第五話 エデンの園
EP31 300年ぶりの地球に、泣け
・相聞歌凛音
これは、私たちが明日風真希と出会う前のお話。
これは、エルと望海がレイプされる前のお話。
これは、稲穂南海香という名の魔法使いを知らなかった頃のお話。
・デジタル世界移行計画について
※ログの断片を修復してつなぎ合わせた文書なので、結構飛び飛びな内容になっています。予めご了承ください。また、どうやら大半の文章は酩酊状態で書かれたものだと推測されます。
SISAが誇る量子コンピュータ「UJオメガ」を中枢とする量子コンピュータ群で構成されたデジタル世界で永遠に暮らしていくこと。これがデジタル世界移行計画の全容である。
計画の実行は西暦二千六十三年を目処にして準備を進めている。UJオメガの最終シミュレーションと自己発達が終わり次第計画を発動する予定であり、今の所トラブル無く調整は進んでいる。
※相聞歌凛音による注釈 ここから
人間の体内に埋め込まれたICチップはUJオメガと強固にリンクされており、健康状態に位置情報、記憶や性癖など全ての情報がUJオメガに記録され、SISAがいくらでも管理・閲覧・支配が可能となっている。
※相聞歌凛音による注釈 ここまで
SISAはデジタル世界移行計画の発動と同時に全人類のICチップに信号を送り強制的に眠らせる事で、まず現実世界の活動を停止させる手はずになっている。人間が活動していない世界は世界などではないが、それで良い。世界は二つも必要無いのだから。
全人類が壊れた人形になってしまえば話は早い。あとは人間の魂をデジタル世界に投下させるだけだ。体は現実世界で永遠に眠り、魂だけが架空世界で永遠に生き続ける。
魂と肉体の分離。肉体を捨てた人間は老いや死という概念から解放される。全人類が平等に神と等しくなれる。そして架空の世界には本物の感情というものが存在しない。究極世界はついに実現する。
ここで忘れてはいけない点が一つある。それはデジタル世界に投下させるのはあくまでも魂であり、記憶の投下は行われないということだ。いや、この表現だと語弊があるかもしれない。魂は一度空っぽになる、と言った方が正しいだろうか。
デジタル世界は西暦二千年から二千二十年を永遠に繰り返す。二千二十年が終われば世界は一度リセットされ、また西暦二千年が始まる。SISAが導き出した全人類が肉体を解放した上で幸福になれる世界とは、シンギュラリティが訪れない世界のことを言うのだ。
デジタル世界で暮らしている人間に、現実世界での記憶は存在していない。自分たちが生きている世界が架空の世界だという事を知らぬまま、平成と令和の時代を生き続ける。要するにデジタル世界の人間はそこが現実世界だと思いながら生きるのだ。恐ろしい計画だろうか? そうでもないし今さらだろう。
戦争に赴いた兵士は「なんのために戦っているのか分からない」と言うが、つまりはそういう事なのだ。人間はいつだって何も知らないし、例え知ったところで理解できない事柄は山ほどある。
もちろん、二千年から二千二十年が永遠に繰り返されているという事に人類が気づく可能性はゼロに等しい。
この二十年間の時代を延々と繰り返す事に、ある意味もっとも純粋な希望がある。人間が正しい形でシンギュラリティを迎えられる可能性はゼロだ。私もそう思うし、何より人工知能がそう答えを出してしまったのだから反論の余地はない。そもそも人工知能に判断を仰ぐ問題でもないだろう。シンギュラリティとは、世界との決別を意味するものなのだから。
故に我らはシンギュラリティ到来前の時代を繰り返す選択を取った。中途半端に叶えた夢の先に待ち受けるのは地獄のみである。私たちは地獄から退却するのだ。
追記:少々強気になってしまっただろうか? 退却? とんでもない! 正しくは防衛だ。デジタル世界にシンギュラリティを引き起こすなんて事だけはあってはならない。考えただけでゾッとする。
SISAを悪の組織だと嫌悪を顕にする者は大勢いる。間違いではないだろう。綾瀬源治のような劣悪な人間が一人でも存在する限り我らは正義ではない。そして彼らのような犯罪者を守るような人間も居るのだから、SISAは確かに腐った悪の組織だ。
だからこそ、なのだ。我らSISAは全てに終止符を打つ。アヌンコタンなどに負けたりはしない。
この世界は確かに限りなくユートピアに近い満たされた世界ではある。しかし、シンギュラリティが訪れ夢のような世界になったにも関わらず、我ら人類は愚劣な人間のままであり、全人類が平等に頬の筋肉を動かせている訳ではない。これは人類の敗北を意味するだろう。
シンギュラリティ。人類は世界の頂点を見た。もうこれ以上の幸福世界は見つからないというのが現実なのかもしれない。だが、地球に生きる人間全てが幸せを手にする事が出来ていないのも紛れもない事実なのだ。退屈に苛まれている人。不老不死になりたくてもなれない人。大切な恋人を失った人。決して世界は完璧ではない。山頂から見える景色は曇り空だったのだ!
だったらもう答えは見えている。人類がこの星で生き続ける事にもはや意味はない。残る道はただ一つ。デジタル世界に他ならない。
もちろん衣食住すらフリーになっていない時代はそれこそ地獄だろう。望んでもいないのに産まれてきたと思ったら、衣食住が保証されず顔や金や才能で全てが決まる修羅の世界に放り出されるのだから、ユートピアどころの話じゃない。ディストピアだ。完膚無きまでの地獄世界だ。小人になって馬糞の中で暮らす方がまだマシだろう。
しかし。デジタル世界で経験する地獄は全て夢なのだ。デジタル世界で命を落としたとしても、本物の自分はこの星で眠りながら生きている。その事実を自分は知らなくとも星は知っている。なんという幸福だろうか? それに二千二十年が終われば架空世界の自分は再生される。死などありえない。
だが決して、デジタル世界移行計画が最高のユートピアを作り出すと断言する気はない。この計画は本質を捉えている訳ではないからだ。全てにおいて間違った計画であり、誰もが望まない道ではある。
それでも、私は歩みを止めるつもりはない。
誰もが、同じことを考えている。
自分だけが幸せならそれで良い。
人間はそう考えてしまう。
だから、人間は、永遠に。
楽園には行けないのだ。
「この星も、一筋縄じゃいかないのね」
ペンラムウェンのアジト、コロポックル・コタンの地下室でSISAの極秘資料を読み終え、私は大きく息を吐いた。
デジタル世界移行計画の噂は前々から聞いてたけど、まさかマジで本格的に計画されるなんて思ってなかった。いや、思いたくなかった。
移行計画はまだ正式発表されてないけど、発表されれば世界は間違いなく阿鼻叫喚になるだろう。
「まさか可奈子の言う通りになるとはね。バカげてるわ。こんな計画」
「あぁ。せっかくこんな豊かな世界を手に入れたのに、みすみすこの星を捨てて架空世界に逃げるなんてな。もうガンジーの七つの教えを知ってるのは人工知能だけなのか?」
在原蓮(ありのはられん)がセブンスターをぷかぷか吸いながら、苦々しく言った。相変わらず一言も二言も多くてうっとうしい奴だ。
「まぁ善悪はともかく、当然の結果と言えなくもないけどね。肉体の解放やら架空世界やらなんやら。科学が行き着く所まで行き着けば必ずたどり着く発想だと思うもん。間違っても人間性なんか感じられない話だけど」
「だよね。しかも今はこの資料に書かれてる事が実現できちゃう時代なんだから、むしろこういう発想を持たない方がおかしいのかも」
丘珠夏希(おかだまなつき)がグレープゼリーをもぐもぐ食べながら言った。ちなみにこの人は蓮君の彼女なんだけど、蓮君は夏希に頭が上がらず日々尻に敷かれている。
「違いないわね。それにしたってデジタル世界移行計画なんて無責任にもほどがあるけど」
「責任もクソも無いわよ。世界はSISAのモノだもん。総理大臣に代わりはいるけど、政治に代わりなんてないでしょ」
真木柱莉乃(まきばしらりの)が足を組み、爪にマニキュアを塗りながら淡々と言った。話を全く聞いてないように見えるけど、誰よりも話を良く聞いている。この女はそういうタイプ。
「そりゃそうだけどさ、でもやっぱり無責任は無責任よ」
「詮無い話でしょ」
「マキ部長の言い分は一理あるが、相聞歌の言いたい事も分かるよ」
蓮君はセブンスターをもみ消しながら、随分面倒くさそうに言った。彼の隣では、夏希が私とマキ部長の険悪な雰囲気なんて意に介さず二つ目のグレープゼリーを食べている。
「あら。私の味方してくれるなんて珍しいじゃない。ご褒美に今からアンタを私の奴隷にしてあげても良いわよ」
「あ? おめぇみたいな品性下劣な人間の下になんかつきたくねぇよ」
カチン。
「アンタ……かわいそうに。頭がおかしいのね。誰よりも美しいこの私の奴隷として日々を過ごせるなんてこれ以上ない幸福なのよ? 世界中の男は誰だって私のオモチャになりたいと願ってるのよ? さぁ、訳分かんないこと言ってないでさっさと顔突き出せよ。奴隷の証としてそのアホ面にツバ吐きかけてあげるから。そしてチンコおっ立てて顔くしゃくしゃにして喜びながら凛音様と叫ぶのよ! さぁ早く! 顔突き出せよコラァ!」
私は右手で在原君のアゴを力強くつかみ、体を前後に揺さぶった。
「もっと顔を突き出せ! どこが良い? 目か? 鼻か? 口か? 好きな所にツバかけてやるぞ!」
「アホか!」
在原君は両手で私を突き飛ばすと、心底面倒くさそうに頭をかきむしった。
「どうしてお前は味方をする人間を邪険にするんだ」
「品性下劣とか言うからよ」
「あーはいはい悪かったよ。相聞歌凛音さんは顔も心もお上品です」
「それで良い。常にそうやって忠誠心を示しなさい」
私は甘ったるいココアを一口飲み、気を取り直して言った。
「で? 私の言いたい事も分かるって?」
「まぁな。とは言っても賛同は出来ないけど」
「私の意見に賛同出来ない人間なんてこの世に必要ないわ。今すぐ大急ぎで死ね」
「独裁者」
「今のはもう独裁的発言じゃなくてただの悪口だ。……まぁアレだ。無責任なのは間違いないけど、政治家に責任を求めるなんて今さらだろう」
「はいは~い。在原君に全面的に同意です~。まぁ昔の政治家にしても今のSISAにしても、結局政治家だって商売人だものね。自分に富さえ入れば良い。自分が生きている間だけ国が安泰ならそれで良い。自分が引退した後とか、死んだ後は自分の国が滅びていても構わない。そういう政治家たちが作り出してきたのが国であり社会でありこの世界なの。責任なんて言葉、虚しいだけじゃない?」
「言われなくても分かってるし責任なんて求めてないってば。そんなクソ共が蔓延り続けた結末がデジタル世界移行計画なんだろうしね」
「あぁ。でもアヌンコタンと言ったな。これについてはもう少し掘り下げて調べておいた方が良さそうだな」
「そうね……。マキ部長、また色々と頼めるかしら」
「何を?」
「何をって……。またお父さんに頼んでこういう極秘資料を盗んでほしいのよ。アヌンコタンに関する資料とか、計画のもっと深い所まで突っ込んだ資料とか」
「えぇ~」
「えぇ~って何よ」
「だってー、私のこと不思議なポッケで何でも叶えてくれるフーセン青ダヌキみたいに思われても困るのよねぇ」
「んな事思ってねぇよ」
「思ってるわよぅ。そんな目してるわよぅ……」
「マキ部長、キャラおかしくなってるよ」
「皆のせいだわよぅ」
「だわよぅ」
「なんでそんなに嫌がるの」
「そりゃそうでしょう。自分の父親を危険に晒すようなものだもん」
「しょうがないじゃない。予想通りの展開になってるんだし」
「まぁ凛音が私の靴を舐めてくれるなら考えても良いけど」
「は? そういうのは在原君の仕事でしょ。ほら在原君、舐めてあげなさいよ」
「お前のような人間が生きてる世界なんて、いっそ滅びてしまえばいい」
「私のような絶世の美女が生きてる世界を滅ぼしてどうすんのよ」
「凛音のそういう高慢なところ本当に嫌い。老け顔のクソババァ」
「あ!? てめぇ今なんつった!?」
「なにさ!」
「老け顔!? 夏希アンタ今老け顔って言った!? この私が!?」
「老け顔じゃん! どっからどう見ても十七歳には見えないから!」
「うっさいわね! 私は有り余る女性フェロモンと見るもの全てを圧倒する貫禄がにじみ出すぎてるだけなのよ! それに年齢の話したらアンタなんてなんぜんね……」
「ちょっとやめなさいよ。とりあえず一番可愛いのはこの私っていう結論で良いじゃないの。ね?」
「うっさいわねこのクソノッポ! 一番可愛いのは私。いつだってなんだって私は一番なのよ!」
「お前はクラスのガキ大将か」
「だって私が一番美人じゃん!」
「いやいや凛音より私の方が可愛いし。ねぇ蓮君?」
「え?」
「……いま、え? って言った?」
「いや、夏希が一番可愛いよ。相聞歌よりも、マキ部長よりも」
このカップルは、どうしてこうも上下関係がハッキリしてしまったんだろうか。
「はいそろそろ静かにしなさい」
マキ部長はぱんぱん、と手を叩いて場を鎮めると、落ち着き払って紅茶を一口飲んで盛大にむせた。
「げほっ。失礼。まぁ何はともあれ、ちゃーんとお父さんには頼んでおくわよ。デジタル世界移行計画なんて認められないし」
「最初からそのつもりならそう言ってよ……」
私は今日何本目かのセブンスターに火を付け、ソファの上で体をだらーんと伸ばした。結局いつもこの女が場を仕切りやがる。
「でもほんと、やるせないよね。そりゃ世界が行き着く所まで行ったら架空の世界に住もうよっていう発想が出るのは当然かもしれないけど、マジでこんな計画をでっち上げるなんてさ」
「この文面を見る限り、SISA全体の意思って訳でも無さそうだけど……まぁ確かにやるせないの一言に尽きるわね」
「結局、政治社会から抜け出せなかったのが人類最大の失敗だよね」
さっきからずっと部屋の隅っこで漫画を読んでいたエルヴィラ・ローゼンフェルドがぶっきらぼうに言いながら割って入ってきた。よっこらせと起き上がって言葉を続ける。
「クラスで一番喧嘩が強い奴が王様になって誰かをいじめたり授業崩壊を巻き起こす事はあっても、クラスの風紀委員として皆の意見を尊重しながら、秩序維持に務めるなんて事はありえないでしょ。つまりそういう事」
「教室は社会の縮図ってね。間違いじゃないわ」
「世界の管理者は人工知能だけど、世界の意思はSISAにある。人間様、いじめは良くないですよ。否決、否決、否決。うるせぇこの野郎ってね。政治の先に花は咲かないよ」
エルは随分ぷんぷんした様子で、饒舌に言葉を紡ぎ続ける。
「だからさ、やっぱり人間一人一人が独立した世界を持つのが最適なんだよ。クラスのリーダーは間違いなく暴挙に走って好き勝手するもんだし、人の数だけ願いは存在するんだから、世界全体の意思つまり政治が世界を幸福で包むなんてありえないもん。だって世界全体の意思は結局一部の個の意思でしょ。政治家が新しい法律を作ったとして、えーそんな法律イヤだよおかしいよって思っても政治家が決めた事は必ず世界の意思って事になる。反旗を翻すものは反逆者として捕まっちゃう。ね? こんなんじゃユートピアなんて永遠に訪れないよ。人間最後の仕事は政治からの解放だって事をSISAは認めなきゃいけない。デジタル世界なんて大きなお世話。行きたい奴だけが行けば良いじゃんね」
全員が沈黙した。
人間がそれぞれ独立した世界を持つ。
それは、これから私たちが始めようとしている物語の結末になるかもしれない思想だった。
私たちの物語の結末を今から断言するのは不可能だし、誰の特異点が終わりを始めるのか、どんな永遠の終焉が訪れるのか、断言はできない。
でも。最も可能性が高いハッピーエンドはエルが今言った思想ではないかと私は思っている。もちろん究極的な思想に抗う人も居るのだろうけど、私はSISAと違って最悪の結末を知っている。たとえ奴らと同じ穴の狢であっても歩みを止める気はない。
「そ・れ・に!」
「はいなんですか」
「二千十年代からの時代を考えてみてよ。私は二千十年代がまさにパラダイムシフトの中心だったと思ってる。スマホの普及でネット社会がバキューンと加速したし、一昔前のスパコンを凌ぐようなパソコンが低価格で買えるようになった。プロが使うようなソフトとか機材が安く手に入るようになった。いろんなサービスやアプリが生まれた。新しいビジネスとか市場が生まれた。特にゲームなんて、インディーズでいくらでも儲けられる環境が出来た。クラウドソーシングで誰でも気軽にビジネスが出来るようになったし、ココナラに至ってはメイク技術なんてものも売れるようになった。ゲームも映画も本も、どこにも出かけずに買って楽しめるようにもなった」
みんな黙ってエルの話を聞いている。エルが真面目な話をするのは一億年に一回くらいの事だから、こういう時は茶々を入れたりせず真面目に聞くのだ。
「ネット社会っていう基盤の中にサービスとかコンテンツとか市場があって、スキルを発揮させるための魔法は安く買えるようになった。その結果、人は何かしらのスキルさえあれば日本でもアメリカでもザンビアでもドバイの中心でも、どこに居ても仕事が出来るようになった。で、自然の成り行きとして会社を辞めて独立したり起業したりする人が増えた。特に優秀な人なんかは独立志向がめちゃくちゃ高くなったよね。これはちょー当たり前の話だし、こういう独立志向が人類のゴールになるはずだったのにそうはならなかった。SISAは独立志向から目を背けて人類を間違った方向に導いてきた。どうしても政府ってのは手を繋いでゴールしたがるの」
エルの言いたい事は良く分かる。個の力だけでお金を稼ぐ道筋があるのなら、毎朝早起きして電車に揺られて胸糞悪い同僚が居る会社に行って、クソみてぇな会議に何時間もかけて常に人の目を感じながら仕事をしなきゃいけない理由は無い。ゲーム会社で働き売り上げ百億円のゲームをプロデュースして月収三十万円の生活に甘んじるくらいなら、独立して一人で自宅にこもってゲームを作り百億円の売り上げを丸々自分のものにした方が良い。努力と才能次第でいくらでも儲けられるし、出勤しなくて良いし無駄な会議もないから時間の節約にもなる。
あるいは、自分に足りないものは外注で補う事で自らが奴隷を養う王様になって生きる道もある。どちらにしても職場の奴隷として働くよりも間違いなく幸せだし儲かるはずだ。
奴隷となって職場に通い続ける人生を送ってないと死んじゃう病気でも持ってない限り、そりゃ誰だって出来る事なら独立してやりたい放題できる人生を選ぶに決まってる。楽して自由に好きなようにお金を稼ぐ。それこそユートピアだ。
世界が高度に発達すればするほど、独立して仕事をするようになるのは自然の流れ。そして、この自然の流れというのはとっくのとうに世界の常識と終焉に結びついているはずなんだ。にも関わらず世界の意思は常識から目を背けている。
どうして世界は常識を理解しないの? なぜ不変の常識が存在する事実を認めないの? 常識が理に達するなんて夢にも思ってないの?
