第四話 灯火が消えた日

EP28 本当は幸せだった日々の記憶

・大和谷駆


 二千六十一年、ある夏の日。俺は食料と飲み物をたっぷり詰め込んだカゴを両手に持ち、小樽運河を横目に見ながら洞窟目指して歩いていた。今日は望海が大好きなメロンと、エルが愛してやまない大きくて美味しいリンゴをもらえて満足だ。

 昔とさして変わらない風景が広がる小樽の街はイカれた暑さでうんざりするが、俺はそんな事で腹を立てたりしない。なぜならこの世界は幸せという事になっているからだ。毎日暑くて辛いか? 不幸か? 死にてぇか? だったらお前の行き先は精神病院だ。幸せになれるおまじないをかけてやる。そんな事になったら非常に困る。だから俺は腹を立てない。ぼくはみんなのいうとーり幸せです。あぁ俺はなんて善良な国民なのだろうか。いつかゴジラになって、東京の中心で下痢をしてみたい。

「ちょっと君」

 後ろから呼びかけられて振り返ると、そこには見覚えのある女が立っていた。右手には水のペットボトルが握られている。

「これ落としたよ」

 女は笑顔でペットボトルを差し出してきた。ぺこりと頭を下げて礼を言う。

「ありがとうございます」

 俺は手を差し伸ばそうとしたが、両手が塞がっているので苦戦してしまう。女はクスっと笑い、ペットボトルをカゴの中に入れてくれた。

「あ、どうも。すみません」

「なんで君、自動配達してもらってないの」

「認可された家を持ってないので」

「どうして? 家なんかタダ同然で手に入るじゃん」

「不老不死になりたいんです」

「日本に産まれたのが運の尽きだねぇ」

「そうですね。ところで、俺は何度かこの辺で貴方を見かけた事がある。気のせいだったら申し訳ないが、貴方が遠くから俺のことをじっと見つめている事も何度かあったと思う」

 女は顔色一つ変えずに、けろりとした様子で答えた。

「気のせいじゃないかな」

「本当に俺の気のせいだとしたら、貴方は気を悪くしたようになって、そんな訳ないだろお前は自意識過剰だ気持ち悪い、とか言って俺を罵ってるはずだ。少なくとも、あっさり気のせいだと即答するのはありえない」

「君、よく喋る人だね」

「現実でこんなセリフを言う日が来るとは思ってなかったが、言わせてもらう。お前は何者だ」

「豊浦葉月」

「何者だ」

「あ、私忙しいからもう行くね。ばいばーい」

 女は逃げるように去っていった。ぐったりした気持ちになり、また歩み始める。どう考えても怪しいが、考えてもしょうがない事は考えないようにしている。あいつが何者だろうが、ひどい事にはならないだろう。この時代じゃ人に迷惑をかけたりする奴は滅多にいない。特に、あいつのように恵まれてそうな可愛い女なら尚更だ。

 とにかく今は洞窟目指して歩くだけ。洞窟という名のマイホームに。


俺と綾瀬望海、そしてエルヴィラ・ローゼンフェルドはいわゆるヒッピーと呼ばれる生活をしていた。あろう事かこの時代にヒッピーなんてありえない話ではあるが、この時代だからこそでもある。

 この世界には確かにシンギュラリティが訪れた。人工知能は自分よりも更に優秀な人工知能を作り出す。それが繰り返されて、人間には到底実現不可能なありとあらゆる技術を生み出していく。もはや人工知能は神様とも呼べる存在だった。

 ところで人工知能は人間が作ったものだから「人工」知能と言うんだろうが、人工知能が作った人工知能は人工知能と呼んで良いのだろうか? 知能知能と呼んだ方が意味的には正しいと思うんだが、こんなバカな事を考える人間は確かに人工知能と比べればとてつもない役立たずだろう。

 そもそも人工知能を神様と呼ぶにしても神様ってなんだって話にもなるが、大雑把に言えば人智を超えた存在、人間には到底及ばない力を持っているのが神様だと俺は思っている。であるならば人間の理解を超えた人工知能はまさに神様と呼ぶべきなんだろうが、まぁそうはならないのがこの時代の常識だ。

 何故ならこの世に宗教や神様という概念は存在しないから。それに尽きる。

 その昔、人は「死後の世界があるか無いか」について議論していたらしいが、論理的な解釈を導き出す事は誰も出来なかった。幽霊がいるかいないか、現実的な論理で説明できなかった。宇宙の果てにイカっぽいエイリアンが居るのか居ないのか、答えなんて出せる訳が無かった。

 しかし、人工知能はそれすらも論理的に解釈して答えを出してしまった。神様は幻だと断言されてしまった。そんな世界における人間の依代は神様から人工知能に変わっていた。地球で最強の人間が唯一頭を下げる対象が、神様から人工知能に変わったのだ。

 そして非産業用ロボット、簡単な表現をするならお世話ロボットが労働、家事、育児その他諸々全てを担ってくれるから、人間は役目という役目全てから解放され、何もしなくても生きていける時代になった。今この時代、人間における最大の役目は幸福と快楽の探求である。これまでの人類は勉学や仕事に人生の大半を注いできたが、今の人類にとっての仕事が幸福と快楽の探求であると言っても過言ではない。

 もちろんそういう意味では昔の人間も今の人間も根本的には何も変わらない存在だろう。昔の人間も今の人間も豊かで楽しい人生を追い求めて生活している。ただ幸福や快楽の獲得に努力が必要なのか、そうでないかの違いがあるだけだ。

 今この時代の人間は働きもせず勉強もせず、何もしなくても良い退屈な世界で少しでも幸せだと感じられる生き方を探している。

 それが二千六十一年という時代だ。地球上の王者だった人間は人工知能の配下に成り下がり、お世話ロボットが全てのお世話をしてくれる。人間は犬のようにエサを与えられ、人工知能という主の下で空を見上げているだけで良い。青空を見ているだけで興奮して幸せな気持ちになって射精出来るならそれでも良い。幸福の形は人それぞれだ。ところで空を見るだけで射精できる人間は果たして世の中にどれくらい居るのだろうか?

それはともかく、社会の仕組みがどうあれ形式的には今でも人類が地球の王者として君臨しているのが事実だった。正しく言えば、そういう事になっている。形骸化された概念みたいなものだが。

誰だって人間が人工知能に飼われている家畜だという自覚はあるが、そんな事は大した問題ではないし深い意味も無い。人間が無条件にいつまでも地球の王者なのだ。意味不明な理屈だがそれは正しい。

 王者は王者でも家畜である事実は確かにあるが、そこに不幸を見出してはいけない。見出したが最後、全てが逆戻りになる。

 あくまでも人間は地球の王者であり、この世界はユートピアである。そしてユートピアは人間のみに舞い降りた奇跡である。SISAはそう宣言した。

 SISA。有り体に言えば世界政府。人工知能と量子コンピュータに統治を任せ、まるでテクノロジーの駒のように人間社会を管理する組織。奴らはこの世界がユートピアだと決めた。だから俺が生きるこの星は幸福なのだ。飼い主が手を出せばお手をする。あぁ、俺たち人間は犬なのか。

「……まぁ、犬だな」

 両手に抱えた籠の中に入っている新鮮な果物に目を落とし、独りごちた。

 SISAはシンギュラリティが訪れる前の時代は国防組織だった。でも今じゃ国防もクソも無く、ただ黙々とテクノロジーの判断通り人間の幸福を守るため社会を動かしているお役所に過ぎない。

 植物工場で生産した食べ物を無限に配給する。ほとんど無償で住居を手配する。などなど。世界の全てはSISAが牛耳っている。そう聞くとSISAが絶対的支配者のように思えるが、食べ物や住居の管理などはあくまでも人工知能や量子コンピュータが担っている。SISAの職員が何かを考えて決定したり、新しい法律を作ったりする事はまずありえない。何か新しい法律を作るとしたら、必ず人工知能に判断を仰ぐ。人間は人工知能の下で働くロボットみたいなものだ。にも関わらず奴らはこの世界の定義を決めやがる。ふざけた話だ。

 とは言え俺はそんなふざけた奴らに飯をもらっているのが現状なのだ。何かが違う。何かがおかしい。だから多分、俺はヒッピーなのだろう。

 ちなみに認可された住居を持っていれば定期的に物資を届けてくれるが、俺はそうもいかない。何故なら……。

「あ、洞窟の兄ちゃん」

 そう。俺は小樽の洞窟で暮らしているのだが、もちろん洞窟が住居として認可されるはずはない。

「おう。またお前か」

「またってなんだよ」

 近所に住んでいるガキが走り寄ってきた。八歳くらいの男子で、何故かいつも俺を見つけるたびに声をかけてくるのだ。今日はジメジメした曇り空だというのに、やたらと晴れ晴れしい笑顔を浮かべている。

「また食いもんもらってきたのか」

「あぁ」

「新しいドローンは?」

「明日もらえる予定だ」

 認可されていない住居に住んでるから、食料などの自動配達はしてもらえない。だから俺はドローンを飛ばして食料を回収していたのだが、この前ドローンが盗まれてしまったのだ。故に俺は徒歩で必要な物を取りに行っている。

「そこら中に溢れてるドローンを盗むなんてな。犯人の顔を是非拝んでみたいぜ」

「洞窟なんかで暮らしてるから盗まれるんだよ。なぁ、どうせ家なんか空きだらけなんだしさっさと家もらえよ。わざわざ洞窟に住むなんて頭おかしいぜ」

「まぁそうだけど」

 日本は二千十年代から空き家が目立つようになり、二千三十年代には空き家問題が深刻化するようになったがそれは当たり前の流れだった。

日本は人口がどんどん減っているのに、アホみたいに家を作りまくっていた。需要なんてほとんど見込めないのに東京、札幌、大阪、横浜など大都市の中心部にタワーマンションを乱立させた。移民を受け入れる制度は出来たけど日本人の外国人アレルギーは治らず外国人も増えなかった。空き家問題が深刻化するのは当然だった。

二千五十年ごろにはタワマンどころか、無難な家賃のありふれた賃貸マンションですら軒並みすっからかんになって今に至る。唯一ハリボテ都市を免れたのは名古屋くらいだろうか。

 そんなこんなで、とにかく家が余りまくっているから住居なんて昔に比べれば遥かに簡単に手に入るのだ。資金も大して必要ない。故に、俺は頭がおかしいと言われても文句は言えない。

「なぁ、マジで家に住まないの?」

「洞窟をバカにすんな。洞窟だって立派な家だ」

「いつも洞窟にいて暇じゃないのか」

「立派な家に住めば毎日が面白くなるのか?」

「お前ヤな奴だなぁ」

「で、そういうお前は毎日楽しく暮らしてるのか?」

「楽しいぜ。毎日ゲームしてる」

「毎日起きてから寝るまで延々とゲームしてるのか。暇にならないか? お前だって洞窟暮らしの俺と同じくらい退屈してるんじゃないのか?」

「分からない」

「自分が暇なのか、暇じゃないのかも分からないのか」

「うーん……。ちょっとなに言ってるか分からない」

「お前は何も分からないのか」

「あぁ。分かんねぇ!」

「無知は罪だぞ」

「考えるのは人間の仕事じゃない。俺が暇なのか暇じゃないのか、今度ウチのお世話ロボットに聞いてみる」

「世も末だぜ」

「ヨモスエってなんだ。木の名前か」

「一周まわってお前みたいな奴は好感持てるぞ」

「おう。ありがとう」

「お前、不老不死なんだっけ」

「そうだよ。母ちゃんが薬買ってくれたんだ」

「お前はあと何百年も何千年も、毎日ゲームをする生活を送るのか」

「最高じゃん」

「今はそう思うだろうな。でも、あと十年もすれば……。いや、なんでもない」

「なんだよ。俺だってゲームばっかりしてる訳じゃないぞ。この前は北広島の方で釣りしてきたんだ。あ、ていうか兄ちゃんの辛気臭い目って死んだニジマスの目に似てるぜ」

「今度俺を塩焼きにしてみるか?」

「でもまぁゲームの方が楽しいなとは思ったけどな。だって前は運良く釣れたから良かったけど、もし釣れなかったらただアホみたいに川に糸垂らしてるだけになるんだぜ。ただのやべぇ奴だ」

「お前みたいな一方的に喋りたいことを喋る男はモテないぞ」

「なぁ、今度俺ん家来いよ。面白いゲームやらせてやるよ。ウチのガイノイドがマジでおもしれぇゲーム作ってくれたんだ」

 さぞ優秀な人工知能を積んだガイノイドなんだろうな。

「ゲームかぁ」

「ゲーム嫌いなのか?」

「昔はゲームやってたんだが、飽きちまってな。しばらくやってないな」

「それはゲームに飽きたんじゃなくて、ゲームをする自分に飽きただけだよ。だから面白いゲームやればまたやる気になるって。なぁ、今度遊びに来いって。面白いゲームでもやって気分転換すればその泥沼みたいな目も少しは輝くと思うぜ。だから俺ん家来いよ!」

