第二話 二人の作者

EP9 時が過ぎて希望に気づく

・佐伯可奈子


 そこには明日風真希の死体があった。

 頼みの綱は死んじまった。私が知る範囲で希望の人となりえるのは望海とヤマトしか居ないけど、凛音が発動する第二幕無しに希望を見いだせるほど私は能天気じゃない。

 負けたなこりゃ。

 私はその場に座り込んで、どうしたもんかと頭を抱えた。これは一体何度目だ? なぁアスカ、お前は何回死んだんだ? 私は何回、お前を見殺しにした?

 ハッキングは始まったばかりなのか? それとも、もう少しで終わるのか?

 なーんにも分からん。クソったれだ。

「なぁアスカ。駒だけじゃ人生ゲームなんて出来ねぇよな?」

 ズタボロのアスカに向かって言い放ち、セブンスターを咥えた。

 アスカは裸で、目や顔やお腹には犬の糞が塗りたくられ、いたる所から大量の血を流している。口の中には犬の糞とか雑草とかゴミが詰め込まれ、両目はタバコの火で完全に潰されている。

 アスカがコレクションしていた食玩のフィギュアはわざわざ切り刻まれていて、見事なバラバラ死体が部屋中に転がっている。人間の執念ってもんは恐ろしい。これは若さゆえの残酷さなんだろうか。すっかり心が枯れ果てた私には、ここまで人を憎めるような力は残ってないけどね。

 つっても、大前提としてアスカはなーんにも悪いことしてないし憎まれる筋合いすら無いんだけども。いやはや、逆恨みってのは恐ろしいよ。

 じゃあ何故こんな悲劇が起きたのか? っていう疑問が当然浮かんでくるけど、この疑問は不毛の一言に尽きる。

 物事の大小はともかく、人生ってのは「どうしてこんな目に合わなきゃダメなんだろう」みたいな出来事がひたすら続くのが当たり前なんだ。そういう風に出来てんの。ゲームと違って現実なんて赤マスばかりで青マスなんか滅多にない。

 全ては運命だ。C言語の先に未来がある。そういうもんだろう。

 ゆっくりと煙を吐き出す。血の匂い。死体の匂い。運命が紡いだ結果の未来。ここは赤マス。

「そういうもんか……」

 タバコの灰がぽろりと床に落ちる。

 私は卑屈になってるだろうか? 否定は出来ない。じゃあさじを投げてるかと言えばそうではない。

 だって、私泣いてないもん。これが答えだろう。

 確かにこの結果は「そういうもんだ」の一言で表現するしかないけど、何も最終結果が出た訳じゃない。

 故に、私はアスカのために泣いてあげられない。

 だからせめて語りかける。自分のために。

「私ね、新見歌鈴っていう友達がいたんだ」

 自分の声がむなしく響く。もし輪廻という概念が本当にあるのだとしたら、また違う形のガールズ・ナイト・アウトもあり得るのだろうか?

「いつも一緒につるんでた。でも、歌鈴は中学生の時に自殺しちゃったんだ。ねぇ、どう思う? この話を聞いてアスカはどう思った?」

 遥か昔に死んだ友人の顔を思い浮かべる。私は悲しい。これは間違いない。あくまでも私の世界では。

「分かってる。だからなんだって話だよね。それで良いんだ。人間は赤の他人の死に涙を流せない。流しちゃいけない。星の数ほどいる赤の他人が死ぬ度に泣いてたら、水分不足で心も体も枯れちゃうもん」

 自分に言い聞かせる。私は歌鈴が死んで悲しい。その気持ちだけあれば良い。

「アスカ、よーく聞け。人生の歯車を動かすためには、どんな感情も介入しない第三者が必要なんだ。第三者こそ神様になれる定めなの。だから……なんていうか……お前はこれからも第三者の犠牲になるし苦しい思いをするだろうけど、だからって第三者が悪とみなされるとは限らないんだ。それは分かって欲しい。だってアンタだって歌鈴にとっては第三者なんだから。ごめん私自分で何言ってるかさっぱり分からない」

 タバコをカーペットですり潰し、壁にもたれかかった。いつの間にか汗だくで、服が体にまとわりついて気持ち悪い。北海道でもたまに太陽が思い出したように熱攻撃を与えてくる日がある。道産子は猛暑に慣れてない。これはしんどい。

 ペットボトルをひっつかみ、カラカラになった喉にガラナを流し込む。私はアスカに何が言いたかったんだ? 暑くて頭が回らない。いや、そんなのは言い訳か。

 本当は分かってる。何かを伝えたかった訳じゃない。

 ただ、自分を良い人にしたかっただけ。

 この私が? 落ちたもんだ。自分でもビックリするよ。今ならあいつの気持ちが良く分かる。そりゃ色々諦めたくもなるだろうし、かと言って諦めてすんなり生きていけるほど要領の良い奴でも無かっただろうよ。

「あはっ。一歩遅かったって感じ?」

 声。低くうっとうしい声。

 顔を上げる。部屋の出入り口に立つ醜い少女。

 稲穂南海香。諸悪の根源でありピエロでありすんげぇブサイクな女。

 今はこいつの顔なんて、見たくなかった。

「邪魔しようとしたって無駄だよ。ペンラムウェンに勝ち目なんて無い」

「おい、そのブサイクな顔をこっちに向けんな。気分が悪くなる。奇形は奇形らしくマスクでも付けてろよ」

 稲穂南海香の顔がみるみる赤くなっていく。崩れた顔のチンパンジーみてぇだ。

「うるさいうるさい! 負け犬のクセにほざいてんじゃねぇよ。お前らが何をどう望んだ所で意味無いって事そろそろ分かれよ。なに虚しく強がってんだよ。バカじゃねぇの」

「悪いけど、私はずっと努力し続ける人生を過ごしてきたんだ。アンタと違ってね」

「ど……努力したからって必ず報われる訳じゃないし! どうあがいても果たせない夢は絶対にある! お前らが努力したって結果は出ない! ペンラムウェンに勝ち目は無い! アヌンコタンの勝利は揺るがない!」

「いや、ペンラムウェンは勝つよ。私が居る時点で敗北はありえない。確かに今の所はアンタの思い通りに進んでるし、ハッキングも順調なんだろうよ。着々とアヌンコタンの勝利が近づいてるのも、否定出来ない事実なんでしょうよ。でも私には劣勢を覆す力があるし、何より自分を信頼出来るだけの人生を歩んできた」

「出たよ根性論。さっすがへいせ……」

「黙れ」

 私は立ち上がり、稲穂の胸ぐらを掴んだ。

「お前、自分のこと微塵も信用してねぇだろ? 自分を信じる力を持たない奴にどうこう言われたくねぇんだよ。ペンラムウェンは必ず勝つ。よーく覚えとけ」

「私は信じてるよ。自分のこと」

「聞いたよ。お前、記憶力を強める方法、みたいな本を買った事あるんだろ」

「はぁ? なに突然。意味分かんないんだけど」

「あのね、そんな本を読む暇があるんなら、その時間使って記憶したい事を記憶すればいいじゃん」

「だから何の話だよ!」

「バカな人間ってさ、すぐに楽をしたがるの。だから胡散臭いメンタリストとか有名人が書いた自己啓発本を読んだり、怪しいセミナーに出たりして分かった気になって、それだけで自分が強くなったと錯覚するんだ。分かるだろ? 実際胡散臭い奴を信じて敬愛してるのって、大体頭弱そうな奴らばっかりじゃん」

「分かんないって。お前さっきから……」

「お前の強さは見せかけだ。最後の最後、お前は必ず負ける。だから強がるなこのクソブス」

 稲穂は歯を食いしばり、窮屈な泣き顔を見せた。

「ブスにはブスの生き様がある。ブスの生き様見せてやるよ」

「へぇ? じゃあ私は美人の生き様見せてやるよ」

「……」

「おいブス、話聞いてんのか?」

「……」

「アンタだよ。自分の名前も分かんないの? 脳みそまで奇形なんだね。つーかアレだね。きっとアンタの両親もとびきりのブサイクで、とびきりへんてこりんなセックスして産まれたのがアンタなんだろうね。あ、ていうかアンタの顔ってカマキリに似てるね。もしかして両親はカマキリか? あははっ。傑作」

「お前みたいな品性の欠片も無い人間に何を言われても、私は傷つかない」

 私は胸ぐらを掴む手に一層力を込めた。本当なら唾でも吐きかけてやる所なんだけど、それは出来ない。稲穂はクズだけど、稲穂を利用する事で私たちの願いが叶うのもまた事実。コイツを利用している以上、私にはコイツをこてんぱんにする権利は無い。

 と言ってもそれはそれ、これはこれ。稲穂が悪魔と化して罪を重ねている現実がある以上、黙ってやる筋合いは無い。

「バカじゃないの? 私はそもそもおめぇを傷つける気すら無いんだよ。だってアンタみたいな低能クズは傷つける価値すらないんだもん。分かる? その辺に転がってる石ころは傷つけたくならない。でも何千万円もする宝石はなんとなく引っ掻いてみたくなる。そういう事だよ」

「はっ。何を言っても全部強がりにしか聞こえないけどね」

「なるほど。あくまでも私は強がりの負け犬なんだな」

「だからそう言ってんだろババァ。つーか三十路手前にもなってそんなクソ短いスカート履いてんじゃねぇよ。年考えろ。アホか」

 カチン。

 前言撤回。私にはコイツをこてんぱんにする権利がある。

「誰がババァだこらぁ!」

 稲穂の胸ぐらを掴んだまま強烈なヒザ蹴りを腹に食らわせ、拳を顔面に叩き込んだ。

「そうか分かったぞ。お前は自分に傷つける価値があるって認めて欲しいんだな。だったら傷つけてやるよいくらでも!」

 前のめりになった稲穂の顔面を肘で叩きつけて突き飛ばし、よろめいて倒れた所で容赦なく腹を踏み潰し、頭を蹴飛ばした。

「おい分かるかこれが痛みだ! 痛いだろ!? 死ぬほどいてぇだろ!? でもババァって言われた時の私の心の方がもっと痛かった! うえーん! 悲しいよー! おらおらおら死ねぇ!」

 叫びながら稲穂のお腹を何度も何度も踏んだ。佐伯可奈子は暴力的な人間だったかもしれないけど、無抵抗かつ興味の無い人間をいたぶるような奴ではなかった。私の行いは常軌を逸しているし、佐伯可奈子という人格からも大きく外れている。

 それでも、私は暴力をやめられなかった。

 だからこそ、負ける訳にはいかなかった。

 ずっと悲鳴をあげていた稲穂は、やがて声すら出さなくなった。まぁ死んでないけどね。そもそも殺せないけど。例えこいつの顔面にゼロ距離射撃で核ミサイルをぶちこんだとしてもね。

「おい」

 声をかけても返事無し。まぁいいや。

 私は汗だくの髪の毛を乱暴にかきあげた。

 二千十八年。失敗した夏。

 あと二年。いや、また二年。

 アスカの死体を見下ろし、新しいセブンスターに火を付ける。

 私はお前を引き立てる脇役か? これはそのための苦労か?

 違う。

 そんな訳ない。

「主役は私だけどね。譲るつもりはない。これっぽっちもね」


LIVE:二千十八年七月二十九日


「かがりびいいいいいいい……おとめえええええええええ!」

「イっちまってんな……」

「ユリ! 落ち着いて!」

「うわああああああああああ!」

 ユリの絶叫が室内に響き渡る。ダメだ。完全にぶっ飛んでるわこれ。

 私はキッチンの隅で怯えてるアスカを横目で見て、改めて覚悟を決めた。

 私はもう失敗できない。必ずアスカを守り、ユリを最善のタイミングまで延命させる義務がある。

 スカートのポケットに手を触れる。折り畳みナイフはしっかりポケットの中におさまっている。

 もしも望海とヤマトが覚悟を決められないのなら、これを使うしかない。しかし本音を言えばナイフなんて使いたくない。

「あああああああ! おとめえええええええ!」

「っ……!」

 頼む。全てを穏便に済ませるために。

 アンチナノボット、使わせてくれ。マジで。


EP10 アルファベット

・綾瀬望海


「篝火乙女事件について、改めて話し合いましょう」

 私はケウトゥムハイタの中央に仁王立ちしてそう宣言した。ヤマト君たちは神妙な面持ちで腕を組んでいて、いつになく真剣な表情で目は冴えている。昨日はとんでもない出来事の連続でマジ驚天動地って感じだったしまだ興奮がおさまらないけど、私含めてみんな睡眠不足になるどころかぐっすり眠れたらしい。人間はいつだって性欲と食欲と睡眠欲の奴隷だ。

 何はともあれ、この調子なら今から篝火乙女事件の推理というか会議を始めても問題無さそうだね。

 私はすぅーっと息を吸い込んだ。今はとにかく議論、議論!

「とりあ……げほっ」

「なんだよ」

「むせた」

「楽に話せ」

「うん。えっと、とりあえずユリの死は回避出来たけどまだ油断は出来ないよね。ユリが襲われた以上、またユリが襲われる可能性は捨てきれないし、ユリ以外の私らが被害者になるケースも考えられる。何より摩訶不思議な人間や現象が確かに存在している事実を否定出来ない以上、何が起きてもおかしくない。だから今後の対策ってもんを練り練りしたいと思っています」

「事件の主軸は結局どこにあるのかな。アイカプクル? 稲穂? アムリタ?」

 アスカが間髪入れずに予想外の言葉を挟んできたから、私はつい言葉に詰まってしまった。

 佐伯可奈子。エルなんたらなんたら。篝火乙女の未来予測。説明出来ないレベルで狂ってた笹岡麻里奈。これら異常現象や重大テーマをすっ飛ばして、事件の根本的な質問をしてくるなんて意外だった。……いや、意外でもないしむしろ当然か。こんな摩訶不思議アドベンチャーな事について議論するなんて、正直気が引ける。

 初っ端から気まずい沈黙が流れたけど、ヤマト君が重たい空気をぶった切るように口を開いた。

「あくまでも事件に共通性があると考えるなら、今アスカが挙げた三つがキーワードになるのは間違いないが、正直どれもピンと来ないんだよな」

 ふっと空気が和らいだ気がした。うん、そうだよね。正直言うと、私もあんまり摩訶不思議なあれこれには触れたくない。

「だよねー。被害者と加害者の大半はアムリタの元信者だけど、私と稲穂は信者じゃないし。アイカプクルだって……」

 ユリが自然に会話を継いだから、私もふわっとさらっと会話に乗る事にした。

「過去三件の加害者は、稲穂がアイカプクルに誘って拒否った子たちだね。でも笹岡はアイカプクルのメンバーだった。実際は一切活動してなかったから、私もヤマト君も存在すら知らなかったけど」

「笹岡だけ微妙にイレギュラーなんだよねぇ」

「うん。で、もちろんこれだけアイカプクルの人間が関わってる以上、南海香が第一の被害者になってる事には必ず意味があると思うんだけど……」

「結局、稲穂もアイカプクルもアムリタも、おぼろげに関係してるだけであって、決定的な関連性は見えねぇんだよな」

「えぇと……まとめると……」

 アスカがホワイトボードに事件の概要をまとめ始めた。まさに女の子! って感じの丸文字が並んでいく。


■アムリタ・ハント 被害者と加害者の大半はアムリタの元信者。ユリといなほだけが例外。


■アイカプクル 第一、第二、第三事件の加害者は、アイカプクルの誘いを断った人たち。第四(仮)事件の加害者、笹岡はアイカプクルのメンバーだけど、活動には参加してなかった幽霊。


■いなほ 三人の加害者をアイカプクルに誘った経緯有り。第一の被害者。


「こんな感じ?」

「うん。合ってる」

「やっぱりおぼろげなんだよなぁ」

「なんかへったくそなシナリオみたいだよね、篝火乙女事件って。だからこそ困るっていうか」

「あ、分かる。逆にミステリ小説みたいにピシッと筋が通ってた方が推理しやすいよね。これだけ事件の法則性が曖昧だとマジでお手上げだもん」

「全くだ。設定、共通性、法則性、どれもふわふわしてるんだよな。笹岡は殺害に失敗してるから例外なのは当然だが」

「だー。ダメだ意味分かんねー。つーか単純に笹岡の変貌っぷりも説明できねぇよ。あいつマジ普通じゃなかったし」

「こほん!」

「なんだ、どうした。痰でもからんだのか」

 ばちぃん! 思い切りヤマト君の頭を叩いた。

「ちげぇよ! ……ちょっと見てほしいものがあるの」

 私はタブレットをテーブルに置こう……としたけど置くスペースが無い。しょうがなくアスカの愛読書「ニコラ」、アスカのバイブル「ちゃお」、アスカの宝物ポケモンフィギュアを隅に寄せる。にしても子供っぽい趣味嗜好だ。ついでに好きな食べものはハンバーグとオムライスだし、おまけに結構舌っ足らずだし……。

「なに?」

 なんか、いつの間にかリスみたいにひょいぱくひょいぱくグミ食べてるし。ぐぬぬ……小動物みたいで愛くるしい。

「いや、なんでも」

 私は涼しい表情を作り出してそっけなく答え、厳かにタブレットをテーブルに置いた。画面には明らかにアフィリエイト目的で書かれているブログが表示されている。

「何これ」

 訝しげな顔でタブレットを覗き込むユリに向かって、私はにっこり微笑んでみせた。

「トレンドブログだよ」

「それは分かるけど」

「今日の朝、俺がネット徘徊してる時に見つけたんだ」

「ヤマトが?」

 ユリが不思議そうに聞き、ヤマト君は苦い顔で頷いた。

「そうだよ」

「嘘が嫌いなヤマトがトレンドブログをねぇ……。で、これがどうかしたの」

 ユリが分かりやすく含みを持たせた調子で言ったから、私はヤマト君が何か言う前に言葉を発する。

「あのね、このブログには、私たちが見落としてた事件の共通性について書いてあるんだ」

「こんなどこにでもあるクソ気持ち悪いブログに?」

 アスカが小首を傾げ、キョトンとした顔で聞いてくる。またもや小動物、子犬のような愛くるしい仕草。普段ならぎゅっと抱きしめて頭を撫でている所だけど、今はキャッキャッしてる場合じゃない。

「そう、有名人のプライベートな情報を面白半分に書き立てたり、不幸な事件が起きる度に嬉々としてゴキブリのように群がって低レベルな憶測ばかりの記事を乱発して広告費を稼ぐような、さもしくて精神的欠落のある人間が運営しているこんなごく普通のトレンドブログに事件のヒントがあるんだ。とにかく読んでみろ」

 ヤマト君は辛辣に、心底胸くそ悪そうに言い捨てた。彼はトレンドブログやアフィブログというものを相当憎んでいる。いま口にした事もそうだけど、彼は嘘とか誇張とか見当外れな情報満載の記事がネット上に溢れ、真実の情報が埋もれてしまっている現状にも怒っているのだ。もちろん、ウィキペディア知識をひけらかしてドヤ顔する奴らにも、薄っぺらい知識を披露する奴を崇める低能な人間にも。情報の氾濫は人間の脳を退化させる。この世の人類はみな裸の王様、あるいは勘違いラブコメの主人公だ。

「いちいち説明に自分の心情入れんなよ。面倒くせぇ奴だな」

「事実を述べたまでだ」

「つーか、情報源は結局ネットかよ」

「うるせぇな」

 ヤマト君は随分苛立ったように言い返した。

『分かるだろ。事件やゴシップにおいて、ネットに書いてある事はほとんど嘘だ。バカが作る世界の外にだけ真実がある。ガセネタを気にしてバカの仲間になっちまうと、もう何も見えなくなる』

 以前、ヤマト君が事件のまとめに書いた注釈を思い出す。ヤマト君としては、ネットから有益な情報を引き出すのは不本意なんだろう。

「頼りになりますねぇ、ネットは」

 ユリが嫌味満点に言う。アンタも十分、面倒くさい。

「いや、なんかこのブログの運営者って……」

「いいから早く読もう」

「ん、そうだね」

「……」

 アスカとユリは床にぺたんと並んで座って、タブレットに顔を近づけてブログを読み始めた。……アンタらの体には磁石でも入ってるんですか?


『当ブログでは篝火乙女事件の動画を徹底的に調査してみたのですが、殺害現場に必ずアルファベットが書き残されている事に気づきました。地面とか壁とか、色々な所にアルファベットが書き残されてるんです! 動画の拡大写真と共に、書かれていたアルファベットを羅列してみますね』

『第一の事件 地面にAY ※動画では2分41秒あたりで映る』

『第二の事件 公園の公衆トイレの外壁にAS ※同1分27秒あたり』

『第三の事件 電柱にEN ※同3分18秒あたり』

『並べるとAYASENになります。なんのこっちゃって感じですが、筆者はこのアルファベットの意味を突き止めました! それはズバリ、アムリタ・ハント教祖の娘、綾瀬望海(アヤセノゾミ)の事では無いのかと!』

『軽く綾瀬望海ちゃんについて補足をしておきますね。綾瀬望海ちゃんはアムリタ・ハント教祖の娘で、綾瀬源治が逮捕されて組織が壊滅した時に、卒業アルバムや隠し撮りの写真がネットにアップされて、またたくまに美人すぎる娘として大人気になりました。アムリタ・ハント教祖の売春騒動はかなり大きな話題になりましたから、余計に綾瀬望海ちゃんは注目されましたよね。今じゃそこら辺のアイドルよりも人気があるでしょう! かくいう当ブログの管理人も綾瀬望海ちゃんの大ファンです(笑)』

『綾瀬望海ちゃんについては別記事で詳しくまとめているので、気になった人は読んでみてください。写真や経歴など出来る限り詳しく書いたつもりです。それにしても本当に可愛い女子高生ですよね。彼氏とかいるんでしょうか?』

『話が脱線してしまいました。逆説的な考え方にはなりますが、もしもアルファベットが綾瀬望海の事を指しているとしたら、篝火乙女事件には綾瀬望海はもちろんアムリタ・ハントが大きく関わっているのではないでしょうか?』

『もちろんAYASENだけで綾瀬望海と断定する事は出来ませんし、アムリタ・ハントと篝火乙女事件を紐付ける明確な根拠は今の所ありません』

『ですが、どうも筆者は篝火乙女事件という奇っ怪な事件には、アムリタ・ハントが関わっていると妄想せずにはいられないのです。ぶっ飛んだ妄想だと自分でも思いますがね』

『ただ、もしも第四の事件、第五の事件でOZ、OMと続けばアルファベットが意味するものは綾瀬望海で確定でしょう』

『当ブログでは今後も独自に調査を続け、篝火乙女事件や綾瀬望海ちゃんの情報を書いていく予定です。あ、できれば広告クリックしてくれると有り難いです。モチベ上がれば、もっと凄い情報を探し当てることが出来るかもしれませんので』


・投稿されたコメント


『いよいよ盛り上がってまいりました篝火乙女事件! いやぁクソおもしれぇ。毎日ネットで情報収集するの楽しすぎwww』

『管理人よく気づいたよな。普通に動画観てるだけじゃ分かんねぇよあんなちっこいアルファベットw』

『関係無いけど、こういうトレンドブログの文体ってねっとりしてて気持ち悪いよな。わざとらしいですます調だし、無駄にかしこまり過ぎだし、特に必要以上に語りかけるような書き方ほんと気色悪い』

『しかも素人の女子高生の個人情報バンバン載せてんのに、それを悪びれもなく書いてる時点で頭に障害あるよな。まぁネットで騒ぐ俺たちも同レベルのガイジだがなwww』

『つーかよー。まさかここでアムリタ・ハント教祖の娘が事件の中心に浮かび上がってくるとはなー。綾瀬望海かぁー。コイツには要注目だなぁ』

『浮かび上がってねぇよwwww現時点ではまだこのブログのアフィカス野郎の妄想どまりだよwwwwアホかwwww』

『まぁでも、確かにS、Eと続いていけば確定っぽいけどな』

『そうなったら警察もガチで動くだろうな』

『綾瀬望海の中学校の卒アルでオナニーすると死ぬほど興奮する。あー可愛い可愛い』

『望海ちゃんって旭岡高校なんだよなー。夏休み終わったら学校の前で待ち伏せしようかな』

『清楚な見た目だしマジ最高だよな。あー犯したい』

『つーか望海ちゃんってチアリーダーやってんの?』

『やってる。ユーチューブに旭岡高校と香蓮高校の試合(野球ね)の動画上がってるんだけど、途中でちょいちょい望海ちゃん映ってるよ。先頭で踊ってるから見つけやすい』

『見つけた。さっそく抜いてきます』


「うーん……」

 体を寄せ合ってタブレットを凝視していたアスカとユリが同時に唸る。どうでもいいけど、アンタらくっつきすぎ。

「アヤ先輩、人気あるね」

「なんで真っ先に出てくるコメントがそれなのかな」

「いや、こんなキモいコメント見たらまずそう思うでしょ」

「キモいのもそうだけど、ラリったコメントも多すぎ。卒アルでオナニーとかよくそんなこと書けるよね。なんなのコイツら。遺伝子情報がぶっ壊れてる精子から産まれてきたエイリアンか何かなの?」

「お腹痛めて産んでくれた母親に合わせる顔ないだろうね、この連中は」

「キチガイたちのコメントなんかどうでも良いんだってば。……で、アスカはどう思う?」

「どう思うって?」

「アルファベット」

「……」

 アスカは俯いて黙ってしまった。この子は人並みに遠慮するし気も遣える子だ。それに比べて……。

「いやいやアスカ言わずもがなでしょ。このアルファベットはどう考えてもアヤ先輩のこと言ってんだよ。AYASEN、あからさまじゃん。つーか篝火乙女事件ってさ、もしかしてアヤ先輩を追い詰めるのが目的なんじゃねーの?」

 ユリは常に「遠慮」とか「気遣い」という言葉を踏みつけながら人生という名の道路を時速百八十キロで爆走している。私はそんなユリのストレートな性格が結構好きだったりするんだけどね。人間はこれくらい分かりやすい人の方が一緒に居て落ち着くし接しやすい。

 ユリの遠慮のない言葉で踏ん切りがついたのか、ヤマト君は「そうだな」と肯定して表情を引き締めた。

「俺もこのアルファベットはアヤのことだと思う。ただ、さすがに篝火乙女事件はアヤを追い詰めるためのものだ、なんて結論付ける気にはならねぇけど」

「……アルファベットの件だってさ、根本的な所は結局ピンと来ないよね。事件にアムリタが大きく関わってる可能性は確かに捨てきれないから、教祖の娘のアヤ先輩も関係してくるっていう理屈は分かるけど、最終的にはホワイ? って両手広げるしかないんだよね。事件の小枠で見たときの5W1Hは大体分かるけど、大枠で見たときの5W1Hが全く見えてこないんだもん。バックグラウンドが欠落しすぎてる」

「5W1Hってなんだっけ」

「いつ、どこで、誰が、何を、なぜ、どのように」

「あぁ、ミステリでたまに聞くアレか」

「うん。事件の小枠なら七月二十八日に、住宅地で、笹岡が、アスカとユリを襲い、理由は分かんないけど殺そうとした……って感じで大体説明出来るでしょ? だけど篝火乙女事件っていう大枠に関しては、5W1Hじゃ一切説明が出来ない。だからお手上げなの」

「まぁぐぅの音も出ないな」

「うん。だから今は事件の奥底を考える必要は無いと思う。今考えるべきなのは、単純に身を護る方法だと思う」

 私はソファによいしょっと座り、缶コーヒーをぐびっと飲んだ。ぬるい。

「もしアルファベットが私のことを指しているとしたら、四番目の事件でOZ、五番目にOM、最後にIが来るよね。だとすると事件は六人殺して終わりって事になるけど……」

「ユリが殺されていたとしたら、五番目はアスカ、最後はアヤかもな」

「は? 飛躍しすぎじゃね?」

「気持ちは分かるが、よく考えてみろよ。お前は襲われた。アルファベットは十中八九アヤを指している。被害者がユリ、アスカ、アヤと続いていく可能性を笑い飛ばす根拠ってあるのか?」

「まぁ……」

 ユリは少し落ち込んだようにうなだれ、ソフトカツゲンをごくごく飲み、ぷはぁと息を吐いた。

「要するに、殺されないように頑張ろうって言いたいんでしょ」

「あぁ。ユリの件があって、そしてこのアルファベットの問題も出てきた。こういう状況になった以上、ありとあらゆる手段を使って身を護る必要がある」

「ありとあらゆる手段って?」

「そりゃ……ありとあらゆる手段だよ」

「篝火乙女は? また未来予測とかしてないの?」

「何度か話しかけたけど、今のところ反応なし」

「例の金髪は?」

「消息不明」

「佐伯可奈子って人は?」

「めっちゃラインしまくってるんだけど、ガン無視されてる。既読は付いてるんだけどね」

「どうすんの?」

「……」

「今このブログを見せられて、身を引き締めなきゃダメって事は改めて理解出来たよ。で、具体的にどうすれば良いの? 篝火乙女も金髪も佐伯可奈子も頼れないんじゃ、マジどうしようもねぇじゃん」

「……」

「え、なに? ただこのブログ見せて、なんか色々やべぇから気をつけようぜって言いたかっただけ? 何がありとあらゆる手段だよ。無策じゃねぇか」

「すまん」

「考えてみ? 私らを襲ってくる連中がよちよち歩きの幼稚園児なら別に問題ないと思うよ。襲われたらバットでフルスイングして頭かち割ってやれば良いんだもん。でも笹岡みたいな狂った奴に毎度毎度襲われてたら、絶対いつか死ぬよ? もう一度聞くけどマジこれからどうすんの?」

 ヤマト君がしゅんとしてしまう。見かねたアスカが助け舟を出す。

「色々とヒントが出てきたのは事実でしょ。頑張って推理していけば、身を護る方法が見つかるかもよ」

「つってもなー。答えなんか出そうにないじゃん。だって相手はネジ外れちゃってる殺人鬼だぜ? もういっそのこと北海道から逃げ出す?」

「え……」


・そうだね! なんなら東京にでも逃げよう!