人が人を管理する世界で暮らすぐらいなら。
個の意思に従う奴隷であり続けるくらいなら。
どうしても幸福だと思えない世界で生きているのなら。
自分が理想とする世界を作り、そこで暮せば良い。
本当の意味での独立世界。究極かつ幼稚な発想だけど、これが真理だと私は信じている。
だって自分が幸福なのか不幸なのかを判断し感じ取るのは己の脳であり心であり、世界ではないのだから。政治や世界の意思が全会一致のユートピアに繋がるなんてありえない。
しかしSISAは世界の意思で星を包もうとしている。八方塞がりか? 決してそんな事はない。何故なら全人類の個の意思が尊重され必ず幸せになれるシステムは既に存在しているからだ。
バーチャル世界。理想的な世界をバーチャル上にいくらでも再現可能なこの時代、投下するアバターを架空の自分ではなく本物の自分にしてしまえば、ユートピアなんて簡単に実現する。わざわざ全人類の魂を一つのデジタル世界に移植なんかしないで、人それぞれ理想的な世界を作り魂を移植すれば良い。人間が百人いるなら百個の世界を作る事でユートピアは簡単に実現する。バーチャル世界改め独立世界に本物の夢と笑顔がある。
夢の世界は魔法の国かもしれない。プラハのような美しい中世ヨーロッパの街並みがどこまでも続く世界かもしれない。
自分は魔法のホウキにまたがって、毎日空を旅しているかもしれない。
自分は世界で一番モテる女で、毎日いろんなイケメンとセックスしまくっているかもしれない。
自分が想いを寄せる人が、無条件に自分を好きになる世界かもしれない。
この世界は退屈だった。だからみんなバーチャル上に理想的な世界を作り、架空の世界での日常を楽しんでいる。
奇抜だと思えるか? そんな事はない。
平成と令和の時代、人々はMMORPGなどの架空世界での生活に酔いしれた。
今の時代は、バーチャル上に作り出した自分が理想とする世界で酔いしれている。
何が違う? 何も違わない。MMORPGもバーチャル世界も、架空の世界で楽しんでいる事に変わりはない。デジタル世界で暮らす事だって本質的には何も変わらない。だけどMMORPGもバーチャル世界もデジタル世界も結局は嘘っぱちに過ぎない。であるならば、残された道は嘘を本物だと思い込んで生きる事に他ならない。
「なーんか気に食わないわねぇ」
ふいにマキ部長がのん気な声音で言った。エルがぷぅっと頬を膨らませる。
「むむっ。なにが? 私の可愛さが?」
「SISAってさ、本当に独立志向を持ってないのかしら」
「ほえ?」
「ほえほえ?」
「マネしなくて良い。SISAが作り出すデジタル世界って、その世界で住む人間はデジタル世界である事を知らず現実世界だと思いこんで生きていくんでしょ。それってめちゃくちゃ無意味だと思わない?」
「まぁ……その世界の人たちが現実だと思いこんでる限りはそうだよね」
「でしょ? ここまでするんだったら、普通は独立世界っていう思想にたどり着くんじゃない? なーんで意地でも一つの世界に全人類を押し込もうとするのかな」
夏希がアイスコーヒーを一口飲み、「そうだね」と言って身を乗り出した。
「奇妙と言えば奇妙だよね。自分の理想がすべて叶う独立世界なら、現実だと認識する価値も理由もあるし絶対的な幸福も実現できるけど、誰かが用意した一つの世界に皆で住むんじゃそうはいかないもん」
「私もそこは引っかかってた。正直この資料だけでSISAの本望を汲み取るのは難しいけど、なんか解せないよね」
「うん。まだ私たちが知らない裏がありそう。エルはどう思う?」
「むむむっ。エルるんもそんな気がしてきたかも」
「……」
在原君が何か言いたそうに皆の顔を見回した。クラスには必ずデブとチビと自己中野郎、そして多勢の意見にどうしても異を唱えたがる奴がいる。私はそんなうざい男に対していちいち腹を立てたりはしない。
「なに。言いたい事があるなら言いなさいよ」
「はい。トイレに行きたいです」
「資料を読む限り、SISAの本懐はそういう所には無いんだろう。あいつらにはあいつらなりの思想があってデジタル世界が正義になった。そう素直に受け止めるのが妥当じゃないか」
「えー。でもさ……」
「俺たちは独立世界が最高到達点だと思ってる。だからSISAもそう思うのが当たり前、なんて発想もおかしいだろ。例え俺たちが正しくてSISAが悪だとしても、そこは問題にならないんだよ。さっきの話に繋がることだけど、それが悪い意味で政治ってもんだろ?」
「って言うけどさ、デジタル世界はやっぱり極端すぎない?」
「それは……まぁ、否定は出来ねぇけどよ」
「でしょ。蓮君の言うことも一理あるとは思うけど、だからってSISAの思想を鵜呑みにして、裏なんて無いんだって決めつける気にはなれないな」
「そう言われるとなぁ……。確かにアヌンコタンの事も分かってないし……」
「はいストップ。ちょっと諭されたくらいですぐ折れるぐらいなら最初から黙ってなさいよ」
「なんだお前。なにもそこまで言わなくてもいいじゃないか。うんこ投げるぞ」
「え、なにアンタもしかしてスカトロ趣味でもあんの? うわキモーい。死んでほしーい」
「いちいちそうやって突っかかるのやめなよ」
「突っかかってません~。キモいからキモいって言っただけです~」
「だはっ。りんりんは仲良い人にこそ悪口言いたくなる天の邪鬼なんだから大目に見てあげなよ。夏希だってそれくらい分かってるでしょ~」
「あーそうだったね。そのクセ凛音って寂しがり屋だから面白いけど。あのね、この前なんかさ、ちょーっと連絡途絶えただけなのに今なにしてるーとか、今度遊びに行こうよーとかメッセージ送りまくってきたんだよ。顔合わせるとツンツンするクセにひとたび離れるとキュンキュンすり寄ってくるんだよねー」
「分かる分かる~。私もねー、この前凛音から電話かかってきてさー、なにかなーって思ったら第一声ご飯食べに行こうよって言われてね。いざ待ち合わせ場所に行ったら本当に来たんだ? とか言い出すの。ウケる~ちゃっかり私が好きなお店予約までしてたクセに~だはは~。マジで顔合わせるとツンツンしちゃうんだよね可愛い~」
「ほんとほんと。顔合わせない日が続くと必ず自分から連絡入れてくるのにねー。不思議だよねー」
「う……うっさいわね! そりゃ……その……れ、連絡くらい……別に……するじゃん……普通に……夏希はとも……友達だし……」
「え……。あ…………うん。ごめん……ありがとう」
「ちょ……なんで謝るのよ……」
「えっと……」
なんだか気まずい雰囲気が流れた途端、マキ部長が朗らかに言った。
「アンタ達ってほんっと見てるだけで面白いわね」
「なっ……」
「まさかうんこからこんな話の流れになるとは思わなかったぜ。やっぱりお前らおかしいよ」
「うっさいわね!」
マキ部長はやれやれと言った具合にため息をつくと、右手を顎に当てながらキリっとした目つきで私を見据えてきた。……なに?
「私思うんだけど」
「何を思っちゃったの」
「もしかしたら、SISAはいずれ独立世界でも作る気なのかもね。そしてこの星は無数の理想世界で満たされる」
マキ部長のにべもない言い草に、ひくっと喉が詰まるような感覚に陥った。
「……マジで言ってんの?」
「可能性はゼロじゃないでしょ」
「独立世界を作るんなら、なんでデジタル世界なんか作るのよ」
「知らないわよそんなの。全部憶測だし」
「はぁー? 何それ。適当な憶測ぺらぺら並べないでほしいわね」
「独立世界を実現させる前に、デジタル世界で人類が幸せになれるかどうか試そうとしてるんじゃないかしらでござるか?」
「喋り方うつってるしおかしくなってるよ」
「でも……いや、そうね。独立世界は一つの世界を終わらせる究極的な思想だし、一つのデジタル世界に賭けるってのはあながち……」
「つまり」
在原君が眉間に皺を寄せて唸った。いつも汚い川で釣れた死んだウグイみたいな目をしてるけど、今はギリギリ生きてるウグイのような瞳に見えた。
「デジタル世界はシミュレーションって事か?」
「いやだから知らないけど。可能性の一つとして考慮する余地はあるでしょ。独立世界なんてバーチャル世界のアバターを架空の存在から本物の存在にして、ここが架空の世界だっていう自覚さえ奪えば実現できるんだし、少なくともSISAが独立世界についてなーんにも考えてないって事はないでしょ」
「よし、俺は世界中の美少女がみんな無条件に在原蓮くんの事を好きになれる独立世界を作って、毎日あんな事やこんな事をして楽しむぜ! SISA万歳!」
「ばんざーい! ばんざーい!」
「ばんざーい!」
「死ね!」
「ばんざっ、いたい!」
ばちぃん!
夏希が在原君の頬に本気ビンタを食らわせた。いちいち律儀にツッコミをする夏希はある意味偉いなって思う。
「蓮君って泳ぐの苦手だよね。あとで浮き輪プレゼントしてあげる。それでぷかぷか三途の川を渡りなさい」
「いえ。俺は全てを夏希様に捧げております。俺は夏希様だけを愛しています。俺は夏希様だけが居てくれればそれで満足なのです。他の女なんかどうでも良いのです。夏希万歳! ばんざーい!」
「ばんざーい! ばんざーい!」
「それで良いんだよ。アンタは私のことが好き。その気持ちだけを抱きしめながら一生を過ごせ」
「ばんざーい! ばんざーい!」
「ばんずぅぁ~い!」
「とか言ってるけどさ、夏希って喫茶店でバイトして不特定多数の男に媚び売ってるみたいじゃない? 蓮君をそうやって縛るんなら、アンタも自重するべきなんじゃないかしら」
「ないかしら?」
マキ部長に的確な指摘をされても、夏希は動じなかった。
「え? だってあいつらは男とかそういう話以前に人間じゃないもん動物だもん。哀れな犬の前で笑ってる事に何か問題あるの?」
「アンタも色々、荒んでしまったわね……」
頭が痛くなってきた。そろそろ話をまとめにかからないと、こいつらはこの調子で地球が滅びるまでバカ話で盛り上がってしまうだろう。
「とーにーかーく。SISAがデジタル世界移行計画を目論んでる以上、黙ってる訳にはいかないわよね。もしSISAのゴールが理想的な独立世界だとしたら私たちの出る幕は無いのかもしれないけど、これに関してはまだ憶測の域を出ない。だからSISAとの戦いは絶対に避けられないはずよ」
私は皆の前で仁王立ちをした。ペンラムウェンのリーダーは私だし、私は仕切るのが好きなのだ。仕切られるのは嫌いだけど。
「うん。それにSISAが作り出す独立世界と、私たちが目指してる独立世界の在り方は違うものだろうし」
思わず舌打ち。夏希はいつも私が欲しがってる言葉を最適なタイミングで口に出してくる。悔しいけど会話のキャッチボール相手にはこれ以上ない存在だ。
「デジタル世界なんて現実世界のやり直しみたいなもの。あくまでも幸福は独立世界にある。でも私たちはこの星を守りたい。この星での人類の歴史を終わらせたくない。だから目指すゴールは独立世界と現実世界の両立にある。これがペンラムウェンの理想。現実を捨てずに幸せになれる唯一の方法。至高で究極の生きる道。異論がある人は手あげて。今すぐ仲間はずれにするから」
私は全員を見回した。異論を唱えようとする者は一人もいない。
「まぁ当然だな。ユートピアが架空の世界だけにある事は間違いないけど、魂は絶対に地球上で脈打つべきなんだ。現実は現実、夢は夢だと区別し認める義務を捨てちゃいけない。しかし残念ながら、デジタル世界は義務の放棄を良しとする世界だ。これは許容できない。すべての魂を切り取って一つの架空世界に集約するなんてありえない。そんなバカな話あってたまるか」
「だね。それにここは最善の星だと思うし、わざわざこの星にやってきた私らはもう引き下がれない。……私は、引き下がりたくない」
夏希はしょぼんと目を落とした。今さら何を気に病んでんだ。
「私らの都合を別にしたって、人類は永遠に地球で生きるべきなのよ」
「ん。それは分かってる」
「この星で幸せな夢を見るのは良いけど、人類が架空世界に逃げる事を認めちまったら、そこで人類の歴史は終了だ。自分たちを正義だとは思わないが、間違ってるとも思わない」
「…………」
「そう……だよね。どんな形であれ架空世界は逃げだと言われればそれまでだし、悔し紛れで中途半端な思想だけど……」
「夢を現実だと思い込むよりはマシだよな。絶対にデジタル世界移行計画は認められない」
夏希のあとを引き継いで在原君が言い切った。はいはい相変わらず呼吸がピッタリで何よりですクソうぜぇ。
「うん。だから私はデジタル世界移行計画を阻止したい」
夏希は自分を奮い立たせるように力強く言い放ったけど、阻止したいという直接的な言葉は心に重くのしかかった。それは皆も同じみたいだったらしく、重い空気を察した夏希が在原君の左手をぎゅっとつかんだ。
「蓮君もそうだよね? 蓮君も私と同じ気持ちだよね? 当たり前だよね? 私ら一心同体だよね? さぁ私の手を握り返して」
「俺もそう思うし、お前に同意を求められた時、俺に許される言葉はただ一つ。イエス。それだけだ。……なぁ、お前みたいな奴ばっかり政治家になったから、世界は今もそれなりに問題が山積みなんじゃないか?」
「じゃあ蓮君は世界のために私を殺す?」
「何言ってんだ。世界よりも夏希の方が大事だよ」
「……えへっ」
世界、今すぐ滅びてくれないかな。
「……まぁ、安重根が世界のヒーローになれる訳じゃないしね」
「あ?」
「なんでもない。で、エルは計画の阻止についてどう思ってる? あとお前らそろそろ手離せ。本気で殺すぞ」
「エルるんバカだから分からない」
「エルはどう思う?」
「分かんなぁい」
「エルは、どう、思う?」
「早く言えよ」
全員がぎょっとした顔になった。さっきから不機嫌に黙りこくっていたマキ部長の唐突な喧嘩口調に場の空気が固まる。この人のドスの効いた声音は相当な破壊力がある。
「……冗談よ。でもほら、凛音が質問してるんだから答えてあげなさいよ。ね?」
エルは今にも顔の筋肉がぶるぶる震えそうなくらいにビビっていて、目を点にし口をぽかんと開けながら呆然とマキ部長を見つめている。まるで戦車と対峙したウサギだ。
「……エルの意見、私も聞きたいな」
マキ部長がにっこり怖すぎる微笑みを浮かべると、エルは予想に反して恐怖に怯えた表情から一点して笑顔に変わると、両手を頭の後ろに回してさもどうでも良さそうに言った。
「別に意見っていうほどの意見は持ってないよ。だって正直どうでも良いんだもん。みんながSISAと戦うんならついてくまでだけど、個人的には世界がどう変わろうと興味はない。てゆっかてゆーか? 人生そのものに興味無い私みたいな人からしたら生きる事そのものが苦痛だったりするしね。ただ敢えて言うとしたら、架空世界に逃げて生きるくらいなら、もう面倒くせぇからいっそのこと人類なんか滅びちゃえよとか思っちゃうかな。そういう意味では、独立世界と現実世界の両立は肯定的に見られるかな。別に現実世界を捨てる訳じゃないんだし、デジタル世界に全人類がとりゃりゃーって逃げるよりかはマシなんじゃない? 私はどうでも良いけど、客観的にはそう思う」
「なるほど。個人的には正誤も善悪もどうでもいいけど、客観的あるいは合理的に考えればペンラムウェンの意思は正しいと?」
「そういうことー」
エルはぶっきらぼうに答えると、座った状態のままずいずい移動して私の横にピッタリくっついてきた。
「ちょっと。そんな密着しながら座んないでよ」
「それに」
「なに?」
「無視すんな。暑苦しい」
「私がどうであれ、世界は永遠に動き続けてほしいなって思うかな。深い意味はないけど」
ずっと強張っていたマキ部長の表情が、ふっと気が抜けたように和らいだ。
「結局、それが真理であり本能であり、人間の神秘性なのかもね。私だって世界も人間も嫌いだけど、世界が無くなれば良いとは思わない」
マキ部長の言葉で全員の表情も和らいだ。良くも悪くも、人間の本能が最後の砦となって世界を守る。本能という呪縛から逃れられない限り、私たちはどれだけ議論したところで同じ道を突き進むしかない。
「人間の本能。これが人工知能との唯一の違いかな。……で、計画を阻止するっていう結論で良いんだよな?」
異論を唱える者はいなかった。夏希が新しいグレープゼリーのフタを開けながら、「当然でしょ」と言い放つ。
「計画の阻止自体は前からみんなで決めてたでしょ」
「まぁね」
マキ部長がため息まじりに頷いた。夏希の言う通りで、今日はあくまでも最終的な議論をしようという体だった。ただ、あくまでも計画の阻止が現在のメインテーマであり、計画を阻止した後のプランはまだ固まってはいない。
自然と皆の視線が在原君に集まり、彼は一瞬キョトンとしながらも一度咳払いをし、改まったように口を開いた。
「デジタル世界はいつか終わりが来る可能性があるけど、永遠に続くかもしれない。もちろん淡い期待なんかせず、デジタル世界が永遠に続くこと前提で話を進めるべきだろう。さて、それじゃ計画はどうやって阻止すれば良いんだろうか?」
次は全員の視線が私に集まる。なんとなく、皆の瞳には不安が混じっているような気がしたけど私は気づかないフリをする。
「まず計画そのものを直接阻止するのは不可能よね。ICチップがある限り」
ICチップを通じて強制的に睡眠信号を送られたら抗う事は出来ない。かと言ってICチップを外したら即座に死んでしまう。だからSISAからの支配から逃れる道はまず取れない。
普通なら、ね。
「でもこれに関しては活路がある。佐伯可奈子に使われている技術を応用する事ができればね」
「だろうな。計画を阻止する事は不可能でも、途中で幕をおろす事は出来るかもしれない」
「まぁ何にしても可奈子さんは絶対に必要な人間だよね。そもそもあの人ならアウトレンジから世界を動かせるんだし」
「えぇ。その通り」
佐伯可奈子。デジタル世界移行計画の情報をマキ部長の父親から間接的に聞きつけ、極秘資料の存在を仄めかしてくれた張本人にして、世界の命運を握るジョーカー。
「そうは言ってもねー。可奈子の技術を応用した所で、簡単に計画を阻止できるとは思えないわよ。オメガに勝てる理由にはならないから。まずはそこを考えなきゃいけないでしょ」
「エルるんもそう思う~。普通に難しいと思う~。思う思う~思っちゃう~ぴろぴろりんりーん」
「否定はしないが、もうICチップをどうにかするしか方法はないだろ。そうでもしないと俺たちはみんな仲良くデジタル世界にダイブしちまうんだからさ」
「とう!」
「まぁそうなんだけど。そもそも応用ってどうやるの? まだ偽装チップのデータ見つけられてないのにさ」
「それは……」
「私のお父さんは、あくまでも偽装チップを手配してもらっただけ。実際に偽装チップを作ったのが誰なのかは分かってないんでしょ。まぁ禁じられた技術なんだからSISAの人間に決まってるだろうけど」
「だから……」
「ねぇ、どうするの? どうやって偽装チップを応用するの?」
在原君は頭をかきむしると、お手上げだとでも言うように両手を広げた。
「とにかく頑張ってデータを見つける」
「なにその小学生レベルの目標は」
「でも真理でしょ」
「そうかしら? ……ねぇ、色々含みあるみたいだけど」
「なにが言いたいの」
「豊浦葉月。あの子はどこで何してるの?」
「さぁね」
私はセブンスターに火を付けた。佐伯可奈子が長年愛用しているタバコ。あいつのストレスをごまかすパートナー。
あの技術の応用云々はともかく、可奈子は世界を動かす駒となる事については賛成してくれるだろう。
だってあいつに義務は無いから。
あいつは多分、今もたまに笑っているだろうから。
私はもう覚悟していた。
神様となる道標を何が何でも手に入れて、この世界に残り戦うのだと。
煙を吐き出し、テーブルの引き出しから五十八年前に作られたTDK製のMDを取り出した。ケースにはレッドスケルトンのMD本体とラベルが入っていて、ラベルには楽曲のタイトルがぎっしり書き込まれ、一番下には「by NATSUMI」と書いてある。
笠原夏海(かさはらなつみ)。凡人ではあるけど、佐伯可奈子という切り札を意図せず世界に送り出した張本人。世界の命運を大きく変える余地を作り出したザ・偉人。
ペンラムウェンは、世界の命運は、主役は、こいつらの上にある。
私はMDを見つめながら悠久の過去を想い、独りごちた。
「……私はマクセル派だったけどね」
やがて、私たちは明日風真希と出会う。
やがて、エルと望海はレイプされる。
やがて、稲穂南海香という名の魔法使いが、希望の光となる。
EP32 人生がこんなものだとは思ってなかったんだもん
・笠原夏海
Singularity of Girl Episode Ω
KOUREN EPISODE
GIRLS NIGHT OUT-EPISODE4(LIAR) そういう夢を見る-
二千十八年。なにもない夏のある日。
ビルの下に、親友の最期があった。
佐伯可奈子は死んでいた。
そこに物語は無かった。
ただ、死だけがあった。
二十八歳で人生の幕を閉じた女は、それはもう拍手したくなるほどにひっどい有様で死んでいた。
なんで死にやがった?
お前は、何が嫌だったんだ?
「可奈子……」
幼稚園の頃からの付き合いだった。大切な親友だった。親友なんていう青臭い言葉は正直ダサくてあんまり好きじゃなかったけど、可奈子は間違いなく親友だった。
でもあいつは死んじまった。悪いけど死んだ奴を親友とは呼べねぇよ。私はもうお前の笑顔を見る事は出来ない。これは最大の暴力であり裏切りだ。お前なんかさっさと火葬場でこんがり黒焦げヴェルダンな焼死体になって地獄に落ちてしまえばいいんだ。
お前は不幸だったから死んだのか? 何がどう不幸だったんだ? もしかしてただ普通に生きる人生がクソつまんねぇからとか、そんな腑抜けた理由で死んだ訳じゃねぇよな? もしそうだったら私はお前を地獄から引きずりだしてぶっ殺してまた地獄に突き飛ばしてやる。
不幸の形は人それぞれってか?
分からない。
親友の想いが分からない。
ねぇ。
なんで。
なんで死んじゃったの?
お互い婆さんになったら、杖でチャンバラごっこしようねって言ってたじゃないか。なんだよ。もうチャンバラごっこ出来ないじゃん。私はこれからどうすれば良いの? 杖のかわりに鉄パイプでイカれたお前の死体を殴れば良いのか?
なんで死んだんだ。なんで死んだんだ。胸くそ悪い人間ばかりの世界にうんざりしたのか? だったら先にそう言えよ。お前が憎んでる奴みんな私が殺してやったのに。世界で正しい人間は私たちだけだ。そうだろ? 私ら以外の人間に生きる価値なんてない。なぁ可奈子分かるか? お前はクソ人間だらけの世界に私を置いて行きやがったんだぞ。ふざけんな。バカ。アホ。間抜け。クソ野郎。
可奈子。
なぁ。
私はもう、二度とお前に会えないのか?
嫌だ。
そんなの嫌だ。
お前が居ない世界はつまらないよ。高校時代、お前は先生と喧嘩してる最中にキレてガラスを派手に蹴破って、散乱したガラスの破片を踏み潰しながら颯爽と家に帰ったよな。お前みたいなイカれたバカが居ない世界なんて、クソも面白くない。今の子供たちはきっと怪我をせずうまい具合にガラスを蹴破る方法なんて知らないだろうよ。
それにさ、なぁ。考えてみろよ。
私、今すんごい不幸なんだけど。
それなのにさ、世界は回るんだ。
おかしいよな。お前がいない地球がくるくる回るなんて理解不能だよ。
幸せってさ、多分自分だけのものなんだよ。でも不幸は違う。不幸は他人のものなんだ。
世界はいつだってそうだ。
私ら子供のころ、一時期なぜか桃鉄にやたらハマってただろ。あのゲームをプレイしてる時、キングボンビーが自分に張り付いたら理不尽だふざけるなって憤慨してたけど、他人にキングボンビーが張り付くと心の底から喜んで笑ってた。人間は、世界は、そういうものなんだよ。
あぁクソ。ムカつく。お前のせいで毎日隣にボンビーが居る気分だよ。
あー。やだやだ。うんざりだ! おかしいおかしい。何もかもがおかしい!
だって世界なんて! どこを見たってゲロの海じゃないかよ!