「そうだな。今度遊びに行かせてもらうよ」

「よし決まり! 約束だぞ!」

「あぁ」

「ちゃんと約束守るか?」

「約束を破られる事は良くあるが、約束を破る事はあまり無い」

「そうか。あ、ていうか兄ちゃんの洞窟のパスコード教えてくれよ。俺が暇な時呼びに行くからよ」

 と言って、少年は俺に向かって右腕をかざした。俺はその腕に向かって洞窟のパスコードを発する。

 この世界の人間には必ず腕にICチップが埋め込まれており、全ての個人情報が集約されている。前時代で使われていたスマホが超マイクロサイズになって体に搭載されているようなものだ。もちろん今のように他人が発した言葉を正確に録音しデータベースに登録するなんて事も朝飯前である。

 間違いなく便利な代物だが、ICチップのデータは量子コンピュータUJオメガを筆頭とするコンピュータ群を介し、SISAに管理閲覧されている。お世辞にも大変素晴らしい技術だと褒める事は出来ない。きっとSISA職員の大半はストーカー症候群の奴らで構成されているのだろう。

「よしっ。登録したぜ」

「登録されたぜ」

 次は少年が自分のIDを発し、俺のICチップに登録した。俺のICチップにIDが登録されている者に限り、洞窟の扉に設定されているパスコード認証、顔認証、指紋認証をクリアする事でインターホンを鳴らせるという仕組みだ。それ以外の奴らは、インターホンを鳴らす事すら許されない。

「なぁ。いつでも洞窟に行って良いのか?」

「良いよ。ダメだったらパスコードなんか教えねぇし。もちろん、いつでも応答出来るとは限らないが」

「分かった! それじゃ暇な時に迎えに行くぜ。じゃあまたな!」

「あぁ。またな」

 と言って、少年はどこかへ走り出して行った。

 相も変わらず元気で感じの良い奴だが、あいつは不老不死の力を得た超人なんだ。それを思うと不思議な気持ちになる。それにしても八歳で不老不死とは……。

「親は相当な権力者か……」

 小さな呟きを漏らし、また歩き始めた。外国はともかく、日本のような後進国ではSISAの職員も不老不死者も権力者と相場が決まっている。とりあえずあいつのあだ名はアムリタにしておこう。

 やるせない気持ちになり、自然と歩くスピードが落ちていく。労働や勉学の必要が無い世界は常にどんよりした雨模様のような空気が漂っている。いや、漂っているように俺には見える。

 この世界では何もやる事がなく、頑張る必要が無く、産まれた瞬間から「死ぬまでただ遊ぶだけ」という至上命題が課されてしまう。だが三百六十五日毎日遊び続けるというのは思った以上に難しい。確かに毎日楽ではあるけど時間も心も体も持て余しているのが現状だった。俺にとって喜びも悲しみも何もない空っぽの人生は絶望でしかなかった。

 要するに俺は暇人なのだ。しかもただでさえ退屈だっていうのに、この世界には刺激ってもんが無いから余計に心がどんよりしてしまう。センセーショナルな事件なんて起きねぇし、もうほんと良い事も悪い事も起きない。つまらん。本当につまらん。なんでこの世界には学校制度が無いんだ? 俺はまだ十七歳。学校さえあれば、こんな退屈な日々を過ごさなくても良かったのに。

「いらっしゃいませー!」

 ふと女の甲高い声が聞こえてきて振り返ると、小さな店の前に何故かアサルトライフルをかついだ少女が立っていて、その少女を大勢の人だかりが取り囲んでいた。人だかりの大多数は男だ。いやもしかしたら全員男か?

「あれは……」

 そういえばつい最近、小樽運河近くに店員が人間の女性だけの喫茶店が出来たと聞いた覚えがある。それがこの店か。

「……」

 喫茶店の前に立っているアサルトライフルの女の子は確かに本物の人間だった。ガイノイドなんかではないとハッキリ分かる。ガイノイドはガイノイドと分かる見た目に作られているからだ。

「人間か……」

 この世界ではどんな店もセルフあるいはロボットや人造人間が店員の役目を果たしていて、人間が店舗で仕事しているケースはまず見られない。

 しかし最近は可愛い人間の女の子が店員となって客をもてなすタイプの店が流行り始めている。あの店もその流行りに便乗して出来たんだろう。ロボットではなく人間がわざわざコーヒーや軽食を運んでくれる。確かに斬新で流行るのも頷ける。それが可愛い女の子が店員なら尚更だ。

「夏希ちゃーん!」

 男たちはひたすらに女の子の名前を呼び、誰もが今にも鼻から精子を垂れ流しそうな顔をしている。無様だ。

「なんだかなぁ……」

 人間が店員の役目を担うのは昔じゃ当たり前だった。しかしこの時代の人間はそんな当たり前を目の前にして大騒ぎしている。いくら人間に接客をされた経験が無いとは言え哀れな世界である。

 この時代はガイノイド、つまり女型の人造人間と会話した事はあるけど人間の女の子と会話した経験が全くない男が大勢いる。そういう奴らにとって可愛い人間の店員がいる店なんてまさに天国なんだろう。愚かだ。明らかにこの世界の質は低下している。

「押さないでくださーい! 一人ずつ順番守ってゆっくりお店の中に入ってくださーい。入りきれなかった人はここのベンチに座って待っててね~。これは夏希ちゃんとのお約束だよ~。約束破ったら89式小銃で目ん玉ぶち抜くからね~」

 わあああああああ! と野太い大歓声があがる。俺には理解できない世界だ。

「夏希ちゃーん! 脱いでー!」

「握手してー!」

「ケーキは夏希ちゃんの手作りですかー!?」

 この世界は退屈である。

 刺激なんて何もない、虚しい世界である。

 楽しくなんかない。

 みんな、退屈を感じているはずだ。

 あいつらだって……。

「夏希ちゃあああああああん!」

「なんですかああああああ!?」

 さっさと帰ろう。あいつらはただ興奮しているだけで、退屈には変わりないはずだ。

 歩く速度を速める。両手に抱えた果物から良い匂いが漂ってくるが、この匂いは心を暗くするだけだった。あぁいう店で興奮できる人間はほんの一握りだ。あんな店が出来た所で俺は行きたいと思えないし、何も変わらない。何よりあんな奴らと同化したくない。

 俺は間違ってるのだろうか。多分、間違ってる。

 今日も明日も食って寝るだけの毎日が続くのだ。しかしそういう生活は人間に圧倒的な恐怖と不安を与える。劣等感すら覚える。空眺めて飯食ってクソして寝るだけの人生は死んでる事と何が違うんだ? 常日頃そんな事を考えて悶々とするくらいなら、俺も夏希ちゃんのファンになるべきだろう。……しかし。

「くだらねぇ」

 一人で悪態をつく。結局何もかもがくだらなくて不毛なのだ。

俺の人生は死んでる事と何が違うのだろうか。そんな問題で悩んでしまうから人間はどんな世界でも不幸なんだ。犬のように笑えない。人間は賢すぎるが故に、地球でもっとも生きる事に向いていない生き物になってしまったのだ。

 にも関わらず、俺も含めて人類は不老不死を求めてしまう。死ぬのは怖い。死ぬのは嫌だ。人間最大のボトルネック。しかしこのボトルネックを取り外してしまえば、そこに残るのはもはや人間ではない。

「やっぱりくだらねぇな……ん?」

右腕に装着しているリング(旧型のウェアラブル端末だ)からメロディが奏でられ始めた。リング中央に付いているスイッチを押し、腕にホログラムを投影させる。

 さながらpip-boyのように、リアルタイムに自分の体を映し出し体型の変化や健康状態をチェック出来るアプリとか、自分の所持品をゲームのアイテム画面のようにチェック出来るアプリなど色々あるが、正直どれもほとんど使ってない。使うのはゲームや音楽やマップ、そしてバーチャルワールドのアプリばかりだ。

 で、予想通りバーチャル世界の通知アイコンが一つ。アイコンに指を触れると、聞き飽きた女性の声が流れ始めた。

『メルクリウスザンバーが入荷しました』

「おぉ」

 俺は急いで端末に向かって「アリアンロッド起動」と呼びかけ、これまた旧時代のVRメガネ(一般的なメガネより一回り小さくて軽い)をかけた。一瞬で景色が切り替わり、俺が経営する武器屋「ヴェガーナ」が視界に広がった。ショーケースには凶悪そうな武器が設置されている。ずっと欲しかった錬金術師の剣だ。

 カウンターでは俺が雇った「エリン」という名の可愛い店員が店番をしており、「蒼の断章」という本を読んでいる最中だった。待望の武器が入荷されるとすぐに知らせてくれる善き魔女だ。

「どういう経緯で入荷した?」

『先日イストミアのドラゴンを倒したお礼として、森の管理人である恋多き詐欺師さんから頂きました』

「買い手はつきそうなのか?」

『明日風百合、という方から取り置きの連絡が来ました。まだ決めかねているようですが』

「ながったらしい名前の奴だな。取り置きは却下だ。早いもの勝ちって事にしといてくれ」

『サーイエッサーであります』

 俺は武器屋を出て近所の広場へ向かった。風は無く雲一つない晴天で、広場にはいつも見る顔がちらほら暇そうに歩き回っている。そして広場の中央に鎮座している大型モニタでは観たことがない映画を上映している最中だった。迫力満点のアクションシーンが繰り広げられていてなかなか見応えがある。俺はしばらく映像に見入った。

 十分ほど映画に目を奪われていただろうか。ふと目の前をGカップくらいはありそうなビキニアーマー姿の女が通りがかり、つい目を奪われ……。

「あぶねっ」

 思わず派手にすっ転びそうになり、意識が現実世界へと回帰する。なんとか踏ん張って転倒する羽目にはならなかったが、リンゴが一つ落ちてしまった。舌打ちしながらリンゴを広い空を見上げ、愕然とする。

「……曇りか」

 そう。今日は曇りで天気が悪い。決して晴天ではないし、ビキニアーマー姿の女などいない。ついでに言うとメルクリウスザンバーは三十五万ゴールドもする代物だが、架空のお金はリアルマネーに換金はできない。

 バーチャル世界。人工知能に頼めばいくらでもバーチャル上に架空世界を作り出してくれるこの時代、現代人は昔でいうMMORPGみたいな架空世界を必ず所有している。もちろん架空世界に投下する自分の分身は自由に見た目を設定可能だ。

架空世界は一人で楽しむ事も出来るし、オープン状態にすれば赤の他人が自分の世界に入り込む事も可能になる。さっき広場に居た連中やビキニアーマーの女も、明日風百合とかいう奴もふらっと俺の世界に現れた現実世界の人間の分身だ。俺が作り出した架空世界「アリアンロッド」はなかなか人気があるらしく、結構な人数が出入りしている。

 アリアンロッドの世界はしっかりコンテンツも取り込んでいて、広場の大型モニタはランダムで世界中の映画を流すように設定してあるし、街の中心部にある映画館では俺が好きな映画が一日中上映されている。

 空に浮かぶ魔法図書館には無限とも言える量の本があり、街の外に出ればいつだってモンスターとスリル満点の戦闘を繰り広げられる。

 というか、誰の世界であれ妄想は人工知能がすべて実現してくれるから、そもそも不可能なんて存在しないのだが。やろうと思えば誰だって派手な衣装や立派な楽器を無限に作り出し、コロッセオみたいに大きなスタジアムの中心でライブをする事だっていとも簡単に実現可能である。

 そんな感じで、バーチャル世界でならいくらでも魅力的な世界で生活できるし叶えられない夢は無いし、映画というコンテンツだってただ普通に観るだけじゃなくて、魔法の世界にある映画館で映画を観るという体験を付与した上で楽しめる。武器屋経営シミュレーションゲーム的な生活をリアルに体験できるし、広場に行けばGカップのビキニアーマーが歩いている。

 バーチャル世界に不可能という文字はない。だからこそ、歯がゆい気持ちになる。

 こんな自由な世界を作り出せる技術があるなら、本当のユートピアまであと一歩じゃないか。だってそうだろう? バーチャル世界に投下する「自分」を、「自分の分身」ではなく「自分自身」にしてしまえば、誰だって夢を一欠片もこぼさず叶えられる神様になれるのだから。

「……独立世界、実現しねぇかな」

 思わず独りごちる。SISAがバーチャル世界さえ本物にしてくれれば、不老不死どころか神様になれる。でも多分、そんな日は来ないのだろう。SISAは世界を手放す事を許さない。

 俺はリンゴをカゴに入れ、後ろを振り返った。架空世界のGカップのビキニアーマーの女に目を奪われる俺と、現実世界の美少女に熱狂するあの男たち、果たしてどちらが気持ち悪いのだろうか?