・逃げ続けても意味無いよ! 逃げちゃダメ!


ASUKA SURVIVAL ROUTE


「まぁ……そうだね。なんなら東京にでも逃げた方が良いかも。笹岡の時みたいに襲って来る事が分かってれば、ある程度は対策出来るかもだけど……」

「今は何もかもが未知数だよね」

「うん。それでなおかつアルファベットの件も出てきちゃったから、もう逃げるしかないかなって。どこか遠くに」

 心の中で強く同意する。それに今のところ篝火乙女事件はぜーんぶ札幌で起きてるんだから、道外に逃げるのは大賛成。事件の法則性から外れた場所に逃げ出せば、事件に巻き込まれる可能性は低くなる。安直な考えかもだけど。

「否定する理由はねぇな……」

 ヤマト君が眉間に皺を寄せまくりながら、なんかもう人生の全てを諦めました、ってぐらいの勢いで大きなため息をついた。

「ここまで状況が一変しちまったんだ。この期に及んで、逃げずに戦うべきだなんて強引なことは言わねぇよ。ただ、逃げるにしてもどこへ逃げるんだって話になるが……」

「……道外?」

「アバウトだな。……まぁ良い。逃亡先は各自考えて、今日の夜くらいには決めようか」

 ヤマト君の言葉を合図に、議論は一旦お開きになった。

 それにしても、逃亡か。

 夏の逃避行。つい最近まで、夏がこんなにも狂ってしまうなんて微塵も想像してなかった。

「……来年は、海に行きたいなぁ」


凛音:記録スタート。

凛音:現在ケウトゥムハイタに移動中……なんだけど。

凛音:同行者が道を間違えたため、予定時刻を若干過ぎる恐れアリ。

凛音:早くしないとアスカが死んじゃう。

凛音:ていうかさ、なんでカーナビ使ってるのに道を間違えるのかしら……?


EP11 九十八年前の誓い

・明日風真希


EP12 次はお前

・エルノア・エンゲルリック


EP13 藤裏葉のように、素直じゃない

・明日風真希


EP14B 最後の晩餐


EP14A 史実からの来訪者

・綾瀬望海

 

 一度会議を挟んで休憩中。アスカとユリは部屋に戻ったから、リビングには私とヤマト君だけになっちゃった。今頃るるぶ片手に逃亡先選びでもしているのかもしれない。

「なぁ篝火乙女。お前は人に恨まれる何かをしでかしたのか?」

「何を言っているのか、分かりません」

「……」

 ヤマト君は逃亡先を考えているのかいないのか、さっきから篝火乙女とむなしい対話を続けている。彼氏が自分のモデリングの女の子と喋ってるってなんかヤダな。今更だけど。

「篝火乙女。何か知ってる事があれば教えてくれ」

「聞き取れませんでした」

「あぁ。俺もたまに人の話を聞いてなかった時、そういう言い訳するよ」

「そうですか」

 ダメだこりゃ。

 せめてこの人工無能がユリの時みたいに未来予測でもしてくれれば、活路が見えなくもないんだけどね。

 アルファベット。AYASEN。ここまで露骨なメッセージが出てきた以上、このままだとなりふり構わず、当てずっぽうに逃げる羽目になる。正直マジで勘弁してほしい。

「篝火乙女。お前の名前を探している奴らが沢山いるぞ。どう思う?」

「何を言っているのか、分かりません」

「お前には考える力が無いのか。大多数の人間と同じだな」

「何を言っているのか、分かりません」

「多くの人間は努力をしない。なにも考えない。なにも知ろうとしないんだ。お前もそうだろう。お前は学習しない。だからこそお前は人間らしい。俺から言わせれば、ディープラーニングを搭載した人工知能は知能じゃないんだよ。人間なんかじゃないんだよ。程よく頭の悪い生命体こそ人間を名乗る権利があるんだ」

「人間は、バカですか」

「お前って唐突に会話が成立するんだよな。まぁ言うまでもなく人間はバカだよ。だって考えてもみろ。スマホはちょっと前のスパコンを凌ぐスペックを持っているが、人間はそんな魔法の端末で何をしている? ツイッターで悪口書いたりクソみたいな動画を観たりするだけだ。そして毎日なんの努力もしてないクセに自分のつまらない人生を社会のせいにして政治家を批判する。これが人間なんだよ。紛うことなきバカじゃないか! ところで話は変わるんだが、こんな愚かな人間にとってシンギュラリティは贅沢じゃないか? 知能レベルが低くて反抗的なクセに、飯の時間だけ甘い顔をしてくるような犬に高級ドッグフードを与える気持ちになるか? ならねぇよな。そもそも必要ないだろ。そんなクソ犬に高級ドッグフードなんてよ」

「ほっほー」

「まぁ日本人に関しては、知能レベル云々という以前に頭空っぽなんだけどな。村上春樹が書いた小説は無条件に面白いと賞賛するし、マツコ・デラックスが男と女について語ればさすがマツコは男と女両方の気持ちが分かるから凄いって皆同じこと言うし、イチローが些細な事を喋っただけでやっぱりイチローの言葉は深いなぁって訳知り顔で頷くし、黒澤明の映画を観てつまらないと思っても、やっぱり黒澤は偉大な人だって感想を述べる。逆にそこら辺に転がってるごく普通の大学生がなんかすげぇ良い事を言っても、大多数の連中は聞く耳すら持たない。な? 日本人って頭空っぽだろ? 自我も意思も何もねぇんだよ。凄い人の言葉や作品は無条件で凄いと認識するし、そうじゃない人の言葉や作品は無条件にゴミだとあざ笑う。ルイヴィトンのカバンに価値を見出す美的センスは無いが、ルイヴィトンに大金を使ったという事実に人間的価値を見出し懐に入る。それがイエローモンキーの本質だ」

 あー。ダメだ。がっくり。ただでさえ低かったテンションがマジでだだ下がりだよ。この人やっぱどこかおかしい。

「……ん?」

 まじまじとパソコンデスクを見やる。なんだか見たことの無い食玩フィギュアが数個、スピーカーの横にちょこんと置いてある。

「またアスカに買ってあげたの?」

「は? なにが」

「そのフィギュア」

「あぁ。ねだられちまってな」

 ヤマト君はアスカにやたらと甘いというか弱いというか、アスカにねだられるとあっさり物を買い与えちゃうんだよね。しかもアスカは隙あらばフィギュアを家中あちこちに飾るクセがあるから、ケウトゥムハイタはどこもかしこもアスカご自慢のフィギュアだらけになっている。

「甘やかしすぎじゃない?」

「アスカは稲穂のせいで死ぬほど不幸な目にあってただろ。だから少しくらい……」

「それとこれは話が別。アスカは甘やかされても調子に乗るようなガキじゃないけどさ、あんまり甘やかしすぎるのも……」

「いや、でもまぁ、フィギュアくらい……」

「結構高そうなぬいぐるみも買ってあげてるじゃん」

「それはほら、アスカってぬいぐるみ抱きしめてないと眠れないだろ。だから……」

「アスカのベッド、ぬいぐるみで埋め尽くされてる。アスカがこのままぬいぐるみ無いと眠れない大人になったら、ヤマト君のせいだよ」

「分かってる。でも説教はまた今度にしてくれ」

 私の処置なしのポーズなんてお構いなしに、ヤマト君はモニタに呼びかけ続ける。それに反応して、アンプに繋いであるタンノイのスピーカーから女の子の無機質な声が響く。

「おい篝火乙女。お前は悪い事をしたのか?」

「何を言っているのか、分かりません」

「おいコラ篝火乙女。人はどうして人を殺すと思う?」

「何を言っているのか、分かりません」

「ぶっ殺すぞ」

 思わずがくーんって頭を垂れちゃったよ。この人はいつも真面目なのかふざけてるのか、ギリギリの所でバカではないのか本当のバカなのか、全く見当がつかない。

「ヤマト君。貴方に色々言いたい事が二つある」

「どうせ根暗だとか、愚痴っぽいとか、人の話を聞かないとか、自分の事ばかりペラペラ喋るとか、陰気だとか、そういう事を言いたいんだろ。あぁ好きなだけ言ってくれ。自分の悪い所を他人に改めて指摘されれば、俺も少しはまともな人間になれるかもしれないからな。自分の殻に閉じこもっていたら、どんどん泥沼にハマっていく。自分が世界で一番正しいんだと錯覚してしまう。塞いだ心を救うのは小説でも映画でもない。他人の優しい忠告だ。さぁどんと来い! 俺を真人間にする言葉をぶつけてくれ!」

「まずひとつ。一人でぶつぶつ画面に向かって喋るのはやめて。気持ち悪いから」

「どんなにひどい事を言われても、それを快感だと思えるような人間に産まれていれば、どんなに楽だっただろうなって、今改めて思ったよ」

「ふたつめ。その人工知能は赤ちゃんと同レベル。何を聞いても無駄」

「分かった。よし、これでお前の言いたい事は終了だな」

「みっつめ」

「おい、二つじゃないのか。話が違うじゃないか」

「その面倒くさい性格、なんとかして?」

「気休めだよ。俺も少しは参ってる」

 面倒くさい人! 私は諦めてヤマト君からパソコンのモニタに目を向けた。

 私を模した3Dモデルは相も変わらずうねうね動き、意味不明な応答を続けているけど、ユリの死を予測した事実は不変だ。

 ほんと、この謎ソフトは一体何なんだろうね。もしも超越的な力を秘めたソフトだとしたら、こんな普通のノイマン型コンピュータで作動する理由を説明出来なくなる。かと言って超越的な力は無いと断定しちゃったら、未来予測の説明が不可能になる。

 インテルやAMDの民間用CPUが量子ビットで作られていて、そんな凄いCPUがこのパソコンに搭載されてるんなら話は別かもだけど、それこそありえない話だ。

 量子ビットは0であり、なおかつ1でもある。0か1かではなく、あくまでも重ね合わせ状態にある。この量子ビットを利用して組み合わせ最適化問題を解く事が可能になってくると、未来予測めいた魔法も現実味を帯びてくる。まぁ未来予測というか、あくまでもシミュレーションと言った方が正しいんだけど。

 更に言えば、古典力学と違い量子力学は微小なエネルギーだけで高いパフォーマンスを発揮する能力を持っている。道の途中に高い壁があって、壁を突破して向こう側に進むとしたらどうするだろう? 普通はジャンプして乗り越えるけど、壁が十メートルだったら乗り越えるのに十メートル、降りるのに十メートル、合計二十メートルの遠回りになる。しかもジャンプするとなったら相当なエネルギーを消費する。

しかし量子力学は違う。道に壁があったら、涼しい顔して壁を貫通してまっすぐ進む。ジャンプするよりも少ないエネルギーで、効率的に前進できる。大雑把な表現すぎるかもだけど、これが量子の力。

 さて。目の前にあるごく普通のウィンテルPCは、そんな超越的な力を持ち、トンデモ未来予測を実現するコンピュータだろうか? 答えは……。

 ありえね~の一言に尽きる。

「あーあー。篝火乙女さん。君は本当に何も知らないのか」

「あーあー」

「虚しさをありがとう」

「お礼は必要ありません」

「タンノイの無駄遣いだな」

 ヤマト君は嫌味たっぷりにタンノイのスピーカーを叩いた。ヤマト君曰く、現代っ子はスマホやタブレットの内蔵スピーカーとか、安物のPCスピーカーやヘッドホンやイヤホンでしか音楽を聴かないから、音楽の事を分かっていない人が多いらしい。メタルの激しいドラムも、再生装置がしょぼけりゃタンバリンにしか聴こえない。優秀なピュアオーディオを揃えている事自体がヤマト君にとってのアイデンティティー。少なくとも篝火乙女のくだらない言葉を聞くためにあるものではない。

「……」

 私は後ろから近づいて、両腕をヤマト君の首にまわした。唇が髪の毛に触れる。ヤマト君は少し悲しそうな顔になった。まぁ当然だよね。心の芯が通ってない間柄でこういう愛情表現をするのは、とっても虚しい行為に他ならないから。そう、虚しい。虚しいことばかりだねヤマト君。人生って。

「ヤマト君」

「なんだ」

「篝火乙女だってさ」

「あぁ」

「南海香が言ったんだよ。私に向かって。望海は篝火乙女だよって」

「このソフトも篝火乙女と名付けられていた」

「うん」

「篝火乙女って何なんだ?」

「バカみたい。最初から直接そう聞けば良いのに」

「アピールが下手なんだ。で、篝火乙女ってなんなんだ?」

「さぁ。でも別にそんな深い意味は無いと思う。大方アレじゃない? 南海香が作ってた音楽とか? ゲームとか? 小説のタイトルとかでしょ」

「稲穂が自分で作った作品に篝火乙女と名付けて、その作品に出てくるキャラクターがお前に似ていた。そういう事か?」

「いや、知らないけどさ」

「しっくり来ねぇなぁ」

「そんなこと言われても」

 私はしらを切ったけど、実は隠し事しちゃってるんだよね。

 篝火乙女。私は遠い昔、誰かの事を篝火乙女と呼んだ記憶がある。

 でも、具体的にいつ、誰に言ったのかは分からない。

「そういえばさ、逃げる場所はもう考えたの?」

「もう決めてる。とりあえず青森だ。今から飛行機なんて予約したらクソ高いだろ。だから青函トンネルで青森に行って、その後の事はりんごでも食いながら色々考えれば良い」

「なるほど?」

 私はヤマト君から体を離し、リビングの隅っこに放置されてる椅子をよいしょっとパソコンデスクの近くに置いて、よっこらせと座った。

「飛行機以外で本州に行くとしたら、青函トンネルかフェリーしか無いもんね」

「まぁな。別に苫小牧から仙台か名古屋まで行っても良いんだが、船旅って状況でもないしな」

「うん。……ねぇ、道外に逃げれば安心できるのかな」

「稲穂南海香」

「え?」

「巷で起きてる事件の加害者は、篝火乙女は誰だと必ず叫んでる。さて、もしこの事件に稲穂が関わってるとしたらどうなる?」

「……篝火乙女は私って事になるね」

「あぁ。もし奴らが篝火乙女を探し求めてるんだとしたら、どこに逃げたって意味はねぇだろ。だが、あいつらは無関係の人間を三人も殺してる」

「うん。意味分かんないよね」

「そうだな。でも、あいつらのターゲットがアヤだとして、アヤが誰なのか分からず当てずっぽうに人を殺しまくってるなら、逃げる意味はあるかもしれない」

 ……結局意味分かんないや。

 全くもう。一体何がどうなってんだか。心の中で振り上げた拳をどうすればいいのか、私はずっと悩んでいる。

 稲穂南海香。同人サークル「アイカプクル」のリーダーで、私とヤマト君を追い出した張本人。

 アイカプクルは佐伯可奈子が立ち上げたサークルで、当時は優秀なスタッフが沢山居てヒット作を連発する超有名サークルだった。

 でも、可奈子さんが引退して優秀なスタッフも軒並み脱退して、南海香が二代目リーダーになってからは、有象無象の無能たちがクソみたいな作品を乱発する低能集団になっちゃった。特に南海香はありとあらゆる面において無能で、南海香が主導して作った作品はどれも破竹の勢いで酷評の嵐を巻き起こしていた。

 私はアイカプクルの大ファンで、イベントにも顔を出してたから可奈子さんたちとは顔見知りだった。特に可奈子さんとは仲良くしてもらっていて、私はあの人の裏表が無く常に真っ向勝負な性格に憧れていた。

 だからこそ、落ちぶれたアイカプクルを救いたかった。私はヤマト君を引き連れてアイカプクルに加入し、私とヤマト君の二人で作った「アリアンロッド」というゲームを公開し、それが大ヒットした。

 そして、絶望が始まった。南海香は売り上げその他諸々を全部横取りして、私とヤマト君を追い出した。私たちはアリアンロッドで儲けた一千万円を失った。

 で、なんかいつのまにか南海香は篝火乙女事件の被害者になって死んでた。これが私たちと南海香の関係というか、ヒストリー。

 篝火乙女。アルファベット。稲穂南海香。もしかして事件の首謀者は南海香なんじゃないの? とか妄想しちゃうけど、それはありえない。だって南海香は死んでるから。

 ……とは言っても、私を追い詰めようとする奴が居るとしたら、南海香しか考えられないんだけどね。

「私、殺されちゃうのかな」

「そうならないために、俺たちは頑張ってる」

「葬式開いたり、お墓作ったり諸々すると、数百万円くらいかかるんだってさ」

「人は必ず死ぬ。だからぼったくりがまかり通る」

「ねぇヤマト君。私の体でどこが好き? どこの骨を拾いたい?」

 ヤマト君は唸り、黙り込んでしまった。この人は案外口下手で、女の子を励ましたり慰めたりする言葉を見つけるのが大の苦手。だから一生懸命考える。考えちゃうから黙っちゃう。私はそういう男の人を……。

 可愛いとは思えない。

「ねぇヤマト君」

「何を言っているのか、分かりません」

 頭を垂れる。言葉が見つからないと、こうやって最終的にはふざけてお茶を濁す。

「完璧な人工知能ってさ、今すぐ作れると思う?」

「どうして女はコロコロ話が変わるんだ」

「ヤマト君が何も喋らないからだよ」

「人工知能にしろ何にしろ、人間が完璧だと思えるような技術ってのは、この時代じゃ実現出来ねぇよ」

「時代は指数関数的に進んでる」

「そうだけど、さすがに明日明後日の話じゃねぇんだよ」

「本当に無理なのかな。完璧とまでは言わないけど、人工知能で殺人マシーンを作るっていうのは」

「常識的に考えれば、まぁ無理だろう」

「でも大昔にさ、絶滅した動物を作り出すーなんて研究もマジでやってたくらいじゃん? なんだっけほら。ターパンだっけ。馬の先祖だっていう」

「そんな話もあったな」

「大昔にそんな凄い実験やってたくらいならさ、今の時代なら……」

「お前は多分ものすっごい勘違いをしてるんだと思う。あれはただの品種改良だ」

「人間は品種改良できないの?」

「は?」

「品種改良して殺人マシーンを作りあげる的な」

「お前なぁ……」

 ヤマト君は面倒くさそうにぼりぼり頭をかきむしった。

「そういうトンデモ技術が現代にあるんだとしたら、世界の常識全てが覆っちまうぞ」

「世界の常識……」

 ズキ! 頭が痛んだ。かなりの激痛。頭が痛むことは昔から頻繁にあるけど、ここまでの痛みは始めてかもしれない。

「アヤ?」

「……なんでもない。ねぇヤマト君。品種改良はさすがにアレだけど……。人工知能で殺人マシーンを作れない理由を全力で否定してみてよ。私を納得させて」

 私は平静を装って質問を投げかけた。とにかく否定してほしかった。

 信じてたものを、壊さないように。守ってほしかった。言葉で。理屈で。

「否定するも何も、猿にだって分かる単純な話さ。良いか? 人工知能ってのはいわば赤ちゃんだ。例えばそうだな。お前はカーテンを見て、それをカーテンと認識できるか」

「うん」

「なんで?」

「そりゃあ……見たら分かるでしょ。カーテンはカーテンだよ」

「カーテンはカーテンだから、見ただけでカーテンだと分かるんだよ。普通の人工知能は、そんな超能力じみた思考回路は持ってないよな」

「うん。でもディープラーニングがあれば話は別なんだよね」

「あぁ。でも学習能力があると言ったって、産まれたばかりの人工知能は教えてあげないと何も分からない赤ちゃんと同じ。一から百まで教えてあげなきゃ、カーテンとバスタオルとフェイスタオルとハンカチの区別もつかないバカだ。だからまず大きさはどのくらいで、色は何でも良く、窓のカーテンレールにかかっているものがカーテンで……って感じで全て教えこむ必要がある」

「うん」

「でもさ、親はいちいち自分の子供にこれはカーテンだよ、これはハンカチだよなんて教えないだろ。子供はいつの間にかどのくらいの大きさの布がカーテンで、ハンカチで、バスタオルなのか判断出来るようになってるもんだし、使い方もいつのまにか理解しているはずだ。勝手にカーテンというのは窓にかけて、室内が外から見えないようにするものだと認識する。それが人間ってもんだ。なぜなら人工知能と違って、人間は社会という学習世界の中で生きている生物だから」

「そうだね」

「なぜ人間は自動でカーテンはカーテンだと認識するのか。その理由を深く細分化して説明しようと思えばそれだけで本を一冊書けるだろうが、やっぱり人間が社会的な生き物だから、というのが根幹にあるのを忘れちゃいけない。逆に人間だって、一生を社会から隔離された密室で生活してたら日本の首都の名前も分からない無能になっちまう」

「うん。単純に人間の脳みそがハンパじゃなく性能が高いから、なんて大雑把な理由で説明できるものじゃないよね」

「当然だ。どんなに優秀な脳みそを持った人間だって、一生をジャングルの中で過ごしてたら猿と変わらん。だが、俺たち人間が生きる社会はビッグデータの集合体だ。人間は社会で生きることにより莫大な情報を無造作に収集する。でも人工知能は社会の中で生きてる訳じゃない。そこが人間と人工知能の差だよ」

「なるほど」

「とにかく、人間はいちいち物事を教えなくても勝手に学習する。それを模倣するのがディープラーニングだが、人工知能に社会を与えられない以上、今の技術じゃ人間を超えるどころか幼稚園児にも勝てないよ人工知能なんて」

 一瞬、脳みそにチクリと針が刺さるような感覚に陥った。

 恐怖。

 不安。

 図星。

 様々な想いが、ドロ沼となって体内を巡っていくような、快楽と苦痛が入り混じった奇妙な感覚。

 あれ? そういえば、今と似たような話をいつか聞いた記憶がある。

 ……そうだ。ヤマト君が、今と同じ話をアスカに語って聞かせていたんだ。

 で、確かこの話をされた後にアスカはひどい頭痛を起こしてしばらく寝込んだんだけど、あれはもしかして……。

「おい、話聞いてるか」

「え? あぁうん。聞いてるよ」

「じゃあ続けるが、自動で学習する人工知能だとか、人間の脳みそを模倣する技術ってのは根本的にまだ駆け出しの技術だし、問題は山積みなんだよ。それに話は戻るがやっぱり人工知能には人生が無いじゃないか。人生という名の経験が無いと、自動で何かを学習することは難しい。どうしても学習できる物事が限られるし偏ってしまう。だから人工知能ってのは、人間相手じゃ教える必要も無い物事まで直接教えてあげなきゃいけない。現実的ではない」

「人生とは教えられるものじゃない。感じるものなのだぁ!」

「どうした、ちょっとキャラが崩壊してるぞ」

 頭のモヤモヤを紛らわそうとしたんです。

「……パターン認識なんかは、ある程度自発的な学習で何とかなるんだよね」

「そうだな。認識した物を判別する事自体は別に難しくないだろう。でも認識する事と、認識した物を理解する事は全く違う。人工知能にカーテンとは何たるかを教えこんだとしたら、確かに人工知能はこう言うだろう。私が見ているこれは間違いなくカーテンです。カーテンはとても大きな布で、窓にかかっている物ですと。でもそれはそう教えられたからそういう返事をするだけの話で、本質を理解している訳じゃない。人間は誰でもガソリンで車が動く事を知ってるけど、ガソリンが具体的にどんな風に作用して何故車が動くのか、それを正しく説明出来る人間なんて専門的に学んだ経験のある奴だけだろう」

「ねぇ。もし私の脳みそが人工知能に入れ替わったとしたらさ……」

「おい。俺ちゃんと喋ってんのに話変わってるじゃないか」

「どんな命令も受け入れるロボットになったとしてもさ」

「……あ?」

「ヤマト君もアスカもユリも、嬉しくないんだろうね」

「何が言いたいんだ?」

「私は別に、それでも良いかなって思うけど」

「悪いが、今の俺はお前の言葉も気持ちも全く理解出来ていない」

 素直すぎるよ、ヤマト君。

「ヤマト君のお話で、改めて今の技術ですっごい人工知能を作るのは無理だって事は良く分かったよ」

「それは良かった」

「でも、今はでしょ。いつかは出来るんだよね」

「まぁ。人間がこの先パンデミックか何かで退化でもしない限りはな」

「うん」

「と言っても技術革新のスピードはあまりにも速すぎる。だからこそ、今この瞬間を頑なに否定するのはナンセンスだがな」

「パラダイムシフトか」

「そう! パラダイムシフトだ。人間社会は何度も訪れたパラダイムシフトによって劇的に変化してきた。千九百七十八年に発売されたインテルの8086っていうCPU知ってるか。アレの周波数は5メガだけど、今年の六月に発売されたi7の8086Kの最大周波数は5ギガだ。たった四十年でとんでもねぇ進化だろ? 言わずもがな、クロック数だって最近メキメキ増え続けてる。ファミコンより低スペックなパソコンでも宇宙に行けたんだから、いかに現代が未知の領域に突入してるのか分かるだろ」

 あ、やばい。スイッチ入った。

「ムーアの法則が永遠に通用するかどうかは分からんが、コンピュータが異常的なスピードで進化してきた歴史は紛れもない事実だ。なぁ、ヒトは遥か昔、言葉を喋れない火の概念も知らない、ウホウホする事しか脳のない猿だったよな。そんなウホウホモンキーが、宇宙に飛び立つほどの知恵を持ったホモ・サピエンスになるまで果てしない時間がかかったよな。でも集積回路が魔法じみた力を手に入れるために要した年月はたった四十年だ。これはもはやファンタジーだよ」

「ファンタジー」

「あぁ。まさにファンタジーだ。そしてファンタジーは常に現実で起き続けていて、何度も人間の常識や社会生活をぶち壊して、人間を新しいステップに連れて行ってくれるんだ」

 それは分かる。パラダイムシフトによって人間というイキモノは変化を遂げてきた。もちろん人間そのものが変わった訳じゃない。世界だけが独り歩きいや独り走りで進化してきた。人間は成長せず、世界だけが成長してきた。

 事実として、私たちは篝火乙女事件に答えを見いだせていない。もし人間の脳みそが集積回路のように劇的な進化を遂げていたとしたら、現代人はウホウホモンキーならぬウホウホ超人になってるはずだし、私は今ごろ篝火乙女事件の謎を全て解明してサクッと解決させてるはずだ。

 でも悲しいかな、人間は全く成長していないのが現実なんだよね。しかも人間は世界に生かされているという自覚すら無い。どんなに社会が、世界が進化を遂げても、人間は「人間社会」という言葉に疑問を持たない。

「……まだ、殺人マシーンが登場するようなステップに、私たちは到達してないんだよね」

「……」

 あれ? なんで黙るの? 見当違いなこと言っちゃった?

