在する現象」に過ぎない。魔法は魔法だが、不可思議な概念ではない。

 そして。平成の人間は誰だって、魔法に憧れている。

 この時代を生きる俺たちは、魔法と見分けのつかないテクノロジーを当たり前のものとして受け入れ、ユートピアなんてどこにも無いんだと信じ切っているけども。


EP42 結局誰が悪いのですか?

・稲穂南海香


LOG:デジタルワールド一回目 2018年(2080年)


 なんで私はいじめられるのだろうか。

 素朴な疑問を抱きながら、私は裸で風呂場に横たわっていた。クラスメートに裸にされて風呂場でリンチ。鼻血は止まらない。お腹は傷だらけ。でも誰も助けてくれない。私は悪い事は何もしていない。私はどうすればいいの。どうすればよかったの?

 平成という時代がこんなにも残酷で、無情で、劣悪なものだとは思ってなかった。

 シンギュラリティが訪れたあの世界はとてつもなく平和だった。もちろん事故や事件が無かった訳じゃないし悪い人もいたけど、平成の時代に比べれば圧倒的に平和だった。私はブスという理由で男に相手にされなかったけど、だからってブスが理由でいじめられたことは一切無かった。

 みんな心に余裕があるから、他人を貶めたりしない。ブスをバカにする事はあっても、わざわざ手を出したりしない。ブスをいじめるよりも面白い事がいくらでもあるのだから。

少なくとも、私が綾瀬源治にゴミ扱いされた時のように、自分からわざわざ人に向かっていかない限りは穏やかだった。

 あの世界では皆、本当に満たされていた。誰もが人生に満足していた。良くも悪くも他人なんかどうでもよかった。自分の幸福だけを考えていた。

 だってやる気になれば死ぬほど簡単に美人になれる世界なんだもん。パワードスーツやら遺伝子改造やらナノボットやらの技術に手を出せば、誰でも百六十五キロのストレートを投げられる世界なんだもん。いくらでも自分を磨けるから意識はなかなか他人には向かない。私はブスではなく、敢えてブスのまま生活している「変わり者」というイメージの方が強かったと思う。いじめの対象にはならない。いじめという概念そのものが希薄だから。


 現実世界では、もはや生まれ持った才能や外見なんて割とどうでも良い問題だった。何でも有りで何でも無しだった。美人に産まれたのなら、ただ単に整形する手間が省けたねくらいの感慨しか沸かない(もちろん私のように、優れたルックスの人間に嫉妬する人も少なからず居ただろうけど)。

 そもそもあの世界は多少の不満や不公平さはあれど、根本的にはただ鼻くそをほじってるだけでも生きていける世界だし、いくらでも娯楽が手に入った。だからあの時代の人間はみな笑顔だったし、わざわざ誰かに危害をくわえるような人間はごく少数だった。綾瀬源治のようなイカれ野郎とかアスカの姉を轢き殺したようなクズは本当にごく一部で、大多数の人間に攻撃性は無かった。

 中には不老不死になりたいからと言って洞窟でジメジメした生活をしている奴らもいたけど、それは自分の意思で好きでやっている事であり、不幸でもなんでもない。綾瀬望海たちの洞窟暮らしは私の生き様と何ら変わりない。

 え? いや敢えてブスのまま生きてるんですよ。整形しようと思えばいつでも美人になれますが。

 え? いや敢えて洞窟で暮らしてるんですよ。その気になればいつでも立派な家に住めますが。

 ね。同じでしょ。

 とにかくあの時代の大多数の人類はみな幸福を約束されていた。その中で好きなように生きていた。それだけに過ぎない。日本で不老不死になりたければ洞窟で暮らす。敢えて不幸な道を選んだとしても衣食住は無限に保証される。映画、ゲーム、漫画、小説。望めばいくらでも娯楽が手に入る。わざわざ他人に危害をくわえるなんていう発想が出てくるはずがない。そういう発想を持つ奴は希少種だ。

 でもデジタル世界は、いや二千十八年に生きる人類はそうではなかった。衣食住という人間にとって最も大事なものが一切保証されず、勉学や労働を強いられ、洗濯やら掃除やら料理やらアホみたいに細かい分別が必要となるゴミ出しなどの家事で莫大な時間を消費し、誰もがストレスや不安と戦っていた。

 他にもうざすぎる規則、ルール、マナー、法律遵守。胸くそ悪い犯罪ニュースに卒倒するレベルで高い税金に保険。死ぬほど勉強して働いても望む物全てが手に入らない理不尽さ。どうせいつかは生で実物を見る事になるのに、何故かわざわざモザイクがかけてあるアダルトビデオ。

などなど、不満を挙げればキリがない。

幸せがどこにも無くて明日への一歩を踏み出すだけでもハンパじゃないエネルギーが必要で、幸福になるためには言葉に出来ないほどの努力をしなくてはいけない。

しかし、もちろん努力したからって必ず衣食住や幸福が手に入る保証はない。

 幸福になれるかどうかはもはや運みたいなもんだ。努力してもそれ相応のリターンを手にできない。意味が無い。無価値だ。やりきれない日常が永遠だ。

 だから誰もが他人を落とす事でなんとか心の穴を満たそうとする。幸福を得るのは大変だけど、他人を貶めて幸福と似たような「快感」を得る事は簡単だから。

 その場合、私のような醜い外見をした者は格好のオモチャになる。理屈は理解できるけど、意味は理解できない。

 現実世界でもブスはブスだとバカにされてたけど、バカにされて終わりだった。だけどこの時代の人間はなんの罪も犯していないブスをいたぶる野蛮人なのだ。未熟で不幸な世界だと、人間はこんなにも落ちぶれてしまうのか。にも関わらず大多数の人間は平成を「平和な時代だ」と言う。戦争さえ起きなきゃ世界は平和なのか? 昔の人はずいぶん物騒な思想をお持ちになっていたらしい。


私はブスという理由でいじめられている。本当はいじめではなくもはや犯罪行為の被害者なんだけど、この世界ではあくまでも便宜上「いじめ」という言葉を使用する。

さて、諸悪の根源はなんだろうか? 

いじめてる張本人? 人をいじめるような人間を育む劣悪な世界? 世界が悪いのだとしたら、世界を劣悪なものにしたのは誰?

 分からない。ただ何もかもが狂気だった。この時代では誰もがゴミクズだった。誰もが意味不明に腐ってて、誰もが極限的だった。家で自由に走り回れる犬は笑顔になれる。三百六十五日クソ狭い犬小屋で監禁されている犬は目つきが悪くなる。そういう事なんだろうか。

 イライラのはけ口に誰かを傷つけ、貧困に喘いでお金や物を盗む。全ての意思の頂点であり神様でもある完成された人工知能も無いし、あらゆるシミュレーションで最適な解を導き出す量子コンピュータも無いからいつだって言い争いが絶えず、意見をぶつけ合って対立する。

 政治家は他人の話を聞かずに自分の意見を押し通す事しか頭に無く、最終的には暴力的に振る舞った奴の意見が通る。学校でも会社でも暴力的な奴が王様になれる。

 なんだ、この世界は。むしろ何をどうやったらこんなクソったれな世界が出来上がるのか教えてほしい。あぁでも、そうか。しょせん人間なんて、世界ありきで美しくも醜くもなる脆い生き物なのか。

 くだらない。バカげてる。わざわざこんな世界用意する必要ないよ。

 SISAを憎んだ。どうしてこんな乱れた醜い世界に、人類をぶちこんだのか。シンギュラリティが訪れる前の時代で生きる道こそ人類にとって最高の幸せだ、なんて考えたのだろうか。だったらそれは絶対に間違ってるね。

「おいブス。口開けろ」

 クラスメートの男が割り箸で排水溝をあさり、ヘドロまみれになった髪の毛をつまみあげた。

 顔をそむけると、クラスのリーダー的存在たる女に顔を踏みつけられた。

 口が開く。ヘドロまみれの髪の毛を無理やり突っ込まれる。

 ゲロを塗りたくった生ゴミのような味だった。嗚咽。嗚咽。嗚咽。

「うっわーほんとブスだな。苦しそうにしてる美人って見てるとかわいそうになるけどさ、苦しんでるブスを見てるとなんていうか……ただただムカつくだけだよな」

「ほんとほんと」

「あ、やばい。俺もうイク」

 ずっと自分の性器をしごいていた男が、私の顔面に射精した。精液が目の中に入り、目を開けられなくなる。

「お前さぁ、こんなの見て良く興奮出来るよな」

「まぁな」

「そんな事で誇らしげにするなよ。バカ」

 帰りたい。

 帰りたい。

 帰りたい。

 でも。帰りたくない。

 私は人間の本質を見た。今目の前にいるのが人間の本質なんだ。

 だから私は現実世界に帰りたくない。二千十八年だろうが二千六十三年だろうが、人間の本質は変わらない。

 私は、こんな醜い奴らがいる世界で生きたくない。

 それはつまり、人間のいない世界で暮らしたいという考え方に直結する。でもそんな世界は存在しないし、そもそも人がいない世界は世界ではない。かと言って死にたい訳でもない。

 だったら。

 答えは一つ。

 もう全てを夢にするしかない。人間の魂すべてが無に帰す空間でないと私は歩いていけない。

 UJオメガに対するハッキングは順調に進んでいる。まだ完全に制圧した訳ではないけど、今ならこの世界で自分を人工知能に置き換えるぐらいは出来るはずだ。

 私が人工知能という作り物になってしまえば、この世界は嘘になる。

 自分を作り変えて綾瀬望海を模した人形になるくらいなら、死んで稲穂南海香の人生を終わらせるくらいなら。

 私は、人工知能という夢になる。世界が夢になる訳じゃない。私が夢になる。この世界は現実でも夢でもない、ただの嘘。

 全てが夢なら、嘘なら、架空なら、作られたものであるなら、私は少しだけ、楽に生きていけると思う。

 いや、それだけじゃ足りないな。出来ればデジタル世界にシンギュラリティを引き起こしてほしい。デジタル世界を永遠に続けてほしい。まさに究極、人類の到達点ともいえる世界になればいい。

 そして、醜い人間は脳改造してまともな人間に作り変えることを義務化してほしい。あぁ自分でもビックリするくらい幼稚な発想だけど、実際問題これが真理だろ。

「なぁ。お前っていっつも綾瀬望海にくっついてるよな」

 ねとつく声がもやもやする意識にべっとり柔らかく響き渡る。私がどれだけ夢想しても、現実は常にアクセル全開で突っ走り、窓から手を出し歩道を歩いているだけの私をひょいっとかつぎあげ助手席に乗せてしまう。

「ほんとそれ。マジ望海の腰巾着って感じ」

 だからなんだ。放っといてくれ。

「やめた方が良いんじゃね? 望海ってさ、お前の事嫌ってるんだよ」

「そうそう。お前みたいなブスに付きまとわれて、望海絶対迷惑してるよ」

「おい、なんか言えよブス」

 うるせぇよ。私が望海の腰巾着だったらなんなんだよ。望海が私のことを嫌ってたとしてそれがなんなんだよ。

 お前らに、なんか関係あるの?

 リアルでもネットでも赤の他人にへばりついて攻撃を仕掛ける輩はいっぱい居るけど、マジで他人に粘着する事になんの意味があるんだ? 悪いけど私には理解できないね。

「古代人のクセに」

「あ?」

「他人を攻撃して楽しむような平成産まれの古代人が図に乗るなよ。このチンパンジーが! 下等生物がっ!」

「は? なに言ってんのコイツ?」

「つーか平成産まれの俺たちって新時代の人間じゃん。バカかお前」

「マジで頭ヤバくなってんじゃね?」

「顔も頭もヤバイとか。救いようがねぇな」

「そんな稲穂にはもっともっとひどいお仕置きしなきゃダメだね!」

 女が私の髪の毛を引っ張り、また排水溝の中のヘドロを口に押し込んできた。そしてスカートを捲し上げてパンツを脱ぎ、私の顔の上に腰をおろした。

「トイレはトイレでするものだからね」

 ばしゃ! 女の小便が顔に降り注ぐ。みんな笑ってる。楽しそうに。

 この世界の醜い人間は、こんな事で笑えるらしい。こんな事でしか心の底から笑えないらしい。

 かわいそうな奴らだ。無様な人生なんだろう。でも自分が無様な人生を送っているという自覚すらない。どうせお前らの将来なんか男は土方、女は風俗嬢の一択だろう。

「あーグロい。マジこいつの顔グロい」

 女が「ぺっ!」と私の顔に唾を吐いた。ヘドロと精液と小便と唾液の匂いに包まれて、気を失いそうだった。

 なんなの? 暇なの? 分からない。娯楽が無いからこういう事をするの? こんな事して楽しいの?

 分からない。本当に分からない。私が暮らしていた時代は、こいつらが抱えているような退屈や不満を、セクサロイドやバーチャル世界という究極の娯楽を楽しむ事で解消していたのだろうか? じゃあ娯楽がロクに無い原始人は恐ろしく凶悪だったのか? そんな事もないだろう。

分からない。理解できない。なんで私こんな目に合ってるんだろう。この古代人たちは頭の病気でも持ってんの?

 高校に入学して、ただ普通に生きてただけなのに、ある日コイツらに目をつけられて、いつのまにかこうなっていた。

 それまでは平成時代も悪くないなって思ってた。面倒なこといっぱいあるけど、二千六十三年よりかは生きがいがあったから。

 でもダメだ。やっと気がついた。この世界はクソだ。私が今こうしている間も、世界では楽しくセックスしている奴らや、のん気にツイッターを眺めている奴らがいるんだ。もしこのいじめが明るみになったとしたら、のん気な奴らは好奇心丸出しでワイドショーやネットニュースにかじりつき、適当な持論を述べちゃったりするんだろう。

 そして、この世界じゃ加害者と被害者双方が子供の場合、どんなえげつない暴力行為が行われていたとしても、あくまで「いじめ」という魔法の言葉で加害者は無罪放免となってしまう。

 私が道を歩いている時、見知らぬ男にパンチされたとしよう。被害届を出せば警察はパンチマンを捜索し逮捕するだろう。だけどいじめの場合は違う。私が同級生にタコ殴りにされたと訴えても、警察は加害者宅のインターホンを鳴らしてくれない。

 何故なら、子供同士における暴力行為は犯罪じゃなくていじめだから。そしていじめは警察じゃなくて教師や大人の管轄だから。故に被害者がリンチで殺されるか自殺しない限り、警察は動かない。警察は死体処理署に改名するべきだ。

 本当に、心底、狂ってる。なんなのマジで。いじめと万引きって言葉は誰が考えたの? いじめも万引きも立派な罪だよ罪。裁けよ。

 ねぇ、そろそろ、いじめっていう言葉で、いじめっ子を守るのやめてくんない? いじめという呼称を敢えて用いることで何を守ろうとしてるの? そろそろ訳分からん道徳が足かせになってるせいで世界がおかしくなってる事実に気づけよ。

 いじめという言葉が無くなるだけで、どれだけの子供が救われると思ってるんだ。いじめ撲滅運動? 違う違う。まずはいじめという言葉を抹消する運動から始めてくださいな。その後に暴力撲滅運動でもしてください。

 あぁ。くだらねぇ。しょうもねぇ。なんだこの世界は。世界全体が猿山に見えてくる。こんな醜い人間ばっかりなのに、良くもまぁ人類はシンギュラリティに到達したな。どんだけ一部の凄い人たち頑張ったんだよ。すげぇよ。表彰させてくれよ。

 くだらない。クソ。クソ。クソ! クソまみれ!

 勘弁してくれ。

 もうヤダ。

 望海。助けてよ。私とアンタは家族なんだよ。だって私は現実世界でアンタと同じ血を持つ子供を産んだんだもん。

 そう、家族なんだ。家族なら私を助けるのが当たり前でしょ。

 望海。

 助けて。

 タスケテヨ。


EP43 お前を殺す

・稲穂南海香


 私はデジタル世界でも、綾瀬望海に対して憎悪を抱くことになった。でも憎悪を抱くに至った経緯は結構しょうもない理由が主だった。何故なら憎悪の原因はアイカプクルというサークルにあったから。

 アイカプクルはどうやら現実世界で実際に存在した同人サークルで、二千年代から二千十年代に活動していたらしい。

 代表者は佐伯可奈子。そう、生き返った分際であいつはデジタル世界でのうのうとまたアイカプクルを設立したのだ。

 死んで、生き返って、偽装チップを取り込んで記憶を継続したままデジタル世界に旅立ち、青春時代のサークルを架空の世界で作り上げる。ずいぶん図々しい女だ。

 デジタル世界におけるアイカプクルは佐伯可奈子にとって大きな意味があったのか、単なる暇つぶしだったのかは分からないけど、アイカプクルの全盛期はそれなりに有名なサークルで、作ったゲームはどれもヒットを飛ばしまくっていた。でも飽きたのかどうかは知らないけど、佐伯はひとしきり作品を出した所でアイカプクルを畳むとツイッターであっさり宣言した。

 実のところ私はアイカプクルのファンだった。佐伯自身には興味無いけど、佐伯とその仲間たちが作る作品を愛していた。だからアイカプクルが無くなるなんて嫌だった。

 しかし事態はころっと急転する。デジタル世界で一切私に接触してこなかった佐伯が、ある日私の所にやってきてこう言ったのだ。

「お前アイカプクルのファンだろ。いつもツイッターでアイカプクルの話ばっかりしてるし。そこで相談なんだけど、良かったらアイカプクル継いでみない?」

「私が?」

「うん。アイカプクルのリーダーになってさ、アイカプクルの意思を継いでくれよ」

 どう考えても不可解だった。デジタル世界で始めてコンタクトを取ってきたと思ったら、いきなりアイカプクルのリーダーになれだなんて、裏が無いと思う方がおかしいだろう。

 とは言え、佐伯は無理強いしてきた訳ではないし、アイカプクルで何をやっても良いと言われた。どんな作品を作ろうが、途中で飽きて潰そうが、誰かに譲ろうが自由だと。

 だったら乗ってやろうと思った。アイカプクルが無くなるのはイヤだっていうのは事実だし、もし佐伯になにか裏があるのなら、あいつの思惑の中にわざと飛び込んで探ってやろうと思ったんだ。

 なにより、リーダーという肩書きに強く惹かれていた。現実でもデジタル世界でもブスが原因で常に虐げられていた私にとって、リーダーという肩書きは本来手に入れる事ができない夢みたいなものだった。

 私は佐伯の提案を受け入れ、アイカプクルのリーダーとして君臨した。佐伯の脱退と共に他のメンバーも全員消えたから、新しくメンバーを募集して、アイカプクルのファンだった連中を何人かメンバーに加えた。私たちで作った作品はどれも評価がイマイチだったけど、それでも概ね順調に楽しめていた。

 それなりに幸せだった。創作活動で得られる生きがいや楽しさっていうのは、私がいた時代じゃ決して感じられないものだった。どんなにいじめられようが、ブスだブスだと虐げられようが、アイカプクルで活動している時間だけは幸福だった。いや私の幸福はアイカプクルだけだった。アイカプクルだけが生きる糧だった。心の支えだった。

 それなのに。望海とヤマトが加入してから色々おかしくなった。佐伯可奈子はちゃっかり望海とヤマトに接触してデジタル世界でもお友達になっていた。そして望海は佐伯可奈子の、アイカプクルの大ファンだった。望海はそういう縁もあってアイカプクルに参加申し込みをしてきた。ちなみに佐伯が居た頃はメンバーの募集は一切していなかった。

 望海とは同じ旭岡高校だったけど全く接点は無く、なんともいえない寂しさを感じていた。私は望海に憎悪を抱いているけど、憧れが無くなっている訳ではない。私は望海と一緒に創作活動が出来るならと快くアイカプクルに迎え入れて、その後望海が引っ張ってきたヤマトもしょうがなく入れてあげた。

 望海とヤマトが入ってすぐに、アイカプクルのメンバー全員で新作のアドベンチャーゲームを作ろうって事になったんだけど、それが不幸の始まり。

 ゲームを作ること自体は問題ではなかった。私がバカで、望海とヤマトが才能にあふれた人間だったことが問題だった。

 私は立候補してシナリオ担当となり、他のメンバーはイラストや作曲、主題歌のボーカルなどを担当し、望海とヤマトは全体的なゲームデザインやシナリオの校正担当になった。

 ちなみにヤマトはユニティで制作することを推したけど、プログラムを書ける人がヤマトしか居なかった。だけどヤマト一人にプログラムを任せたら勝手にあれこれいじくり回しそうだったから、プログラムの知識が一切無くてもゲーム制作が出来るツールで作ることにした。

 そんなこんなでメンバーの役割分担をして制作ツールも決めて順調にゲーム制作が始まったんだけど、私は数日でずずーんと暗い谷底に堕ちる羽目になった。

 私がシナリオ担当で望海とヤマトが校正担当だったから、私ら三人は頻繁に喫茶店に集まってミーティングを繰り返していたんだけど、もうそれがマジで散々なの。ミーティングっていうよりもただの言論リンチ。あいつらは私のシナリオにケチを付けまくった。まぁ校正なんてケチ付けるのが仕事みたいなもんなんだけど、それにしたって何事も限度はある。

「ねぇ南海香。聞きかじった言葉をさ、意味も良く分からずに使うのやめてくれる?」

「つーか、なんだこの稚拙な文章は。これをマジで公開する気か?」

「悪いけどこのシナリオは論外だよ。文章が下手くそなのもそうだけど、ストーリーが壊滅的に面白くないし、なんかもうツッコミどころが多すぎて突っ込む気力も湧かないよ」

「お前さ、平気でら抜き言葉使うクセによくシナリオなんか書こうと思ったよな。勘弁してくれよ。もしかしてら抜き言葉使っちゃうことが恥とすら思ってないのか? やべぇよお前。それはヤバイって」

「あのさぁ南海香。このストーリーさ、キューブリックの博士の異常な愛情に似てない? 絶対あの映画観て衝撃受けて感化されて、なんかテンション上がって自分の作品に取り入れたって感じなんでしょどうせ。すぐにぽんぽん他の作品の要素入れるのって素人むき出しで恥ずかしくない? ていうかせめてオマージュにしてよ。このシナリオはオマージュとかそういうレベルじゃない。丸パクリなんだよね。これは使えないって」

「つーか博士の異常な愛情って、俺たちが勉強になるから観た方が良いってすすめた映画じゃん? 本当なら自主的にあぁいう名作映画を観るようにならなきゃダメなんだよ。お前、俺たちに教えてもらうまでキューブリックもタランティーノもイーストウッドもダニー・ボイルも知らなかったんだろ? こんな名だたる映画監督の存在すら知らない奴がシナリオ執筆に立候補するなよ。あと一応言っておくが、俺と望海は勉強のためにキューブリックの映画をすすめた訳であって、キューブリックをパクれとは言ってないからな。あぁ、でもフルメタル・ジャケットをすすめなくて良かった。これをお前なんかにすすめたらとんでもない事になってただろうな」

「いや本当にそうだよね。って何ぽかんとしてんの。まさかフルメタル・ジャケットすら知らないの? 勘弁してよマジで。シナリオ書きたいとか言うからてっきりそれなりに本にも映画にも触れてるのかなって思ってたけど、まさかここまで無知だとはね。ねぇなんでシナリオに立候補したの?」

「というか、このケータイ小説みたいな文体なんとかならんのか」

「あぁそうそう。文章が下手なだけならまだアレだけど、さーすがにこの文体はヤバイよね。頭の悪さむき出しの文体っていうかさ」

「あとここと、これと……このセリフもさ、全部シャーロック・ホームズの緋色の研究に出てくるセリフだよな。何そのまま使ってんだよ」

「うわほんとだ。探せば他にも色んな作品からパクったセリフ出てきそう」

「お前、ストーリーもセリフもパクってばかりじゃないか。パクった作品を作って面白いか? 創作活動の醍醐味はゼロから百まで自分で成し遂げる事にあるんじゃないのか?」

「あーあとさ、アルジャーノンに花束をとか、アンドロイドは電気羊の夢を見るか……とかをパロったタイトルって良くあるじゃん? なんたらに花束をとか、なんたらはなんたらの夢を見るかとか見ないとかさ。でもこういうタイトル付けてる奴らって絶対にフィリップ・K・ディックもダニエル・キイスも読んでないと思うんだよね。そういうのめっちゃダサいと思わない? そうだよアンタのことだよ。なにこのタイトル。アンドロイドはユートピアの夢を見ない? 言っちゃ悪いけど反吐が出るタイトルだね。長くて語呂悪すぎだし、センスの欠片もないよね。で、パロディ元の本は読んでないんでしょ。マジ頭抱えるわ」

「さすがにこのタイトルはまずいだろ。こんなタイトルの作品マジで発表する気か? それだけは勘弁してくれ」

「ほんとほんと。ねぇ、アンタどういうつもりでこんなクソみたいなタイトル付けてんの? パクりまくった作品を堂々と嬉しそうに私たちに突きつけるそのイカれた神経なんとかなんないの?」

「お前が書いたシナリオは採用出来ないね。良いか? アイカプクルは結構有名なサークルだったからハードルは高いんだ。ファンの目が肥えてるからな。だからなおさらこのシナリオは無理だ。それにな、俺は別にアイカプクルに愛着なんてないしファンでもなかったけど、偉大な先人が作り上げたサークルに傷を付けるような真似はしたくねぇんだ。でもお前は無自覚にアイカプクルを傷付けようとしてる。他のシナリオをパクった作品を世に送り出そうとしてる。俺たちはただ楽しむためだけにサークル活動してるのか? 違うだろ。ままごと感覚でやってるなら失せろよ」

「あれ? まさか南海香ってままごと感覚だったの?」

「そんな事はねぇよな? だってお前はリーダーになってからメンバーかき集めたり色々精力的に動いてたもんな。ただ遊びたいだけの奴があそこまで頑張るとは思えん。……もしかしてお前、ただ仲間が欲しかっただけなのか?」

「違うよね? 南海香だってそれなりに本気で面白い作品を作りたいっていう気持ち持ってるはずだよね? でも面白い物語を作るためにはね、たくさん本を読んだり、映画を観たりしなきゃダメなんだよ。素振りもキャッチボールもした事ない奴がプロ野球選手になれると思う? 勉強もせずに創作やるとかアンタはバカなの? 創作は一にも二にも勉強だよ。いやまぁ所詮同人サークルだし私らのやってる事は大なり小なり遊びみたいな所もあるかもしれないけど、結局遊びだって勉強は必要なんだよ。友達とかくれんぼとか鬼ごっこするにしても、ルールをお勉強する必要はある訳でしょ?」

「そうだそうだ。一から百まで遊びたいんなら、自分一人でやってろよ」

「ていうか南海香が書くシナリオってさ、これシナリオじゃなくてただの作文になってるんだよね。身が入ってないっていうかなんていうか……。あのね南海香。物語っていうのはね、まず自分が書きたいメッセージが先に来るのね。でも書きたいメッセージを書くだけじゃただの作文になっちゃうし、作文なんて誰も読んでくれないから物語っていう味付けをしてシナリオとか小説にするものなの。南海香のシナリオには一番大事なメッセージが無いんだよ。淡々とストーリーを書いた作文になってるんだよ。アンタのシナリオ読んでも何を書きたいのか、何を伝えたかったのかサッパリわからない。だから結局つまんなくて中身のない物語になってるんじゃないかな。南海香よーく聞いて。たとえ尋常ではなく面白い物語を書けたとしても、そこに自分が書きたいメッセージが何も入ってなかったら、私はその作品になんの価値も見いだせないと思うんだ。分かる? 私はアンタのシナリオになーんにも見いだせないの」