 俺は自己嫌悪に包まれ、天気が悪い事に突然苛立ち始めながら再び歩き始めた。

 歩く。歩き続ける。得体の知れないモノに、突然背後から襲われるんじゃないかという恐ろしくも虚しい妄想に怯えながら。


 洞窟の中に入り、中心部めがけてのんびり歩く。ジメジメした性格の俺にはぴったりな住居だが、言わずもがな誰でも安易に家が手に入る時代で洞窟に住むなんてありえない暮らし方だ。俺が洞窟に出入りする瞬間を見た人たちはみんな必ず目を点にする。きっと俺は裏で縄文人というあだ名で呼ばれているに違いないから、そのうち縄文土器づくりを趣味にしようと思っている。

 量子コンピュータ。スーパーコンピュータ、人工太陽、植物工場、不老不死。セクサロイド、アンドロイドにガイノイド。人間の脳みそを完全に模倣した知能を搭載したロボット。他にも諸々。人類が思い描いた未来像がこの世界にはあった。でも俺はそんな世界を否定している。この世界は決してユートピアではないし、認める気もない。

 確かに毎日ゲームをするだけでも生きていける人間や、喫茶店ごときで熱狂できる連中も居る。でも裏を返せばあの子供は毎日ゲームをして過ごす方法しか知らない訳だし、あの男達は普段退屈だからこそ喫茶店ごときであそこまで盛り上がれるとも言える。それじゃダメだろう。足りないんだよ。

 とにかく俺が思うユートピアはこの世界には存在しない。

 その決意の証明という訳でもないが、洞窟ぐらしなんかするほどには世界を否定している。そこに価値は無いけど、意思はある。

 所詮は人間が叶えた夢。シンギュラリティはとても歪な結果を迎えた。結果から言えば、全人類が遥かに洗練された世界で生きていることは事実ではあるが、決して全人類が平等にこの時代の技術全てを享受出来ている訳ではなかった。

 二千十年代から量子コンピュータ、スーパーコンピュータ、そして人工知能の開発競争が世界各国で激化した。あの時代は核ミサイルを持っている国が覇権を握っていたが、近い未来では人工知能やスーパーコンピュータなどの分野で最先端の技術を獲得し、それら技術を独占した国が先進国として生き残れる事は明白で、当時の先進国たちは未来技術を我が物にするべく躍起になっていた。

 それは事実だった。しかしその事実を全ての人間が理解していた訳ではない。

 日本も国全体としては何も理解していなかった。日本は新技術の開発競争に負けた。とっくのとうに韓国、台湾、中国などのアジア諸国にすら様々な技術で劣っていたのに、いつまでも日本はアジアの盟主で技術大国だという過去の栄光を日本人は捨てきれなかった。

 結果、気がついたら全てが手遅れだった。外国が現金レスになり太陽光発電が可能な道路を敷いている最中でも、日本にはファックスでのやり取りをしている企業が沢山あった。アホである。日本は技術競争で遅れを取った事、国民の意識があまりにも低かった事、この二つの要因が重くのしかかり先進国の一員から脱落していた。唐突にではない。いつの間にかだ。ハイテクな自販機を作った所で、それが何になると言うのだ?


 欧米諸国は量子コンピュータやら人工知能やら、未来の技術を独占した国が今後先進国として生き残れると理解していた。その重要性を真剣に捉えていた。

 しかし、日本の政治家は驚くほどにアホだった。ものすごく軽い言い方になってしまうが、事実として本当にアホだった。

 日本政府は人工知能やスーパーコンピュータの開発に対して積極的に投資をしてくれず、挙げ句の果てには技術開発の予算を投資するどころかカットした。要するに政治家が未来技術を軽視していたのだ。

 日本はスパコン研究では世界トップクラスの力を持っていたが、アメリカやEU、中国に遅れを取るようになり、じわじわとTOP500のリスト上位から姿を消していった。カナダのベンチャー企業が世界で始めて商用の量子コンピュータを開発したが、日本では話題にすらならなかった。ちなみにカナダのベンチャーが作った量子コンピュータは量子アニーリング方式を採用しているが、量子アニーリング方式の発案者は日本人である。

日本はロボット大国としても名を馳せていたが、非産業用ロボットの技術はかなり遅れていた。人工知能の分野は相当遅れており、二千十年代の時点で既に人工知能先進国に追いつくのは不可能な状況だった。

 人工知能、スパコン、量子コンピュータ。様々な分野で予算と環境が悲惨な日本ではあったが、優秀な技術者や研究者は沢山いた。しかし、どんなに優秀な人間でも予算も環境も無ければ何も出来ない。

 だから日本の優秀な人間たちはこぞってアメリカに渡った。アメリカでは予算を沢山もらえて最先端の環境も与えられ、人種や民族や年齢や性別にとらわれず、才能をリスペクトして仲間として歓迎する基盤があった。

 それだけではなく、アメリカでは新しい技術が生み出されると、様々な分野の人間が集まって研究や開発をする文化もあった。物理学、心理学、IT企業。常にアメリカやEUは総力を結集して前に進んでいた。外国には金と人が集まり続けた。

 日本にはそういう基盤と文化は無かった。予算は出ない。環境も無い。優秀な人材は海外に逃げる。政治家は未来技術の重要性を分かっていない。専門家は別の分野の専門家を受け入れない。年齢や性別だけで人を判断する。低能は保身のために才能のある人間を追い込み追い払い、無能な人間が常にトップに居座り続ける。

 それが日本という国だった。劣等民族がはびこるこの国に、未来なんて無かったのだ。

 日本は未来技術の開発で大きく出遅れた。民間用の家電やスマホですらアジア諸国に遅れを取る有様で、あっという間に先進国から脱落した。その昔、人気がある職業と言えば芸能人やユーチューバーなどであり、高学歴な人間までもが死ぬほどくだらない一発芸で日々人を失笑させていた。

 二千十年代の時点で日本は既に手遅れだったのだ。この時からありとあらゆる遅れを取りまくっていたんだ。そんな国がいつまでも先進国でいられる訳がない。

 日本は落ちぶれた。その結果、シンギュラリティが訪れたこの世界における日本の立ち位置は相当に低く、国民は後塵を拝する日々を送る羽目になっている。

 もうこの国は先進国ではない。アメリカやEUでは不老不死の薬なんて簡単に手に入るし、日本とは比較にならないほどの未来技術が国中に浸透し、それはそれは幸せな生活を送っている人間で溢れている。

 一方、日本で不老不死の力を手に入れられるのは一部の人間だけだし、未だに広大な畑で作物を育てている人が少数ではあるが存在するし、自分の家にお手伝いロボットが居なくて、家事をほとんど一人で行っている人間もいる。

 さっきのガキのように、子供の時点で既に不老不死になっているような恵まれた奴はほんの一握りだ。

 でも、今の状況は決して不思議な事でも何でもない。

 二千十年代や二千二十年代でも、発展途上国にはインターネットの環境がまともに無い町とか、電気や水道が通ってない村も普通に存在したらしい。文明らしい文明が全く無い地域やら集落だって普通にあったと聞く。

 今の日本は、つまりそういう事なのだ。二千六十一年にも関わらず、最先端の技術が「常識」になっていない。まさに発展途上国だ。更に言えば、あんな喫茶店ごときで盛り上がってる日本は外国から見たら相当に異常だと思う。外国では退屈な世界の中でも長く幸福に生きていけるような社会プログラムが充実してるけど、日本にそんなものはない。日本人は産まれた時から野放しで、人それぞれ自分の力で退屈と戦い幸福を掴み取らなければいけない。もちろん、全国民が幸福になるような社会プログラムを構築できるような人工知能も量子コンピュータも、日本には存在しない。自分より優秀な人工知能を作り出す人工知能も、日本には無い。武力にしろ経済にしろ技術にしろ、戦争に負けるというのはこういう事なんだろう。

 俺は洞窟の中心部で足を止めた。洞窟の中心には大きな扉がそびえていて、扉を開かないと居住区には入れない。

この時代は大多数の人間が幸福で衣食住が保証されているから犯罪は激減しているけど、だからって普通の洞窟で暮らすなんて事はありえない。人工知能は年々賢くなっているけど、人間は今も昔も醜いまま何も変わっていないのだから。じゃあ何故、敢えて洞窟なのか。答えは単純である。

 この洞窟は以前SISAが研究施設として一時的に使っていた場所なのだが、今は使われていない。そんな野放しになっていた洞窟を無償で譲ってもらい住み始めて今に至るのだ。どいつもこいつも「家をもらえよ」と言うが、俺だってちゃんと「家」をもらっているのだ。

 扉に向かってパスコードを発し、顔認証と指紋認証を済ませると扉がゆっくりと開いた。中に入ると、すぐに綾瀬望海が駆け寄ってきた。

「お帰り~」

「ただいま」

 ニコニコしながら駆け寄ってくる望海は小動物のようで本当に可愛らしい。あの喫茶店に居た男達は、洞窟でこんなに可愛い女の子と暮らしている俺を幸せ者と言うだろう。もし直接そう言われたら、俺はきっとノーと言うだろうけど。

 だってそうだろう。人も食べ物もどんなものでも、ただそこにあるだけじゃ意味が無いのだから。

「お疲れ様。ごめんね一人で行かせて」

「まぁ二人で行ってもしょうがないしな。一人で持てるし」

「ありがと。んでんで? 今日のごちそうは……」

 と言って、望海がカゴの中を覗き込む。後頭部が間近に見えて、ふんわりした甘い匂いが漂った。

「おっ。メロンあるじゃん。美味しそうだね。赤肉?」

「当然。赤肉じゃないメロンはメロンじゃねぇよ。これは未来永劫変わらない道産子のアイデンティティーだ」

「分かる」

「しかもこれ夕張産だよ」

「植物工場でしょ? どこでも同じじゃん」

「まぁな」

「……」

 望海がまじまじと上目遣いに見つめてくる。……なんだ?

「ヤマト君」

「おう」

「なんかぼんやりしてない? 考え事?」

「日本が頑張ってくれてれば、俺たちは今頃幸せだったんだろうなって」

「何いきなり。ていうか考えてもしょうがない事を考えても、しょうがないよ」

「分かってる。考えるのは人工知能の仕事だ。俺たち人間は頭空っぽのまま、人工知能の言われるがままに生きていればいい。正しい未来は量子コンピュータにシミュレーションしてもらえばいい。お手をするのは犬じゃない。俺たち人間だ」

「別に考える事を放棄しろって言った訳じゃないよ。考えてもしょうがない事は考えない。でも、考えるべき事があるなら色々と苦悩するべきだと思う」

「考えるべき事を考えたところで、この世界にもう道は無い。だから考えてもしょうがない事を考えてしまう。それが辛いんだよ。さて俺たちはこれからメロンを食ってそれから何をする? 自分の髪の毛の数でも数えるか?」

「ヤマト君は合理的に考えすぎなんだよ。たまにはちょっとズレた発想を持ってみれば? 不合理な選択なら無限大。楽しもうと思えば楽しめる事が見つかるかもしれない」

「そうかな」

「そうだよ。不合理な選択が面白い道に繋がる可能性がゼロだとは言い切れない。それに人間は苦悩することで世界を形作ってきた。今は確かに退屈でどんより気分な毎日かもだけど、頑張って悩んでればいつか希望は見えるかもしれないよ。時には不合理な選択も視野に入れてみたりしながらね」

「それはお前の意思か?」

 望海はぺろっと舌を出して笑った。

「違う。正しいとされてる意見を言っただけ」

「そうか」

「でも苦悩する事で世界が形作られるかもってのは本心かもしれない」

「植民地支配。核ミサイル。テロ戦争。政治家の汚職。殺人事件。確かに人類は苦悩して時には不合理な選択をしながら素晴らしい世界を形作ってきたな。輝かしい未来を作り上げてきた先人たちに向けて! いざっ! 敬礼!」

「減らず口」

 望海は髪をかきあげながら薄っすら笑った。冷たさの中に愛くるしさを秘めた蠱惑的な笑い方だった。こんなに美しい女が、この時代に洞窟で暮らしてるなんてまさに摩訶不思議だと改めて思う。父親は立派な家に住んでいるというのに。なぜ望海の父親は子供を捨てたのだろうか。

 邪魔だった。ただそれだけなんだろうけど。望海の父親、綾瀬源治はSISAの職員だ。SISAの職員という権力があるなら、たまたま出来てしまった子供なんてガンみたいなものなんだろう。

「……? なに。ジロジロ見つめて」

「いや」

「見惚れてたの? 毎日見てる顔なのに」

「あぁ。見惚れちまった」

「ほっぺにちゅーくらいならしてもいいけど」

「うわーやめてやめて。私の目の前で二人の世界に浸らないでよ」

 壁際に座って髪の毛を整えていたエルが、甲高い声で文句を言ってきた。

 エルヴィラ・ローゼンフェルド。日本人とロシア人のハーフで、ヒッピー仲間の少女。

 俺と望海は二人で洞窟暮らしを始めた。でも洞窟での日々を始めてから三ヶ月ほどした頃、俺たちはエルと出会った。

 ある日のこと。あいつは洞窟の近くでサッカーボールを塀に向かって蹴飛ばし、跳ね返ってきたボールをまた蹴飛ばし……を延々繰り返すという、心の底から虚しくて退屈な遊びをしていた。

 暇そうに、どこか怒ったような顔でボールを蹴り続けるエルを見て、なんかおかしな奴がいるなと思いながらエルの横を通り過ぎようとした。しかしなぜか望海は変人に話しかけ始めたのだ。