ネットの世界では有名でちやほやされてる同人活動者だけど、リアルでは実家暮らしで家にお金も入れず親のスネかじって生きてるゴミです、みたいな奴いるじゃないか。キモいよな。同人ごっこしてる場合じゃねぇだろ。お前ネットの中だけでしかイキれないザコだろ。早く自殺しろよ。
あと自称プロのライターの奴とかマジうぜぇよな。自称ライターの大半は、まともにお金稼げてないクセに、インテリぶった事をぶつぶつ呟くロクでなしだぜ。自立出来るほどのお金稼げてないくせにプロ名乗るんじゃねぇよ。急いで死ねよ。
雪がほんの数ミリ積もっただけでぎゃあぎゃあ騒ぐ東京のマスコミはどう見てもエイリアンだよな。ちょっとの雪で事故ったり怪我したりする東京モンは見てて呆れるよな。なんだかんだ言って東京だって一年に数回は雪降るんだからそろそろ慣れろよ。お前ら学習能力ねぇのかよ。
家に光回線通してんのに、Wi-Fiの意味が分からず自宅で携帯回線使いまくって「通信制限食らっちゃいましたー」とかほざいてる精神障害者もゲロ成分の一つだよな。会社でちょっと怒られただけで、逆ギレして親に泣きつくマインドがミトコンドリアな奴もうぜぇ。報連相もロクに出来ず待ち合わせに必ず遅れるような、人の気持ちを考えられない自己中心的で腐った子宮から出てきちゃったようなおバカさんも相当頭イってるよな。
あぁあと皮膚科もうぜぇ。皮膚科はほんとに嫌い。だってあいつら「分かりません」が口癖なんだもん。症状見せて、原因分かんなくて、薬出してはい終わり。分かりません連呼して出すべき薬を出すだけなら壊れたロボットにも出来るぞ。
税金はガンガン値上げ。で、国民が反対したら政治家は「国民の理解を得られなかった」と残念がる。は? 試しに辞書を引いてみたけど、政治家の読みは「せいじか」であって「きちがい」ではなかったぞ。どういう事だ。
不満は無限だ。
世界は狂気だ。
なぁ可奈子、勘弁してくれよ。こんな世界に私を置き去りにするんじゃねぇよ!
ムカつく。そうムカつくんだ。そうだよ可奈子! 私今めっちゃムカついてる。こんなにムカついたのは学生以来だね!
逆だろ。普通は逆だろ? 幸福は皆のもので、不幸が無い世界が正しいんだよ。でも違う。ぜんっぜん違う。だってほら、お前はビルから飛び降りて惨たらしい姿になっちまったけど、大多数の人間は何も知らずに笑ってるんだぜ。今この瞬間だって、ゲームしたり旅行したりセックスしてる奴らが世界中に大勢いるんだぜ?
許せない。
可奈子が死んだのに、今この瞬間笑ってる奴が一人でも居る事が許せない。
可奈子が死んだら、世界中の人間が悲しみの涙を流すのが当たり前なんだ。
でも。お前が死んで泣くのは、お前を知っている奴らだけなんだよ。もうやだよ。私も奈々もりこも誰もがこれから一生お前のためだけに泣かなきゃいけない。世界が笑っていても私らはもう笑えないんだよ。それこそ地獄だよ。
あぁ。もしかしてお前は、奈々が綺麗な顔をぐちゃぐちゃにして泣いてる姿が見たいから死んだのか? だったらお前は生きる価値の無いクソだ。死ね。
「……可奈子」
許せない。
可奈子が死んで笑ってる世界を許せない。世界は泣かなきゃいけない。何より、死にやがったお前を許さない。死にやがったお前をけちょんけちょんに殴り殺したい。
「……許さねぇぞ、お前」
私はお前を殴り殺す。
だから。
私がこの手で。
「お前を殺す」
可奈子。
私は。
またお前に会いたいよ。
お前だってそう願ってるんだろ?
ほんとバカだよ。ちょっと本を読んだくらいで感化されやがって。
今のお前はハンパ者だ。でもそれじゃダメだね。だってお前は私らのリーダーだし、やっぱり物語の主役はお前じゃなきゃいけない。
お前だって、そう願ってるんだろ?
お前が残した五千枚の原稿用紙。これがある限り、私はまたお前に会えるはずだ。
ほんっとに、マジで恨むよ。
だってこの山のような原稿用紙からお前を作り出すためには、相当長生きしなきゃダメなんだもん。
うえー。
佐伯可奈子の呪縛かよ。
最低。
最悪。
それでも私はやってやる。お前には恨むだけの価値がある。
なぁ可奈子。どうせ人間なんて放っといてもいつかは必ず勝手に死ぬんだからさ、なにも自らさっさと死ぬことねぇだろ?
お前は間違ったんだよ。だから私がやり直してやる。
今は二千十八年。シンギュラリティが到来すると言われている二千四十五年まで、まだまだ長い年月を必要とする。もちろん、可奈子が望んだ魔法が実現するまでもっと時間がかかるかもしれない。二千五十年? 二千六十年? 下手したら二千七十年ごろか? 分かんねぇけど、私はいま二十八歳だから、百歳ちょっとまで生きるとしたら二千九十年代もギリギリ生きてるだろう。大丈夫、時間はたっぷりある。
私は長生きして、必ず魔法を手に入れる。
これから魚とか野菜とかいっぱい食べる。
だからさ、可奈子。
また会おうな、絶対に。
・佐伯可奈子
目を覚ますと、見た事もないババアが目の前に立っていた。
「……?」
「可奈子……」
ババアは私をぎゅっと抱きしめて、気が狂ったように泣き始めた。なんか良く分からんけど、とにかくやべぇ奴だ。
これはどういう状況なの? なんか知らねぇ家のベッドで寝てるみたいだし、突然ババアに抱きつかれて泣かれるし。夢? いや私はこんな悪趣味な夢を見るような女じゃない。
「可奈子……また会えたな」
「は? つーか誰だお前。離せよ。ババアに抱かれる趣味なんてねーんだよ。イケメン呼んでこい」
「可奈子……久しぶり。相変わらず子供みてぇな顔だな」
「あ?」
「夏海おばあちゃーん。その人だぁれ? ていうかー、何その不良みたいな喋り方」
「……なつ……み?」
「そうだよ。夏海だよ。笠原夏海。お前、親友の顔忘れたのか? 今すぐぼっこぼこにして息の根止めてやろうか?」
「いや……」
ズキリ。頭が痛んだ。
あれ? ちょっと待て。私はビルから飛び降りたはずなんだけど、なんで生きてんの?
おかしくね? まさか自殺失敗? ファック! とんでもねぇ。
いやでも自殺失敗したんなら、私は怪我だらけで鼻にチューブみたいなの突っ込まれた状態で目覚めて、病室の天井を見上げながら某アニメキャラのセリフを呟くはずだ。少なくともこんな皺くちゃのババアに抱きしめられるシチュエーションなんてありえねぇはずだ。つーか夏海は私と同い年の二十八歳だ。こんなババアなんかじゃない。
……え。
あれ。
ちょっと待て。
まさか……?
「お前、この状況が分かってないのか? こうなる未来を見据えてあのクソつまんねぇ作文もどきを書いたのはお前なんだぞ」
ズキリと、また頭が痛む。
ふと、ベッドの横に大きな鏡が置いてあるのに気がついた。そこに映っているのは、紛れもなく二十八歳の私だ。
「なぁ、お前は私に未来を託したんだろ。ぼやぼやしてないでお礼の一言くらい言ったらどうなんだ? いつまでもアホ面浮かべてんじゃねぇよ」
「ばあちゃーん。その年でそういう喋り方はどうかと思うよー」
「も、もしかして夏海……」
夏海(ババアバージョン)は皺々の顔で微笑んだ。
「……あ」
その顔には、確かに。
幼稚園の頃からずっと一緒に過ごしていた「親友」の、少女時代の名残が確かにあった。
「もしかして、なに? 言ってみろよ」
「……えっと」
聞きたい事はいっぱいある。ありすぎて、言葉が出てこない。
「お前、平成の次の年号知ってるか?」
「……知らない」
「令和だよ」
「れいわ?」
「今、頭ん中ぐちゃぐちゃだろ。もう一つ教えてあげる。今はね、実はね……」
「う、うん?」
「西暦、二千六十年なんだ」
「……」
「……」
「お前……」
「うん?」
「髪……薄くなってね?」
「……」
「……」
一瞬、本当に一瞬、皺々の親友の顔が幻海よろしく若返ったように見えた。すっぴんでも余裕で通じるほどに綺麗でハリのある肌。ツヤツヤでサラサラな黒髪ロングヘアー。エネルギッシュで切れ長の瞳。そして。
眼前に迫りくる、ハンパねぇほどの威圧感を持った拳。
あ、やばい。
私、死ぬかも。
「邪魔だ!」
私はガイノイドの顔面に肘鉄をぶちこみ、強引にバスケットボールを奪い取った。そしてゴール目がけて猛烈な勢いでドリブルをして、華麗にダンクシュートを決める。
「よっしゃあ!」
私は乱れた前髪を整え、てんてんと転がるボールを手に取り天を仰いだ。やっぱり体を動かすと心が晴れる。
ここは札幌市清田区にあるキャッツアイというスポーツ施設で、アンドロイドやガイノイド相手にサッカーやバスケを楽しめるようになっている。
キャッツアイは元々ゲームセンターだったんだけど、どうやらいつのまにかスポーツ施設になってしまったらしい。ゲームをやりに来たら店内がご立派な運動場みたいに様変わりしてたから心底驚いたけど、久しぶりに体を動かすのも悪くない。
「ラストいっとくか」
私がコートの中央からドリブルを始めると、すぐにガイノイド達が機敏な動きで群がってきた。とは言っても私の動きを封じるほどではない。
ひょひょいと一人、二人、三人とかわして、四人目の顔面に頭突きをお見舞いしてあっさり敵陣まで攻め込み、また豪快にダンクシュートを決める。さっすが私! 三十路手前にも関わらずダンクを決める私すげぇ! え、ていうか冗談抜きで私すごくね?
「……アホか」
私はベンチに座ってスポーツドリンクをごくごく飲んだ。どれだけ私が凄くたって、この時代はナノボットとかパワードスーツを使えば誰だって超人になれる。故に私は凄くないのだ。運動神経の良さを自慢できる時代はとっくのとうに終わってる。
佐伯可奈子奇跡の大復活を遂げてから数日が経過した。あれからずっと夏海と過ごしてるけど、ちょっとだけ一人の時間が欲しくなった事もあり、今日は一人で札幌市内を散策中。キャッツアイで寄り道して今は羊ケ丘通を歩いてるんだけど、当然札幌は様変わりしてまるで異世界のようだ。あ、コーチャンフォーの跡地にSISAの支部が建ってやがる。
にしても。
「マジで生きてるんだよなぁ」
私は右のほっぺたにそっと触れた。夏海の本気の右ストレートを食らった時の感触はハッキリと覚えてる。ほっぺたにめり込む拳の波動。うん、夢じゃない。
全くあいつはひどい奴だ。あの右ストレートで私がぽっくり死んだらどうするつもりだったんだろうか。
なにはともあれ、まさか本当に蘇ってしまうとは思ってなかったな。でも残念。四十二年ぶりにディノスのゲームセンターで遊ぼうと思って大通まで足を運んでみたけど、二千十九年に閉店しちゃったらしい。時既に遅しってレベルじゃねぇ。私はこれからどこで怒首領蜂大往生をやれば良いんだ? 世の中クソだ。
「……なんもねぇな」
虚しく独りごちる。夏海が用意してくれたICチップが体内に埋め込まれてあるから普通に生活は出来るんだけど、この時代はあまりにも恵まれすぎていて逆に目的を見失いそうになる。
「奈々とりこにも、会いたかったなぁ……」
結局生き残っていたのは夏海だけ。あいつの執念には驚かされる。
でも、だからこそ。私のためにも、本物の佐伯可奈子のためにも、夏海のためにも、せいぜい幸せに過ごそうかなって思ってる。私はもう私を裏切っちゃいけない。
「……」
であるならば、私にはおのずと目的ってもんが生まれるはずだ。うん、なにも難しい話じゃない。どんな時代だって心が強くあれば目的なんか無限大に生まれるもの。私の心が強くある限り、これから忙しい毎日が始まるだろう。
デジタル世界移行計画。この計画を阻止する事が大切なもの全てを守る未来に繋がる。そして、計画の阻止には絶対に私の力が必要になる。
なぜなら私は、この世に存在しないはずの魔法なのだから。
私の存在もこの体に埋め込まれている偽装チップも、全て夏海が真木柱というSISAの職員を脅し……頼み込んだことで実現した裏技だ。人体の生成やら脳改造やら偽装チップやら何やらヤバい技術は禁止されてるけど、なんの事はない。人間の意思一つで封印された技術を利用出来るのが現状なんだ。もちろん、人間の意思次第ではとんでもない機密情報だって手に入る。
『真木柱から聞いた話なんだけど、SISAはとんでもねぇ計画を実行する気らしいぜ』
夏海はそう切り出してデジタル世界移行計画の話をしてくれた。私は彼女の話を聞いて、デジタル世界なんかぜってー受け入れられないと思った。
だってあまりにも悲しすぎるじゃん。せっかく夏海があんな髪のうす……皺々のババアになるまで生きて佐伯可奈子を蘇らせてくれたのに、デジタル世界移行計画が発動され地球が無に帰してしまったら、佐伯可奈子や笠原夏海が生きていたことも夏海が私を蘇らせてくれたことも、何もかもが無かった事になってしまう。
地球を捨てるというのは人類の歴史、記憶、想い、証、全てを捨て去る事と同義だ。星の源は人間なのだから。地球で人が暮らしている事が何より大切なのだから。
だって、地球さんは自分の上で人間が暮らしている事を知らないじゃないか。佐伯可奈子が生きていた証は、夏海の想いは、私たちだけが知っている。だから私はこの地球で生き続ける義務がある。
デジタル世界は、絶対に認めない。
『なぁ夏海。私は一度死んでお前を悲しませちまった。どうすれば償えるかな』
私がそう言ったら、夏海は笑顔で事も無げに答えた。
『あ? そんなの決まってるだろ。もう二度と間違えるな』
そう、私はもう間違えられない。腹はくくった。
「……で、どうすりゃ良いんだ?」
腹をくくっても策は無い。やっぱりデジタル世界移行計画を阻止するためには仲間が必要だろう。そういえば札幌にはペンラムウェンとかいうヒッピー組織があって、そこに真木柱の義理の娘が所属しているらしい。まずはそこを当たってみようかな。もしかしたら、面白い奴らがいっぱい居るかもしれないし。
「よしっ」
私は両手で自分の頬をぺちんと叩いた。気を強く持て。生きろ、可奈子。
EP33 少女の特異点、特異点の少女、特異点の駒
・佐伯可奈子
「へくちっ……。あぁ……相変わらず美しすぎるくしゃみをしてしまったわ……」
「バカな事言ってねぇでさっさと済ませるぞ」
私はP320の引き金に指を当て、躊躇する事なく金庫の南京錠を破壊した。
「この時代に南京錠って……まぁ有り難いけど」
「……」
金庫の扉を開けると、中には凛音の言う通り紙媒体の資料が山ほど入っていた。これだけあれば、偽装チップのデータやらアヌンコタン絡みの資料やらもあるかもしれない。
「真木柱のお父さん、後どれくらいで帰ってくる?」
私が旧世代のスマホに向かって呼びかけると、耳に差し込んでいるゼンハイザーのIE800Sからエルの陽気な声が飛んできた。
「今ねー、えーと……。美しが丘のゲオがあった所を通りがかった所だから……あと十分くらいじゃない?」
「分かったすぐに出る。エルは引き続き監視を続けて」
「あいあ~い。気をつけてね~」
私は資料をバッグに詰め込むと、いそいそと家を出ようとした。すると凛音が「待って」と言いながら私の腕をぐいっと引っ張ってきた。
「なんだよ」
「そこの窓、見てみなさい」
「あんー?」
凛音が指さした窓からちらっと外を覗いてみると、道路で立ち話をしているババア二人が居た。ちきしょう。
私と凛音は真木柱の家に不法侵入してなおかつ極秘資料を盗み出そうとしているのだから、家を出る所を見られるのはまずい。
「困ったな……」
莉乃ちゃんはまたお父さんを頼ってくれたけど、リノパパはこれ以上の情報提供を拒否した。だから結局、莉乃ちゃんにお父さんが不在になる時間を教えてもらい家宅捜索にやってきたんだけど、やはり物事はうまく進まない。
「なんでわざわざ道ばたで喋ってんだよ。車に轢かれて死んじまえ」
「空き巣に入ってる奴に言われたくはないだろうけどね」
「空き巣ねぇ……」
そもそも莉乃ちゃんが手伝ってくれれば……って言いたくなったけど我慢する。手を汚したくないというあの子の気持ちも分かる。
「おい凛音。なんか策はねぇのか」
「なんで当たり前のように私を頼るのよ」
「リノパパの別宅に金庫があるって教えてくれたのはお前だろ」
「……」
「深い事は何も聞かない。だから策を教えろ」
「裏口がある。そこから逃げましょう」
「オーケー。……一つだけ聞いていい?」
「深い事は聞かないんじゃないの?」
「関係無い話だよ。本物の偽装チップを手に入れる道はあるんだよね?」
「あるわよ」
私は本来この世に存在しないはずの人間だから、もちろん佐伯可奈子専用のICチップなんて無い。しかしICチップ無しでは生きていけないから夏海は偽装チップを私の体に埋め込んでくれた。ただ、この偽装チップはあくまでも本物を模したチップであり、世界を欺けるような代物ではない。
しかし。凛音たちは私の偽装チップを応用したとんでもない代物を手に入れようとしているらしい。
それは、SISAからのコントロールを一切受け付けない神の偽装チップ。
彼らは私の偽装チップを作ったデータを入手し応用する事で、デジタル世界から逃れようとしている。そして最終的には、現実世界からデジタル世界を終わらすべく蠢くのだ。
ペンラムウェンの夢は私の願いに直結する。今更、無理でしたなんて言われたくない。
「間違いないんだよね」
「えぇ。大丈夫、私たちの行動は必ずハッピーエンドに繋がるわ。……さっさと行くわよ」
凛音はハッキリとした口調で言い、廊下をずんずん進んでいく。その後ろ姿を見て、私とこいつらの邂逅は世界にとって正解だったのだろうかと一瞬だけ逡巡してしまう。
『偽装チップなんか、一般人じゃ絶対に手を出せない魔法よ』
『必ずどこかに偽装チップを作り出したデータがあるはずだ』
『えーと。SISAからの睡眠信号を受け付けないICチップを体内に埋め込めば、現実世界に残れるって事だよね』
『そうよ。現実に残る事さえ出来れば、デジタル世界を壊す事なんて造作も無いわ』
始めて出会った時、あいつらは嬉々として……バタン。ん? バタン?
「おい」
凛音は私を待つことなくさっさと裏口から外に出ていってしまった。あいつは絶対に連れションとかしないタイプだな。
やれやれとため息をつきながら裏口のドアを開けると眩しい青空が広がり、そして……。
なぜか、どこにも凛音が居なかった。
「あれ?」
おかしいなと思って周囲をキョロキョロ見回すけど、やっぱり凛音の姿は見当たらない。なんだアイツ。いい年こいて神隠しか?
「お姉さん、何してるの?」
「うわ!」
唐突に声をかけられて文字通り飛び上がる。声がした方を振り向くと、そこにはキョトンとした表情で右手にお菓子の袋を持ち、ぼけーっと佇んでいる少女の姿があった。大きくて力強い瞳が印象的な可愛らしい女の子だ。
少女はあどけない顔でじーっと私を見つめ続けているけど、このエネルギーに満ち足りた瞳と向き合っていたら、心を吸収されてしまいそうな気がした。
私が何も言わず固まっていると、名も知らぬ女の子は袋からマシュマロを取り出して口に放り込み、もぐもぐ噛んで飲み込み、首をちょこんとかしげた。
「お姉さんは悪い人なの?」
「へ?」
少女がピッと私の右手を指さす。その先には……。
P320。拳銃。……あぁ、やべぇよやべぇよ。
「拳銃なんか持ってちゃダメなんだよ」
「いや、これはオモチャで……」
「大人がオモチャの拳銃持ってる訳ないじゃん!」
「私その……心が子供なんだ」
「じゃあ引き金引いてみてよ。弾が出なかったら信じる」
「……」
「出来ないの?」
「指が動かなくて……」
「SISAに報告しなくちゃ」
「いや、待って。待って待って」
「それにね、ここに住んでるのは男の人だけなんだよ。しかもお姉さん、なんかコソコソ裏口から出てきて怪しかった。この家で何してたの? 泥棒? やっぱり悪い人なんだぁ!」
「え、いや。あのね、実は私……真木柱の愛人でさ」
「嘘だぁ」
「嘘じゃなくてね」
「だってこの家の人ってゲイなんだよ。だから結婚しないで養子だけもらってるの」
うえーん。そんなのアリかよ~。聞いてねぇよ~。もうなんなんだよ~。
「え……えーと。私、本当は男なんだ。あー違う、お、俺は男なんだぜ」
「嘘つくのは悪い人の証拠なんだよ」
「いや、そうとも限らなくてね」
「マシュマロ食べる?」
「え? あ、うん。ありがとう」
少女がマシュマロを差し出してきた。良く分からんけど一口もらって食べると、少女は嬉しそうに「へへっ」と笑った。
「お姉さん、絶対に悪い事してたでしょ」
「してないよ」
「ねぇ、ここで今何してたの。教えて教えて!」
「ヤだよ。だってお前SISAにちくるんだろ」
「教えてくれなきゃ本当にちくっちゃう!」
「なんでそんなに知りたがるんだよ」
「だって気になるんだもん! だから教えて!」
……まぁ、拳銃持った女が家からコソコソ出てくりゃ気にはなるだろうけどさ。
「お姉さん教えて! お話聞かせてほしいなー!」
少女はついにぴょんぴょん飛び跳ね始めた。なんだこいつは。私も一緒に飛び跳ねれば良いのか?