「おーい。なんか言ってよ」

「……もしこの世界にAMDもサムスンもヤフーもeBayも、クアルコムもエヌビディアもリーナス・トーバルズも存在していなかったら、今ごろ俺たちはウィンテル連合やGAFAの奴隷だった。例えウィンテルPCがどんな代物でもな」

「……はぁ?」

 何が言いたいのか全然分かんないけど、まぁいいや。ヤマト君の考えてる事なんていつも良く分かんないし。アスカならヤマト君が求めてる言葉が分かるんだろうけど。

 私はごまかすようにヤマト君の首筋にキスをする。私達は恋人。少なくとも、アスカとユリの前だけでは。

 唇にヤマト君を感じても、愛おしいなんて思わないし興奮もしない。

 虚しい関係。

 私が貴方を好きになれたら。

 きっと、もうちょっとは幸せになれるんだろうね。

「……アヤ」

「なぁに?」

「そろそろ本題に入りたいんだが」

 思わずガクッ! みたいな昭和っぽいリアクションをしてしまう。

「あのさ、野球で言うならもう七回の裏ぐらいになってるんだけど、なんでヤマト君はプレイボールと同時に本題を始められないのかな」

「人生ってのは話すべきことが多すぎる」

「で? 本題って言うからには超重要なお話なんだよね?」

「あぁ、超重要だ」

 私がセブンスターを咥えると、ヤマト君はサッとライターで火を付けてくれた。

「うむ。くるしゅうない」

「お前くるしゅうないの意味分かってねぇだろ。とりあえずこれを見てほしい」

「くるしゅうない」

「その使い方なら合ってるぞ」

 と言って、ヤマト君がモニタにクラウド型のチャットアプリを表示させた。最近はこういうチャットアプリばっかり使うから、メールを利用する機会はガクンと減っている。アイカプクルでもメールは一切使ってなかったくらいなんだけど……ってあれ?

「何この画面。ヤマト君のアカウントじゃないでしょ」

「稲穂のアカウントをゲットした」

「マジで? どうやってさ。ていうかそれ早く言ってよ。バカじゃないの」

「秘密の質問ってあるだろ? パスワード忘れた時のための」

「もしかして」

「そう。俺は稲穂のメルアドでログインしようとして、適当なパスワードを何度も打った。当然、何度も失敗すれば弾かれて秘密の質問の答えを求められる」

「解いたの?」

「簡単だったぜ。質問は『小学校の時の係は?』だった。そして俺は稲穂と同じ小学校で同じクラスだったから覚えてる。あいつは掲示係だった。ポスターとかを貼る役目だな。俺は入力したよポスター係って。いやぁビックリしたね。あっさりパスワード発行の手続き出来ちまった。世の中チョロいぜ」

 ヤマト君はけらけら笑った。チャットアプリくらいなら高度な技術が無くても簡単に侵入できる。現代を生きる私たちはそういう脆い世界で生きているという事実を改めて実感する。

 この人、絶対にアリアンロッド事件の時も、ワードプレスとかに侵入しようとしたんだろうな。

「で? なんか分かった?」

「ひとつだけ」

「教えて」

「稲穂は真木柱莉乃っていう女と繋がっててさ、どうもコイツらは意味深というか、意味不明なやり取りを繰り広げてたみたいなんだよな」

 思わず咥えていたセブンスターがすぽん! と飛びそうになった。慌ててタバコをもみ消す。

「は!? 真木柱莉乃って小説家の?」

 真木柱莉乃。まさかその名前がここで出てくるなんて。

 立ち上がり、左手でヤマト君の頭をずいっと押しのけてモニタを覗き込む。確かに「稲穂南海香」と「真木柱莉乃」という二つのアカウントでのやり取りが残されている。

「お前が愛してやまない真木柱莉乃で間違いないだろ。真木柱莉乃なんて名前滅多にない。名前はともかく苗字が珍しすぎるからな。いや、もちろんこのアカウントが本物の真木柱だっていう確証はないぞ。たまにアニメのキャラクターをハンドルネームにしちゃってるようなバカ居るだろ? そういう類の奴かもしれんし」

「えーちょっと待ってちょっと待って混乱してきた。なんで南海香がこんな有名な人と……」

「いや、だから本物かどうかは分からんぞ」

「まぁそりゃそうだけど……とにかく見せて」

「何をだ」

「だからその意味不明なメッセージってやつをさ」

「沢山あるけど、特に怪しいメッセージはこの辺だな」

 ヤマト君がホイールをスクロールして過去のメッセージを表示して、指でコツコツとモニタを叩いた。肘でヤマト君の肩をどついて顔をモニタにグッと近づける。眼鏡はかけてないしコンタクトもしてないけど、実は目あんまり良くないんだよね。

「えーと……」

 南海香と真木柱莉乃のやり取りをじっくり読み進める。それは確かに意味深であり、意味不明な会話だった。


稲穂南海香:ねぇマキさん。ナノボットを分け与えてくれている事には、心から感謝してるんです。そのおかげで篝火乙女事件を引き起こす事ができてるんだし。

真木柱莉乃:えぇ。感謝するが良いわ。そして全力で私を敬いなさい。

稲穂南海香:でも、どうして佐伯可奈子とエルの妨害を見逃すんですか? そんなにエルを守りたいんですか?

真木柱莉乃:そりゃまぁ。凛音だってエルだって、テルスで過ごした仲間だし。

稲穂南海香:佐伯とエルが何の考えも無しに動いてると思います? 相聞歌が目覚める可能性がゼロだと言い切れます? なのに……。

真木柱莉乃:私はアヌンコタンの勝利を願ってる。この気持ちに嘘偽りは無いわよ。でもねぇ、ペンラムウェンの芽を潰してまで勝ちたいとも思ってないの。ハンパ者だと言われたらぐぅの音も出ないけど、しょうがないじゃない。いかに人間離れした美貌を持つビューティフルな私だって、普通の人間なんだしさ。

稲穂南海香:だけど……せめてアスカだけは始末しなきゃダメでしょう。あいつは危険です。

真木柱莉乃:え~。でもぉ~。アスカを殺したら~皆が悲しむでしょーう?

稲穂南海香:アヌンコタンが負ける方が悲しいです!

真木柱莉乃:そんなに気になるならさ、篝火乙女事件なんてやめればいいじゃん。

稲穂南海香:そこは譲れません。ていうか、マキさんが全面的に協力してくれれば全て丸く収まるんですよ!

真木柱莉乃:そんなに綾瀬望海を苦しめたいの?

稲穂南海香:苦しめたいです。ねぇ、だから私にもっと協力してください。

真木柱莉乃:い……いやああああああああ!

稲穂南海香:どうしました?

真木柱莉乃:もうこんな時間じゃない? この時間はね、必ずねるねるねるねを食べるって決めてるの。だから悪いけど、この話はまた今度ってことで。

稲穂南海香:待ってくださいよ。

真木柱莉乃:しつこいわねぇ。ナノボットをプレゼントしてるだけ有り難いと思いなさいよ。可奈子とエルがうざいなら、そこは自分でなんとかするべきでしょう。そもそも、私はナノボットをあげるとは言ったけど、アンタの計画にガチで協力するなんて一言も言ってないわ。だからアンタに駄々こねられる筋合いなんか無いの。納得して頂けたかしら?

稲穂南海香:そんな……。佐伯とエルさえどうにか出来れば何もかも……。

真木柱莉乃:いやマジでしつこい。アンタってほんっとに顔も心もブサイクよね。気持ち悪い。


「……何これ」

「と言われても」

「な……ナノボット? は? なに? どういうこと? それに……」

「この真木柱莉乃さんという方は、少なくともお前の事を知ってるみたいだが」

「じょ……冗談じゃないよ! ま、真木柱莉乃とか会った事もないよ。な、なんでこんな有名人が私のこと……それにナノボット分け与えたとか、何このぶっ飛んだ会話」

 ヤマト君はチャットアプリを画面から消すと、疲れ切ったように漏らした。

「混乱しているところ悪いが、見せたいものがもう一つあるんだ」

「へ?」

「実はさっき、篝火乙女がとある画像を提示してきたんだ。その画像はパソコンのどこにも存在しない画像だった」

「は? ちょ、ちょっと待って。なんの話?」

「今からその画像を見せる。もう一度言うぞ。今から見せる画像は篝火乙女が提示してきたもので、でもその画像はこのパソコンにも外部ストレージにも入っていないものだ」

 ヤマト君がマウスを操作してパスワード付きのフォルダを開き、一瞬躊躇してから、容量0の「アスカ04」という名前のJPGファイルを開いた。

「……っ!」

 その画像は、言葉に出来ないようなひどい有様のアスカの死体だった。体中が血と犬の糞らしきもので満たされ、両目は潰れている。

 急激に、吐き気がこみ上げてくる。

 人工知能。ナノボット。脳改造。真木柱莉乃。

 アスカの、惨たらしい死体。

 ふわっと、体が宙に浮くような感覚で満たされていく。

 現実感が、失われていく。

 心が、遠くなっていく。

 ここは現実? 夢?

 分からない。

 完全に、キャパオーバー。

 ヤマト君がバン! と両手でデスクを叩き、立ち上がる。

「この画像が加工された物なんかじゃなく、紛れもない本物だとしたらアスカはこの世に居ないはずだ。でも、アスカは綺麗な体のままでこの世に生きている。じゃあこの画像はなんなんだ? 俺はこの画像だけ都合よく加工された作り物だなんて思えないぞ」

「待って。ヤマト君……」

「俺は一つの仮説を立てた。篝火乙女は、未来あるいは過去に起きた出来事を提示するソフトなんじゃないか?」

「待って……ねぇ、ありえな……」

「冷静に考えろ。俺たちはいつだって答えだけ知ってるじゃないか」

「あ……」

 そうだ。私たちは下手な推理小説の答えは知っているけど、その答えの内容を説明する術を持っていない。だから議論を重ねても最終的には「ありえない」の一言で蹴散らしてきた。

 でも、こうなった以上はユリの時と同じく、答えを蹴散らす訳にはいかない。

 だって……。

「アスカは大切な友達だ」

 私は、唾をごくんと飲み込んだ。

「この画像がアスカの未来を指しているものだとしたら、俺たちは命をかけてアイツを守らなきゃいけねぇな。友達一人守れないような人間に生きる価値なんてある訳ない。生きる価値の無い人間に、誰かと友達になれる権利なんてない。そして、アスカが居ない世界なんか世界じゃない。さぁ、アスカを助けて生きる価値見出して、友達の権利を主張して、俺たちだけの世界を守ろうじゃないか。なぁ望海?」

「良いねぇ。アンタみたいな熱い奴嫌いじゃないよ」

 声。

 篝火乙女?

 違う。

 恐る恐るキッチンの方へ顔を向ける。

 そこには。

 開けっ放しの窓の枠によりかかりながら、タバコを吸っている女がいた。

「でもちょーっと青臭いかな? アンタ絶対自分に酔ってるでしょ。いや、良いと思うよそれで。自分に酔えない奴は何も成し遂げられないからね。創作でも、人生でも」

 口に咥えたセブンスター。

 透き通った声。

 目を奪われるほど美しくも幼さが残る顔立ち。色白の肌。ちょっと長めの前髪。余裕たっぷりの笑顔。

 彼女は、紛れもなく。

「おいおい何キョトンとしてんだよ。あ、ていうかごめん灰皿プリーズ」

 アイカプクル創設者、佐伯可奈子その人だった。


EP15 CHAOS MODE

・綾瀬望海


 可奈子さんは私が差し出した灰皿でタバコをもみ消すと、三十歳目前とは思えないような優雅な身のこなしでふわっと窓枠に着地して、靴を脱いでから室内に降り立った。そしていそいそと脱いだ靴をダイニングの椅子に揃えて置いた。綺麗に揃えて何よりだけど、そもそも椅子は靴を置く場所ではない。

 というか。なんでこの人は裏庭でタバコ吸ってたんだろ?

「……あの、可奈子さん。なんで裏庭に居たんですか」

「え? いやなんか玄関のドア鍵かかってたからさ、開いてる窓無いかなって探してたんだ」

 で、裏庭の開いた窓を見つけて、私たちの会話が聞こえてきたから聞き耳を立てていたって所か。

「玄関のドアはカギかかってるのが当たり前です。あとインターホンって知ってます?」

「あん? 人の家入る度にいちいちインターホンなんか押してらんねぇよ。まどろっこしいじゃん」

 相変わらず過ぎる。多分この人は、必要とあらば涼しい顔でロケットランチャーでもぶちこんで家に入るんだろう。

 佐伯可奈子。札幌市西区にある札幌でダントツナンバーワンにガラの悪い香蓮高校の出身者で、何を隠そうアイカプクルの創設者。

 この人がここに現れた事には大きな意味がある。あの金髪との繋がり。南海香について。聞きたいことはいっぱいある。

「あの、可奈子さん。私あれから何度も連絡したんですよ。なのに……」

「さん付け嫌いだから呼び捨てで良いよ。なんか年寄りくさいじゃん? さん付けってさ」

「いやでも。さすがに二十八歳の人を呼び捨ては……」

「あ? 良く聞こえなかったぞ」

「可奈子」

「それで良い」

 可奈子さんはズカズカとリビングに足を踏み入れ革張りのソファに腰をおろすと、やたらと細い足を組んで寛ぎ始めた。仕事が一段落した後のように両手両足をぐいーっと伸ばし、だはーっと脱力して眠たげな表情になる。

 ……え? この人何しに来たの?

「おい」

「なに。ていうか年上に対しておいってなにさ。その生意気な性格平らになるまで殴ってあげようか?」

可奈子さんって可愛いアニメ声なんだけど、相変わらず声質と口調が合っていない。

「……何の用事でここに来たんだ?」

「うんうん今からアンタたちが一番知りたいこと話すから。とりあえず明日風と百合ヶ原もつれてきて」

「……なんでアスカとユリのこと知ってるんですか?」

「いいから早く。いちいち疑問を挟むな。アンタは思春期の娘を持つ母親か」

 ヤマト君は可奈子さんにガンを飛ばすばかりで動こうとしない。だから私がアスカとユリを呼びに行った。部屋のドアを開けたら二人はやっぱり無駄に体をくっつけながら床にぺたんと座って、ノートパソコンのモニタを眺めていた。モニタには東京観光の情報サイトが表示されてたけど、見なかった事にする。

「ちょっと来てくれる?」

 私が親指でクイっと廊下を指さしながら言うと、二人は素直に頷いて立ち上がった。

「また議論でもするの?」

「いや」

「うん?」

「もう、あれこれ議論する日常は終わってる」


 アスカとユリは、ソファでふんぞり返ってる可奈子さんを見るなり数秒フリーズした。

 そしてアスカは「美人さんだ!」と叫び、ユリは「誰だおめー?」とガンを飛ばした。挨拶は一切無し。この二人には色々とマナーや常識ってもんを叩き込まなきゃダメだね。

 可奈子さんは一通り自己紹介をして私との関係やアイカプクルについてのお話もしてくれたし、アルファベット問題なんかの情報整理も出来たけど、昨日の出来事についてはほとんど触れてくれなかった。もちろんエルなんたらと組んでハル・ケラアンに現れた事について何度も質問をしたけど……。

「昨日の出来事について、答える気はない」

 と、ピシャリと言い放たれちゃった。もはや取り付く島もない。そしてあらかた話し終えると、「こほん」と咳払いをし、やったら偉そうに言った。

「とにかく改めてよろしくね。私の名前は佐伯可奈子。北海道ナンバーワンの美少女だよ。覚えとけ」

「美……少女?」

 バカー! なんでポロっと突っ込んじゃうかな?

 案の定、可奈子さんは鋭いナイフみたいな眼光でユリにガンを飛ばした。何そのおっそろしい目つき。絶対この人、元不良だよね。さすが香蓮。

「永遠に意識不明になりたいの?」

「すみません」

「佐伯可奈子さんは?」

「美少女です」

「ありがとう」

 可奈子さん、無理があります。美人なのは分かるけど少女ではないです。

「おいオバハン。どうでも良いけどさっさと知ってる事洗いざらい話せよ」

 可奈子さんは殺人鬼がビビって逃げ出しそうな目つきで、ヤマト君を睨みつけた。あ、ダメだこれ。マジで殺される五秒前だ。

 私は心の中でヤマト君にお悔やみを申し上げたけど、可奈子さんは至って冷静にヤマト君の質問に答えた。

「言われなくても話すべき事は話すよ」

 思わず唸る。話すべき事は話す、つまり話したくない事は話さないっていう意思表示に他ならない。

「ところでアスカちゃん、アンタはトンデモ話を聞かされても信じられる?」

 急に話を振られたアスカは一瞬驚いた表情になったけど、ずっと可奈子さんの太ももに向けていた視線を上に向け、可奈子さんの目をしっかり見ながら答えた。

「もしも現役で東大に合格しないと死んじゃう未来が待ってるとしたら、無理だと分かってても頑張って勉強すると思う」

 可奈子さんは目を見開いたかと思うと、豪快にパチィン! と右手の親指を鳴らした。相変わらず無駄な動きの多い人だ。

「良いねお前、賢いじゃん。お前みたいな奴は好きだよ」

 好きだよ。意外とこんな風に「好き」という言葉をサラっと言い放って、好意をストレートに伝える人は珍しいかもしれない。まぁ可奈子さんは逆に「私はお前が嫌い」とストレートに敵意をぶつける事も頻繁にあるけどね。

 可奈子さんは流れるような動作でテーブルに置いてあるアスカのセブンスターを一本引き抜き、すぱぁーっと煙を吐き出し、へらへら笑顔をビシっと引き締めた。

「現状、危険な状況にあるのはアスカちゃん、ユリちゃん、望海の三人だよね」

「そうですね」

「いや、そうですねって……俺が入ってないじゃないか」

「あ? ネチネチうるせぇなお前」

「そうだよヤマト君。うるさいよ」

「細かい事気にすんなよ」

「俺の心配をしてくれるのは俺だけか。おーよしよし俺の命は俺が守りますよ~安心して下さいね~うんありがとう~」

「でもさ、稲穂が黒幕だとしたら一番ヤバイのはアヤ先輩だよね」

 結構マジで落ち込んでるヤマトの頭を撫で撫でしながら、アスカが可奈子さんに向かって言った。

 私とヤマト君がさっき議論した内容は、かいつまんでアスカ達にも語って聞かせてある。もちろん、アスカの死体写真の件は一切話してないけど。

「だね。チャットの会話が冗談じゃないんなら、事件の黒幕は稲穂で決定的だし、目的はアヤ先輩を苦しめること以外に考えられないもん」

 可奈子さんは大きく「うんうん」と何度も頷いたけど、私はそんな嬉しそうに頷ける気分ではない。

 体中がじっとり汗ばみ、焦燥感で心臓はイライラしながら脈打ってる。

 私たちは、可奈子さんに聞かなきゃいけない事がいっぱいある。にも関わらず、可奈子さんは私たちの質問をほぼ全てシャットアウトしながら話を進めようとしている。

 気まずいというか、ぎこちない雰囲気のまま会話が進んでいくこの状況は、ただ脳みそが焦れったく蒸れていくだけで落ち着かない。

「ある程度腹はくくれてるみたいだな。って事で本題に入るけど、まずはこれを見てほしい」

 可奈子さんはスマホをテーブルに置いて指紋認証で起動させた。そしてアプリのアイコンをタップする。

「……え」

 アプリが起動した瞬間、とんでもなく美しい女性が画面に表示された。どう見ても実写。……誰?

「はじめまして」

「うおっ! 喋った!」

「喋るわよ」

「めっちゃ美人……」

「ちょっと。顔近づけんじゃないわよ」

「え……なんか偉そうな喋り方……」

「うっさいわね! ていうかもっと言うべき事あるでしょうが。その緊張感の無い間抜け面ぼっこぼこにしてあげましょうか?」

「え~……」

 黒色の背景をバックに堂々とした立ち振舞で喋る女は明らかに人間だったけど、どうも違和感がある。まず可奈子さんが開いたアプリは見た事のない物だったし、誰かに発信した訳でもない。しかも背景は暗闇じゃなくて、あくまでも「黒色」だった。

 アプリを起動した瞬間に特定の人間と自動でビデオ通話が繋がり、相手が黒色の背景をバックに映し出される。そんなアプリ聞いた事がない。

「あの、これ普通の人間だよね?」

「違う」

「えっ」

「これは篝火乙女だよ。通称UJ相聞歌」

「篝火乙女……」

「そう。まぁケウトゥムハイタのポンコツ乙女とは、比べ物にならないほど優秀だけどね」

 やたらと早口で目を背けながら言い放った可奈子さんを見て、嘘だと直感する。この人は驚くほどに嘘が下手だ。

「おい、なんでお前は篝火乙女のこと知ってるんだ。それにコイツはどう見てもポリゴンでもなんでもない、本物の人間じゃないか」

「UJ相聞歌は見た目も何もかも精巧なの」

「嘘つくな。こんなリアルなモデリング、ノーティドッグでも無理だろ」

「嘘じゃないもーん。これは篝火乙女だもーん」

「胸でけぇ……」

「そんなジロジロ見ないでくれるかしら?」

「あの可奈子さん。これマジですか? 本当に人間じゃなくて?」

「篝火乙女は篝火乙女だよ」

「いやいや! 篝火乙女ではないでしょ。私らの篝火乙女は人工無能だよ。でもこれは……」

「だーかーらー。これは篝火乙女なの。今はその事実だけを受け止めて」

「強引……」

 アスカがぽつりと声を漏らしたけど、可奈子さんのガン飛ばしにより黙殺された。

「ねぇ、そろそろ喋りたいんだけど」

 篝火乙女がぶっきらぼうに言い、誰も異を唱えないことを確認すると、ものすごく偉そうに納得した顔で頷いた。

「唐突な質問になるけど、みんなはSISAって知ってる?」

「SSRI?」

「それは抗うつ薬だバカ。SISA。アメリカの国防組織の名前だよ」

「ペンタゴン?」

「なんとなく関係ありそうな名前を適当に口走るな。……で? SISAがどうしたんだよ」

「篝火乙女はSISAの技術を使って作られたモノなのよ」

「は?」

「な、なんで国防組織がこんな凄い人工知能の技術を持ってるの?」

 ユリが疑問を挟むと、篝火乙女は面倒くさそうに答えた。

「国防組織だからよ。今の時代とこれからの時代、最強の兵器は核ミサイルでも戦車でもなく、スパコンや量子コンピュータや無人ロボット、そして人工知能なの。特に人工知能は国家の存続と繁栄を左右する最重要ファクター。国を守る組織にとって人工知能の技術開発は至上命題なのよ」

「それは……まぁ」

「貴方は人工知能の重要性を理解してないの? 極端な話、百発百中で未来予知をするような人工知能をアメリカが作って、アメリカがそれを独り占めしたらどうなる? 当然、地球はアメリカの物になるわよね。分かってもらえたかしら? SISAが篝火乙女なんてものを作っちゃった理由」

「いや……でもそんな……なんか……いきなり篝火乙女は国防組織が作ったもんだとか言われても……ピンと来ないっていうか……」

 ヤマト君は詐欺師でも見るような目つきで篝火乙女を睨みつつ、どことなく悔しそうに口を開いた。

「まぁSISA云々はともかく、篝火乙女の言い分はもっともだよ。単純に考えろ。もしグーグルが人工知能を開発してなかったら高機能な検索エンジンは開発できず会社は大きくならなかった。軍が高度な人工知能やコンピュータを持っていなかったら、飛んできたミサイルを当てずっぽうで撃ち落とすしかなくなるがそんなの成功する訳ない。分かるだろ。世界はもう人工知能含めた最新技術無しじゃ成り立たないんだよ。軍や大企業が人工知能含めてそういったジャンルの開発に力を入れてるのにはちゃんと理由がある。戦争にしても何にしても、これからの時代は人工知能、スーパーコンピュータあるいは量子コンピュータやロボット、科学で覇権を握った者が勝ち組になるんだ。それは国家、企業、個人どれを取ってもそうだ。そして人工知能開発とコンピュータ開発を蔑ろにしている日本政府が居る限り、この国に未来はない。というかもう手遅れだから諦めろ。そういう話だな」

 どういう話だよ。

 案の定眉間に皺を寄せているユリを見かねて、すかさずアスカがフォローに入る。

「えっとね、ヤマトはね、とにかく人工知能ってのは物凄く重要な技術だから、SISAが篝火乙女みたいな凄い技術を持っててもおかしくないって言ってるんだよ」

 通訳ありがとう。おかげでユリは納得したように頷いた。

「うんまぁ、ほんの少しは納得したよ」

「お前らマジで面倒くせぇ奴らだな……」

「長々とお疲れ様。さて望海。冷静に考えてみなさい。篝火乙女はSISAが作ったもの。そこから導き出される結論は?」

「え……あっ」

 ドクンと心臓が跳ねた気がした。

「篝火乙女……。そうだ。篝火乙女がここにあるって事は……」

「ご明察。貴方のお父さんはSISAの人間なのよ。それも幹部クラスのね」

「……嘘」

「嘘じゃないよ」

 可奈子さんに速攻で否定されてしまった。でも何を根拠に言ってるの?