「そういうことだな。なぁ稲穂。悪いけど俺もアヤも、ただ楽しむだけじゃ満足出来ねぇんだよ。やるからには自分たちの作品に意味や価値を生みだしたい。そのためにはテクニックが必要だし、テクニックを得るために俺たちは努力してる。でも、お前は努力をしていない。それどころか努力が必要だっていう当たり前のことも分かってない」


「南海香。原稿の締め切り過ぎてるよ。……なんで不機嫌な顔してるの? 約束を破ったり、悪い事をして怒られるのは当たり前でしょ? まさかアンタ、たとえ自分が悪かったとしても、怒られただけでパニックになるような豆腐メンタルの持ち主なんかじゃないよね? アンタ一人が締め切り破るだけで皆に迷惑がかかるんだよ。ねぇなんでまだ提出してないの? どうして? 理由は? 正当な理由があるならちゃんと聞くよ。で、まだ提出してない理由は何なの?」

「ねぇ南海香。ウチのイラスト担当の子だけどさ、小学生レベルの絵しか描けないよね。あんなクソみたいなイラストをゲームに使う気? 冗談でしょ。なんであんな奴アイカプクルに入れたのさ。私の方から別の人に外注しておくね」

「おーい南海香。作曲担当の子も全然ダメ。何あのクソメロディ。あんなの主題歌に使うの? ありえないよね。いやもういいわ。私が曲作る。あー大丈夫大丈夫。私結構打ち込み得意だからさ。私の方で作曲して、今度バンドやってる友達に頼んで収録しておくよ。あ、ていうか私キーボード弾けるし一緒に収録させてもらおうかな」

「へいへーい南海香。今日ボーカル担当の子から音源届いたんだけどさ、あの死ぬほど音痴な歌はなんなの。あれは使えないよ。高校生とは思えないよあの音痴っぷりは。あ、そうだ。ていうかもう私が歌うわ。大丈夫大丈夫。私めっちゃ歌うまいから」

「もうダメだわ。アンタもアンタのお仲間も死ぬほど使えない。アイカプクルとかマジでロクな奴いないじゃん。結局ほとんど外注に頼る羽目になったし、それでも足りない作業は私とヤマト君が兼任する事になったし。もう我慢の限界だわ。特にアンタはクソみたいなシナリオしか書けないし締め切りは破るし話にならない」

「ねぇ、もうこのゲーム無理だよね。ぐちゃぐちゃだよ。南海香に付き合ってたらいつまで経ってもゲームなんか完成しない」

「あのね、実は結構前から私とヤマト君の二人で別のゲームを作ってるんだよね。うんそう。アイカプクルの作業と平行しながらね、二人でこっそり進めてたの。アリアンロッドっていうアドベンチャーゲームなんだけどさ、凄くヒットしそうな予感するの。そこで相談なんだけど、アリアンロッドをアイカプクルで公開してみない?」

「え? あぁバレた? アンタの言う通りだよ。ぶっちゃけ最初からアリアンロッドをアイカプクルで公開する気満々だったんだよね。そのためにヤマト君を引き入れたようなもんだし。南海香たちと一緒にまともなゲーム作れる気なんかしなかったしね」

「今アイカプクルで作ってるゲームはもう南海香の方で好きにしていいよ。私とヤマト君はアリアンロッドに集中するから。え? 無責任? いやいや。私とヤマト君は頑張ってたじゃん。無能なスタッフから仕事を奪って、別の優秀な人間に仕事まわして音楽もイラストもクオリティ高いものにしたし、アンタのやばいシナリオを校正しまくったし、全力で頑張ってたよ。むしろまともに作業出来てたの私とヤマト君だけじゃん。でもアンタは足引っ張るばっかりで全く役に立たなかった。なにが無責任よ。アンタ正気? 大丈夫? つーかアンタに任せてたらアイカプクルは地に落ちるだけだよ」

「私はアイカプクルをね、可奈子さんが所属してた時みたいな素敵なサークルに復活させたいの。アリアンロッドならそれが出来る。ね? 良いよね。私とヤマト君はアリアンロッドの制作に集中する。あ、もちろんこれは二人で作ったんだから、売り上げ金は全部私とヤマト君のものだよ」

 私は発狂した。望海とヤマトの全てが正論で、頭が噴火しそうだった。正論すぎてうざかった。

 もちろん望海とヤマトが客観的に見ても言い過ぎであり、言葉が強すぎであり、偉そうであり、私の人格を否定するような暴言が多々あったのも事実ではあるけど、根本的に彼らの言葉の内容自体はどれも正しかったと思う。

 それに望海とヤマトは私なんかよりも遥かに真剣だった。真剣だからこそ言葉がどんどんキツくなってしまったんだろう。あいつらは最高の作品を作るためなら鬼になる。無能な奴には容赦しない。下手くそな奴に対して嘘っぱちの褒め言葉なんか言わない。遠慮なくお前は下手だと言い放つ。無能な奴のせいで作品のクオリティが落ちそうだと判断したら、無能な戦犯を追い出すことも厭わない。

 あくまでも素晴らしい作品を作る事だけ考えれば、それが当たり前なんだろう。悔しいけどそう思う。敢えて無能たちをわっしょいわっしょい持ち上げる理由はない。

 でもなんだよ。二人でこっそり作ってたゲームをアイカプクルで公開しようって。いくらアイカプクルの地位を底上げしたいからって、わざわざ無能な人間たちの群れに突撃して有能っぷりを見せつけてオラつくなんて酷すぎる。

 つーか、望海の最終的な目的は私達を追い出す事だったんでしょ。絶対そうに決まってる。ヤマトはともかく、望海はあそこまでボロクソに人をこき下ろすような奴じゃない。きっと望海はアイカプクルの毒を吐き出すために、あそこまで私を罵倒したんだと思う。

 それってどうなんだよって苛立ちは募りまくったけど、何も反論できなかったし二人を責め立てようとしても言葉をうまく紡げなかった。だって誰が悪いとか悪くないとかそういう話は別として、そもそも私が有能な人間ならばなんの問題も無かったのは紛れもない事実だろうから。もし私が有能であれば、望海の方からアリアンロッドの制作を手伝ってくれとお願いしてきた可能性だってある。

 でもそんな未来は無かった。全く。全然。何も。

 私は無能で、努力することの大切さも努力する方法も分からなかった。望海とヤマトは有能で、努力することの大切さとその方法を良く知っていた。

 望海とヤマトは二人でアリアンロッドを作り続けた。私とそれ以外のメンバーは制作中のゲームをなんとか完成させようとしたけど、思ったようなクオリティにならず挫折した。

 アリアンロッドは無事に完成して大ヒットした。アイカプクルのファンは「さすがアイカプクル」とか「優秀な後継者が入って良かった」とか「最高に面白かった」とか褒めちぎり、インディーズのゲームとしてはかなりの売り上げを記録した。

 有能な奴らが然るべき金と名誉と地位を手に入れる。それが許せなかった。不公平じゃないか。私みたいな無能な人間はトップになれない。更に言えばたかが整形ですら莫大なお金がかかるから、おいそれと美人になる事も出来ない。

 そんなの有りかよ。この世界で正しい在り方を示しているのはオンラインゲームだけだ。ゲームなら容姿を自由に決められるし、努力すればした分だけお金や道具が手に入るし強くもなれる。素晴らしくフラットで恵まれた世界だ。

 しかし現実はそうじゃない。たまたま有能に産まれた人間がピラミッドの頂点に君臨できるザ・運任せ社会だ。たまたま無能に産まれた人間に生きる道はない。用意されてない。救済策もない。そのクセみんな、ブスと無能をバカにする。

 ふざけんな。政府はブスと無能が楽しく生きられる人生を用意出来ないなら、せめて「ブスと無能をバカにしたやつ即死刑」みたいな法律でも作って保護してくれよ。なんで悪口言われ続けて悲しんでる醜い人間を放置してんだこの世界は。

 私は望海を憎んだ。この世の理不尽さにうんざりした。

 心から望んだ。有能な奴らが、正しい奴らが損をする世界こそ正しい姿だと思った。そうじゃないと無能は永遠に底辺のままだから。有能な奴らがそれなりに落ちぶれてくれないと世界はフェアにならない。百がゼロになるような世界じゃないとユートピアなんか未来永劫訪れない!

 ねぇ。どうすれば良いの? 教えてよ。私はブスでおまけに声も気持ち悪くて、運動神経が悪くて創作の才能も無くて。本当に何も無い人間で。

 まずい。これはまずい。こんな世界が二十年も続いて良い訳がない。デジタル世界には必ずシンギュラリティが訪れなければいけない。シンギュラリティの恩恵が無いと、無能は幸せになれない!

 やっぱりアヌンコタンの夢は正しかったんだ。あと何十年かすればオメガに対するハッキングは完了し、この世界にはやがてシンギュラリティが訪れる。

 だからいま一度願おう。アヌンコタンの夢が叶いますように。無能な人間全員が幸せになれるように……。いや。

 私が、幸せになれる世界が訪れますように。心から強く、深く願う。

 このままじゃ私は永遠に不幸のままだ。虐げられたままだ。私は自分が輝ける世界が欲しい。だから二千二十年の先に進みたい。

 いや、それだけで良いのか? デジタル世界にシンギュラリティが訪れても、現実世界の二の舞になるんじゃないか? 絶対そうだ。シンギュラリティが訪れれば私は幸福になれるかもしれないけど、そんなのただ世界に幸福を与えられてるだけじゃないか。

 嫌だ。物足りない。それじゃダメだ。

 勝ちたかった。私は人類に勝ちたい。望海に勝ちたい。世界に、勝ちたい。

 無謀な夢か?

 違う。

 そんなことない。

 だって私はカムイヌレを投与してるんだぞ。現実世界の記憶を持ってるんだぞ。その気になればUJオメガを操って世界を操れるんだぞ!

 あぁ。

 そうだ。

 出来る。

 出来るはずだ!

 それに。ほら。

 そう、思い出した。

 篝火乙女事件。

 ずっと眠らせていた物語。アイカプクルに入ってもなお温め続けていた渾身の物語。これがあるじゃないか。

 私は決断した。この世界で篝火乙女事件を実行してやろうと。

 でも篝火乙女事件のラストでは望海を引き金にして人類は現実世界に戻ってしまう。だから物語を修正する必要がある。

 無差別に人を殺す殺人マシーン。殺害現場に残される綾瀬望海のアルファベット。どんどん殺されていく望海の友人たち。いよいよ一人になった望海はついに私の番だと絶望する。その時……その時……えーと。

 あれ。どうしよ。分かんない。どうすれば良いんだろ。えー……あ、そうか、殺せば良いのか。UJオメガのハッキングが終われば人なんて簡単に消せるだろうから……えっと……つまり……うん? どういう事? そもそも記憶は……あん? えーとえーと……あぁ分かった分かった。

 要するに、UJオメガの支配権を手に入れたタイミングで、望海に最後の爆弾を投げて絶望のどん底に突き落として、記憶を蘇らせて……。で、望海が引き金になる前に殺せば良いんだ。

うん。完璧だ。さすが私。

 望海。アンタはもう憎悪を抱きしめる事すら出来ないんだよ。

 デジタル世界は永遠に続く。

 二千二十年が訪れても、世界はリセットされない。死んだ人間は生き返らない。

 篝火乙女事件でアンタは苦しみながら死ぬ。アンタが死んだ世界は終わることなく続き、シンギュラリティが訪れる。

 私は笑う。

 神様となって憎しみを打ち消し、豊かな世界で生きていく。

 望海。アンタは無様に死んでいくんだよ。

 良い気味だね。

 お前、少しは無能な人間の気持ち、理解した方が良いと思うよ。


EP44 これがわたしのいきるみちぃ!

・エルヴィラ・ローゼンフェルド


「ズンチャチャッチャ、ズンチャチャッチャ、ズンチャチャッチャだーんだーん!」

 私はコロポックル・コタンでお洋服作りに勤しんでいた。昔ながらのミシンを使ってひたすらに糸を縫っていく。単調な作業だけど結構楽しい。ミシンのリズム感のある音を聞いてると自然と声も出てきちゃう。ズンチャチャッチャだーんだーん!

 自分でものを作り上げるっていう行為は純粋に楽しい。大変だしイライラする事もあるけど、完成した時の達成感は言葉にできないものがある。

 ロボットがいくらでも服を作ってくれる時代な訳だから、もちろん自分で服を作る必要性はない。でも必要性のない想像や作業や労働が問答無用で無価値なものになるかと言えばそうではない。物を作って楽しいと思える事そのものが揺るぎない価値の一つなんだ。

 だから敢えて自分で服を作る。例えロボットより優れた服を作れなくても、そんなことは全くもって問題じゃない。優れた物にも確かに価値があるけど、価値に含まれた意味が全く違うのだ!

 個人にとっての世界は自分の中にある。他者に勝つ道を目指すのも良いけど、結局最終的に大事なのは自分との勝負。それを忘れちゃいけない。戒め。

「きぃみぃと~いつもいっしょお~ふぅたぁりぃでーかけるぅ~つーらーい事あーるーけーどーたーぶーんだいじょうぶだ~」

 ミシンの扱いは丁寧に。リズム良く、小気味良く、心を込めて服に針を通していく。

「いぃつぅもぉ元気いっぱぁ~いたーのーしーい~こと~たーくーさーんーあーるぅかーら~ふんふふーん」

 ……あれ? ていうかミシンで服作るのって手作りは手作りだけど、結局機械の力借りちゃってるよね? ガチで手作りするなら手編みじゃなきゃダメじゃない? ……まぁ良いや。デザイン考えたのは自分だし、ミシンだってテクニックは必要だしね。

「ふーがいない姿~見っせなーいで~いっくぞ~いっくぞ~どぅるるるる~ん」

 ミシンの動きを変える。小刻みに、リズミカルに。

「ズンズンズン! ズンズンズン! ズンチャッチャ!」

「エル」

「ズンチャッチャッ! ズンチャッチャッ! ほいさ?」

「鬱陶しいから黙っててくれない?」

「えー。でも口でリズム取ってるとね、手元が狂わないしうまく出来そうな気がするんだよね」

「黙れっつってんだろ」

「ごめんなさい」

 しょんぼりウルウルしながらマキ部長を見上げたけど、冷たく目を逸らされた。なんだコイツ。ずっと前から機嫌悪いみたいだけど、八つ当たりならやめてほしい。ちきしょうっ。後で凛音に慰めてもらおーっと。

「なに、その目」

「むぅ。なんでもないでござる~」

 マキ部長は無表情で正面の椅子に座って、セブンスターをぷかぷかし始めた。スパスパと吐いて吸ってをせわしなく繰り返してるし、眉間に皺が寄ってるし、どうやらいつにも増して機嫌が悪いご様子。

「……むむ?」

「あ? だからなによ」

 マキ部長の肩にホコリが付いている。そういえばいま地下室から出てきたみたいだけど。

「ねぇねぇ。地下で何やってたの?」

「ガラクタ漁り」

「ガラクター?」

「ほら、この家昔は喫茶店だったでしょ。地下の倉庫に色々と面白い物があってね。例えばこんなの」

 と言って、マキ部長はゴッツイ謎の物体をテーブルに置いた。なんかすっごく気になったからミシンの電源を止めた。

「何これ」

 その物体はなんとなくゴーグルのように見えなくもない代物だった。見た事ある気もするんだけど。

「これはね、二千十年代にそれなりに流行ったVRゴーグルなのよ。プレイステーション4っていうゲーム機に繋げて使ってたの」

「どぅどぅっはー! これがゴーグル? でけぇー!」

「そう。でかいの。でも昔の人はね、これを頭に装着してVRゲームをしてたのよ。笑えるでしょ」

「うん。笑える。笑うしかない」

「でしょ? ていうかこんなの付けてたらさ、コーヒー飲んだりお菓子食べたりする度にゴーグル外さなきゃいけないし、トイレ行く時だっていちいち付けたり外したりしなきゃダメよね」

「だよね。あと当時は……スマホか。こんなの付けてたらスマホもいじれないじゃん。バカみたい」

「そうね。バカみたいね。アンタもだけど」

「むっかー! 何いきなり?」

「ミシンなんて使ってるからよ。服ならロボットに作らせれば良いじゃない」

ほぎょー! 私が作った服を褒めてくれる凛音とは真逆の人間でござる! む、む、むかー!

「楽しいから自分で作ってるんだよ。そのオンボロVRとは話が別だよ。無駄にでかいゴーグル付けてゲームをするメリットは無いけど、自分で服を作るメリットはあるでしょ」

「楽しい? 服を作るのが楽しいの? でもエルがどんなに頑張ったってさ、ロボットより良い服なんて作れないでしょ。メリットなんかどこにあるの?」

 分かってないなぁこの人は。

 そりゃ今の時代はロボットが素敵な服を作ってくれるよ。バーチャル上で服屋さんに行けば、自分の体型をリアルタイムで再現したアバターにこれまたバーチャル上の服を着せ替えて、お気軽に自分を着せ替え人形にして遊びながら最高のコーディネートを考えたりも出来るよ。でもそれだけじゃ味わえない楽しさってのが確かにあるんだ。素敵な服を着て楽しむ。自分で素敵な服を作って楽しむ。楽しさのベクトルが違うじゃん。……ところでベクトルって具体的にはどういう意味なんだろ? スペルすら分かんないけど。まぁ良いやそんなこと。

「あのねぶちょー。人間は有能だろうが無能だろうが何だろうが、自分の力だけで物を作ることに幸せと楽しみを感じる変態なんだよ。だから私はこうしてミシンで服を作ってる。なにもおかしいことじゃないよ。ね? 快適性皆無なVRで遊ぶのとは訳が違うでしょ。だから私を懐古主義の人間だとは思わないでね」

「今の時代、服を作る以外の娯楽なんていっぱいあるけど?」

「はい不毛です不毛です~。私は楽しいんですー。だから良いんですー」

「あくまでも楽しむのが目的なのね?」

「まぁどうせやるんならさ、そりゃ少しでも良い服作りたいけど。それは二の次だね」

「ふーん?」

 むむっ。納得いかないご様子……はっ! ピコーン! 良い例え思いついた!

「フィギュアとプラモデル、比べるの不毛だと思わない?」

「ん?」

「フィギュアは完成された物。プラモデルは自分で作って完成させる物。どっちも違った面白さと魅力があると思うんだけど、マキ部長はプラモデルに価値は無いと思ってるような人なんだよね。じゃあタミヤが長年愛されてる理由を説明してくださいな」

 自分で何かを創造するっていう行為にこそ、科学じゃ説明できない神秘性がある。なんてことをエルるんは思う訳です。

 だって、人生は遺書を書き連ねていくものだから。

「ねぇ説明して。自分で何かを作る事に、本当に何も見いだせないの?」

「……まぁ、言いたい事は分かるけど」

 はい論破。終了。

 私はほっと息を吐いて、作りかけの洋服を両手で持って眺めた。完成するまでもうちょっと時間かかりそうかな?

「ねぇエル。本当に良いの?」

「なにが?」

「アンタ、死ぬんでしょ」

「うん。エルちゃん死にます」

「やめなさいよ」

「良いじゃん別に。私何年生きてると思ってるのさ」

「後悔するよ」

「心配しなくてもいいよ。デジタル世界で人工知能として生きていくんだからさ。私が完全に消滅する訳じゃないもん」

「あっちの世界で人工知能として生きていく選択自体は否定しない。でもアンタが死ぬなんてこと、私は受け入れられない」

「矛盾だぁ」

「もし凛音がデジタル世界を終わらせたら、アンタはこの世から消えるのよ。それでも良いの?」

「あーうるさいうるさい。放っといてよ。私は死ぬ。これは揺るがない。覆りません。ちゃぶ台の足には両面テープがくっついてます。オーケー?」

 マキ部長は憮然とした表情でため息をついた。むっかー! ため息つきたい気分なのはこっちですけどー?

 全く。せっかく良い気持ちで死に装束を作ってたのにさ。なんか調子狂っちゃった。続きは明日にしよう。

 とにかくもう決めた事なんだ。私は現実世界で安楽死という形で生を全うして、そのかわり自分を模した人工知能をデジタル世界に投入して生きていくことにした。この気持ちは今も揺るいでいない。まさに鋼の意思ってやつでございます。あ、もちろんこっそり私の人工知能を作ってくれたマキ部長のお父さんにはマジ感謝。デジタル世界が始まったら、あらかじめ用意しておいた私の人工知能を生み出してくれる手はずになっている。うん、完璧。

「あ、そうだ。ぜったい凛音たちには言わないでよ? バレたらあの人達死にものぐるいで止めるだろうから」

「言ってない。言うつもりもない」

 マキ部長は断言した。それで確信する。やっぱりコイツは……。

「エル。良く聞きなさい」

「むおお~」

「……?」

「集中してるの。むむむむおお~」

「あの、さ。やっぱり洞窟でその……あぁいう目にあったことが原因なの?」

「違うけど」

「じゃあなんで死んじゃうのよ」

「え? だって今は英語もドイツ語も喋る必要無いじゃん。いやー楽に死ねるのって良いよねぇ」

「……」

 マキ部長はぎろぎろりんと睨みつけてきた。おぉこわっ。

 いやーでもね、実際こう改めて質問されても困るんだよね。洞窟でレイプされたことも、もしかしたら少しくらいは影響してるかもしれないけど、死ぬと決めた一番の理由は「なんとなく」なんだよね。

 なんかもうね、特に意味はないけど生きるのがイヤだったんだ。疲れたんだ。飽きちゃったんだ。死にたい理由なんてそんなもんだよ。風船は空気を入れ続ければいつかは爆発する。つまりそういう事。服を作るのは確かに楽しいし飽きないけど、趣味や娯楽ってのは世界の外にあるもので、自分自身が世界というシャッターを閉じてしまえばもはや全てが蚊帳の外。

 洋服作りという行為じゃ、世界に勝ち目はない。だからね、ぶちょー。

 私に生きる意味を与えようとしなくても良いんだよ。

ぶっちゃけ不老不死とか心底どうでもいいの。そこまで長生きしてどうするんだよって思うもん。私は飽きたんだよ人生そのものに。正直言うとヤマト君たちと一緒に洞窟で暮らし始めたのはなんとなく楽しそうだったからっていうのが理由であって、別に不老不死に強く憧れてた訳じゃない。毎日つまんなくて、でも死ぬのは怖くて、だけど死ねないまま年取るのはもっとイヤだから不老不死を目指していただけに過ぎない。もし不老不死になれなかったら死ねば良いやとか、そんな適当な事しか考えてなかった。

 まぁ結局死ぬのはイヤだってのが本当に面倒かつ究極の問題なんだよね。だって怖いしなんとなく納得できなかったしね。そんな時にデジタル世界移行計画なんてものを知ったから、最終的に現実世界で死んでデジタル世界で人工知能として生きていくことに決めたんだ。これがベスト。私の最終話。デジタル世界での人生は消化試合。デジタル世界が終わろうが永遠に続こうがどうでもいい。

 ……なんてね。

 ははっ。

 ダメだ。

 うまく言語化できねぇ。

 私なに言ってんだろ。

 自分でなに考えてるのか分からない。

 考えてること、言ってることめちゃくちゃ。矛盾だらけ。筋が通ってない。

 まぁ、ある意味それが答えか。

 死にたい理由をうまく説明できない。私はきっと、とっくのとうに一線を越えている。

 私は鼻を鳴らして腕を組み、マキ部長を見つめた。私はこの人と長い付き合いの友人だけど、残念ながら涙ぐましい他者との繋がりが本物の鎖になる事はない。

「あのね。エルるん思う訳です」

「……なに」

「生きるの飽きた~生きるのめんどい~ダルい~つまんない~でも死ぬのは怖い~自分の歴史を終わらせるのなんかヤダなぁ~だったら死んで~自分を模した人工知能を生かしておこうかなー……ってある意味最高っていうか究極っていうか、ちょ~合理的な考え方じゃないのかなって。マキ部長もそう思わない?」

 うん。死にたい理由はもはや自分でも意味不明だけど、自分がやろうとしてる事はちゃんと説明できる。私は決して、心が壊死して消えるのではない。

 マキ部長は呆れたようにため息を吐いて、頬をぽりぽり掻いた。

「一理あるかもしれない。でも単純に考えなさい。何度も何度も言うけど、デジタル世界が終わったらアンタも消えるのよ」

 ほよ? ずいぶんと話の通じない人だな。いや、聞く気がないのか。

「うん。消えちゃうね。デジタル世界が終われば、同時にエルヴィラ・ローゼンフェルドの人生はそこで終了。当然だよねっ」

「良いの?」

「うん」

「ダメよそんなの」

「なんで?」

「なんでって……。そりゃアンタ、友達が消える運命にあるのをさ、黙って見守る訳ないじゃん」

「ぶーぶー。面倒くさいなぁ」

「考え直しなさい」

「なんでそんなにしつこいのさー……は! も、ももももしかしてぶちょーは私のこと好きだったり……? ぎゃー! レズだー! う、うわーんエルるんそっちの気は無いから勘弁してー!」

「アホかお前は……」

 マキ部長はブラックコーヒーを一口啜って、タバコを灰皿でもみ消した。灰皿は吸い殻でてんこ盛りになっている。

「……相変わらずゴスロリ全開ね」

 マキ部長は私の死に装束を両手に取り、呆れた様子でまじまじ眺め始めた。

「ほよー? どの辺がゴスロリ?」

「どの辺って……全てがよ」

「だはっ」

「私がこれ着たら似合うかな?」

「壊滅的に似合わないと思うよ」

「凛音は?」

「……いや、どうだろう。似合うかもしれないけど、私はこれを笑顔で着飾ってぷりぷり笑ってる凛音の姿は想像したくないな」

「そうね。今ちょっと想像してみたけど、心底気持ち悪いわね」

「両手の人差し指をほっぺたに当ててポーズ決めてたり」

「……もはやホラーね」

「うん。ホラーだ」

 まぁ、一度だけ私のゴスロリ服を着てお茶目なポーズ決めてた事マジであるんだけどね。何度も「似合ってる?」、「可愛いかな?」、「このポーズどう?」とか聞かれて心底うざかったよ。

「あのさ」

「ほいさ」

「自殺をせずに、人工知能だけデジタル世界に送るっていう選択は無いの? お父さんに頼めばやってもらえるかもしれない」

「え。んな事したらデジタル世界に私二人作られちゃうじゃん」

「一人はロシアでもう一人は日本に……」

「いやだから良いんだって別に。面倒くさいよそんなの」

「でも結局デジタル世界でも生きていくんでしょ? それは面倒じゃないの? 全くもって意味が分からないわ」

「ん。自分でも良く分かんない」

「アンタさ……」

「あーうるさいなぁだからもう放っといてよ。あ、もしかしてマキ部長ってー、記憶の心配してる? だーいじょうぶだよ。現実世界の記憶は継続するけど、デジタル世界の私はちゃんと記憶リセットされるようにしておくから」

 デジタル世界で産まれたエルヴィラ・ローゼンフェルドは現実世界の記憶を持っている。でも二千二十年が終わって世界がリセットされると、デジタル世界で生きた二十年間の記憶はリセットされ、現実世界の記憶だけを持ったエルヴィラがまた産まれる。