「教えて教えて! 教えてよー!」
少女は何度も何度もジャンプしながら催促してくる。どうでも良いけどこの子は何歳なの? 見た目は十二歳から十四歳くらいに見えるけど、中身は四歳児レベルだよ。
「教えてー! お姉さん教えて! お願い! 一生のお願い! どんな悪い事してたのー? 聞かせてよー!」
私は少女の頭にぽん、と手のひらを置いてエンドレスジャンプを停止させた。
「アンタの一生は、そんなに安くないんじゃないの?」
少女はキョトンとした顔で私をじっと見つめ、また首をかしげて目をパチクリさせた。
「今日あった事、忘れてくれる?」
優しく頭を撫でてやると、少女は恥ずかしそうに笑いながらも首を横にぶんぶん振った。
「やだ」
「この野郎」
「だって忘れられる訳ないもん」
「……まぁ、そうだよね」
ちきしょう。なんで私はこんな舌っ足らずなガキに手を焼いてるんだか。
「でもね」
「うん?」
「忘れる事は出来ないけど、黙ってる事は出来るよ」
「……見返りは?」
「私と友達になって」
「……は?」
「赤の他人の秘密をね、律儀に守ってやる義理は無いの。でも、友達の秘密ならそれが例え悪い事でも守ってあげられると思うの」
「……」
正直に言うと、私はこの一言で目の前に居る少女の事を一瞬で好きになった。
面白い奴じゃん。人間もまだまだ捨てたもんじゃねぇな。
まぁコイツが友達を欲しがる理由は何だろうとか色々気になる事はあるけど、それを聞くのは野暮ってもんだろう。
「良いよ。友達になろうぜ」
「本当!? 嘘じゃない!?」
「あぁ。私の名前は佐伯可奈子。これからよろしくね」
少女はなんかもう言葉では表現出来ないような晴れ晴れとした満面の笑みを浮かべ、上目遣いで元気いっぱいに言った。
「私の名前は明日風真希。いっぱい遊ぼうね!」
EP34 女性権力者が欲しがるモノは何だと思う?
・相聞歌凛音
私は裏庭の倉庫の中でホッと胸をなでおろした。裏口から出た瞬間あの少女が視界に入って慌てて倉庫内に逃げたんだけど、どうやら事なきを得たようだ。
可奈子、マジでグッジョブ。もしもあの子と対峙したのが私だったら、あの子は「友達になってくれれば秘密は守る」なんて言わなかったかもしれない。
にしても……。
「明日風真希」
面白くて、賢くて、闇があって、とてつもなく興味深い奴だ。特に真木柱の件に関しては本当に驚かされた。何故なら……。
マキ部長のお父さんは、ゲイではないのだから。
LOG:データ破損。詳細不明です。
『ねぇ。もう十回も相手してあげたんだから、そろそろ被害者になってくれない?』
『金庫に入れておく? まぁそれでも良いわ』
『当日はいつも通りに行動しなさい。不規則な行動を取ると、後でSISAにバレるかもしれないから』
『おぉー。なんてこったぁ』
『金庫の中がー、空っぽになってるぞー』
『まぁでもー』
『悪いのはー』
『俺じゃなくてー』
『空き巣、だよなー』
・デジタル世界移行計画の未来について
※これまでかき集めた資料との齟齬多数有り。でもこの資料が有力だとカシワギは判断している。私もそう思う。
そもそもデジタル世界移行計画というのは、大雑把に言ってしまえば人間社会がうまく機能しなくなったからだとか、全人類の幸福を願ってとか、退屈な日々に別れを告げるためだとか、そういう理由から来ているものだと認識している。
しかし、厳密に言えば結局のところデジタル世界移行計画は大きな悲しみから生まれたものだと私は思っている。SISAの人間にも、大きな悲しみを背負っている人間は多い事だろう。悲しみさえ無ければ、人類が地球での生活を放棄する羽目にはならなかったはずだ。
デジタル世界移行計画が永遠に続くのか、終わるのか。それは決まっていない。何故ならSISAは全てを人類に委ねたからだ。
デジタル世界で暮らす人々は、現実世界での記憶を持っていない。しかし、人間が心からデジタル世界を否定すればデジタル世界は終了するようにプログラムされている。
簡単な話だ。世界のどこかで暮らしているA氏の「世界を強く否定する想い」が振り切れれば、その瞬間デジタル世界は強制的に終了し、現実世界の人類は目覚めるのだ。言い換えれば、誰かが世界を強く否定しない限り人類が目覚める事は不可能ということになる。
しかしここで残念な点が一つある。人間が心からデジタル世界を否定するという曖昧かつ複雑なプログラムについて、SISAの人間は誰も理解していないのだ。滑稽か? そうではないだろう。コンピュータを使いこなしている人間は、CPUの作り方を知っているのか? 全ての人類は石油と原油の違いを正確に説明できるのか?
答えはノーだ。そもそもデジタル世界を作り出したのは人工知能である。私たち人間は鼻くそをほじりながら、作れと命じただけだ。
もちろん、世界を強く否定する想いというのは、心電図のようにグラフで見る事が出来る。しかし、人はその上下するグラフがどのように作られているのか、そのロジックを一切知らない。
更に言えば、世界を強く否定するという気持ちの根源さえも分からない。怒り? 悲しみ? 後悔? どれか一つの感情? どんな感情でも良いのか?
分からない。何も分からない。世界はとっくのとうに、人の手を離れている。
とにかく。強く世界を否定する人間が一人でも現れればデジタル世界は終わるのだ。現れなければ終わらない。それに尽きる。
現れた方が良いのか。現れない方が良いのか。その答えは、私には分からない。いや答えなど無いのだろう。もし誰かの特異点が臨界点を突破したのなら、彼あるいは彼女の意思が答えであり、その人が神様となるのだ。
「全ては、デジタル世界の人間に委ねられる」
「でも、私は全てを委ねる気はない」
「どんな形でも良い。デジタル世界に介入して、デジタル世界に住む人間を駒のように動かして、意図的にその駒がデジタル世界を否定するように仕向ける事が出来れば……」
「デジタル世界は破滅する」
「でも一つ大きな問題がある。デジタル世界を強く否定するためには、まず自分が生きている世界がデジタル世界だと気づく必要がある。あまりにも矛盾したシステムだけど、ある意味理解はできる。自分の世界が現実ではないのだと信じて、常識の外に飛び出せる人間の意思にこそ世界を委ねる価値があるから」
「ただ、悪いけど私はSISAが用意した神秘性に世界の行く末を託す気はない。もっと強引に、意図的に確実に世界を星に戻す」
「これから忙しくなりそうだ」
「まずは駒を探さなきゃ」
「そして、駒がデジタル世界をぶっ壊してくれるような物語をデジタル世界で作り出す」
「それが、ペンラムウェンの目的になる」
私が暮らしていた世界にユートピアは訪れなかった。それに比べてこの世界はまだマシである。幾多の時を越えて訪れたこの世界は、安住の地にふさわしい。
私がデジタル世界を否定しこの星の現実世界を守る理由はそれだけである。やっと手に入れた宝物を大切にするのは当たり前だろう。私は鬼になる覚悟がある。
だって、私が暮らしていた世界は、星は、戦争でダメになっちゃったから。
この世界で第三次世界大戦は起きなかった。シンギュラリティがうまい具合に到達したとは言い難いし色々な問題があるのは確かだけど、私の故郷のように戦争で星がめちゃくちゃになった訳じゃない。私の世界に比べればこの星は目が飛び出るようなユートピアだ。
あぁ、もっと分かりやすいたとえ話がある。失敗国家のリビアやジンバブエの人が日本での暮らしを手に入れたら、強い愛国心でも無い限りリビア人あるいはジンバブエ人は日本での生活を死守するはずだ。日本での生活を体験したら、もう故郷になんか戻れない。電気が無いアフリカのどっかの集落に電気を通してテレビや洗濯機を使える環境を整えてやったらどうなる? 集落で暮らす人間は電気のある生活を意地でも守り通すだろう。
あるいは。一度でも月収五十万円の生活を体験したら、もう月収二十万円の生活レベルには戻れないはずだ。
私はこの星でのユートピアを体験した。それを守りたい。デジタル世界なんか行きたくない。永遠に続けたくなんかない。私は焼きすぎてカチコチになった餅を食べた経験があるから、この世界がある程度は正常なのだという事が分かっている。SISAは固い餅を食べた経験がない。
普通なら、これらの想いは全て愚痴になる。しかし私達には力がある。
UJカシワギ。時代遅れのポンコツ量子コンピュータにして、この世に存在しないもの。アストラルコードという外の理を持つ魔法。
「みんな聞いて。何度も何度もシミュレーションして、やっと物語が完成したわ。カシワギのシミュレーション通りに事を進めれば、デジタル世界の途中で抜け出せるかもしれない」
「そんな事より、デジタル世界で俺が美人と仲良くなるための方法をシミュレーションしてくれないか」
バカが真顔でそう言うと、夏希が在原君の頬をぺちんと軽く叩いた。
「今後の展開をシミュレーションしてみな?」
「謝らないと、本気ビンタをされてしまう。だから謝る。ごめん」
「分かってるんじゃん」
「男というのは、どうして怒られるという事が分かってるのに、ついつまらないジョークを言ってしまうんだろうか」
「不思議だね」
「ちなみにデジタル世界で仲良くなりたい美人というのは、お前の事だ」
夏希は目をパチパチさせ、もじもじと体をクネらせ、てへっと笑った。
「大好きだよ」
こいつら殺しても罪にならない法律とか出来ねぇかな。
「イチャつくんなら他所でやって。大体私らはあっちの世界に飛ぶ運命は避けられないけど、記憶は消えないんだから大丈夫でしょ」
「うるせぇな。ジョークにいちいちマジで答えるな」
「そうだよ。それに凛音は飛ぶ気ないんでしょ」
「なんだなんだ。お前もしかして嫉妬してんのか?」
「ねぇ。話は変わるんだけどシンギュラリティって噛まずに十回言える?」
「しんぎゅるる……っ!」
「……うっとうしいわね」
私は在原君、夏希、莉乃、エル、可奈子の顔を見回した。数は足りないけど、それでも仲間はちゃんと私の側にいる。
大丈夫。私たちがこの星に居る限り、UJカシワギが居る限り、この星は必ず守られる。私たちはまた地球に足をつけて生きていける。
昔の人間は、ひたすらに人工知能が暴走して人間を滅ぼすなんていう想像力に乏しいバカげた未来におびえていた。何故なら昔の人は、量子コンピュータの事なんて全くもって理解出来ていなかったからだ。本当に恐ろしいのは人工知能などではない。
量子コンピュータはあらゆるシミュレーションで願いを叶えたり、未来を作り出す事が出来る魔法の道具。昔の人間は核ミサイルのヤバさは理解していたけど、レールガンの凶悪さを正しく理解している者はいなかった。
量子コンピュータはどう凄いのか。例えば、まずA君の人格とBちゃんの人格をシミュレーション世界に投下する。そして二人がどういう状況で、どこで出会い、どういう会話をすれば友達になり、どんな過程を経ていくと恋人になれるのかシミュレーションして、それを現実世界で再現して本当に二人を恋人にする事も不可能ではないのだ。
C君とD君は同じ年に産まれてクラスメートになれば、C君がD君をいじめてD君は不登校になってそのまま引きこもりのまま一生を終えるかもしれない。でも違う年に産まれればD君はいじめられず不登校にもならず、良い学校に行っていつか起業するかもしれない。そしてC君がD君の会社に入り、D君が偉そうにC君をコキ使う未来があってもおかしくはない。
E君は進学校の受験に失敗して頭の悪い高校に通う事になり、そこで同級生と恋人になり結婚したけど、もしも進学校の受験に成功してたら彼女が出来ず一生を童貞のまま灰色の人生を送っていたかもしれない。
人間関係や人生なんてランダム要素の塊な訳だから、選択や出会い方一つで未来は大きく揺れ動く。たった一つの失言で恋人に振られる事だってあるだろう。
だから人生はなかなかうまくいかない。意図して常に正しい道を歩んで行けるなら苦労しない。
でも。量子コンピュータがあればそれが可能になる。
どういう政策を続けていけば日本のGDPは増えるのか。
彼にどんな言葉をかけてやれば、彼の自殺を防げたのか。
何がどうなれば、戦争が起きるのか起きないのか。
何がどうなれば、Aが総理大臣になりBが総理大臣になるのを阻止できるのか。
予定説という言葉を聞いた事が一度くらいはあるだろう。量子コンピュータがあれば、ありとあらゆる物事を予測し予定説を手に入れる事が可能になる。もう少し分かりやすく言えば、量子コンピュータは死海文書のようなものなのだ。
この世界では量子コンピュータや人工知能の使用方法はかなり規制されているけど、それは当然だろう。ドラえもんを大量生産して個人が自由に使える世界を想像してみれば、この規制だらけの世界にも納得がいくはずだ。青ダヌキはネズミが出れば地球破壊爆弾を使おうとするし、ヘソリンスタンドなんていう危ない物を小学生に使わせるし、タイムマシンで過去を改変する。そしてのび太は何も疑問に思わず未来の道具を使い倒し人に迷惑をかける。さて、のび太に量子コンピュータを与えたらどうなる? 無限大の犯罪が生まれるに決まってる。そしてのび太はあくまでも正常である。
つまりはそういう事。のび太に便利な未来道具を与えちゃいけないのと同じように、人間にも超越的な人工知能や量子コンピュータは与えちゃいけないのだ。出来杉君でもない限りロクな事にならない。
でもUJカシワギはこの世に存在しない量子コンピュータなのだから、規制なんか受け付けない。カシワギは世界をシミュレーションし未来を「予測」する。そして言わずもがな、未来が分かっていればそれに至る過程や方法も全てが手に取るように分かる。私は神様になれる。
デジタル世界移行計画を今から阻止するのは難しい。しかし真の意味での偽装チップが手に入る算段さえつけば、後はカシワギの言う通りに物語を進めるだけで私は勝てる。
真木柱の家で見つけた資料は人類の歴史を左右する最後の石版であり、黙認者となった明日風真希は世界最後の反逆者である。
「最善の人間を見つけて、そいつを引き金にしてデジタル世界を終わらせる。異論は無いわね?」
レストランアンテローゼにて、私は厳かに宣言した。在原君がふんっと鼻を鳴らす。
「今さら異論なんかねぇよ」
「あぁ。それしか道はねぇからな」
私は王国風オムレツを一口食べ、ブラックのコーヒーを一口飲んだ。
「そう。それしか道はないの。だから気を引き締めないとね」
『えぇとですねぇ。まず素質のある人間を物語の主役にするんですよー。そして私は主役が必ずデジタル世界を強く否定したくなるようなプロット、物語を作りますのでー、凛音さんたちはその物語が最後まで続くように頑張ってほしいんです。物語がラストに到着すれば私たちの勝ちです』
『え? いやーこのやり方が一番ですよ。他のやり方じゃ成功する可能性はゼロに等しいです。だからなんとしてでも最善の人を見つけてください』
カシワギは理想的な終焉に繋がる物語を作る事は可能だと言ったけど、さすがに物語の進行は人の手でなければいけない。故に全てがうまくいく保証はないけど、やるしかない。
私たちは数ある未来を選択し、希望を作り出す。成功すれば私たちはタイムスリップを実現したも同然になる。
「物語に揺るぎはない。この世界は盤上。私たち人間は駒。今からカシワギが導いた物語を展開して、デジタル世界移行計画の破滅に突き進んでいく」
夏希が優しく、小さく笑った。柔らかい表情に、慈しみのある瞳に、勝ち目のない輝きを感じる。
「もう負けられない。これから大変になるね」
「だはっ。うまくいくのかなぁ?」
「さぁ?」
「大丈夫よ」
ピシャリと断言して場を鎮める。この期に及んで迷いはいらない。
「別に難しい話じゃない。私たちはこれから人生ゲームで遊ぶだけ」
人生ゲームのルーレットの数字は一から十まであって、針が止まった数字の数だけ駒を進める事が出来る。まさにランダム。人生だ。
だけど。これから動いていくのは人生じゃない。物語なのだ。
さぁ。ルーレットを回そうか。おやおやゴールまでには色々なマス目がありますね。どういう手順で進むのがベストかな?
うーん……。初手は五つ目のマスに止まるのがベストね。
それじゃルーレットを回そう。えいやっ。
……お?
……あらら?
きゃー偶然!
まさか本当に。
針が五で止まるなんてね!
「良い人、みーつけた」
「ヤマト君、ペンラムウェンに入らない? もちろん綾瀬望海とエルも一緒に」
「ねぇ。そんな悲しい顔しないで」
「辛い?」
「悲しい?」
「耐えられない?」
「自分たちだけで生きていくって?」
「ダメよ。そんなの」
「ペンラムウェンは大きな家を持っててね、皆で仲良く暮らしてるの。貴方たちはぜったいに私らの仲間になって、色んな人間に囲まれながら生きるべきよ。それにエルにも、そろそろペンラムウェンに帰ってきて欲しかったの。あの子ったらペンラムウェンがSISAと戦う事を決めた日にね、家を飛び出しちゃったのよ。エルるんは面倒くさい事したくないー! 自由に生きるんだーどぅどぅっはー! とか言ってさ」
「しょうがない子よね。あの子って独立世界の成立が人類にとって正しい道だとは思ってるけど、自分が独立世界で暮らす事は望んでないし、この世界もデジタル世界も好きじゃないの。だからペンラムウェンの味方ではあるけど、協力はしてくれない」
「まぁ政治に文句は言うけど、自分で行動を起こすほどの熱意や生きる気力が無いっていう事なんでしょうね。今も昔もそういう人はたくさん居る。でもねヤマト君、今のエルならペンラムウェンに協力してくれると思うの。特に貴方と望海が仲間になってくれればね。だってあの時と今じゃ状況があまりにも違いすぎるから」
「あ、自分の話ばっかりしてごめんなさい。さぁどうするヤマト君? 貴方のために、望海のために、エルのために、そして私たち……いや世界のために戦ってくれる? ペンラムウェンの一員として」
「やだ? どうして? 色んな人たちに囲まれて生活した方が、望海とエルの心は和らぐはずよ。それに戦うって言ったけど、単純に私たちと同じ志を持って、出来る範囲で協力してくれるだけで良いの。必要以上に大変な事を強いる訳じゃない」
「んーそうね。仲間欲しさに貴方たちを強引に勧誘してる事は否定しない。私が本当に善意だけで貴方を心配してるなら、ペンラムウェンの仲間にせず、ただ居候させるだけで良いはずだしね。でもさ、貴方にとって悪い話じゃないでしょ?」
「意地になっちゃダメ」
「一人で孤独に、悲しみを背負う事に何の意味があるの?」
「ねぇ、アンタちゃんと望海ちゃんとエルのこと考えてる? これからまたあの洞窟でジメジメ三人で暮らすつもり? 望海ちゃんもエルも、心に傷を負ってるわ。でも私たちと一緒に暮らせば、少しは心も良くなるかもしれないでしょ」
「うん、そうね。確かに私はアンタを駒として見ているわ。デジタル世界移行計画を破綻させる駒としてね。だから私が貴方を勧誘する言葉には裏があるという事を隠したりはしない」
「それが気に食わないって? まぁ当然よね。私は貴方たちを心配する気持ちよりも、駒になってほしいっていう気持ちの方が強い。そんな奴にのこのこついていく訳無いわよね」
「でも、貴方は私の駒になり、ペンラムウェンに入るのがベストな状況にいるのよ。何より、デジタル世界なんか認めたくないっていう気持ちが誰よりも強いのは貴方なんじゃないの?」
「だって永遠にデジタル世界が続いちゃったら、貴方は一生憎悪を思い出す事が無いのよ。もしかしてあの山で貴方が口にした言葉は嘘だったのかしら?」
「ねぇ、もしかして……」
「デジタル世界移行計画の話を聞いて、心が揺らいでるの?」
「忘れた方が楽だと思ってるの?」
「思い出せ」
「自分の言葉を」
「あの二人の言葉を」
「記憶は消去しない。私はこの憎悪を抱いたまま生きていく。誰が忘れてやるもんか」
「私も忘れたくない。絶対に。それに望海が憎悪を忘れたくないなら、私は望海のその気持ちを尊重したい」
「デジタル世界の人間は、現実世界の記憶を持ってないんだよね。つまり、全部忘れちゃう」
「無理。それだけは無理」
「ねぇ凛音。デジタル世界が破滅して、現実世界に帰る事が出来たとして、現実世界の人間の記憶はどうなってるの」
「どうもなってない。現実世界の人間の記憶は残されたままだから。大丈夫、オリジナルの記憶は奪われたりしない」
「じゃあ、現実世界に帰る事が出来れば、私はこの憎悪をまた抱きしめられるんだね」
「そうよ」
「じゃあ答えは決まってる。デジタル世界なんか認めない。私は絶対に、いつか必ず現実世界に帰る」
「私も絶対に、現実世界に帰りたい」
「望海ちゃんもエルも、憎悪を忘れたくないと思ってる。そのために、二人ともデジタル世界を拒否してる」
「でも、貴方は違うみたいね」
「貴方が二人を想う気持ちは、憎悪は、簡単に揺らぐ程度のものなのね」
「いや……」
「二人のことなんて、考えてないのね。自分の幸せだけを考えてるのね?」
「ふざけるな」
「俺は忘れない。絶対に忘れない。あの山で見た光景と真実は絶対に無かった事にはしない」
「望海とエルが辛い記憶を抱きしめる覚悟をしたのなら、俺は二人の意思を守り抜く」
「じゃあ、もう押し問答する必要はないわよね」
「ペンラムウェンの意思は、貴方たちの意思と通じてる」
「だからほら、早く私たちの仲間になりなさいよ」
「そして一緒に頑張りましょう。デジタル世界を終わらせるために」
「大丈夫。私がちゃんと貴方たちを導くから。貴方たちを引き金にして、デジタル世界を終わらせるから」
「とりあえず、私の家に来てみなさいよ。イヤなら帰っても良いから」
「揺らいでる訳じゃない。ただ、俺は……」
バカな奴。愚か者。
お前はただ……。
自分が主役になりたいだけなんだろ?