「アンタ何してんの?」

「……」

「どうしたの? 頭大丈夫?」

「……なに。ていうか誰アンタ」

「どうしてボールを蹴ってるの?」

「つまらないから」

「ボールを蹴るのが?」

「違う。世界がつまらないからボールを蹴ってるの」

 エルは泣きそうだった。怒っていた。悔しそうだった。むしゃくしゃしていた。跳ね返ってきたボールを、エルは思い切り蹴り飛ばした。

 ボールは、あらぬ方向に飛んでいった。

「名前、なんて言うの」

「エルヴィラ・ローゼンフェルド」

「エルヴィラさん」

「エルって呼んで」

「エル」

「エルるんでも良いよ」

「エル」

「なに」

「一緒に暮らさない?」

「え?」

「は?」

 たったその一言だ。あの言葉だけでヒッピー仲間が増えた。それは歓迎すべき事なのだが。

「ぶーぶー。私を差し置いて甘い雰囲気作るのやめてほしいなぁ。なんか疎外感がハンパないんですけどぉー。エルちゃんマジで現在憤慨中。ぶーぶー。ぶぶぶのぶー」

 コイツは顔面をぶん殴りたくなるほどの凄まじいぶりっ子だった。いやここまで来るともはやぶりっ子とかそういうレベルではないが。

「ていうかーててててていうかー。ヤマト君さぁ目の前にこーんなにエクセレントな金髪美少女が居るのになんで欲情しないの? ぶーぶー。欲情プリーズ~。もしかしてヤマト君ってインポ? 私と一緒に暮らしてて勃たないなんてありえないよぅ」

 そんなアホみたいな喋り方でアホみたいな事を言うお前の方がありえないよぅ。

 俺はうんざりしながら両手を広げて処置なしのポーズをしてやった。知り合ったばかりの時はダウナーというか闇落ちしてそうな奴だなと思ったけど、それは間違いだった。最初の内こそおとなしくしていたが、徐々に本性を現して今に至る。悲しい物語だ。

「見惚れてたの? 毎日見てる顔なのにぃ? だってさ。くっはー! なんだその甘いセリフ」

「なぁにエル。嫉妬?」

「別にそんなんじゃないですぅ~。ただなんか二人の世界に入り込んじゃって~仲間外れにされた気がしただけですぅ~。エルちゃん悲しいですぅ~」

「そうですかぁ~。それはごめんなさいでしたぁ~。ノゾミちゃん謝りますぅ~」

「許しますぅ~」

「ありがとう~」

「バカは人工知能にも治療できない感染病だな。ついにこの洞窟もパンデミックに飲み込まれてしまった。俺もそのうち、バカエル菌の患者になるのだろうか」

「ひひひひひどーい! なんでそーいうこと言う訳?」

「全人類エル化計画なんてやめてくれよ」

 エルがわざとらしく頬を膨らませる。見飽きた表情。

「私は世界にたった一人のオンリーワンなエレガントでセクスィーでミラクルゴッドな女の子なの。エルちゃんは一人で十分なの。そんな計画考えたこともないですぅ~」

「安心したよ」

「まったく! ていうか今日なんなの? いつにも増してクサクサネチネチした暗い顔してさ。ヤマト君の根暗な態度もう少しなんとかならないの? もうちょっと明るい雰囲気出しなよ私みたいに。ぴろぴろ~ん」

 クソ長いサラサラの金髪ツインテールを両手でぶんぶん振り回しながら甲高い声で叫ぶエルを見てると、この瞬間だけは色々な悩みがどうでも良くなってくる。良くもそんな頭の悪い行動をナチュラルに出来るもんだ。母親のお腹を開けて恥というものを拾ってきた方がいい。

 俺はエルの頭を指でコンコン叩き、叫んだ。

「エルの羞耻心はどーこでーすかー!」

「うるせー! 根暗ポンコツジメジメクソ野郎!」

「どこですかー!」

「ここにちゃんとありますよー!」

 エルが右側のツインテールをぶん! と振りかざして俺の顔面に叩きつけてきた。ばしぃん! 思った以上に痛い。

 困ったものである。どれだけ俺の性格に注文を付けられようが叩かれようが、俺の性格はもうどうしようもない問題なのだ。

 根暗なのは元々か。世界のせいか。どちらにせよ、俺の根暗は病気みたいなもんだ。自分の人生がどれだけ満たされても、花畑をスキップするような日々は永遠に来ないだろう。

「このやろ! このやろ!」

 エルは尚も頭と髪の毛を振り回し、右と左のツインテールを交互に顔に叩きつけてくる。さすがに勘弁してほしい。

「分かった。悪かったよ。確かにこの洞窟のジメジメした湿度は俺のせいだ」

「分かってるんなら! もっと! 明るくしやがれ!」

「あぁ分かった分かった。だからもうやめてくれ」

「分かれば良いんですぅ~」

 なんだか面倒になって、どっと疲れを感じて、俺はふかふかのソファーに腰を落とした。こんな洞窟でも設備は充実している。

 テンションの浮き沈みの激しいエルは「はぁ~」と大きく息を吐くと、ベッドにゴロンと寝転がった。その時エルの膝下にかすり傷があるのに気がついた。

「おい、どうしたんだその怪我」

「あぁ。これ?」

 エルはどうでも良さそうに傷のあたりを手で撫でた。

「さっき転んじゃったの」

「病院で治してもらえよ」

「ん。でも今日はめんどいから明日行く」

「菌が入るぞ」

「大丈夫だよ。別に」

 エルは小さなあくびをした。本当に面倒くさいらしい。

 この時代はどんな大怪我をしても無料で完治させる事が出来るが、だからこそ人間は治療を後回しにしてしまう。怠けてしまう。

 更に言えば、人間が望まない理不尽な死を遂げた場合はその人間を生き返らせる事も出来る。更に更に言えば、基本的に脳改造や記憶の編集は禁じられているが、当人が圧倒的な絶望を背負いどうしようもなくなった場合は、SISAに申請して許可がおりれば忘れたい記憶を消去する事も出来る。

 もちろん記憶の消去が意味を成さない場合もあるし、完璧な方法では無いけども。例えば大切な恋人が死んで絶望に陥りうつ病になり生きていくことが困難になって、恋人が死んだという記憶を消去しても、恋人が死んだというニュースを見れば気がついてしまう。じゃあ恋人が居たという記憶そのものを消せば良いのではないかと思うが、どんなに辛くても人は大切な記憶の消去を拒む。良くも悪くも人間はそういう生き物だ。自らの意思で不幸を抱きしめたがる。うまい具合に記憶をいじって問題無く幸せに生きていけるようになるケースはあまり多くはない。

「なるべく早めに行っとけよ」

「ん。分かってる」

 俺の心配をよそに、エルはまたのん気にあくびをして、天井を見つめながら言った。

「ねぇヤマト君。やっぱり家に住まない? どうせほとんどタダで住めるんだし」

「確かにそうだが、最初はお金払わなきゃダメだろ」

 家にもよるが、一応初期費用はかかる。それさえ払ってしまえば永遠に事実上タダで住めるのは間違いない。当然、空き家だらけとは言え住居によって金額の差はあるが。

「そうだけどさ。初期費用なんか雀の涙程度の金額じゃん」

「でも、雀の涙を蓄えておかないと不老不死にはなれない。それとも初期費用さえタダに近い狭くてボロい家に引っ越すか? このクソ広くて設備が揃った洞窟を捨てて?」

「それはちょっと……」

 外国では無償で不老不死になれるが、日本では多額のお金が必要になる。正直な話、一円たりともお金は無駄にしたくないのだ。

「……まだ足りねぇ」

 頭の中で貯金額を思い浮かべる。SISAから毎月支給されるお金をコツコツ貯めているとは言え、不老不死の薬を買うにはまだまだ足りない。ベーシックインカムは安泰を得られる素晴らしい制度だが、高みを目指すためには結局努力が必要になる。しかし、努力する余地は滅多に無いから努力したくても努力は出来ない。ある意味では「努力しなくても良い国」なのかもしれないが、俺は論点がズレていると思う。だが残念ながら、ここはアメリカではなく失敗国家日本なのだ。人も社会の仕組みも何もかもが狂っている。

「そうだね。本当は二人分のお金を貯めるだけで良かったのに、私のせいで三人分貯めなきゃいけなくなったしね。私のせいだね。だから私には家に住もうなんてこと言う権利無いよね」

「二度とそんなこと言うな。俺も望海もエルも不老不死になりたいと思ってる。そして望海とエルは俺の大切な友達だ。これ以上語る必要があるか」

「ん。だけどさ、不老不死の薬をもらえる頃には、私ら結構な年寄りになってるかもよ」

「だから洞窟に住んで金を貯めてるんだろ。洞窟に住んでりゃ出費は最低限で済む。それに肉体年齢はいつでも若返らせることができる。心配すんな」

「でも私のせいで洞窟暮らしが長くなる事実は変わらない」

「エルと出会わず若い内に不老不死になる道と、エルと出会って長い時間をかけて不老不死になる道が目の前にあったら、俺は後者を選ぶね。不老不死になる事が現時点で一番大切な目的なのは間違いないが、俺も望海も別に不老不死になることだけを考えて生きてる訳じゃない。不老不死になれても人生が退屈だったら意味がねぇ。お前は必要なんだよ。お前は見てるだけで面白いからな」

「……」

「頑張ってお金貯めて、三人で不老不死になろう」

「……でもさ、三人仲良く不老不死になったとして、それだけで私達は幸せになれるのかな。世界がユートピアに変わるのかな」

 さっき見た狂乱の喫茶店を思い出す。あれは一時の夢。あぁいう細やかな娯楽があるだけでは物足りない。

 不老不死になれたとして、俺は一体どんな娯楽があれば世界をユートピアだと認識出来るのだろうか?

 分からない。でも少なくとも、不老不死はゴールではない。

「そんな単純な問題では無いと思う。それに不老不死を目指すのは、決して明るい未来を目指す旅ではない。老いる未来からの逃亡だよ。逃げた先に光があるほど人生は甘くない」

 エルが「ふんっ」と鼻を鳴らした。言わずもがな、不老不死になったおかげで永遠に豊かな人生が続く可能性よりも、いつか廃人になって絶望に満ちた人生を送る可能性の方が高い。それでも人は死と老いを受け入れる道よりも、逃れる道を選ぶ。

「逃避」

「ん」

「人間はいつだって逃げ道を探してる」

「あぁ」

「今この世界でどう戦いながら生きるのか。それが主題になるのは架空の世界だけ。現実はどれだけ逃げ回れるかにかかってる」

「そうかもしれない」

「……結局今も昔も、ユートピアはどこにも無い。全人類が幸せになれる世界なんてありえないって事だね」

「そうだな。ヨーロッパもアメリカもさすがに全員がユートピアを感じてる訳じゃないし、自殺する人だって居るくらいだもんな。結局、ユートピアの在り方なんて人それぞれなんだろう」

「強欲は罪だね」

「あぁ」

「世界は一つ。人間はいっぱい。そりゃユートピアはどこにも無いよね」

「そうだな。でも」

「うん?」

「世界が幾つもあれば話は別だ」

「何いきなり」

「なんでもない」

 俺は喫茶店の少女がかついでいたアサルトライフルを思い浮かべていた。89式小銃と言ったか? 俺は銃には詳しい方だが、そんな銃は聞いた事がない。

 世界が幾つもあれば。

 いや。

 何を考えてるんだ。

「不毛な話だよねぇ」

 何かを言おうとしたエルを遮るように、望海がぽつりと言った。

「……ん、まぁそうだね。不毛だね」

「……あぁ」

 そう。不毛だ。俺たちはいつもこんな会話をしては悶々とした雰囲気を作り出している。でも、言葉に出さずにはいられない。

 だってほら。

 暇だからさ。

「あっ!」

 いつも以上に重苦しい雰囲気の中、唐突にエルの大声が響いた。

「んだよ。いきなり」

「思い出した。あのねヤマト君聞いて聞いて。この前ね、アメリカ製の女形セクサロイドが闇市に売ってたんだよ。あぁいうの興味ある? ヤマト君まだ童貞でしょ」

「おいちょっと待て。たった今皆で頑張ってお金貯めて不老不死になろうねって話したばかりじゃないか。セクサロイドごときに金使ってどうするんだ」

 コイツは場の空気がジメっとすると、いつも決まって唐突に話題を変えて空気を温めようとする。俺はエルのそういう所は嫌いじゃないが、それにしたってこの話題はあんまりだ。セクサロイドを買ったせいで不老不死の薬を買えなくなりました、なんて事になったら面白すぎる。悪い意味で。

「安いから良いじゃん。それにヤマト君のジメジメした性格はストレスのせいもあると思うんだよね。やっぱり適度に射精して気分爽快にならなきゃダメだよ」

「俺たちの最大目標は不老不死になる事であって、俺のチンコを可愛がる事ではない。とにかくお金を貯めなきゃダメなんだ。この国にほんの少しだけ残った資本主義舐めんなよ。一円でも惜しいんだよ」

「えー。じゃあこのままジメジメした生活を続けるの? ぶーぶー。ぶぶぶのぶ~。ていうか貯める貯めるってなにさ。たまにはお金も精子も放出しようよ」

「ここ数分の会話と結論を全てぶち壊す気かお前は」

「じゃあお金の話は別にしてさ、ヤマト君はセクサロイド興味あるの?」

「……無い訳では無いが」

「じゃあ買おう」

「無理して買いたいと思うほど興味がある訳ではない」

「変わった人。セクサロイド気持ち良いよ。私なんかほぼ毎日使ってる」

「知ってる」

 エルは洞窟で暮らし始めてから数日後、札幌の倉庫に保管していた私物を洞窟に運び出してきたのだが、その中にセクサロイドがあった。あれを見た時はさすがに驚いた。あまりそういうのに興味が無さそうな奴だと思ってたから。