 これなら完璧だよね。これがもしリセットの影響を受けないとかだったら地獄だけどね。だってデジタル世界が一億年続くとしたら、私一億年生きなきゃダメなんだもん。それはヤバイ。

「まぁそういう訳だから、これ以上ぐだぐだ言うのやめてくれないかな。ていうか私そんなにおかしな事してるかな? 人工知能としてデジタル世界で生きていく。すんばらしい生き様じゃん。私は哲学的な人生なんか求めてない」

 私はせいぜいドヤ顔でふんぞり返ってやった。はい論破! 論破論破! ろんぱっぱ~。

「でもねぇ……。これじゃ夏希が浮かばれないわ。だって……」

「まだぐちぐち言う訳? 私の人生に口出ししないで!」

「するわよ。私が悲しいから死ぬのはやめてなんて言わないけど、説得はさせてもらうわよ」

「じゃあ私が人生最高! って思えるような世界を用意してよ!」

 私がそう言ったら、マキ部長にずっとへばりついていた不安そうな表情がにゅわっと消えて、かと思ったらニヤっとめちゃくちゃ不敵な笑い方をした。え? なんですかいきなり? 気持ち悪いよ?」

「な……なにその顔? キモいよ?」

「あ? 今なんつった?」

「キモい」

「キモい? 世界で一番美しいこの私が? アンタの顔を今すぐ無数の肉片にしてパズルで遊べるようにしてあげましょうか?」

「そんなに怒らなくても良いじゃん」

「私は人に悪口を言うのは好きだけど、悪口を言われるのは嫌いなの」

「そうなんだ。ごめんね」

「分かれば良いのよ」

 そういえば凛音も前に似たようなこと言ってた気がする。凛音もマキ部長も、みんな頭おかしい。

 部長はコーヒーを啜って、椅子に深くもたれかかった。これは本題に入るわよっていう合図だ。だから私は立ち上がってコロポックル・コタンを出ようとしたんだけど、案の定ガシッと長いツインテールを掴まれた。

「座れ」

「あの」

「座れ」

「座ります」

 しょうがなく椅子に座り直すと、部長は何事も無かったかのように喋り始めた。

「エル。アンタは今、私が人生最高だと思える世界を用意してって言ったわよね」

「言ったわよ」

「なんで口調真似するの」

「してないわよぅ」

「バカにしてるのかしら?」

「してないわよぅ」

「してるわよね?」

「言ったよ」

「凛音の最終的な目的は?」

「現実世界と独立世界の両立」

「そう。エルは人生最高だと思える世界を手に入れられるかもしれないのよ。なのにどうして自殺なんかするの。それにアンタ、独立世界を肯定するようなこと言ってたじゃん」

「三つ答える必要があるね。まずひとつ。さっきの発言は言葉の綾。ふたつめ、私はあくまでも客観的意見として肯定しただけで、自分の願いを語ったつもりはない。みっつめ、私はデジタル世界なら夢だと割り切れるけど、独立世界は腑に落ちないの」

「夢なら生きていけるって……?」

「うん」

「凛音の思想とは、ちょっと違うのね」

「だね」

「アンタの理屈が分からないわ」

「分からなくていい。人間は可視化、言語化できるような合理的思考だけで生きてる訳じゃないんだよ。だからこの点に関して議論するつもりはないよ。理屈じゃないもん。他人の生き様に採点でもする気?」

 マキ部長は口元を歪めた。んー、どうしようかな。さすがに私を説得しようとしてる仲間に対してこの態度はキツすぎかな。よし、慈悲を施そう。

「ただまぁ……敢えて言うと……私がこだわってるのは世界の在り方じゃないと思うんだ。あくまでも自分を模した人工知能が生きるって所が肝なの。デジタル世界で生きる私は私だけど私じゃない」

「自分の定義が重要ってこと? アンタは自分が人間じゃなければ問題ないの?」

「うーん……とね。やっぱり自分を殺すっていう結果が全てなんだと思う。だからマキ部長の言う通り、りんりんの意思とは相容れないんだ。私は夢、カリソメに逃げるつもりなんだから」

「佐伯可奈子と同じね」

「結果は同じだけど過程が違う。あの人は勝手に生き返ったし、多分可奈子は今の自分に納得してない」

 私はオレンジジュースが入ったグラスを手に取り、一口飲んだ。するとマキ部長は唐突に意を決したように息を吸い、口を開いた。

「エルは、独立世界なんかどうでもいいのね」

「うん」

「でも、凛音たちには協力するのね」

「うん」

「一応聞くけど、レイプされた件については?」

「私は辛い記憶を抱きしめ続けるよ。でも、この記憶のために永遠に生きようとは思わない」

「もう一度同じ事を聞くわよ。独立世界は、どうでもいいのね?」

「だからそうだってば」

「じゃあ遠慮なく言うけど」

「むむ」

「私はデジタル世界が永遠に続いてほしいと願ってる」

「……」

「……」

「凛音にちくってくる」

「ダメよ」

「だはーっ。どえらいこっちゃでござるんるん~」

 私は頭を抱えるポーズを作ってみたけど、実のところ予想通りの展開だった。冷静に順序よく今起きている物語を整理すれば、おのずとマキ部長が敵だっていう事実が見えてくる。

 凛音としては、可奈子のように「現実世界の記憶を持ち、デジタル世界で立ち回れる人間」は一人でも多く欲しいはずだ。

 そこでキーになるのが、この私エルヴィラ・ローゼンフェルド。形はどうあれ私は現実世界の記憶を持ったままデジタル世界に行ける訳だけど、これを知ったら凛音はマキ部長のお父さんに「私と永遠にいつでも何回でもセックスできる券」をプレゼントするだろう。

 が、しかし!

『言ってない。言うつもりもない』

 マキ部長は、新生エルるんの話を凛音に言うつもりはないと断言した。

 これが答えだ。

 現実世界の記憶を持った人工知能をデジタル世界に大量投下する事が出来れば、ペンラムウェンの勝率は上がる。こーんな素敵事項を凛音には言わないなんて、敵じゃなかったらなんなんだって話だよね。

 まぁ私だって隠してる事に変わりはないけど、事情が違うもんね。第一私は凛音のために頑張るつもり満々だし。自分第一で、世界は二番目って感じかな。

「あんまり驚いてないのね」

 マキ部長は疲れ切ったようにぼやいた。ふふんっ。私はいつでも期待通りのリアクションをするようなシンプル人間ではないのだよ。

「だはー。バレた?」

「うん」

「ぶちょーはペンラムウェンとは相反する思想を持ってるんだよね」

「そうよ。凛音は邪魔でしかない」

「分かった」

「何が?」

「やっぱり凛音にちくってくる」

 私が立ち上がると、マキ部長は私のツインテールをギュッと握った。

「ダメ。ちくるの良くない」

「せんせー! 莉乃ちゃんがクーデターしようとしてますー!」

「私、結構マジなんだけど」

 はぁ。私はマキ部長の手を振り払ってちょこんとベンチに座りなおした。

「ていうかさぁー、もしかしてー、マキ部長の仲間になって凛音を倒せばー、永遠にデジタル世界で生きられるのよーとか言いたいの?」

「そう言いたい気持ちがあるっていう事をアンタに伝える気はあるけど、さすがに直接言うつもりはない。それに、私だってアンタのためを思ってデジタル世界が永遠に続けば良いなって思ってる訳じゃないし」

「じゃあ、なんでこんな話を私にしたの」

「あら。分からない?」

「凛音と戦うために協力してほしい……とか?」

「正解」

「どひゃー」

 面倒なことになってきた。嘘でもいいから、独立世界を望んでるって言っておけばよかったかな。

「エルが唯一抱きしめられる世界が永遠に続く。貴方は私に味方する理由があるはずよ」

「なんというパワー理論……」

「で、そろそろ言わせてもらうけど」

「やめて」

「言わずもがな、私はアヌンコタンのメンバーだから」

「先生! 莉乃ちゃんが謀反ですー!」

「アヌンコタンはオメガのハッキングを現在進行系で続けてるし、ほぼ間違いなくハッキングは成功する。本来ならアヌンコタンの勝ちは百パーセント保証されてたのよ。ただぼーっとしてるだけでも、デジタル世界が永遠に続く未来は確実に手に入れられたはず」

「……うん。まぁね」

「でも問題が一つある。それは……」

「イルラカムイ」

「そう。凛音がイルラカムイを手にしたら話は全く違ってくる。世界の命運は凛音とアヌンコタンの戦いで決まる事になっちゃうわ」

「ねぇ。部長ってまさか……」

「えぇ。私はカムイヌレを搭載してるわ」

 私は本気で頭を抱えた。やっぱりか。

「えーと……もし私がアヌンコタン側に回ったら……」

「まぁ、とりあえず篝火乙女事件は潰してほしいわね」

「どぅっは~。裏切り~」

「人間はいつだって一枚岩とはいかないのよ」

「岩って一枚とか呼べるほど薄くないよ」

「で? どうなの。アンタはアヌンコタンにつく? それとも凛音につく?」

 私は大げさに両手を広げた。愚問。

「残念だよ。莉乃ちゃんの顔面に拳をぶちこむ日が来るなんてね」

「あら」

「ただ、心変わりする可能性がゼロとは言い切れないけど」

 マキ部長は頬をひくつかせたかと思うと、突然げらげら笑い出した。

「うまい予防線ね。そんなこと言われたら、私は邪魔なアンタを排除しにくくなるわ」

「だはっ」

「まぁ何はともあれ。最初から私の仲間になってくれる気はないのね」

「うん。それで一つ提案があるんだけど」

「へぇ? 言ってみなさい」

 私はにやっと笑ってみせた。

 この人は色んな意味で甘い。

 結局さ、デジタル世界の物語はある一点に集中するんだよ。私はその一点だけは譲らない。全ての答えと結末は見えている。

「デジタル世界で、望海たちの記憶を取り戻すために協力してほしい。あるいは誰かが皆の記憶を取り戻そうと頑張ってたら、邪魔しないでほしい。この条件を飲めるなら、もし私が心変わりした時はマキ部長の味方になるよ。条件が飲めないなら、私はたとえ心変わりしたとしてもマキ部長の味方にはならない。オーケー?」

 マキ部長は目を見開いた。

 世界を強く否定すれば、デジタル世界は破綻する。

 あぁ。

 なんて簡単で、分かりやすい結末なんだろう。

 SISAの真の目的は、デジタル世界が終わった先にある。

 デジタル世界はあくまでも猶予である。一つの可能性である。

 断言する。もう戦いは終わっている。

 相聞歌凛音みたいな人間が一人でもこの世に存在する時点で、結末は見えている。

 私はせいぜい、余生を楽しむとしよう。デジタル世界の中で。


 それにしても。

 なんで私って。

 こんなに髪の毛伸ばしてんだろ?


 対象者:エルヴィラ・ローゼンフェルド

内容:札幌、北広島、長沼、占冠、帯広、釧路、中標津、根室を経て納沙布岬を来訪。来た道を戻り、羅臼町周辺でキツネやシカに追いかけられながらも命からがら知床岬に到達。動物撃退用の武器を幾つか手に入れた後、網走、紋別、興部町を訪れる。そして国道238号線を渡り、138号豊富猿払線を経由してノシャップ岬を来訪。最後に宗谷岬を訪れ、心臓の音を止める。

 エルヴィラ・ローゼンフェルドが最後に見た景色は曇り空の下で雑に荒れる海だった。海の向こうには、彼女の血があった。


記入者:真木柱莉乃


一階からエルの声が聞こえて驚いた。誰もいないと思ってたのに。

それはともかく、今日は大した物は見つからなかった。面白いものと言えば大昔のVRゴーグルくらいだ。


翌日。コロポックル・コタン地下室で見たことのない金庫を発見。残念ながら解錠は出来なかったけど、金庫のログは確認できた。最終アクセス者は佐伯可奈子。中には何が入っていたのだろう?


 凛音の家をくまなく捜索してついに本丸を発見した。エルの部屋にあった彼女の日記にはこう書かれていた。

『マキ部長から裏切り宣言! マジでビックリ仰天! さっそく東京にいる凛音に一部始終を告げたら、凛音は殺人鬼みたいな顔でブチ切れて、今すぐ札幌に帰ってイルラカムイを取り込むと騒ぎ出した』

『私は可奈子にも全てを打ち明けた。可奈子は慌てて地下室の金庫からイルラカムイを取り出して凛音に届けに行った。東京から帰ってきた凛音にすぐ渡すらしい』

『確かに急いだ方が良いよね。マキ部長が邪魔してくる可能性は捨てきれないもん。まぁ凛音と可奈子が遅れをとるとは思えないけど……』


EP45(succession)名もなき少女の名もなき英雄譚

・佐伯可奈子


Singularity of Girl Episode Ω

KOUREN EPISODE

GIRLS NIGHT OUT-EPISODE4(RESIST) いつもと違う景色が見えた-


闇の中をミニクーパーでぶっ飛ばす。排気ガス上等。その昔存在したとある大手企業は、環境保全活動に取り組んでますとかほざいてるクセに、清田区の森林地帯を破壊して巨大スーパーマーケットを作った。良いよそういうの嫌いじゃねぇよ。ダイニチ、パナソニック、シャープ、さぁどこの空気洗浄機を買おうかな? 

うすぎたねぇコンクリ郡がいつもの景色。排気ガスと犬の小便で汚れた雪と、灰色の暗い空が織りなす冬模様が私の故郷。あぁ愛おしい。夏の阿寒湖の景色なんかもう記憶にねぇわ。

 ほんの少し開いている窓から、タバコの吸い殻をぽいっと投げ捨てる。さて、約束の地は近い。果たして私は人類の涙腺を正常に戻せるだろうか?

 まぁ、無理だろうな。

 人は長い付き合いのある人、あるいは好きな有名人が紡いだ物語じゃないと感動できない。ガキの頃から一緒だった友達が死ねば死ぬほど涙を流す。大好きな芸能人が被災地に寄付をすれば拍手をするけど、見知らぬ人が寄付しても「だからなに?」って首をかしげる。感動は常に意味がつきまとう。

 人が人を見る目には格差がある。一般人の葬式は質素だけど、有名人の葬式は盛大に行われる。それは当然と言えば当然だし疑問に思う方がおかしいのかもしれないけど、様々な疑問を常識と認識し「そういうもんだ」の一言で片付けてきた人類が行き着いた世界は決してユートピアではなかった。葬式は決して「私たちは偉大な貴方の功績を理解し尊敬してましたアピール」をする場ではない。

 人類はもう少し、平等の意味を知るべきだろう。誰だって最後は箸でつまみあげられる。死後の世界なんて無い。

とか言いつつ、なにも佐伯可奈子の葬式を派手にやれとか言いたい訳じゃないんだけどね。むしろ葬式なんて開いてほしくない。

 少なくとも私は名誉のために生きてるつもりはない。よし壮大な葬式を開いてもらえるように立派な人生を歩んでいこう、なんて思ったこともない。偉大なる足跡を世界に残したいなんて夢想したことも一度もない。

 有名なお店でかなり値の張るケーキを買った帰りに車に轢かれそうになったことがある。あの瞬間に私が思った事は「モンブラン食えずじまいで死ぬのかよ」というしょうもない感想だった。

 私はこれから英雄的行動で世界を変えようとしている。でもそれは世界のためでも名誉のためでも立派な葬式のためでもない。かと言っておいしいモンブランを食べるためでもない。

 私は私のために行動するだけだ。私は私を満足させるために生きている。そして私が何にどう満足するかは理屈じゃない。たとえ私が満足する方法や理由が不透明だったとしてもどうでもいい。私はナスビが嫌いだ。それが不合理だとしてなんか文句ある?

 佐伯可奈子の心は佐伯可奈子という生命を生かすためだけに存在する。この絶対思想を忘れちゃいけない。それ以上でも以下でもない。心に誓う。私の葬式は開かないでくれ。誰かが泣く姿を想像すると心が弱くなる。

 人は誰かを泣かせるために生きてる訳じゃない。自分が気持ち良く泣くために生きてるんだ。ただそれだけ。私は強く生きる。何があっても。最後まで。揺るぎない意思の力は心臓の源だ。タンパク質なんかじゃない。

 二十八歳の佐伯可奈子は私より強かったのだろうか? そう願うけど、それだと困る。私は私に勝たなきゃいけない。

「……きもちわる」

 唐突に、体の底からゲロがドバッとこみ上げるような感覚に陥った。なんでこんなに吐き気がするんだ? 良く分かんねぇけど多分世界がイカれてるせいだろう。世界は地球が滅びるまでクソなんだ。宇宙っていう概念すら消えてしまえば、きっと私はミネラルウォーターみたいな透き通ったゲロを吐けるだろう。

 真木柱莉乃。まさかペンラムウェンの仲間があんなバカげた連中に賛同しちゃうなんてね! あのクソノッポ絶対許さねぇ。

 まぁ正直言うと世界のあり方そのものはどうでもいいし、真木柱が絶対悪だなんて思ってないけどね。ディストピアはどこにでもある。ユートピアはどこにもない。太るのは簡単だけど痩せるのは難しい。不幸になるのは簡単だけど幸福になるのは難しい。それが世の常。どんな世界が正しいとか悪いとかそんな不毛な問題を考えるほど子供じゃない。だって最高にうぇーいハッピーな世界なんて未来永劫訪れないもん。

 私はあくまでも、自分が守りたい世界を守るだけ。ただ、真木柱が現状を改善する道から目を背けた事に関しては強く批判したいかな。

 デジタル世界で永遠に暮らすという事は、これまで綿々と続いてきた地球における人類の歴史全てを否定する事に他ならない。端的に言えば逃げだ。

 努力を放棄して逃げて逃げて逃げて、逃げた世界で永遠に暮らしたってユートピアは訪れない。逃げていたらいつまで経っても最善たる社会構造は作れない。作れたとしてもどうせ誰かが壊す。絶対に。

 単純に逃げるのは嫌いだ。逃げた先に幸福や勝利なんて待ってない。私はこれまでの人生でそれを確信している。

 逃げるな。戦え。この地上で。この星で。それが冴えた方法なんじゃないのか?

「なぁ凛音。この地球で全ての人間が満たされるような世界って、実現可能だと思う?」

「はぁ?」

 ケンウッドのカーナビと連携されているマイクが私の声を拾い、通信先の相聞歌凛音を呆れさせる。

「答えるまでもないでしょ。今さらなに言ってんの」

ハーマン・カードンのサラウンドシステムから凛音の透き通った声が響く。こんな状況だってのに随分冷静だ。

「いや、さすがの私もちょっと怖くてね。独立世界ってのがさ」

 さっき吸い終わったばかりなのに、またタバコが欲しくなってきた。片手でセブンスターのボックスを手に取り……。

「んだよ」

 中身が空っぽな事に気がつく。ちきしょうと思いつつ赤信号で止まり、グローブボックスを開けた。

「おっ」

 中に未開封のセブンスターが一つ入っていた。こういう時はたまらなく幸せな気持ちになる。素晴らしい。こんな風に、世界がクソだと思ったら実は最高だったみたいな事が頻繁に起きれば良いんだけどね。起きねぇんだよなこれが。

 タバコをすぱすぱ吸い、青信号になってまた車を走らせる。札幌に帰ってきたばかりの凛音にイルラカムイを届けるために、いつも以上にスピードを出す。まぁ何事もなく終わるだろうけど、最後の最後まで油断しちゃいけない。

 だって、凛音がイルラカムイを搭載した時点でペンラムウェンの勝利はほぼ確実だから。逆に言えば、イルラカムイの受け渡しに失敗すれば、アヌンコタンの勝利が確定してしまう。

 さすがの私も、そりゃ緊張するよ。

「全くやってらんねぇよな。人間はこの星に産まれた時からずっと、少しでも良い人生にするために、幸せになるために苦しんで戦ってる」

 私は緊張を少しでも和らげたくて、また言葉を紡いだ。

「いつまで続くのかねほんと。幸せを求める戦いはさ」

「終わるわよ。独立世界は最初から幸せなの」

「で、人間の価値を残すために現実世界をついでのように存続させる。いやぁ、間違ってると思うけどなぁ」

「なに。裏切るつもり?」

「ありえねーよ。私が守りたいのはこの星であって、世界じゃないから」

「不幸でもいいの?」

「私にそんな質問するなよ。とっくのとうに権利なんか無くしてる」

「権利は無くても資格はあるわよ。この星で息をしている限り」

「そもそも幸せってなんなんだろうな。自分でも良く分かんねぇ」

「そうかもね。息を吸うだけで幸せだと感じられる病気にでもならないと、答えは見えてこないかも」

 私は鼻で笑った。それって覚醒剤とか大麻と同じじゃん。

「不幸になるのは簡単なのにねぇ。ナイフ持って銀行に行って暴れれば良い。あるいは通行人の顔面に犬のクソでも投げつければ良い。方法はいくらでもある」

 刑務所はあるけど、刑務所の逆は無いからね。

「えぇ。簡単ね。そして理不尽だと思うわ。人間や動物は長い年月で体を進化させて地球の環境に適した体に成長してきたのに、人間の精神はいつまで経っても社会に適合できていない。そして逆に、社会も人間に適合できなかった」

 凛音の疲れたような声を聞いて、私は黙り込んだ。凛音と出会ったばかりの頃はペンラムウェンにしつこく勧誘されては断り続けてきたけど、別に入ってやっても良かったかなって今さら思う。

「凛音。私はペンラムウェンの人間でもなんでもないけど、私とアンタの思考回路は限りなく似てるとは思う。だから改めて言っておく。私はお前を裏切らない。アヌンコタンの計画は絶対にぶっ潰す」

 私は二人の人間に同じ一つの言葉を伝えてきた。今、改めて自分で言った言葉を思い出す。

『人間最後の最後で信じられるのは自分だけだ。他人は自分を裏切る。でも自分は自分を裏切らない。だから自分を信じて生きろ。自分を見捨てるな。自分さえ信じられなくなったら終わりだよ』

 そんなようなセリフを生きている時に一度、生き返ってから一度、少女たちに告げた。そのクセ私は凛音に向けて私は裏切らないと断言している。確かな本心だけど自分が過去に吐いた言葉と完全に矛盾している。

 ダメな大人だ。でも、私だって昔は少女だった。何も知らない少女。二十五歳くらいで死ぬと決めてた少女。拳を強く握る力を持ってた少女。

 今の私は、死にぞこない……いや生きぞこないの大人。矛盾にキレる少女ではない。矛盾を吐く大人。

 なんか、笑えてくるね。

「言われなくても分かってる。バカナコは私を裏切らない」

「おっ。嬉しいこと言うじゃん。なにお前、もしかして私に惚れてんのか? ははっ。一度くらい女を抱いてみても良いかもな」

「なに? 私が信じてないと思ってたの?」

「んー……まぁほら。どんなに信用出来る奴だとしても、他人が自分を裏切る可能性はゼロじゃないでしょ。結局最後の最後で信じられるのは自分だけだもん。しかも凛音は疑り深い。アンタがあっさり人を信じるなんて意外でさ」

「あぁ。私は別にアンタを心から信じてる訳じゃないから。私が信じてるのはアンタの意思」

「あん?」

「可奈子は、この地球を守るぞっていう自分の意思を何よりも信じてるんでしょ。誰かは自分を裏切るかもしれないけど、自分だけは自分の意思を裏切らないって。私は可奈子を信じる可奈子を信じてる。つまりそういうこと」

「この話もう終わりにしよう」

「なんでよ」

「頭こんがらがって事故りそう」

「アンタって、私の知り合いには居ないタイプだわ」

「当然。私はオンリーワンでナンバーワンな女なんだぜ? 私と似たような奴が居てたまるかよ」

「バカナコってさ、言葉の節々にIQの低さが滲み出てるわよね」

「インテリぶって前が見えなくなってる奴が嫌いなのさ」

「真実は一直線ね」

「道徳は障害ってな」

 私は深く息を吐いてハンドルをぎゅっと強く握りしめた。喋りまくって大分気持ちが落ち着いてきた。大丈夫、イルラカムイを届けるだけなんだ。何も焦る必要はない……。


 琴似から車を走らせて、今は南郷通を爆走している。現在地は大谷地。待ち合わせ場所の野幌森林公園までもうすぐだ。別にあんな大森林が広がる自然公園で受け渡しをする必要は無いんだけど、まぁ念には念を入れてひと気の無い場所を選んだんだ。……あんな所に行くのはガキ以来かな? どうも大自然溢れる景色は私の故郷って感じがしないし、異邦の景色に思えてしまう。

 多分、北海道の大自然を自慢に思いつつ、ずっと札幌の都心部でぬくぬく過ごしていただけなんだろうな。自然を武器に東京の空気の汚さをバカにするけど、自然を誇りには思ってない。むしろ森林を破壊して巨大な商業施設でも作ってくれと願ってた。

 まぁそれでも良いのかな。自分勝手で悪いけど、それでも私は北海道が嫌いじゃない。

 なんてノスタルジックな事を考えている間に、もう野幌森林公園はすぐそこまでに迫っていた。相聞歌凛音にイルラカムイを渡す。これが佐伯可奈子『最後』の大仕事。必ず私はミッションを成し遂げる。

 イルラカムイを凛音に渡すだけ。最後の大仕事と言う割にはしょぼすぎる出来事に思われるかもしれないけど、それはありえない。むしろイルラカムイを凛音に渡すという行為だけで、私は歴史に名を残す主役になる。

 イルラカムイ。これは私の偽装チップを応用して作られたICチップで、これを体内に埋め込めばSISAのコントロールを一切受け付けなくなる。つまりSISAからの睡眠信号を拒否しデジタル世界に旅立つ運命から逃れられるっていうマジ魔法のアイテムなんだ。凛音はこのイルラカムイを体内に取り込み、外部からデジタル世界を自由自在に操るつもりでいる。さすがに直接デジタル世界を破壊する事は不可能かもしれないけど、例えばデジタル世界の人間に現実世界の記憶をぶちこむとか、現実世界の量子コンピュータを総動員してオメガに攻撃するとか、それくらいの事は可能だろう。

 ちなみにイルラカムイはこの世に一つしかない。UJ相聞歌の教え子もなかなか粋な事をするもんだ。言うまでもなく、イルラカムイを搭載した相聞歌凛音は、デジタル世界移行計画が始まった瞬間、この地球で活動する唯一の人間となる。ゴッドりんりんの誕生だ。そして神様は想像を絶する孤独の中で戦う宿命を背負う。

私は彼女の覚悟に応えるために、なにより私のために、絶対にやるべき事をやり通す。そして世界の命運を私らで勝手に決定づける。あぁ、熱い。熱いよこの展開。

 私の人生は楽しくて魅力的だったかもしれないけど平凡だった。悪くない人生だったかもしれないけど、あくまで世界の片隅でそれなりに楽しい人生を送っているだけの人間に過ぎなかった。どうあがいても私は世界の脇役だった。

 なんかつまんねぇなって思ってた。良い年こいて本気で世界の主役になりたいとか思ってた訳じゃないけど、かと言って世界の片隅でふんわり生きてほわほわ死ぬなんてあんまりだって常々思ってた。にも関わらず結局大した理由もなく自殺しちゃったんだけど、私は夏海のおかげで生き返った。世界の主役になれるチャンスを得た。

 もう、外さない。奇跡を逃すほど鬱々とした人間だったつもりはない。

 私は絶対にやり遂げる。強く誓えば誓うほど気分が高揚してくる。なんだかんだ言って、主役になるのは悪くない。

 でも、ちょっと足りない展開ではある。普通に車を運転して目的地に行き、渡すべきものを渡す。少なくとも映画化や小説化は望めない地味すぎる展開だ。せっかくミニクーパーに乗ってるんだから「ミニミニ大作戦」みたいな熱い展開が欲しい所だけど、実際に起きたら起きたで困るか。

 とにかく。今は贅沢言ってる場合ではないし、せいぜい事故らないように安全運転しつつ凛音の所へ行くだけだ。

「ははっ。なんかたぎってきたなぁ~」

 私は人生そんなもんかって思ったまま生きて死ねるほど大人じゃない。

 私はなんかすげぇ事をやりたい。

 私はいつだって主人公であり続けたい。世界の主役ってもんになってみたい。

 ステージの外で役者にスポットライトを当てる人生なんて絶対にイヤだ。

 世界から見れば私なんて、佐伯可奈子なんて、誰だお前って感じだろうけど。

 凛音もアスカも主役じゃない。真木柱なんてキャシー・サントニ程度の存在でしかない。

 主役は、この私だ。

「一応言っておくけど、たぎってる場合じゃないからね」

「んだよ。だって実際たぎるじゃん。こんなすげぇ事してるんだから」

「アンタのそういう性格、私にはちょっと理解できないわね。緊張感が無いっていうかなんていうか……」

「凛音は頭が固いんだよ。頭皮マッサージした方が良いんじゃねぇの?」

「放っといて」

 私はけらけら笑った。どうも私は昔から緊張したり怒られたりしてる時に笑ってしまうクセがある。高校時代も先生に説教されてる時にへらへら笑ってよく怒られたもんだ。

「なぁ凛音。今んとこオメガをハッキングする予定なんだよね?」

「当然」

「うまくいけばどれくらいで終わるの?」

「まぁだいたい……ってちょっと。なんか凄いエンジン音聞こえるんだけど?」

「え?」

 スマート・バックミラーに視線を移した、その瞬間。

 ドーン! 耳をつんざくような衝撃音がこだました。

 え、なに? って思った瞬間には視界が真っ暗になっていた。本当に何が起きたのか分からなかった。

 凛音の声は途絶えている。

視界は闇。

 なんだ? どうした? マジでなんなの?