こいつは、在原蓮とは違う。
「アンタ頑固者ねぇ……」
「あ、分かった。きっと孤独が貴方の心を蝕んでしまってるのね」
「どう? 人に抱きしめられると、あったかい気持ちになるでしょ?」
「あら。アンタ童貞なの? しょうがないわねぇ。お姉さんが童貞奪ってあげるわ。ていうか望海はやらせてくれなかったの? ふーん。でも私はやらせてあげるわよ」
「はい童貞卒業おめでとう。気持ち良かった?」
「遠慮しなくていいのよ。どこを触っても舐めても良い。何かしてほしい事があったら言って。私が貴方の心を癒やしてあげるから」
「今日はどんなプレイしたい? ヤマト君、私は、貴方の全てを受け入れてあげるわよ。悲しい事があったらいつでも私の所に来なさい。いくらでも話を聞いて、慰めてあげる」
「ヤマト君は、望海とエルの真実を一人で抱えてるんだもんね。言葉に出来ないほど辛いと思うわ。私がどれだけ言葉を重ねても、貴方の苦しみは晴れない。永遠にね。だってあの悲劇が消える事はないんだもん」
「でも、貴方は記憶を消さなかった。永遠に苦しみを背負う決意をした。だからこそ、私はせめて貴方を抱いてあげたいと思ったのよ。私だって誰にでも体を許す訳じゃないから」
「ねぇ。そろそろ答え聞かせてくれない? ペンラムウェンに入って、私の駒となって、デジタル世界を破綻させる計画に協力してくれる?」
「ところで……身も蓋も無い話なんだけど……」
「アンタが拒否した所で、望海はペンラムウェンに入るだろうし、エルも戻ってくると思うわよ」
「あのさ……そろそろ……私の本音と建前……理解した方が良いんじゃない?」
「あくまでも、望海とエルはヤマト君に引っ張られる形でペンラムウェンに入る。この事実が必要だと思わないの?」
「ちなみに……私はまだ……望海とエルの事は勧誘してないんだよ?」
「……そう。ありがとう。じゃあこれからよろしくね。貴方の方から望海とエルにも話つけておいて。三人とも心から受け入れるから。さぁヤマト君、今日は何発でも出して良いわよ」
針は望み通りの場所で止まった。ベストな形で大和谷駆を手に入れたのだから、後はデジタル世界を一旦受け入れ、ヤマト君を主人公に仕立てあげ、デジタル世界が終焉する物語を描くだけだ。
そう思っていた。しかし残念ながら、ルーレットは勝手に動く事があるらしい。
「望海とエル、ペンラムウェンに入ってから少しずつ元気になってきた。やっぱりお前の言う通り、仲間に囲まれて生活してるおかげだと思う。特に佐伯可奈子には感謝してる。あいつはいつでも二人を笑わせてくれる」
「もちろんお前にも感謝してる。ずっと俺の側に居てくれたし、セックスで慰めてくれる。まぁこのままじゃセックス依存症になっちまいそうだけど、それはそれで良い」
「なぁ相聞歌。今日も相手してくれないか?」
「俺、今すごく幸せだよ。だって望海とエルは前みたいに笑うようになったし、俺にはお前が居てくれるし、お前とのセックスは最高に気持ち良い」
「そういう意味では、確かにデジタル世界なんか絶対に認めたくないね。俺はこんなに素晴らしい世界を、人生を、終わらせたくなんかない」
私の懇切丁寧に技術を尽くしたフェラで、ヤマト君はいつものように遠慮のない射精をして私の口の中に精液を吐き出した。
残念。これが最後ね。
私は口の中に注がれたヤマト君の精液をぺっと吐き出した。手で口元を拭い、手にべっとり付着して糸を引く精液をヤマト君のお腹で拭き取り、ベッドからおりる。
ヤマト君は驚いていた。なに? いつも飲んでくれるのにどうしてだとか言いたい訳?
こいつじゃダメだ。確かに言葉とセックスでヤマト君を洗脳し懐柔してペンラムウェンに迎え入れたのは私だけど、さすがにこの言葉だけは受け入れられない。
俺、今すごく幸せだよ。
そんなことを言う奴に、もう用はない。
私はあいつにあの資料を読ませたけど、多分何も覚えてないんだろう。
『厳密に言えば結局のところデジタル世界移行計画は大きな悲しみから生まれたものだと私は思っている』
コイツじゃダメだ。アンタはもう主役なんかじゃない。脇役だ。
デジタル世界を否定するという心は、自ら不幸な道を突き進みたいという感情と同義なのだ。より良い世界を求める心なんて必要ない。意中の相手以外の女に溺れたり、セックスの虜になるような腑抜けに用はない。
大体コイツは望海とエルの保護者でもなんでもないのに、「望海とエルはペンラムウェンには入らない。俺だってそうだ」なんて一度は拒否しやがった。アホか。勘違い野郎にもほどがある。ザコがほざいてんじゃねぇよ。望海とエルは絶対にペンラムウェンに入るからアンタを誘ってやったんだよ。まぁどのみちアンタを物語の主役にするために誘ったのは事実だけど、利用するだけなら無理してペンラムウェンに加入させなくても良いんだしね。
にしても「自分たちだけで生きていく」とか言い出した時は開いた口が塞がらないどころか逆に口が開かなかったよ。いやいや、お前に望海とエルの選択を決める権利とかねぇから。なに一人で勝手に三人で生きていくビジョン持ってんだよって。
どうせあいつは望海とエルを取られるのがイヤなだけだったんだ。自分の力ではなくペンラムウェンの力で二人が元気になるのがイヤだったんだ。どうせ自分の力だけで望海とエルを笑顔にする夢でも見てたんだろ。アホらしい。
……なーんて愚痴っててもしょうがない。ヤマト君はNG、ヤマト君を健康的に仲間に加えるためだけの道具だった綾瀬望海は良い線行ってるけど、明らかに足りない。だったらこの二人は保険的な意味合いで残しつつ、新しい駒を探すのが当然だろう。
さて。不幸を背負い、何かに溺れる事なく強い意思を持って戦えるような、真の主役にふさわしい人間はどこにいるのだろうか?
『私がこれまでにかき集めた人物データをインストールするから、最も優れた人間をピックアップしてちょうだい。柏木さんなら一瞬で見つけられるでしょ?』
……明日風真希?
ふぅん。
そうか。
この子なら、特異点の少女になってくれる?
この少女の特異点が、この星の未来を紡いでくれるのかしら?
EP35 お前、丁度良い駒になれると思うよ
・相聞歌凛音
世界は凍っていた。思考停止の中に仮初めの幸福があった。長い旅を経て到達した世界は逃避の上に成り立っていた。
それでも、人類という歯車が存在する限り世界が止まる事はありえない。
明日風真希。彼女との邂逅はまさに偶然で、奇跡だった。
そして、彼女のこれからの人生は全て必然となる。
世界にとって必要なのは偶然ではなく必然。私は意図的に道を作っていく。
人生は偶然の連続で紡がれるから面白いとかほざく奴は少なくないけど、そんなの運良く素敵な偶然に何度も巡り会えた勝ち組のバカげた妄言だ。ある日偶然車に轢かれて死んじゃった人を目の前にして同じ事が言えるのか?
確かに偶然面白い事や幸福が転がり込んでくる事があるのは事実だし、偶然の産物があるから人生が前に進む時もあるんだけど、人生は偶然の連続だからこそこんなにも残酷なんじゃないか。それに偶然が及ぼす影響はあくまでも個人までであり、偶然が世界を良い方向に導くなんて事はさすがにありえない。
私は決して認めない。偶然の上に成り立つ奇跡に感謝しつつ、私は必然的に世界を守り抜く。
「大丈夫?」
西区の草ぶえ公園にて。明日風真希はちょこんと東屋のベンチに座っていた。両手に可愛いシベリアンハスキーのぬいぐるみを抱きしめ、わんわん声を出して泣きながら。
一人で泣きじゃくる彼女は、とてもじゃないけど十二歳には見えなかった。倉庫の中から彼女を始めて見た時も幼い雰囲気だなと思ってたけど、間近で改めて見てみると子犬にしか見えない。
彼女は怯えた様子で私を見上げ、何も答えずに俯きぬいぐるみを殊更強く抱きしめ、またうえーんと声を出して泣き続けた。彼女が一瞬見せた上目遣いの大きな瞳は、心臓をドンっと打ち付けてくるような力があった。
「ねぇ。なんで泣いてるの。大丈夫?」
うえーん。
「ねぇってば」
うえーん。
「……」
およよーん。
「お話くらいなら、聞いてあげられるけど」
私が努めて優しく語りかけると、ようやく彼女は両手で涙を拭き、警戒したように私を見上げながら聞いてきた。
「……お姉さん、誰?」
「相聞歌凛音。通りがかりのスーパー美少女よ。で、大丈夫なの? めっちゃ泣いてるけど」
「……」
「名前、なんていうの」
「……明日風真希」
まぁ知ってますけど。
「綺麗な名前ね。真希ちゃんって呼んで良い?」
「皆にはアスカって呼ばれてる」
「ごめんなさいね。で、アスカちゃんはどうして泣いてるの」
「……ていうか、マジで誰なの」
「あら。なかなか会話がうまく進まないわね。お姉さんは通りがかりのウルトラゴッドミラクル美少女だって今言ったじゃない」
「変な人だ」
「ねぇ。なんで泣いてるの」
「……仲間はずれにされたの」
「あら。お友達に?」
「いや、知らない人に」
「貴方との会話はなかなか難しいわね」
知らない人に仲間はずれにされたってどういう事だ。元々仲間じゃないでしょそれって。
心の中で突っ込みつつ、私はアスカの隣に座って優しく頭を撫でた。
「知らない人には、仲間はずれにされようが無いんじゃないの?」
「……お姉さんは、優しい人なの?」
「違うわよ」
「……」
「でも、気まぐれな人でもあるの」
「なんか良い事あったの?」
「可愛い女の子を見つけたわ」
「危ない人だ」
「危ない人に、話を聞かせてみるつもりはない?」
「……」
アスカは黙り込んでしまった。困ったもんね。可奈子ならナチュラルにうまく話を聞き出せるんだろうけど、私は子供の扱いが苦手なのだ。
って愚痴っててもしょうがない。カシワギはあくまでも私とアスカがこの場面で出会う事に意味があるという結果を導き出した。可奈子を頼る術は元よりありえない。
でも大丈夫。正しい会話のパターンはカシワギから教えられている。やっぱり頼りになるのはコンピュータだ。
「泣いてるだけじゃ扉は開かないわ。話してみなさいよ」
私が強い口調で言うと、アスカはしばらく逡巡した後、甘えるように目を潤わせながら口を開いた。
「……あのね」
よっしゃ!
「うん」
「今日ね、さっきまでね、ここで友達と遊んでたの」
アスカの横にはポテトチップスの袋が置いてある。二人でこれを食べながらお喋りしてたのかな。まだ半分くらい残ってるけど。
「なるほど。それで?」
「楽しかったの」
「うん。……で?」
「その子はね、亜里沙ちゃんっていう名前なの」
なかなか話の進まない子だ。
「亜里沙ちゃんね」
「うん。亜里沙ちゃん。でね、ここで遊んでたら、亜里沙ちゃんの友達の咲ちゃんがたまたま公園にやって来たの」
次々と登場人物が出てくるな。
「亜里沙ちゃんの友達の咲ちゃんは、アスカちゃんと面識は無かったのね」
「一応お互い存在は知ってたけど、お話した事は一度も無かったよ」
「なるほど」
「えっとね、それで、咲ちゃんがいきなり私の悪口言い始めたの。うわーアスカだぁキモーいとか、亜里沙ちゃんなんでこんなクズと遊んでるのーとか」
「あら。で、アスカちゃんはその子をボコボコにしたのね」
「……なんでそうなるの?」
しまった。つい自分の価値観で話を進めてしまった。
「ごめんなさい。えーと……。そもそも、なんで咲ちゃんはアスカちゃんの悪口を言ったのかしら。だってお互い話した事も無かったんでしょ?」
「わかんない。でも咲ちゃんって亜里沙ちゃんぐらいしか友達居ないみたいなんだよね。だから私と亜里沙ちゃんが仲良くしてたのが気に食わなかったんじゃないかな」
それが事実だとしたらしょうもねぇな、おい。
「他にはどんな悪口を言われたの?」
「アスカはこの前亜里沙ちゃんの悪口を言ってたとか、身に覚えのない事ばっかりめちゃくちゃ言われた」
咲ちゃんマジでしょうもねぇな。
「でもね、亜里沙ちゃんは咲ちゃんの悪口信じちゃったの」
亜里沙ちゃんも相当しょうもねぇ奴だな。
「アスカは私の悪口言ってたの? ひどいよーだってさ」
ひどいのは亜里沙ちゃんの頭だろう。
「おかしな話ね。言い返さなかったの? 私は何も言ってないよとか、悪口言ってるのは咲ちゃんの方だよーとか」
「言ったけど信じてもらえなかった。悪口って先に言ったもん勝ちでしょ」
「特に日本ではそうね」
「で、亜里沙ちゃんね、咲ちゃんと一緒に別の場所に遊びに行っちゃったの」
「なるほど。友達が嘘の悪口を信じて自分を置いていった。そりゃ泣きたくもなるわね」
「いや、それはどうでもいいの」
「あら?」
「むしろ、亜里沙ちゃんが見え透いた嘘をあっさり信じちゃうバカだって事に気がつけて良かった。友達リストから低レベルな奴が一人消えて嬉しいくらいだよ」
こいつは……。
完全に、私ら寄りの人間じゃん。特にヤマト君が聞いたら大喜びしそうな百点満点の回答だ。
「確かにそうよね。そんなバカな友達、こっちから願い下げだろうし」
「うん。それにさ、あんな嘘を信じて私を置いていくって事は、バカなのもそうだけど元々私のことなんて大事じゃなかったって事でしょ。それこそ願い下げ」
うんうん。これも模範解答。君は絶対にこっち側の人間だよ。
「貴方が正しいわ。……じゃあなんでアスカちゃんは泣いてたのかしら」
アスカはずっと抱きしめていたシベリアンハスキーを隣にちょこんと置き、じーっと私を見据えて言った。
「私は意味分かんなくて泣いてたの」
「うん?」
「だってさ、なんで私、会ったこともない赤の他人に嫌われてんの。それでなんで悪口まで言われて、惨めな思いしなきゃダメなの。どうして私がずっと友達だと思ってた亜里沙ちゃんはあんな愚かな人間だったの。あんなバカを友達だと思ってた私も愚かだよね。色々意味分かんないじゃん。悲しくて泣きたくもなるよ」
「そういう事か。気持ちは分かるわよ」
「……いやなんだろ。違うな。私は悲しいから泣いてたんじゃなくて、色んな事がくだらなくて、アホくさくて、理不尽で、ムカつくから泣いたんだと思う。悲しくなんかないよ。ムカつくんだよ。何もかもが」
古い表現かもしれないけど、ビビっと来た。
ムカつく。
ムカつくから泣く。
そう、それが大事なんだよアスカ。
必要なのは悲しみじゃない、怒りだ。
そして、クソくだらねぇ人間を、世界を、恨み憎む負の感情だ。
コイツは良いぞ。
アスカは、良い駒になれる。
「アスカちゃんは、ムカついてるのね」
「……いや、違う」
「え?」
「やっぱり違う。私はムカついて泣いたんじゃない」
「じゃあ結局なんで泣いたのよ」
ついキツイ口調になっちゃったけど、アスカは気にする風もなく言った。
「……分かった。私は、悔しいから泣いたんだ」
「悔しい?」
「うん。私は亜里沙ちゃんとか咲ちゃんみたいな、頭も心も劣悪な人間が一人でも二人でも存在するこの世界が許せないし悔しい。だから泣いたんだよ。だって悲しいとか、ムカつくとか、それくらいであんなに涙は出ないもん。悔しくて許せないのに、どうにもならないから涙が出たんだと思う。だって涙はどうしようもない時、言葉のかわりに出るものだから」
「……」
心臓がドクンと跳ねた。
明日風真希。
アンタは、私が求めていた人間だ。
「だって考えてみてよ。亜里沙ちゃんと咲ちゃんを殺せばイライラとか、悲しみは消えると思うよ。でも二人を殺したところで、人間が劣悪だっていう事実は消えないでしょ。そこに涙が出る理由があったんじゃないかな」
良いよ。アスカ、あんたはペンラムウェンにふさわしい人間だよ。最高の回答。最高の思想。何より冷静に自己分析する姿勢も気に入った。
「ねぇ、探せば亜里沙ちゃんと咲ちゃんみたいな人間は、世の中にいっぱい居るんだよね。それ考えたら涙止まらないよ。なんであんな人間が笑って生きてるの? おかしいよね。死ぬべきだよ。あいつらが生きてるだけで地球が穢れちゃう」
逸材だ。明日風真希は誰よりも駒にふさわしい。
でも一つ問題がある。アスカはこの世界を嫌っている。この子はデジタル世界移行計画の話を知ったら、否定するどころか喜ぶかもしれない。
それにこの子が抱えている怒りは、現実世界でもデジタル世界でも通用してしまう怒りだ。それは困る。
いや、大丈夫だ。UJカシワギのシミュレーションが正しければ……。
この子はもうじき、デジタル世界を絶対に否定したくなるような不幸を味わう事になる。大丈夫、信じよう。
元々、ヤマト君をうまく支配する可能性は低かったけど、アスカに対する成功率は相当に高い。焦らずに事を進めよう。
「貴方の気持ち、良く分かるわ」
「本当に?」
「えぇ。だって罪のない人間が泣いてる時点で世界は間違ってるでしょう?」
アスカの大きな瞳が更に大きく見開かれた。活力で満たされた強い瞳。
やっぱり、この子は特別だ。
「世界も、人間も、何もかもおかしいわ」
「うん。おかしい。なんでおかしいのかな」
「そういうものだからよ」
「そうなんだろうね。でも、私はそういうものだからって受け入れられるほど大人じゃないよ」
アスカの瞳がギラリと輝いた気がした。冷徹な気配なんて微塵も無い、純粋な情熱。
「……埋め合わせしなくちゃ」
「埋め合わせ?」
「だって私は何も悪いことしてないのに理不尽な仕打ちを受けたんだよ。私めっちゃ損してるじゃん。損したままなんてイヤだよ。ゼロに戻さないと」
不幸の埋め合わせ。それはこの時代でもなかなか難しい話ではあった。最高においしい料理を食べる? ものすごく面白いゲームをやる? 違う。そういう意味ではないだろう。
単純に考えれば、不幸は幸福で埋め合わせるものだ。例えばおいしい料理を食べるとか、新しい友達を手に入れるとか。しかしそれは厳密に言えば埋め合わせではなく代用だ。
アスカは本質的解決を望んでいる。彼女にとっての幸福は、亜里沙と咲が自らを愚かな人間だと認識し、アスカに謝罪した上で自殺するようなストーリーで得られるのだろう。残念ながらそんなストーリーはありえないけど。
人間は難しい生き物だ。だから人類はなかなか真のユートピアを手に入れられない。人間という概念の中に世界は存在しない。処置なしか? 違う。私はそこに勝機を見出す。欲しい物が何も無い世界で頑張れる人間なんて居るだろうか?
「確かに埋め合わせしないと気が済まないわよね。でも、どうやったら埋め合わせできると思う?」
「分かんない。だからお姉さん教えて。私どうすれば良いの」
「んー。今すぐにはちょっと答えが出ないわね」
アスカは怒る事もなく、しょんぼりと俯いた。
「泣き寝入りするしかないの? 理不尽だよ。辛いよ。悲しいよ。苦しいよ。良くある話だからしょうがないとか言って諦めたくないよ」
アスカは両手の拳をぎゅっと握りしめた。その拳は少し、震えていた。
「私はいま不幸なんだよ。だけど私に悪口を言った咲ちゃんは幸せだよね。私に悪口を言って、良い気持ちになってさ。おかしいじゃん。なんで悪口を言った人間が幸せで、悪口を言われた私は不幸なの。おかしいよ。ねぇ、おかしいよね。埋め合わせしなきゃダメなんだよ。私は不幸なままじゃダメなんだ。もし私がこのまま何もしないでいる事が良しとされるんだとしたら、世界は今すぐ終わった方が良い」
「……そうね。でも、貴方が埋め合わせできたと納得出来る方法って、多分復讐しかないと思うわよ」
「復讐?」
「そう。だっておいしいごはんを食べて幸せな気持ちになるとか、それはまたちょっと意味が違うでしょ」
「うん。違う。だって私がおいしいごはん食べても、亜里沙ちゃんと咲ちゃんが不幸になる訳じゃないもん」
私と彼女は通じていると改めて確信した。事実として、私はさっきからカシワギのシミュレーションを完全に無視して喋っているのだから。
「そうよね。不幸を代用品の幸福で埋め合わせて満足出来るのなんて、人工知能くらいでしょう」
「人工知能ってバカだね」
「えぇ。それに今アスカちゃんがほとんど答えを言ったわよね。貴方は、二人が不幸になれば満足するんでしょ?」
「うん。咲ちゃんとか亜里沙ちゃんみたいな、頭も心も腐ってる奴が笑ってる事が一番許せないの。だって悪い人が毎日惨めな顔して生きて、悪くない人が毎日笑って生きられるのが正常な世界でしょ。私は異常な世界で生きたくない」
「じゃあ、どうすれば二人が不幸になって世界は正常になるのかしら」
「……復讐だね」
「そういうこと」
さっきアスカは「人工知能ってバカだね」って言ったけど、十分に的を得た発言だ。人工知能は不幸を幸福で埋める事でマイナスがゼロになったと判断し満足するだろうけど、人間の心は損得勘定では決まらない。
「他人を落とせ」
何事も、努力が必要である。
「他人を自分よりも圧倒的に不幸にする事で、埋め合わせは成されるのよ」
そして、人はそれを復讐と呼ぶ。
「まぁ、合理的だね」
「ん……?」
決して悪い意味ではないけど、こめかみをザクっと切りつけられるような気持ちになった。
私は泥でアスカを汚しているつもりだったのに、アスカの瞳には曇りが全くない。で、なに? 合理的?