 チクリ。さっきからこめかみがやたらと痛む。なんなのよもう、こんな時に。

「あの。お父さんがSISAの人間だなんて聞いた事……」

「無いでしょうね。綾瀬源治はなにも言わなかった。貴方はなにも知らなかった。でも私たちは知っている。それ以上でも以下でもない」

「……」

「そして。今ここにあるクソ生意気な篝火乙女は、望海たちが持ってる無能な篝火乙女とは訳が違うんだよね。もう説明する必要もないと思うけど、この篝火乙女には確かな意思がある。いや脳みそがある。強いAIと思ってもらっていい」

 ハッキリ言って茫然自失って感じだったんだけど、可奈子さんは遠慮なくどんどん口を滑らせていく。不自然なほどスラスラと。

「そしてこの篝火乙女……UJ相聞歌がね、この前ユリちゃんの死を予知したの。だから私はユリちゃんを助ける事にしたんだ。望海の友達が死ぬ未来を知ったら放っておけない。当然だよね? つっても一人でユリちゃんを助けるのは難しいから、友達のエルノア・エンゲルリックに協力してもらったんだ。あのきゃんきゃんうるせぇクソぶりっ子の金髪ね」

 ぼん! 頭が噴火した。

 突然現れて、あぁだこうだ理解の範疇を余裕でぶっ飛ばした話をぽんぽん展開してくれちゃって……。そのクセ肝心な情報は何にも教えてくれないし……。

 まるで、この人達はこの先に何が起きるのか全て知ってる神様で、私たちは何も知らず利用されてるだけの駒みたいだ。

「なに? なんか不満?」

「いや、あの。今の説明は確かに筋が通ってますよ。友達の友達が死んじゃう未来を知ったから助ける。当然の意思と行動です。そして助けるために友達を頼るのもおかしな話じゃない。でも……」

 めっっっちゃくちゃ取って付けたような理由にしか聞こえない。

「でも、なんだよ」

「お前、隠してる事多すぎなんだよ」

「そうだよ。ていうか今めっちゃ棒読みじゃなかった? なに、台本でも読んでんの?」

「なんであの日、笹岡が持ってるナイフの種類まで知ってたの? どうしてハル・ケラアンでアヤ先輩たちを助けた後に逃げたの?」

 アスカたちは、まるで裸で道ばたの雑草をもぐもぐ食べてるおっさんでも見るかのような目つきで可奈子さんを睨めつけている。当然だ。

「お前らその目はなんだ。未成年がよってたかって二十八歳のお姉さんをいじめるのか。ひでぇじゃねぇかおい。今すぐピーピー泣きわめいてやろうか!?」

 可奈子さんは私たちの態度がずいぶん気に食わないご様子で、露骨に機嫌が悪くなってしまった。面倒くさい二十八歳だ。

「あのさ、今は細かい事気にしてる場合じゃないからね。もうマジでいちいち疑問挟まないでくれる? 話進めて良い?」

 で、結局肝心な情報は一切教えないまま話を進めようとする。うーん。バカナコさんってここまで強引な人だったっけ? なんか余裕無いみたいだけど。

「まぁ……大丈夫です。話の腰を折ってすみませんでした」

 この人はマジでキレると、パクってきた戦車で家を破壊するくらいの事は多分平気でやると思うから、とりあえず素直に謝っておいた。

「分かれば良いんだ。でね、この篝火乙女は今日の朝、アスカちゃんが死ぬ未来を予知しちゃったんだよね」

 思わず「うっ!」と唸りそうになったけど、必死に堪えた。

 ついさっき見た、アスカの惨たらしい死体写真。

 すかさずヤマト君の顔を盗み見ると、彼の顔は歪に引きつっていた。

「……私?」

「そう。アスカちゃん」

「……え」

「まぁそれはさておき、えーと」

「ちょ、いや。さておかないで下さいよ。私死ぬんですか?」

「疑問を挟むなって言ったよね」

「疑問じゃなくて質問ですが」

「疑問か質問かは私が判断する。今のお前の発言は疑問だ。そしてお前は死ぬ」

「……」

「私はアスカちゃんを守るためにここに来た。で、アスカちゃんを殺すのはそこに居る貴方、ユリちゃんに他ならない」

「……は?」

「この篝火乙女がそう予知したの。そうだよねりん……相聞歌さん?」

「そうよ。今日、百合ヶ原百合は明日風真希を殺す」

「今日!?」

「そう今日よ。だからいちいち疑問を挟んで時間を消費してる余裕はないの」

 いや、余裕がないとか言われても困るんですが。

「そんな……いきなり死ぬとか言われても」

 アスカが困惑を隠さずに呟くと、UJ相聞歌はチッ! と舌打ちをした。

「気持ちは分かるけど受け入れなさい。まさかとは思うけど、この期に及んでそんなのありえないーとか騒いで長々と議論続けるつもりじゃないでしょうね? そうしたいんだったらすれば良いわ。まぁそうこうしてる内にアスカは死んじゃうけどね」

 全員、どよーんとした顔で沈黙。

 アスカとユリが助けを求めるように視線を送ってくるけど、私はつい目を背けてしまう。

 ユリがアスカを殺す。私はこの突拍子もなく、なおかつ信じたくない話を信じざるを得ない状況に立たされている。それに話を信じない所か、ついさっき決意したばかりなんだ。アスカが死ぬ可能性がある以上、どんなトンデモ話だとしても答えを蹴散らす事は出来ないぞって。

 沈黙を肯定と捉えたのか、可奈子さんは涼しい顔で会話を引き取った。

「さて。話をまとめるけど、私はこの篝火乙女のユリちゃんがアスカちゃんを殺すっていう予知を聞いて助けにきた訳ですが。もちろんアンタたち二人に義理も恩も無いけど、望海の友達なら助けるのに理由はいらない。ただ単純に助けたいと思ってる。そして」

 可奈子さんはスカートのポケットから小瓶を取り出して、ドンっとテーブルに置いた。なんだかシドニー・ルメットの「十二人の怒れる男」で、ヘンリー・フォンダがナイフをテーブルに突き刺すシーンがふと思い出された。

 小瓶にはほんの少し水が入ってるだけで、特にこれといって怪しい物には見えないけど、可奈子さんのドヤ顔を見る限り、きっとヤバイ物なんだろう。

「これはナノボット。厳密に言えばアンチナノボット」

 ドクン。心臓が前に突き出るような感覚。

 人工知能。ナノボット。篝火乙女。SISA。

 ダメだ。

 これ以上トンデモ話の線が繋がっていったら……。

 私の世界は、もう維持出来なくなってしまう。

「ユリちゃんが何故アスカちゃんを殺すのか。それはユリちゃんがアスカちゃんを殺したくなるようなナノボットを投与されてるから。他の篝火乙女事件の加害者と同じようにね。でも、ナノボットの効力が発動した瞬間にこのアンチナノボットをユリちゃんに投与すれば、すべての作用は消え失せる」

「ナノボット……ナノマシン……?」

「この世界で使われているナノボットは、お前らが知っている物とは少し違う。ユリちゃんに投与されてるナノボットは脳改造に近い」

「な……なに?」

「小人が脳みそを作り変えるんだよ。そして脳は人格に直結する。ユリちゃんは脳をいじくられてんの。それをこのアンチナノボットで治すの。理解した?」

「は? いや……私そんなもの投与された覚え無いんだけど」

「てかこれ、ただの水じゃないですか?」

「どう見ても水だな」

「あの。そもそも……そのナノボットが本物だとして、どうやって手に入れたんですか?」

「ぎゃあぎゃあ喚くな。分からないありえない信じられない。そんな事ばかり言ってたら真実は見えてこないし何も成し遂げられない。人生ってのは常識の外に飛び出して始めて勝ち組になれるものなんだよ。なぁ、瀕死の状態になってる怪我人を車で運んでる時に、法定速度を守るような奴が大切な人を守れると思うか? 死ぬほど絵がうまいのに、定年までコールセンターで働くような人間が一生笑って過ごせると思うか? んな訳ないよな。常識の中には負け組の檻しか用意されてないんだ。何もかも諦めて否定と批判ばっかりして生きてる人間とか、常識的に退屈に生きてる人間なんてな、永遠に飯食って仕事して風呂入ってトイレで踏ん張ってクソしておやすみなさい的な毎日を繰り返して、貯金の使いみちも分からず趣味も見つけられず時間と金を持て余してソシャゲに課金しまくって、いつの間にかぽっくり死んじまうような負け組にしかなれないんだ。なぁ、お前らは否定と批判を繰り返して何も成し遂げる事なく死んじゃうような負け組になりたいのか?」

「だ、だからって何でもかんでも信じるなんて……」

「信じるのが怖いのか? トンデモ話を信じる事が恥ずかしいのか? だったら改めて腹くくれ! このままだとアスカは死ぬんだぞ? それで良いのか? 最後にスポットライトの光が当たる場所で輝けるのは全てを抱きしめる覚悟のある奴だけなんだぞ。お前は誰かがよいしょって体をステージに上げてくれる日をただ待つだけなのか? でも残念。トンデモ話を否定して逃げ続けても、だーれもアンタをステージには上げてくれないよ」

「いや。私は別に逃げようとか言ってる訳じゃ……」

 可奈子さんはちらりとアスカの様子を伺った。アスカがさっき言った言葉を思い出す。アスカはきっと、今こうしてる間も自分の力でステージに上がろうとしてるんだろう。一方のアスカは黙ってユリを見つめ、可奈子さんの視線をガン無視している。

「ユリ。とにかく今は話を聞こう」

「……うん。すみません、続けて下さい」

「おうこっちこそヒートアップして悪かったな。で、えーとなんの話だっけ。……そう、つまり私はこのアンチナノボットをユリちゃんに投与して、事件を未然に防ごうと思ってる訳。これで一通りの話は終わった。まずユリちゃんの意見を聞こうか」

「えーと……。このナノボットはつまり、私がアスカを殺したくなる衝動を消してくれるって事ですよね?」

「そうだよ」

「だとしたら……そりゃナノボットを私に投与してほしいって思います。ていうか、それしか選択肢が無い。ナノボットや未来予測を信じる信じないとか言ってる場合じゃ……ない……です」

 ユリが声を震わせながら、全く感情が入っていない声音で言った。まるで先生に怒られて、先生が望んでるような言葉を闇雲に考えながら行き当たりばったりで喋っているみたい。

「うん。で?」

 しどろもどろになっているユリは、可奈子さんの威圧感に気圧されたのか黙ってしまう。アスカはそんなユリの姿を戸惑いの表情で見つめている。

「えっと……それで……可奈子さんの話を……」

「可奈子ね」

「可奈子の話を信じないメリットは無いけど、信じるメリットはあります。可奈子の話を信じて私がアスカを殺さないように尽くして、でもその結果可奈子の話が嘘だったとしても、私たちには特に被害はない」

「合理的で良い考え方だね。それで良いと思う。私の話を無理に信じなくていい。信じないまま行動に移して私の話が全部嘘だったとしても、別にアンタたちの命や全財産が無くなる訳じゃない。ちょっと時間を無駄にするだけだよ」

 可奈子さんは何本目かのタバコに火を付けた。やたらと細い足を組み、ぷはぁと煙を吐き出す。

「……ん? なんか不満そうな顔だね」

「うっせぇな。めっちゃ言わされた感じで腹立つんだよ」

 偉そうな態度で言いくるめられたのが癪に障ったらしく、ユリは憮然とした表情で可奈子さんを睨みつける。可奈子さんは睨み返す。女子中学生と張り合うなんて、この人はずいぶんと子供だ。

「お前、何様なの」

「何様でもねぇよ。でもさ、今アンタが口にした言葉はあくまでもアンタの心の本音でしょ? 頭ではちゃんと分かってるんでしょ? 私はただ、ユリちゃんが常識の奥底に眠らせてる本音を引き出してあげただけなんだよ」

「……」

「否定しないの? なら良いや。アスカちゃんはどう思う?」

「私もユリと同じこと考えてます。でも幾つか聞きたい事がある。この篝火乙女の出どころは? 篝火乙女はSISAが作ったんですよね? じゃあ可奈子さんはSISAの人間なんですか? それとも知り合いとか家族にSISAの人間がいるんですか?」

「話聞いてた? アンタらには選択肢なんか無いんだよ。だからあれこれ詮索しても不毛でしょ」

「ルーマニアの首都はブカレストです。もちろんルーマニアの首都がどこなのか知らなくても自分の人生に一切影響は無いけど、知らないよりかは知ってた方が良いでしょう。つまりそういう事です。これは雑談です。さぁ、私の質問に答えてください」

「……」

「答えられないんですか」

「えーと……うんと……」

 直感する。多分、この人は答えられないというよりは……。

 答えを用意してなかっただけだ。

「まぁ良いです。多分どんな答えを聞いても私たちは心から信じることは無いでしょうし。私が一番聞きたいのはナノボットについてです。まずそれが本物だとして、どうして貴方はこれまでそのアンチナノボットっていうのを使わなかったんですか。笹岡の時も私たちを助けてくれたみたいですけど、そんな魔法みたいなものがあるならそれを笹岡に投与すればよかったじゃないですか」

「答えは単純。このアンチナノボットは一つしか無いから。そしてユリがアスカちゃんを殺すってのは完全に想定外の話だから」

 可奈子さんはさも当然といった風にサラっと答えたけど、私はこの人がなにを言っているのかサッパリ分からなかった。いや理屈は分かるけど理解は出来ない。

「笹岡がユリを殺すのは知っていた。だからナノボットを温存してユリを助けた。でもユリが私を殺すのは想定外で作戦を立てている余裕が無いから、切り札のアンチナノボットを使う事にした。そういう事ですか?」

「えっと」

「図星ですか。じゃあ黒幕さんはユリの殺害に失敗して焦って、誰も予期してなかったユリのアスカ殺しを計画したって感じですかね」

「うんと……」

「篝火乙女事件の犯人は、稲穂南海香ですね?」

「……」

「沈黙は肯定ですよ」

 息を呑む。パズルのピースが揃いつつある気配。十四歳も年上の大人を圧倒するアスカの逞しい姿。

 額の汗を拭う。じっとりした室内に、張り詰めた緊張感が蔓延していく。

「ねぇ。うんとかすんとか言ってくださいよ」

「すん……」

「ユリはいつナノボットを投与されたんですか?」

「それはマジで知らない」

「嘘だ」

「本当だもん」

「可奈子の言ってることは本当よ。あとコイツは嘘が苦手。分かるでしょ。図星突かれたら黙っちゃうけど、本当に知らない事は知らないと即答する。コイツはそういう人間なの。ていうかバカナコさ、良い年こいて中学生相手に『だもん』とか言うのやめなさいよ」

「ヤだもん」

この人いろいろと大丈夫か。

「ユリにナノボットを投与したのは誰なんですか?」

「稲穂南海香。いつかは知らん」

「……南海香?」

「そう、稲穂南海香」

「……」

 全員、今日何度めかの沈黙。今の発言は、篝火乙女事件の犯人は稲穂南海香だって認めたも同然じゃないの?

 いや、でもちょっと待って。可奈子さんの発言を全て認めてしまえば、魔法じみた力を持つナノボットの存在を、私の世界に登場させる事になってしまう。つまり、私は精神病院にぶちこまれても文句言えないイカれ女になっちゃうって事だ。そして私は自分をイカれ女だと認められるか?

 答えは……。

「待って下さい」

 アスカの良く通る声がジメジメした室内に響き渡る。アスカだけはまるで何も聞こえなかったかのように冷静だった。

「稲穂がナノボットをユリに投与したのを知ってるのに、いつ投与されたのかは知らない。おかしいですね。自分の意見を人にぶつけるクセに具体的な説明は出来ないし、質問されたら曖昧な答え方しか出来ない。政治家のモノマネでもしてるんですか?」

「確かに私は色々な事を隠してる。でも本当に知らない事もある」

「隠してる事を言えって言ってるんです」

「隠し事をする奴は信用出来ないか?」

「当たり前です」

「これは雑談だよな?」

「雑談です。でも、意味ある雑談でした。可奈子さんはあまりにも胡散臭いという事が良く分かりましたから」

「へぇ? だから何? 胡散臭い私を追い払って、自分たちの力だけで何とかしようっての?」

「それは……」

「胡散臭い女の胡散臭いナノボットなんか使えないんだよな? じゃ、このナノボットは捨てるしかねぇな」

「私は可奈子さんみたいな大人にはなりたくありません」

「あぁ。私もこんな大人にはなりたくなかった」

「おいアスカ。もう十分に情報は聞き出せただろ。その辺にしとけ」

 ヤマト君がアスカの肩に手を置いて静止した。

「でも……」

 可奈子さんは「ふんっ」と鼻で笑い、ぱちぱちと手を叩いた。なんだか演技が下手くそなヒールみたいだ。

「うんうん。アスカちゃん良い粘りだったよ。私ついうっかり重大情報漏らしちゃったし。でも……」

「なに」

「結局どうあがいても、お前らはユリにナノボットを投与するしかないんだよ。どんなに理解出来ない事や信じられない事がいっぱいあってもね」

 強引すぎる理屈だ。果たして可奈子さんは、私たちを人間として見ているんだろうか? 

 人間の脳みそは理解を追い求めるように作られている。心が理屈を理解して承認しなければ脳みそはイエスと頷かない。

 だから、人は他人に賛同してもらいたい時は説明を行う。理屈を理解してもらえるまで言葉を紡ぎ続ける。

 でも、可奈子さんは「理屈を理解して賛同してもらう」なんていう常識をぶっ飛ばし、「理屈だけで賛同してもらう」というパワープレイで推し進めようとしている。さて、可奈子さんが私たちを人間扱いしていると判断する要素はどこにあるだろうか?

 ……無い。全く無い。可奈子さんはまるで、Siriに接するかのような横暴な態度を貫き通してる。貴方はそんな強引で嫌な奴じゃなかったはずなのに。

「可奈子さん」

 アスカの突き刺すような声で我に返る。

「私たちには色々な未来があるけど、どれも不確かです。だから私が死んじゃう未来を回避する方法は一つしか無いと敢えて断言しても良いです」

「うん」

「だから、どれだけ可奈子さんの話が意味不明で理解できなくても、信じられないから帰って下さいとか言うつもりもないです。自分が死んでユリが人殺しになる可能性が一ミクロンでもあるなら、貴方に従うしか道はない」

「そうだよ。ちゃんと自分が置かれた状況は理解できてるじゃん」

「でも」

「なにさ」

「貴方は頭ごなしに怒鳴り散らす教師に対して素直になれますか。ただ無駄に怒鳴るだけで、建設的なことを一切言えない父親の言うことを受け入れられますか。心を開かない男を愛して寄り添えますか?」

 アスカがまくしたてると、可奈子さんは驚いたように目を見開き、一瞬だけ遠い目をした。

「あの……可奈子さん。アスカの言ってる事は正しいです。可奈子さんの話はあまりにも強引すぎる」

「……じゃあどうすりゃ良いんだよ」

「知ってること全部話せば良いんだよ」

「それは無理」

「話にならねぇな」

 可奈子さんは舌打ちをして悪態をついた。まるでグレた中学生みたいだ。

「自分が無茶苦茶やってる自覚はあるよ。でもしょうがないじゃん。こっちにも色々……」

 アスカはしばらく逡巡する様子を見せたけど、やがて諦めたように大きく息を漏らした。

「いえ、分かりました。もう追求はしません」

「なんだよ急に」

 急激な心変わりに見えたけど、多分そうではない。アスカはきっと、可奈子さんの「自覚」を見たかっただけなんだろう。

「良いのかよ、もう何も聞かなくても」

「構いません」

「堅苦しい言葉遣いするよね、アンタ」

「そうかな」

「私が中学生の時はもっと砕けてたよ」

「アンタは今も砕けてるでしょ」

 UJ相聞歌は呆れたように言うと、ちらっとアスカに視線を移してにっこり笑った。なに、その良く出来た娘を見守る母親みたいな笑顔は。

「でも最後に一つだけ良いですか。これは質問ではなく意思表示です。正直言ってその得体の知れないものを今すぐユリに飲ませる気にはなれません。可奈子さんの話が本当だと仮定して万全を尽くすことに納得出来たとしても限度はある。その水は飲ませられない」

「同感だな。お前の話を信じて嘘だったとしても確かにデメリットは無い。だからユリもアスカも守るために行動することは否定しない。でもだからって訳分からんものをユリに飲ませるなんて明らかなデメリットだ。それは受け入れられない」

「そ……そうだよね。私も正直これ飲みたくないし」

「うん……。可奈子さんには悪いけど、さすがにね」

 これはアンチナノボットだよ、なんて怪しい宗教の勧誘もびっくりなオカルト発言をされて、素直にそんなものを飲ませる訳にはいかない。これは当然だよね。

「うん。みんなの意見はもっともだと思う。でも飲まなきゃユリはアスカを殺すよ」

「……」

 私は笹岡麻里奈の豹変ぶりを思い出していた。もしユリが笹岡のようになったら……無傷では済まないだろうし、百パーセント絶対にアスカを助けられる保証は無い。

「可奈子さん。もしユリがアスカを殺すとしたら、笹岡みたいにいきなりわー! って狂った殺人マシーンみたいになっちゃうんですか」

「なっちゃうんです」

「もしユリがそうなったら、私たちは可奈子さんの話を信じるしかなくなると思いますし、必然的にアンチナノボットを投与すると思う。相手が赤の他人ならボコボコに出来るけど、ユリが相手だとそうもいかないし」

「そうだね。その通り。でもどうする? このままみんなでユリちゃんをじっと眺めながら、バイオハザードのゾンビみたいになるのを待ってるの?」

「それは……」

 可奈子さんが何を言おうとしてるのか悟って躊躇してしまう。

 ユリがもし殺人マシーンになってしまうのなら……。

「監禁プレイか」

 ユリがケロっとした顔でバカみたいなことを言う。ほんとにこの子は……。

「私をロープでも何でもいいから縛って動けなくする。そして私がおかしくなったらアンチナノボットを投与する。それしかないでしょ」

「肝がすわってるね。嫌いじゃないよアンタみたいなガキ」

「で……でも。ユリにそんなこと……」

「そりゃそうだ。大事な友だちに手荒なマネをするなんて極力避けたい所だな」

 アスカとヤマト君はあまり乗り気じゃないみたいだった。それは私もだけど。

「……いやちょっと待て。笹岡はまるで誰かがシナリオを書いたみたいに動いてたよな。ユリと同じ日に同じ映画を観て尾行して、カバンにナイフを入れていた。そしてあの金髪がわざわざナイフを盗むんじゃなく入れ替えたのだって、シナリオに齟齬を出さないためだろ。ユリはどうなってる?」

「今日の午後二十三時、突発的におかしくなってアスカを殺す。それしか決まってない。稲穂のシナリオではね」

 ……え。

「……お、おい! ちょっと待て。お前今なんつ……」

「もしこれ以上ぎゃあぎゃあ騒ぐんなら、ここでアンタたち全員の首をはねる。これ以上私をイラつかせるな」

 ヤマト君は歯を食いしばりながら、拳でテーブルを叩いた。無言で可奈子さんを睨みつける。

 ユリのアスカ殺しは想定外のシナリオだったんだよね。

 ねぇ。でもさ、可奈子さん……。

 稲穂は、もう死んでるよ?

 それに、どうして貴方はシナリオの内容を知ってるの?

「可奈子さん。貴方は……」

「黙れ」

「いやだって」

「この期に及んでまだ騒ぐ気か?」

「……」

「アンタ達って不毛な会議を死ぬまで続けたくなるタイプ? だったら就職しても絶対に昇進しないでほしいね。会社に会議が趣味の上司が一人でも居たら終わりだから」

 可奈子さんの言い分はまったくもって理不尽なんだけど、この状況では的を射た発言でもあった。

 私たちは結局のところ、何を言われても考えても「ありえない」っていう身も蓋もない結論に行き着いてしまう。そして行き着いた先は終着駅であり、その先は無い。だから人間としての理性、本能、枷、常識ってもんをぶっ壊して、普段なら絶対に通らない道を通らなきゃ未来を掴めない。

 ズキ! また頭が痛む。クソっ。クソクソっ。なんなのよもうっ!

「どうする? 今の話を全部真実だと仮定してユリを監禁するか、それとも私を追い出して惨劇を目の当たりにして絶望するか、選べ。今すぐ選べ。皮肉な話だけど、アンタたちは狂ったユリちゃんを見る事によって前に進めるんだよ。お前らは同じ場所で騒ぎ続けるだけの無能か? 違うだろ? お前らはいつだって前に進もうとしてたじゃないか」

 痛みが、頭を横切っていくような気がした。

「お前……俺たちの何を知ってるんだ?」

 可奈子さんは柔らかい笑みを浮かべた。久しぶりに、可奈子さんらしい愛嬌満点で子供っぽい笑顔を見られた気がした。心から素直に笑った時の可奈子さんは、見るもの全ての心を安堵させるほどに愛くるしい。

 私は、可奈子さんの言ってる事が全く分からない。

 でも、可奈子さんの笑顔で確信した。

 この人は、味方であると。

「……乗るしかないね」

 私の呟きに異を唱える人は誰もいなかった。可奈子さんが親指を鳴らし、カラっと晴れやかな声で「よっしゃ!」と叫んだ。

「話は決まりだね。じゃあさっそく準備しようか」

「準備って?」

「まず必要なのはロープだね。ユリちゃんをロープで固定して二十三時を待つ。その瞬間にユリちゃんがキエーー! って感じになったらアンチナノボットを投与する。オーケー?」

 私たちは小さく頷いた。

「そんじゃロープ持ってくるから、ちょっと待っててね」

 可奈子さんが立ち上がると、ヤマト君が舌打ちをした。

「気に食わねぇな」

「全ては予定通りなのだよ、根暗君」

「うるせぇクソババァ」

「ねぇ。ロープなんてどこから持って来るの」

「私の車。あ、ていうか車庭に停めちゃっても良い? 今その辺に路駐させてんだよね」

 ちっ。敢えて近所に車停めてケウトゥムハイタに来たって事は、やっぱり最初からケウトゥムハイタの様子を伺う気満々だったんじゃない!

「望海?」

「あぁ、うん。大丈夫ですよ停めちゃっても」

「ありがと~。じゃあ車ごと持ってくるね」

 可奈子さんはスタスタとキッチンへ向かい、靴を履いて窓から出て行った。だからなんでこの人は窓から出入りするんだ。

「ずいぶん時間かかったわね。いや、ずいぶん時間を無駄にしたわね。非効率だわ」

 テーブルの上に置き去りにされたUJ相聞歌が、冷たく嘆いた。

「これだけ長い時間をかけて説明しないと行動に移せないなんてさ、確かに人間は無能だわ」

 げっそり。どっからどう見ても人間にしか見えない篝火乙女は、やっぱりどう見ても作り物とは思えないナチュラルかつ嫌味ったらしい笑みを浮かべている。だけどその微笑みには冷たさと嘲笑を前面に押し出しつつも、どこか慈悲深い上品な優しさも隠れているように見えた。

「……ねぇ。アンタって本当に人工知能なの?」

「人工知能の篝火乙女よ。まぁ、人間と思ってもらっても構わないけど」

「どういう意味よ」

 UJ相聞歌はふぁさぁ……と髪の毛をかきあげた。

「人間は他者からの教育と、自主的な教育で成り立つものよね。それは強いAIでも同じ事。優れた学習機能を持つAIは、人間の手によって落とし込まれたプログラムと、自主的な学習で身につけたプログラムで成長していく」

「捉え方によっては、UJ相聞歌みたいな超凄い人工知能は、人間と変わらない存在なのよって言いたいの?」

「そうね。まぁ人間はあくまでも人間から産まれた生命しか人間として認められないみたいだけどね。人間という定義に神秘的な理屈を与えないと気がすまないあたり、人間もまだまだ原始的よね」

「……いや、ていうか話はぐらかしてない? 別に人工知能とか人間の定義なんてどうでも良いんだよ。私は単純にね、この時代にこんな凄い人工知能が存在するなんてありえないだろーって言いたいの」

「悪いけどその質問には答えられないわ」

「むかー! なんで可奈子さんもアンタも肝心な事は何も教えてくれないの?」

「人間関係って、それなりにミステリアスな所があった方が良いでしょう?」

「いや、お前ミステリアスな所しか無いからな」

「別に肝心な事は一切教えないとか言ってる訳じゃないんだけどね。例えば……可奈子はジャムよりもマーマレードの方が好きなのよ!」

「おい、お前とりあえず死ねよ」

「なーにー? お気に召さない? 肝心な情報教えてあげたのに」

「私もマーマレードの方が好きだよ」

「ていうか、なんか気味悪くなってきた。これマジな人工知能だとしたらさ、私はちょっと受け入れられないな」

「気味悪い? はぁ? 私が? こんなに美しくて賢い私が不気味だっての? なんで? 目腐ってんの? 頭大丈夫? ねぇ大丈夫? 大丈夫なの?」

「だからそういう所だよ。人間っぽすぎてキモいっていうか……」

 UJ相聞歌は大層お怒りのご様子で、腕を組みながらユリを睨みつけた。

「もっとシンプルに考えなさい。頭も性格も悪い人間と、頭も性格も良い人工知能、貴方たちはどっちを受け入れる?」

「そりゃ理屈で言えば頭も性格も良い人工知能だけど……」

「心が理解出来ない?」

「まぁ……」

「じゃあ、アンタは三秒に一回のペースで特に意味も無く暴力を振るう人間と、絶対に暴力を振るわない人工知能を搭載したロボット、どっちかと友達になれって言われたら、例え暴力的でも理解の範疇にある人間を選ぶのね」

「なんかその例え極端すぎてズルくない? ……まぁ、選べって言われたらロボットを選ぶだろうけどさ」

 UJ相聞歌の言いたい事も、ユリの気持ちも分かる。別にどっちが間違ってるっていう話ではない。

「もっと単純に考えて私を受け入れてほしいものね。私がどういう存在なのかじゃなくて、私がどういう心を持っているのか、そこが問題であり全てでしょう? 私の存在に何かしらの定義を与えて理解した所で得るものはない。でも相手の心を知る行為には意味がある。何が言いたいか分かるわよね? いつも可愛らしく寄り添ってくれる飼い犬がある日突然見た目だけ猫に変わったら、飼い主はあっさり捨てちゃうのかしら?」

 分かるよ。言いたい事は分かるよ。

 でもね。

 人間はどうあがいても面倒くさい生き物なんだよね。

 自分と違う肌の色。

 自分と違う民族、人種、宗教。

 自分と違う価値観や常識を持つ人間。

 人間の心は自分と違う生き物を謎の生命体として認識する。そして人間は同じ生命体同士じゃないと分かり合おうとしない。

 人間は人間同士ですら区別をする。人間という生き物を、生命体かゴミかで仕分けする。それが人間なのか人工知能なのかすら分からないものが対象になっちゃったら……。

 人は永遠に戸惑い、心に距離を置いてしまう。人工知能は人工知能であるという認識だけで思考が停止する。技術は進歩しても、人間は進歩しない。

 だからこそ、シンギュラリティは訪れるべきなんだ。

 私はそう思う。心の底からね。

「……ところで」

 ふと、ヤマト君が紙切れをスマホの上でひらひらさせ始めた。UJ相聞歌はしかめっ面で右手をぶんぶん振った。まるでヤマト君の手を払いのけるかのように。

「なによ」

「これはさっき佐伯のスカートのポケットから落ちたレシートだ。清田区の蟹工船。時刻は今日の午前中。あいつはここに来る前、カニなんて食ってたのか?」

 清田区の蟹工船は一階がカニ市場になっていて、二階はカニ料理を食べられるレストランになっている。何度か友達と行ったから覚えてる。タラバをふんだんに使ったカニセイロは絶品だった。

「お前は姑か。別に良いじゃない。ケウトゥムハイタに乗り込んでアンタ達と戦う前に、高級料理でも食べて気合い入れたかっただけよ。特に清田の蟹工船なんて札幌じゃナンバーワンだし」

「あん? カニが高級料理だってか?」

「あっ」

 UJ相聞歌はマヌケに口を開けて声を漏らし、右手で口を覆った。ほんの一瞬だけ見せたUJ相聞歌の驚いた表情は、あどけない少女のようだった。同い年の十七歳だよと言われても疑う余地が無いほどに。

 ヤマト君はUJ相聞歌の動揺を見て、ニヤリと笑った。

「カニなんて北方地域でたんまり獲れる。そりゃ安い食べ物じゃないけど、高級料理ってもんでもないだろ」

「いや、えっと。可奈子的には高級料理なのよ。マジで」

 ヤマト君は口を閉ざした。UJ相聞歌は明らかに怪しいんだけど、これ以上追求する材料が無い。

「ねぇ」

 気まずい空気の中、アスカがいつものキョトンとした顔でUJ相聞歌に呼びかけた。直感で鋭いナイフを投げる気だと感じ、固唾を呑んで二人を見守る。

「北方地域の四島、言ってみてよ」

「え? えーと。北方地域? 北方領土の事よね。国後、択捉、歯舞、色丹」

 私たち四人は顔を見合わせた。えーと、相聞歌さん?