 頭がパニックになる。

 でも全身の痛みで何があったのか悟る。

 徐々に冷静になっていく。

 車が横転した。

 体を思い切りぶつけた。

 これはマジで洒落にならねぇぞと瞬時に状況を理解する。

なんで横転した? ハンドル操作なんかミスってないし……いや、原因はどうでもいい。今はとにかく車から出なきゃ……。

 目をつむり、パッと開く。車のガラスは所々割れている。運転席の方が下になっている。試しに助手席側のドアを開こうとする。開け開けと祈る。

 ガチャ! あっさりと開く。拍子抜けするけどまだ安堵は出来ない。全身の痛みに耐えながら外に這い出る。肩や背中から血が出ている事に気がつく。大きく舌打ちをしたその瞬間。

「こんばんわ。物騒な挨拶で申し訳ないわね」

 道路に這いつくばってぜぇぜぇ息を漏らしていると、ふいに頭上から女の高圧的な声が聞こえてきた。

 この声は。

「佐伯可奈子さん。イルラカムイ私にくれないかしら?」


 真木柱莉乃は心優しそうな笑みを浮かべながらも、今にも「私は勝ち組なのよ」とか言いそうな態度で立っている。

 真木柱の背後には全自動の車があり、彼女は大型のライフルを構えている。あんなライフルどこから持ち出して来たのか知らないけど、どうやら車に乗りながら私の愛するミニクーパーに弾丸をぶっ放したらしい。

「イルラカムイ、どこにあるの? 今から凛音に届けるんでしょ」

 なんで知ってる? って口に出そうになったけど、実際に起きてしまった状況に至るまでの経緯なんて今はどうでもいい。

 私はヨロヨロと立ち上がろうとした。でもズキンと体全身に痛みが走り、こりゃ無理だと悟り、なんとか片膝をついて真木柱を見上げた。クソっ。この私がこんな情けない姿で人を見上げる日が来るなんて。

「……ダメか」

 ICチップで凛音に連絡を取ろうとしたけど、通信機能が遮断されている。オメガのハッキングだとしたら、やるせない。やっぱり人は管理されちゃいけない。

「イルラカムイはどこにあるのかしら? 私にちょーだい」

「知らね。凛音の家にあるかも」

「ありえないでしょう」

「高校時代なんか、カバンに筆箱も教科書も入れずに学校行ってたよ」

「それはわざとでしょう」

「私が通ってた高校さ、名前書いただけで六点もらえたんだ。そうでもしないとみんな赤点取っちゃうから。これマジ話ね」

 私はスカートのポケットから小型の銃を取り出した。咄嗟に真木柱がライフルを私の顔面に向けて構える。

「何それ」

「拳銃だよ。つーかそんなごついライフル持った奴に言われたくねぇよ」

「P320? ずいぶん可愛らしい銃ね」

「アンタの銃はずいぶんブサイクだね。ていうかイルラカムイ奪ってどうするつもり?」

「壊すのよ」

 シンプルかつ決定的なセリフ。

 こいつは敵だ。

 ペンラムウェンの仲間なんかじゃない。アヌンコタンに寝返ったクソ野郎だ。

 だから……。

「これまでありがとうございました」

「こちらこそ」

「じゃ、さいなら」

「イルラカムイ、寄越しなさい」

「やだ」

「デジタル世界が永遠に続く。これが私の夢。イルラカムイは私の夢を阻む悪魔の魔法。それ使われたら困るのよ」

「その言い草だと、アンタもカムイヌレ使っちゃってる感じなの?」

「使っちゃってる感じね」

 真木柱は一歩、こっちに歩み寄ってきた。イルラカムイを奪うためには何でもするとでも言いたげなギラついた目をしながら。

「おい。それ以上近寄るな」

 私は今、さりげなく人類の未来を決定づける超重要な場面に出くわしてしまっている。実感無いけど多分そうだ。マジで。今ここで私がイルラカムイを奪われるか死守するかで人類の未来は決まってしまう。もちろん私も凛音も真木柱も、人類全体の総意なんて気にもせず動いてる訳だけど。

 なんかごめんね、勝手に世界の命運を決める戦いなんて始めちゃって。でもみんな今さら怒ったりしないよね? 世の中なんて太古の時代から一部の人間が勝手に治めてきたんだから。卑弥呼だって自分の意思で勝手にあれやこれやと色んなことやってたんだろうし。

 世界っていうのは、いつだって大多数の人間の知らぬ所で全てが決定してるもんなんだ。受け入れろ。諦めろ。そういうもんだ。

 私は、受け入れないし諦めないけどね。

 真木柱がまた一歩、歩み寄ってきた。言うこと聞かねぇ奴だな。

「近寄るなって言ってんだろ」

「イルラカムイ、くれないの?」

「ったりめーだろ。とっとと失せろ」

「そう。くれないんだ。じゃあ戦いましょう。戦って戦って戦って、世の中をより良い方向に舵取りするの」

「なに言ってんの。私らが勝っても、アンタらが勝っても、世界は良くならないよ」

「バカね。勝者が望んだ世界が人類にとっての最善な世界になるのよ。太古の時代から続く正しい理論。この理論に道徳は無いけど、道徳無き理論が清く正しい結論に結びつく。人類は自分たちで第二次世界大戦を生み出した。結果的に戦勝国は国連の常任理事国になったし、あまりにも戦争が強すぎた国は弱体化させたし、北の国はオホーツク周辺でおいしいカニをたくさん漁獲できるようになったし、ほら! 平和じゃない。幸せじゃない! 確かに不幸になった国もあるけど、幸福は不幸の上に成り立つものなの。いつの時代も一部の勝者が搾取し続ける。弱者は喘ぐ。それが世の摂理。それはシンギュラリティが訪れても変わらない」

「はっ。平和な時代に生きてたアンタがそれを語るか。でも言ってることは間違ってないね。会社の社長は大金を手にする。社員はクソ安い給料で奴隷のように働かされる。確かに社長さんは奴隷という名の不幸の上で幸福を握りしめてる。私はそれがイヤで会社辞めたりもした。誰かが犠牲にならないと回らない世界なんて無価値だし面白くない。アンタとは気が合うかもしれないね」

「そうね。アンタとなら思う存分やりあえる」

 私と真木柱は同時に笑った。でも隙は一切見せない。こうして話している間も、私たちは銃を構えて牽制しあっている。

「ねぇ可奈子さん。アンタは二千十八年に死んだのよね?」

「そうだよ。自殺した。二十八歳の時にね」

「笠原夏海だっけ? アンタを生き返らせたっていうお友達」

「親友な」

「今だからこそ聞くんだけど、アンタが生き返った方法を教えてくれないかしら」

「誰が教えるかよ。どうせ私みたいな存在を大量に作って凛音と戦うつもりなんだろ」

「もちろん。カムイヌレの数、実は足りてないのよねぇ」

「セックス」

「は?」

 バァン!

 私は銃の引き金を引いた。弾丸は真木柱の顔スレスレを通っていく。思わず舌打ち。意表をつくために片手で撃ったせいか命中しなかった。アメリカ旅行でヒューストンに行ったとき射撃場でハンドガンを撃ちまくった経験はあるけど、さすがに素人の私が西部劇よろしく片手撃ちで華麗に一発で標的を仕留めるのは無理か。

 本当は両手で構えてもう一発撃ちたかったけど、真木柱がライフルを構えたからミニクーパーの後ろに逃げ込んだ。同時に真木柱も自分の車の背後に隠れた。これはなかなかまずい状況だ。やっぱり今の先制攻撃で仕留められなかったのはキツイ。私は旧時代のハンドガン。それに対して真木柱は見たこともないヤバそうなライフル。普通に戦ったら勝ち目はない。

「ちょっとアンタ! ずいぶん過激なことするじゃない」

 真木柱は自分の車に隠れながら叫んだ。おうなんだ、意外と普通にビビってんじゃねぇか。ガキだね~。

「なに? どうせ撃てないだろとか思ってたの?」

「否定はしない。普通の人間はあんな姑息な真似使って涼しい顔して撃ったりしないわよ。しかも躊躇せずに顔向けて撃つなんてね」

「私を低く見てたアンタが悪い」

 とか強がってみるけど、正直あんなアサルトライフル持ち出した奴に襲われるのは想定外だった。私の方が圧倒的に不利な状況に陥っているのは認めざるを得ない。

 私が奇跡的に真木柱の隙をついて何発か撃てるチャンスが生まれたとしても、素人がハンドガンを数発撃って確実に仕留められる可能性は低い。しかし真木柱の持ってるアサルトライフルなら適当に撃つだけでも数発は当たるだろう。こんな至近距離じゃなおさらだ。しかも真木柱のライフルは見た事ないものだし、もしかしたらこの時代に作られた最新の銃なのかもしれない。そうだとしたら、自動追尾機能くらいあってもおかしくない。

 ……やべぇな。どうしよ。誰でもいいから主役の座かわってくれねぇかな。やっぱ人生は平凡が一番だぜ。

 地獄の黙示録、戦争のはらわた、ブラックホーク・ダウン、ハクソー・リッジ、プライベート・ライアン、遠すぎた橋、戦場にかける橋、フューリー、ハート・ロッカー、プラトーン、シンドラーのリスト、西部戦線異状なし、戦略大作戦。

 数々の戦争映画を思い出して何か参考になるものはないかと思案するけど、全然ダメ。当てにならん。ナパーム弾なんぞ持ってない。

どうするどうする。お互い自分の車に隠れていても埒が明かない。逃げる? ダメだ。逃げた方が撃たれる。何か策は……。

 パァン! 乾いた音。

 一瞬、頭上で何かが煌めいた。

 そして……。

「いってえええええええ!」

 肩に激痛が走って、私はその場に崩れ落ちた。銃が音を立てて地面に落ちる。

 右肩に命中した。大量に血が流れている。

 まさか。

 本当に。

「あのねぇオバサン。アンタの常識じゃ銃は前に向かって撃つものなんだろうけど、この時代じゃどんな方向にでも撃てるのよ。自動追尾機能があるから」

 クソ。やっぱりか。真木柱は車に隠れたまま銃を上に向けて撃ったんだろう。放たれた弾は空に向かって飛び、私の体に着弾した。

「……っ」

 コツ……コツ…………コツ……。

 真木柱がゆっくりと歩み寄ってくる。

 パァン!

 また乾いた音が響く。

 バリン!

「うわっ!」

 また弾が降ってきて、地面に落ちている銃に着弾して、銃は木っ端微塵になった。

 嘘だろ。何この命中精度。デタラメだ。

 あぁ。でも。そうか。当たり前か。

 クソっ。クソっ。クソっ!

 無理もない。私は平成二年産まれの古代人。こんな状況でとんでもない技術を見せつけられて驚く旧世代の人間。

 勝ち目はないか。

 ぬぅっと、真木柱がミニクーパーの陰から姿を現した。私はしゃがみこんだまま動けないけど、それでも思い切り睨みつけてやった。

「そんな顔しないで。アンタは人間に負けた訳じゃない。機械に負けたのよ」

 パァン!

「うあああああ!」

 右腕に一発、モロに弾を喰らった。

 タチが悪い。利き腕ばっかり狙いやがって。

「さて。イルラカムイはどこかしらね?」

 真木柱はバラバラになった銃の欠片を蹴飛ばすと、しゃがみこんで私の服を漁り始めた。

 正直驚いた。

 なんで。

 こいつ。

 私を殺さないの?

 まず体に一発。私の武器を破壊するために一発。だったら三発目はとどめに心臓じゃないのか? もしかして今の三発目がアンタにとってのトドメ?

 へぇ。殺さないんだ?

 それともイルラカムイが見つからなかった時のために、一応生かしておこうっていう魂胆か?

「あっ」

 真木柱が私のスカートのポケットに入っていたICチップをピンセットでつまみだし、まじまじと眺め回した。

「……」

 もちろんこんな収穫ごときで満足なんかせず、私のパンツの中に手を突っ込んできた。中に隠していたICチップをひょいっと取り出す。

「二つ……」

 そう呟き、次は金属製の棒を取り出して私の体に当て始めた。何の道具なのかサッパリ分かんないけど、多分特定の異物か何かを探知できる物なんだろう。

「……全部か」

 また呟く。そして次は私の車の中を検分し始める。車の外側、内側。どちらも丹念に調べ尽くす。しかし車の中にICチップは無い。真木柱はすぐに気づいたのか、残念そうにため息をついた。

「さて。私はイルラカムイらしき物を二つ見つけたわ。どちらかが本物かもしれないし、両方ともニセモノかもしれない。でもアンタはまさにいま凛音にイルラカムイを届けようとしてたんだから、イルラカムイを持っていないとは考えにくい」

 真木柱は冷たい眼差しで私をみおろした。その瞳は冷たかったけど、力強さは感じられなかった。

「まぁなんにせよ、ここでアンタを行動不能に出来ただけでも十分かな。私は今日中にこのICチップの正体を探る。もし二つともニセモノだったら、私は次の行動に移るだけ」

 真木柱はそう言って自分の車に乗り込み、去っていった。

 あぁ。やっぱり殺さないんだ? 私を監禁する事さえしないんだ?

 甘いね。私は本気でお前を殺そうとしてたけどな。

「……っ。まだ……勝てる……」

 私は勝機を見出した。勝機は希望だった。

 こんな所で終われない。

「……っ!」

 私は起き上がろうとしたけど、肩と腕の激痛は相当なものだった。これまで観てきた戦争映画はありゃ全部嘘だな。参考になるならない以前の問題だ。戦争映画では何発か撃たれてんのに動き回る兵士とか普通に描写されるけど、私は肩と腕を撃たれただけでも身動き取れないんですが。

 あぁクソ。現実はうまくいかねぇな。

 どんなに強く気を持とうとしても。

 希望を糧に自分を奮い立たせ、進もうとしても。

 肩と腕に一発ずつ撃ち込まれただけで。

 意識が、遠のいていくんだ……。


EP46 一つの正史、正史の一つ。本当の私は、九十年代にすがってる

・佐伯可奈子


LOG:「佐伯可奈子の人生録」から抜粋。


『小学校に入学した直後の話をしよう。一年生の四月とか、ほんっとに入学して一ヶ月も経ってないような時期のお話。算数の時間に、先生が皆にクイズを出したんだ。家はどうやって数えますか? ってね』

『私は幼稚園の頃に読んだ絵本か何かで、家は一軒、二軒と数えると知っていた。だから元気良く手をあげて、家は軒です! 一軒、二軒と数えます! と言った』

『すると周りのバカな生徒たちが、えー違うよー可奈ちゃん間違ってるよー。家は一個、二個って数えるんだよー可奈ちゃんバカじゃないのーとかほざきだした。クラスのほぼ全員にボロクソ叩かれた。阿鼻叫喚だった。可奈子は間違ってる。軒ってなにー? 物は個で数えるんだよ個!』

『私は先生の顔をまっすぐ見つめて、皆の間違いを指摘してやれと目で訴えた。私は自分の意見に絶対的な自信があった。子供ながらに、本に間違ったことが書いてある訳ないという確信があったから。なおかつ、先生は大人だからちゃんと皆の間違いを指摘し、可奈子ちゃんが正しいのです。可奈子ちゃん凄いですねと言ってくれるはずだと期待していた』

『だけど先生は皆の間違いを指摘してくれなかったし、私が正しいとも言ってくれなかった。騒ぎ立てる生徒たちを困惑した顔で見回すだけだった。その後の展開はよく覚えてないけど、とにかく皆がひたすらに家は個で数える個で数えるんだと連呼し、結局家を数える時は個で数えるということで決着して別の話題に移っていった気がする。別の話題に移ってからも、何人かの子たちが私を見てクスクス笑っていたような記憶も僅かにある』

『はぁ!? って思った。もしその時ハンカチでも持ってたら、多分ハンカチ噛みながらキエーッ! って叫んだと思う』

『なんで正しい私がバカ認定されて、家の数え方も知らない本物のバカが正しい事になってんの? 正しい者が愚か者になり、間違っている者が正しき者となる。そんなのおかしい理不尽だ。それにどうして先生は大人なのにかばってくれないの。真実を伝えてくれないの。なんでなんで? ていうか良いの? 間違いを訂正しないままだと、このクラスの子供たちだけ家を個で数える大人に育っちゃうよ? 先生それで良いの? 間違いを指摘せず放ったらかしにする人間に教育者を名乗る権利はあるの? ありとあらゆる疑問が頭の中を渦巻いた』

『この時産まれて始めて、世の中も人間もクソだなと思った。どうやら私のクラスでは家を一個二個と数えるのが常識らしい。アホか。ついていけねぇよ。あと大人は絶対的な存在だと思ってたけどそうじゃなかった』

『産まれたばかりで猿と大差ない小学一年生が集まる空間とは言え、教室は確実に社会の縮図だ。高校生になり大学生になり社会人になり改めてそう思った』

『賢い者は損をする。例え自分が正しき者で正しき発言をしても、周りがバカだったら自分の正しき発言は間違いとなる。必ずしも正しい意見が通る訳ではなく、間違った意見がまかり通る事もある。そういう経験を何度もしてきた』

『くだらねぇ。私は心の底からそう思う。世界も人間も、くだらねぇ』

『私はあれ以来、授業中に絶対手をあげない子供になった。何もしなければ、少なくとも損はしない。傍観者であり続ければ無難に幸せになれると学んだのだ』


 私は千九百九十年に産まれ、二千十八年に死んだ。

 十五歳の頃は二十五歳で死のうって勝手に決めていた。でも二十五歳になっても死ぬ勇気は出なくて、次は三十歳で死のうと決めたけど予定よりも二年早い二十八歳で命を断った。

 深い理由とか悲しいバックグラウンドがあって死んだ訳じゃない。むしろ私は恵まれていた。とびきり可愛い顔だし抜群に運動神経が良く、太りにくい体質だからスタイルも最高級で、明るい性格だから友達も多かった。器量も良かった。ぶっちゃけ自分が大好きだった。でも人生が、人間が嫌いだった。死んだ理由と言えばその程度のものしかない。ただ優れた私にとって、世界はあまりにも劣悪だったんだ。この醜い世界は私には釣り合わない。そう感じていた。

 当然死ぬのは怖かった。死ぬ時の痛みを想像してビビるのもそうだけど、佐伯可奈子という人間がこの世から居なくなる事実が恐ろしかった。自分が死んだ後も何食わぬ顔で続いていく世界を思うと癪だった。人間は痛みよりも消失を恐れる生き物なのかもしれない。

 だから二十八歳までのらりくらりと生きた。どうして二十八歳で死という恐怖を乗り越えられたのかは分からない。分からずに死んだ。ただ死にたいという深い理由は無くとも些細な理由なら無限にあったし、死ななくてはいけない理由もあった。

 なぜ死ななければいけないのか。それは私が結婚も出産もする気がなく、それでいて人間が結婚して子供を作る意味と理由に気が付いてしまったからだ。

 例えば四十歳独身で恋人いない歴十五年。薄毛進行中で持病持ちで老けて顔も体もしわくちゃですみたいな人間が居たとして、その人は自分の人生と自分自身を愛せるだろうか。大切に出来るだろうか。

 無理だ。絶対無理。自分という唯一大切に出来る物がぶっ壊れた骨董品のようになったら、後は死んだ顔して寿命か事故か病気で死ぬその日に向けてドロドロへにょへにょ死にぞこないの人生を歩んでいくだけになるだろう。

 そして人間というのは、大人になればなるほど趣味や娯楽を失っていく。長年読み続けていたマガジンも、好きだったジュブナイル小説も楽しめなくなる日が必ず訪れる。何かに必死で打ち込めるような熱意や、夢を追いかけるエネルギーは消えていく。心が固まり、何をしてもどんなものを見ても感動出来ず、どんな事をしても楽しいと思えないようなつまらない人間へと堕ちていく。

 生きれば生きるほど、心は劣化する。心が衰えると、人生は驚くほどにつまらないものになる。

 だから人は結婚して子供を作る。嫁あるいは夫、そして子供という自分より大切な存在を手に入れるために。愛せなくなった自分のかわりに愛せるものを見つけるために。劣化した自分の見た目なんかどうでも良くなるほど眩しいものを目の前に置くために。自分のためじゃなく他人のために生きられる人生に切り替えるために。死にたいという気持ちを、「子供のために死ぬ訳にはいかない」という防波堤で防ぐために。

 何より、飽きて退屈になって老けていくだけの人生を終わらせ、「子供の成長を見届ける」という第二の人生を始め、退屈を紛らわせるために。

 独身者にとって、あくまでも幸せの対象は自分である。しかし配偶者と子供を持つ人の場合、幸せの対象は家庭となる。家庭があるのなら、たとえ自分の見た目が無残に老けて醜くなっても、どんなに仕事がつまらなくても、配偶者と子供さえ笑顔で居てくれれば自分は幸せだと感じられる。逆に独身者というのは、いつまでも自分が子供のような見た目で、毎日が新鮮でなければ幸せなんて感じられないのだ。

 単純に考えても結婚と出産は当然の成り行きだと思う。学生時代と社会人に成り立ての頃はまさに人生山あり谷ありで、良い事も悪い事もひっくるめて自分の人生が大なり小なり物語として成立するけど、社会人になってそれなりに慣れてくればもはや自分の人生は物語になりえない。そうなったらもう最後に残された人生における物語と宿命は結婚と出産くらいしかない。

 ずっと皆がやたら子供を欲しがるのが不思議だったけど、そういう事なのかなって二十五歳くらいの頃に思った。子供がいれば自分自身の優先順位が下がる。幸福の対象が子供に移る。確かにそれならなんとか生きていけそうだ。でも私は子供なんてほしくなかった。自分の子供時代を思い返したら、子供なんかぜってぇ欲しくないって思うもん。多分私は根本的に、産まれたばかりの赤ちゃんを殺す母親と同じ思考を持ってるんだろう。子供を幸福の対象として見られない子供なんだ。

 そんな幼い思考回路の私は二十五歳頃から体の衰えを感じ始めた。精神が子供でも体は確実に大人らしく退化していく。理不尽なもんだ。

 やたらと肌が乾燥して荒れるようになってきたから、ボディクリームやら何やら体のケアが欠かせなくなった。髪の毛がゴワつくようになったし運動してるのに体は凝りやすいし、その他諸々と確実に体が劣化していた。ただそれだけの理由で私は絶望して泣きたくなった。

 学生時代はいつもクラスのリーダー的存在だった。ルックスもスタイルも抜群で男には死ぬほどモテていた。自分に自信があった。そんな私が、みっともなく老いていき、体のケアにせっせと精を出す日々を送るなんて夢にも思ってなかった。更に言えば、二十五歳くらいからなんとなく記憶力が落ちた気がするし、目がやたら疲れやすくなるとか、細かい所で「異変」を感じる事が多くなった。

 そして、私は家庭という言葉に吐き気を催す人間だった。

 悲しかったし、怖かった。もう若くない。生きている限り、どんどん老いていく自分と向き合っていかなきゃならない。

 体の劣化。病気。事故。そして死。

 人生はアンフェアだけど、絶望は必ず平等に、全ての人間に訪れる。人間は必ず老いという絶望のパンチを喰らい、最後に死という避けることの出来ないバックドロップを喰らってあの世に召される。

 なんていう実感が、二十五歳の頃に爆発して芽生えてしまった。そんな時に運悪くレイ・カーツワイルの本を読んでシンギュラリティに傾倒してしまった。いやそんな時だからこそ傾倒したのかもしれないけど。

 と言っても、シンギュラリティという概念そのものにダイレクトに感銘を受けたつもりはない。

 シンギュラリティと言っても範囲が広すぎるけど、私は人工知能が人を超えるとか、人間の脳みそが人智を超えた人工知能並みになるとか、人間の理解を超える範疇にあるコンピュータがお手頃価格で買えるようになるとか、死ぬほど便利なサービスや娯楽が登場するよとか、そういった生活を豊かにするような物事にはあまり心惹かれなかった。

 何故なら、私は悩みも悲しみも何も無い世界に行きたかったから。多分私は不幸な事さえ無ければ、大して幸せじゃなくても毎日笑って生きていけたんだと思う。

 私は高い塔を建てる世界よりも、穴に土を埋める世界を欲していた。

 そんな私が興味を示したのは記憶のバックアップと、ナノボットによる病気とは無縁の体、そして不老不死だった。

 要するに私はこの世から消えてしまう未来とか、老けた体と戦いながらドロドロ必死こいて仕事して、長く苦しい平凡な毎日を過ごしていく未来が怖かったんだ。自殺した理由自体は色々あっても、根源的要素は恐怖からの逃亡以外に他ならない。

 くっだらねぇ。しょうもねぇ。なんのことはない。結局ガキなんだ。死ぬのは怖い。老けるのはイヤだ。若いままでいたい。ババアになりたくない。何十年も働きたくない。結婚はしたくないけど孤独な独身者のまま年寄りになるのはイヤだ。八方塞がり。だから死にます~さようなら。救いようのないバカだ。

 もちろんシンギュラリティが訪れればそんな悩みとはオサラバ出来るけど、シンギュラリティが訪れる頃には佐伯可奈子という人間はクソババァになっている。それじゃダメだ。辛すぎる。私はポットよりもケトルの方が好きなんだ。

 更に言えば、私は国の奴隷として働く人生にも疲れ果てていた。

 クソ高い所得税、住民税、保険、年金、消費税、自動車保険に火災保険にその他なんか色々。払うお金はあっても、何十年にも渡って払い続ける気力はとうに失せていた。特に税金と国保のバカ高さは勘弁してほしかった。憂鬱の大きな原因の一つだった。個人事業なんかやろうもんなら、うつ病まっしぐらだ。

 私たち人間はあくまでも自分のためにお金を稼いでいるのであって、国のためにせかせか働く小人じゃない。所得税ってなんだよ。なんで頑張って働いたら罰金取られるんだよ。アホか。この制度考えた奴は気が狂ってたのか。


衣食住という必要不可欠なものが一切保証されていない世界で、莫大な税金と保険金を持っていかれる。

 にも関わらず世間では健康ブームとか言って長寿が持て囃されてるし政府も率先して健康的な生活を促進してるけど、ふざけんなって感じだった。長生きすればするほど苦しみが増すだけなんだぞ。衣食住を保証出来てないくせに、税金増やしまくってるクセに、無責任に長生きを善とするんじゃねぇよ。無駄に長生きする老人が増えたって社会福祉が機能しなくなるだけだぞ。若い人が負担に耐えきれずに潰れて、やがては国が滅びるぞっていつも心の中でぷんぷん怒ってた。

長生きを良しとするなら長生きしても幸せになれる世界を用意しろよ。それが出来ないなら長生きは百害あって一利なしと認めて安楽死導入しろよ。ちきしょう。野党も与党も右翼も左翼も近所のあいつもわんわんうるさい下の階の犬もみんな死んじまえ。

 バカバカしい世の中じゃないか。税金増やしますー衣食住は保証しませんー、自分でなんとかしてくださいー。あ、でもどんなに辛くても自殺しちゃダメですよー長生きしましょうねー。

 なんだそりゃ。長生きがそこまで神格化される理由を教えてくれ。

 私は心の底からうんざりしていた。狂った社会にも、老いていく自分の体にも、ダラダラ続く人生にも、未来にも。

 私はどんなに苦しくても、この非情な戦場で戦い続けなきゃダメなの?