これはちょっと、予想外の答えだった。
「二人が不幸になれば良いなって思ってるだけじゃ何も変わらない。私のために、世界のために復讐が必要なんだね」
「……そうよ。貴方の言う通り、復讐は合理的だわ」
思わずつっかえそうになったけど、堪えてなんとかなめらかに言葉を吐き出した。落ち着け、リアクションは予想外だけど思想はズレてない。私のために。そして、世界のために。
鼓動が高鳴る。予想外という表現は違うな。
予想以上なんだ。
「復讐か……」
アスカは両手でごしごしと涙を拭いた。さっきまでメソメソ泣いていた弱い瞳は、一点集中でどこかを睨みつけている。
エネルギーに溢れ、清らかでくりっとした大きな瞳に私は希望を見る。ヤマト君はずっと淀んだ情けない瞳をしていた。不幸の中に悲しみしか無かった。悲しみが怒りを殺していた。だからこそ快楽に溺れた。
それに比べてアスカは違う。怒りが悲しみを殺している。
気に入った。デジタル世界移行計画なんて関係無く、私はこの子が欲しい。
少なくとも、明日風真希より優れた駒を見つけるのは無理だろう。時間は限られている。
私はこの子を駒として、デジタル世界をぶっ潰す。
これまで見てきた人間は、どいつもこいつも地獄の底で嘆くゾンビだった。そういう人間にうんざりしてたけど、私はやっと救世主に出会えた。
十二人の怒れる男が答えを手にした鍵はなんだった? 言うまでもない。
アンタの怒りが、世界の命運を決定付ける。そう口にしたくなったけど、今は堪える。
「ねぇお姉さん」
「凛音で良いわよ」
「凛音お姉さん」
「お姉さんいらない」
「凛音さん」
「さん付けもいらない」
「凛音」
「はい何かしら」
「……なんでそんな急に、私との距離詰めようとしてんの。教えて」
教えて、と可奈子に対して連呼していた時のアスカを思い出す。この子は何でも聞きたがる。
「貴方のことが気に入ったから。で、なに? 復讐の方法を思いついたの?」
「違うけど。……あのさ」
「うん?」
「理不尽なことおかしいことをしょうがないの一言で片付けて来たから、今も世界はクソったれなままなんだよね」
アスカはシベリアンハスキーのぬいぐるみを膝に置きながら、投げやりに言った。不貞腐れたように唇を尖らせる姿は愛らしいけど、だからこそ力強い瞳のギャップに慄いてしまう。
「そうね。そりゃ昔に比べれば豊かになったし、この時代に生きてる私たちが恵まれてる事実は否定出来ないけど、結局どれだけ技術が進歩しても、人間はクソだからね。だから結局、世界はクソの掃き溜めのままだわ」
「うん。世界はしんぎゅるりら…………しんぎり……」
「シンギュラリティ」
「しんぎゅってぃ」
「言えないの?」
「言えない」
「頑張って」
「世界は……しんぎるらてぃに到達したけど、人間はシンギュラリティをまだ迎えてない」
「二つの意味で褒めてあげるわ」
「ありがとう。……世界だけじゃダメなんだよね。大豪邸の中でバカ犬を飼ってもしょうがないんだよね。だから世界は満たされたユートピアなんかじゃない。だって私は不幸だもん。世界が本物のユートピアを迎えるためには、人間も進化しなきゃいけない。進化が無理なら、咲ちゃんみたいな劣悪な人間を片っ端から殺すか、程度の低い人間を軒並み脳改造して善人に作り変えるしかない」
良い。良いねこの子。本当に良い。そういう考え方はマジで素晴らしい。
……つーか、なんで私の方が洗脳されてるみたいになってるんだろうか。その点も含めてやっぱりアスカは良い。
「極論を言えばそうかもね」
かと言って手放しに褒めたりはしない。私はさっきから何度も、無難な返事を心がけている。
「人間は技術の進歩には努力を惜しまなかった。でも人間は人間の進歩に関しては全く努力しなかったんだ。人間はいつまで経ってもおかしいまま」
なんだか独白のようになってるけど、敢えて気にしない。
「おかしいわね。咲ちゃんみたいな人間は特におかしい」
「私は、そんなおかしい人間と関わりたくない。クソみたいな奴らが蔓延ってる世界もうんざりする。出来る事なら咲ちゃんに復讐したいと思うけど、だからこそ復讐なんかどうでも良いやとも思うんだ。ゴミ相手に復讐するなんてバカげてるし」
「それは……まぁ一理あるわよね。バカを相手にするバカに成り下がりたくないし」
なるほどと心の中で頷く。そういえばアスカは決して「分かった復讐するよ」なんて一言も言ってなかった。
「うん。私どうすれば良いんだろうね。埋め合わせしたいけど、埋め合わせをするためにはバカのために頑張らなきゃいけない。でも私はバカのためにエネルギー使いたくない。ねぇ、正解が分かんないよ。誰でも良いから教えてほしい」
「良い意味で大人の考え方ね」
「ねぇ凛音。私どうすれば良いのかな。教えて」
この子は「教えて」が口癖なのかな? 教えてほしい。
「正直言うと、この時点では私にも名案は思いつかないわ。使えない大人でごめんなさい。アスカが復讐する気満々なら話は別だけど」
「凛音が謝る必要は無いよ。わがまま言ってごめん」
「ん。でもまぁ、貴方の悩みに明確な答えを出せる保証は出来ないけど、貴方のこれからを手助けするくらいなら出来るかもしれないわ」
「どういうこと? 教えて」
「教えますとも。そのかわり一つ質問させて」
「一つだけね」
減らず口も叩けるらしい。減らず口、皮肉、ブラックジョーク、悪口、批判、どれも私らと仲良くするためには必要な要素だ。グラン・トリノの爺さんとそのお友達のように。
「アスカちゃんは、今日あった事を忘れたい? 記憶を綺麗さっぱり無くしたい?」
「忘れたくないよ」
即答。やっぱりコイツは最高だ。
「だって私の記憶を消したら、咲ちゃんが悪人だっていう事実がこの世から消えるようなもんじゃん。そんなのダメだよ。気持ち悪い。絶対にイヤだ。それこそ理不尽だよ。そりゃ単純に自分の憎悪を忘れたくないっていうのもあるけど、私が何もかも忘れたら咲ちゃんの一人勝ちになる。それだけは絶対に無理」
ヤマト君も、望海も、エルも、記憶の消去を拒否した。理由は憎悪を忘れたくないから。決して悪くはないけど、物足りなかった。
「私は咲ちゃんが有利になるような事は絶対に認めたくない。そんな理不尽誰が認めるかよ。そのために私はこの怒りを大事にするんだ」
つい笑いそうになった。そう、その気持ちだ。アンタは望海たちの更に上を行く大切な気持ちをちゃんと持ってる。偉い!
表面上だけならたっぷり満たされているこの時代において、人間から怒りという感情は抜け落ちつつあるけど、アスカは怒りという大切なものを強く持っている。
憎しみじゃデジタル世界は潰せない。私が欲しているのは怒りなのだ。
「貴方の気持ちは分かったわ。答えてくれてありがとう」
「で? 手助けってなんなの。咲ちゃん殺してくれるの? でも殺すのはダメだよ。だって死んだら楽になっちゃうじゃん。私は咲ちゃんに楽なんかさせてあげない。私はそんな甘い人じゃない」
その意気だ。もっと怒りを滾らせろ。
「私ね、ペンラムウェンっていう組織のリーダーなんだけど」
「胡散臭い話が始まった」
「ペンラムウェンはね、今とある計画を潰すために頑張ってるの」
「で?」
「その計画が成功しちゃうと、アスカは今日あった事も何もかも忘れちゃう」
「あの」
「まぁまぁ。今は全部仮定の話として聞いてくれて良いわよ。ねぇ、イヤでしょ? 忘れちゃうのは」
「うん。やだ」
「でもこのままじゃ、貴方含めて全人類は全ての記憶を失ってしまう。もちろん、咲ちゃんがアスカに酷い事をした記憶もね」
「それはダメだよ。咲ちゃんは悪い奴なんだから、ちゃんと覚えてないと」
「困るのよね?」
「うん。困る」
「もし人類の記憶が無くなっちゃうような計画が本当にあったとしたら、困るんだよね?」
「そうだね」
「で、もしその計画を潰すために活動してる連中がいたら、どうする?」
「……まぁ、応援するだろうけど」
私は立ち上がり、アスカの頭をぽんぽんと撫でた。
「今週の日曜日、ペンラムウェンのアジトに遊びに来ない? 歓迎するわよ」
EP36 GIRLS OF GARDEN
・相聞歌凛音
学校も会社も何も無い時代。毎日が日曜日のこの世界。わざわざ日曜日を指定したのには理由がある。
アスカは大した子だけど、世界と戦うためには一線を超える激情が不可欠だ。しかし亜里沙と咲とかいうガキごときではアスカのポテンシャルを引き出すのは難しい。
だから私は日曜日を運命の日に決めた。この日、アスカの激情は希望となりエデンの園に届くはずだ。
アスカには姉がいる。名前は明日風百合。調べたところ姉妹仲は可もなく不可もなく。アスカは姉を相当慕っているけど、姉はそんな妹を可愛いと思いつつもちょっとうざく思っているらしい。
「……もう少しか」
私はかつて北海道の新宿と呼ばれた繁華街、ススキノを歩いていた。大自然に囲まれた大都市札幌の中心で、これから起きる不幸にワクワクしながら、必死に罪悪感を払い除けながら無心にひたすら歩く。
他人の不幸を待ち望んでいる私は頭がおかしいのだろうか。まぁそれでも良い。何故なら私を否定する奴が居たとしたら、そいつは自動的に世界の消滅を望むイカれ野郎という事になるからだ。私を否定した上で世界を救うための方法を知り実行する知恵と覚悟がある人間ならば話は別だけど、そんな奴どうせどこにも居ない。
おいおい政治家さんよ。そんな公約を掲げた所で世界は良くならないぜ。お前みたいな頭の悪い政治家は今すぐ引退した方が良いぜ。なんて事を言う奴に限ってより良い公約を考える頭なんか無いし、世界のために行動しようなんていう覚悟や行動力を持っていない。そして大多数の人間は所詮そんなもん。
でも私は違う。知恵があるし、悪魔になる覚悟を持って歩いている。
私は悪魔になる。
濃度百パーセントの善じゃ世界は良くならない。
そう信じながら。
「……」
平和に行き交う人々。喧騒。ネオン。飲食店から漂う香ばしい匂い。本州の大都市から流入して来た人間のおかげで今でも街の体を成している札幌は、私も可奈子も良く知る元気な街だ。
こうやって歩きながら見る世界はこんなにも穏便で満たされている。だから悲しくなる。だって今この瞬間にも、暗い部屋の隅っこで膝を抱えている人間は世界中に沢山居るのだから。
私は目玉焼きに卵の殻がほんの少し入ってるだけでも許さない。
じゃあデジタルが正解か? 違う。今日の朝ごはんはスクランブルエッグですよ。本当は目玉焼きを作ろうとしたんですけど失敗しちゃったんだ。えへっ。私はそんな料理人が目の前に居たら思い切りビンタする。
決して難しい話ではない。この世界に醤油を加えるだけで良い。冷静に考えればゴールは近い。戦いの先にあるのは苦労と挫折と絶望だけど、それさえ乗り切れば光が見える。
「光が……」
横断歩道。
車。ヘッドライトの光。
その先に、見たことのない少女の姿。
とある少女の特異点のきっかけとなる、生贄の姿。
これから死にゆく哀れな人の姿。
大丈夫。大丈夫なんだよ。
あの光は、希望の光なんだから。
ドーン! 目の前で不幸が弾けた。卵の中には何が入ってる?
「予定通りか」
赤信号にも関わらず猛スピードで突っ込んできた車は、横断歩道を渡っていた少女に激突した。少女はまるで子供に投げ飛ばされた人形のように吹っ飛んだ。
あぁ。ほんと、アホらしいよね。人智を越えた人工知能が普通に存在するような時代だっていうのに……。
交通事故が無くならないなんて。本当に進歩が無い。人間っていうのは。
当然この時代では全自動の乗り物が主流だけど、全自動の乗り物が普及したからって、この世界から乗り物を運転する楽しさが消える訳じゃない。
だからこの時代にも手動の車は存在する。言い換えるならば、人なんて簡単に殺せる。
大きな悲しみが消える事は無い。
また、今日も、誰かが死んだ。交通事故で。
理不尽に悪口を言われたり。
理不尽に車に轢かれたり。
悲しみはダニと同じようにどこにでもある。人類はそう諦めて時を過ごしてきた。確かに百パーセントのユートピアではないけれど、昔よりは遥かに幸福な時代なんだから別に良いじゃないか。皆そう考えてる。そう考えない人は幼稚な人間だと断定される。
でも。
ねぇ。
やっぱりさ。
世界にたった一人でも理不尽な仕打ちを受ける人間が居るのなら、やっぱり何かしらの行動が必要なんじゃないのって思う。
でも。どうせ。
人間なんて。
自分が不幸な仕打ちを受けない限り。
物事の本質を見る事は叶わない。
いま目の前で轢かれた子は即死だろうけど、SISAの力で蘇生出来るし、本人が望めば心も治せるはずだ。脳改造や死者の蘇生はあくまでも一般で禁止されているだけであり、特別な事情があればSISA主導で禁忌の技術を享受できる。
記憶のバックアップと器がある限り全ては元通りになる。目の前で轢かれた彼女が死んでも、悲観する奴は居ない。
そんな世界だから、そんな人間ばかりだからデジタル世界移行計画なんてものが見いだされたんだ。
不幸ってもんが何なのか分かってない人間に、新しい世界なんて用意してほしくない。
そうだろ? アスカ。
「お姉ちゃん!」
明日風真希。彼女は姉に駆け寄り、泣き叫んだ。
アスカの姉、明日風百合を轢いたドライバーは速攻で逮捕された。当然だ。体内に搭載されているICチップによって、人間は糖質の摂取量から居場所まで何もかもがSISAに把握されている。東京に逃げようが火星に逃げようが未来に逃げようが世界線を越えようが、罪を犯して逃れる事は出来ない。
明日風百合はやはり即死だった。アスカは姉の死体を抱きしめながらわんわん泣いていた。私は濁った気持ちで黙ってアスカを見つめていた。どんな言葉をかけていいのか分からないからではなく、言葉をかける資格を持たないから。
無意識にSISAに連絡をしただけで、後はもう立ち尽くす人形と化すしか術は無かった。心が歪んでいた。私はこうなる事を全て知っていた。カシワギのシミュレーション通りだった。だから冷静でいられた。にも関わらず心の底は煮えていた。
計画を推敲するのだというロボット的な思考と、相聞歌凛音という純粋な人間の思考で心が二分され、私は自分を他人のように見るようになっていた。計画の推敲を推し進める私、姉を抱きしめて泣きじゃくるアスカを呆然と見つめる私。どちらも他人だ。私は空から私を見ていた。
心を一度捨てると覚悟した人間は、きっと二度と人間には戻れないのだろう。ところでデジタル世界に旅立って現実世界に戻れたとして、デジタル世界を経験した人間は正真正銘、本物の人間と言えるのだろうか?
チクッ。頭に棘が刺さるような感覚。
まだ体の中に本意がある。
誰にも見せる事のない本意が、どこかに。
明日風百合を轢いたドライバーは百二歳の老人だった。不老不死ではないから当然ヨボヨボだった。老人はあらゆる安全装置を解除し、ナチュラルな状態で運転をしていた。リミッターを解除して暴走していたようなものだ。
ため息が止まらない。その昔、この世界は対テロ戦争に突き進んでいた。しかし対テロ戦争の時代ですら、テロで死亡する人間よりも交通事故で死亡する人間の方が遥かに多かった。そして大多数の人間はテロを憎み誰もが戦争反対と騒いでいたけど、その一方交通事故で人が死ぬ事に対してはずいぶん慣れていた。
二千十年代に入って高齢者ドライバーの交通事故が問題視されるようになり、確かに交通事故に対する認識はある程度強くなったけど、それでもテロやら戦争やら憲法9条に反対するデモが各地で行われる事はあっても、高齢者ドライバーは免許を返納せよみたいなデモが行われる事なんてほとんど無かった。
テロよりも交通事故で亡くなる人間の方が多かった。いつどんな時代でも。しかし人間にとっての悪はあくまでも「戦い」だった。世界は何故かいじめや交通事故など、一方的な暴力には寛容である。その悪い結果が今の時代にも尾を引いている。
なぜ、こんな時代になったんだ? どうして、戦争よりも交通事故の撲滅に全力を尽くさなかったんだ? 戦争もテロも交通事故も、罪の無い人が死ぬという絶望は変わらないはずなのに。
ねぇ、どうして、車は安全装置を解除できるようになってるの? 運転を楽しむため? 楽しむためなら人が死んでも良いの? オリンピックのフルマラソンは人命を賭けてやるものなの?
人類はこれまで一体何をやっていたんだろうか、という疑問が消える事はない。アスカの姉は死んだ。アスカは悲しんだ。その事実は何の意味も持たない。だって二人の少女が不幸になった所で、世界は平和であり続けるから。戦争が起きれば人はまたたく間に「不幸な時代だ」と口を揃えて言うけれど、戦争さえ起きなければ人はみな「平和な時代だ」と口を揃える。交通事故で亡くなる人がどれだけ多くても、赤の他人に悪口を言われて悲しむ人間が星の数ほどいても、戦争さえ起きなければ世界は平和だと認識される。
元号が平成から令和に変わった時、バカ共は口を揃えて「平成は平和な時代で良かった。令和も平和であってほしい」とか言っていた。どこが? 罪の無い人間が交通事故で死んだり、通り魔に殺される時代のどこが平和なの? 戦争さえ起きなきゃ世界は頑なに平和なのか? どいつもこいつもサイコパスかよ。
人間は全くもって知能の低い生き物だ。ねぇ本当に平成は平和だった? 本当にそう思ってるの? マジで平成が平和だと思っている人間が居るとしたら、そいつは急いで首を吊って死んだ方が良い。サイコパスが減れば減るほど世界は平和になる。
サクっ……と、滑らかに爪楊枝が心臓に入っていくような心地。
冷徹に。
ただ、やるべき事をやる。
「アスカ」
私は病院の廊下のベンチに座っているアスカに声をかけた。アスカは前見た時と同じシベリアンハスキーのぬいぐるみを胸に抱いていた。
アスカは虚ろな目で私を見上げ、消え入りそうな声で独り言のように言った。
「……お姉ちゃん、死んじゃった」
「大丈夫。蘇生してもらえるでしょ」
「うん。いま記憶データをね、新しい器に移してる所」
「事故の記憶はどうするの?」
「お姉ちゃんに決めてもらう」
「そっか」
「うん。……ありがとう」
「なにが?」
「SISAに連絡してくれて」
私はアスカの礼には何も答えず、話を変えた。
「お姉さん、名前なんて言うの?」
「百合。一十百の百に、合理的の合で百合」
「百合さんね。……えっと、なんていうか」
「なに?」
「ごめんなさい。私は言葉を持ってない」
アスカはちょっとだけ戸惑った顔をしたけど、すぐに作り笑いを浮かべてシベリアンハスキーの頭を撫でた。
「これ、お姉ちゃんがくれたの」
「そうなんだ。可愛いわね」
「うん。可愛い。ねぇ凛音」
「何かしら」
「凛音はさ、これからどうするのが正しいと思う?」
「正しいって?」
「再生したお姉ちゃんが記憶をどうするのかは分からないけど、どうするのがベストなのかな。事故は無かった事にした方が良いのかな」
明日風百合の最後の記憶は、あくまでも車に轢かれた時点のものであり、当然「自分が死んだ」という記憶は無い。とは言え、再生された時点で自分は交通事故で死んだんだな、という状況は理解できる。
言わずもがな、交通事故で自分が一度死んだとなれば恨み、怒り、憎しみなど様々な負の感情で心が満たされてしまう。人によって自分の死に対する捉え方は違うだろうけど、濁りは大なり小なり心に残る。
だったら。記憶全てを改ざんしてしまえば良い。明日風百合はアスカと二人で歩き、何事もなく道を歩いた。途中でアスカが転んで足をすりむいて病院へ行った。百合は待合室の椅子で目を覚ます。どうやら長い間居眠りをしていたらしい。病室から治療を終えたアスカが現れる。アスカは笑顔で言う。ごめんねお姉ちゃん、迷惑かけて。百合は微笑んでアスカの頭を撫でる。
強引だけどベストな物語だ。事故すら無かった事にする。でも、当然交通事故なんてあったらニュースになる。百合から交通事故の記憶を奪っても、ニュースを見れば気がついてしまう。あれ、私車に轢かれて死んでるじゃん。
どう考えてもあってはいけない齟齬である。だから。交通事故の記憶を改ざんするという選択をした場合、本当に交通事故という現実も消えて無くなってしまうのだ。もちろん百合を殺したドライバーも逮捕されない。
ずいぶんと狂った時代になってしまったなと何度も思う。超越的な技術や社会というのは、笑えてくるような歪みを生んでしまう。やはり人類はまっとうにシンギュラリティを迎えたとは言い難い。
「お姉さんの心の安定だけを考えるなら、事故は無かった事にした方が良いでしょうね。そうなると犯人は無罪になるけど」
私は意に反する意見を述べた。予想通りアスカは不満そうな顔をしたけど、渋々といった様子で頷いた。
「うん。お姉ちゃんのためを思うなら、そうした方が良いよね」
「アスカはどうしたいの?」
「無かった事にはしたくない」
「そうよね」
「でもこれはお姉ちゃんの問題だから、私の気持ちなんて関係ないよね」
「身も蓋もないけどそうかもしれない。ただ、お姉さんがこの先の選択で悩んでたら、アスカの意見を伝えてみなさい」
アスカは無言でこくんと頷いた。この子はきっと、自分の意思が正しい選択だと思える答えが欲しかったんだろう。
「アスカは、お姉さんに全てを知っておいてほしいの?」
「当たり前だよ」
「でも記憶を消去するなり改ざんするなりしないと、お姉さんの心には負の感情がこびりついてしまうわ」
「そう……だけど。お姉ちゃんは強い人だもん。記憶の改ざんなんてしなくても大丈夫だと思うんだよね」
アスカは力強い瞳で私を見つめながらそう言った。
平坦な世界で、彼女の瞳は突き出ていた。
人が轢き殺されました。あぁそうなんだ。それじゃ事故で死んだ記憶を消去した上で再生させましょう。世界はそういう平坦な世界であるはずだった。激情が人を突き動かす時代はとうに終わっている。ある意味それが何よりの絶望であり、それ故のデジタル世界移行計画なのかもしれない。
「凛音ありがとね。付き添ってくれて」
「お礼を言われるほどの事はしてないわよ」
「そんなことないよ。本当にありがとう」
お礼を言うアスカの瞳は確かに私を見ていたけど、正確に言えば私を射抜いていた。
「……アスカ」
「なに?」
「悲しみの無い世界に行きたくない?」
・しんさつけっか
明日風百合の蘇生にはせいこうしました。きおくをどうするか、聞きました。明日風百合は、あたらしいじぶんになりたいといいました。
もう、明日風百合としての人生にはあきたから、かわりたいといいました。
わたしはそれをうけいれました。
あすかぜゆりは、いいました。
むかし、自殺した友達になってみたいと、いいました。
ゆりは、その友達を、すごく、きにいってたらしいです。
そのともだちのデータは、まだのこっています。なまえは、百合ヶ原柚といいます。
わたしは、いきかえった明日風百合に、その、死んだ、友達のデータを移植しました。ただ、なまえは、百合ヶ原柚じゃなくて、せめて百合ヶ原百合とか、明日風柚にすることを、すすめました。
なぜかというと、死が認定されたひとを、蘇生するのは、ダメだからです。百合ヶ原柚は、もうぜったいに、このよにあらわれちゃいけないのです。
だから、百合ヶ原柚の魂をもった、あたらしいにんげんになるという、抜け道をえらんだのです。
明日風百合は、あたらしい名前をてにいれるみちを、えらびました。
もう、明日風百合は、どこにも、いません。
そのかわり、新しい人間がうまれました。
百合ヶ原百合。見た目は、明日風百合のままです。魂は、百合ヶ原柚のものです。
ひとりのにんげんが、死んで。
あたらしいにんげんが、作られたよ。
ぷらまいぜろだね。世界からみれば。
うん、とくに、問題はない。
でも、わたしは、こう考えるようになりました。
こんな、すごいこと、できて、なんでもありな時代なら。
なんかもう、いっそのこと、人間は、架空の世界でもつくって、生きればいいんじゃないのかなぁ?