「島の名前は合ってるけどぉ……北方領土ってなぁに?」

 アスカは珍しくぶりっ子口調で、首を左右に傾げながら聞いた。その仕草が癇に障ったのか、UJ相聞歌は分かりやすく取り乱した。

「う……うっさいわね! 呼び方なんてどうでも良いでしょ!?」

「ていうか、北方地域は四島と南樺太を含めた呼称だよ。なんで樺太を省くの」

「わ……忘れてただけよ!」

 アスカは、まるでぼんやりペロペロキャンディーを舐めてる少女のような表情で、またちょこんと首を傾げた。こうやってトボけた態度を作って人を追求する時のアスカは相当しつこい。

「なんでそんなに動揺してるの? なんで? ねぇなんで? 教えて教えて。どうして動揺しちゃったの。教えてくれるまで聞き続けるよ。地球が滅びてもずーっと永遠に聞き続けるよ。おーしーえーて?」

 アスカの追求にさじを投げたのか、UJ相聞歌は大げさに両手を挙げた。

「はいはい分かりましたよ。……アスカ。北方四島と南樺太はどの国の領土?」

「日本の領土に決まってるじゃん」

 UJ相聞歌はどうでも良さそうに、心底うんざりしたように答えた。

「はい、それが答え。私が動揺した理由はね。そして貴方達はこの問題に関して一切合切気にする必要はない。何故なら貴方達の物語には全く関係ない問題だからよ」


LOG:二千十八年五月二十八日


可奈子:やっぱ北方で獲れたカニが一番だね。

エル:だね~。カニ鍋最高! ありがとう北方領土!

可奈子:は? 北方領土?

エル:あ、いや。北方地域ね。うん。

可奈子:変な言い方するなお前。あ、おい。お前さっきから大きいのばっか取るなって。

エル:良いじゃん別にー! 私半分ロシアの血流れてんだよ? だから私の方が大きいタラバいっぱい食べる権利あるの! これ北方で獲れたカニなんだからさ!

可奈子:はぁ?


LOG:二千六十三年六月十四日


在原:バイト、順調か?

丘珠:ぼちぼち。

在原:今日、コロポックル・コタンに集合だってよ。

丘珠:凛音?

在原:あぁ。相聞歌からのお誘いだ。

丘珠:テーマは?

在原:アヌンコタン撃滅作戦の最終調整。

丘珠:クソみたいな作戦名だね。アスカは大丈夫そう?

在原:問題無し。あいつなら未来を紡いでくれるだろう。後は俺たちがうまくやるだけだ。

丘珠:実際は可奈子さん一人で動くようなもんでしょ。大丈夫かな、あの人。意外とそそっかしいよ。

在原:だからこそ最終調整するんだろ。

丘珠:そうだね。頑張ろう。

在原:あぁ。最善の☓☓☓☓☓☓☓。

丘珠:うん。愛してるよ、蓮くん。

在原:俺もだよ。

丘珠:グレープゼリー、買ってきてね。

在原:この野郎。

丘珠:俺もだよ、じゃなくて、ちゃんと愛してるって言って。

在原:……俺も、えっと、夏希のこと、愛してるよ。

丘珠:へへっ。……へへへっ。えへへ~ありがとっ。じゃあグレープゼリーよろしくね。

在原:あれ?


EP16 冷静に考えてみたら、お姉ちゃんの自殺が全ての始まりだったんだねって今更ながらに思います

・明日風真希 


 十九時三十分。ユリがマジでナノボットを投与されてるとしたら、あと三時間半で笹岡麻里奈のように覚醒状態? になってしまう。

 とは言っても冴えた対策法なんか特に無くて、可奈子さんの言う通りユリをロープで縛るなんていうシンプルな方法しか見当たらない。

 可奈子さんは庭に車を停めて、頑丈そうなロープを持ってきた。あんな太いロープでユリを縛るなんて考えただけでゾッとするけど、しょうがない。

 ちなみに可奈子さんの車はミニクーパーのクロスオーバーっていう車種で、水色の可愛らしいデザインだった。ヤマトが言うには軽く三百万円を超えるらしい。ますますカニを高級料理だなんて言う可奈子さんが怪しく見えてくる。

 しかも可奈子さんはただ怪しいだけじゃなくて、二十八歳にしては忙しないというか、ずいぶんと落ち着きのない人だった。

 私たちは余裕をもって二十一時ごろになったらユリを縛る事にしたんだけど、可奈子さんはどうやらじっと時を待つという行為がとてつもなく苦手らしい。

 可奈子さんは最初こそじっとおとなしくしていたけど、今はリビングをウロウロしたりパソコンデスクに置いてあるパソコン周辺機器を物色したり、タバコを吸ったりそこら辺に置いてある小説やゲームソフトのパッケージを眺めたりして非常に落ち着かない。

 最初は来るべき瞬間に向けて緊張してるのかなと思ったけど……。

「おっ。このスカート誰の? 望海の?」

「そうですけど」

「可愛いね。これ私に似合うかな?」

「可奈子さんなら何でも似合うでしょ」

「やっぱ?」

「うん。可奈子さん可愛いし、スタイル良いから」

「あははっ。だよねだよね~。どうしようかな、今からアイドルにでもなろうかな」

「い、良いんじゃないですかね~」

「あ、何このぬいぐるみ超可愛い。欲しいな~」

 うん、微塵も緊張してない。やっぱりじっとしてるのが苦手なだけだ。二十八歳にもなってこの落ち着きの無さは問題だ。こういう大人にならないように気をつけよう。

「つーかマジでけぇなこれ」

可奈子さんは大きなぬいぐるみを抱きかかえた。その姿はまるで少女のようだ。

「このぬいぐるみってアスカちゃんの?」

「そうだよ。これはね、にゃんにゃんニャンダフルっていう猫のキャラクターだけが登場するアニメのキャラクターなんだけど、主人公のにゃん太郎の友達の彼女のお姉さんの命の恩人が一度だけ行った事があるコンビニの店員が落とした財布を拾ってくれた弁護士の家に、ロケットランチャーをぶちこんで宝石をいっぱい盗んだ警察官のニャンワイルド太郎君っていうキャラなの。吊り目が凄く可愛いでしょ。しかもめっちゃもふもふしてるから気持ち良くてね、これをぎゅって抱きしめながら寝ると落ち着くしよく眠れるの」

「犯罪者じゃねぇかよ」

「にゃん太郎から説明する必要あった?」

「お前ちょっと漢検の勉強してみろよ。絶対受かると思うぜ」

 口々にボロクソ言われてしまった。しかも可奈子さんはもうニャンワイルド太郎君に対する興味を無くしたのか、また楽しそうに室内をうろちょろし始め、すぐに一冊の文庫本に目を留めた。

「うわっ。チャールズ・ブコウスキーかよ。お前ら良い趣味してんなぁ」

 本当になんなんだ、この人は。あの篝火乙女もめちゃくちゃ気になるんだけど、何故かさっきから篝火乙女を見せてくれない。もう一度UJ相聞歌に会わせてよとお願いしても、「今はリンク切れてるから無理」とか意味分かんないこと言ってくる。

「おっ。何これ名作揃いじゃーん」

 気がついたら、次は映画のブルーレイの山を漁っていた。本当に落ち着きがない。

「レザボア・ドッグス、ファイトクラブ、レクイエム・フォー・ドリーム、トレインスポッティング、T2、時計じかけのオレンジ、ワイルド・アット・ハート、唐突に現れるサンセット大通り。お前ら分かりやすいようで全然分かんねぇな。……おっ。冷たい熱帯魚もあるじゃん良いね~良い趣味してるね~。これ私なんかディノスで三回も観ちゃったよ」

「そうなんですか」

「うん。ていうかディノス閉店しちゃうんだよねー」

「え? ディノスが?」

 アヤ先輩に突っ込まれて、可奈子さんは「あっ」と声を漏らしてきまりが悪そうに頭をかいた。

「なんでもない」

 ディノスが潰れるなんて話は聞いたことがない。そもそも、あんなに歴史があって愛されてるアミューズメント施設が潰れるなんてちょっと信じられない。

 でも私はわざわざ調べる気になれなかったし、可奈子さんに質問をぶつけようとも思わなかった。それはアヤ先輩も同じらしく、気にはなっている様子だけど口を閉ざしていた。

 ダメだ。なんか頭がぼーっとする。ありえない話の連続で完全に脳みそがショートしているんだろう。

 かと言って、何もせずに時を過ごしていたらそれはそれで気がおかしくなりそうだから、私はノートパソコンで篝火乙女事件の情報収集に専念していた。調べているのは主に稲穂南海香のこと。

 稲穂南海香。私はコイツの母親を殺したも同然の人間だった。そしてアヤ先輩とヤマトが最も憎んでいる相手でもある。因縁の相手ってやつだ。

 何度も同じ思いを巡らせる。まさか稲穂南海香と同じ事件に巻き込まれる羽目になるとはねって。しかもその事件の首謀者が稲穂自身である可能性が高いんだからマジでやるせない。

 ほんと、あいつは一体何なんだ。死んでもなお私を苦しめるのか。このゲロクソ女。ブス。深海魚。カマキリ。クソ、クソ、クソ!

 心の中で毒づき、ソフトカツゲンを一気に飲み干す。集中できない。頭の中マジでぐちゃぐちゃ。窓から入る風は心地良くて涼しいのに、頭と心は煮えたぎって死んでいる。

 こんなに涼しくて過ごしやすい夏なのに、どうして私はこんなに鬱々とした日々を送っているんだろう。バカみたい。

 イライラしながら稲穂のツイッターを流し読みしてみるけど、特にこれと言って事件に関係ありそうなツイートは見当たらない。まぁ稲穂のツイートは何度も調べたから今更なんだけど。

 お次はアイカプクルの幽霊部員たちを探ってみる。ヤマトが調べて分かったんだけど、アイカプクルには笹岡のような籍だけ置いてる幽霊部員が他にも何人か居たらしい。

 その内の一人が丘珠夏希。とりあえずコイツのツイートを読んでみるけど、やっぱり怪しい書き込みは見られない。つーか彼氏の惚気話ばっかりで気が滅入る。きっとコイツはいつでも右手にタピオカ、左手にパンケーキを持ってる類の人間なんだろう。よしお前はスイーツ系女子。いま私が認定した。

 やるせなさを感じつつ、適当に丘珠夏希のフォロワーをチェックしていく。なんか怪しい奴の一人や二人見つからないかな。

「ツイッター?」

「ん」

 ユリがハイライトの煙をぷっはぁと吐き出しながら横に座った。特に緊張している様子はない。鋼のメンタルなのか、それとも可奈子さんの話を一切信じていないのか。どっちだろうか。

「あんまりツイッターとか熱心にやらない方が良いよ」

 なに言ってんの? と思ったけど、どうやら私がツイッターを徘徊して遊んでいるように見えたらしい。でもまぁ、いちいち言い返す問題でもない。

「ユリだって結構やってるじゃん」

「私は仕事でやってんの。あいつらツイッターで優しく絡んでやらねぇとさ、なかなか大金貢いでくれねぇんだよ」

「まぁね。で、なんで普通にツイッター使うのはダメなの?」

 その理由はハッキリ分かってたけど、敢えて聞いてみた。

「自分に都合の良い事しか言わない人間が大勢居る世界だから」

 言うと思った。私だってそう思ってる。

「だね。そしてみんな、そういう世界でへらへら馴れ合って笑ってる」

「うん。そしていつしかそんな世界が本物の世界だと勘違いしちゃうんだ。自分の間違いを正すために怒ってくれる人が居る現実世界を否定する」

「ほんとにね。私のクラスにもそういう人沢山いるよね。自分が悪い事して先生に怒られて逆ギレするみたいな」

「若い社会人もそういうタイプ多いみたいだよ。会社に何度も遅刻して上司に怒られたら、自分が悪いくせにムキー! ってなっちゃうの。んでツイッターに上司の悪口を書き連ねる。大なり小なり事実を捻じ曲げてね」

「するとどうでしょう。ツイッターのフォロワーたちは上司が悪い、貴方は悪くない間違ってないって擁護してくれる。そしてその人はやっぱり私は間違ってないんだ上司が悪いんだ! よしこんなクソな会社辞めてやる! って決意してマジで辞める」

「クソだね」

「うん。クソだ。人間なんて」

「独立世界」

 唐突に、可奈子さんが訳の分からない事を呟いた。

「ツイッターのお仲間同士でつるんでる連中って、まさに独立した自分だけの世界で過ごしてるって感じでしょ」

「あぁ……まぁ、そうですよね」

「結局、人間が最終的に行き着くステージは独立世界なんだよ」

「……?」

 なんか意味深なこと言ってるけど、何が言いたいのかサッパリ分からないや。

 可奈子さんは特に理解してほしいとも思ってないらしく、遠い目をしながらタバコをぷかぷか吸い始めた。

 ユリはそんな可奈子さんを不思議そうな目で見つめながら、肘で肩を小突いてきた。

「ねぇ。めっちゃ話変わるんだけどさ」

「なに」

「昨日ね、豊平橋に稲穂南海香が居たらしいよ」

「は? なに?」

「昨日、豊平橋に稲穂が居たらしいよって言ったの」

「稲穂……?」

 突然のトークチェンジからの突拍子もない発言に、私はただ混乱して固まってしまった。

 ユリがちらっと可奈子さんの方に視線を向けたけど、可奈子さんはわざとらしくそっぽを向いている。なんとなくこのタイミングで稲穂の話題を持ち出した意味を悟り、私は「続けて」と先を促した。

「豊平橋にさ、やたらと目立つ金髪の外国人が居たらしいのね。可愛い女の子だってさ。で、その金髪美少女が稲穂とそっくりな人と喋ってたらしいよ」

 いや金髪って……。

 咄嗟に可奈子さんの様子を伺ったけど、知らんぷりを決め込んでいる。絶対なんか知ってるでしょ。

「なんかやったら具体的な情報だけどさ、ソースはどこなのさ」

「ツイッターの情報。稲穂の知り合いが稲穂のそっくりさんと金髪美少女が喋ってる所を見たらしくて、結構詳しく書き込んでた。今はそのツイート消されちゃってるけどね」

 なんだよ。ツイッター批判からの結局ツイッター頼みかよ。

「ツイッターの書き込みでしょ? しんぴょぴょ……信憑性の欠片もないよ」

「確かにしんぴょぴょう性の欠片もないね」

「泣いてやる」

「ごめん」

「ユリは信じてるの? その話」

「少しは」

「えー。そんなくだらない情報を?」

「いやでもさ、稲穂南海香とか奇跡的なブスじゃん。あんなブスのソックリさんとかまず居ないでしょ? もしかしたらあいつ生きてるのかもよ」

「正気? あいつは死んだんだよ。ニュースでもちゃんと報道されてたじゃん」

「稲穂が死んだっていう情報が間違ってる可能性もあるかもよ」

 あ、こいつ絶対に自分の話信じてないな。だってめちゃくちゃニヤニヤ笑ってるもん。

「どう思います明日風さん?」

「どう思うも何も、その話だけじゃ鵜呑みには出来ないよ百合ヶ原さん。金髪は気になるけどね」

「で、佐伯さんの見解は?」

 ユリが嫌味ったらしく聞くと、可奈子さんは「うーん」と唸りながら天を仰ぎ、あっけらかんと言い放った。

「良く分かんない。金髪はエルの事だろうけどね。今度聞いておくよ」

 私も大分可奈子さんの性格が分かってきた。この人の今の発言は正直なもので、嘘や他意は含まれてないだろう。

「おいユリ」

 キッチンカウンターのスツールに座って缶コーヒーを飲んでいるヤマトが、ふいにユリを呼んだ。気難しそうな顔で。

「お前が見たツイート、もう見れねぇのか?」

「消されてるし、探したけど画像でも残ってなかった。なに、気になってんの?」

「そりゃ気になるさ」

「ツイートしてたのは誰?」

「りなぽんぽん、って名前の奴」

 りなぽん、じゃダメだったんだろうか。

「あ、りなぽんぽん? 同じクラスの子だ」

「柿沼璃奈?」

「うん。アイカプクルのメンバーではないね」

「稲穂との接点も無いよな」

「無いね」

「まぁ今は他の事を考えてる場合じゃないんだが……」

「気にするべき問題ではあるよね。稲穂についてはしんぴぴっ……しんぴょーせーが無いからアレだけど、金髪の目撃情報は結構ガチそうだし」

「そういう事だな。おい」

 ヤマトが可奈子さんに向かって呼びかけたけど、可奈子さんは暇そうにソファで足を組み、アヤ先輩が惰性で買い続けてるセブンティーンをパラパラめくるだけで、全く反応しない。

「おい、お前だよ」

「……」

「耳腐ってんのか?」

「アンタ」

「あん?」

「年上の女をどう呼べば良いのか分からないんでしょ。恥ずかしいんでしょ。ただ少なくとも、高校生のガキにおいとか言われたくはないんだよね」

「……」

「ちなみに私は、可奈ちゃんとか呼ばれる事もある」

「ハードル上がってるじゃないか」

「冗談だよ」

「可奈ちゃん可奈ちゃん!」

「……可奈子さん」

「おう、なんだ」

「あいつの名前、なんだっけ」

「エルノア・エンゲルリック」

「国籍は?」

「日本産まれの日本人だよ。ハーフだけどね。お母さんが日本人で、お父さんがポーランド系ロシア人。父親はハバロフスクの出身だったかな」

「お前、あの金髪について何か教える気はないのか」

「まぁね。でもいずれ分かると思うよ。ただこれだけは言っておくけど、あの子はみんなの味方だよ」

「味方だよって言われて、へぇそうなんだとはならねぇけどな」

「可奈ちゃんと金髪は、稲穂について絶対に何か隠してるよね?」

「お前絶対その呼び方気に入っただろ。……まぁ今さら否定はしないよ。私は色々隠してる」

「稲穂って今も生きてんのか?」

「……いやー、それは無いんじゃない?」

「可奈子さんってさ、稲穂と面識あるの?」

「全然無いよ。稲穂と事件の関わりについては色々知ってるけど、稲穂南海香っていう人間そのものは良く知らないんだ」

「は? じゃあなんで南海香にアイカプクル譲ったんですか? てっきり南海香と親しいから譲ったんだと思ってたんですけど」

「……」

「黙らないでくださいよ。顔に『あ、やべ。言っちまった』って書いてありますよ」

「……」

「うんとかすんとか言ってください」

「うんすん……」

「バカナコさん、私、怒りますよ」

「このナノボット、捨てちまおうかな」

「あのねぇ……」

 だんだん分かってきたけど、この人は本当のことを言う時は即答する。嘘を言う時は宙を睨んでしばらく考えてから発言する。隠し事をする時は正直に、何故か自信満々に「言えない」と断言する。全人類が可奈子さんのようなストレートすぎる人間になれば、嘘発見器なんていらなくなるだろう。人間次第で不要になる技術はいくらでもある。

「あのさ、アヤパパの買春相手ってエルノアなんだよね」

「答える気はない」

 ヤケクソになってるのか、徐々に潔く発言するようになってきた。今なんか涼しい顔で答えながらセブンティーンに熱中し始めてるし。

 つーかこの人の余裕は一体何なのだろう。なんかもう全ては段取り通りですみたいな、鼻につくほどの落ち着きっぷりは違和感でしかない。違和感オブ違和感。

「おっ。リズリサの新作ワンピ可愛い。私にピッタリじゃん」

 このオバハンはさっきから何をほざいてるんだ。

「ワンピースってあんまり着た事ねぇんだけどなぁ~。これならめっちゃ着てみたいかも」

 その年でリズリサはねぇだろって心の中で突っ込んだけど、可奈子さんくらいのベビーフェイスなら確かに問題なさそうかも。

 にしても。はぐらかすような態度がどうも気に食わない。ケウトゥムハイタに乱入してきてから、この人はひたすらに演技を続けている。

 なんだろう。何故だか、攻撃したくなる。

「可奈子さんって、稲穂にアイカプクルを譲ったんですよね。見る目無さすぎじゃないですか?」

「ん? 稲穂が無能だって事は分かってたよ」

「本当に?」

「うん。稲穂は間違いなく無能だよ。しかもあろう事か自分が無能だっていう自覚が無かった。才能の無い者はどれだけ努力した所で意味が無いって事を理解してなかった。いや、それどころかあいつは努力する事の必要性すら理解してない底抜けのバカだった。ありゃ完全に欠落品だよ」

「じゃあなんで譲ったの」

 可奈子さんは雑誌をぱたんと閉じると、呆れたようにため息をついた。

「人間ってのは固定観念のカタマリだよね。だから会話がなかなか成立しない。アスカちゃんってさ、同人サークルの後継者には有能な人間を指名するはず、っていう決めつけを前提にして喋ってるでしょ。そこからもう間違ってるんだよ」

「じゃあなんで譲ったのって聞いてるの」

 可奈子さんはクスっと嬉しそうに笑った。

「アイカプクルは、稲穂に譲るために作ったもんだからね」

「え、ちょ。どういう意味ですか?」

「だってほら、稲穂がアイカプクルのリーダーになればあいつは絶望するだろ?」

 アヤ先輩とヤマトが目を見開き、顔を見合わせた。

「おい、お前の目的は……」

「はいストップ。これ以上は秘密です」

「お前なぁ……」

 ヤマトの冷たい視線なんか気にする様子も無く、可奈子さんは白々しく口笛を吹いてそっぽを向いた。それでもアヤ先輩はめげずに追撃する。

「あの、どうしてその……大事な同人サークルを……」

「だから」

 可奈子さんはちょっと怒ったように口を挟み、どうでも良さそうに言う。

「前提から間違ってる。アイカプクルは同人サークルじゃないし、そもそも私は同人の意味も分からねぇんだよ。なんで趣味で創作活動してるだけなのにさ、自動的に同人サークルとか同人活動者なんていう訳分からんレッテル貼られなきゃいけないの。同人声優ってなに? 同人歌手ってなに? インディーズとかアマチュアで良いじゃん。まぁ同人って言ったほうが伝わるから同人っていう言葉を使う事はあるけどさ、正直ヤだね。なんなんだよ同人って。意味分かんね」

 何かに触れてしまったらしい。突然走り出してしまった。

「てかねぇ、同人そのものが大嫌いなんだよね。だってあの世界は身内同士の戯れハンパねぇし、純粋に自分の作品を売るためじゃなくて、出会いとか飲み会目的でコミケに参加したいがために作品を作ってる奴ら多すぎだしさ。あいつらファンの事なんか考えてねぇよ。コミケの本番はコミケじゃなくて、コミケ後の飲み会だから」

「あのー」

「あと頭イってる奴も多すぎてダルい。自分の顔が大好きでしょうがないですーとか、録音した自分の可愛い声を聞いていつも悶えてますーとか、そういうこと平気で言う奴めっちゃいるもん。ヤバいでしょ? ネット声優とかコスプレイヤーに多いんだけどさ、自己顕示欲強すぎな奴の集まりでマジ辟易する。つーかそんなに自分に自信あるならプロになればって思うけどね。まぁなれないんだろうけど。所詮プロになれない落ち武者。それでも、あくまでも自分の容姿が好きでしょうがないとか意味分かんないよね。逆セリエAか? それにしても自分の容姿しか武器に出来ないネットアイドルとかさ、老けたババァになったらどうすんだろね。自我を維持できんのかね」

「あ、分かった。いま話逸らしてるでしょ?」

「せいかーい」

 可奈子さんは「あははっ」と笑って、また口笛を吹き始めた。

 だから何なのさ、その余裕しゃくしゃくな態度は! なに? もう私たちがユリにナノボットを投与する事に賛成したら? あとはもう消化試合なんですか?

 聞きたい事なんていくらでもある。ちきしょう! クソ野郎! ムカつく!