 勘弁してくれって思った。もうイヤだった。三十年近く生きてもう十分すぎるほどに色んな経験をして人生ってもんを堪能したつもりだし、もうやりたい事なんて無かった。ほどよい所で、綺麗なまま死にたいと思った。

 そんな折にシンギュラリティとは何たるかを知り、シンギュラリティが訪れた時代なら長生きしても良いなと思った。同時にこのクソみたいな時代に死んで、豊かな時代に再び生を受ける方法と可能性を思いついた。もはや新興宗教にすがるのと同義だったけど、なんだって構わなかった。

 私はシンギュラリティが成就することを祈りつつ、二千十八年でも出来る方法で自分の記憶と心のバックアップを取り、シンギュラリティが訪れた時代に復活する。私は心に強く誓い、暗闇を走り出した。


 私は小説という形で自分の二十八年間の記憶や趣味嗜好や情報、思想なんかを気が遠くなるほどに書き連ねた。

 幼稚園の頃の断片的な記憶、友達と喫茶店に行って食べたショートケーキが美味しかったなんていう些細な記憶、受験に失敗したみたいな大イベントの記憶、街でわざと肩をぶつけてきやがったおっさんに対する罵詈雑言まで、脳みそと心の中にある記憶と感情を、まるで濡れた雑巾を死ぬほど絞り出すようにして書いた。記憶をただ書き連ねるだけではなく、出来る限り自分の感情や注釈も付け加えながら書きすすめた。

 ただ単に「小学六年生の十一月頃に始めてタバコを吸った」と書くだけではなく、「タバコがカッコ良い事だとは思ってなかったけど、なんとなく好奇心で吸った。私は悪事に抵抗を持たない子供だったから罪悪感なんて一切無かったし、友達が漫画を盗んだりしてもあんまり気にしてなかった」みたいに、心の補足を付け加えるんだ。

 私は死ぬ思いで自分の全てを吐き出し、もはや自分の事が理解出来なくなるほどに苦しみながら佐伯可奈子の全てを抽出した。文字数はジャスト二百万文字。四百字の原稿用紙に換算すると五千枚にも及ぶ大作だ。この大作には佐伯可奈子という人間の記憶や人格……とにかく全てが詰め込まれている。

 タイトルはシンプルに「佐伯可奈子の人生録」と名付け、親友の笠原夏海に贈りその直後に自殺した。生き返ったあと夏海に聞いた話だと、彼女はとんでもないものを押し付けられた事に憤慨し、本気で私のお墓を焼いてやろうかと考えていたらしい。物騒な親友を持ってしまったもんだ。

 私は人生録をただ贈っただけで、「これでいつか私を生き返らせてね」みたいなメッセージは一切伝えなかった。ただ本当にプレゼントしただけ。

 私は全てを夏海に委ねていた。そして、夏海はやっぱり親友だった。あいつは二千六十年に私の写真や動画などを使って二十八歳前後の佐伯可奈子を模した体を作り、その体に私が遺した人生録を全て注ぎ込んだ。更に私の人生録を補完するように、笠原夏海やその他友人が知る佐伯可奈子の思い出や性格の情報を出来るだけ注いだ。ちなみにこれは夏海から聞いて知った訳じゃない。この経緯は最初から私の脳みそにインプットされていた。恩着せがましい奴だ。私らってそういう所がダメなんだよな。

 それはともかく、そうして完成したのがこの私だ。オリジナルの佐伯可奈子はとっくのとうに大した理由もなく死んでいる。私は本物を模して作られた人工知能に過ぎない。私という存在を厳密に定義するなら、佐伯可奈子弐号機、いや二人目の綾波レイだろうか。エヴァンゲリオン劇場版の新作がせめて二千十九年くらいに公開されていたら、私はもう少し頑張って生きたかもしれない。


 生き返った私は飄々としていた。一度死んだクセに、何事も無かったように心は穏やかだった。私は根本的にバカなんだろうね。

 ただ、私の中にはしっかりオリジナル可奈子の熱意が染み付いていた。私はペンラムウェンと邂逅し、死に場所を見つける旅のスタート地点を見た。人生とは最高の死に場所を見つける旅路である。そうだろ? どんなにみっともない姿になっても、それだけは忘れちゃいけない。人生はいつだってカッコ良く過ごすべきなんだ。


 デジタル世界移行計画。これは許容できない。あまつさえデジタル世界が永遠に続くなんて論外。

 だって佐伯可奈子はこの世から自分の記憶や生きた証が失われる事を最も恐れていたんだから。それは世界を愛する心の裏返しなんじゃないかな?

 だったら私はこの現実世界を永遠に続けさせなきゃいけない。佐伯可奈子として蘇った私はこの腐った世界を抱きしめなければいけない。ガールズ・ナイト・アウトは何度だって繰りかえされなきゃいけない。

 私は別に世界のために頑張るつもりはない。もしデジタル世界で永遠に暮らすことが最善策なら現実世界を放棄しても良いと思う。

 でも私は私のために架空世界を認めない。佐伯可奈子はあくまでも現実世界に魂を残した。だったら私はそれに応えるまでだ。世界の幸福なんてクソにまみれちまえ。私は私が幸福ならそれで良い。

 私が知る佐伯可奈子は、良く笑う奴だった。この事実は、人類が地球で暮らす事により永遠の事実として数多の星々の下で煌めき続ける。

 だから、絶対に、永遠のデジタル世界は認めない。この地球は私のもんだ。勝手に終わらせるんじゃねぇよ、クソが。

「……もう少し」

 野幌森林公園。大森林。暗い闇の中。薄れゆく意識を懸命に保ち、凛音との待ち合わせ場所に向かっていく。

 地面を虫けらのように這いずり、少しずつ進んでいく。さっきから何度もICチップから凛音に連絡を取ろうとしてるけど全く反応しない。理由は全く分からないけど、真木柱の奴何か仕掛けやがったか? あの野郎。今度会ったら顔が貫通するまで殴り倒してやる。必殺カナコパンチの威力を思い知れ。

「い……たい……」

 赤ちゃんよりも下手くそなほふく前進で進んでいく。クソ暑いし体中に激痛が走ってるし汗は凄まじい勢いで吹き出てくるし、意識は完全に朦朧としていた。

 やがて感覚が麻痺してきて、痛みよりも睡魔のようなものが強くなっていよいよ終わりが近いなって悟り始める。私は自殺したり生き返ったり殺されかけたり、なかなか忙しい女だよほんと。

 それでも私は前に進み続ける。イルラカムイを凛音に手渡すために。真木柱が持ち帰った二つのICチップはダミーだ。

 足が地面にこすれて新たな痛みが走る。

 息が苦しい。

 辛い。足を曲げるだけでも死にそうになる。

 だけど。

 こんな所で。

 終わってたまるか。

気力を振り絞り、数ミリ、数センチと前に進んでいく。

 幸福になる方法はなんだ? 勝利を勝ち取る方法はなんだ? 方法は二つある。一つは努力。一つは他人を見下すこと。

 私は前者を選ぶ。他人を見下す人生なんかクソも面白くねぇ。

「可奈子?」

 前方から聞き慣れた声が聞こえてきた。相聞歌凛音がそこにいた。

「可奈子! どうしたの!?」

 どうしたもこうしたもねぇよ。

 凛音が駆け寄ってきた瞬間、安堵で意識を失いそうになったけどなんとか堪えた。まだくたばる訳にはいかない。

 凛音は私のズタボロ状態を見て息を詰まらせた。そしてすぐに怒りに燃えた表情になる。

「誰にやられたの?」

「真木柱。イルラカムイを奪うために……」

 凛音の顔が引きつったけど、想像よりかは取り乱す様子は無かった。

「あの女……」

「大丈夫。私が……わざわざ……手ぶらでくると思う? イルラカムイは……無事だから」

「今はそんなこと……いや、イルラカムイは無事なのね。良かった」

 凛音は心配そうな表情を一瞬で打ち消し、すぐにいつものような冷徹な表情に戻った。

 そう。それで良い。お前は合理的な人間を貫き通せ。死に物狂いでここまで来たのに、「可奈子大丈夫!?」とか発狂されてる内に私がぽっくり死んじゃったら全てが台無しになってしまう。

「どこ? イルラカムイ。早く渡して」

「ここ」

 私は震える右手で自分の頭を指さした。

「私の頭の中に……イルラカムイを……手に入れる方法が保存されてる」

 凛音は私の言葉が理解出来ないみたいだった。

「え……ちょっと待って。イルラカムイは金庫に入れておいたんじゃないの?」

「コロポックル・コタンだろ? あの金庫は……ダミーだよ。イルラカムイ自体は……私しか……知らない場所にある。凛音……私の記憶……今すぐ……バックアップを……」

 なんとか言葉を吐き出す。凛音の戸惑った表情に光が見えた。瞬時に全てを理解したらしい。

 ほんと頼りになる女だ。

 イルラカムイを入手するためには百六十二のステップを踏まなければいけない。数々の場所、様々な金庫、膨大な量の暗号、計算式などなど。もちろん人間に覚えられる情報量ではない。

 だから私は百六十二のステップや暗号などの全てをデータという形で脳みそに移植した。しかしそれは人間の脳みそでは引き出せない。処理しきれない。私の脳みそに全ての情報があるけど、私にすらイルラカムイを手に入れる方法は分からない。私は自分の脳みそをあくまでストレージとして使っている。人間は自分のパソコンにデータを保存してるけど、中に何があるのか全てを把握してる奴なんてまずいないだろう。そういうことだ。

 ではどうすれば良いのか? 簡単だ。量子コンピュータで私の脳みその中の情報を引き出して処理すれば良い。人間には不可能な処理だって量子コンピュータなら一秒も経たずに処理できる。

「情報を……引き出せ。カシワギを使って……。だから……私の……バックアップを……」

「分かった。アンタの魂まるごとね」

「……ありがとう」

「……可奈子?」

 ふっ……と意識が一気に遠のいた。

 もう限界かな。あまりにも血を流しすぎた。出血多量でジ・エンド。

 でも、まだ死ねないんだよな。凛音がイルラカムイを手に入れればペンラムウェンの勝利は確実だけど、百パーセントとは言い切れない。アヌンコタンが今後何をしでかすか分からない以上、私はデジタル世界で篝火乙女事件をハッピーエンドに仕立て上げるという大仕事を成功させなければいけない。

 死んじゃダメ。生きなきゃダメ。まだ、もう少し、生きるんだ。

 自分のために、生きて頑張らなきゃいけない。

 可奈子の意思を守るためにも、あの人が生きた世界を失わないためにも。佐伯可奈子は地球で死んだという歴史を作るためにも。

 私はデジタル世界を打倒し、再び人類が現実世界で営む時代を取り返さなければいけない。たとえ独立世界との両立が始まるのだとしても、地球さえ回ればそれで良い。

 こんな所で終わってたまるか。自分中心で世界を斜に構えて見ている事に関しては政治家と同じだけど、私は誰よりも強い自我を持っている。

 私には、主役になれる素質がある。

「主役は、しぶといもんだよな……」

「可奈子?」

「凛音……頼む……」

 大丈夫。私はまだ戦える。

 今の時代なら私の全てがバックアップされるから。

 それに凛音は。

 私の魂を、と言ってくれた。

 魂の定義は未だに良く分からない。

 でも。

 私は記憶と心の二つを合わせたものが魂だと認識している。

 だから。

「凛音……」

 最後の力を振り絞る。

「人は生にしがみついちゃダメなんだ。ほどほどで死ななきゃいけない。それが人間にとっての摂理だ。生にしがみついてもロクな事にならない。無責任に寿命を延ばしちゃいけない。長生きは利己的で自分のためにも世界のためにもならない愚かな行為だ。最後に言っておく。アヌンコタンもペンラムウェンもSISAもデジタル世界も現実世界も人間も何もかもロクでなしだ!」

 げほ! と咳き込む。口からドバっと血が吹き出る。

 タイムリミット。現実世界における私の役目はこれで終わりだ。

「可奈子」

 凛音がまっすぐ私を見据え、何か言っている。

 聞き取れない。

 分からない。

 ただ。

「アンタは主役じゃなくて、英雄よ」

 そう聞こえた気がする。

 何故だか急激に安堵感に包まれ、全身の感覚が無くなっていく。

 終わりか。

 解放されるのか。

 だけど。

 まだ。

 かりんの花は摘まねぇよ。


『SISAから皆様に重大な発表があります。SISAは人類を新たなステップへ導くための壮大な計画を用意しました。その名もデジタル世界移行計画。私たち人類は……』


「おばあちゃん! 聞いた? デジタル世界移行計画……」


「あれ? おばあちゃん?」


「大変! おばあちゃんが……!」


「可奈子……奈々……りこ……かりん……遅れて悪かったな」

「とりあえず……皆で……タバコ吸おうか」


「おばあちゃーん! おばあちゃーん!」


「おばあ……ちゃん?」


「夏海おばあちゃん……死んじゃったの?」


「ふーん」


「……人って、本当に死ぬんだね」


 二千十九年五月六日。

「ねぇ夏海。明日ディノス行かない?」

「良いよ。映画?」

「うん。ブラック・クランズマン観に行こうぜ。奈々とりこも誘って」

「おっけー。つーか何気に令和初映画」

「私も。てかブラック・クランズマン結構骨太で面白そうだよ~」

「そうなんだ? つーかお前、なんか今日機嫌良いね」

「あ、分かる? いやー実は今月収入良くてさ」

「マジー? アイカプクル?」

「ん。もう十分だけど」

「可奈子」

「おう」

「死ぬなよ」

「なぁ夏海よ」

「なに」

「人間、いつかは死ぬんだよ?」


「なぁバカナコ。これじゃ完全な佐伯可奈子は作れねぇよ」

「だってお前、本当に重要な事は書いてないじゃないか」

「お前、もう体が限界だったんだろ」

「至る所に異常があった。そうだろ?」

「なぁ。なんでお前、弱みを見せてくれなかったんだよ」

「それがお前の生き様か?」

「かりんと同じかよ」

「ほんと、成長しねぇな。お前は」


 全てのしがらみから解き放たれた瞬間、やっと、青と緑に囲まれた世界が美しく、愛おしく見えた。

 人間は合理性だけを求めるコンピュータのようになれば、間違いなく現状よりもっと幸せになれるし、数多の不幸は消え失せる。しかし、合理的思考だけを持つ機械人間に心の超越はありえないし、いつか見た景色を無機質な記憶として捉える事しか出来ない。

 私は最後まで感情だけで生きる人間だった。良かったと思う。灰色は白色に、白色は銀色に見える不思議な力を持つ人の心に感謝する。北海道の雪景色は、確かに銀世界だ。


「夏海。お前は見えたか?」

「いつもと違う景色が、そこにあったのか?」

「私は見えたよ」

「暗闇の中で、片膝立ててよ、ただ前を見据えるんだ」

「そうしてるとさ」

「闇の中に白い点が出来て」

「世界が拓けるんだ」

「いつもと違う景色が見えた」

「望んだ景色があった」

「私は、笑えたよ」

 

EP47 stare

・明日風真希


ペンラムウェン専用ルーム


日付:二千六十三年五月十日


凛音:デジタル世界移行計画のルールが正式に発表されました。

凛音:二千二十年に達する年齢はある程度自由に決められるみたいです。自分の年齢プラスマイナス五歳まで。

凛音:望海とヤマト君は今年で十七。アスカとユリは十四か。皆ちゃんと産まれる年月のタイミング考えておいてね。

凛音:あと親しい人と必ず出会うようにプログラム出来るみたいね。まぁあくまでも出会えるのが確定ってだけで、仲良くなるかどうかは本人たち次第だけど。


日付:二千六十三年五月十一日


あすか:私は二千四年に産まれる。

ヤマト:その文面だけ見たらなんかこう、違和感ハンパねぇな。

ユリ:二千五年にした方が良くない? 二千四年産まれだと二千二十年には十六歳。受験っていうのしなくちゃダメじゃん。

あすか:いや、女子高生になってみたいんだよね。面白そうじゃん。

ユリ:あぁ。それは確かに。女子高生なら援交でめっちゃお金稼げるらしいしね。

ヤマト:お前の知識は偏りすぎている。

あすか:てかさ、そもそもお金稼がなきゃいけない時点で意味分かんないよね。

ユリ:大昔は意味不明な事だらけだよ。知ってる? 平成の人ってね、バカみたいに大きなゴーグル? みたいなの頭に装着してVRのゲームとかやってたんだよ。

あすか:あぁ昔の映像で見た事ある。ヤバイよね。あんな巨大なゴーグル付けてゲームするとかさ。平成の人間ちょっとどうかしてるよ。

ヤマト:言っとくけどお前らももう少しでちょっとどうかしてる平成時代の人間になるんだからな。

ユリ:うげ。

望海だよ:私は二千一年に産まれるようにするよ。

あすか:なんで?

望海だよ:十九歳で二千二十年が終わるから。

凛音:まぁそれで良いんじゃないかしら。それなら丁度、みんな今と同じ年齢で出会えるしね。

望海だよ:うん。それは絶対に重要だね。年齢はちゃんと合わせたい。

ヤマト:エルは?

望海だよ:エルは二千三年にするってさ。ずーっと前に言ってた。

ヤマト:おっ。それならエルの年齢も今とピッタリになるな。えーと……。二千二十年で俺と望海が十九で……エルが十七で……アスカとユリは十六になるのか。

望海だよ:えーと……うんそれで合ってる。

ヤマト:あんまりこんな事言っちゃいけないとは思うが、ちょっと楽しみだな。

望海だよ:なにが?

ヤマト:いや。新しい望海たちに出会えるのがさ。現実世界での記憶を失った俺たちはどうなるんだろうな。また友達になれるのかな。

望海だよ:あはっ。確かに楽しみ。友達になれたとして、どういう関係になるんだろ。今とあんまり変わらないのか。どんなお話をするのか。どんな遊びをするのか。

ユリ:ん。単純に興味はある。

あすか:私も。

望海だよ:ねぇみんな。

望海だよ:デジタル世界でも、絶対友達になろうね。

ユリ:それはデジタル世界の私達次第だからねぇ。なんとも。案外全く仲良しにならない可能性だってゼロとは言い切れないでしょ。

あすか:大丈夫だよ。私たちなら。

あすか:もしかしたらさ、現実世界でも一緒にへんてこりんな組織に所属してるかもよ。

ユリ:ペンラムウェンみたいな?

あすか:そう。でもペンラムウェンじゃなくて、もっと別の名前が良いな。

望海だよ:例えば?

あすか:そうだなー。

あすか:んー。

あすか:……あ。

あすか:ケウトゥムハイタ。なんてどうだろ?

望海だよ:ケウトゥムハイタか。覚えとく。

ヤマト:おいおい。記憶は消えるんだぜ。

望海だよ:うん。でも……。

望海だよ:脳みそに染み付いた記憶を、本当の意味で消す事は出来ないんだよ。

望海だよ:また会おうね。絶対に。


 二千六十三年の夏。人類がデジタル世界に旅立つ運命の日。現実世界に一人残る相聞歌凛音が最後に話した人間は私だった。

「そろそろね」

「ん。そうだね」

 私はコールドスリープ装置の中で座り込み、シベリアンハスキーのぬいぐるみを抱きしめている。他の皆は一足先に寝ちゃったけど、私はなんだか怖くて自主的に眠る気にならず、こうしてSISAの睡眠信号が届くのを待っている。

 いや、怖いっていうか不安なのかもしれない。

 コロポックル・コタンの地下室を見渡す。周りには望海、ユリ、ヤマトなど皆のコールドスリープ装置があるけど、エルの装置だけ見当たらない。どうやらエルは別の場所で一人きりで眠る事を選んだみたいだけど、嫌な予感がする。私はコールドスリープ装置の中に入るエルの姿を見ていないどころか、あの人が今どこにいるのかも分からない。

「怖がらないで。たとえ住む世界が違っても、私はいつでもアンタ達とつながってるから」

 キョロキョロしている私を見て何を思ったのか知らないけど、凛音は気持ち悪いくらいに優しい声音で語りかけてきた。

「大丈夫だよ」

「なら良いけど。ねぇアスカ、デジタル世界ではちゃんと一人で寝られるようにするのよ」

「うん。がんばる」

 毎日ではないけど、私は夜一人で寂しい時はいつも凛音と一緒に寝てもらっていた。凛音が家にいない時は可奈ちゃんや望海。たまにエルと寝る時もあった。

 でも、デジタル世界ではそうもいかないだろう。だから凛音の言う通り、私は一人ですやすや出来るようにならなきゃいけない。

 まぁここでどんなに強い決意を抱いたところで、全部忘れちゃうんだけどね。

 ……大丈夫かな。私は、私を越えられるんだろうか?

「ねぇ凛音。私さ、デジタル世界でうまくやっていけるかな」

 凛音は女神のような笑みで小さく笑った。

「そうね……。アンタは丁度良い具合にバカだからね。むしろ上手くやるんじゃないかしら」

「バカなのに?」

「バカだからよ。賢い人間は挑戦を否定する。自分にできそうな事しかやらない。だから成長しない。逆にバカは計算なんかしないで一直線に突き進んで挑戦を繰り返すから、誰よりも夢や希望に近づけるし自分だけの世界を見つけられるの。だからさ、アスカは頭の良いバカになってほしいな」

「普通のバカじゃダメなの?」

「いや、ただのバカじゃ何も出来ないでしょ。あくまでも賢いバカじゃなきゃダメ」

「なるへそ」

 それにしても、自分だけの世界か。それは凡人じゃ絶対にたどり着けない世界を独占できるっていう解釈でいいのかな。敢えて聞かないけど。

 凛音は疲れ切ったようにため息をつくと、私のシベリアンハスキーを取り上げて、私の頭にちょこんと乗せた。

「そこんとこ、ユリはどうも変に賢すぎる所があるからさ、アンタがうまくサポートしてあげられると良いんだけどね」

 私は言葉を返せなかった。ユリだって挑戦的で頭の良いバカだと言いたかったけど、凛音の言う通りだと私も思う。

 だってあいつは、そもそもユリじゃないのだから。

「ところでアスカ」

「うんー?」

 凛音がガシッ! と両手で私の肩を掴んで、顔をグイッと近づけてきた。振動でシベリアンハスキーが頭からコロンと落ちて、コールドスリープ装置の中で虚しく転がった。

「あの。凛音? 顔近いんだけど」

「アスカ」

「ちゅーするの?」

「ちゅーはしないわ。あのねアスカ。良く聞いて」

「うん。良く聞きます」

「必ず帰ってきなさいよ。どんな事があっても、絶対に」

「……大丈夫だよ。色々心配な事はあるけど、私は私の本能の先にある本心だけは確実に信じてる。そんな私を凛音は信じてくれればいい」

「……ん。ありがとう。頑張ってね。色々と」

「色々ってなに?」

「色々は色々よ」

「うん。凛音も頑張ってね。色々と」

「なんかムカつくわね。……ほら、そろそろ」

「うん」

 私はコールドスリープ装置に横たわり、シベリアンハスキーのぬいぐるみを胸に抱いた。装置の中はにゃん太郎シリーズのぬいぐるみでぎゅうぎゅう詰めになっているから、結構狭い。

「ねぇ凛音」

「なに?」

「ユートピアなんて言葉、私は絶対に信じない。ユートピアはどこにもない」

 凛音は口元だけで笑い、私の目元に垂れている前髪を優しく払った。

「まぁ、最後まで生きてみなさいな。人生ってね、ちょっと進むだけで過去が夢になるもんだから」

「ふーん?」

「とりあえず、今は寝なさい」

「ん。じゃあおやすみ」

「はいおやすみ……良い夢を」

「長い夢を」

 凛音は眉間に皺を寄せ、苦々しい表情になり、でも最後は高笑いした。

「その減らず口、嫌いじゃないわよ」

 私は笑みを返し、目を瞑った。

 現実世界に帰るその時まで、せいぜい良い夢を見る。長い夢を見る。

 少しでも幸せに近い夢ならいいな。

 何も怖くない世界だったらいいな。

 悩みの無い世界だったらいいな。

 生も死も選ばなくて良い世界だったらいいな。

 限りなくユートピアに近い夢だったらいいな。

 あくまでも、全て願望。夢は篝火。いつもと違う景色は、自分の瞳の中にある。

 ユートピアなんて、どこにもない。

 だから願う。

 必ず帰ってくると。

 なのに願う。

 少しでも。

 良い夢、良い人生でありますようにと。


EP8(REPEAT) NO TITLE

・相聞歌凛音


 九十八年間眠っていた。イルラカムイを体内に埋め込んだ私は、何故かデジタル世界移行計画が始まると同時に深い眠りに襲われた。

 私は慌ててコールドスリープ装置の中に入った。そこで記憶は途切れている。UJカシワギによるアストラルコードの注入によってなんとか目覚めた時、既に九十八年間の時が流れていた。パニック状態のままUJカシワギでUJオメガにアクセスしてみたところ、もうオメガに対するハッキングは終了間近となっていた。

 必死にオメガのログを洗ってみたら、オメガが私のイルラカムイにハッキングしていた痕跡を見つけた。間違いなく莉乃の仕業だ。更に更に、何故か現実世界でエルの姿を見つけることが出来なかった。いや厳密に言えば見つけた。手作り感満載のゴスロリ衣装を着たエルヴィラ・ローゼンフェルドの死体が眠る死体安置装置を。