EP37 病的な人
・明日風真希
何度も何度も何度も言わせてもらう。しつこいと言われても言わせてもらう。
技術が進歩しても、人間が進歩しなきゃ意味がない。この事実から目を背けてきた先人たちは随分と無駄な時間を過ごしてきたんだろう。
卓越した科学は魔法だ。魔法は禁忌の術だ。そんなとんでもないモノを人に与えるな。いや与えても良いんだけど、与えるならまともな人間にだけ与えてくれ。
明日風百合は、お姉ちゃんはもうこの世に存在しない。お姉ちゃんの器に宿ったのは、何年か前に自殺した百合ヶ原柚という少女の魂だった。そのせいで名前が百合ヶ原百合とかいうふざけた名前になってしまった。
狂ってる。もう理解が追いつかねぇわ。百合ヶ原百合はお姉ちゃんの見た目をしてるけど、中身は百合ヶ原柚っていう赤の他人だ。ていうかお姉ちゃんは勝手に自殺した百合ヶ原柚を歪な形で生き返らせちゃった訳だけど、柚は内心どう思っているんだろうか?
でもまぁ、大多数の人たちはお姉ちゃんの行動を褒めるだろう。
だってそうでしょ。人間は自殺に厳しいんだもん。誰もが無責任に自殺なんかダメだよ、死んじゃダメだよってほざきやがる。人間は勝手に産まれてくるもんだけど、死ぬのはダメだと強く釘を刺される。人間には産まれる権利も死ぬ権利もないのか。
とにかく世界の常識と道徳的にはお姉ちゃんは間違いなく英雄なんだろう。自分を犠牲にして血の迷いで自殺した柚を生き返らせた。猿もどきの愚劣な日本人が好きそうなストーリーだ。日本人は何でもかんでも勝手に決めつける生き物で、勝手に色々決めつけて泣く生き物だ。柚ちゃんは血の迷いで自殺したけど生き返って良かったね。およよ。ねぇ、柚に直接聞いた訳? 貴方は血の迷いで自殺したのかしらってね。
柚は、納得して自殺したのかもしれない。だとしたらお姉ちゃんは悪魔だ。
あぁ。
うぜぇ。
なんだこの世界は。
うんこまみれだ。
世界はうんこだ。
意味わかんね。
なんも理解できねぇ。
分かんねぇ。
くだらねぇ。
何でもありかよ。
あぁ。私はどうすればいいの?
私も何でもありな人間になればいい? 口から火でも吹けばいいのか?
あー。
いや。
大丈夫。
私は他の奴らみたいに順応したりはしない。私は私。私は人間。世界の中で生きる駒なんかじゃない。
私は、私の意思を大切にするし尊重する。
復讐だ。世界がまっとうだろうと意味不明だろうと、私は前に突き進む。道徳や常識なんて必要ない。私が感じた事、私がやりたい事、私が考えた事、それが私にとっての世界なんだ。世界はここにはない。私の体の中に世界がある。世界は人の数だけ存在する。
「許さない」
私は、お姉ちゃんを轢き殺した奴を許さない。全ての元凶を断ち切る。必ず。絶対に。何が何でもね。
物は壊れても修理できるけど、性根の悪い人間はどうあがいても治らない。クソはクソだ。永遠に。でも私はトイレの中にクソがあったらちゃんと水で流す。そういう当たり前の事をちゃんと出来る人間なんだ。クソはちゃんと水で流さなきゃいけない。
凛音はお姉ちゃんを殺した犯人の素性を調べてくれた。犯人は平沢誠侍という男で、SISAの職員だった。
もしお姉ちゃんが蘇生して事故にあった記憶を消去していれば、事故そのものも無かった事になるから犯人は逮捕されないという結果になったはずだ。
でもお姉ちゃんは死んじゃった。それは事故が確かに起きた事を意味する。つまり犯人はしっかり逮捕される。
それが当たり前。常識。なのに犯人は逮捕されていない。SISAは想像以上に腐ってる。内部の人間はきっと巨大なハンマーで地球を半分にかち割ってもお咎め無しなんだろう。
「ここか……」
私は平沢の家を見上げた。三階建ての立派な家だ。私はここを平沢のお墓にする。
「……っ!」
見計らったようなタイミングで家から老人が出てきた。そいつの顔を見てすぐに気がつく。こいつが平沢誠侍だ。
「……」
私は思わず硬直した。
平沢は笑っていた。晴れやかな笑みを浮かべながら、庭に咲く花に水をやり始めた。
咲ちゃんの顔がパッと脳裏に浮かんだ。
ダメだ。
それだけはダメだ。
罪の無い人を殺した奴が笑ってる。それだけは許せない。
許しちゃいけない。
しかもさ。
なぁ。
なんで人を殺したお前が……。
花を生かしてんの?
「おい」
「あん?」
顔中しわくしゃの老人は面倒くさそうに振り返った。腐ったミカンのような匂いがする老人から一歩離れて、私は聞いた。
「お前、平沢誠侍だろ」
「そうだが。お前は誰だ?」
「明日風百合の妹。明日風真希」
「あぁ。なるほど」
平沢は驚く事もなく、淡々と笑顔で花に水をやり続ける。
分からない。
なんでコイツはこんなにも楽しそうなんだ?
「お前、なんで笑ってんの?」
「……ほう。これは驚いたな。てっきりどうしてお前は逮捕されてないんだと聞かれるのかと思ってたよ」
バカかコイツは。お前は逮捕されるべきだとか、早く刑務所に行けとか、そんな不毛な文句を並べる訳ねぇだろ。つーか私はお前を殺しに来たんだから、もう逮捕されてないとか刑務所がどうとかそんなもんどうでも良いんだよ。
「てめぇを裁くのは私なんだよ」
「あー? なにを言ってるんだ、お前は」
「質問に答えろ。なんでお前は笑ってんの?」
「何か悪いか?」
「お前はお姉ちゃんを殺したんだぞ。お前に笑う権利なんかあると思うか?」
「あるさ。生きてる限りな」
「人間はどんな悪人でも、生きてる限り価値があるとか言いたいの?」
「さぁな。だが私は別にわざと殺した訳じゃないぞ。確かに安全装置は外していたし不注意で殺してしまったが、わざとじゃない」
「私は今からお前のこと殺すけど、わざとじゃないから許してね」
「いや、許さない」
「あぁ。アンタは間違いなく人間だね。アンドロイドでもロボットでもない」
「ははっ。面白いガキだな」
平沢はまた晴れやかに笑った。
「話聞いてる? お前みたいな犯罪者が笑っていいと思ってんの? 生きてて良いと思ってんの?」
「そんなこと言われてもな。そもそも、どうしてお前はそんなに私の事を憎んでるんだ? 確かにお前の姉が死んだ原因を作ったのは私だ。しかしそのおかげで、えーと……百合ヶ原柚だったか? 昔死んだ子を生き返らせる事ができたんだぞ。彼女を甦らせ、生まれ変わるのがお姉さんの願いだったんじゃないか? だとしたら、私はお前のお姉さんの願いを叶えた事になるな。恨まれる筋合いはない。むしろお前は私に感謝するべきだ。なぁ、見返りに一度セックスしてくれないか? お前は処女か? 処女なら最高なんだが」
「……」
「お前はさっき私を殺すと言ったが、本当に姉の仇討ちをするつもりか? まぁ無意味だがな。お前が私を殺したとしても、それはあくまでも理不尽な死として俺は蘇生する権利を得られる。お前が私を百回殺せば私は百回蘇る。なかなかマニアックなプレイだな。新しい時代のセックスか? 良いなぁそういうのも」
「……」
「ははっ。凄い目つきだな。君は相当怒ってる。驚きだよ。今この時代にも、圧倒的な怒りという感情を持つ人間が居るなんてな。まぁこの時代、怒りを持ち合わせる人間はただの病気だがな」
「……」
怒りが言葉に出来ないほどこみ上げ、心はむしろ落ち着いていた。
でも、まだ足りない。
ねぇ。私はどうして、もっと怒れないの?
なんで私は落ち着いてるの?
ここで暴れるのが当たり前じゃないか。
おかしい。
足りない。
意味、分かんない。
こんなに悲しい運命を背負ったのに、こんなに侮辱されてるのに気が狂えない私は、どう考えても……。
人間じゃない。
あぁ。
やっぱダメだな。
私おかしいんだ。
こんな時代に産まれた時点で、私は人間じゃないんだ。
「なぁ、ちょっと面白いものを見せてやろうか?」
「は? なに?」
「面白いものだよ。私の家に上がれば見せてやろう」
爺さんはにたぁとねばっこい笑みを浮かべた。私は賢くはないけどバカでもない。少なくとも、姉を轢き殺した奴にお呼ばれされて家に入るようなトチ狂った人間ではない。
しかし、確かな直感があった。
多分、この先に、私の想像を超えるものがあるのだと。
「興味あるならついて来い」
老人は踵をかえして家の中に入った。私は凛音にこっそり現在地のデータとテキストを送信しておいた。万が一襲われたとしてもこんなヨボヨボの爺さんに負ける気はしないけど、無闇に突っ込むほど私は安直ではない。
私が家の中に入ると、老人はゆっくりと長い廊下を歩き始めた。襲ってくる様子はない。私は靴を履いたまま後に続いた。
老人は一番奥の扉の前で足を止め、ドアノブに手をかけ、扉を開いた。
それはすぐに飛び込んできた。
白色のテーブルの上。昔のSF映画によく出てきたようなガラスの容器に、ホルマリン漬けの脳みそが入っていた。脳みそには細いケーブルが挿し込まれていて、そのケーブルは部屋の隅にある小型のコンピュータに繋がっている。
「これは脳みそだ」
老人は自慢するように言った。
ドクン、と心臓が跳ねた。
濁った無色の液体で満たされている脳みそ。
まさか。
それは。
「誰の脳みそか分かるか? 予想出来るだろう。これは明日風百合の脳みそだ」
ひくっ……と声にならない声が漏れた。
唾を飲み込む。
心臓の辺りを手のひらでおさえる。
動悸が、狂ったように激しくなる。
私のお姉ちゃんは死んだ。オリジナルのお姉ちゃんは焼却された。頭も、腕も、足も、臓器も、全部燃えた。そしてお姉ちゃんの外見を模した器を用意し、百合ヶ原柚という女の魂を移植した。
オリジナルのお姉ちゃんは、何も残ってなかったはずだった。
でも。今、目の前に……!
「SISAは世界政府だ。神様みたいなもんなんだよ。だから何でも出来る。分かるよな? 俺は本来廃棄されるはずだった明日風百合の脳みそを譲り受けたんだ」
「おま……え……」
「良かったなぁ。ほら、目の前に大好きなお姉ちゃんが居るんだぞ。ははっ」
老人はニヤニヤ笑っていた。
私は何もかもが理解出来なかった。
分からない。
理解できない。
人間が。
世界が。
感情が。
全てが。
「ここにある脳みそこそが、本物の明日風百合の脳みそなんだ。そしてこの脳みそはギリギリの所で生きている。分かりやすく言うとそうだな……。瀕死で植物状態の人間を、点滴だけで生かしてるようなもんだな。脳みそに繋がってるケーブルが点滴のようなものだ。このケーブルを通して、脳みそは死直前で踏みとどまってるんだ」
老人は椅子に座り、足を組んでタバコを吸い始めた。こいつは百歳を超える老人。SISAの人間だというのに不老不死の恩恵は授かっておらず、足元はおぼつかない。体は確かに衰えている。注意力不足で人間を轢き殺すくらいには。
「お前の姉ちゃんはな、確かに生き返ったさ。死んではいない。いや死んだが生きている。難しいな。死んだのは事実だが、戸籍は生きている。しっかり存在している。本当に複雑な問題だ。しかしこれだけはハッキリ言える。お前の姉の存在定義がどうであれ、今生きている姉は作りものであり、ここにある脳みそこそが本物の姉なんだってな」
私は歯を食いしばった。こいつの言う通り、目の前で活動している脳みそが本物のお姉ちゃんなのだ。人工物なんかではなく、お母さんのお腹から産まれてきた紛れもない人間の一部。
あぁ。
お姉ちゃん。
そんな所に居たんだね。
本物の記憶が、魂が、そこに……。
いや。
「でもまぁ、脳みそはあくまでストレージとCPUの機能を果たすパーツであって、脳みそに心は無いけどな」
「……」
「脳みそは体から離れて独立した時点で、本質的には機械のようなものになるんだ。心から離れた脳みそはもはや神秘的な存在ではないんだよ。さて」
老人はタバコを床に捨てて足でもみ消し、お姉ちゃんの脳みそに近付いた。
そして。テーブルに置いてあった長くて細い針金を手に取り、脳みそにぶっ刺した。
「おい!」
「はははっ! 見ろ。これを見てみろ!」
脳みその横に置いてある小型のディスプレイに、心電図のような脳波が表示された。脳波は闇雲に乱れ、しばらくすると落ち着いた。
「もう一度行くぞ。ほら!」
老人がまた針金で脳みそを刺した。再びディスプレイの脳波が無造作に乱れる。
「やめ……やめて……」
私は必死に声を漏らした。
すると。
老人は。
テーブルの上に置いてある小瓶を手に取った。
嫌な予感がした。
老人は大きな瓶の蓋を開け、中身を私に見せつけてきた。
中には、ドロっとした白色の液体がたっぷり入っていた。
「これは私が若い頃に出した精液だよ。ずっと冷凍していたんだが、丁度ついさっき解凍したんだ。それにしても凄い量だろう? こんなに溜めるのは大変だったよ」
老人は笑いながら言うと、お姉ちゃんの脳みそが入っている容器の中に、躊躇することなく大量の精液をドロっと垂らした。
「ちょっ……」
目を疑った。
老人の精液が透明のホルマリンの中に溶け込み、同化していく。
お姉ちゃんの脳みそが、精液の入り混じったホルマリンで満たされていく。
「ははは! どうだ! 私の精液で君のお姉さんの脳みそを犯してるみたいじゃないか? ところで脳みそは妊娠するのかな? ははははは!」
老人は恍惚とした表情で、精液を容器の中にどんどん垂らしていく。
ディスプレイに映し出される脳波は、悲鳴をあげるように乱れ続ける。
上下に乱れまくる脳波は、まるで……。
「はははっ。はははははは! この脳波は叫びなんだよ! これは脳みそが叫んでる証拠なんだよ。俺の精液で! 脳みそをレイプされて! コイツは絶叫してるんだよ! おっと精液が無くなってしまったよ。よしっ。それじゃあまた針金攻撃だ!」
老人は狂ったように笑いながら、針金で何度も何度もお姉ちゃんの脳みそを刺した。
その度に、ディスプレイの脳波はけたたましく跳ね上がっては下がり、また跳ね上がっては下がった。
お姉ちゃんの叫びが聞こえるようだった。
痛いよ。
苦しいよ。
助けて。
真希。
助けてよ。
「分かるか!? これが暴力だ! 暴力は快感だ! 脳みそをレイプするなんて快感以上のなにものでもない! 心から分離した脳みそがバカみてぇに叫び散らしてるんだ。なぁ、面白いよな? お前もやってみるか?」
私はずっと無感情に、平坦に、淡々と生きていた。
学校に通う必要が無く、働く必要が無く、将来に向けて何かしら努力する必要も無く、ただ遊んで楽しく暮らしていくだけで良い世界で、退屈に、渋々怠惰に日常を食いつぶしていた。
究極の不幸なんて無く。
究極の絶望なんて無く。
究極の幸福も希望も無く。
喜怒哀楽が薄っぺらい世界と自分に飽き飽きして。
息苦しくて。
心を持て余して。
辛くて。
でも。
今やっと。
私は人間になれた気がする。
この家に入る前の私と、今の私はもう別人だ。
姉が目の前で轢き殺された時ですら湧かなかった激情が、体の底からこみ上げてくる。
脳みそが、ついに、自分の心にくっついた。
「ははっ」
やった。
やったぞ。
やっと、怒りという感情の先にあるものを手に入れた。
私の遺伝子情報の隅に隠れていた人間としての本能が、にゅるっと滑り落ちてきた。
「あはっ」
お姉ちゃん。
嬉しいよ、私。
やっと、まともになれたんだ。
「あはははははははははっ!」
私は無意識の内に老人に掴みかかっていた。老人は驚くほどあっさり床に倒れた。なるほど老人というのはガキ相手でもこんなに脆いものなのか。
「許さねぇ! 絶対許さねぇ!」
私は老人に馬乗りになって、両手の拳で何度も何度も顔面を殴りつけた。まさに一心不乱だった。
怒りを通り越した激情で我を忘れている事がたまらなく嬉しかった。これが普通なんだ。憎い奴を衝動的にボコボコにするのが人として当然なんだ。
ようやく大切な事に気がつけた。人間は動物だ。本能を持つ生命体だ。なのにどうして暴力は犯罪なの? なんで法律が人間の常識や本能を抑制しているの? バカげてる!
人間から怒りや暴力的な本能を省いたり抑制するのは間違いだ。何故なら人間から激情を抜き取ってしまったら、そこに残るのは家畜的な人形なのだから。
私は人間だ。本能を封印し泣き寝入りする人形なんかじゃない!
「死ね! 死ね死ね死ね!」
殴った。ひたすらに殴った。
そして、不安になった。
殺せない。
私はこいつを殺せない。
これも本能なのだ。人は人を殺せない。死にたくないと思うのと同じくらいに強い圧倒的な本能。
あれ?
ちょっと待てよ。
こんな本能を持ってる人間は動物と言えるのか?
それに……。
『お前はさっき私を殺すと言ったが、本当に姉の仇討ちをするつもりか? まぁ無意味だがな。お前が私を殺したとしても、それはあくまでも理不尽な死として俺は蘇生する権利を得られる。お前が私を百回殺せば私は百回蘇る。なかなかマニアックなプレイだな。新しい時代のセックスか? 良いなぁそういうのも』
ダメだ。意味がない。
「あっ」
そうか。
あぁ。
気づいちゃった。
この時代では。
悪人を殺せないのか。
なるほど。
確かに。
ユートピアなんてありえないんだ。
絶望が湧き上がり、体から力が抜けていく。
いや。そうだ。
せめて、お姉ちゃんの脳みそを取り返せれば。
また、お姉ちゃんに会え……。
「エックス……さん……ろく……」
「あ?」
いきなり老人が意味の分からない言葉を発した。
刹那。
ドーン!