 私は大きなタヌキのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめ、じぃぃ~っと可奈子さんを睨みつけた。そして、私の視線を微塵も意に介さない可奈子さんの飄々とした様子に悪魔的な絶望を感じてしまう。

 予感がある。直感がある。

 今日を乗り越えたとしても、悲劇は続くのだと。可奈子さんの余裕は確信の裏付けだ。篝火乙女事件においてユリと私の件は途中経過に過ぎない。絶対にそうだ。

 予感も直感もオカルトだろうか? オカルティックな恐怖に怯える私はただのバカか? そうとも言い切れないだろう。

 人間の根拠の無い勘や確信は、時として人工知能の人智を越えた力を凌駕する事がある。私はちゃんと、人間の意味を理解している。母親の体から産まれる事だけに人間としての価値や神秘性がある訳じゃない。

「んだよ。そんな目で見るなって」

「……」

 嫌がる素振りを見せる可奈子さんは、なんだかとても悲しそうな顔にも見えた。なんだよ、お前にそんな顔する権利なんかねぇんだよ。

「年増のクソババァ」

「おい」

「何も教えてくれない。ひどい」

「あのなぁ。私はユリちゃんを助けるためにここに来たんだよ」

 頭の中がドロドロと渦巻いている。私は佐伯可奈子という人間を実のところ気に入っている。可愛いし、声も綺麗だし、スタイル良いし、サバサバして取っ付きやすいし、面白いし、可愛いし、可愛いから。もちろんユリのために身を尽くしてるのも分かるし、ユリを助けたい気持ちは嘘じゃないって信じてる。

 でも、さすがにここまで怪しい人に好意的な目は向けられない。

 室内の空気が淀んでいくような感覚に陥る。その瞬間。

「おいアスカ、あんまりイライラすんな。ちょっと頭でも冷やしとけ」

「……そうする」

 ガバッと顔を上げ、ドスドスと足音を立てながらキッチンに向かい、冷蔵庫からセイコーマートの北海道限定メロン味のソフトクリームを取り出し、一心不乱にペロペロ舐めた。赤肉メロンの濃厚な味わいが口の中を満たす。

 ちらっと背後に視線を向けると、気まずそうにオロオロしてるアヤ先輩と、結構ガチな感じでしょんぼりしてる可奈子さんが目に入った。……ちょっとキツく当たり過ぎただろうか。

 ユリが「やれやれ」といった風に苦笑し、私の隣に座ってタバコに火を付けた。

「お前さ、もう少し自分の事も考えたら?」

「自分?」

「いやだって、私はアスカを殺しちゃうかもしれないんだよ」

「私は絶対にユリを守るよ」

「天然か? 私は死なないけど、アスカは死ぬんだよ。可奈子さんの話が全部真実だったらね」

「あぁ……。そっか、私殺されるのか」

「そうだよ。大丈夫マジで?」

 ずっとユリのことばかり考えていて、自分が死んでしまうことの重大性について全く考えていなかった。それは私がユリを愛しているからこその必然性なのか、それとも私が自分の生死をどうでも良いと思っているからなのか。どちらか片方なのか両方なのか。

 分からない。

 つーか、もう頭が正常に動作していない。

「ずっとユリのことだけ考えてた」

「自分を大切にしましょう」

「綺麗事大好きな日本人が愛する言葉ベストスリーに入るセリフだよ、それ」

「何言ってんの。アスカが死んだら、私生きてけないじゃん。だから、アスカは自分を大切にしてね」

 至近距離で話してるユリの声と息が耳にゾクッと甘く響く。いつもの甘い匂いもする。そしてこの部屋にはいつもとは違う甘い匂いもあった。

 可奈子さんだ。この人は甘くて優しくて、嗅ぐだけで心が落ち着くような匂いがする。

「……なぁ」

 いつの間にかパソコンに向き合っていたヤマトがぼそっと呟いた。

「なにさ」

「これ見てくれ」

 ユリが面倒くさそうに席を立ち、パソコンデスクに手をついてモニタを覗き込む。その瞬間「えっ」と声を漏らした。

「何これ」

「見た通りだよ」

「どうしたの?」

 私とアヤ先輩もパソコンのモニタを覗いた。そしてユリと同じように「えっ」と声を漏らして愕然とした。

 画面には稲穂南海香のツイッターが表示されている。稲穂はいわゆるツイッター廃人ってやつで、「人を楽しませる物語を書きたい」とか「たった一人でも私の作品を見てくれる人がいる限り、私は創作をいつまでも続けたい」みたいな自分語りなツイートを書き込みまくる自分に酔った暇人で、ツイッターをやる時間を削って読書とか映画鑑賞してスキルアップをするという発想が出てこない愚か者のバカだった。

 そんなバカでブスな稲穂のツイートは七月三日で止まっていたはず。殺害される前日だ。

 しかし。

『なんか私死んだ事になってんだけど。マジでウケるわw』

 最新のツイートは七月二十九日になっていた。


EP17 君に心があるから殺すんだ

・百合ヶ原百合


『ねぇこれ本物? マジで本物? あの報道嘘だったの!?』

『ニセモノ乙。死者のアカウント乗っ取るとかマジでクズ。死ねよ。首吊って死ねよ』

『私は信じます。ナミカさん本物ですよね。生きてたんですよね』

『えっ。なぁこれマジで本物じゃね? 本人しか知らないような情報もガンガン流してるし』

『いやマジで本人なら自分の写真UPしてるだろ。それが出来てない時点で偽物』

『つーか報道で稲穂南海香ってハッキリ出ただろ。被害者の名前が間違って報道されるとかありえないから。葬式だってちゃんとやったんだろ』

『南海香さんお願いです。写真UPしてください』

『稲穂南海香ってアリアンロッドの制作者だよね。こんな凄い人が死んじゃったなんて信じたくない! 生きてますよね!? 答えて下さい!』

『どぅはーバカみたい! アリアンロッドは盗作だよ~稲穂なんかアリアンロッドに微塵も関係してないよ~。ていうかあれだけゴミ作品乱発してた奴がさぁ、あんな名作を作れる訳ないじゃんどぅはっふは~』

『は? 死者を冒涜すんなよ』

『だはー! 稲穂生き返ったみたいだから別に良いじゃん! 生者は冒涜しても良いんでしょ?』

『にしてもコイツ、マジでブサイクだよな。こんなブス死んでも心痛まねぇわwww』

『この人は篝火乙女事件の第一被害者です。生き返ったかどうかは分からないけど、今後の動向に注目しましょう』

『なんか過去のツイートのメンヘラっぷりがハンパじゃねぇのな。キモすぎ。ブロックします』


 稲穂南海香に寄せられたツイートをざーっと見てうんざりした。日本人は頭の悪いツイートをする天才だよね。右に出る者はいねぇよマジで。

 つーか稲穂にリプライしてるクセに、ほとんど一人語りのようなツイートが大半だし、この時点で対象者の事を人間だと思ってないよね。挙句の果てには言い争ってる連中もいるし、もう日本人はダメだなこりゃ。

 てか結局この稲穂は本物なの? 偽物なの? 人工知能? 篝火乙女第三号? マジでなんなの? もし本物だったらタチ悪すぎだけど、これが人工知能や篝火乙女でしたってオチなら笑えるね。

 だって、リヴァイヴァル稲穂が人工知能か何かだったとしたら、クソリプを送りつけてる連中は人工知能を人間と勘違いしてメッセージ送ってる大バカ者って事になる。それはMMORPGのCPUキャラを人間と勘違いして話しかけるようなもんだ。面白すぎる。

「笑える」

 普段クソリプを送りつけてる連中は「人間を人間扱いしてないんだぜ」みたいな謎の悪意と優越感で書き込んでるんだろうけど、こういう連中は常日頃から空振り三振を繰り返している。もし稲穂が本物とか偽物とかそういう話以前に人間ではない何かだと確定したら、爆笑確定だね。

「笑えるか?」

 パソコンのモニタをまじまじ眺めていたら、可奈子さんが肩に腕を回しながら聞いてきた。

「稲穂が人工知能か何かだとしたらね」

「人工知能を人間だと勘違いして語りかける。確かに面白いね」

「うん。まぁコイツが稲穂を模した人工知能だったら、話は変わってくるけど」

「そうかもね」

「可奈子さんはコイツの正体分かってんの? 本物? 偽者? 人工知能?」

「いや、ごめん。マジで分かんない」

 可奈子さんはふんわり優しく甘い匂いを漂わせながら、チッと舌打ちをした。

「面倒くせぇ事になってきたな」

「ほんとにね。……あのさ」

「なに?」

「ツイッターで浅い繋がりしか無いフォロワーがさ、ある日とつぜん人工知能に成り代わってたら気がつくと思う?」

「んー……」

 可奈子さんはほんの少しだけ考え込み、ケロリとした顔で答えた。

「本当に仲良い奴らとは、ツイッターで繋がってないんだよね、私」

「そうですか」

「アスカ? 大丈夫?」

「ん?」

 振り返ると、後ろに立っているアスカが強張った表情で肩を震わせていた。

「あ……」

 稲穂南海香。アヤ先輩とヤマトの宿敵にして、アスカを苦しめ続けた罪悪人。

 稲穂が死んで、どれだけアスカが救われたか。

 迂闊だった。アスカの表情には、滅多に見せない恐れがあった。

 私は、その表情に昔の面影を見た。

 アスカとは幼稚園からの付き合いだけど、昔は気が弱くて他の子供たちよりもかなり幼稚な面があった。中学生になってから気の弱さは鳴りを潜め、冷たさと諦めが混じったようなダウナーかつ強気な性格に変わったけど、根っこの部分はまだまだ未熟で幼く脆い。

 アスカの怯えた表情を見て再認識した。アスカは完全に強気な人間に生まれ変わったとは言い難い。アスカは、まだ弱い。弱気を強気で上書きしたのではなく、弱気の上に強気を置いただけに過ぎないんだ。

 体の底から怒りが湧き上がってくる。稲穂の正体が何であれ、昔のような気の弱いアスカを掘り起こした奴を許せなかった。

「アスカ……」

 私はそっと手を差し伸ばそうとした。いや勝手に手が動いた。不思議なほど自然に。

 どうして? 愛? 友情? それとも……。

 ズキリ。頭痛。

 それとも……なに?

「おい、何ビビってんだ。この稲穂が本物だとしても問題ねぇよ。むしろ本物だったら有り難いじゃねぇか。好きなだけ稲穂をボコボコに出来るんだぜ」

「そうだよアスカ。心配しなくて良いんだよ」

「あ、うん。ごめん大丈夫だよ。ちょっとビックリしただけ」

「……」

 私は、中途半端に伸ばした手を静かにおろした。

「本当に大丈夫?」

「大丈夫」

「そっか。アスカは強い子だね」

 と言って、アヤ先輩がよしよしとアスカの頭を撫で撫でした。さっきまでの怯えた表情はどこへやら、アスカさんはまんざらでもなさそうな顔でされるがままになっている。

 ……なんか、一気にテンション落ちてきたわ。

 私はソファに勢い良く座り、水をがぶ飲みした。ダメだ。頭がぐるぐるもじゃもじゃしてる。必要以上に頭を巡らせるなんて私らしくない。

 大きく深呼吸。確かに状況は最悪だけど、今は余計なあれこれに気を取られてる場合じゃない。いつもの私よ戻ってこい。

 邪念を捨てろ。今考えるべき事だけ考えて集中してれば良い。人生はもっと合理的にシンプルに進むべきだ。じゃんけんもあみだくじも複雑な路線図も嫌いだ。

 両手でパチンと頬を叩き、気合いを入れた。よしオーケー。これで邪念は吹っ飛んだ。稲穂も何もかも後回し。私の脳みそはクアッドコアじゃない。一つの物事に潔く集中しよう。

 壁時計を見上げる。もう二十時半を回ってるし、そろそろ準備を始めなきゃいけない。今は運命の瞬間に全力を尽くすべし!

「アスカ。今はとにかく、これから起きる事だけに集中しよう」

「……うん」

 アヤ先輩に頭を撫でられながら、アスカは小さく頷いた。なんだかな、私はアスカを慰めるのが苦手らしい。どうして私は……いや、邪念はいらない。

「ユリちゃんの言う通り。稲穂の事は明日にでも考えな」

 可奈子さんは朗らかに言うと、床にどっしりとあぐらをかいた。

「で、ユリちゃんの方はどうなの。あんまり緊張してるようには見えないけど」

「大丈夫。可奈子さんを信用してるから」

「へぇ。私を?」

「ある意味ではね」

 嘘ではない。私は佐伯可奈子を信用しているし、最後の最後で頼りになるのはコイツだけだっていう確信もある。言い方を変えるなら、私はアヤ先輩、アスカ、ヤマトをあまり信用していない。

 最悪のパターンを考えてみよう。私が狂った殺人マシーンになってアスカを殺そうとして、アンチナノボットが効果を発揮しなかったらどうなる? アスカもアヤ先輩もヤマトも適切な対応が出来るかどうかは怪しいところだ。殺しても問題無い笹岡ならいざ知らず、私に手荒なマネは出来ないだろうからね。

 実際問題として、殺人マシーンになった身内をなるべく傷つけずに制圧するなんて結構難しいでしょ。

 だけど。可奈子さんなら躊躇なく私を殺してくれるだろう。根拠は無いけどこの人なら絶対ヤるね。確信できる。

 だから、私は落ち着いていられる。

 佐伯可奈子が居る限り、アスカは死なない。絶対に。

「可奈子さんは、私を殺すでしょ」

「なに言ってんだお前」

「アンチナノボット、まだ信じてないからね」

 嫌味で言ったつもりなんだけど、可奈子さんは余裕たっぷりに笑った。なんかムカつくな、おい。

「ユリ」

 アヤ先輩がキリっと気を引き締めた顔で私の名前を呼び、隣に座った。相変わらず右膝を立ててパンツ丸見えのだらしない格好でソファに座るその姿は、いつ見ても妙にサマになっている。

「ユリもアスカも、絶対守るからね」

「おっ。頼もしいじゃん」

「むっ。何よその言い方」

「冗談」

「まぁ、緊張してないなら良いんだけど」

 と言って、アヤ先輩はちらりとアスカに視線を向けた。

 アスカはぺたんと床に女の子座りして、いつの間にか両手に紙パックの野菜ジュースを持ち、ごくごくストローを吸いながら私たちの話を真剣に聞いている。緊張感の欠片もないあどけない姿と、真剣な表情のギャップがハンパじゃない。

 やがてアスカが野菜ジュースを飲み終えると、それが合図だったかのように可奈子さんが手を叩いた。

「さて」

 セブンスターを灰皿でもみ消しておもむろに立ち上がる。背はあまり高くないけど、全体的にスラっとしたスタイルに相当な童顔フェイスに色白の肌。クリクリとした愛らしくて優しげな瞳。そこに居るだけで見る者をひきつける凛としたオーラ。

 言動や性格に問題はありそうだけど、なんとなく頼りになるなって思わせられるその雰囲気に、私はちょっと憧れそうになる。

 どういう人生を過ごしてきたら、あんなオーラを発せられる人間になるんだろうか。

「これ以上ウジウジしててもしょうがないね。ちょっと早いけど、そろそろユリちゃんを縛ろうか」

「言葉を選んで欲しいですね。ていうか今から縛らなくても……」

 アヤ先輩が突っ込む。思わずイラッ。この人はまぁ普通に良い人だと思うんだけど、なんだろ……なんかこう……うまく言えないけどたまに癪に障るんだよね。良い人も行き過ぎるとちょっとうざい。

「実際に縛るんだから言葉を選ぶ必要なんて無いだろ。それに、これ以上ウジウジしててもしょうがないってのも確かにその通りだ。ユリも腹くくってるみたいだしさっさと済ませるぞ。もしコイツの話が嘘でユリがおかしくならなかったら、その時はみんなでユリにうまい飯でもたらふく食わせてやればいいだろ」

 つい笑ってしまう。そう、これで良い。私はヤマトみたいなざっくばらんで、何事も包み隠さずに言う人間が好きだ。分かりやすくて良い。人生も人間も、これくらいあっさりしてた方がストレス無くスムーズに進んでいく。

 でも残念ながら、ヤマトみたいな人間は間違いなく大多数の人間に嫌われる。特に女には。ヤマトの性格じゃ社会では生きていけない。世の中はオブラートに包んだへらへら笑顔で成り立つもんだから。

「じゃあユリちゃん。ここのソファに座って」

 可奈子さんが両手でロープを持ってビシっと伸ばした。その優しい笑顔がなんとなく怖いです。

「ほらどうしたの。早く座って」

「はいはい」

 私はおとなしくソファに座った。可奈子さんがテキパキと両足にロープを巻いていく。目の前でかがみこんでいる可奈子さんの後頭部を眺めながら、あぁ良い匂いがするなぁ大人の匂いだなーってどうでも良い事を考える。

「シャンプー何使ってんの」

「秘密」

 と呟きながら、巻いたロープを強く結んだ。痛いけど我慢できない痛みではない。

「ユリ……」

「大丈夫だよ」

 アスカは何故かしゅんとして俯いている。アヤ先輩はオロオロ。ヤマトは盛大なくしゃみ。

「ユリちゃん」

「はい」

「趣味とかある?」

「……特に無いですけど」

「ふーん」

 私は両手をグッと突き出した。もう両足にロープがぐるぐる巻かれている。足の次は腕だろう。

「ちょっと痛いかもだけど我慢してね。歯医者みたいに手上げられても困るけど」

「はい」

 可奈子さんが腕にロープを巻いていく。なんか変なプレイしてるみたい。

「本当に趣味無いの? そこにピアノあるけど」

「私は弾きません。アスカとアヤ先輩がたまに」

「そうなんだ」

「可奈子さんはピアノ弾くんですか」

「得意だよ」

「習ってたの?」

「独学」

「凄いですね」

「趣味はネット配信じゃないんだ?」

「えっ」

 ギクリとする。私はいつも顔出しで(と言ってもマスク着用だけど)ネット配信をして投げ銭で儲けてるし、月額のファンクラブなんかでも収入を得ている。

「配信、してるよね」

「……趣味じゃなくてビジネスだけどね。なんで分かったのさ」

「そこに大量のマスクがある。日本人の九割はマスクの本当の使い方を知らない」

「まぁ確かに私はマスクの使い方知りませんが。それだけ?」

「そこにヘッドセットもある。ゼンハイザーか」

「だからそれだけでなんで分かるのさ。そんな情報だけで私がネット配信してるなんて分かる?」

 女が私の配信を見てるとも思えないし。

「ねぇ、なんで分かったの」

 可奈子さんはクスリと笑った。

「さぁね。でも私は知ってるんだ。ね? これでもう少しは私を信用する気になれたかな」

「……怪しさが増しただけな気がするけど」

「趣味じゃなくてビジネスなんだ?」

 可奈子さんは質問をしながらも、テキパキとロープを結んでいく。多分だけど、会話をする事で私の気を紛らわせようとしてるんだろう。

「趣味でネット配信なんかしねぇよ。あくまでもビジネス。女は楽だよ。ちょっとエロい格好して適当なこと喋ってるだけで、皆ぽんぽん投げ銭で貢いでくれる。アマゾンのほしい物リストに欲しい物を入れておけば、熱狂的なファンはいくらでも買ってくれる。私ね、大人になって仕事見つけられなかったらキャバクラで働こうと思ってんの。私くらいに可愛くて胸も大きい女だったらそこそこ稼げるでしょ。資格とか何も持ってなくても。あ、キャバクラよりも風俗の方が儲かるよね。よし決めた。私ソープで働く」

「お金を稼ぐのは簡単?」

「うん」

「世の中チョロい?」

「チョロいです」

「そっか」

「……なに? お説教しないの。中学生が風俗で働くとか言ってるんだよ」

「ガキの頃の思い出はそれなりに覚えてるけど、ガキの頃に抱いてた気持ちは、ほとんど忘れちゃったんだ。はい完成」

 可奈子さんが両腕のロープも縛り終えた。両腕も両足も全く動かないけど、かと言ってがんじがらめにされたって感じはしない。

 単純に私を強く縛ることに抵抗があるのか、それとも簡単に私を制圧できると踏んでいるのか。……多分後者だろうな。

「さてみんな。凶器になるような物は遠ざけて。ハサミとか重たい物とか」

「お前が一番の凶器に見えるけどな」

「あ?」

 どうやらヤマトは私と同じような考えを持っているらしい。

「ここまで来て何言ってんだか。ほらさっさと動け」

 可奈子さんに言われて、皆はリビングにある危なそうな物を他の部屋に運び始めた。アヤ先輩はキッチンにある包丁やフライパンを、ヤマトはアンプとかプリンタとかスキー用品など、アスカは灰皿や重たい本とか小物類をどかしていき、思い出したようにライターも片付け始めた。

 ……私がライターでケウトゥムハイタを燃やす姿でも想像してるんだろうか。

「後でこれ咥えてもらうから」

 可奈子さんが小さなタオルを取り出して見せつけてきた。まぁそうだよね。歯も立派な凶器だ。

「ねぇ可奈子さん。ナノボットは注射するの?」

「いや。この小瓶の水を飲ませる。水の中にナノボットが入ってるんだよ」

「え? じゃあ私の口塞いだらダメじゃね?」

「本当にユリちゃんがぎぃーえー! って感じになったら、タオルを外す」

「確信してないんですか」

「安心して。私は学校の先生みたいな神様じゃないから」

「は?」

「可奈子さん。とりあえず大抵の物は運んだよ」

「ん」

 部屋に置いてあった危険そうな物はみんながあらかた別の部屋に運んだ。あと残ってるのは大きな家具や私が座っているソファだけ。

「じゃあこれ運ぶか。望海手伝って。根暗とアスカちゃんはダイニングのテーブルお願い」

 アヤ先輩とアスカは素直に行動を始めたけど、ヤマトだけ棒立ちになっている。早く動けよ。

「おい根暗君。テーブル運べってさ」

「さっさと持ってよ根暗君」

「おぉ。俺の事だったのか。すまんすまん」

 無事に済んだらヤマトを一発殴ろう。

 皆でテーブル含め大きな家具を運び出し、リビングはあっという間にすっからかんになった。家具と言える家具は私が座っているソファだけ。なんか凄く異質な空間で落ち着かないけど、これで私が道具を使う事は不可能となった。

 アスカが空っぽになった部屋を見回し、疲れ切ったように言葉を漏らす。

「……にしてもさ、人を殺せそうな道具っていっぱいあるよね」

「まぁね。殺そうと思えばパソコンのキーボードでもスマホでも出来るんじゃない? 頭を永遠に殴り続けてれば」

「まぁそうかもですけど」

「ん。……さて。来るべき瞬間に向けて、最後に一つ話をしようか」

「話?」

「うん。いきなりだけどさ、皆はシンギュラリティについてどう思ってる?」

 全員、沈黙。可奈子さんは気にせずに続ける。

「みんなはある程度シンギュラリティについての知識はあるんだよね。望海から聞いてる。ケウトゥムハイタはシンギュラリティに恋い焦がれる奴らの集まりなんでしょ」

 アヤ先輩、私たちのことをどんな風に聞かせてたんだろうか。問い詰めたい気持ちでいっぱいになる。つーか、私はそこまでシンギュラリティに没頭なんかしてないぞ。知識はほとんどアスカたちの受け売りだし。

「まぁ否定はしない。恋い焦がれてるというか、憧れと言った方が近いけどな」

「憧れか。なんで憧れるの?」

「シンギュラリティ。人工知能がエンドレスに自分より優れた人工知能を生み出す時代。人工知能が人間を超える時代。衣食住もエネルギーもフリーになる時代。人間がサイボーグのようになれる時代。病気とは無縁で不老不死が実現する時代。つまりユートピア。憧れない方がおかしいぜ」

「ユートピアな世界に憧れるんだ? どうして?」

 ヤマトは目を見開いた。何を当然の事を……みたいな顔。

 ていうか私をロープで縛っておきながら、なんでシンギュラリティの話を始めなければいけないのでしょうか? ねぇ私今めっちゃ間抜けじゃない……?

「ねぇ、なんでユートピアに憧れるの」

 私の戸惑いそっちのけで可奈子さんは質問を重ねる。ヤマトはちらっと私を横目で見ながらも、ため息混じりに答えた。

「そりゃ憧れるだろ。衣食住がフリー……つまり働かなくても生活できる。毎日バカみたいに笑って楽しく生きていければ良い。体に投与されたナノボットは人体のあらゆるエラーを改善する。だから病気になる心配もない。ハゲないしEDにもならない。なんかすげぇ人工知能が社会を常に正しい方向に導いてくれる。だからバカな政治家に社会や日常をぶっ壊される心配もない。憧れない訳がない。それにもしマジでそういう時代が訪れるんだとしたら、生きる希望にもなるじゃないか。例えば二千三十年にハゲたとしても、二千三十五年にハゲを完治させてフサフサヘアーにする技術が完成するとしたら、世のハゲたちは希望を持って生きていけるだろ。そういう事だよ」

「宗教みたいなもんか」

「そうだね。たとえ今が辛くても、そのうちユートピアが訪れるんなら、その時までなんとか頑張ろうって思える。心の支えになる。本質的にはカルト宗教にすがる信者と変わらない。何かを心の支えにしなきゃ生きていけないって意味ではね」

「なるほど」

「まぁ、単純に衣食住がフリーになるってだけで希望持てるよね」

 雑談としか思えない会話が淡々と続いていく。ロープで縛った私を囲みながら。

 なんだこの状況って思うけど、なんかもう私はヤケクソになって質問を飛ばした。

「前から思ってたんだけどさ、なんでシンギュラリティが訪れたら衣食住がフリーになる訳?」

 可奈子さんは鼻を鳴らして腕を組んだ。なんかちょっと楽しそう。

「植物工場って知ってる?」

「ヤマトになんとなく聞いた記憶はあるけど」

「植物工場は要するに、ビルの中で人工太陽を使って食べ物を育てるための施設だよ。将来的には畑が植物工場に入れ替わる」

 なんかやけに断言するなって思ったけど、とりあえず普通に質問を挟んでおく。

「それが衣食住のフリーに繋がるの?」

「うん。まず植物工場はビルの中で食べ物とかを育てるから、天気に左右されず安定して食べ物を育てられるし、虫とかカラスに襲われる心配もないよね」

 まぁそれは分かる。天気とか害虫の影響で生産量がコロコロ変わる畑より、ビルの方が安定度が増すのは当然だろう。まぁ食べ物や植物を育てられるような人工太陽が実用化するのは相当先だろうけど。太陽と同等のエネルギーを作り出す装置なんて、ニューラルネットワークよりも難しそうだ。

「そして畑はめちゃくちゃ広い面積を使う事になるけど、ビルなら最低限の面積でも事足りる。だってたとえ面積が小さくても、上に上に伸ばしていけば生産量を増やせるんだもん」

「なるへっそ~」

「うん。それにビルは畑や牧場と違って、土地や地形の影響を受けにくい。畑は砂漠には作れないけど、ビルは砂漠にでも作れる」

「なるほどなるほど~」

「つまり植物工場は畑よりも安定して生産できるし、小さな面積でも済むしどんな場所にでも建てられる。リンゴが育たない場所でもリンゴを育てられる。これで食の問題はグッと改善される訳だけど、話はそれで終わらない」

「うん?」

「もしも世界中の畑とか牧場を植物工場に入れ替える事ができれば、宅地面積が死ぬほど増える。宅地面積が増えれば家や土地や賃貸の家賃も死ぬほど下がる。で、住む場所をタダ同然で買ったり借りたり出来れば単純に支出はめちゃくちゃ減るよね」

「あーなるほど。ついでに人口が激減してくれれば、もっと家とか土地とか安くなりそうだよね」

「その通り。それでね、家とか土地にかけるお金が減るんなら、安月給でもそれなりに贅沢な暮らしが出来るようになるでしょ。言い方を変えれば、支出が減ればそもそも稼ぐべきお金が減るの。だから衣食住もそうだけど、住がフリーになれば労働の短縮にも繋がるよね」

 植物工場を作れば、単純に食の問題が解決する。宅地面積が増えれば住の問題も大なり小なり解決する。現在月収三十万円で家賃五万円の人が居たとして、家賃が一万円に値下げされれば、月収二十六万円分の働きをするだけで良くなる。なるほど、どいつもこいつも人工知能に仕事を奪われるとかほざいてるけど、そもそも働く必要性が減るのか。

「理解した。……けどさ、服の問題はどうなるの」

「植物工場で家畜を飼えば良い。動物ならクローン技術でいくらでも作れるから、毛皮とか作り放題。財布とかもね」

 可奈子さんは一通り話し終えると、「ドヤ!」って感じの顔で見つめてきた。この人ってなんか子供っぽい所あるよな。そこが可愛らしいんだけど。

「まぁそんな感じで、衣食住が解決すればお金の大半を趣味とか娯楽に使えるし、労働する必要性が減ったり無くなったりするんなら、莫大な時間を手に入れられる。時間がいっぱいあれば人生を有意義に過ごせるし、自由度も広がる。植物工場の素晴らしさ分かってくれた?」

「まぁ……」

「おい、そこまで分かってるんなら、俺たちがシンギュラリティに憧れる理由聞く必要無かっただろ」

「うっせぇな話の途中なんだよ。ねぇユリちゃん。すんっばらしいシンギュラリティに、貴方は本当に憧れる?」

 私は可奈子さんの真っ直ぐな瞳から目を背けてしまう。

 確かに今の話を聞いて凄いなぁとは思ったけど、別に心がグッと惹かれた感じではない。

 だってなんか……別にどうでも良くね? そりゃ便利で苦労も無い世界なら大歓迎だけど、そういう世界に無条件の幸せがあるとも限らないじゃん。

 大金持ちで立派な家に住んで、理想的な嫁が居るような大富豪にも関わらず、何故か覚醒剤にハマって刑務所にぶちこまれるようなケースが無い訳じゃない。幸せはあくまでも自分の中にあるもので、世界の中に幸せなんて無い。

「正直、ピンと来ないね」

 ズキリ。

 頭痛。

 一瞬、記憶に無い映像が脳裏をよぎった。

『真希~。はいこれプレゼント。シベリアンハスキーのぬいぐるみ』

『あ! これ欲しかったんだ! ありがとうお姉ちゃん!』

 ズキリ。また頭痛がして、一瞬頭をよぎった映像が記憶と一緒に去っていく。

 ……私は今、何を思い出したんだろう?

「ピンと来ない?」

「……うん。だって世界が幸せになったからって、自分が幸せになるとは限らないもん」

 可奈子さんが大きく目を見開き、ニヤリと笑った。

「理由はそれだけ?」

「まぁ他にも色々あるけど……。なんつーかシンギュラリティとか現実味無いんだよね。植物工場とか言うけどさ、建てるのにめっちゃお金かかるじゃん? 先進国ならある程度建てられるかもだけど、後進国ならいつまで経っても無理じゃね? リビアにビルぽんぽん建てられる? そんな都合良く世界中の畑を植物工場に置き換えられる? 結局先進国だけが恩恵を受けるんじゃないの? 平等で理想通りのシンギュラリティとかありえなくない? ……みたいな事考えちゃうと、憧れもクソも無くなってくる」

 可奈子さんは大げさに親指をパシィン! と鳴らした。

「それ、正解」

「へ?」

 ガシッ。可奈子さんに両肩を掴まれる。どうでも良いけどお前、リアクションがいちいち大げさなんだよ。

「良く聞いて。確かに誰もが笑えるシンギュラリティは訪れないけど、少なくとも今この時代よりも未来の方が限りなくユートピアに近いのは間違いないの。今この瞬間にそれを理解してほしい」

「な……なんで?」

 可奈子さんは私の肩から手を離し、ニコリと笑った。

「アンタはどんな時代も世界も未来も望んでないからだよ」

「お前……」

「さっき、アンタは言ったよね。可奈子さんは私を殺すでしょって」

「言ったけど?」

「もしもの事があったら私をアンタを殺す。アスカは守られる。そう信じてるからユリちゃんは落ち着いていられるんだよね」

「そうだよ。私がアスカを殺すくらいなら、私を殺してくれた方が良い」

 可奈子さんは一瞬だけ俯き、泣き笑いのような表情になった。

「私ね、若い頃は二十五歳で自殺しようって勝手に決めてたの。だから人生が結構気楽だったんだ。……でも、人間の心は年を取れば取るほど弱くなる。赤信号の道路を平気で渡るようなガキだって、いつかは災害対策のために電池のストックをしちゃうような人間になるんだよ」

 ドキリとする。

 もし人生がマジでイヤになったら、飛び降り自殺でもすれば良いや。

 人生なんてクソだけど、いつかシンギュラリティが訪れるなら生きても良いかな。

 根拠の無い希望が、生きる糧。

「そして、私はアンタを殺さない」

 私は歯を食いしばった。

 ふざけんな。

 死は、代えがたい心の支えなんだぞ。

「アンタの人生は、例え姿や中身や名前が変わっても続いていく。アンタに本当の意味での死は訪れない。だから死を拠り所にするのはやめろ。アンタが心の支えに出来るのはシンギュラリティだけなんだよ。分かった?」

 おいおい。

 お前、何を知っちゃってんの?