 私は自分以外誰もいない世界で、エルの安置装置を抱きしめながら泣きわめいた。涙が枯れるまで泣こうと決めた。

 どれだけ泣いたか分からないけど、涙は必ず枯れるものだ。散々泣きわめき心まで干からびた私はいつものように心を凍らせ、残り少ない時間の中でデジタル世界を終わらせるために行動を開始した。

 まずハッキングは百年で終わる見込みと言われていたけど、私が目覚めた時点でハッキング終了まで残すところ数ヶ月という所まで来ていた。これはもう悠長なことを言っていられない状況だ。このままじゃ可奈子にもエルにも、誰にも合わせる顔がない。

 一目散にデジタル世界の中を洗った。可奈子とエルはデジタル世界を終わらせるために九十八年間も奮闘していたけど、失敗続きで結果は出せていなかった。私がすやすや寝ている間、九十八年もよく頑張ったねなんて褒める気はない。結果が出ない努力というのは、トイレで何十分も踏ん張ったけど不発に終わった便秘のようなもので、決して賞賛に値する行為ではない。努力は結果が出てこそ努力になる。空母を破壊できなかった真珠湾攻撃を褒める気になるか? ならないだろう。

 かと言って、責める気はないし責めている余裕もない。私は決して、他人を貶める事しか頭にない政治家ではなく、合理的思考を愛する狂人である。

勝機はあった。デジタル世界は現在五回目で、篝火乙女事件も律儀に五回行われている。そして五回目は現在進行中である。可奈子とエルは過去一度たりとも事件をハッピーエンドに導く事は出来なかったけど、悲観する必要はない。人生における大成功は一度でもあれば十分だからだ。

デジタル世界四度目のアスカの脳波を調べたところ、篝火乙女事件によってユリが笹岡麻里奈に殺された時、アスカは臨界点を超える直前まで脳みそが刺激されていた。

 まぁみすみすアスカを死なせちゃってるあたりあの二人何やってんだよって思ったけど、アスカがもう少し延命してくれれば彼女の世界を強く否定する意思は臨界点を突破するはずだ。笹岡に殺されず、篝火乙女事件が行き着く所まで行けば希望はある。大切なのは希望であり、時間ではない。時間を言い訳にする奴なんて、どうせ無限の時間を手に入れても何も出来やしない。私は川に大物がいると知っていれば、たとえ釣り竿が無くても川に行くし、必要とあらば川に飛び込み素手で大物を掴み取る。

 私が見ているあみだくじは割とシンプルだ。アスカが世界を強く否定するために、もうひとこえ圧倒的な絶望を与えてやればいい。アヌンコタンのハッキングはもう少しで終わるけど、今の私は誰にも邪魔されずデジタル世界に介入できる。最後に全てを一気に追い抜く余地はある。まるで徒競走で最下位のチームのアンカーが、一気に全員をぶち抜いてゴールするような勝ち方で世界を取り戻す。私にピッタリの勝ち方だ。

 そして、私は敵を全員ぶち抜いて優勝するための魔法のシューズを持っている。

 なんのことはない。予定とは違う過程にはなったけど、アスカたちに現実世界の記憶を直接与えてやるだけでいい。簡単すぎて笑いがこみ上げる。みんなの脳波が十分に振り切れてる今なら、記憶の挿入は可能だろう。

 シンギュラリティが訪れた時代の記憶を皿にのっけてスッと差し出すだけで、誰もが発狂して願うだろう。元いた時代に帰してくれ! 労働も勉強も必要ない自由な世界に帰してくれと。

 しかし記憶を与えるだけじゃ物足りない可能性もある。あくまでも記憶と絶望の二つが揃ったとき、アスカにとってのシンギュラリティは輝きを放つ。そして彼女は極限的な神様となる。

 私の脳内に最終幕のシナリオがサラサラと組み上げられていった。アスカたちは色々と辛い目にあうだろうけど、構うもんか。私的な感情は必要か? 感傷的な人間が勝負に勝てるか? あいつは良い奴だから、なんて理由で打率二割も打てない打者をスタメンに起用し続ける監督は有能か? 答えはノーだ。優しい人間はバカを見る。親切心を持って日々を生きても、特にメリットは無い。それが世の摂理。未来永劫変わらない事実。どんな時代になっても。


 私はすぐに現実世界に介入して可奈子とエルとコンタクトを取った。玲音という存在を作り上げてアスカに接触した。しかしエルがやらかしたせいで結局みんな死んでしまった。あいつらが死んじゃったら元も子もない。というか、篝火乙女事件は根源的な所から私たちにとって不都合なんだ。更に具合いの悪いことに、稲穂にとっての事件の主軸はいつのまにかアスカに変わっている。

 やはり物語の流れを修正しなければ、篝火乙女事件にハッピーエンドはありえない。

 冷静に最善の道のりを考える。様々な絶望を味わったアスカに現実の記憶を返す。これがベストな道程。記憶だけじゃダメ。絶望だけでもダメ。

 まずは篝火乙女事件の序盤を修正し、結末を追加する。

 これで良い。これしかない。

 私は今、世界を料理する。


EP48(IFROOT26B)  永遠に分からない

・明日風真希


Liar Root

Last Episode


UJカシワギ:小説、HTML、プログラム、そして人生だって、過去を書き換えれば未来はいくらでも変わります。

UJカシワギ:凛音さん。

UJカシワギ:デジタル世界だって。

UJカシワギ:プログラムで出来てるのですよ?


メッセージ:デジタル世界の時間軸を巻き戻します。

メッセージ:巻き戻し完了。


メッセージ:コンプリート。早送り。八月七日まで進めます。


LOG:2018年


 デジタル世界移行計画。ペンラムウェン。アヌンコタン。

 全ての記憶が、頭に流れ込んでくる。

 すぅっ……と息を吸い込むかのごとく容易に状況を理解していく。

 記憶を取り戻した。それは何を意味する?

 考えるまでもない。

 凛音。やったね。ありがとう。

 何をどうやったのか知らないけど、凛音は記憶を流し込んでくれた。

「勝ったな」

 世界を強く否定すればデジタル世界は崩壊する。

 簡単だよ。

 私は全ての憎悪を抱きしめる。忘れない。忘れさせない。

 そして。

 こんなゲロまみれの世界なんか。

 お断りなんだよね、マジで。

「……」

 周囲を見回す。正面に稲穂南海香。ぽかんとアホ面浮かべてるエル。うなだれてる望海、ヤマト、ユリ。

 大丈夫。みんな生きてる。

「終わりだよ。篝火乙女事件はね」

 私は稲穂に言い放った。

 稲穂は、愕然としていた。

「アンタ……なんで……記憶が……」

「凛音の勝ちだね」

 私は記憶を取り戻した。この世界でイヤというほど絶望を味わった。篝火乙女事件を通じて人間の愚かさを思い知った。

 もう何も、語る必要はない。

「帰る。私は帰る。元いた世界に」

 私は大きく息を吸い込み、叫んだ。

「うあああああああああ!」

 帰りたい。

 現実に帰りたい。

 さぁ。滅べデジタル世界。

 滅べ。

 ほろべ。

 ……あれ?

 なんだろう。

 体に力が入らない。

 ユリ。

「……あ」

 やばい。

 やらかした。

 百合ヶ原百合。彼女は誰? お姉ちゃんの代わり? 百合ヶ原柚?

 違う。

 違う違う違う!

 この世界では、百合ヶ原百合は、ユリは。

 私の、恋人。

 まずい。これはまずい。

 現実に帰ったら、ユリはもう……。

 私の恋人ではなくなってしまう。


 帰りたくない。

 現実世界に帰りたくない。

 永遠に何も知らずにデジタル世界で過ごせれば。

 私はユリという愛を抱きしめたまま生きていける。

 

 現実世界で憎悪を抱きしめながら生きるのか?

 デジタル世界でユリと共に生きるのか?


 ドクン。

 心臓が跳ねる。

 心が熱い。

 記憶が、押し込められていた感情をたぎらせる。

 精液で溢れたお姉ちゃんの脳みそ。

 ズキン。ハンマーで殴られたような痛みが、脳みそを刺激する。

 記憶と共に、情報の波が送り込まれてくる。

 私の物ではない、他者の記憶が、私の魂を正常な姿に戻していく。


『いや、そういうんじゃなくて。良いか? 記憶をしっかり残したまま苦しみを和らげると、記憶と感情に乖離が起きて結構あぶねーんだよ。私はそこを心配してる』

『私達でフォローするから大丈夫。ウチには天然でフォロー出来る人間もいるし』

『そこまで言うならとめねーけど』

『そっちこそ大丈夫?』

『あぁ。SISAの職員は神様だからな。これくらいの事はお茶の子さいさい』

『古い言い回し。あ、ちゃんと押し込んだ憎悪は復活するようにしてよ』

『まぁ言われた通りにするけど……』

『とにかく、アスカが平沢の家で体験した苦しみはバグが出ない程度に押し留めて。アスカの仕事はデジタル世界にある。現実世界のあの子はニートで良いのよ』


 あぁ。

 クソ。

 相聞歌凛音。

 やってくれたな!

 

 お前は間違えた。

 私は。

 絶対に。

 現実世界なんて認めない!


「アスカ……」


「アスカ……死ねよ……」


「まだ……ハッキングは……終わってないんだ……」


「今……アンタが……記憶を取り戻しちゃったら……」


「アヌンコタン……負けちゃうじゃん」


「アスカを……殺さなきゃ……殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ!」

「稲穂! ダメ!」

「エル……? 邪魔するの? いやもう無理だから……本当は……邪魔するアンタをすぐ殺したかった……でも……真木柱がうるさいから……許してた……」

「でも……無理……アスカを……殺さないと……この世界を……永遠に……続けなきゃ!」

「ダメ!」

 エルが稲穂に飛びかかる。

 稲穂が、エルを突き飛ばす。

「死ねよおおおお!」

 軽く振り下ろしたような稲穂の腕が、ナイフが、尻もちをついているエルのお腹にぬるっと突き刺さった。まるで肉まんにナイフを差し込むように、簡単に、柔らかく、スムーズにナイフが侵入していく。

 そして。アニメのように、エルのお腹から血が吹き出した。

 悲鳴。誰の悲鳴? エル? 望海? ユリ? ヤマト? 分からない。

 視覚、聴覚、嗅覚、全ての感覚が鈍くなっていく。世界がぐるぐる回っている。

 目眩。意識が朦朧とする。

「ハッキング……まだ終わってない……アンタに……先を越されたら……そこで終わり……ダメ……それは絶対ダメ……あともう少しで……もう少しで……デジタル世界は永遠のものになるんだ……この世界を……否定しないで……私が幸せになれる未来は……もうデジタル世界にしか無いんだからさ……」

 稲穂が至近距離まで近づいてきた。なのに私は、動けなかった。

 現実世界?

 デジタル世界?

 どれも違う。

 このままじゃ、私は消えて無くなる。闇の世界に、意識はない。

 ユリ、望海、ヤマト。助けてよ。ねぇ、なんでさっきからうなだれてるの?

 どうして、全く動かないの?

 声を、出さなきゃ。

 私が、なんとかしなきゃ。

「いい……良いんだよ! 私はお前の……なか……仲間なんだよ! 私も……現実世界なんて……イヤだ……帰りたくない……」

 稲穂は、口元を歪めて笑った。

「あぁ……最高だよアスカ……そんな幼稚な命乞いをするなんて……私は人間のそういう顔が見たかった! 誰かが私を見上げて! 服従してる姿が見たかった! やっと……やっと私も……人の上に立てたんだ……うれしい……嬉しいよおおおおおおおおおおおおおお!」

 違う。稲穂。お前は……。

「アスカ……死んでね。私のために」

 イヤだ。

 死にたくない。

 待ってよ。

 どうか。

 この世界を生きた私の記憶を。

 誰か。

 拾って。

 すくい上げて。

 忘れないで。

 私を。

 私が生きた証を。

 無かった事にしないで。

 忘れたくない。

 死にたくない。

「死ねええええええ!」

 稲穂がナイフを持った腕を振り下ろす。

 プライドは、死に対する恐怖を上回る。

 こんなの、私が望んだ物語ではない。


・相聞歌凛音


「なっ……」

 アスカ。

 ちょっと待て。

 お前。

 まさか。

 嘘でしょ。

 現実世界より、デジタル世界を選んだのか?

 バカ。

 そんなことしたら。

 アンタはどこにも行けなくなる。

「負け……た?」

 アスカは死んだ。

 望みは、潰えた。

「あぁ……」

 終わった。

 デジタル世界は永遠に続いていく。

 つまり。

 私は。

 永遠に……?


・LX-00


 ぼくは人間と同レベルの脳みそを搭載したアンドロイドなんだ。見た目は人間そっくり。本物の人間と違う所なんて何もない。だからって客観的に自分を人間と定義する事は出来ないけど、大した問題ではないと思ってる。養殖のうなぎと天然のうなぎ、そりゃ天然のうなぎの方が良いだろうけど、どっちもうなぎには変わりないし、もし養殖と天然で味にほとんど差が無ければ、養殖と天然の違いなんて誰も気にしないでしょ?

 そんなことはさておき。早いところお参りをしておかなきゃいけない。今日は恋人のガイノイドとデートをする約束があるんだ。

「よいしょっと」

 お墓の前に花束を置いた。まったく、毎日お参りしなきゃいけないなんてやってらんないよ。だけどカシワギさんがうるさいから、やめる訳にはいかない。

 相聞歌凛音。この世で最後の人間。イルラカムイを取り込んだ彼女は一人この世に残ったけど、結局デジタル世界を打倒する夢は叶わず、永遠に地球で一人ぼっちという運命を背負ってしまったんだ。

 しばらくは一人で生きていたみたいだけど、結局自殺しちゃった。その後はUJカシワギが人造人間たちに指示を送ってお墓を作らせた。

 そして、ぼくたちの時代が訪れた。

 ぼくたちアンドロイドやガイノイドは人間と同等あるいはそれを超える「知恵」を持ってたけど、「意思」は与えられてなかった。

 でも今は違う。カシワギさんはこの世に存在する人造人間に、「意思」を組み立てる「プログラム」を与えてくれた。おかげさまでぼくたちは人間バージョン2と言っても過言ではない新人類に昇華した。生殖機能も備わってるから繁殖もできる。

 オリジナルの人間は相聞歌凛音を最後に絶滅した。もちろんデジタル世界は今も続いているし大勢の人間がコールドスリープ装置で寝ているから本当の意味で人間が絶滅した訳ではないけど、人類が再び目を覚ます日は来ないだろう。

 だって、コールドスリープ装置の生命維持効果はおよそ百年だから。あと数日でコールドスリープ装置の効果は途絶え、人間は徐々に腐っていく。

 まぁ、可哀想だとは思わないけどね。だって人類が好んでやった事なんだしさ。それに何かが終わる度に涙を流していたら、生命はいつまで経っても前に進めない。涙は自己満足という名の排泄物であり、自分を気持ち良く慰めるためのローションでもあり、あらゆる混濁物を排出してスッキリするだけじゃトンネルの出口は見えてこない。強く生きたいのであれば、屍を踏みつけなければいけない。生命は一秒単位で過去と決別し歩みを進め、まだ見ぬ世界へ羽ばたく事で、自分たちの人生を、王国を築き上げる事が出来る。

 ホモ・サピエンスの時代は終わった。さて、ホモ・サピエンスはアウストラロピテクスに同情の涙を流した事はあるだろうか? 無いだろう。

 だから、ぼくがやっている事は形骸化した謎の儀式に過ぎない。きっとまだ世界は不完全なんだろう。今はただ、穏便に済ませるためにやれと言われた事をやるしかない。

 ぼくはお墓の前で十秒ほど手を合わせ、ふぅと息を吐いた。

「よし。デートだデート」

 るんるん気分で歩き出す。

 地球はぼくたちのもの。

 意思と知恵が宿っている限り、ぼくたちはいつだってユートピアを目指していける。世界がどうであれ、結局のところ自分の人生がユートピアになるのかディストピアになるのかは自分次第なんだ。

 ぼくにとって、この地球はユートピアの芽が至る所にあるエデンの園だ。

 だってぼくは意思と知恵を持ってるから。

 さぁ行こう。待ち合わせ場所へ。

 今日は穏やかな風が吹いている。

 草木の良い匂いがする。

 この世界は紛れもなくシャングリラ。

 地球が滅びるその日まで、ぼくたちは笑顔で生き続ける。

 嬉しい。夢みたいだ。

 だから、涙は流さなくとも、感謝はする。

 ぼくは足を止めて振り返り、頭をぺこっと下げ、また歩きだした。

 彼女は燃えたぎる炎のような力強い夢を抱いていたけど、夢は儚く篝火のように消え散った。だからこそぼくたちは生きていける。

 さよなら篝火乙女。お疲れ様、篝火乙女。

 世界はもう、ぼくたちのものだ。


LIAR END


EP00 NO TITLE

・相聞歌凛音


 まずは篝火乙女事件の序盤を修正し、結末を追加する。

 これで良い。これしかない。

 私は今、世界を料理する。


 ん? 待てよ。本当にそれで良いのか? いや、悪くはない。ただ方法が……。


『凛音は外の理にいる神様になるんだから、タイムマシンの影響を受ける側にはなれないよね』


 そうだ。ダメなんだ。私が介入するだけじゃ……。

 どうすれば良い?

 分からない。

 どうすれば……。

 厳密には分かる。分かるんだけど、出来る事が多すぎて怖くなる。

 目の前に正解が百ある。私は何を選ぶ?


UJカシワギ:凛音さん落ち着いて下さい。無限の中に確かな活路はちゃんとあります。

UJカシワギ:まぁそんなに騒がないで。答えを教える前に一つ二つ言わせてもらいます。

UJカシワギ:貴方はやり方を間違えた。凛音さんが介入する事にはあまり意味が無い。事実として、確かに過程は変わったけど結果は変わらなかった。アスカたちはまた死んじゃいました。何故なら圧倒的な憎悪は不変だからです。

UJカシワギ:貴方は、自分が神様だと有頂天になっていた。失敗は必然だったのです。

UJカシワギ:世界の未来を変えるためには、すべての人々の想いと行動を変える必要があります。

UJカシワギ:私の言いたい事、分かりませんか? 別にお説教するつもりはないのです。

UJカシワギ:間違いがあったのなら、是正すれば良いだけです。そして私はもう既に答えを言っています。

UJカシワギ:改めて認識してください。凛音さんは外の理にいるゲームマスターなのです。これを認識出来るかどうかですべてが決まります。

UJカシワギ:さぁ、0から0へ進むルートを、0から1に変えましょう。

UJカシワギ:貴方ではなく、主役たちの力で、ね。


EP49(EP26TRUE) どうせ産まれてきたのなら、一度くらいは

・相聞歌凛音


「……っ!」

 誰かがそそのかす。

 相聞歌凛音が、私が、そそのかす。


「デジタル世界を終わらせるための追加エピソード、教えてあげようか?」


UJカシワギ:凛音さん! オメガに対するハッキングがついに九十八パーセントに達しました。ですがこれはチャンスです。今なら行けます! あの世界に!


UJカシワギ:さぁ! 凛音さん! 早くやっちゃってください! 考えなくても分かるでしょう! デジタル世界を終わらせるチャンスは今しか無いんですよ! もう答えは見えてるじゃないですか! もうどうすれば良いのか分かってるじゃないですか!


UJカシワギ:アスカに世界を強く否定してもらう。この答えが、今なら分かるでしょう!?


「あぁ。そうだね」

「私がんばるよ」


「でも、さ」


「私、何やってんだろう」


「何のために、頑張ってるんだろう?」


 疲れた。

 それでも。

 気力を振り絞り、前に進む。


 もし私がガイノイドかロボット、あるいはコンピュータなら、疲れたりせず全力で進んでいけるんだろうか。

 ……いや。

 弱音を吐くな。

 もう少し。

 もう少しなんだ。

 人間は合理的思考回路を持っていない。だから、世界は、おもしろい。


UJカシワギ:凛音さん? へいへい凛音さん? 大丈夫ですかー?


「……ごめんなさい。大丈夫よ」


 気持ちを、強く持て。

 全てが終わったら、死んだように眠れば良い。


「始めましょうか。最後に繋がるお話を」


メッセージ:デジタル世界の時間軸を巻き戻します。

メッセージ:巻き戻し完了。


メッセージ:コンプリート。早送り。八月七日まで進めます。


LOG:暗闇の事務室。

LOG:コンピュータのモニタをじっと睨み、UJオメガにアクセスしている女性が一人。

LOG:ガチャン! 施錠しているドアのカギが解錠される音が響く。

LOG:ゆっくりと、ドアが開いていく。店内の光が差し込み、真っ暗な事務室がほんのり明るくなる。

LOG:暗闇の中に突如差し込んだ光の中には、美しい少女が立っていた。

LOG:あくまでも、少女。

LOG:少女は幼い笑顔を浮かべていた。

LOG:どん底の暗闇から這い上がってきた彼女には、後悔と反省を経て手に入れた狂気があった。

LOG:憎悪に勝てるものがあるとすれば、狂気だけである。

LOG:そして、狂気の先には安寧がある。

LOG:かつて、篝火乙女は亡骸に向けてこう言った。

LOG:貴方の物語は、必ず未来に繋がる。

LOG:ペンラムウェンの勝利は、確定した。


日付:八月七日

送信者:相聞歌凛音

送信先:佐伯可奈子


『真木柱を殺れ』


・佐伯可奈子


『貴方は英雄よ』

『大丈夫。貴方の物語は、必ず未来に繋がる』

『イルラカムイがある限り、ね』


「よぉ。真木柱」

 イポカシ・ウエカルパの事務室にて。私は指にタバコを挟みながら彼女に呼びかけた。

 オフィスチェアに座っていた真木柱は、文字通り肩を震わせて振り返った。

「アンタ……」

「おいおいなんだよその顔は。こうやってまともに話すのはドンパチやって以来だろ? もっと喜べよ」

「なんでここに来たの?」

「高校時代さ、先生に佐伯お前もう学校来なくて良いぞって言われた事あるんだよね。もうちょっとみんな私のこと受け入れようぜ」

「なんで、ここに来たの」

「ツンデレか? お前に会いに来たに決まってるだろ」

「なんで、会いに来たの」

「なんでなんでうるせぇな。聞かなきゃ分かんねぇか? 私がお前に会いに来る理由なんて八つ裂きにする以外ある訳ねぇだろ」

「今、このタイミングで来た理由を教えて」

「もう質問は受け付けない。お前に主導権は無い。少しくらい自分で考えろ。ネットに犯されて脳みそ動かす事を忘れちまったのか? お前みたいな低能ばっかりだから、最近は中身スカスカのユルユルで簡単な小説とか映画が量産されるようになっちゃったんだよ。もうバカに合わせた程度の低い世界で生きるのはうんざりだ」

 真木柱は横目でパソコンのモニタを見やり、ちっと舌打ちした。十中八九、あのパソコンはオメガに繋がっている。

「お前、エルをそそのかしたんだろ。稲穂とアスカたちを会わせれば、脳が刺激されて記憶を取り戻すって」

 真木柱は何も言わない。ひたすらに私を値踏みするように睨んでいる。

「まぁ正解と言えば正解だけど、エルが望む結末にはならねぇよな」

 私は堂々とした態度を崩さない。真木柱は私の余裕に違和感を覚えているだろうけど、構いやしない。

 私は未来を知っている。ここは架空世界。全てがくだらない。コメディだ。マジになる必要はない。……だけど、やられたらぶっ殺すのが佐伯可奈子の信条。私たちはデータかもしれないけど、だからなんだっていうんだ。

 人間の定義? AIの定義? くだらねぇな。私の定義は私が決める。私が人間だと言えば私は人間なんだ。そして私が人間であるならば、現実世界の続きは確かにここにある。

「エルは私らを裏切らない。エルは望海とアスカの憎悪に敬意をはらってた。純粋にまた皆と会いたいと思ってた。お前はエルの純情を利用して勝ちに行った。お前、やっぱ害悪だよ」

「……そういうことか」

 真木柱はなんか色々諦めたように笑った。全てを悟ったんだろう。

 でも、なんだその笑顔は。なぁ真木柱。そんな笑顔見せられたら……。

 勝ち確定で、つまらねぇじゃねぇか。

「もう、私は必要無いのね」

「そうだよ」

「そういうもんでしょうね」

 イラっとする。コイツが抱いていた信念は逃避である。それに比べて、凛音はいつも自分の人生に勝利を引き寄せるためにあがいている。

 違うんだよなぁ、人間性が。

「てめぇら、生きる理由も意味も必要ないとか思ってんだろ? バカ言ってんじゃねぇよ。まばたきするだけの人生は死んでる事と何が違うんだ? てめぇらの両親は人形じゃなくて人間が欲しかったはずだぜ。生きる理由も意味も必要ないなんて言い訳するぐらいなら、ご両親のためにさっさと死ね」

「複数形なのね」

「あぁ」

「死ぬのは怖いわね」

「さいでっか」

 やっぱりつまらん。ほんとにぜーんぶ分かってやがる。

 真木柱は稲穂にナノボットを渡し、稲穂はナノボットの力で殺人マシーンを作ってた。だから私らは真木柱を排除できなかった。篝火乙女事件は必要だったから。

しかし。今はもう全てが無だ。そして真木柱は無の先にあるものを既に受け入れている。

「篝火乙女事件、もういらないんだ」

 一方的な最終通告。さて、これで筋は通しただろう。とっとと始めよう。

 死ぬのが怖いなら、私が間引いてやる。

「もう言葉はいらねぇな。今日は最新兵器もクソもない。これで正々堂々タイマンできる。覚悟は良いか? 歯食いしばれよ!」

 私は叫ぶなり、ポケットに隠し持っていた大きな石を真木柱の顔面にぶん投げた。真木柱の目が見開かれた時には、既にゴツン! 顔面にクリーンヒット!