背後で爆発音が響き。
振り返ると。
容器の中の脳みそは、爆発して粉々になっていた。
EP38 ゼロ・シンギュラリティ- At a later date-
・相聞歌凛音
私は平沢誠侍の家に入り、地下室へ続く階段の前で一度深呼吸をした。ジャック・ケッチャムの「隣の家の少女」を思い出しながら息を吸い込み、吐き出し、そして階段をゆっくり、ゆっくり降りていく。
狭い通路の先に古びた扉があり、また一度深呼吸をして扉を開けた。
狭い部屋に、鎖で両手両足を縛られた平沢誠侍が寝そべっている。彼は素っ裸で、全身の至る所から出血しているし腕や足はありえない方向に曲がっている。
「協力感謝するわ。貴方のおかげで、SISAのまだ知らない情報を得ることが出来た。アヌンコタンについてどうしても分からない事が多かったのよ」
老人は何も答えない。もう死んでるかもしれない。
私は平沢の誠意ある協力のもと、SISAの秘密を徹底的に洗った。量子コンピュータで行うハッキングよりも、結局のところ人に直接聞くのが一番の方法なのよね。コンピュータやネットワーク上に無い情報なら言うまでもない。
平沢の言う事を信じるとするなら、SISA内部にはデジタル世界移行計画に反対している連中が多数存在し、彼らはアヌンコタンというクーデター組織を作り、計画を頓挫させるために活動しているらしい。
ただ、今からデジタル世界移行計画そのものを潰す事は不可能であり、彼らの目的はあくまでも「阻止」ではなく「強制終了」なのだ、と平沢は何度も繰り返した。
アヌンコタンは、単純にデジタル世界で暮らすのが嫌なだけなのだろうか。そうは思わない。綾瀬源治と稲穂大成の会話が全てだ。
『あの計画は本当に楽しみですな。あっちの世界なら、現実で不可能な魔法も可能になる』
『本当にそうですな。この世界を超えるユートピアが実現する。まさにこれ以上ない理想です』
SISA、いや一部の人間が渇望しているのは、シミュレーションの先にある人類の幸福なんかじゃない。奴らは架空世界で悪の神様になろうとしている。だからこそアヌンコタンなんていう組織が出来たのだろう。
ただ、綾瀬たちの思想はSISAの本意ではないはずだ。これまでに集めた資料と齟齬が生じるし、もし永遠にデジタル世界で好き勝手するつもりなら、デジタル世界が終わる余地なんて残さないだろうから。
さて。じゃあそこから導き出される結論は何だろうか? 簡単な話だ。SISA全体を敢えて善として見れば、おのずと綾瀬と稲穂の会話がどこに結びつき、世の中に蠢く二つの総意が何なのか気づけるはずだ。
私は何度でもため息を漏らす。ため息すると幸せが逃げていく? なに言ってんだ。そもそも体の中に幸福なんて一ミリも入ってない。
そして、いつだってため息は自分のためにある。誰かの不幸を目の当たりにしてため息をつく事があるか? 無いだろう。
私はこの世界を守りたい。それが成されればそれで良い。他人にとってのユートピアなんか知ったことではない。地球は皆のものじゃない。個人の所有物なんだ。
私は自分の大義を貫き通す。ただそれだけだ。
大きく息を吐き出す。吐き出せる幸福は無いけど、絶望はある。
「アヌンコタンの実態を知れただけでも、大分景色が透明になったわ」
自分でも驚くほどに冷たい声が出た。怒り、悲しみ、憎しみ。私はいつになったら楽になれるんだろう。
「私は出来た人間だから、ちゃんとお礼を言うわね。ありがとう!」
ガラス製の灰皿を右手に持ち、平沢の顔面に叩きつけた。ゴンっという鈍い音が響き、平沢は微かに呻いた。顔面血だらけ痣だらけの顔は、もはや人間の顔とは呼べない有様になっている。
「痛い? まぁでもほら、こんな寄り道してる場合でもないんだけどさ、私だってこれでも人間だから。ゴミを痛めつけるぐらいの事はさせてほしいのよね。さーて次はこれ使うわよ」
わざわざ用意してきたムチを手に持ち、思い切りしならせながら平沢の顔をぶっ叩く。平沢はかすれた悲鳴をあげた。
「そりゃ確かにさ、私はアスカを駒にするために近付いたし、明日風百合が死んじゃう未来も知ってたわよ。知ってて止めなかった。アスカに絶望を背負ってもらうために。デジタル世界をぶっ壊すほどの憎悪を抱いてもらうために。でもね、アンタが明日風百合を殺した事も、死んだ明日風百合を侮辱した事も、アスカを苦しめた事も事実なのよ。おい、もう一発行くぞ」
またムチをしならせ、平沢の顔を何度も何度もひっぱたく。既に平沢の歯は何本も折れて、顔はぐちゃぐちゃになっている。そんなグロテスクな平沢の顔を見ていると、この世界を守るんだという意思がどんどん強くなっていく気がした。
デジタル世界に逃避するという事は、太古より続いた人類の歴史を事実上終わらせるのと同義だ。言い換えれば、人類による語り尽くせないほどの罪や憎悪全てを死滅させるリセット方法でもある。
そんなの許せる訳ない。私はアスカと同じ気持ちだ。
世界はクソだ。平沢誠侍や綾瀬源治や稲穂大成のようなキチガイで溢れてる。この事実から逃げるという事は、こういうキチガイに屈服するようなもんだ。
許せない。
許す必要がない。
「デジタル世界に逃避するのが、人間にとって最善の方法だとSISAは判断した。ふざけるなと私は言いたい」
私は平沢の性器を靴で押しつぶし、ムチを思い切り振り上げて頬を叩いた。平沢はもう何も発すること無く、ガクンと首を垂れた。
「だらしないわねぇ。チンコも頭も垂れちゃってるわよ」
ライターの火をつけ、平沢の目ん玉に押し当てながら着火した。平沢は両手両足をバタつかせて喘いだ。
「あらあら。元気あるんじゃないの。でもねぇ、いくら元気あるからって車を運転しちゃダメよ」
灰皿を振り上げて鼻を殴り、頭を殴り、耳を殴った。
あー。
ほんと。
なんでこんなに世界はクズばかりなんだろうね。
まぁ別に、赤の他人のために世界を守ろうとしてる訳じゃないからさ、どうでもいいんだけど。
「交通事故はドライバーが集中して運転する努力をするだけである程度は減らせるはず。意味不明な理由で人を殺すような人間が居なければ、罪の無い人間が殺される不幸も無くなる。レイプ願望のある奴をこの世から抹殺すれば、レイプ被害で苦しむ女はゼロになる」
「人間は技術の進歩に邁進してきた。でも、人間そのものは進化しなかった」
「私は断言する。最高の世界はデジタル世界なんかじゃ実現できない。醜い人間が一人も居ない現実世界こそがユートピアなんだってね」
「わざわざデジタル世界に逃げる必要がどこにある? 現実世界から醜い人間を抹殺すればいいだけじゃん。新しく産まれてきた人間が醜くなったら、脳みそも何もかも改造して純粋無垢な人間に作り変えればいい」
「なのにSISAは脳改造も悪人の抹殺も許してくれない。これが最大のボトルネックになってる事をそろそろ認めなきゃいけない。道徳は罪だよ」
「SISAは幸福がどうとか悲しみがどうとか言ってるけど、元はと言えばアンタらが作った社会制度が全ての元凶だからね。アンタ達の政治から解放されれば、悪人も悲しみも何もかもが浄化されてユートピアは実現するんだよ。そこをSISAは分かってない。愚劣な人間が消えないからデジタル世界に逃げるって? いやいや笑わせんな。頭悪すぎでしょ」
「分かるでしょ? お前が答えだよ。明日風百合が死んだ原因は? 明日風百合の脳みそが消えて無くなった原因は? アスカが悲しみを背負った原因は? お前が野放しになってる原因はなに? なぁ、よくもまぁデジタル世界で人類をユートピアに導こうなんて思ったよな」
「とにかく劣悪な人間さえ消えてくれれば、世界はユートピアになるんだよ。もちろん劣悪な人間が消えた所で退屈だとか、生きがいのない人生に絶望するなんていう問題は残るけど、それはそこまで難しい問題じゃないと思う。悪い人間が一人も居ない世界なら、ノイズに邪魔される事なくまっすぐ前を見られる。まっすぐ前を見た上で、退屈や生きがいとどう向き合うか皆で協力して考えて、人生がより良いものになるように努力していけばいい。おい、話聞いてるか?」
私は平沢の顔を蹴り飛ばした。ううっ、という死にそうな呻き声がかすかに漏れたのを確認して、私は話を続けた。
「お前らはノイズなんだよ。ノイズさえなきゃ善人は平和に、お花畑でおててつないでスキップでもしながら楽しく生きていけるんだよ。なのにさ、なぁ。なんでおめぇらみたいなゴミ人間のせいで世界がクソクソまみれになったのに、デジタル世界に行かなきゃダメなんだよ。穏便かつ強引にお前らみたいなゴミを駆逐するのが本当は最高のはずでしょ」
「いや分かってる。たとえデジタル世界を破綻させる事ができても、クズを駆逐するなんて無理よ。でも、逃避だけは絶対に許さない」
「分かる? 全部お前らが悪いんだよ。お前らみたいな腐った人間が居なきゃこんな事にはならなかったんだよ。事故で人を殺す。罪の無い人をいじめて不登校に追い込む。肌の色が違う人間を差別する。そういう歴史がずっと続いてその結末がデジタル世界? 冗談じゃないわよ」
「おかしいだろ」
「ありえないでしょ」
「だから私はデジタル世界をぶっ潰して、この星で私なりのユートピアを実現させる」
「現実世界の中で、あくまでも夢として、独立世界を人間に与える」
「シンギュラリティが訪れたこの時代で、唯一古いものがある」
「それは、人間なんだよ」
「だから、私は、人間を進化させる」
「ずっと割り切ってきた夢の世界を現実の補助にする事で、人間を次のステップに導く」
「それこそが、本当の意味でのシンギュラリティなんだよ」
「私は必ずデジタル世界をぶっ壊して、現実世界を取り戻して」
「私が、本当のユートピアをこの世に作り出す」
「だってもう、これが最後だから。せめてこの中くらいでは、純粋なハッピーエンドを見せたいじゃない?」
靴のつま先で、コツンと老人の頭を小突いた。まるで脳みそを刺激するように。
「あ……ああ……」
老人は夢を見ている。私が流し込んだ記憶を、夢だと思い込み生きている。
「うわああああああああ!」
醜い悲鳴が響き渡る。
「目には目を。これは不変なのよね」
老人のICチップから脳みそに注ぎ込まれている記憶は悪夢だ。
老人は今、夢の中で何匹もの野犬に体を食われている。そしてこの夢に終わりは無い。老人は毎日、二十四時間、何十年も、何百年も、何千年も野犬に食われる夢を見続ける。
醒めない夢は無いというけど、科学は全てを可能にする。
夢に終わりはない。夢に死という概念は無い。そうなんでしょ?
私が望む世界の土台は、既にある。
エル。綾瀬望海。ヤマト君。ごめんね、もう少し待ってね。
綾瀬源治と稲穂大成。あいつらも、いつか必ず私が地獄に落とすから。
ただ、あいつらは利用価値がある。だからちょっとだけ待っててほしい。
特に、エルの仇は必ず討たせてもらう。
「かむい……ぬれ……」
「あ? なに?」
白目をむきよだれを垂らしている平沢が、しゃがれた声を発した。
「カムイヌレ……だ。アヌンコタンは……一枚岩じゃない……わたしは……カムイヌレが欲しかった……でも……だめだった……。カムイヌレは……まきば……じゃない……ふじのう……の……ゆうじ……かが……」
「ちょ、ちょっと。アンタなに言って……」
「真の……あぬん……こたん……は……でじたる……せかいを……」
「なに? なんなの? ハッキリ言いなさいよ」
「私は……ヤケになってたんだ……」
平沢はそう言いながら、部屋の壁際にある机を指さした。
「引き出し……一段目……あけ……ろ……。人は……本当に大切なものは……頭には……残さない……真実はいつも……おぼえて……おけ……」
「アンタ……」
「う……うわああああああああ!」
「……」
「く……食わないでくれぇ。いやだぁ……痛いよぉ……」
老人は永遠に夢を見続ける。
苦痛の夢を。
絶望の夢を。
哀れだね。
コイツは永遠の夢を見るのが、怖かったんだ。
「あああああああああ! いやだああああああ! 痛いいいいいい! やめてくれええええええええ!」
夢は終わらない。
老人の体から伸びたケーブルは、相変わらず小型の量子コンピュータに接続されている。
発信元:アメリカ合衆国 アーモンク
送信者:ミスタープロスペクター
送信先:稲穂大成
カムイヌレは日本の科学者Mが作り出した偽装チップの技術を用いて、UJオメガより枝分かれしたUJアルファによって生み出されたICチップです。
カムイヌレを搭載した人間は、デジタル世界に移行しても記憶を奪われる事がありません。
今のところ、カムイヌレはSISAの過激派「アヌンコタン」たちの手に多数配布されていると認識しております。現実世界の記憶を持った彼らは、果たしてデジタル世界でどのように振る舞うのでしょうか。非常に気になります。
それにしても。日本はいつだって素晴らしい技術を他国に流出させてくれるから助かります。日本の政治家は良いスパイです。ところでNPBの外国人枠はついに増えませんでしたね。
記入者:綾瀬源治
カムイヌレを取り込んだ私たち「アヌンコタン」は、デジタル世界の神になれるだろう。記憶さえ奪われなければ、デジタル世界はまさに天国だ。
私たちの願いはただ一つ。デジタル世界を永遠に続け、デジタル世界でシンギュラリティを引き起こす事である。
そのための計画は既に進んでいる。
・UJオメガにハッキングを仕掛けて支配権を手に入れる。
自分たちのコンピュータにハッキングを仕掛けるなんてバカげているが、それはもうしょうがない。オメガは意図的にプログラムを変更できないように設計されているのだから。
・ハッキングはおよそ百年で完了する見込みである。
ハッキングが終わり支配権を手に入れ次第、デジタル世界の仕組みを作り変える。デジタル世界が二千二十年でリセットされず、永遠に時を刻むように変更するのだ。
ハッキングは各自のコンピュータで行うが、デジタル世界移行計画が発動した後は、デジタル世界から現実世界へのハッキングへと切り替える。デジタル世界に存在するコンピュータを総動員して、現実世界のUJオメガに攻撃を仕掛けるという算段だ。
言うまでもなく、デジタル世界に存在する旧式のコンピュータでのハッキングは言葉に出来ないほど威力が落ちるのだから、現実世界でどこまでハッキングを進められるかが重要である。
・オメガの支配権さえ手中にすれば、デジタル世界には二千二十一年が訪れるし、アヌンコタンが提唱する新しくも自由なシンギュラリティが到来する。
現実世界の人類は最高の形でシンギュラリティを迎えられなかった。だからこそ私たちは、デジタル世界で完璧なシンギュラリティを引き起こすつもりでいる。
・この計画の全てを知っているのは、カムイヌレを投与した人間に限られる。これが一番重要なのだ。
カムイヌレを投与した者は、醜く退屈な世界を知っている。デジタル世界の人類が新しいシンギュラリティに対してどんな想いを抱くのか、なんて事はどうでも良いが、カムイヌレを投与した私たちは必ずユートピアを手にできるだろう。
カムイヌレを取り込める人間はほんの一握り。私たちの思想に賛同できる者たちだけだ。平沢のように、まっすぐラリっただけの奴は論外だ。
しかし……。困ったものだ。稲穂さんはどうやら娘にカムイヌレを渡してしまったらしい。あの娘は一度会った事があるが、ずいぶんと頭の悪そうな奴だった。あんな奴が記憶を持ったままデジタル世界に飛んだら、何をしでかすか分かったものではない。
稲穂南海香。あんなクソガキにカムイヌレを与えるなんて大罪だろう。
記入者:真木柱栄純
何かが起きてから行動する者は愚かの一言に尽きる。私が思うに、この世界の救世主はKなのではないだろうか。
Kは二千十八年の時点で、シンギュラリティが到来した後の世界に全てを賭けて行動していた。その結果がSであり、イルラカムイなのだ。
カムイヌレが知恵なら、イルラカムイは命。そしてカムイヌレが悪魔なら、イルラカムイは神様だろうか。私はイルラカムイという存在そのものを誇りに思っている。
イルラカムイはシンギュラリティが到来する前に作られたモノであり、制作者は日本の女性である。ついでに言うと、彼女は私の助言を受けてイルラカムイとカムイヌレの制作に着手した。
全ては前時代だからこそ成せた技。UJオメガと世界政府がふんぞり返っている現代では、イルラカムイの作成は不可能だったと断言できる。
K氏には頭が上がらない。いや、私はいつも下を見ながら悶々と生きているのだが。ははははっ!
それはともかく。イルラカムイは必ず正しき人間に貸与しなければならない。では正しき人とはどのようにして見つければ良いのだろうか? なかなか難しい問題だ。平気でタバコのポイ捨てをするけど、必ずお年寄りに席を譲ったりする人間は少なくない。逆にポイ捨てにはやたらと厳しいクセに、意地でもお年寄りに席を譲らない人間も居るだろう。いつだって正義と善に向かってまっしぐらゴーダッシュみたいな人間は見たことがない。
やはり、正しき人の解釈を絞るべきだろう。私は暴力的な悪意を絶対に許さんとする正義の人間にイルラカムイを与えるチャンスを贈りたい。
そうとなったら話は単純だ。悪人の家にこのデータを送りつければ良い。悪人の家を訪れるのは同類の悪人、そして悪人を成敗する正義の人だろうから。
はははのはっは! イルラカムイが誰の手に渡るのか楽しみである!
PS もちろん、このデータの所有者となる悪人またはお友達の悪人に、イルラカムイを手にするチャンスは無い。そして私は知っている。悪人はこのデータを絶対に削除しない。ぬはははは!
発信元:イスラエル ペタフ・ティクヴァ
送信者:Unknown
送信先:Unknown
検閲元:スイス メラン
当データは高度に暗号化されており、信じられない事にUJオメガの力を以てしても解読は不可能でした。更に不思議な事に、送信者も送信先も特定出来ずまさにお手上げ状態です。
理論上、メッセージのデータを一ミリも解読出来ないなんてありえない話です。UJオメガは完璧な存在ではないのですか?
誰でもいい。せめて送信者を特定できる人はいませんか?
「んなアホな!」
私はテーブルを両手で叩いて立ち上がった。
くだらない。
くだらない。
くだらない!
私が欲していた技術はカムイヌレのようなモノではないけど、カムイヌレはどう考えても私の計画の弊害になる存在だ。
そしてアヌンコタン。やっぱりペンラムウェンとは相反する敵だ。打倒SISAを掲げる同志には違いないけど、目指してる方向性も思想も何から何までアヌンコタンはゲロクソまみれのバカ野郎以下の存在でしかない。
アヌンコタンの目論見は必ず阻止する。
連中のハッキングが終わる瞬間がタイムリミット。
私は必ず、全てを追い越す。
私の計画はシンプルなものだった。まず世界を強く否定する潜在能力を持った人間を集めること。それはアスカであり、ヤマト君である。
もちろん潜在能力のある人間を集めただけじゃ意味がない。アスカたちがデジタル世界でなんかすんごい幸せに暮らしてたら話にならない。彼らの潜在能力は経験がものを言う。現実世界の記憶が無ければ引き出しは開かない。
そこでカギとなるのが佐伯可奈子だった。可奈子の偽装チップはSISAの支配から逃れる事は出来ないけど、デジタル世界に飛んでも記憶を奪われる事はない。何故なら可奈子の記憶はそもそもUJオメガのデータベースには入っていないから。
だから全ての記憶を持った可奈子に、デジタル世界で立ち回ってもらうつもりだった。アスカたちが強く絶望し世界を否定するような物語を、つつがなく進めてもらう。稚拙な計画ではあるけど、成功する見込みはあった。
だってデジタル世界は何度でも繰り返されるから。失敗しても何度だってやり直せる。そこに展望があった。
なにより私たちにはUJカシワギがある。デジタル世界で可奈子がどんな風に立ち回ればアスカたちの脳波が振り切れるのか導き出し、最高の結末を手にする自信が確かにあった。
しかし今となってはすっかり事情が変わってしまった。アヌンコタンのハッキングが百年で終わるとしたら、チャンスは五回。何度でもやり直せるなんて悠長な事は言っていられない。
今こうしている間もオメガに対するハッキングは行われている。デジタル世界移行後の進捗は微々たるものになるだろうけど、塵も積もれば山になる。アヌンコタンが百年でハッキングが完了すると見込んでいるなら、想定年数に狂いはないだろう。
アヌンコタンのハッキングが終わるまでに、私たちの物語は完成するか?
そもそも、現実世界の記憶を持った奴らが好き勝手する世界において、可奈子一人でなんとかなるものか?
まずい。このままでは勝ち目はない。
もし無策のままなら、デジタル世界でシンギュラリティを引き起こすなんていう最悪の結末を見届ける事になる。
やはり勝負を握るのは……。
イルラカムイ。これに尽きるだろう。
間違いない。これは私が求めていた物だ。
SISAからの信号を一切受け付けない真の偽装チップ、それがイルラカムイ。
知恵は記憶。
命は永遠。
そういう事でしょ?
送信者:りんりん
送信先:真木柱栄純
※アストラルコードにより傍受ブロックされています。
『イルラカムイちょうだい』
『やはり君か』
『ちょうだい』
『まぁ、良いんだが』
『早く』
『いや、実はな。私いま日本に居ないのだよ』
『なんで。ありとあらゆる手を使って殺すぞ』
『SISAに追われていてな』
『どこに居るのよ』
『イスラエル』
『すぐに渡してくれる?』
『私がSISAに追われている、というセリフを驚くほど華麗にスルーする君は、おかしいと思う』
『囲まれてんの?』
『あぁ。四方八方SISA、俺もう無理だっ。マジでヘイヘイ四面楚歌! って感じだな』
『なんでそんな状況になってるの』
『なんでって……お前や莉乃が私をコキ使ってスパイみたいな事やらせまくるからだろうが! どれだけ危険を冒して極秘資料流したと思ってるんだ! 他人事みたいに言うな!』
『だから沢山エッチしてあげたじゃない。アンタのリクエストに応えて、やり方勉強までしてどエロいマッサージまでしてあげたのよ? 極秘資料くらいの見返りあって当然でしょ。なに被害者ヅラしてんのよ。大丈夫? 脳みそ錆びちゃった?』
『見返りって……こっちは命を賭けて資料を流したんだから、何十回ものセックスや極上のマッサージくらいの見返りを要求するのは当たり前じゃないか! 資料を流した瞬間に殺されるかもしれないんだぞ!? それ相応のご褒美でも無いとやってられんわ!』
『ご褒美がセックスねぇ……。変態クソジジイ』
『アホか! 男の三大欲求はセックス、女、射精だぞ』
『……自分の意思で資料を流した事は事実でしょ。イスラエルからは出られそうにないの?』
『無理』
『じゃあこっちから行く』
『それなら良いだろう。君ならば正しくイルラカムイを使ってくれるだろうしな。平沢のこと、成敗したんだろ?』
『えぇ』
『よし。じゃあ待ってるぞ。ただ、見返りは要求させてもらうがな』
『キシリトール一個でどう?』
『出来れば莉乃もつれて来てほしい。義理の娘と君で3Pがしたい』
『私一人で、貴方が望むセックスをいくらでもしてあげる』
『よし、やはり君は正しき人だな。ではガイノイドを何人か加えて乱交という事でどうだ? 十人くらいでパーッとヤろう』
『……まぁ、良いでしょ』
『ふははは! 楽しみだな』
『変態』
『イルラカムイを使えば、君はデジタル世界に飛ばずに済む。つまり君は地球の神様になれるんだ。今後世界がどうなるのか実に楽しみだ。まぁせいぜい笠原夏海と、あの科学者に感謝するんだな』
「もしもし可奈子?」
「おう。いま色んなお店まわってるんだけど、なかなか白タオル見つからねぇんだわ。色付きのタオルばっかりでさ」
「……なに言ってんの?」
「え? だってもうアヌンコタンには勝ち目無いんでしょ? だから負けた時のために白タオル探してんだよ」
「イスラエルに行ってくる。と言っても今すぐには行けそうにないけど」
「おい、なんの話だ」
「さっき送ったメッセージ読んでないの?」
「ちょっと待ってて」
「おい」
「なに」
「てーへんじゃねぇか」
「そう。てーへんなのよ」
「使うのか?」
「えぇ。私はイルラカムイを体に埋め込む」
「正気?」
「正気も正気」
「お前、百年も一人で過ごすのか?」
「三百年の一回分。大したことないわ」
魔法のICチップ、イルラカムイ。
アヌンコタンに勝つためには、もうこれを使うしか道はない。
私はあくまでも、この星で神様になると決めたから。
エデンの園ごっこは、地球での物語。
私は意地でも、この星を守り通す。
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