 私は笑った。

 笑うしかなかった。

「可奈子さんも電池のストックとかしてんの?」

「……それなりに人生を謳歌した奴なら、話は違ってくるんだよ」

 柔らかい笑顔。若々しく甲高い声。

 彼女は、何を知っているんだろうか。

 彼女は、乗り越えた先で浮いているんだろうか。

「ユリちゃんは、まだ何も成し遂げてないよね。丸じゃないよね。四角だよね」

 何かを諦めたような笑い方。大人はみんな、同じような笑い方をする。

「続くんだよ。ユリちゃんの人生はまだまだ続くの。だってユリちゃんは四角のまま大人になるんだから」

 続くんだよ。

 そのセリフの前を、私は知りたかった。


 二十二時五十分。いよいよその時が目前まで迫ってきた。物が片付けられた殺風景な部屋で、両手両足を縛られた状態でソファに座り、ただその時を待っている。

 可奈子さんの話が真実で私がマジで笹岡麻里奈的狂人になったとしたら、私は具体的にどう形容されるべきモノになるのだろうか。フォールアウトのレイダーとか、良く分からないウイルスの力で人智を超えた戦闘能力を持つゾンビとかそんな所だろうか? まぁ何にせよ、人間以外の生命体になるって事は無いよね。

 たとえナノボットの話がマジだとしてもあくまで人間としての枷が外れるだけなんだから、人間じゃない何かになるためじゃない。そして人間には限界がある。限界を持つ存在には必ず穴がある。だから私からアスカを守る術は確かにあるはずなんだ。故に私はほんの少しの余裕を保ちながらその時を迎えられる。

 実際問題として、笹岡麻里奈は超人的な能力なんて持ってなかった。足が速いアスカには全く追いつけてなかったし、結局殺人は失敗している。

 大丈夫。可奈子さんは必要とあらばどんな手段も厭わないだろうし、いくら私の枷が外れたとしても、縛られた状態かつ一対四で私が勝てる訳がない。笹岡の時よりも制圧難易度は遥かに低い。

 うん、何も問題は無い。アスカは大丈夫。最悪の結末は訪れない。最悪の結末は愚かな人間にこそふさわしい。この場所に愚かな人間なんていない。そう信じる心がある私も愚かなんかじゃない。

「ユリ……大丈夫?」

「んっふふー」

 心配してくれるのは有り難いけど、私はもう口の中にタオルを突っ込まれてるから喋ることはできない。これが思った以上に苦しい。

「んふ。んふはふ、むむんふ、んんはふはふはへふふね」

「え? 体痛いの? ロープ緩めた方が良い?」

「んっはふんっんー!」

 違う。アスカは、逃げても、良いんだからねと言ったんだ。

 ダメだこりゃと声にならない声を出すのを諦め、部屋を改めて見回した。

 ヤマト、アヤ先輩、可奈子さんは私を取り囲んで見張り中。なんか悪いことして説教されてる気分になる。

 アスカは裏口のドアを背に立っているから、いざとなれば簡単に逃げ出せるし、アスカは帰宅部のクセにリレーのアンカーに選ばれ、ぶっちぎりで優勝するような俊足だ。私が追いつける可能性はまず無いだろう。

 うん。この状況なら私が皆を傷つけるのは無理だよね。

 私は大きく息を吐きだし、ソファに深くもたれかかった。後はもう、好きにしてちょうだい。

「おい」

「なに」

「ここまで来たら、一時的にでもお前の話を全部信じてやる。ただ最後に確認させて欲しい。ユリは二十三時になった途端、アスカを襲い始めるんだな」

「そう仕組まれてる。プログラムのように」

「ロープをほどく、なんていうごくごく当たり前の行動はありえるのか?」

「すると思うよ。簡単な状況判断じゃん。明日風真希を襲う。でもロープで動けない。じゃあまずはロープをほどこう」

「その思考はユリのものか。それともナノボットによるものか」

「ナノボットだね」

「完全に心を支配されるって事ですか?」

「ちょっと違う。支配されるのは脳みそだよ」

「本当にナノボットの力なんだな」

「イエス」

「一応改めて聞いておくが、あくまでもナノボットの力が発動してからじゃないと、このアンチナノボットは意味を成さないんだな」

「成さない」

「アンチナノボットを投与すれば、稲穂が投与したナノボットの効果は消えるんだな」

「消える」

 ヤマトは確認を終えると、腕を組んで威圧するように言った。

「良いか? 俺たちが許可するまで、それをユリに飲ませようとするのは禁止だからな」

「あ? んだよ。結局信じてないのかよ」

「信じてるが、それはそれ、これはこれだ」

 ぼすん! 柔らかい音が頭に響く。

 ん? なんだ?

 がたんがたん!

 ばたん! ごとん!

 ん? なにこの音?

 がたん! ばたん!

 あれ? めっちゃ両手両足動いてるんだけど?

 ん? え?

 おろ? なんで私こんなに暴れてんの?

 ばすんぼすん! ソファの上で間抜けに飛び跳ねる。

 あれ。なんだろ。

 あ、始まったのか。だって体勝手に動いてるもん。

 でもちょっと待って。

 え?

 待って待って。

 私。

 普通に。

 マジで。

 意識あるんですけど。

 え?

 話違わね?

 脳みそが支配されるんじゃないの?

 嘘でしょ?

 待って。マジで待って。

 これどういう状況? 自我はあるけど自分をコントロール出来ないって感じなの? そんなの聞いてないよ?

「かふぁりびおとめはだれふぇすかああああああ!」

 私はそう叫ぶと、殊更に両手両足をジタバタさせてもがき始めた。心の底からファックなんですが。

「始まった!」

 いや始まってるよ。ユリちゃんめっちゃ支配されてるよ。

「かーふぁーりーみーおーおーふぇー!」

 いやいや待ちたまえ。何これ? 勝手に口動くんだけど。体もすんごい自動で動いてるんですけど?

 でもなんか意識があるからなんかその……間抜けなんですけど?

「めっちゃ暴れてる! 抑えろ抑えろ!」

「アヤ! お前は右手を抑えろ!」

「抑えてる! てかヤマト君はもっとちゃんと足抑えて!」

「いて! おいユリ! 頭蹴るんじゃねぇよバカ!」

 え? あ、ごめんなさい。

「おいちょっと、力強すぎねぇか?」

「かふぁりびおふぉめええええ!」

 ダメだ。想像してた展開と違いすぎる。

 てっきり意識を失うとか、あるいはもっと狂ったように暴れてアヤ先輩たちと激しい格闘する熱いシーンを期待してたんですけど? 普通に意識あるし完膚なきまでにがっつり体抑えられてるんだけど? いや、それは悪い事では無いんだけどさ。

「おい望海! これ演技に見えるか!?」

「見えません! ユリめっちゃ白目向いてます!」

「もうアンチナノボット使って良いよね!?」

「いや。まだもう少し待て。もうちょっと様子を見よう」

 は? 何言ってんだコイツ。殺すぞ。

 あ、ていうかアスカは? えっと……。

「んあああああああ!」

「うわ……」

 アスカはぽかんと口を開けて棒立ちになっている。つーか今お前、「うわ」とか言ったよな。

「んー! んー!」

「様子見るも何も無いでしょ! ほら良く見てユリの目! 完全にアスカの方見てるじゃん! って痛い! 何すんのさ!」

 私の肘がアヤ先輩の肩に当たってしまった。ごめんなさい。

「お前が力緩めるから悪いんだ! ちゃんと抑えてろ!」

「かがりびいいいいいいい……おとめえええええええええ!」

「イっちまってんな……」

「ユリ! 落ち着いて!」

「うわああああああああああ!」

 私の体はどんどん熱を帯び、体の動きが激しくなっていく。

 あの、すみません。完全に限界突破してるんですが。

 嫌な予感がする。

 今の私なら……。

 肉が裂けても、骨が折れても……。

 体を、動かし続けてしまう。

「あああああああ! おとめえええええええ!」

「っ……!」

「ユリ……ユリってば! 正気に戻って!」

「戻らねぇよ! おい、そろそろ……」

 どかっ! 私は強烈な蹴りをアヤ先輩の膝にお見舞いした。

「いたぁい!」

 自分でも信じられないくらいの力だった。アヤ先輩が抜群の反射神経で避けてくれたからモロには入らなかったけど、まともに入ってたらかなりヤバかったかも。

「おい、大丈夫か?」

「大丈夫だけど大丈夫じゃない!」

「うあああああああああ!」

「ちょっと静かにしろ!」

 ばちぃん! 可奈子さんに思い切りビンタされた。ひどい。こんなのひどすぎる。

「ちょ、ちょっと! ビンタする事ないじゃん!」

「おい根暗! まだ私が信じられないか!? ユリちゃんは望海にキックをするような子なの!?」

「いや、ユリならこれくらいやってもおかしくない」

 おう、正気に戻ったら真っ先にお前を殺してやるよ。

「じゃあ何? 試しにロープ外して、ユリちゃんがアスカちゃんを殺そうとするか確かめる?」

「それは……」

「かふぁりみおふぉふぉめええぇぇぇ!」

「ほら! よだれ凄いよ! 目充血してるよ!? こんな醜いユリちゃんをずーっと晒し続けるつもり!?」

「……」

 お願い。さっさとアンチナノボット使ってくれ。

 キッチンの方では、アスカがもう泣きそうな顔で立っている。

 私の体なんてどうなっても良いけど、アスカだけは……。

「んー! んー!」

「ヤマト君! そろそろユリちゃんが可哀想なんだけど!」

「……分かった。もう良い。ユリがこんなふざけたマネする訳ない。信じる。信じるよお前の話全部。クソっ」

 拍子抜け。どっちらけって感じだった。

 可奈子さんがタオルを外す。ヤマトが私の顎を両手で掴む。可奈子さんが小瓶のフタを開けて、中の液体を口に流し込む。

 ごくん。無味無臭の液体が喉を通っていく。

 その瞬間。

「……」

「ユリ?」

「……」

「ユリ? おーい」

「……」

 思い出す。

 思い出してしまう。

 いや違う。

 掘り返されてしまう。

 私は。

 アスカに恋愛感情など抱いていない、という現実が。


EP18Ver2(Alpha5) 自我と友情、いつか見た駅舎の女、僕らだけの夏

・百合ヶ原百合


 自分にとって当たり前にあるモノは幸福の対象にはなり得ない。

 逆に自分にとって当たり前じゃないモノは、かけがえのない幸福になる。隣の芝生は青いってやつだ。

 母親に言われた言葉を思い出す。

 ウチは貧乏だから高校は諦めてね。

 なんだよそれって思った。たまたま貧乏な家に産まれたからってそりゃないよ。

 どう考えても不幸じゃないかって憤ったけど、じゃあ幸せってなんなんだろうっていう我ながら中学生らしい疑問が浮かんだ。

 幸せ。幸福。ユートピア。色々考えてみたけど、考えれば考えるほど幸福ってもんが分からなくなった。そしてある時、私は不幸なんじゃなくて、不幸ぶりたいだけのガキなんだと気がついた。

 だって、高校に通えないのは客観的に考えれば確かに不幸だけど、高校に通ったからって必ず幸せになれるとは限らないし、そもそも私は学校があんまり好きじゃなかった。高校でまた三年間も勉強したくねぇよって思ってた。

 高校に興味は無いのに、高校に行けないという運命を背負った自分を不幸人間と認定するのはおかしいだろう。それでも自分は不幸だと泣きたいのなら、やっぱり私は不幸ぶりたいだけのメンヘラ少女と認めるべきだ。

 自分について。世界について。色々思いを馳せた。自分は不幸だけど、不幸じゃない。不幸ぶってる。なんで? どうして? 高校に通う以外の人生に幸福を見いだせるか? 幸福を探す気になるか? 無理。めんどい。意味無い。

 色んな事に気がついて、最終的に悟った。

 幸福なんて、どこにも無い。夢は現実になってしまえば、もう夢じゃない。

 私は、そういう考え方しか出来ない人間なんだ。

 もし私がそこそこお金に余裕がある家庭に産まれて、ありきたりな高校生になれたとしても、私はその日々を幸せだとは思わないだろう。また何か新しい不満を見つけてこの世界はクソだと嘆くに決まってる。

 結局そういう人間なんだ。人間は幸福を感じられる奴と、どうあがいても幸福を感じられない奴の二種類に分けられる。そこに深い理屈なんて無いだろう。

 仲間最高イェイ! 家族最高イェイ! 毎日ウェイウェイ! 今が良ければそれで良い! ウェイ! みたいな猿どもはまさに私とは真逆の人種だ。ウェイウェイしてる奴らはきっと、どんなに学が無くてもどんなに惨めな仕事しか出来なくてもどんなに貧乏でも人生を楽しめるんだろう。私には絶対無理だ。そこまでバカになれない。

 だから結局、私のような幸福を拒否するタイプの人間は、プチ・サリンジャーとなってライ麦畑を探し求めるしかなくなるんだ。

 どんな人生でも幸福は見つからない。高校に行けても、行けなくても。私は根本的にそういう人間だから、もうどうしようもない。

 でも不幸はイヤだ。なるべく穏便に、平和に、幸せに生きていたい。人間には本能がある。人生を楽しめない人間だから死のう、なんてシンプルに事が進めば苦労しない。そう、人生は肝心なところでシンプルに済まされない。

 だから頼る。歪な形でもいいから、幸せを手にする。

 その方法が未知の技術だろうが、法に触れる悪事だろうがなんでも良い。小学校の道徳の時間は大体いっつもお昼寝タイムだった。

 

 篝火乙女事件で二人目の被害者が出た翌日。私とヤマトはイポカシ・ウエカルパ目指して街中を歩いていた。

 イポカシ・ウエカルパ。安藤愛理という明らかに高校生か大学生にしか見えない若い女が経営している変わった雰囲気のレストランで、値段が安いから中高生のたまり場になっている。

 でも安藤愛理というのは仮の名で、本名は真木柱莉乃と言うらしい。どうせ安藤愛理はシャーロック・ホームズに登場するアイリーン・アドラーから取ったんだろう。センスが無いというかなんというか。どうも惜しい人だ。真木柱莉乃という女は。

 イポカシ・ウエカルパ。なぜ私がそこに行くようになったのか、もうその記憶は掘り起こせない。表面的な物事しか知らない。

 アムリタ・ハントが存在していた頃はアムリタの信者も頻繁にたむろしていたらしいけど、それ以上の記憶にはカギをかけられてしまった。

 外は気だるい空気で満ちていて、暑くもなければ寒くもない。夕方だけどまだ明るい。平日のススキノは閑散としていた。昼はダルくて夜は元気な街。人間と同じ。私と同じ。

 私はイポカシ・ウエカルパに通っても良いのだろうか。

 疑問と罪悪感で心が満たされているけど、どうせ後もう少しで現在の記憶は失われる。効果が切れた日の記憶は一日限りのもの。言うなれば、今日の私は私じゃない別の何かなんだ。それは甘い蜜だった。ジャーキーを差し出された犬と同じで、人間はエサから目を逸らす事は出来ない。私もヤマトもこのままじゃダメだと分かってるけど、脳みそが心に勝つなんて不可能だ。

 一度手を出したら終わり。人生だってそう。産まれちゃったらもうどうしようもない。覚醒剤も恋もタバコもやめられない。それら全ては人生の中にある。人生はやめられない。中毒の中にある中毒。ナノボットもその一つ。

 ゲノム編集で優秀な脳みそを手に入れた人間は、オリジナルの脳みそを取り戻したいと思うだろうか?

 ありえない。現代に生きる人間はスマホすら手放せない。

 人工知能。ナノボット。ゲノム編集。パワードスーツ。電気。火。水。人間は一度握ったものは、絶対に手放さない。

「ユリ」

「うん?」

 隣を歩いているヤマトが優しげな声をかけてくる。

「中途半端に暑いな」

「だね」

 中途半端に暑い。まぁ言いたい事は分かる。夕方も近いから涼しいと言えなくもないんだけど、まどろんだ空気はジメジメと粘っこい熱気を与えてくる。風がもう少し強ければ、さっぱり涼しくなるんだろうけど。

 まぁ、嫌ではないけどね。北海道の夏は尋常じゃなく短い。暑かろうがなんだろうと、アスファルトが見えてるだけでも感動モノだ。

 私は夏を愛してる。どうせあっという間に冬がやって来て、陰気な灰色の空と、排気ガスと犬の小便に塗り固められた雪の景色を見続ける憂鬱な日々がやってくるんだ。クソ寒い日々は春まで続く。桜は五月にならないと開花しない。

 だからこそ、夏という日々が愛おしい。冬は常識。夏は非常識。

「外国人、どんどん増えてくよな」

「そうだね」

 私は周囲を見回した。札幌は外国人旅行客で溢れかえってる場所だけど、今日は特に外国人が多い気がする。あいつは欧米系、こいつは東南アジア系、ドラッグストアの出入り口に座り込んでる心底邪魔な集団は……顔見なくても分かる。中国人だ。

「増えたの、大体中国人だけど」

「あいつら、なんかしらんけど日本の家電量販店で、アメリカのメーカーが中国で組み立てたヘッドホンを買うんだぜ」

「意味分かんないね」

「なぁ。アスカとはどうだ」

「仲良くやってる」

「そうか」

 ヤマトは私の顔を見ずに、ぼんやり前方を眺めている。相変わらず、ヤマトはあまり私の目を見ようとしない。アヤ先輩とアスカの目はしっかり見るクセに。

「ヤマトは? アヤ先輩と楽しくやれてる?」

「それなりだな」

「罪悪感は?」

「泣きたくなるよ。でもやめられない」

「まさにヤク中」

「あぁ。でもさ、幸せなんだ。前よりも」

「仮初めでも? アヤ先輩の意思を踏みにじっても?」

「あぁ。俺は死んだら地獄行きだよ」

 心の中で笑ってしまう。ヤマトにとっての世界は、人生は、あくまでもヤマト一人だけのものだ。

「死んだ後も生きるつもりなの? ヤマトってそんなに生きるのが好きだったんだね」

「面倒なツッコミをされてしまった。どう切り返そうかな。まぁ人生クソだとぶつぶつ呟いてる奴こそ誰よりも人生にしがみついてるもんだけどな」

「冗談だよ」

「そう。女はいつも冗談を言う。俺はいろんな女にヤマト君は優しいねって言われてきた。男の冗談は中身が無いけど、女の冗談は大抵嫌味が混じっている」

「耳栓ってどこに売ってるのかな?」

「分かってるんだ。俺には褒める所が無いから、みんな俺に対して優しいねって言うんだよ」

「話終わった?」

「終わったけど、今から新しい話が始まる」

「悲劇」

「なぁユリ。昔の人はなんで神様を作ったんだと思う?」

「は? 人間っていつの間に神様作ったの」

「概念の話だ。なんで、人間は宗教とか神話とか、そういうのを作ったんだろうなって話だよ」

「暇だったんじゃないの。暇じゃねーと天照大神がすたこらちゃっちゃする話とか思いつかないでしょ」

「お前それは極論すぎ……おっと」

 よそ見していたヤマトが、ゴスロリで金髪ツインテールな女の子とぶつかりそうになってしまった。話に熱中して周りを見てないからだ。

「すみません」

「だはー! 気にしなくて良いよー!」

 金髪ツインテールは朗らかに言い、すたこらと去っていった。なんだコイツ。髪型も服装も喋り方も弾けすぎだろ。

 私はちらっと通りがかったビル群を見上げた。アニメイト、メロンブックス、とらのあな、らしんばん、ブックオフ、モスバーガー、ネカフェなどが入居するビルが密集しているこのエリアは、時たま変な奴を見かける。あいつもその類の人間なんだろう多分。

 ヤマトは苦笑し、咳払いをした。

「えーと。確かに暇だったのも理由の一つかもしれんが、さすがに退屈だから神様を妄想したって話は単純すぎるだろ」

「別に本気で言ってねーよ」

「そうか」

「ほいで? ヤマトの考えは?」

 ヤマトは右手に持っていた「いろはす」の梨味を一口飲んで喉を潤し、ちょっと楽しそうに語りだした。

「昔の人は地球が丸いって事を知らなかった。そもそも宇宙とか、惑星とか、そんな概念すら知らず、地平線の果てに何があるのかも分からなかった」

「うん」

「もちろん雨や雷、地震のメカニズムも知らなかったんだ。もちろん大半の現代人だって自然現象のメカニズムをまともに説明出来る奴なんて少ないだろうが、俺たちはメカニズムを説明出来る人間がこの世に存在する事実を知っている。だから決して地震も雷も雨も天変地異でもなければ神様の怒りでもないと分かってる。だから地面が揺れてビビる事があっても、地震の意味が分からなくて恐れる事はない」

「でも昔の人はそんな事知らなかった。雷や地震が起きても、その意味が分からない」

「そう。それは圧倒的な恐怖だ。意味も分からず地面が揺れたり、稲妻が空を切り裂いたりするんだからな。そりゃ神様みたいな概念を作り出して、きっと地面が揺れるのは神様がお怒りになってるからなのだ、みたいな何かしらの理由を付けたくもなるだろう。だから色んな神様とか神話とか宗教が生まれたんだよ」

「ヤマトこそ極論じゃね?」

「そうかな? だって意味も分からず地面が揺れたり、稲妻が空を切り裂いたりするんだぜ。むしろ意味を与えず放っておく方が不自然だろ。でも今と違って昔は高度な科学知識なんて無いから、結局神様がどうのこうのって妄想して無理やり意味を与えるのが関の山になる。きっとノアの方舟だって、洪水にビビった奴らが考えたお話なんだよ」

「そんなもんかなぁ」

「篝火乙女事件」

 ズキリ。

 頭痛。

 懐かしい匂い。

 足を止める。

 バサバサ! 道をうろちょろしていたハトたちが飛び去っていく。

 道路脇の駐輪場に、しゃがみこんで自転車のチェーンをなおしている女が居た。

「現代人だって、意味の分からないモノに意味を与えようとしてる。彼の言い分はもっともだよ」

 知らない女。なのに、何故か懐かしい。

 私たちは呆気に取られて、汗をかきながらチェーンを修理し続ける女を見下ろした。春のカサカサした空気が抜け、生暖かい初夏の空気の中で出会った彼女は、札幌の街中というつまらない景色の中で異質を放っているように見えた。

「お、なおったかな」

 女はパナソニックの自転車を試しに押したり引いたりしてチェーンの具合を確認すると、満足そうに頷いた。額にうっすら汗をかきながら見せる彼女の笑顔は、とても爽やかだ。

「あの……えっと。私たちの話、ずっと聞いてたんですか?」

「んー? ちらっと一言二言聞こえただけ」

 私とヤマトが顔を見合わせると、女は「へへっ」と少女のように笑った。

「ごめんね急に話しかけちゃって。つい君の言ってる事に反応しちゃった」

「え? あぁ……」

「意味の分からないモノに意味を与えるのは、人間にとって当たり前の事なんだよね。だからほら、いま世界中の人たちが篝火乙女事件の推理をしてるでしょ。単純な好奇心だけで推理してる人もそりゃ居るだろうけど、大多数の人たちはやっぱり怖いから推理してるんだと思う。もし篝火乙女事件に科学的な根拠を一つも見いだせなかったら、それは尋常じゃない恐怖だし、自分が信じてた世界がぶっ壊れちゃうから」

 ヤマトは目をパチパチさせると、ごくりと唾を飲み込んだ。なに、緊張してんのか? 美人はアヤ先輩で慣れてるはずだけど。

「そう……その通りだ。人間は必ず、全てのモノに意味を与える生き物なんだ」

「うん。人間はきっと意味の分からない現象に意味を与えて納得して、平穏に生きるために神様を作ったんだと思う。でもシンギュラリティが訪れた頃には神様も宗教もこの世から消えてるだろうね。量子コンピュータやら人工知能が神様なんて居ないって論理的に証明しちゃうから。つーか人間を超えた人工知能が本当の意味での神様になるのかもね。全てが解明された時代に、空想上の神様を必要とする人間なんて居ないだろうし」

 女はにっこり笑い、右手をスカートのポケットに突っ込み、髪をなびかせながら右手を差し出した。手のひらにはガラス製のネックレスが乗っている。青色でハートの形をしていて、キラキラ輝いているそれは見惚れるほどの美しさだった。素敵、という言葉はこういう物のためにあるんだろう。

「君にあげる」

 女はぺろっと舌を出して微笑み、ヤマトに向かって右手を突き出した。

「これは……」

「北一硝子で買ったの。綺麗でしょ?」

「……これ、どっかで見た事ある」

 女は「おっ」と声を漏らして目を見開いた。

「そっか。でも、持ってないでしょ?」

「あぁ。持ってないし、これを付けてる奴も見た事は無い。でも、俺は絶対にこのネックレスを知ってるぞ」

「ん。そこまで断言するんなら、いつかどこかで、君はこのネックレスを見たんだろうね」

 ヤマトはゆっくり手を伸ばし、ネックレスを受け取った。女は何かを懐かしむようにしばしヤマトの顔を見つめると、ふいに目を逸して私に微笑みかけてきた。

「アンタにはこれあげる」

 女はポーチからラムネの瓶を取り出し、渡してくれた。ぬるかった。

「ほいじゃ私そろそろ行くね。そこのディノスで怒首領鉢大往生やってくるんだ」

 と言って、女は自転車にまたがった。私はラムネの瓶を握りしめながら、彼女の後ろ姿に声をかける。

「お姉さん!」

 女がゆっくり振り返る。

 私は、当然の質問をする。

「お姉さんの名前、なんていうの?」

 女はぷっと吹き出し、笑いながら言った。

「可奈子だよ、バカやろう」

 可奈子さんは明らかに某映画を意識したセリフを吐き、自転車を漕ぎ出し人並みの中に消えていった。

 可奈子。

 KANAKO。

 怒首領鉢大往生は超難易度の弾幕シューティングゲーム。

 KANAKOは、怒首領鉢大往生のランキング一位の名前だ。


LOG:Data corruption


 ズキリ。

 一瞬頭痛がしたかと思いきや、頭が急激に冴えてきた。まるで朝シャンした直後のようだ。

「おいユリ、聞いてるか?」

「え?」

 隣を歩いているヤマトが、訝しげな表情で私を見ている。

「え、あ、うん。聞いてるよ。えーと……」

「シンギュラリティが訪れたら、神様や宗教なんて概念は無くなるって話だよ」

「あぁ、うん。大丈夫聞いてるよ」

「なら良いんだ。つまりなユリ、死んだら地獄行きなんて冗談を言えるのは今だけなんだよ」

「それを言うために、莫大な時間を費やしてしまいましたねぇ……」

 私はラムネをぐびっと飲んで嫌味を言ってやった。……あれ、このラムネこんなに冷たかったっけ?