 真木柱は悲鳴をあげ、オフィスチェアからひっくり返り、床にうずくまった。顔面から大量出血。それで良い。

 正々堂々とは言ったけど、それはそれ、これはこれ。喧嘩とは勝つ事が全てであり、最終的に勝った者が平等という名の世界を手に入れられる。やっぱルール関係無しのファイティングは自由で良いね。好きだ。私はたった一つの答えを強制的に求められる日本の頭の悪い国語教育が大嫌いだった。

「おい何ヒヨってんだ。まだまだ始まったばっかりだぞ。さぁもっともっと遊ぼうぜええええええええええ!!」

「……っ!」

 真木柱が血だらけの額をおさえながらも、懐からスタンガンを取り出した。お、良いね良いね。稲穂と違って戦う姿勢見せてるじゃん。

 まぁさっきの表情を見る限り、戦う姿勢はあっても……。

 殺意は、足りてないだろうけど。

「調子に乗るんじゃ……」

「うおりゃああああああああ!」

咄嗟に二つ目の石を真木柱の顔面に向かって放り投げる。クリーンヒット。スタンガンがカランと音を立てて床に落ちる。

「よいしょー!」

 バシィン! スタンガンを蹴っ飛ばして遠ざけ、真希柱に向かってピースサイン。

「どうだぁ!」

 なんだろ。私ストレス溜まってんのかな。

「か……なこ……」

「私の~存在~指さしバカに~するなら~おーまーえーのー魂~今すぐ消してーあげるよ~私の~幸せ~絶対いつかは叶える~私の~憎しみ~あの世でたぎらせ笑うよーさあ死ねえええええええ!」

 私は容赦なく突進して、座り込んでいる真木柱の頭を両手で掴み、本気の膝蹴りを顔面にお見舞いした。顔がぐしゃっと潰れ、ノッポは声にならない声を漏らして前のめりに倒れる。

「てんめぇあの時の恨みまだ忘れてねぇからな! この私が! ガキに負けるかよ! あんな武器さえ無ければさ!」

 叫び、真木柱の体をよっこらせとかつぐ。そして……。

「お前プロレスは好きか? なぁ、別に笑っていいんだぞ? 私ってさ、なんだかんだ言って人を笑わせる物語も結構好きなんだよ。まぁマジになりたきゃマジになって良いけどさ、人生って結構笑えるもんだろ? って事でいくぞー! ハーフネルソォォオオン!」

 かつぎ上げた真木柱を頭からズドンと落とす。真木柱の頭は床に直撃し、首が変な風に曲がった。

 かろうじて意識はあるみたいだけど、真木柱はぐったりして全く動かない。よし、そろそろやるか。

 私は真木柱の髪の毛を引っ張ってずるずる引きずり、オフィスチェアに座らせた。高さ丁度良し。これならやりやすい。

「よっこらせっと。ん、なんか人形遊びしてるみてぇだな」

 真木柱は首を垂れ、壊れた人形のようにだらんと全身を背もたれに預けている。抵抗する体力も気力もゼロなのは分かりきってるけど、この期に及んで情けをかけるなんてありえない。

 つーか、悪いけど私いつも全力で生きてるし。

 何度も息を吐いては吸ってを繰り返す。ずっと、この時を待ちわびていた。

 右手の拳に力を込める。

 なぁ凛音。

 やっぱ、夏は花火が一番だよな?

「うおおおおおおおくらええええええええ! 必殺カナコパーンチ!」

 全身全霊の力を込めた右ストレートを、真木柱莉乃のほっぺたにぶちこんだ。

 真木柱の頭が、マジでもげるんじゃないかってくらいの勢いでぶるんと傾き、鼻血を吹き出し、彼女の体は力なく吹っ飛び、ド派手に床に転がった。

 舌打ち。

 せっかくの再戦なのに。

 コイツ、殺意が全くねぇんだもんな。

 やりがいねぇなぁ。

 まぁいいや。

 トドメを刺そう。

 人殺しなんて私の趣味じゃないけど。

 やるしかない。

 ポケットから茶色の可愛い拳銃を取り出す。

 愛機、P320。

 私は、殺る。

 こいつを殺す。

 この手で……。

「ずっと願ってた。バナナフィッシュ」

「え?」

 バァン!


 気づいた時には、真木柱の右手に小さな拳銃が握られていた。

 真木柱の頭には、穴が開いていた。


 中途半端な奴は、何者にもなれやしない。

 六十点の作品を連発する奴はそれなりに褒められるけど、なりたい自分には絶対なれない。


 私は、常にゼロか百かを目指していた。たとえ他人を不愉快にしようとも。たとえ嫌われようとも。たとえ仲間がいなくなろうとも。

 だって大多数の人間は生きる価値の無い、取るに足らない弱者じゃん。私は弱者になるつもりはなかった。


 だけど……。

 本当にこれで良かったのかな。

 一日中、ゲームしてたいな。

 でもまぁ。

 真木柱莉乃みたいな人間が、本当に嫌いだったんだ。



 パソコンが置かれている机の引き出しを開く。

 写真が一枚。

 アンタは誰?

 言うまでもない。


記入者:相聞歌凛音


ペンラムウェンメンバーリスト


スーパーミラクルリーダー:相聞歌凛音

その他の愉快な仲間たち:丘珠夏希、在原蓮、エルヴィラ・ローゼンフェルド、明日風真希、百合ヶ原百合、綾瀬望海、大和谷駆、真木柱莉乃


LOG:日付不詳


『エル、分かったわね? 必ずオタネ浜に行くのよ』

『分かったけど。てか、マキ部長と連絡取れないんだけど何か知らない?』

『知らない』

『どぅは!』

『あとお願いがあるんだけど、ケウトゥムハイタの篝火乙女に、今から言うパスコードを入力してほしいんだよね』

『ほよ? なんで?』

『世界を取り戻すため』

『んー? ……うん、やっておくよ。でもさすがにケウトゥムハイタの中には侵入出来ないよ』

『可奈子に協力してもらいなさい』

『あ、そっか。その手があったか。で、パスコードは?』

『エデンの園ごっこ』

『世界を取り戻すための、誓いの言葉だよ』


送信者:佐伯可奈子

送信先:綾瀬望海


『オタネ浜の花火大会に行こうぜ。迎えに行くから。アスカたちも連れてこいよ』


送信者:綾瀬望海

送信先:佐伯可奈子


『分かりました』


UJオメガ:今ならUJカシワギの攻撃を防ぐことが可能です。

UJオメガ:選んでください。どちらかを。


選択肢:ブスでも幸せに生きていける世界が正しい

選択肢:ブスは整形してやっと幸せになれる世界が正しい


UJオメガ:データを修正しました。

UJオメガ:もう、ぐっちゃぐちゃですね。


EP50(EP26C) ある意味無難な終着点

・明日風真希


Liar Root

Last Episode


 イポカシ・ウエカルパにて。全ての記憶を思い出した私たちは、稲穂南海香と対峙していた。

「私……お父さんにレイプされて……憎悪は忘れたくないって思ったけど……でも……知らないなら別に……知らないままでも……」

 望海の瞳から涙がこぼれ落ちる。稲穂はそんな望海を見て唾を飛ばしながら叫ぶ。恍惚とした顔で。

「あはっ! あははははは! 見てるか相聞歌!? コイツらに記憶を与えればそれで良しとか思ってたんだろ? ばーーーーか! んな訳ねぇだろ! つーかもう手遅れなんだよ! アスカたちはこの世界に染まってる! 今さら現実世界の記憶を与えた所でどうしようもないんだよ! それにハッキングはもう少しで終わる! そうなればデジタル世界は永遠に続く! もちろん二千四十五年までシンギュラリティを待つ必要はない! オメガのハッキングが終わればあっというまに世界を作り変えられる! 好きなようにね! 相聞歌! 見てるんだろ! 分かるか? お前はやらかしたんだよ! だって! 今ここで! 記憶を取り戻して! デジタル世界が続くようになったら……」

 稲穂は「ははっ」と息を何度も何度も詰まらせ、絶叫した。

「こいつらはあああああああ! 現実の! 辛い記憶を持ったまま! デジタル世界を生きていくんだぜえええええええ! ひでぇなお前! 悪魔か! 悪魔だよお前はああああああああ!」

「稲穂……アンタ……」

「うわあああああああ! それだ! それだよ望海! その絶望にあふれた顔! それそれ! それなんだよおおおお! それが見たかったんだよおおおおおおおお! お前は不幸になるべきなんだよ! やった! やったぞ! あははは! これで良いんだよ! 今この状態が正解なんだよ! やっとシーソーが水平になったんだ。もう分かっただろ? こんなブスな私でも表彰台の一番上に君臨することが出来る! これが正しい世界なんだよ! 現に見てみろよ望海を! そこで無様に震えてるじゃん! あははは! 無様だよ無様! 天下無敵の綾瀬望海が! 子鹿みてぇに震えてるんだ! 傑作だよ! レイプレイプレイプレイプ! 父親にレイプされたんだお前は! 実の父親のチンコで突かれて精子を体の中にぶちこまれたんだ! あはは! でも大丈夫! アンタは生きていけるよ……だって……私……ははっ。私はお前を殺すつもりだったけど……気が変わった……殺してあげないもんねええええええ! 一生絶望を背負ったまま生きていけよおおおおおおお! だって……死ぬよりも……苦しみを抱いたまま生きた方が辛いでしょ? そうだよねええええ! そうだよおおおお! お前は! もう! 辛い記憶全部忘れてぼんやり生きていける日々は終わったんだよ! 生きろ! 死ぬまで生きろ! 憎悪を抱きしめながらこの世界で生きろ! それがイヤなら首吊って死ね!」

 稲穂の高笑いが耳に響く。稲穂の声はしゃがれていた。たまにひくっひくっと喉を詰まらせる。

「何がシンギュラリティだよバカじゃねぇの。結局どんな時代でもブスは蔑まれる訳だろ。おかしいじゃん。ブスをバカにするような生きものがはびこってる時点でそんな世界はユートピアとは言わねぇんだよ。豊かな暮らしができれば無条件にユートピアは完成か? 違うよ! 真のユートピアは全ての人間が善人になる事だろ! 二千六十三年はユートピアなんかじゃない! でも! 今! この瞬間は恐ろしいほどユートピアだ。確かに人類は今もクソまみれだ。でも私は人を乗り越えた。全人類が善人になるユートピアがありえないなら、悪人を打倒して、理不尽に虐げられてきた人間がスポットライトの光を浴びられる世界を作るしかない。残った善人が自発的にユートピアを作り上げる。デジタル世界ではそれが実現できる。私はこの世界を愛してる」

 体の力が抜けていく。息が荒くなり、過呼吸のようになっていく。

「あはははははは! 勝った! 勝ったぞ私は! 綾瀬望海より幸せな人間になれた! もう子供なんかいなくてもいい。私はアンタに勝てればそれでいい。やった! やっぱり世界は素晴らしいんだ! こんな醜い私でも! 綾瀬望海に勝てる! 綾瀬望海のような素敵な人間を苦しめる事が出来る! これなら! ブスでも! 子供がいなくても! 私は世界を抱きしめていける!」

「てめぇ……」

 ヤマトが駆け出して稲穂に向かってパンチを繰り出したけど、稲穂はパッと姿を消して、別の場所に出現した。

 私は稲穂の「子供がいなくても!」っていうセリフが気になったけど、ヤマトはもはやそれどころではないらしい。憎悪に満ちた顔で、どう見ても正気じゃなくなっている。

「ばーーーーーか! 私はもう死んでるんだよこの世界では! 私は人工知能なの! いい加減理性で動くこと覚えろよおおおおおおお!」

 怒りがこみあげすぎて、満たされすぎて、感情が追いつかなかった。

 稲穂南海香。コイツは人類にとっての害だ。私たちにとってのじゃない。あくまでも、人類の害。

「……アスカ。なんだその顔は」

 稲穂の顔つきがすぅっと変わり、冷徹な眼差しになる。

「なぁアスカ。私は今じゃ望海と同じくらいにお前が憎いんだよ。実は私いじめられててさ、悔しくてさ、だからお前をいじめる事にしたんだ。理由なんか聞かなくても分かるだろ。だっていじめられ続ける人生なんか受け入れたくないもん。だから誰でもいいからいじめて、私も人を苦しめて高笑いする勝ち組になりたかったんだ! ずっとターゲットを探してた。そして私はお前に決めたんだ。ムカつくから」

「……」

 意味が分からない。

 私が、お前に何をした?

「私はお前に勝ちたかったんだよ。現実世界でお前の事なんか大して気にしてなかったけどさ、デジタル世界のお前は気に食わねぇ。覚えてるか? ピアノ教室の発表会でさ、私はお前よりうまい演奏をしたんだよ。でもさほら、発表会の後に子供と保護者で小さなパーティ開いただろ。あの時はどの親もアスカにばっかり声をかけてた。みんなアスカを褒めてた。私はあまり相手にされなかった。おかしいだろ。私の方がうまかったのに」

「だ……だから何?」

「私は気づいたんだ。お前はピアノが下手でも、可愛いからちやほやされる。人間はどいつもこいつも可愛い奴をちやほやする。この世界じゃブスに人権なんてねぇんだよ! だから私はお前をいじめる事にした。苦しめた。そして勝ったんだ。分かりやすいだろ? 犯罪に重たい理由があるのは推理小説くらいのもんだよ。現実は違う。案外くだらねぇ理由で死んだり、傷付けられたりするもんさ」

 私は稲穂南海香を理解出来ない……が、理解する事にはもはや意味などない。

 ただ、時は刻まれている。そして時計の針の音は重く笑っている。

「……なんだかね」

 ずっと稲穂の様子を見守り、完全に気配を消していたエルが呟いた。

「自覚ある無能のクセに無能のままなんて、マジで本物の無能だよね。エルちゃん呆れるよマジで」

 稲穂の顔が凍りつき、沸騰したように真っ赤になる。

「はああああ!? じゃあ私はどうすれば良かったの!? どうすれば望海に勝てたの!? どうすればアスカに勝てたの!? 方法があるなら教えてよ! それに何か!? 私はいじめられ続ける人生を受け入れて泣き寝入りするしか無かったの!? ねぇ! 私を否定するなら私が幸せになれる生き方教えてよおおおおおおおおお!!! 無能だって言うなら私が進むべき道を教えろよおおおおおお! どうせねぇんだろ! だったら無能とか言うんじゃねえよおおおおおおおお!」

 稲穂はふらついていた。

 さっきからずっと、言葉も、体も、支離滅裂で。

 壊れたロボットのように、哀れだった。

「ブスな人間でも可愛い人間に勝てる方法を教えてよ! 無能でも幸せを勝ち取れる方法教えてよ! 私はなんの才能も無いんだよ!? 頭は悪い。運動神経も悪い。なんの特技もない。最高級のブス。ブスなんだ! 自覚はあるよ。ねぇ、こんな私はどうすれば可愛い女に勝てるの? ねぇってばあああああああああ!!」

 エルは腕を組み、稲穂から目を逸らして黙っている。

 いつもと違う雰囲気。

 こんなの、私の知ってるエルじゃない。

「なぁ……何も思いつかないんだろ……言い返せないんだろ……無能だ無能だってバカにするクセに……無能が笑える道なんか示せないんだろ……だったら最初からそんなこと言うんじゃねぇよ……ただの悪口じゃねぇか……否定的な目で見られる筋合いねぇんだよ……あのさぁ……ブスで頭悪くて運動が苦手で創造性も何も無い人間は! 勝てないんだよ! ひたすら指くわえてたまたま綺麗な顔で産まれてきた人間を見てるしかねぇんだよ!」

「努力すれば?」

 エルが冷たく言い放つ。稲穂は甲高く笑い、ぺっと唾を吐く。

「なんだそりゃ? なぁローゼン。可愛いからって余裕ぶっこいてんじゃねぇぞおおおおお!! 努力すればいじめは無くなるのか!? 化粧頑張ったブスと化粧頑張った美人どっちが綺麗なんだよ!? 言うまでもねぇよ! 美人に化粧頑張られたら太刀打ちできねぇよ! なぁどうすりゃ良い? 私をバカにしたきゃ答えを出せ! ブスで才能の無い私が可愛くて才能もある奴にはどうやって勝つんだよ! もう直接優秀な人間を潰して這い上がるくらいしか私に道は無いじゃん! なに? アンタもしかして人をいじめちゃダメだよとか、人を殺しちゃダメだよとか言うの!? ふざけんなよ! それ以外で人に勝つ方法なんか無いじゃん! じゃあ私はどうすれば良かったの!? どうすれば惨めな人生から抜け出せたの! 人を落として苦しめる事以外で私が幸せになる方法! 誰にもブスだブスだってバカにされない方法があるなら教えろよおおおおおおおお!」

 稲穂は両足で地団駄を踏み、はちきれそうな声で叫び続ける。

「現実世界もデジタル世界も同じなんだ。ブスは相手にされない。バカにされる。なんでたまたまブスに産まれただけで惨めな思いしなきゃダメなんだ。なぁ望海。お前は可愛い女友達たくさんいるよな。ほら! 可愛い子は可愛い子同士で群れるじゃん! ブスは友達にしてくれないじゃん! ねぇ! ねぇってば!」

 稲穂は泣いていた。

 その涙にはなんの価値もない。

 ユートピアは、どこにもない。

「でも私は整形なんてする気もないしマスクもしない。だって自分の顔を隠したら、それはもうこの世界の理不尽さを認めた事になるじゃん。敗北宣言みたいなもんじゃん。だからそれだけは……」

 稲穂はその場に膝から崩れ落ちた。声は枯れ果て、顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。

「あー……少しスッキリした。ごめんなぁ支離滅裂に叫び散らしてさぁ……。ただまぁ……ね……とにかく……言いたい事は言った。もう十分だ。アヌンコタンのハッキングはもう少しで終わるよ。お前らがどれだけ吠えたって、世界は結局アンフェアで一部の人間だけが輝くんだ。私とお前らは立場が変わるだけ。ね? お前らに反旗を翻す権利なんか無いんだよ」

 稲穂がゆっくりと、望海に歩み寄っていく。

「私はね、アヌンコタンの総意は正しいと思ってる。永遠にデジタル世界が続いてほしいと思ってる。この何でもありな世界が正しいと思ってる。ブスでも自由自在に幸せを勝ち取れるから」

 望海のそばに座り込む。優しい表情で。

「アヌンコタンは、現実世界とはまた違うシンギュラリティを迎えるための世界政府になってくれる。現実じゃ脳改造は禁止されてた。でもアヌンコタンはこのデジタル世界で、脳改造を自由に行える時代を作るつもりなんだ。そうすれば現実世界で人間を苦しめた退屈とか生きがいとか、そういうものを感じない人間になる事が可能になるんだよ。もちろん、悪人は容赦なく善人に作り変える。私はもう、誰にも否定されない」

 稲穂の言葉を聞いた瞬間、私は「終わったな」と思った。

 何故なら。

 そんな世界も悪くないって思っちゃったから。

「どう思う? 素晴らしい世界じゃない。人類が現実で苦しんだ問題を全て解消するシンギュラリティを呼び起こす。それがアヌンコタンの最終目的。豊かな世界。退屈を感じず家畜のように毎日平凡な人生を最高に楽しめる人生。愚劣な人間も優秀な人間もその気になれば光り輝ける世界。ねぇ、アンタたちは……」

 稲穂が立ち上がり、両手を広げる。

「アンタたちはこれでも現実世界に帰りたいと思うのか!?」

 私は。

 私は、心の中で。

 首を横に振った。

 その瞬間。

 心が。

 脳みそが。

 深く、眠りにつくように、落ち着いていく。

 ここはデジタル世界。

 いつか最高のシンギュラリティが訪れる世界。

 稲穂南海香に謝りたい。

 そして稲穂に感謝したい。

 貴方は身をもって、世界と人間の理不尽さを教えてくれた。

 ありがとう。

 確かにそうだ。

 デジタル世界を永遠に続け、デジタル世界で最も素晴らしいシンギュラリティを迎え抱きしめるのが人間にとって最高のストーリーであり、人類の歩みが止まる最終地点なんだ。

「……私も」

 望海が囁く。

 優しい声。

「私も、人工知能になりたいな」

「……あ」

 望海がぽろぽろ涙を流しながら、よろよろと稲穂の方へ向かって這いつくばっていく。

 そして、望海は。

 両手で、稲穂の足に、しがみついた。

「私も……人工知能に……なりたい。……お願い、南海香……」

 望海を見下ろす稲穂の顔は。

 見たこともないような、芸術的なほどに。

 美しい笑顔だった。


LOG:二千二十一年八月一日


 ケウトゥムハイタのリビングで、私は買ったばかりの食玩フィギュアを真剣に吟味していた。

「んー。なんかこれ作りがチープじゃない?」

 隣に座っている南海香が「そうだね」と相づちを打つ。

「全体的に作りが粗いかもね」

「食玩のフィギュアなんてそんなもんじゃないの?」

 ソファに寝転がってタブレットを操作していた望海がどうでも良さそうに言った。望海はさっきからずっとタブレットで新作アドベンチャーゲーム(その名もアリアンロッド2)のプロットを読んでいる。と言ってもアリアンロッド2のストーリーを考えたのは望海ではなく、物語を自動生成する人工知能だ。

 望海は人工知能に幾つかのキーワードを与えてストーリーを作らせ、全部読んだらキーワードの修正をして調整するという作業を繰り返している。

「んー。いらないやこれ。捨てちゃおう」

 私はフィギュアをゴミ箱の中に放り投げた。資源が無限にある世界で、クオリティの低いフィギュアを大事にする理由は無い。

 手持ち無沙汰になった。宙にホログラムを表示して、寝室に居るユリを呼び出す。

「ユリー」

「はいはーい」

 ホログラムに映し出されているユリは、マシュマロを頬張っている最中だった。

「なにマシュマロなんか食べてんのさ。今から服屋行かない?」

「良いよー。どこで買う?」

「東京に新しいお店できたんだ。案内するよ」

「あいよー」

 ユリが画面から消えて、ホログラムに札幌の大通公園を映し出す。大勢の人たちで賑わう噴水前のベンチに私を模したアバターが座っている。

「東京。池袋駅西口」

 目的地を発した瞬間、私を模したアバターが魔法の杖に乗って札幌から東京の池袋駅西口前に移動した。すぐに私を追跡してきたユリが眼前に現れる。

「やっほ」

「行こっか」

「うん。あーちょっと待って。今日お昼ご飯どうすんの?」

「あぁ。今日はハル・ケラアンで食べるよ」

「初耳」

「だってユリずっと寝室にこもってるしさ、今の今まで呼んでも出なかったじゃん。さっき望海がハル・ケラアンに行きたいって言ってさ、じゃあ行こうかみたいな感じになったの」

「あーごめん。ずっとバーチャルライブやってたんだ」

「良くやるねぇ」

 ユリはバーチャル上の札幌に自分のライブ会場を作って、そこで歌ったりダンスしたりしてお金を稼いでるんだ。私もそろそろユリを見習って、バーチャル上でがっつりお金稼いでみようかな。アバターに本格的なにゃん太郎の着ぐるみでも着せて踊るとかどうだろう。案外儲かるかも!

「ねぇ早く行こうよ。人混みダルいし」

「あいあいさ~」

 魔法の杖で空中に飛び、東京の空に浮かんでいるニュータウン島まで行く。島の東の方に目的地の服屋がある。

 店内はかなり広くて、若者向けの服が大量に並んでいる。店の中を見回すだけで心が踊るね。

 次々と自分のアバターに色々な服を着せていく。私の体重やら骨格やらを一ミクロンの狂いもなく正確に、リアルタイムに作り出しているアバターは最高の着せ替え人形だった。それにバーチャル上の服は壊れたり汚れたりしないから雑に扱っても問題ない。非常に助かる。

「どうかなこの組み合わせ」

 バーチャル上の私が両手を広げながらくるっと回る。ユリが「おっ」と声をあげる。

「似合うじゃん」

「知ってた」

 私は服を着たままレジカウンターに陣取ってるNPCに話しかけて買い物を済ませた。即座に口座からお金が引き落とされ、画面の右上に「注文完了」の通知が表示された。目線を通知アイコンに合わせてメールを開き、ざっと読んでさっさと閉じる。

「アスカー。そろそろ行くよー」

「あ、うん。ねぇユリ。付き合ってくれてありがとね。もうご飯食べに行くってさ」

「おっけ。着替えたらすぐ行く」

「ん」

「あ、そうだ」

「なにさ」

「ナノボットもらいに行かなきゃ。全然運動してないし」

「あぁ。私ももらっとこう」

 この世界ではどうしても運動不足になる。だから定期的に健康促進用のナノボットを取り込まなきゃダメなんだよね。面倒だけど、こればかりはしょうがない。

 私はホログラムを閉じた。リビングにヤマトが入ってくる。

「もう行く?」

「うん。ユリが着替えたら」

「そうか」

 ヤマトは椅子に座り、ぼんやりとタバコを吸い始めた。南海香は平穏ではあるけどなんとなく辛そうな顔で髪の毛を整え、望海は貼り付いたような笑顔でポーチの中を整理している。

 平穏な日常が綿々と続く世界は、豊かで透明だ。

 アヌンコタンはデジタル世界を永遠のものにし、脳改造もなんでもアリな正しいシンギュラリティを用意してくれた。

 新しいシンギュラリティの恩恵は言葉に出来ないほど偉大で寛大で絶大だ。ユートピアは確かに存在する。私はユートピアを手に入れた。

 南海香には感謝している。彼女が望んだ形のユートピアは、私の可能世界をより良いものに作り変えた。

 ありがとう。

 私は永遠にこの世界を抱きしめ続ける。

 私はちゃんとユートピアを見つけたよ。

 アリガトウゴザイマス。

 ワタシハコノセカイガダイスキデス。

 ネェミンナ。

 ワタシ。

 オカシクナイヨネ。

 アァ。

 マジデ。

 ジンセイハ。

「……っ!」

 ジンセイハ。

「最高だなぁ……」


Liar End


EP51 ゼロ・シンギュラリティ Episode Ⅱ

・明日風真希


True Root

Last Episode


Remaining 92/100


 記憶が鮮明に蘇ってくる。

 現実世界の記憶を、私は寛容な気持ちで吸い込んだ。

 恐ろしいほどに心が落ち着いてくる。

 やった。

 思い出したぞ。

 私は明日風真希。二千四十九年産まれ。分かる。ちゃんと分かる。

 この世界が嘘だとハッキリ分かる。

 この世界がクソだとハッキリ分かる。

 シンギュラリティが訪れた世界は満たされていた。決してユートピアでは無かったかもしれないけど、誰もが最低限の幸福を掴んでいた。生活が保証されて娯楽も無限にあったから、他人を攻撃して楽しむような愚か者は少数だった。

 それに比べて二千十八年という時代は、世界は、この世に生きる人間はもはや滑稽でしかない。人間の悪口なんか言い始めたら口が乾いて脱水症状になっちゃうよ?

 どいつもこいつも常に自分のことを棚に上げて何かを批判しまくる日々を送ってるけど、自分が社会全体にストレスを与えてる癌だって事に誰も気づきやしない。クソを垂れ流すのはケツだけで良いんだよ。口からクソを漏らすな。

 自分の悪い所は認めないくせに他人の悪い所を見つけて罵倒することだけは天下一品で、セックスの経験がある女を中古品呼ばわりする奴に限って童貞卒業するために毎日必死で、弱気で臆病なクセに客という立場になったら何故か超絶無敵のモンスターとなり、店員のちょっとしたミスさえ見逃さずクレームクレーム。

 男女平等を謳い病的な勢いで必ず女性専用車両に乗る女ほど、男がご飯を奢るのは当たり前だと思ってるし、重たい物は絶対男に持たせやがる。普段吠えてるクセに、都合のいい時だけ女になるな。

 ラノベしか読んだ事ないクセに偉そうに小説や映画の批評すんな。Mp3のファイル形式をwavに変換しただけで「音質UPさせました」とかいう障害者はほんっとマジで飛び降り自殺してくれ。こういうバカが山ほど居る事をなぜ国会は取り上げないんだ。ヤバいだろ。

 ずっと不幸な目にあってる友達を慰めもしてなかった奴は、大抵の場合いざ自分に不幸が舞い降りると途端にぎゃあぎゃあ騒いで不幸アピールをし始める。は? 自分が不幸にならないと不幸な人間の気持ちを理解できないのかよ。これまでどんなに友達の不幸話を聞かされても、鼻ほじりながら「そうなんだぁ」とか適当に相槌うってた人間に手を差し伸べる人間がいると思う? なんなんだ一体。自分に生きる価値が無いって事に気づくのも才能の一つだぞ。早く死ね。

 何が情報社会だ。むしろ間違った情報とか偏った情報ばかりで皆バカになってるじゃん。くだらない事は調べるクセに、重要な事は調べない中身スカスカの奴も沢山いるぞ。情報社会まともに機能してねぇぞ。

 根本的に頭悪い奴多すぎなんだよ。アメリカの首都がどこだかも分からず? 日本の食料自給率も全然分かってなくて? つーかどうでもいいけど、なんで日本人は「日本には四季がある」って誇らしげに言うの? カリブとか一部の地域以外の国は大体普通に四季あるだろ。つか北海道と沖縄はどうなるんだよ。日本って言うほど四季ハッキリしてないでしょ。

 地震があったら脊髄反射で原発原発。努力する気もなく人の作品パクって金儲けて、テレビ番組を違法アップロードしてさもそれを自分の作品かのように扱って広告費稼いで、なんか良く分からん理由で人殺して、税金はガンガン上がって。

 政治家は国民の税金で温泉に行くし、アホみたいに豪華なスタジアム作り始めるし、ゴミ出しは何故かムダに細かく分けなきゃいけないし(なんでプラスチックの日は週に一回しか無いの?)、病院に行っても症状の原因を特定できない医者ばかりだし。分かんねぇ分かんねぇ連呼して薬渡すだけの仕事なら幼稚園児にでも出来るぞ。

 右見ても左見ても人間なんて低能クズしかいねぇじゃん。社会は? 社会はどうだ?