 でもこの時代ではおかしな話ではない。それが当たり前なのだから。

 この世界では。

 この時代では。

 どうして俺はそんな風に考えるんだろうか。冷静に考えたらそれは凄くおかしな思考回路なのだが。

「試しに買ってみれば? お金はなんか別の方法で稼げば良いよ。今を楽しむのも大事でしょ。今の風を感じて生きようよ」

「でもな」

「いやセクサロイド最高だから。買ってみなよ」

「エルは子供産まないの?」

 望海の唐突な言葉で俺とエルは会話を止めた。望海は壁際に座って足を伸ばしていて、白く長い両足の間には望海が好きなアザラシのぬいぐるみが置いてあり、どうでもよさそうにアザラシの頭を撫でている。

「産まないよ。産む必要ないでしょ子供なんか。セックスは娯楽です」

 望海の何気ない質問に対して、エルはのん気に言い返す。乱暴な意見に思えるかもしれないが、別にそんな事は無い。

 この世界では出生率が激減しているのだが、それは大した問題ではない。労働は全て人工知能やら何やらが担うから、労働人口が多いとか少ないとかそんな課題はとっくのとうに消えている。

 もともと子孫繁栄とは人間社会を続けるために必要だった概念である。人間が居なくても地球が回るこの時代、無理して人間をぽんぽん作る必要はない。シンギュラリティは子孫繁栄という人間にとって最大級の大義名分を奪ってしまった。

 それに脳改造など人間の根本的な中身を作り変える技術は禁止されているが、死んだ人間を生き返らせる事は許可さえおりれば可能である。見た目はいくらでも自由に変えられる。無理して頑張らなくても平和が保証されている。そんな時代にわざわざ苦労して子供を産もうと思う人間はそう多くはない。単純に、「わざわざ苦労をする必要性」の意義をみんな忘れているのだから。

 苦労する必要が無いというのは、この世界が退屈である要因の一つでもあるだろう。無限とも思える時間の中で自由を与えられた所で、読書も映画もゲームもスポーツも何もかも飽きるだけだ。

 しかし例外はある。セックスに飽きはない。快楽に飽きるという概念は存在しない。ゲームに飽きる事はあっても、セックスで感じられる快楽に飽きる事はありえない。

 だから子供を産むという発想を持たない人間だらけのこの時代でも、セックスは人間にとって最大の娯楽であり続けている。言い換えるのならば、神秘と娯楽を兼ね揃えていたセックスから夫婦の秘め事なんていう神秘性は消え失せ、ただの娯楽に成り下がった。

 今はむしろ昔よりもセックスに対して寛容な社会になっており、今じゃセックスは健全でオープンな娯楽だった。セックスやオナニーをしている事を隠す奴なんてそうそう居ない。

 愛が無くてもセックスをするのが当たり前。セクサロイドとセックスをするのもまた当たり前。別に公園のベンチでセックスしようが、電車の中でセックスしようが何しようが、何らおかしな事ではない。

 とは言え。そもそも人間同士でコミュニケーションする機会が激減しているから、人間とセックスしたくても出来ない奴が大半なのもまた事実なのだが。やはりセックス経験増加のために学校制度は復活させた方が良いだろう。

「娯楽ねぇ……」

「そう、娯楽。セックスは娯楽なの。ていうかセックス以上に楽しい娯楽ってあるの?」

「そっか。エルにとってはセックスが最高の娯楽なんだね。じゃあ一日中セックスしてれば? それじゃまるで毎日セックスをするロボットみたいになっちゃうけど」

「むむっ。でもそれ言ったら毎日ゲームしてる奴だってひたすらゲームをやり続けるロボットじゃん」

「じゃあ俺たちは毎日不毛な話を続けるロボットだな」

 冗談で言ったつもりだったのだが、望海とエルは図星をつかれたようにしゅんとなり、黙り込んでしまった。

「……まぁでもセックスがただの娯楽ってのは事実としてその通りだろう。もう自ら苦痛を選ぶような時代じゃないんだし、子供を欲しがる奴なんて滅多にいないんだから」

「……まぁね」

「いつか人類は自滅するかもな」

 理不尽に死んだ人間は確かに生き返らせる事が出来る。誰かが自殺した場合、身内の判断によって勝手に再生させる事も出来る。死ぬ直前のデータがあれば、その人を模した器にデータを投下して終わりだ。

 なにも難しい話ではない。世界はシンプルだ。

 子供や友達や恋人が欲しけりゃ、ロボットや人造人間を買って手を繋いでスキップでもしてれば良い。大切な人が事故など不本意な形で死んだのならSISAに申請して復活させりゃ良い。スーパーマンになりたきゃパワードスーツを使えば良い。

 自由だ。なんでもありだ。しかし俺達はそんな時代に違和感を覚えている。俺たちはマイノリティか? 決してそんな事はない。俺たちのように世界そのものや、社会に対して違和感や不満を抱いている人間は決して少なくない。ヒッピー同士で集まって良く分からんレジスタンスと化している集団だって存在する。ペンラムウェンが良い例だ。決してこの時代にホロコーストがある訳ではないが、どうやら人間の遺伝子情報にはまだまだ善悪はともかく社会に立ち向かう意識が残っているらしい。品種改良を肯定しなかったSISAは果たして神か悪魔か?

「で、ヤマト君どう? 興味ないの? セクサロイドほんとに気持ち良いからさ。……って男用のやつはどんな感じなのか知らないけど」

「いや……」

「あ、ていうか。ヤマト君がセクサロイドとセックスしてる所見てみたいな。興味ある~あるある~。あ、そうだ。ちょこちょこっと体改造してさ、縄文人みたいに一日中エッチ出来るようにしてもらえば? どぅは~一日中セックスとか最高~」

「縄文人?」

「縄文人っていうか、原始時代の人間って一日中セックス出来たらしいよ。なんか射精するタイミングとかもマジで自由自在だったとか。大昔は子供産んでもすぐに死んじゃう可能性が高かったから、子孫繁栄のためにとにかく必死こいて手当たり次第に毎日セックスして子供を産みまくる必要があったのね。だから射精する体力が凄かったんだってさ」

 なるほど。原始時代なら一人の母親が子供を五人ほど産んでも、五人全員が早死にする事も普通にあっただろう。もしかしたら十人産んでも十人とも子供の内に死んでしまうような時代だったのかもしれない。それならば男は毎日のように手当たり次第に色んな女とセックスして種を送り込まなければ人類は滅びてしまう。今の価値観ならとんでもない話に聞こえるが、昔ならそれが当たり前だろう。今と違って、セックスは生きる上で最も重要な行為だったのだ。

 俺はふむふむと納得して頷いていたのだが、望海は納得していないようだった。大げさに「えーー!」と叫びながら、アザラシのぬいぐるみを小刻みに震わせて驚愕をあらわしている。

「嘘くさ~。それどこの情報?」

「昔オックスフォード大学の人が書いた本で読んだ。それはともかくさぁ、なんか今アメリカでね、一日中セックス出来る体にするの流行ってるらしいよ。ヤマト君もそういう体にしてセクサロイドで色々試してみれば?」

「いや、だからそもそもお金が……」

「ヤマト君が欲しいなら、私は別にいいよ」

「あん……?」

 アザラシのヒゲをびよーんと引っ張りながら望海がサラッと言い放つ。突然なにを言い出すんだコイツは。

「え? でも望海ってヤマト君とセックスする予定なんじゃないの?」

「……私はセクサロイドとも人間ともセックスした事無いし、セクサロイドとセックスする気もない。だけどヤマト君ならヤらせてあげても良いかなとは思ってるよ。でもその……まだ勇気が出ないの」

「じゃあ勇気出そうよ」

「あっさり出せる勇気は勇気じゃない」

 むずかゆい気持ちになる。俺は別に娯楽として望海とセックスをしたいと思っている訳じゃないのだが。

「ヤマト君は童貞だよね。でもなんていうか……もし私と始めてのセックスをしたいと思ってるなら……ほんとにごめん。まだその気になれないの。でもヤマト君が我慢出来ないなら、セクサロイドでその……始めてのエッチを体験しても良いと思うし、私は気にしない。セクサロイド相手ならノーカウントだと思うし、原始人みたいな体になっても構わない。それにほら……セクサロイドの方が気持ち良いと思うよ」

「そういう問題じゃなくてな。ていうかなんで俺はこんな事で気をつかわれてるんだ? それにセクサロイドは高い。お金はなるべく不老不死の薬のために貯めておきたい」

「どぅはは~。不老不死にこだわりすぎじゃない?」

 え……? こいつはもう既にさっきまでの会話をほとんど忘れちまってるのか……? ちょっと前の自分の発言を省みてほしいものだ。

「お前だってヨボヨボのババァにはなりたくねぇだろ。よーく考えてみろよ。お前ヨボヨボのババァがどぅはは~とか言ってたらただのやべぇ奴だぞ。今でも十分やべぇ奴だけどさ」

「むー。さっきからお金お金うるさいなぁ……。ある意味昔のキューバみたいだよ。こだわりすぎ」

「一理あるかも」

「ほら望海もそう言ってる」

「まぁヤマト君の性欲が溜まりまくるのもどうかなって思うしね。かわいそうだもん。セクサロイドで発散しても良いと思う。それに男の人ってさ、たまに射精した方がなんか健康的なんでしょ?」

「女の子にそんな心配をされる瞬間が俺の人生に訪れるなんて、これっぽっちも想像してなかった」

「あのさ。二人って付き合ってるんだよね?」

 俺と望海は沈黙してしまう。付き合ってはいない。俺には身近な女が望海とエルしか居ないし、望海とエルには俺しかいない。ただそれだけだった。

 エルは頬をぷぅっとわざとらしく膨らませた。

「む~。ハッキリしないなぁ。どうせこの世界じゃやる事何も無いんだからさ、いっぱいエッチして楽しめばいいのに。やる事無いからヤるみたいな」

「人生の楽しみ方は人それぞれだ」

 やる事がない。そんなサラっとした言葉が身にしみる。

 昔の日本人はシンギュラリティが訪れて人が労働や勉学から解放されて莫大な自由の時間を手に入れれば、ボランティア活動や無償の労働に幸福を感じるようになるとか新しい形の労働が産まれるとかほざいていたが、そんな話ある訳ない。世界は人工知能が管理している。ボランティアや無償の労働をする余地がどこにある? 日本の先人たちは本当に愚かだ。そんな浮ついた綺麗事ばかり言ってる奴らが沢山いたから、今の日本はこんな国になっちまったんだ。

 人間のお世話はロボットが全て担当してくれる。分からない事はなんでも教えてくれる。治らない病気なんか無い。不老不死の力を得た人間は、地球が滅びるその日まで生きていける。それ以上でも以下でもないのだ。エルが言うように、やる事ないからヤるという心底くだらないジョークはある意味的を得ている。映画は飽きる。ゲームも飽きる。しかしセックスで得られる快楽には飽きがない。おいしいものを食べるという行為に飽きる人間が居るだろうか? ありえないだろう。快楽に飽きるもクソも無い。

 日本は最新技術を軽視し、政治の決定権を人工知能に譲らず居座り続けた昔のクソったれ政治家たちのせいで完璧なユートピアと呼べる状況には無いが、特にやる事が無いのは先進国も同じだった。経済制度は残っているが、経済制度の中心はベーシックインカムで回っており、毎月ある程度のお金をもらう事ができる。だが働き口なんてほとんどないから、ベーシックインカム以上にお金を稼ぐ事は難しい。

 それに労働の大半は特権階級の奴らに取られてしまっている。この時代における労働と言えば機械のメンテナンスや社会維持に関わる仕事、あるいはさっきの女がやっていたような接客業が主となるが、どれもこれも働き口は限られており、数少ない働き口のほとんどはVIP連中が独占しているのだから、おいそれと誰でも労働出来るなんてありえない。労働さえ出来れば不老不死の薬もかなり早い段階で手に入るのだが。

 とは言えベーシックインカムだけで生活する事が出来るのは事実だし、政府から物資の生活援助も受けられる。税金やら年金やら保険の制度は無い。

 そういう意味ではシンギュラリティが到来した時代にふさわしい国ではあるが、政府から受けられる援助は先進国に比べれば月とスッポンだ。先進国は誰でも簡単に不老不死になれる。日本はそうじゃない。外国は夢を全て叶えられるが、日本では叶えられない。国の発展に力を尽くせなかった昔の政治家はみんな揃って反逆者だ。

「ねぇ望海」

「うん?」

 頭の中で怒りの拳を振り上げながらぼんやり考え事をしていたが、エルの朗らかな声で我に帰った。どうやらまだ雑談は続いていたらしい。

「一応私さ、望海に遠慮してるんだよね。でもヤマト君がセクサロイドとセックスするのがオーケーなら、もう私が先にヤマト君とヤってもいいよね。正直セクサロイド飽きちゃってさ、やっぱり人間とセックスしてみたいの。だからヤマト君の童貞私にぷりーず。それにほら! 私が相手してあげればヤマト君もストレス発散できてセクサロイド買う必要もなくなるし、全てがワンダフルじゃん」