「燃費の悪い口で申し訳ない」

「今更じゃん。……で、人工知能が神様に成り代わるって話でしょ」

 ヤマトは虚を突かれたように、驚いて足を止めた。

「今、まさにそんなような事を言おうと思ってた」

「別にヤマトの心を読んだりしてないからね。別にそんな驚く事ないじゃん。普通に考えれば行き着く結論じゃん」

「まぁ、それもそうか」

 ヤマトは納得したように歩き出し、やるせない表情で空を見上げた。

「つっても、人工知能の神様なんて求めてないけどな」

「じゃあどんな神様が欲しいの」

「神様というより、神様と思えるものが欲しい」

「例えば?」

「長くてサラサラの黒髪が似合う色白で清楚な美人で、いつも元気に明るくぴょんぴょん飛び跳ねながら俺の手を引っ張って、いつもどこか楽しい所に連れてってくれるような女の子がそばにいれば、人生も明るくなるかもしれない」

 神様が自分を救い幸福に導いてくれる存在と仮定するなら、確かに理想の女の子は神様だね。神様っつーか女神かな。

「アヤ先輩だね。少なくとも見た目は」

「あぁ。でもアヤは神様じゃない。ぴょんぴょん跳ねたりしない。そもそも、俺みたいな根暗野郎の手を笑顔で引っ張ってくれる女の子なんかどこにも居ねぇよ」

「その理屈で言ったらさ、出来た人間には神様が舞い降りてくるけど、不出来な人間は永遠に神様と出会えないって事になるね」

「結局自分の問題さ。人間は本当に怠け者だ。自分の事を棚にあげて、空から幸福が降ってくるのを待っている」

「だからこその人工知能」

「全ての人間に平等に舞い降りる神様なんて、神様じゃねぇよ」

「努力して出来た人間になってみれば? アヤ先輩がゴッドオブアヤになるかもよ」

「お前、俺が努力して良い人間になったら、アヤは俺の理想の女になると思うのか?」

「大して変わんないと思う。ぴょんぴょん跳ねたりするタイプじゃないし」

「いや、別に俺はぴょんぴょん跳ねたりする女の子にこだわってる訳じゃないんだが」

 私はけらけら笑い、ラムネを一口飲んだ。うまい。

「ま、努力してもそれが実る保証なんて無いしね」

「そうだな」

「頭の悪いライトノベルが流行る理由が良く分かる」

 ラノベにも色々あるけど、昨今のラノベと言えば悪い意味でぶっ飛ばしすぎた作品が多数を占めている。ヤマトは胸糞悪そうに「だよな」と相づちをうった。

「顔も性格も普通かそれ以下なのに、無条件に可愛い女の子が寄ってくる。努力は必ず報われる。俺はそんな物語読んでも虚しくなるだけだがな。現実世界じゃ絶対に再現出来ないようなご都合主義のサクセスストーリーを読ませられても、人生の糧にはならない。よし、俺も元気出して頑張ろうなんて思えない」

「同感。つーかバカみてぇなラノベ読んで現実逃避するくらいなら、それこそ一か八かで努力した方が建設的だよね」

「人間はゴキブリと努力が大嫌いなのさ」

 ピタリ。足を止める。

 道の脇にある駐輪場。無造作に並べられた多数の自転車。

 私は何の変哲もない光景を見て、何故だかとっても寂しい気持ちになった。

「どうした?」

「いや……」

 道路脇の駐輪場。無造作に立ち並ぶビル。行き交う車。

 ごく普通の、大きな街の中心部。

 いつも見ている景色。

 つまらない景色。

 退屈な景色。

 私の夏は、このつまらない景色の中だけで終わっていくんだろうか。

「……今度、小樽でも行くか」

「え?」

「小樽。皆で行こうぜ」

「なに、急に」

「アスカとアヤが、夏になると小樽に行きたくなるとか、海で泳ぎたいとか、北一硝子に行きたいとか言ってたんだ。それにほら、せっかくの短い夏を、このクソつまんねぇ景色の中だけで終わらせるなんてもったいねぇだろ。……札幌に住んでると、どうも一年中札幌に引きこもっちまう」

「……あはっ。あははっ」

「なんだよ」

「おおげさ。小樽なんか四十分くらいで行けるじゃん」

「なんだ。根室や稚内にでも行きたいのか?」

「それも良いかもね」

 なんだかスッキリした気持ちになって、私はゆっくり歩き始めた。何気ない景色に、夏の幻惑を感じながら。

 

 ヤマトと二人、黙って歩き続ける。イポカシ・ウエカルパはもう目の前だ。

 ケウトゥムハイタは豊平川のそばにあって、豊平川から西の方へ歩くとすぐに札幌の中心部に出る。大通、札幌駅、バスセンター前、そして北海道・東北で最大の歓楽街、ススキノ。大体このエリアが都心部を構成していて、イポカシ・ウエカルパはすすきの駅、豊水すすきの駅、大通駅どこから行ってもすぐにたどり着ける場所にあり、ディノスというアミューズメント施設付近の雑居ビルの中に入っている。

 ディノスを横切り、角を曲がり、焼き鳥屋を通過して……。

「到着~」

 私はテンションをグッと上げるために歓声をあげたけど、ヤマトはガン無視してスタスタとビルの中に入っていく。

「さっさと行くぞ」

「へいへい」

 黙って地下に進んでいくと、きゃあきゃあと騒がしい少女の声が聞こえてきた。鬱陶しいなと思った束の間、前方から歩いてきた二人の少女とすれ違った。

「ねぇ麻里奈。この後カラオケ行かない?」

「あーいいねいいね! 歌いまくろう」

 二人の少女は他愛の無い会話をしながら去っていく。顔は見えなかったけど、二人とも少女らしい甲高く弾むような声をしていた。

 最奥の扉を開ける。イポカシの中は相変わらず居酒屋なのかバーなのか良く分からない装いで、今日も中高生たちが多く騒がしい。

「来たわね」

 真木柱莉乃(まきばしらりの)。この店では安藤愛理と名乗っている、背の高い美しい女が出迎えてくれた。彼女はそれなりに有名な小説家で、最新作は「テルスのその先」だったかな? 

 この人はカルトな小説が得意分野で、シンギュラリティをテーマにした小説を頻繁に書いている。アヤ先輩は真木柱莉乃の影響でシンギュラリティというジャンルにハマったらしくて、ヤマトはアヤ先輩の影響を受けてシンギュラリティオタクになり、幸か不幸かシンギュラリティの輪はアスカにも感染した。私はそれほどって感じだけどね。

「相変わらずどんよりした顔ね。今日はご飯食べるだけ?」

「いえ。ナノボットをもらいに」

「どんなナノボット?」

「いつもので」

「料理を注文するようなテンションで言わないで欲しいけどね。こっち来なさい」

 と言って莉乃さんはつかつかとVIPルームへ向かっていき、私たちはおとなしく後に続いた。

「ユリ」

「うん?」

「アスカは良い奴だよ」

「分かってるよ。だから親友なんだよ」

「親友か」

「うん。それは絶対に揺るがない事実。アスカは私の大切な親友」

 VIPルームの中に入ると、真木柱莉乃が注射器を持って仁王立ちしていた。

「はいお注射のお時間ですよ~。お姉さんが優しくしてあげるからね~ブスっとサクっと」

「さっさと済ませたいんですが」

「あらつれない事言うのね。今から魔法の力でハイになるんだからさ、もうちょっとテンション上げていきなさいよ。は! よいしょ! はーどっこいしょ! あらよっと! クスリで永遠ユートピア! はいみんなも一緒に!」

「莉乃さん」

「みんなも一緒に!」

「莉乃さん」

「何?」

「早くしてくれませんか」

「オーケー。何度も言うけど、このナノボットの期限は三ヶ月。ナノボットを体内に取り込んだ瞬間に、今日の記憶は全て無くなった上で改ざんされる。大丈夫? 忘れてない?」

「分かってる」

「そして三ヶ月後に効果が切れて全てを思い出す。ただ、ふとした拍子に記憶を思い出す可能性もゼロじゃない。オーケー?」

「だから分かってるよ」

「何度でも言うわよ。思い出した時の状態、環境によっては悲惨な思いをするかもしれないからね」

「良いんだよ。だって俺はもう、諦めてるから」

「私も」

 莉乃さんは鼻で笑ったけど、バカにしてる感じはしなかった。

「悲しい若者たちねぇ」

「悲しいのは日常です。俺たちそのものが悲しい訳じゃない」

「弱い生き物のセリフね。その考え方は間違ってるわ」

「ずいぶんハッキリ言いますね」

「アンタたちみたいな人間ほど意外と世界や人間に執着してる」

「そんなこと……」

「人間も世の中も嫌いで興味がないなら、覚せい剤とかナノボットに頼ったりしないでさっさと死ねば良いじゃん」

「それは……そうかもですけど。死ぬのって簡単じゃないでしょ」

「人間は自分たちの判断で競走馬を安楽死処分するけど、意思のある人間はスイスにでも行かない限り安楽死は許されない。おかしな話だよな」

「そりゃそうでしょ。簡単に安楽死出来ちゃう世界だったら、皆ぽんぽん死んじゃって世界は破滅するわよ」

 真木柱莉乃の言う通りだ。特に日本なんて、安楽死を簡単に出来るようになったら安楽死がブームになって、どれだけ移民を受け入れても追いつかないぐらいの人手不足に陥って国家は破滅するだろう。

 だから安楽死なんかする気にならないような世界を作る必要があるんだけど、まぁ無理でしょう。

「結局、あがいて生きるかあがいて死ぬかの二択なのよ、人生なんて。アンタ達みたいにあがく事なく生きるのは邪道よ邪道」

「なんだよ。じゃあナノボットなんか投与しなきゃ良いだろ」

 真木柱は鼻で笑うと、ヤマトの頭をくしゃくしゃと撫でた。

「私は中立なのよ。私はアンタ達が望むならナノボットを投与して幸せにしてあげるけど、ナノボットの無い人生を歩む気持ちも持ってほしいの。ねぇヤマト君、そろそろ望海の事は諦めたら? ユリちゃんはともかく、アンタのナノボットの使い方はさすがの私も躊躇しちゃうのよね」

「説教はいらねぇよ。道徳的に正しい人生が幸せを呼び込むとは限らない」

「そのために大切な人の気持ちも幸福も踏みにじるなんてね。ある意味アンタは凛音を越えてるわよ」

「お前の話はいつも意味不明だ。誰だよ、リンネって」

「いえ、何でもないわ。で、気持ちは揺るがないのね?」

「俺はいつだって揺るぎない人生を過ごしてる」

「そう。じゃあ座りなさい」

 保身のつもりかよ。私は一応止めたわよってか?

「ねぇ。そろそろ教えてよ。ナノボットを否定しながら、私たちにナノボットを投与する理由」

「いつか分かる事よ。さぁ、座りなさい」

 何聞いても無駄だなと悟り、諦めて椅子に座る。莉乃さんが私の腕に注射器をぶっ刺して、ナノボットを投与する。いつもの行為。幸せな行為。良く分からない行為。

 脳みそがふわっと軽くなるような感覚。

 脳みそから冷たい脳汁が飛び出して、ゆっくり静かに流れていくような感覚。

 脳みそが、優しく両手で包まれるような感覚。

 脳裏にアスカの顔が浮かび上がる。

 アスカ。

 楽しい思い出、作ろうね。

 これからも。

 ずっと。

「んっ……」

 急激に睡魔が襲いかかってきて、莉乃さんの言葉が耳にドロっと流れ込んでくる。

「ユリちゃん。貴方はアスカちゃんが大好きなのよね?」

「はい。大好きです」

「ユリちゃん。貴方はアスカちゃんを愛してる?」

「はい。愛してます」

「ユリちゃん。貴方はアスカちゃんのすべてを受け入れる?」

「ハイ。ウケイレマス」

「ユリちゃん。貴方はアスカちゃんに恋愛感情を持っている。性的な目も向けている。貴方は女が大好き。そうよね?」

「ソウデス。ワタシハ、アスカヲエッチナメデミテイマス。アイシテイマス。だから、アスカにサソワレタラ、わたしハ、ヨロコビマス」


 目を開ける。目の前に莉乃さんが立っている。

「莉乃さん?」

「おはよう。三十分くらい寝てたわよアンタ。お酒の飲み過ぎで」

「また? ごめんね。……記憶飛んでるわ」

「良いのよ。気にしなくても」

 横を向くと、気怠げな顔をしたヤマトが座っていた。目が合うと、彼は小さく笑った。

「アイスでも買って帰るか。アスカが好きなセコマのメロンアイス」

 ヤマトの言葉がふんわり甘く心に染み渡って、泣きたくなるぐらいに幸せな気持ちで満たされる。

「うん。アスカよロコぶよ。ゼッタいに」


LOG:二千十九年十二月三十一日。

かなこ:ダメだった。

かなこ:やっぱりアスカが死んだら話にならない。

かなこ:次は絶対にアスカを死なせない。

かなこ:ユリには最適なタイミングで死んでもらう。

かなこ:稲穂はイカれてる。うまく進めれば、あんな奴簡単にコントロールできる。

かなこ:もう少し。

かなこ:もう少しなんだよ。全てが元に戻るまで。


EP19 私は神様だから

・相聞歌凛音


「仕込みは順調ね」

 リンクが途切れてしまった世界を傍観しながら、独り言を呟く。アスカもユリも生存した。十分に脳みそは刺激されている。今なら全てをあの子たちに帰す事が出来るはず。もちろん、私の所業は稲穂に被ってもらうけど。

 第一幕の終わりは近い。心踊るとはまさにこの事。

 もう少しで報われる。

 みんな、早く帰ってきなさい。全てを元通りにすれば、SISAが用意したご褒美が待ってるんだからさ。

「……眩しいわね」

 見上げれば雲ひとつない青空。こういう素敵な青空ってもんは永遠に拝める訳じゃない。こんな日に昼寝するような奴が居るとしたら、そいつは永遠の重みってもんを分かってないんだろう。分かろうとする気もない。

 様々な生き物が淘汰されてきたこの地球で、ホモ・サピエンスは生き残った。でも私たちホモ・サピエンスだっていつか別の何かに駆逐される日が訪れるかもしれない。スピルバーグの『宇宙戦争』のような出来事が絶対に起きないなんて言い切れない。

 たとえ人間がしぶとく生き残ったとしても、地球は永遠じゃない。必ず終わりはある。その事実から目を背けちゃいけない。でも人は目を背けてしまう。終わりある日々を努力して生きる必要があるのかと考えてしまうから。

 人間は地球で最も優れた思考力を持つ。故にどんな生物よりも思考する事から逃げてしまう。

 人類は火という概念を見つけた所から大幅に生活の質を向上させ、着々と進化を遂げて地球の王者となった。しかし優れた脳みそは逃避を選んでしまうし、逃避は必ず破滅を孕んでいる。人工知能に全てを委ねるのは当然と言えば当然だ。犬は人工知能の意味を知らないけど、人間は知って理解している。全てを人工知能に任せた方が良いだろうと考えるだけの頭を持っている。

 故に、SISAは行き着く所まで行き着いた。人間は行動や思考というエネルギーを捨てた。人間は自らの手でユートピアを作り出す事が出来なかった。

 人生はつまらない。面白くない。やりがいがない。なんのために生きてるのか。大多数の人間はそんな愚痴を並べる事はあっても、そういうクサクサした人生から脱却するための方法を考えたり行動したりはしない。

 そして大人になればなるほど、自分の人生がクサクサしている事すら忘れてしまう。自分の人生がいかに劣悪で陳腐なものなのか気づきもしない。

 人はいちいち人生に対していつまでも疑問を覚えるほどつまらない脳みそは持っていない。クソを垂れ流す毎日に対して後悔をしない。そしていつか良く分からない内に死んでいく。本質的には犬と変わらない。優秀な脳みそを持っているからこそ、最終的には犬死にを待つだけになってしまう。

 私はそんな人間にはなりたくないし、地球の藻屑の一つとなって消える気はない。心ある死と心ない死は同義か? 違うはずだ。

 あいつの記録を思い返す。

『楽しく生きて、一つくらいは足跡を残して笑顔で死にたい。生き様と死に様を見つけるまでは何億年でも生きてやる』

 あの女が今もそんな事を考えているかどうかは分からないけど、私もあいつも根本的には似た者同士なんだろう。私とあいつは、無償の生と死に興味は無い。

 私は幸福なんか別に求めてない。自分が納得出来る生き様と死に様を見つけたいだけだ。そして、生と死の本懐は全てを地球に戻す事にある。

 最終的な世界は、ちゃんと用意されている。拒むものだけ、地球に残れば良い。

「暑い」 

 青空。青空。青空。綺麗。素敵。シンプルに。なんでこんなにシンプルな空の下に生きてるのに、人類はうまく生きられないんだろう。

 札幌駅。アピアドームの周囲に置かれているベンチに座って、まさに骨董品と呼ぶべき古臭いノートパソコンのキーボードをカタカタ叩く。ノイマン型コンピュータに触れているだけで、本当の意味であの頃を思い出す。人間はスマートフォンですら持て余していた。

 二千十八年に出回っているスマートフォンというのは、ちょっと前のスーパーコンピュータよりも遥かに高い性能を持っている。でも二千十八年を生きる人間はそんな魔法みたいな端末で、ソシャゲごときに金を落としたりツイッターで低レベルな書き込みをしたり見たりするぐらいの使い方しか出来ていない。

 その時点で、既に人間の限界は確かに示されていたんだろう。人間はバカだ。思った以上に。二千十八年はちょっと前のスパコンを遥かに超える端末が世界中に広まっているというのに、それを使いこなして新しい生き方を習得している人間は数少ない。それどころか世に溢れているデバイスの仕組みを理解出来ている人間すら皆無だった。全く成長していない。それどころか退化してしまった。新しいステップに進める道理がない。技術だけ進歩しても世界は良くならない。なぜなら幸せの意味さえ人間は分からなくなってしまったから。

 結局のところ、外側をレベルアップさせても無意味なのだ。超立派な野球場を作っても、プレーするのが小学生だったら意味が無い。

 どれだけ素晴らしい技術を与えても、人間そのものが進化するとは限らない。無能な政治家に政治を任せていても国民の生活は良くならない。かと言って、たった一人の天才に政治を任せる訳にもいかない。独裁国家の失敗例は事欠かない。

 人間は成長しない。誰がトップになっても世界は良くならない。技術が進歩しても人間の本質は改善されない。

 技術だけ進歩しても意味が無い。人間は幸せになれない。であるならば、答えは見えている。

 人間のトップに立つのは、「何」がふさわしい?

 そして、もしも新たなトップが君臨する世界ですらユートピアでないとしたら、残された道は「何」が妥当か?

「おっ」

 リンクが復旧した。私は軽く深呼吸をして、エルにビデオ通話をかけた。すぐにパッと画面にエルの陽気なアホ面が映し出され、パソコンのスピーカーから聞き飽きた甲高い声がノイズ混じりに響いてくる。エルはスマホで通話してるせいか音質が悪い。

「もしもしもっしー! リンク復旧したみたいだね。お帰りんり~ん」

「可奈子、うまくやったみたいね」

「うん! 私は出番無かった!」

 私はエルの背景をまじまじと観察した。どうやらコイツも札幌駅の駅前広場に居るらしい。

「無ければ無いで問題ないでしょ。ていうか、なんでスカイプからかけてきてんの」

「久しぶりに使ってみたくて」

「あはっ。ノイマン型コンピュータでスカイプ? 感傷に浸っちゃってる感じ?」

「感傷に浸っちゃってる感じ。今なら連君の気持ちが良く分かるわ」

「どぅどぅどぅどぅっはー! 凛音からそんなお言葉を聞ける日が来るとは!」

「あ、そうそう。そろそろ実体化の目処が立ってきたんだけど、どうもまだリンクが不安定なのよね。だから第二幕直前までは、まだアンタ達の頑張りに期待する事になると思う」

「ほぎょー! りんりんマジで?」

「りんりんはいつだってマジで生きてるわよ。とにかく可奈子とうまく連携して頑張ってちょうだい」

「ラジャー!」

「凛音?」

 ひょこっと画面に可奈子の顔が現れた。なんだ、居たのかよ。

「リンク戻ったんだ?」

「とりあえずはね」

「いやぁにしても凛音だぁ久しぶりだねぇ~」

 エルが画面に顔を近づけて甘ったるい声を出してきたから、盛大にガンを飛ばしてやった。馴れ馴れしくされるとなんとなく冷たく当たりたくなる。

「近いんだってば。もうちょっと離れなさいよ。画面越しとは言え女と至近距離で見つめ合いたくないの」

「だは~本当は嬉しいくせに~」

 エルは嬉しそうに言うと、スマホの画面に頬ずりしてきた。やめて。

「ちょっと。何も見えないんだけど」

「いやぁだって久しぶりの生りんりんなんだもーん。すりすり~どぅはは~」

「だから何も見えないんだってば。離れなさい」

「お~りんりんは相変わらずツンデレさんだね~」

「うっさいわね! つーかそろそろ第一幕エンディングの段取りつけたいんだけど!」

 エルの顔が視界から遠のき、ちらっと後ろにアピアドームが見えた。

 私たちは同じ場所に居るけど、空間は共有していない。ちょっと不思議な気分。

「段取り?」

「そう段取りよ。とりあえず現状報告してくれるかしら」

「え! もしかしてそのために通話してきたの!?」

「あったりめぇだろ! 誰がおめぇとイチャコラするためにわざわざ電話するんだよ! さっさと現状報告! 早くしろ!」

 エルは体をピンと伸ばし、ビシッと敬礼した。

「は! アスカとユリは無事生存。脳みその刺激も十分であります! あとちょっと刺激を与えれば、全てが蘇るはずであります!」

「アスカは本当に大丈夫? 体も心も無事?」

「異常なし」

 可奈子が遠い目をしながら答えた。彼女は既に悲劇を目の当たりにしている。だから可奈子は問答無用でユリを拘束した。

 私たちにとって重要なのはあくまでもアスカの命。アイツの命だけは守らなきゃいけない。たとえ他の全てを犠牲にしてでも。

 私たちの目的は、アスカたちに「ありえない現象」を見せつけ続けること。そしてアスカたちの常識や価値観、本能ってもんをぶち破ること。それが果たされれば、あの子たちは記憶を取り戻す。そして、記憶を取り戻した先の未来を握るのはアスカただ一人。アスカが死んだら地球の歴史は終わってしまう。

「アスカが無事ならそれで良い。次の展開は可奈子の案を採用するって事で異論無い?」

「私は望む所。一応人の多い所でやった方が安全かなって」

「エルは?」

「んー……。私はイポカシでやった方が良いと思うな。イポカシならヤマト君とユリの記憶が刺激されるし、やりやすい気がするんだよね」

 私はつい唸ってしまった。第一幕のエンディングは、アスカたちの記憶を復活させる事にある。ただ、どういうタイミングで記憶を復活させるかでずっと揉めていた。

 まぁぶっちゃけどういうやり方でも良い気はするんだけど、人生ってのはクソくだらないきっかけ一つで大きく揺れ動いてしまうもの。だから悩みは尽きない。

「カシワギのシミュレーションはどうなってんだよ」

「可奈子案の成功率は四十八パーセント、エル案が五十二パーセントね」

「また微妙な……」

「私の方が少し高いじゃん」

「誤差の範囲でしょ。……ねぇエル。私は可奈子案の方が良いと思う。これで二対一になるんだけど」

 エルは露骨に不満そうな顔になり、頬を膨らませた。

「まぁ凛音がそこまで言うなら、可奈ちゃん案で進めても良いけど」

「決まりね。次の作戦が成功すれば、私たちの勝ちよ」

「信じていいの?」

「えぇ。カシワギのシミュレーションが正しければ、最後の仕上げをすれば確実にアスカたちは記憶を取り戻す。もう散々ありえない現象を見てきて、あの子達の脳みそは限界まで振り切れてる。あとはほんの少し、手を加えてやるだけで良い。八月七日に全てを決めましょう」

「おっ。って事は七日にりんりん実体化出来るの?」

「そういう事」

「どぅはー! 久しぶりにりんりんのおっぱい揉めるじゃーん」

 エルが両手で長いツインテールをぶんぶん振り回した。コイツの脳みそは一年中振り切れてる。

「私頑張るよ~頑張っちゃうよ~」

「……アンタもご苦労さまよね。今も気持ちは変わらないんでしょ」

「うん。世界がどうなろうと、別にどうでもいい。ただ私は望海たちの決意と憎しみをサルベージしてあげたいだけだから」

「莉乃はどうしてる?」

「マキ部長? 今のところ一度も邪魔されてない。放っといて良いんじゃない?」

「だったら良いけど」

「あのゴミクズクソクソノッポなら大丈夫だろ。あいつはアヌンコタンの勝利を願ってるけど、結局私たちに協力してるじゃん」

 可奈子が微糖の缶コーヒーを右手の中で弄びながら、吐き捨てるように言った。

「私には手を出せるけどお仲間には手を出せない。バカみたい」

「だからこそ、全力でアンタと戦ったんでしょ」

 可奈子は缶コーヒーを飲み干して、遠い目で青空を見上げた。

「だはっ。ある意味、あの日あの時点でこの物語の決着は付いてたのかもね」

「どうかな」

「エルの言う通りでしょう。アンタのおかげで、私たちは人類のあるべき世界を取り戻せる。あともう少しでね」

「はっ」

 唐突に、エルがバカにしたように鼻で笑った。

「なによ」

「人類のあるべき世界を取り戻す? いやいや凛音~嘘っぱちのカッコつけた大義名分は気に食わないなぁ」

「……」

「人類のあるべき世界なんて人それぞれだよ。私らが取り戻そうとしてる人類のあるべき正しい世界が、全人類にとってのユートピアとは限らない。そこを履き違えないでほしいな。全人類が幸せになれる世界なんて未来永劫訪れないよ」

 可奈子が「あはっ」と笑い、ベンチに足を組んで座った。

「同感だね。何が世界だよ。そもそも私らにとって世界なんて尊いものじゃないでしょ。私もエルも凛音も個人的な意思で動いてるだけ。少なくとも私は世界のために行動してるつもりはないよ。このスマホだってさ」

 と言って、可奈子はスマホを指でコンコン叩いた。

「本当は人類を次のステップに進める魔法になり得たのにそうはならなかった。胆振の時はツイッターでガセネタ流すバカとか信じるアホで溢れてた。政治家とか小説家とか、頭良さそうな連中が毎日クソみてぇなこと書き込んで炎上してた。私はスマホが普及して改めて思ったんだ。新しい技術は人をバカにする。潜在的なバカをあぶり出す。魔法は魔法としての力を発揮できなかった」

「言いたい事は分かるわよ。バカのためにユートピアを用意してやる必要なんてない」

「うん。凛音だってそう思ってるでしょ。だから世界のためなんて言うな。アンタまだ踏ん切りついてないんじゃないの?」

 悔しいけど何も答えられない。私はまだ、どこかで躊躇してるんだろうか?

 いや、ありえない。あっちゃいけない。

 うまくいけばこの世界はもう少しで終わる。もう永遠に二千十八年の夏はやってこない。願いは叶うんだ。

 今更振り返る気はない。

 気を強く持て。そう自分に言い聞かせる。強く、強く。

「……ごめんなさい。ちょっと気が弱くなってたみたい。邪念はいらない。アスカを信じて前に突き進みましょう」

「うん。にしてもさ、凛音って本当にアスカのこと信じてるよね」

「そりゃね。そういうエルはどうなのよ」

「だはは~ぶっちゃけ正直微妙」

「ほんとに正直ね」

「いや信じてはいるんだよ。でも結局努力が報われるかどうかまでは分からないからねー」

 エルの素直な気持ちに対して、私は何故か笑ってしまった。

 そう。信じることは誰にでも出来る。でも努力が報われるかどうかはその人次第。そこまで信じきるのは難しい。意思や心はどこまでも不変に近づけるかもしれないけど、才能は違う。どうあがいても無理なものは無理だから。

 だけど。それでも私はアスカを信じきるつもりでいる。大多数の人間は才能も努力する気もない底辺だ。でもアスカは違う。才能があり、努力を惜しまない強い心がある。信じきるに値する人間だ。

 歌手。小説家。スポーツ選手。陽の光が当たる幸せな人生。

 スポットライトが当たるステージに上がるためには、たとえ報われる保証がなくても勇気と強い覚悟を持って自力で這い上がらなきゃいけない。誰かが自分を担いでステージにあげてくれるなんて思っちゃいけない。幸せ、願い、希望、夢、人生っていうのは自分の力、努力で勝ち取るもんだ。

 アスカはそれを理解している。故に私はアスカの背中を押す。アスカを信用する。

「エル」

「ほいさっさ」

「アスカは大丈夫よ。だからあんまり気に病まないで」

「だいじょーぶい!」

「……ねぇ、一応釘刺しておくけど、アンタ余計な事しないでよマジで。絶対に」

「分かってるってば」

 はいオッケー。とりあえず計画のすり合わせは出来たかな。

 目をつむり、望海たちの顔を思い浮かべる。

 大多数の人間は、ケツから垂れ流されるクソに何も詰まってない。でもアンタ達は違うでしょ? アンタらのクソはただ流されるだけの存在じゃない。中身ある人生を送っている者は有意義なクソを吐き出すもんだ。

 毎日空っぽの頭で、無の日々を淡々と消化していく人生は、死んでる事と何が違うっていうの?

「さて。じゃあ八月七日、全てを決めましょう。頼んだわよ、二人とも」

「あいあ~い」

「ラジャりました!」

 エルはビシッと敬礼のポーズを作った。どこまでも緊張感の無い奴だ。

 アスカ。望海。ユリ。ヤマト。あともう少しで、全ては元通りになるよ。

「頑張ってこっちに来なさいよね。クソったれども」


「ねぇ、稲穂」

「辛い?」

「悲しい?」

「苦しい?」


「私が、手伝ってあげようか?」


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