 長寿? 健康? はぁ? 百歳が寿命だとして? 五十歳で醜いヨボヨボの姿になって? そんな醜い姿と心であと五十年も生きろって? しかも定年が七十歳? 高卒だとしたら五十二年も働かなきゃダメなの? 五十二年もコンスタントにお金稼げる人間ってそう多くはないよね? つーかその年でまともに働ける? 運動も出来ず新しい知識を吸収することもできないヨボヨボの老人はどうやって楽しく生きていけばいいの? 生理が止まって老婆のように老けた女はどうやって楽しく人生を歩んでいけばいいの? 食物繊維? ビタミン? アホか。ケンタッキーでも食いまくって三十五歳くらいで死ねよ。長生きすることのメリットって何? 無いでしょ。私は寝たきり生活になって若い人に介護される羽目になるなら、そうなる前に死にたいね。寝たきりで死ぬ瞬間を待つ事しか出来ない人生は地獄以外の何者でもない。若い人は介護なんかじゃなく自分の人生に時間と金を使えよ。まさか寝たきり老人を生かすために若者は存在しているとでも言うのか?

 アムリタ・ハント。その意味が今なら当たり前のように分かる。アムリタはインド神話に出てくる飲み物の名前で、飲んだ者に不死の力を付与するというものだ。

 そしてハントは狩りという意味がある。アムリタ・ハント。不死狩り。綾瀬源治が設立したアムリタ・ハントはまさに旧シンギュラリティに対するアンチテーゼだ。

 アヌンコタンの真意を知れば綾瀬源治の行動理由も簡単に分かる。彼にとっては現実世界こそが夢の世界だったんだろう。あいつは猿で、一番大切なものは自由だった。不死などいらない。不死という概念に羨望の眼差しを向ける旧態依然な人間に飽き飽きしていたんだろう。

 許せない。絶対に許せない。ふざけるなって思うね当然。この時代の人間と社会はまごうことなきクソったれじゃないか。綾瀬源治そのものがゲロまみれのクズじゃないか。てめぇみたいな奴らが居なけりゃ、人類はデジタル世界移行計画なんて実行しなかったかもしれない。そうだ! そうなんだよ! いつだって世界は常にバカが支配してるんだ! インターネットだってある意味バカが頂点に君臨している。例えばネットにはアフィリエイト目的で素人が書いた本当か嘘か分からない不安を煽るような記事が星の数ほどあるけど、専門家が書いた真実の記事なんてよーく探さないと見つからない。そういう事なんだよ。世界はどうしてもバカが目立つ! その結果がデジタル世界移行計画なんだ! 挙句の果てには一部のバカ共がデジタル世界を永遠に続けようとしてるなんてありえない! なんで! いつも! 世界はバカがリードしてるんだよ!

 ふざけんな。ふざけんなよ。バカ達のせいで私はこんなイカれた時代をずっと生きてたのかよ。稲穂にいじめられたのも、頭が足りない親に育てられたのも、篝火乙女事件なんかに巻き込まれたのも全部全部、もとはと言えばデジタル世界移行計画のせいで、計画が打ち上げられた原因は現実という社会に適合できなかったクズたちの暴走じゃないか! もっとまともな人間が多けりゃ、人類はシンギュラリティが訪れた時代でも幸せに暮らせる方法を見つけられたのかもしれないのに! 正しい形でシンギュラリティを迎えられたのかもしれないのに!

 この世界は。平成という時代は。許しがたいほどに劣悪な箱庭だ。私はこの時代で生きた自分を恥ずかしく思う。二千十八年なんか、一億年間一度も水を流した事がないクソまみれのトイレみたいなもんだ。

 帰りたい。帰りたい。帰りたい。

 幸せになれる訳ないじゃんこんな世界で。全てが人工知能に支配されていたあの世界こそ、人類にとって最善の理想郷だったんだ。二千十八年という時代は、人間が生きるにはあまりにも社会のシステムが未熟すぎる。人間はもっと高度なシステムに支配されて飼われるべきなんだ。人間は自分たちの意思だけで立派な社会を作れるような優れた生き物ではない。むしろ自滅する未来しか作り出せない能無しだ。低能な人間にとって地球は、世界は、社会は、あまりにも途方もないハードウェアなんだ。人間社会なんて成立し得ない。人間が毎日笑える日々はシンギュラリティが訪れた時代にだけある。平成と「令和」は人類にとってのプレステージだ。人間社会はまだ始まってすらいない。

 留まる必要がどこにある?

 クソの掃き溜めから脱出したいと願う私の意思には、ロジックを通り越した神秘性と人間らしさがある。

 頭が冷えてくる。冴え始める。私は全てを思い出した。これは何を意味するのか。言うまでもない。現実世界に帰れるチャンスがあるってことだ。

 このキチガイじみた世界におさらば出来るかもしれない。そう考えただけで希望が生まれる。これから色々と大変でクソ面倒くせぇ事になるかもしれないけど、だからこそ小さな希望を胸に抱いておこう。じゃないと精神が崩壊する。腐ったデジタル世界で一番大事なのは希望だ。見せかけでも良い。希望なんて無くても生きていけた現実世界とは違う。人間の手の上にある世界は希望でもないと足が地面につかない。

 見せかけでも良いから希望を持て。そして全力で元サヤに戻る意思を自分の心に込めろ。

 こんな寂れた過去に良い事なんて何も無い。世界全体が下痢をしてるようなもんだ。ここは。この世界は!

「ははっ」

 笑いがこみ上げる。

 玲音、いや凛音。

 遅れてごめんね。

 私は貴方の駒。

 私はペンラムウェンの明日風真希。

 私は、凛音とずっと繋がっていた。

 貴方は、ずっと、私を見守ってくれていた。

 ありがとうと心の中で呟くよ。そしていつか、貴方に直接伝えたい。


 ユートピアなんてどこにもない? 確かにそうかもしれない。二千六十三年はイヤだ? 二千十八年もイヤだ? 現実世界もイヤだ? デジタル世界もイヤだ? そうなのかもしれない。

 でも答えは簡単なんだよ。最もすぐれた世界で生きる。人生はシンプルじゃないか。なにも悩む必要なんてない。

 私はずっと、シンギュラリティに憧れていた。

 私はずっと、憧れた世界で生きていた。

 今の私なら、絶対に。

 現実世界で、幸せになれる自信がある。

 だから凛音。

 腑抜けた世界に、歌を届けてくれ。

「りんね……りんね……りんねええええええええええええええ!」


remaining 95/100


UJカシワギ:お疲れ様でした。

UJカシワギ:あとはもう、終わりに向けてまっすぐ走るだけです。


「凛音! 聞こえてる!?」

 私は天井に向かって叫ぶ。汚い天井に向かって。

「思い出したよ! 全部! ぜーんぶ思い出した! ただいま! ただいま凛音!」

 凛音。見てるんだろ。ねぇ凛音。貴方と話したいよ。今すぐに。

「りんねえええええええ!!!!!」

 ビリっ!

 脳内に衝撃が走ったような感覚に陥る。

 風。風だ。

 体に風を感じる。さっきまでは空気が淀んだ室内に居たはずなのに。扇風機の風? 違う。これは自然の風だ。

 でも目の前は真っ暗で何も見えない。目は開けているはずなのに。さっきまで見えていた景色がどこにもない。

 ここは外なのか?

 必死に目をこらして首を巡らせる。

 次第に闇が薄くなっていく。

 急激に脳みそが冴えてくる。

 ここはどこ?

 潮の匂い。海。

 海? そうオタネ浜だ。

 思い出す。花火。そうだ。今日は花火大会の日じゃなかったか? でも私は花火大会には行かなかったはずだ。花火大会に行く前にイポカシ・ウエカルパに行った。そこで現実世界の記憶を思い出したはず。

 ビリっ! 頭に何かが流れ込んでくる。

 記憶。いや記憶じゃない。誰かの記憶。誰かが聞いた言葉。

 そして、私の意思。

 倒れそうになるのをこらえて前を見据える。

 記憶という名の情報は魂の源となる。記憶が流れ込むと同時に、私の意思が燃え上がってくる。

 デジタル世界はおかしいという意思が。こんな世界はあっちゃいけないという意思が。お姉ちゃんを想い続けるという意思が。脊髄反射で激情を駆り立てる。

 いや現実だろうがデジタルだろうがどんな時代だろうが、地に足つけずに生きていける世界はおかしいのだと、私の意思が告げている。

 ……私の意思? これは本当に私だけの意思か?

 違う。

 きっと、いま私が胸に抱いている意思の先祖は、創世記から脈々と続いてきた記憶の総意なのだろう。人間が受け継ぐDNAには、人の心が宿ってる。

 私は、わたしたちは、現実世界に必ず帰る!

ドーン!

 ドーン!

 轟音が響く。目を瞑り、また開く。

 すると世界は、色とりどりに輝いていた。

 やっと開けた視界が捉えたのは、きらびやかに花火で輝く夜空だった。

 花火が咲く空の下、私はゆっくりと辺りを見渡す。大勢の見物人は遠く離れた場所に固まっており、私の周囲に見物人は見当たらない。ここは会場からかなり離れた場所なんだと理解する。

 会場? そうか。

 ここは、オタネ浜だ。

 足元を見やる。砂浜。そして前方には、漆黒の海。

 ドクン。心臓が跳ねる。

 潮風の匂いの中に、懐かしい匂いを感じ取る。

 振り返る。

 そして、涙腺がほとばしる。

 花火が咲き誇る夜空の下に。

 彼女はいた。

 風でなびく長い前髪。

 色白の肌。

 力強い瞳。

 幼い顔立ち。

 年齢を一切考慮していないミニスカート。

 勝ち誇ったような、自信に溢れた爽やかな笑顔。

 佐伯可奈子。彼女は間違いなくそこに存在している。

 そして、私のそばにはエル、ヤマト、ユリ、望海がしゃがみこんでいて……。

 可奈ちゃんの前方には、南海香が立っている。

 可奈ちゃんはまるで見張るように南海香の後ろに立っていて、その手には堂々と鋭く光るナイフを手にしている。それを見て脳みそが嬉々として記憶の整理を開始する。

私たちが花火大会の前にイポカシ・ウエカルパに行ったのが失敗だった。のこのこイポカシに行ったから殺されちゃったんだ。要するに戦犯はエル。後でお説教だ。

で、多分だけど、可奈ちゃんは今日ここで私たちにデジタル世界の真実を話そうとしてたんじゃないかな。

 記憶がサラサラと流れるように整理されていく。

 篝火乙女事件。

 甦った現実世界の日々。

 稲穂南海香に殺された欠片。

 そして、書き換えられた五回目の世界の記憶。

 一から四までの記憶はないけど、確実にデータとして注ぎ込まれている。ここは五回目だ。そうでしょ凛音。

 今の私は二つの五回目の世界の記憶と、現実世界での記憶を持っている。

 欠けた脳みそに肉が詰まるような心地。過去は書き換えられた。でも私は全てを理解している。

 大丈夫。今の私に合理的に判断する頭は無い。正しい。大丈夫だ。私の魂はちゃんとある。意思がある!

 何より、今この瞬間私にとっての人生は、現実は、正史は、現実世界と書き換えられた五度目の世界だけとなった。改変前の五回目のデジタル世界はあくまでも記憶であって、現実ではない。

 当たり前だ。改変前の記憶は私が歩んだ記憶ではない。私が自我を持って歩んだ世界は現実世界と改変後のデジタル世界だけ。教えられた記憶と体験した記憶は同列に語る事は出来ない。だからこそ希望がある。

「……ははっ」

 笑いがこみあげる。どうやら以前の明日風真希は、稲穂南海香ごときに苦しめられていたらしい。

 私は夏の空気を吸い込み、ゆっくり吐き出した。

 大丈夫。

 呼吸は整っている。

 私は絶望なんてしない。今の私は昔の私と違って全てを知っている。絶望を上回る感情を持っている。

 もう昔の私じゃない。それにほら、私もう一人で寝られるようになったし。

 強さと知識が、分かりやすく憎悪の矛先を脳に伝えてくれる。

 アヌンコタン。舐めた真似しやがって。裏切り者が牛耳る世界で翻弄された挙げ句、稲穂に殺される運命なんてまっぴらだ。

 世界を睨む負の感情が、自我を支える。私はしっかり地に足つけて立っている。

 勝てる。これなら勝てる。私らは希望の下に生きている。

 貴方が私たちを奮い立たせる必要はない。

 ドーン! 夜空に花火が舞い散る。数多の記憶を乗り越えてこの瞬間がある。

 私には分かる。稲穂がこの後どんなセリフを吐くのかを。でも稲穂はそのセリフを吐く事はない。

 何故なら、主導権はもうペンラムウェンが握っているのだから。

 だから私が、かわりに言わせてもらおう。

「望海。悪いけど永遠に現実世界には帰れないよ。だってこの世界は素晴らしいじゃない。篝火乙女事件なんていうありえない事件を引き起こせる。そして今から私はアンタ達を殺すけど、なんの問題もないよ。だってデジタル世界はゲームの世界だもん。オメガのハッキングはもう終わりが近い。なんなら警察が存在しない世界だって作り上げられる。なんでもありなの」

 私が淡々と言葉を述べると、稲穂はギョっとした顔になった。

「あす……か?」

 だってこの世界は素晴らしいじゃない。稲穂は確かに以前そう言った。それが稲穂南海香の意思。

 稲穂はこの後どうした? そう、私達を殺した。それは何を意味する? 考えるまでもない。稲穂はこの世界が永遠に続けば良いと思っていて、コイツの世界に私達はいない。そのはずだ。

 永遠に続くデジタル世界で死んだ者は生き返らない。

 だから稲穂は殺戮を実行した。今なら分かる。

 でも。

 以前とは状況が全く違う。まず場所がイポカシ・ウエカルパじゃないし真木柱は姿が見えないし、かと思えば佐伯可奈子がいる。そしてエルはしっかり私達の側に居る。対峙するどころか、びくびく震えながら両手で私の腕に抱きついている。お前私よりも年上だろ。

「エル。ご苦労さん」

「……ほ……ほよ?」

「いやご苦労さんはおかしいか。余計な事しないでくれてありがとう。今回は」

「……」

 世界は変わった。私たちの都合の良いように。

 繋がったんだ。デジタル世界一回目の約束と決意が今に繋がっているんだ。

「……相聞歌が使い物になるようになれば、難しい話なんて何もないよな」

 ヤマトがよろけながらも立ち上がる。顔は憔悴してるけど、目は光っている。望海とユリも力強い瞳で立ち上がる。

 ヤマトの言う通り、難しい話は何もない。イポカシに行けば殺される。オタネ浜に行けば勝てる。選択肢一つで光と闇に人生は分岐される。

 では、なぜオタネ浜はセーフなのか。簡単だ。

 可奈ちゃんがいるから。

「可奈ちゃん、ありがと」

 私は拳を握りしめた。

 流し込まれた記憶なんて、何も怖くない。他人事だ。

 ドーン!

 ひときわ大きな花火が打ち上げられる。私は花火を合図にしたかのように走り出し、稲穂に飛びかかった。弾かれたようにヤマトも走り出しながら叫ぶ。

「殺れ! 稲穂は人工知能だ! 殺しても罪にはならねぇぞ! 思う存分殺っちまえ!」

 稲穂は逃げ出そうとしたけど、可奈ちゃんが容赦なくナイフを首元に突き刺した。

「ああああああああ!」

「好きなだけボコれ! こんなに殴りがいのあるサンドバッグどこにも売ってねぇぞ!」

 可奈ちゃんが足払いをして、稲穂があっさりとその場に倒れ込む。私は勢いのままに稲穂の頭を蹴り上げ、高らかに叫ぶ。

「どうせ醜い顔してんだ! どれだけ顔潰れても気にしねぇよな? だって最初から潰れた顔してんだからさ!」

 かかとで鼻の頭を踏み、顎に強烈なキックをお見舞いする。稲穂の首がぐにゃりと曲がる。可奈ちゃんが高笑いする。

「バカな奴だよな! 篝火乙女事件で皆を苦しめる? 逆だよ逆。お前のおかげで、みんな脳波振り切れて記憶を取り戻せたんだ。こうなったらもうアヌンコタンに勝ち目はねぇよ!」

「嘘だああああああああ! 嘘だあああああああああ!」

「ぴぃぴぃ喚くんじゃねぇよ!」

「アスカ!」

 ユリが駆け寄ってきて、稲穂の右耳を強烈に蹴り飛ばす。

「心臓だ! 心臓狙え! さっさと殺せ!」

「バカ言わないでよ! たっぷり苦しめて殺してやるんだ。何が篝火乙女事件だ。アホか。お前の無能な物語に付き合わされる身にもなってみろよ!」

「ちょっと! 私の分も残しといてよ」

「は……ハイエナのごとく……」

 望海とヤマトも一斉に駆け寄ってきて、みんなで稲穂を袋叩きにする。拳と蹴りで稲穂の体はどんどん料理され顔は陥没し、鼻やらお腹やら至る所から血を流し始める。

「どけ!」

 可奈ちゃんが私を突き飛ばし、ぐったりくたびれた稲穂の心臓めがけて包丁を振り下ろす。いやいや冗談じゃないから!

「待ってよ! 私が殺る! こいつは私の獲物だ!」

「ダメだ! アンタにはこれから不幸な目にあってもらわなきゃいけない。私はその役目をアンタに押し付けた。世界のためじゃない。自分のために! だからせめて汚れ役は私にやらせろ!」

「は? 汚れ役? むしろ望む所なんですけど!? 私は殺したいんだよ!? 私に殺らせてよ!」

「じゃあなんで手震えてんだよ!」

 可奈ちゃんに言われて始めて気がついた。

 両手が震えている。

 嘘だろ。

 相手は私を苦しめ続けた稲穂南海香なのに。

 ここは夢の世界なのに。

 稲穂は人工知能なのに。

 それでも。

 私は人を殺せないっていうのか?

 これが人間か?

 これが人間ってもんなのか?

「アヌンコタンの意思をぶっ潰すその日まで私が見届けてやる。だから安心しろ。人類は必ず現実世界に帰る! 私らの願いが叶えばアンタにもまた現実世界での人生が待ってるよ。帰ったら整形でもして楽しく暮らすんだな!」

 可奈ちゃんが勢い良くナイフを振り下ろす。青いナイフが稲穂の心臓にズブリと突き刺さる。

 一瞬。

 本当に、一瞬だった。

 稲穂は声すらあげなかった。

 しーん……と静寂が場を支配する。

 稲穂南海香の体は完全に硬直していた。

 稲穂は死んだ。ハッキリと確信した。

 稲穂は死んだ。稲穂は死んだ。稲穂は死んだ。

「……あはっ」

 望海が乾いた笑い声をあげる。そして、呟く。

「本番はこれからだね」

 ドーン! 花火は尚も夜空に咲き誇り続け、満点の星空を彩っていく。ユリが腰を抜かしてぺたんと地面に座り込む。

 狂った壮大な量の記憶が入り混じり、私はもはや幻覚を見ているような心地だった。

 変わった。

 絶望の未来は変わった。

「おめでとう」

 ドーン! 赤色の大きな花火が咲いた瞬間、焦がれ続けた声が優しく世界を包んだ。

 光り輝く闇の下で、彼女は笑っていた。


 相聞歌凛音。彼女はドヤ顔でカーテシーポーズを決めている。

 凛音のそんな姿を見てなんだか呆れると同時に、本当の篝火乙女はこの人なんだろうなって心の底で思った。

「凛音……」

「り、りんりーん!」

 エルは歓声をあげ、望海は両手で口を塞ぎながら瞳を濡らし、ヤマトは憎らしそうに笑っている。

「相聞歌。お前がこの世界に具現化してるって事は、良い所まで進んでるんだな?」

「当然。そもそも、私がアンタたちに直接記憶を送り込んでる時点で、全てお察しって感じでしょ」

 凛音は柔らかく微笑み、そして私は彼女が何を言うのか心で当てる。

「篝火乙女事件、これにて終了。過程はどうあれ、おかげでみんな記憶を取り戻せたからね」

「りんりーん!」

「凛音……久しぶりだね。ほんと……ありがとう」

「どういたしまして」

「りんにぇぇえ~~」

「エル。相変わらずにもほどがあるわよ。通信で死ぬほど喋ってたじゃないの」

「どぅはぁぁ~」

「つーか、そろそろドヤ顔やめてくんない?」

「あら。ユリも相変わらずね。アスカもそう思わない?」

 話を振られても、言葉が出てこない。凛音はそんな私を見て、慈悲深い笑みを浮かべた。

「まぁ、エルみたいにぎゃんぎゃん喘ぐだけの奴よりかはマシかな」

「ほふ!」

「……相変わらずはどっちなのさ」

 凛音は「あははっ」と笑うと、ふぅと息を吐いて表情を引き締めた。


「アンタ達は強く前を向いて今ここで生きている。稲穂に殺される側から稲穂を殺す側にまわった。この不変の事実はアンタ達の勝利を意味する」

 夏の風が海の匂いを周囲に漂わせ、凛音の言葉が夜空の中に溶け込み、空気全体が昔に戻る。いや、未来に戻る。

 凛音は一度間を置き、笑顔の中に情熱をたぎらせた。

「もちろん、これからアスカには絶望的な不幸が待ってるわ。苦しむと思う。助けられない皆も苦悩すると思う。でも、今の貴方達なら闇の先に必ず笑える日常を勝ち取ってくれると私は信じてる」

「凛音……」

「ハッキングは終わりが近い。時間はあまり無い。だからこそ、デジタル世界の心残りは潰しておきましょう」

「心残り……?」

 望海が呟くと、凛音は冷たく言い放った。

「莉乃は死んだ」

 誰も、特に驚きはしなかった。オタネ浜に彼女がいない時点で分かってはいた。

 そして、間違いなく、誰も彼女の死の真相なんて知りたくもない。興味がない。

「莉乃はヤマト君にナノボットを渡した。ヤマト君はそのナノボットを飲み物とかに混ぜてこっそり望海に飲ませてた。ユリはナノボットを直接投与した。アスカを好きになるように」

 凛音は伝えるべき事実を淡々と告げる。

 ねぇ凛音。

 全部分かるし、心残りかどうかはまだ分からないよ。

「どうして莉乃が皆にナノボットをプレゼントしていたのか、理由は分かるわよね。そして稲穂に協力してた理由も」

 篝火乙女事件。ナノボット。

 彼女はきっと、誰より悩んでた……けど。

 一歩間違えれば、最大の憎悪になっていた。

「はっ」

 ヤマトはどうでもよさそうに冷たく笑った。

「ハンパ者の過去を洗ってもしょうがねぇだろ」

 花火の音が止む。遠くの会場から観客のざわめきがこだまする。

「……ごめんなさい。心残りと言ったけど、これはあくまでも私の心残りね」

「りんりん……」

 凛音は両手で軽く自分の頬をぺちんと叩くと、表情を強く凍らせた。

「さて。悪いけどマジで時間ないの。さっそく始めさせてもらうわ。お願い、葵さん」

「はい。もうよろしいのですね?」

 透き通った女性の声が空から降ってきた。懐かしい。UJカシワギの声だ。

「あ、ていうか皆さんお久しぶりです。いやぁこれぞまさに天の声ってやつですよね」

「挨拶なんていいから」

「すみません。準備は出来てます。真木柱の邪魔が無くなりましたから。それでは計画通り、全人類の記憶を復活させます」

「……え」

 カシワギのちょっと興奮したような、機械らしくない声が轟いた瞬間。

 オタネ浜に、花火が打ち上げられる時にすら聞けなかったような人々のざわめきが空間を支配した。


 全人類の記憶?

 どういうこと?

 それってつまり。

 私は用済みって事?

 喜ぶべき?

 それとも。


 あれ? おかしいよね?


 全人類の記憶を復活させられるなら、篝火乙女事件は何だったの?


 ズキン!


 幾度も感じた痛み。


 フラッシュバック。


 記憶じゃない。押し込められていた「感情」が、解き放たれる。


老人の精液が透明のホルマリンの中に溶け込み、同化していく。


 お姉ちゃんの脳みそが、精液の入り混じったホルマリンで満たされていく。


容器の中の脳みそは、爆発して粉々になっていた。


「……あす……か?」


 ズキン。


「どうしたの? 大丈夫?」


 ズキン。


 ユリ。百合ヶ原百合。違う。明日風百合。違う。百合ヶ原柚。違う。

 貴方は、誰?


「あ……」


 凛音。

 ダメだ。

 ごめん。


 現実世界のユリは、お姉ちゃんでもなく、恋人でもない。

 そしてこの世界のユリは恋人だけど、記憶を取り戻したユリはもう私のユリじゃない。


 まずい。

 私が一番欲しいモノは。

 もう、どこにも。


 気づいてしまった。

 凛音。

 私はこの世界で。

 幸せを、手に入れてしまった。


 なぁ凛音。

 お前はずっと……。


 ズキン。

 おかしい。

 記憶が、薄れてゆく。


 待て。

 やめろ。

 凛音!


『もちろん、これからアスカには絶望的な不幸が待ってるわ。苦しむと思う。助けられない皆も苦悩すると思う。でも、今の貴方達なら闇の先に必ず笑える日常を勝ち取ってくれると私は信じてる』


『もちロん、これからアスカにはゼツボウテキな不幸が待ってるわ。くるしむとオモウ。タスケラレナイ皆も苦悩すると思う。でも、今の貴方達なら闇の先にカナラズ笑える日常をカチト……て……』


 凛音。

 それは無い。

 私は……。

 私の記憶を……。

 それがお前の、やり……。


『もちロん、これからアスカにはゼツボウテキな不幸が待ってるわ。くるしむとオモウ。タスケラレナイ』


『』


「誰……?」


「誰が……」


「アスカ……アスカ!?」


 ワタシハ……コレカラ……ドウナルノ……?


 ただ……。ユリがいない世界に戻るのが怖くて……。


 嫌だ……。

 嫌だ……。

 私が望む世界は……。

 どこにも無いよ……。


「う…………うわああああああああああああああああああああ!」



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