「ワンダフルなのはエルの頭の中でしょ。別にセクサロイドを買うのは良い。でもエルとエッチするのはダメ」

「なんでよぅ! エッチしたいよぅ! 人間とエッチしたいよぉ! なんでダメなの?」

「エルは人間じゃん。セクサロイドは人造人間だもん」

「ヤマト君がセクサロイドとエッチするのは良いんだよね?」

「うん。セクサロイドはオモチャを使うオナニーみたいなもんだから」

「私の事もオモチャだと思えば良いじゃん」

「自分をオモチャ呼ばわりしないで。ていうかエルはセクサロイドで満足してるんでしょ」

「いやだからセクサロイド飽きたって言ったじゃん。人間とエッチしたいの。だからヤマト君ちょーだい」

「ダメ。他の人とすれば?」

「えーそれはちょっと。ちゃんと知ってる人とエッチしたいな」

「アンタも十分ワガママ」

「ぶ~ぶ~。いやでもさでもさ、セクサロイドも人間と同じだよ。だってセクサロイドは人間の見た目をした器の中に、人間の脳みそを模倣した人工知能が入ってるんだよ。見た目も人間と同じ。私がダメならセクサロイドもダメなんじゃないの?」

「そういう問題じゃない。それに人工知能が入ってる時点で人間なんかじゃない」

「人間と同等の人工知能はもう人間の脳みそだよ」

「脳みそはそうかもしれない。でも人間と人造人間の心は本質が違うの」

「むー。どうでもいいよ本質とかそんなもの。私には分からないな。人間とセクサロイドの違いなんか人間から産まれてきたのか、そうじゃないかの違いしか無いじゃん。そこに価値の違いなんてない。人間と人工知能の心が本質的に違ったとしてそれがなんなの? ねぇなんなの? ねぇ何が問題なの? ねぇ? ねぇねぇ? ねねねのねぇ?」

 エルはそうまくし立てながらずいずいと望海に顔を近づけていく。こんなにうざい奴は滅多に見た事がない。

「だからそれは……」

「セクサロイドも人間もダメなら分かるけど、セクサロイドならおっけーっていう理屈が分からない。エルるん不思議です」

「ふと気がついたんだが、この議論に俺の意思は考慮されてないのか」

「とにかく人間と人工知能は全然違うの。ヤマト君がセクサロイドでセックスするのは良いけど、人間とするのは禁止なの」

「違わないし望海にヤマト君のセックス事情を禁止する権利なんか無いよ。望海はヤマト君専属のマッカーサーなの? ていうかセックスに対して何そんな良く分からないこだわり持ってんの? 赤の他人とか汚いセクサロイドとセックスするのがイヤだってなら分かるけど、人間とセクサロイドの違いでそこまでこだわりを持つ意味がエルるん分からない。セックスはお互いの体で触れ合って気持ち良くなるだけだよ。何を迷う事があるんだ望海隊員。まさか人間から産まれてきた事そのものに価値があるとか思ってんの?」

「洞窟は声が良く響くはずなんだが、俺の発言はなぜかいつも無視される」

「ぶつぶつうるさいな。何か言いたい事でも?」

「いや、言いたい事があるからぶつぶつ文句を言ってるんだが。おかしいな。この時代にも人権はあるはずなんだが」

「早く言えよ」

「俺はセクサロイドを買う気はない。それでもう話は終わりでいいだろ」

「いやもうヤマト君はどうでもいいんだよ。今はセクサロイドそのものの話をしてるの。黙ってて」

「涙が出るぜ!」

「……ヤマト君はどう思う? セクサロイドと人間は同じ?」

「結局聞くのかよ。……まぁセクサロイドは必ず購入者とセックスするようにプログラムされてるからな。人間と同じ存在かと言われればかなり疑問は残ると思うよ。意図的なプログラムが施されているアンドロイドやガイノイドも同様だろう」

「はぁ~? それ言ったら人間だって教育という名のプログラムで出来てるじゃん。人を殺しちゃダメだよ。一足す一はニだよ。そういう教育が人工知能に仕組まれてるプログラムと何が違うのさ。人間は教育で育って人造人間とかロボットはプログラムで作られる。意味的にはぜーんぶ同じじゃん」

「いやだから……ほら。とにかくセクサロイドは人間とは違うから」

「理屈になってなーい」

「別に理屈とかそういう話じゃ……」

「ねぇ望海。セクサロイドはオモチャ。で、ヤマト君がオモチャで気持ち良くなるのはオーケー。でも自分以外の人間とセックスするのはイヤだ。それは揺るがない?」

「揺るがない」

「覆らない?」

「覆らない」

「つまり」

「……うん?」

「ヤマト君はぁ誰にも取られたくないけどぉでもぉ~私はぁセックスする勇気がまだないからぁちょっと待っててほしいなぁ。だからそれまではオモチャで一人でむなしく射精しまくっててねぇ。そういう事ですか」

「すんごいムカつく言い方」

「だはっ。ていうかていうか、私とヤマト君がエッチするのイヤって事はさ、やっぱり望海はヤマト君が好きなんだね」

 エルは笑顔でそう言った。

 それは多分、違う。

 望海はただ単に、人間の男という貴重な存在を誰かに取られたくないだけだ。

 きっと、それだけだと思う。

 まさに、オモチャである。

「ねぇヤマト君」

「なんだ」

「頑張ってお金貯めて、不老不死の薬もらおうね。やっぱセクサロイドは買わない方が良いよ」

「だからさっきから俺は何度もそう言ってるじゃないか。この議論は結局何だったんだよ。もうちょっと会話のキャッチボール頑張ろうぜ」

「そうだよ! なに強引に話まとめてんのさっ! ムキー! エルるんムキー!」

「いや。結局全ては不老不死で解決するんだよ」

「どっどっどどどどどういうことー?」

 ツインテールを振り回しながらエルが聞く。こんな奴らと生活している俺は、多分世界中の誰よりも強いメンタルを持っていると思う。

「不老不死になれば、どんな時だっていつだってセックス出来る。若い体のままね。だからセックスの事で焦ったりする必要も無くなる。人間は命と若さに限りがあるから本能的にセックスを求める。私はそういうしがらみから解放されたい。解放されれば、多分ヤマト君ともすんなりセックス出来ると思う。それに私とヤマト君がセックスをすれば、もうセクサロイドと人間の価値観なんてどうでも良くなる」

「うわ~。女だね。女だ望海は。そういうパッと見綺麗でロマンチックな理屈でさ、自分を正当化してまとめるの嫌いだな。反吐が出る」

「は? なに? 喧嘩売ってんの? 今のちょっと聞き捨てられないんだけど。えー待って待って。は? え? おかしくないその言い方? なんなの? なんなのねぇなんなの? マジで今ムカついたんだけど。なにやる気? 喧嘩する? ぼっこぼこにしてあげようか?」

「お? やりますか? エルるんのシステマ披露しちゃう?」

「上等じゃない。何よさっきから喧嘩腰でさ。何をどうしようが私の勝手でしょ」

「なんか綺麗事言ってるのが気に食わなかっただけですぅ~」

「むっかー!」

 望海は両手でエルの頬をつかみ、ぐいーっと引っ張った。エルも負けじと望海の頬をぷにぷに引っ張る。世界で最もレベルの低い戦いが、今ここにある。

「セクサロイドは買わない。エルとはヤらない。もし望海が俺とヤる気になったらヤる。それでいいじゃないか。それにセクサロイドや人間の価値観は人それぞれだし、無理してお互いの意見をぶつけ合う必要はない」

 俺が諭すように言うと、望海とエルはお互いの頬から手を離し、盛大なため息をついた。

「身も蓋もなーい。最悪」

「俺達の一番の目的は不老不死の薬をもらう事だ。それは揺るがないし覆らない。お金はなるべく使いたくない。セクサロイドと人間の違いについて語るなんて、そもそも不毛なんだよ」

「まぁそれはそうだけどさぁ……」

「……はぁ」

 望海が疲れ切ったようにぺたんと座りなおし、体をぐいーっと伸ばした。大きく息を吐く。

「エルは不老不死とセックス、どっちが大事?」

「……まぁそりゃ不老不死だけどさ」

「でしょ。だから何がなんでも不老不死の薬は手に入れなきゃいけない」

 だから俺がさっきから何度もそう言ってるじゃないか。なんでお前が改めて話をまとめてるんだ。

「だって周りがみんな若い見た目なのにさ、自分たちだけシワシワの年寄りになるなんてイヤでしょ。エルはセクサロイドで遊んでる内におばあさんになってもいいの?」

「ヤダー! 世界で一番可愛いエルるんがババァになるとかイヤだー! つーか見た目が老けたら中身も老けそうー! い~や~だ~」

「でしょ? 心も体も老けるなんて考えただけで吐き気がする」

「ハゲたくねぇなぁ……。それだけは本当にイヤだなぁ……」

「でしょ。私もハゲたヤマト君は見たくない。だから頑張って不老不死になろう。ていうかそれこそさ、ハゲた男とセックスなんかしたくないよ」

「年取ったらヤマト君インポになってるかもしれないしね」

「そうだな。俺の大事なパートナーには、一生元気でいてもらいたい」

 望海が声をあげて笑った。ツボに入ったのか、後ろに両手をついてひたすら笑い続ける。

 セクサロイドなんていらない。

 ロボットなんていらない。

 ねぇロボットちゃん。君は俺の事が好きなんだ。

 はい。分かりました。プログラム完了。私は貴方が好きです。

 俺がどんなに悪い事をしても、嫌いにならないでね。

 はい。了解です。私は一生貴方についていきます。

 そんなロボット、俺はいらない。

 昔の人はSNSでそれと近い人間関係を築いていたらしい。

 そして今の人間は、人造人間やロボットなどと虚しい関係を築いている。技術は進化したが、人間の本質や行いは変わっていない。

 バカだと思う。

 愚かだと思う。

 望海の言う通り、人間と人造人間の心の本質は違う。

 俺は人間が持つ心を大切にしたい。俺を絶対に嫌いにならない女の事を愛せるはずがない。

 俺は望海が好きだ。

 望海と結ばれさえすれば、この取り残された日本も、世界も、ユートピアになるんだ。人にとっての世界は世界ではない。あくまでも自分が主役で自分だけが望む世界の事を言う。

 俺は、大切な人間と自分だけの世界が幸福ならそれで良い。

 例え世界が地球上にあるものだろうが、架空の世界だろうが。

 なんでも良い。

 俺が幸せなら。

 他の事なんて、どうでも良い。


EP29 幸せが終わった日

・大和谷駆


 日本という国に産まれて、シンギュラリティが到達した世界で、その恩恵を十分に享受出来ない日々は幸福とは言えなかったけど、客観的に見れば決して不幸でもなかった。不老不死を求めるのは不幸だからではなく、幸福を手にするために他ならない。そして洞窟暮らしは未来の幸福を掴み取るための若干の不自由的生活である。大昔のヒッピーのように確固たる意思を持っていた訳じゃない。

 あくまでも客観的視点で見れば不幸なんかじゃない。不幸な訳がない。この世界に不幸なんていう概念は無いとされている。もし不幸を感じている奴が居たとしたら、そいつは精神異常者だと思われてしまう。だから「自分は不幸だ」なんて思っちゃいけない。

 なぜ不幸ではないのか。様々な理由があれど、やはり一番の理由は資本主義……いやそんな堅苦しい言葉を使う必要はない。単純にお金で苦しむような生活から解放されたからだ。

 ベーシックインカムがあるし生活援助もあるから飢え死にする事はない。病院もタダだし、健康を促進するナノボットのおかげで病気にもならない。SISAはゲノム編集を世に解き放つ事は無かったが、それは大きな問題ではない。

 不老不死になるためには大量のお金が必要だし、俺達の身近に最先端の技術は無いけど、とにかく生きるだけなら不自由はない。

 洞窟に住んでいるのは家を借りる時の初期費用を払いたくないから。不老不死の薬代を貯めるために節約しているだけ。もちろん洞窟暮らしを続けられているのは、その気になればいつでも家に住めるからという安堵感が大きな後押しになっているからでもあるが。

 不老不死。それさえ手に入れられれば、他に望む事など無い。俺たちは不老不死の力を得るその日を夢見ている。自分たちの生活をより良いものにするのは、不老不死の体を得てからだ。

 お金を貯めて不老不死になって、後は三人で仲良く暮らしながら退屈からの脱却方法をのんびり考えていけば良い。不老不死にさえなれば、「不老不死になれなかったらどうしよう」なんていうプレッシャーから解放されるから、きっと何事もうまく進むだろう。望海が不老不死の力を得れば俺とセックスする気になるという理屈は分からないでもないのだ。

 年を取る。ヨボヨボになる。いつか死んでしまう。そんな不幸な未来さえ消滅してしまえばもう悩みなど消滅する。無敵の心で世界を抱きしめられる。

 不老不死になる。洞窟暮らしを続けていればその夢はいつか必ず叶う。希望は最大限の栄養分だ。俺たちは問題なかった。

 全ては、限りない幸福のためなのだ。俺達は決して不幸ではない。


 ある程度は満たされていた。

 希望もあった。

 でも。

 あの日。希望は死んだ。

 SISAに食料をもらって洞窟に帰ると、そこには全裸の望海とエルが横たわっていた。二人とも血だらけだった。

 嘘だろとか、信じたくないとか、夢であってくれとか、そんな月並みな現実逃避の言葉が頭の中で飛び交った。

「望海! エル!」

 俺は食料が入ったカゴを放り投げて二人に駆け寄った。望海は細く、今にも消え入りそうな声で言った。

「お父さんが……ここに来たの。知らない人と一緒に。……でね……お父さんに……いっぱい殴られて……レイプされちゃった」

「……」

「お父さんね、いつか私を犯してみたかったんだってさ」

「……」

「あの知らない人はね……私には手を出さなかった。エルだけに……。なんか……ね、あの人は……人間とセックスしてみたかったんだってさ。……あと……SISAの腕章つけてたから……SISAの人だと……思う。……ははっ。SISAだよ。SISAの人間が……二人とも……SISAなのに……いや…………SISAだから……」

 頭が真っ白だった。意味が分からなかった。何が起きたのか。どういう事なのか。

 アヤは父親にレイプされた。エルは一緒に居た知らない人にレイプされた。

 本当に、意味が分からなかった。

「娘をレイプするとか……狂ってるよね……」

「……」

「その……知らない人は……ほんと……誰だったのか……全然分かんない。でも……くさかった。ねぇヤマト君。なんなん……だろうね。……あの匂いはさ」

「おい、望海?」

「ヤマト君……」

 エルの弱々しい声が響いた。エルの方が出血は明らかに多かった。

「あの……知らない男にね、聞かれた。……お前らはここで……男と三人で暮らしてるのかって」

「……」

「羨ましい……って。叫んでた」

「……」

「二人にいっぱい……殴られて……蹴られて……レイプされちゃった。あの人……くさかった」

 望海の瞳から、涙が溢れる。

「ごめんヤマト君。……始めて……お父さんに奪われちゃった」

「望海……」

 俺はいつのまにか駆け出していた。後ろから望海の声が飛んでくる。

「ヤマト君!」

「……」

「もう……とっくのとうに……どっか行ったよ」

「……っ!」

 俺は地面に転がっている桃を踏み潰した。ワガママを言って泣き叫ぶ子供のように、桃を何度も何度も踏み潰した。他にもキャベツ、ニンジン、タマネギ、ありとあらゆるものを踏んで踏んで踏みまくった。

 人間とセックスしたかったから?

 ただそれだけ?

 それだけの理由で赤の他人をオモチャにするのか?

 自分の娘とセックスがしたかった? 望海の父親はSISAで働くお偉いさんじゃないか。心も体も満たされているはずじゃないか。

 なのになんで。

 どうしてこんな事を?

 一緒に居たという知らない人はもちろん、望海の父親も一度も見たことがない。それでも俺は顔さえ知らない人間に対する殺意で体中が満たされ、まるで体が自分以外のものになってしまったような感覚に陥っていた。歯ぎしりしたくても歯が噛み合わない。頬の筋肉がわなわな痙攣して自分のものじゃないように感じてしまう。

「ヤマト君」

「……」

「お父さんが……言ってた。刺激が欲しいって」

「刺激……?」

「人間は変わらない。……ユートピアなんて……どこにも無いんだね」

 腸が煮えくり返る。

 言葉にならない怒りがこみ上げる。

 体中の筋肉に、骨に、熱が帯びていく。

 許さない。

 絶対に許さない。

 人間も、世界も。

 俺は絶対に許さない。

 シンギュラリティなんて。

 こんな時代なんて。

 性根の腐った人間なんて。

 俺は絶対に認めない。

 

 俺は望海とエルを毛布でくるんだ。とにかくSISAの病院に連れていかなきゃいけない。二人とも体中傷だらけで血だらけで、目をそむけたくなるような姿だ。

 なんでこんな事に。

 何も悪い事なんかしてないのに。

 何故。何故。何故。

 でも。

「……今、SISAを呼ぶからな」

 この世に助けを求められるのはSISAしか存在しない。二人はSISAの人間にレイプされたのに、どうして俺はSISAに助けを求めなきゃダメなんだ? それでも俺はICチップが搭載されている腕に向かって声を出そうとしたが、喉の途中で「ひくっ!」としゃっくりのように声がつかえて出てこない。必死に声を出そうとするが、声はなかなか出てこない。

「ごめんねエル。ごめんね。助けられなくて……」

 望海は何度も、泣きながらエルに謝っている。

 なんでお前が謝るんだ。なんでお前が泣かなきゃいけないんだ。

 すぅっと息を吸い込む。

「あいつらは」

 やっと自然に声が出た。伝えなければいけない。俺の殺意を。

「……あいつらは絶対に俺がぶっ殺してやる。誰も思いつかないような方法で苦しめて苦しめて苦しめて殺してやるんだ」

 俺はそう誓い、やっとの思いでSISAに連絡を取った。

 おかしな話だった。

 何故SISAの人間に悪夢を見せられたのにSISAを呼ぶんだよ。狂ってる。理不尽すぎる。

 そして何より……。

 何故、エルの膝下にあったかすり傷が、どこにも見当たらないんだ?


EP30 私は私?

・大和谷駆


 小樽から札幌まで行き、三角山の頂上まで登った時の俺はまるで白昼夢を見ているようだった。

 俺の感情を誰かに語って聞かせるつもりはない。悲しいとか、辛かったとか、苦しかったとか、そんな言葉で表現できるものではない。もちろん辛すぎて何も覚えてないなんて事もない。俺は確かに覚えている。全てを。

 望海とエルをSISAの手で病院に運んでもらった後、夜中に三角山を登った。俺はあのガキに教えてもらった情報を鵜呑みにしてここを訪れた。

『洞窟から出てきた男二人が何かを運んでた。大きな袋で中は見えなかったけど、凄く重たそうだった。三角山に捨てるとか言ってたよ』

 ガキはたったそれだけの情報を俺に伝えただけで後は何も言わなかったし、聞いてこなかった。

 俺は漠然と考えた。この世界では本人が望まぬ死を遂げた場合、他人の一存で蘇生させる事が出来る。方法は簡単だ。当人のデータを用意した器に移植する。それだけだ。コンピュータみたいなもので、たとえコンピュータのパーツが全てイカれても、データさえ生きていれば同じ構成でパーツを組んでデータをインストールすれば、壊れたコンピュータと同じコンピュータを作れる。

 つまりそういう事。綾瀬望海とエルヴィラ・ローゼンフェルドの器とデータさえあれば、人間なんて簡単に作れるのだ。

 しかし。人間の情報はリアルタイムでネットワーク上に保管されているが、器は自分で用意した物しか存在しない。望海とエルは半年に一回念のために器を更新していた。

 そしてエルの体には、この前出来たばかりの傷がなかった。

 それはつまり。

「……あ」

 三角山の、頂上だった。

 夜。冷たい風が吹きすさぶ殺風景な小さな山のてっぺん。

 そこが、二人の墓場だった。

 そこには頭があった。腕があった。足があった。心臓があった。それぞれのパーツが人間の形になるように並んでいて、綾瀬望海の脳みそはハエがたかっていた。何匹もの野犬が望海に群がり、足や腕を舐めしゃぶっていた。

 バラバラに切り裂かれた体のパーツや臓器は犬の糞や虫で犯され、食べ残しのご飯のようになっている。

 野犬が望海の頭部を踏みつけ、クソを漏らした。他の野犬が望海の頭部を鼻でつつき、頭部は弱々しく転がった。望海と目が合った。

 バラバラになった望海の隣には、同じくバラバラになったエルが置いてあった。エルも野犬に舐めしゃぶられ、いたぶられていた。

 野犬たちが俺に気がつき、低く唸った。

 刹那。背後で空を切るような音がした。

 気づいた時には、野犬たちが血を流して倒れていた。

 振り返ると、そこには絶世の美女が立っていた。

 冷徹な瞳。見るものを問答無用で黙らせてしまうような威圧感。圧倒的な存在感がありつつも、彼女は確かにありえないほどに美しく、清涼だった。

 黒いドレスを着た彼女は、右手に無反動銃を持っていた。

 この世界では神様を信じるものはいない。

 でも、俺には、こいつが女神か何かに見えた。

「はじめまして。相聞歌凛音です」

 澄み透った声の彼女は淡々と名乗り、バラバラになった二人の前に座り込んだ。

「私、エルの友達なの」

 相聞歌の声音は平坦だったが、エルを見る彼女の顔は悲痛に歪んでいた。

「貴方、大和谷駆君よね? ちょっと聞いてもらえるかしら」

 相聞歌はそう言って、腕に何か呼びかけた。宙に「SOUND ONLY」と書かれたホログラムが表示され、二人の男の声が再生され始めた。

『源治さん、どうしてわざわざ俺たちが犯した記憶まで取り込んだんです? これじゃ後々面倒な事になりますよ』

『稲穂さん。分かってないですな。一度レイプされた娘を、またレイプするためじゃないですか』

『あぁ。なるほど』

『今から二度目が楽しみですよ。自分をレイプした父親にまたレイプされる。望海はどんな顔をするんでしょうなぁ』

『いやはや。源治さんは本当に面白い事を考える』

『稲穂さんも娘を犯してはどうですか?』

『いやいや。ウチの娘はあの通りグロテスクな顔をしてますから。私はあの金髪のような可愛らしい子が好きなのです。いやぁ、きゃんきゃん泣きわめく金髪ロリっ子の中にチンコをぶっ刺した瞬間は、もう言葉に出来ないほどの快感に襲われましたよ』

『変わった趣味だ。やっぱり女は望海のようにスタイルが良く、胸の大きな子に限る』

『まぁ人それぞれですよ。ですがどうです源治さん。ウチの娘をレイプしてみては』

『ほう。なんでまた?』

『知人の娘を犯すというのも、また一興かと思いまして』

『なるほど一理ある。まぁ何にせよ、レイプしようが殺そうが代わりはいくらでも用意出来ますからな。あぁそうだ。綾瀬望海型のセクサロイドを作るのも良いかもしれませんな』

『それは面白い』

『良い世の中です。SISAに居れば何をしても逮捕されないし、魔法のような力で人生を謳歌できる。未知の技術を得たこの時代、倫理や道徳さえ捨ててしまえば、この世界はまさにユートピアです』

『違いない。まぁペンラムウェンのように倫理や道徳を誇りにしているヒッピーも居ますが、あぁいう奴らは永遠に幸せにはなれないでしょうな』

『全くバカな連中です。自ら幸福を投げ捨てておきながら、より良い世界を望んで戦うなんて破綻した野望でしかありません』

『その通りです。それにもう少しで世界は更に面白くなるというのに』

『あの計画は本当に楽しみですな。あっちの世界なら、現実で不可能な魔法も可能になる』

『本当にそうですな。この世界を超えるユートピアが実現する。まさにこれ以上ない理想です。ところで源治さん、とりあえず器はここに用意しましたが、本物の二人はどうしますか?』

『そうですなぁ。三角山にでも捨てておきましょうか』

『三角山?』

『札幌の西区にある小さな山です』

『はぁ。なんでまたそんな所に』

『私は琴似で生まれ育ったんですがな、実は十歳くらいの頃、同い年の女の子と三角山に登った事がありましてな。私は頂上で人生初の告白をしたんですが、振られてしまったんです』

『ほほう?』

『だから、あの淡い思い出の場所を汚したいと思いまして』

『良く分かりませんな。甘く苦い思い出の場所はいつまでも綺麗にしておきたいと思うものでは?』

『いえいえ。甘くなんてないです。こっぴどく酷い振られ方をされましてな。私はトラウマを負い、その後は好きな人が出来ても自分から告白をする事は一度もありませんでした。だからこそなのです。あの胸くそ悪い思い出の場所を汚したいのです』

『なるほど。貴方は昔も今も、自分を振った女の子を殺したいと願ってるんですね』

『そういう事ですなぁ。しかし、本当に殺す事は出来ないでしょう』

『そうでしょうなぁ』

『そうだ。体をバラバラにして、野犬でもけしかけて死体を食わせましょうか。何も悪い事ではありませんよね。だって私達はちゃんと二人を生き返らせてあげたのですから。二人は生きていて、私は気持ち良く娘の中に射精して、思い出……いや因縁の場所を汚して満足出来る』

『いやぁ。良い事づくめ。まさに世はユートピアですなぁ』

『はっはっは!』

『はっはっは!』

 二人の会話はそこで終了した。相聞歌は腕を組み、無表情に望海とエルのバラバラ死体を見つめながら、淡々と言った。

「私の友達に真木柱って奴が居るんだけど、そいつの父親がSISAの職員なの」

「……」

「内緒で二人の通話記録を取り出してもらったって事よ」

「……」

「あの洞窟、元々はSISAの所有物だったんでしょ。そりゃ不法侵入されて当然よ」

「……」

「私はとある手段によってエルがレイプされたと知って、すぐに洞窟に行ったわ。洞窟の前で座り込んでた子供に全てを聞いた。そして通話記録を抜き出してここに来た」

「……」

「病院に居る二人はニセモノよ」

「……」

「ここに居る二人が本物なの」

「……」

「綾瀬望海とエルは死んだ」

「……」

「病院に居る二人のニセモノは、自分たちが殺されて山に捨てられた事を知らない。レイプされた記憶だけがある。真実じゃない」

 相聞歌は静かに、ゆっくりと俺の胸ぐらを掴んだ。

「私はずっとエルと友達だった。一緒に暮らしてた。でもあの子は退屈だからとか言って札幌を飛び出した。小樽の洞窟でアンタ達と暮らしてた。でもさ、ねぇ。なんでこんな……」

 相聞歌はそこまで言った所で口を閉じた。

 ふっと体の力が抜けて、俺は膝から崩れ落ちてしまう。

 俺はさっきまで、人間じゃなかった。

 二人が酷い目にあって、頭が怒りでいっぱいになった。

 でも。この時代はどんな大きな怪我をしても必ず治る。

 望まれない死を遂げた場合、生き返らせる事が出来る。

 そして。本人が望めば、辛い記憶を消去する事も可能な時代だった。

 だから。

 俺は。

 ほんの少しだけ。

 大丈夫だろ。そう思っていた。

 怪我は治る。

 二人は死なない。

 色々と落ち着いたら、レイプされた記憶を消せば良いや。

 そういう気持ちが、確かに少しはあった。

 どう考えてもおかしい。あんな悲劇を見てそんな事を考える人間は人間じゃない。

しかし俺は今この惨状を目の前にして、やっと人間になった。

 いや。

 俺はこんな惨状を見ないと、人間になれなかったのか?

「大和谷君」

 相聞歌の瞳は暗く淀んでいたが、淀みの中にも確かな活力を感じられた。

 俺を見据えてはいるが、貫通してどこか遠くを見ているような、圧倒的な眼力。

「記憶をどうこうした所で、二人が殺された事実がこの星から消える事はありえない。この現実と怒りを忘れるな。アンタの心に刻まれたこの光景が、この怒りが、この憎しみが確かな現実世界なんだよ。アンタは全てを受け入れる義務がある。自分のために、エルのために、綾瀬望海のために、人類が紡いできた歴史と未来のために」

 俺は拳を握りしめた。

 激情が体を駆け巡る。

 望海とエルとの思い出が脳裏をよぎっていく。ほっぺたを引っ張り合っていた二人を思い出す。

 そして、気がついてしまう。

 俺たちは恵まれていた。

 幸せだった。

 全てが、破壊された。

「……俺は。イヤだ。こんな世界は」

 ゆっくりと二人の死体に近づき、座り込む。

 血と砂と泥と犬の糞と虫にまみれた二人の顔をそっと撫でる。

「こんな……こんな醜い世界は……」


・必要無い

・必要だ。世界は滅びちゃダメなんだ! 俺はこれからも楽しく生きていくぜ! 世界が必要無いなんて、そんな発想ただの中二病だぁ! イエーイ! 


「必要無い」

「……」

「こんな世界……必要無いだろ」

 世界は必要無い。

 でも、世界は滅びてくれない。

 だったら。

 俺は。

 せめて。

 幸せ……いや楽に、そう楽になりたいな。もちろん、二人にも楽になって欲しい。

「病院、行ってくるよ。SISAに頼んで記憶を消してもらうんだ。俺の記憶も、二人の記憶も」


『内容、把握しました。指定日時の記憶を全て抹消する。間違いありませんね?』

『はい』

『では、記憶抹消のプログラムを開始します。よろしいですね?』

『はい』

『それでは記憶抹消プログラム、スタートします』

『はい』


記入者:大和谷駆


『綾瀬源治は、SISAのデータベースから望海とエルの器を取り出し、器に記憶と魂を移すことにより新しい望海とエルを作り出して洞窟に放置した。通話記録の通り、あの野郎は二人にレイプされた記憶を埋め込んだまま再生しやがった』

『望海とエルはレイプされた事を知っているが、実は殺されて山に捨てられた事は知らない』

『許せるはずがない。全てを忘れるべきだ。俺も、望海も、エルも。何もかもを』

『俺は望海とエルに記憶を消去するべきだと告げた。でも二人とも記憶消去を拒否した。望海はハッキリと断言した』

『私はこの憎悪を忘れたくない』

『エルもこの憎悪、悲劇を忘れたくない、忘れてやるもんかと言った。俺にとっては驚天動地だった。言わずもがな、二人が記憶の消去に応じなかった事に驚いている俺は二人の事を何も知らないのと同義だったし、二人の気持ちを理解出来ないどころか理解する気も無かったのだろう』

『俺は絶望した。二人がレイプされた記憶を保ち続けるのなら、望海とエルが実は殺されて山に捨てられた事を知っている俺はどうすれば良いんだ?』

『もし二人が記憶を消去しないまま俺だけ記憶を消去してしまえば、それは俺たちの関係の終焉を意味する。それじゃダメなんだ』

『それじゃダメなんだ』

『それじゃダメなんだ』

『それじゃダメなんだ』

『何が? 望海とエルにとって良くないからダメなのか?』

『違う』

『俺が、ダメなんだ』

『俺は記憶を消去したい。そのためには二人にもレイプされた記憶を消去してもらわないと困る』

『俺は望海とエルを何度も何度も説得した。レイプされた記憶は消すべきだと何度も何度も』

『そして、ついに二人は説得に応じてくれた。二人の絶望的な記憶は全て失われた。怪我も簡単に完治した。これで全て丸くおさまった。円満解決だった』

『何も起きなかったんだ。望海とエルは死んでないし、レイプもされていない』

『もちろん、望海とエルをレイプして殺したような悪魔も、この世に存在しない』

『さぁ。後は俺の記憶を消去すれば良いだけだ』

『悲しい事なんて何も起きなかったんだ』

『世界は、素晴らしい』


『俺たちは新しい家をもらった。何故ならこの世界で不老不死を求めて生きる必要が無くなったからだ。この世界はもう少しで終わり、新しい世界が始まる』

『新しい世界において人生は全てが夢幻。喜びも悲しみも全て嘘っぱち。気楽で素晴らしい世界だと思う。そういう世界がもう少しで始まる。俺の心は穏やかだった』

『そういえば最近、山の中で女のバラバラ死体が二体も発見されたらしい。SISAは身元を隠蔽しているらしく被害者が誰なのかは分からないけど、本当に世界というのは恐ろしい。さっさとこんな世界にはおさらばしたい所だ』

『……そうだ。あっちの世界に行く前に望海に告白しよう。どうせ新しい世界では現実世界の記憶が継続されないのだから、オーケーされても振られてもどっちでもいい』

『ワクワクしてきた。さて、どんな言葉で告白しようかな? まぁ百パーセント振られるだろうけど』

『告白の方法を考えるのは楽しかった。幸せだった』

『俺は幸福に包まれていた』

『俺が幸せならそれで良い。俺と、俺の身近な人だけが幸せならそれで良い』

『俺たちが幸せなら、それだけで世界はユートピアなんだ』


「俺と付き合ってほしい」

「うん。いいよ。付き合ってあげる」

「え?」

「いやだから、付き合ってあげるんだってば」

「は? なんで?」

「頭大丈夫? 今、ヤマト君が、私に、告白したんだよ」

「本当に良いの?」

「いやアンタ自信無さすぎでしょ。そんな度胸の無さでよく告白しようと思ったね」

「俺と付き合ってくれるの?」

「本格的に頭大丈夫? 良いって言ってるでしょ」

「俺は世界一の幸せものだ」

「大げさ。ねぇヤマト君」

「お、おう?」

「新しい世界が始まるまで、楽しく過ごそうね」

「………………あ」


「今日はついに世界が終わっちゃう日だね」

「これから新しい世界で暮らす事になるけど、新しい世界ではまっさらな記憶で産まれてくる事になるんだよね」

「つまり、新しい世界が始まったら、私達は赤の他人になっちゃうの」

「うん。悲しいね。せっかく私たち恋人になったのに、離れ離れになっちゃうんだもん」

「ねぇ、そんな悲しい顔しないでよ」

「短い間だったけど、彼氏になってくれてありがとう」

「ねぇヤマト君。新しい世界が始まる前に、セックスしようか」


「あレ? おかシイな。どうシて、ハジメテなのに、血が出ないンだろウ?」


「待ってくれ」

「まだ」

「俺はこの世界に」

「未練が」

「イヤだ」

「永遠に」

「現実世界が続けば良いなって」

「思ってるのに」

「新しい世界なんて、欲しくない」

「なぁ。俺たちあっちの世界で、また会えるかな?」


「やぁ望海。あっちの世界に旅立つ前に、一発ヤろうじゃないか」


「おや、君は大和谷駆君だね。君は悪い子だな。望海の記憶を消すように勧めたんだろう? 私はな、私に犯されたという記憶を持っている望海をまたレイプする日を楽しみにしていたんだぞ」

「だから君は死ぬべきだ。まぁ現実で死んだ者はあっちの世界には行けないが、しょうがないよな」


 バァン!


「ヤマト君!」

「邪魔者は片付けた。さぁ望海。お前の中にたっぷり私の精液を注いでやるぞ。記憶が消えたのは残念だが、過ぎた事はしょうがない。また新鮮な気持ちでセックスを楽しもう」

「ヤマト君! ヤマト君!!!」


「ふう。やっぱり望海とセックスしてる時が一番気持ち良いな」

「さて。もう少しで新しい世界が始まるな」

「そう。新しい世界が始まるのだ」

「なぁ望海」

「あっちの世界でも、いっぱいレイプしてやるからな」


BAD END 

                                終わり


「……必要無い。どう考えても必要無いんだよ。こんな世界」

「SISAに頼んで記憶を……」

「でも」

「え?」

「俺にはこの世界が必要だ」

「……」

「俺は絶対に記憶の消去なんて求めない。あいつらは自分が死んでこんな有様になってる事を知らない。あくまでもレイプされたけど殺されはしなかった。そう思ってるだけだ。それはそれで良いと思う。あいつらはレイプされた記憶すら消去したがらないだろうけど、それが正解だと思う」

「アンタ……」

「でも俺は全部知ってる。あいつらが殺された事を知ってるんだ。俺はこの記憶を絶対に忘れない。忘れてやるもんか。俺がこの記憶を忘れたら、二人を殺して山に捨てて犬のオモチャにした奴らが居なかった事になる。そんなの許さない。俺はどんなに苦しくても、この憎悪を抱き続けながら生きてやるんだ」

「……苦しくない?」

「苦しいさ。でも忘れちまったら復讐すら出来なくなる」

 罪の無い人間がバラバラになっても、世界は回り続ける。

 どんなに願っても、世界は終わらない。

 じゃあ記憶を消去するか?

 それとも死んで楽になるか?

 違うだろう。そうじゃないだろう。

 誰が死んでやるもんか。俺は生き続ける。そして生きる意味は、目標は、憎悪でも良い。

 俺はこの憎悪を忘れたくない。それに尽きる。この感情はうまく言葉で説明できるものではないけど、揺るぎない信念が確かにある。言葉に出来ないような感情だけど、それでも俺は断言できる。俺はこの憎悪を忘れたくない、忘れるべきじゃないのだと。この感情だけはどんなに優れた人工知能にも理解出来ないはずだ。理解されてなるもんか。

 俺は虫を払い除けながら、バラバラになった望海とエルの体を丁寧にかき集めた。涙をこぼしながら、鼻水を流しながら、二人の頭、腕、足を拾い上げ、持てるだけの部位を胸に抱いた。

「……ありがとう。こんな俺と友達で居てくれて」

 二人を抱きしめながら、ずっと恥ずかしくて言えなかった言葉を口にした。

 ありがとう。単純だけど一度でも良いから伝えたかった言葉。

「……逃げないんだね」

 相聞歌が俺の横にしゃがみこみ、俺が拾いきれなかった部位をかき集め始めた。

「埋葬は出来ないから、どこかに保存しておきましょう」

「……これを」

 俺は胸の中で、二人を強く抱きしめた。

「これを、宝物にするんだ」

「……」

「望海とエルはずっと俺が大事にするんだ。もう誰にも傷つけられないように。二度と悲しまないように。なぁ相聞歌、俺はちゃんと笑えてるか?」

「……えぇ」

 ゾクッ。

 唐突に奏でられるメロディ。

 いつもの、透き通った女性の声。

『メルクリウスザンバーが売れました。購入者は明日風百合さんです』

「……」

『良かったですね。三十五万ゴールド儲かりました。店の改装費用にでも当てますか? それとも新しい武器を買ってドラゴン退治にでも行きますか?』

 俺は右腕に装着しているリングをひきちぎり、思い切りぶん投げた。リングは音も無く転がり、音声はブツッと途切れた。

 俺は今まで何をしていたんだ?

 架空世界?

 独立世界?

 ふざけるな。

 人生は、世界は、真実は、記憶は、この星の大地に足をつけている人間だけに与えられる特権だ。

 俺は生きている。何が何でも生きてやる。絶対に、必ず。

「なぁ。一つ聞いて良いか」

「何かしら?」

「なんで、お前は……。あの音声を、わざわざ俺に聞かせたんだ?」

「それについてはただ不運だっただけ。もし私の方が先にここへ来てたら、遺体を処理して何も無かったようにしてたと思うわ。でも貴方の方が先に見てしまった。だったら真実を伝えない訳にはいかないでしょう」

「……いや。でもお前は何も知らない振りをする事も出来たはずだ。友達のエルを探しにここへ来て、死体を見て、どうしてこんな事になったんだと慌てる振りも出来たじゃないか」

 八つ当たりだったのかもしれない。

 あの二人の会話を聞かなければ、知らなければ、俺はギリギリの所で踏みとどまれたかもしれない。踏みとどまり、楽な道を選べたかもしれない。

 でも。聞かずにはいられない。

 その答えを聞くまでは。

「なぁ。お前は本当に真実を伝えるためだけに、あの音声を俺に聞かせたのか?」


 その言葉が、引き金だった。


 相聞歌凛音は、俺に告げた。


「デジタル世界移行計画。この悲劇を阻止するための仲間が欲しかったのよ」


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