第一話 夏の灯火

EP1 ほんの僅かな延命策

・明日風真希


 二千十八年、七月二十八日。平成最後の夏。やたらと涼しい札幌の夜。

 私はユリと一緒に走っていた。ものすっごい勢いで住宅地を駆け抜けてんの。バカみたいに。

 夏休み。風が冷たくて爽やかな雫の匂いが充満する満月の夜。散歩にはうってつけだろうけど、今は散歩なんてしている場合じゃない。残念ながらこの星には人間という生命体が跋扈しているのだ。

「篝火乙女は誰!?」

 ナイフをぶんぶん振り回している少女が、糸で操られた人形みたいなカクカクした走り方でめっちゃ追いかけてきている。この状況はもちろん意味不明なんだけど、まぁ殺意があるんだろうなって事は当然良く分かる。

 なんでこんな目にあってんのかなぁ……。どうやら中学二年生、十四歳の輝く夏休みというのは、明日風真希(あすかぜまき)という概念の中にだけあるらしい。

「篝火乙女! 篝火乙女は誰だぁ!」

 高校生くらいに見える少女は何度も何度もそう叫び、ナイフを振り回し続けている。でもナイフを振り回している事そのものよりも、その走り方の方が百倍怖い。だって頭も体もマジで左右にぶんぶんカクカクしながら走ってるんだもん。今年はキャンプに行っても肝試しをする必要は無いかな。

「篝火乙女は誰!?」

 知らねぇよ! って心の中で叫ぶ。

 ユリと一緒に札幌駅のシネマフロンティアでクソつまんない映画を観た帰り、住宅地で突然ナイフをぶんぶん振り回してる分かりやすくヤバイ女に追いかけられて今に至る。そんなありえないジョーク的日常に対して私はどう対処すれば良いんだろうか。私も一緒にナイフ持って体を左右にカクカク振りながら奇声をあげて走れば、仲間だと認めてもらえるだろうか。

「篝火乙女は誰!?」

「知らないよそんなの!」

「あったまおかしいぜマジで……」

 同い年の親友が息を乱しながら吐き捨てる。

「おかしいってレベルじゃないけどね!」

「篝火乙女は誰!?」

 お前それしか言えねぇのか。篝火乙女ってのが誰だか知りたきゃウィキペディアで調べりゃ良いじゃん。そしてウィキペディアで知った薄っぺらい知識だけで自分は博識なんだと勘違いして、ユーチューブなんかでペラペラ偉そうに知識を披露する動画をUPしまくって、バカな小学生や頭の弱い大人に尊敬の眼差しで見つめられ崇められるユーチューバーにでもなって、虚しくお金を稼げばいい。今はバカがバカ相手に商売するのがトレンドな時代だからね。

「ねぇアスカ! やっぱりあいつアレだよね!? ほら!」

 隣を走っている百合ヶ原百合の情けなくも甲高い声が耳に突き刺さる。

「絶対ね! 篝火乙女事件!」

「だよね!」

 篝火乙女事件。今年の七月上旬ごろに、少女が少女を殺してなおかつ殺害中の動画をネットにアップする……という事件が発生した。事件はそれで終わりではなく、全く同じ手口の事件が今のところ三件発生している。

 一件目はナイフで殺され、二件目は電動ドリルで体中穴だらけにされ、三件目は斧で首ちょん。で、私とユリは今まさに四件目の事件の被害者になろうとしている訳なんだけど、どうやらレパートリーが三件目で尽きたらしく、私たちは捕まったら一件目と同じくナイフで殺されてしまうことになる。この事件を主導している奴が居るとしたら、そいつは多分作家の才能は無いだろう。……まぁ実際あいつはバカだけど。

「うあああああ! かがりびおとめええええぇぇぇ!」

「うわ! マジでヤバイってあいつ……」

「キチガイだな……」

 イカれ女は相変わらず首を左右にガクガク揺らし、血走った目で追いかけてくる。

 ヤバイ。一周まわって面白い姿になってるけど、だからこそ殺されるっていう可能性を否応なく感じさせられる。あれはダメだ。人間としてのリミッターが完全に解除されてる。

 捕まったら殺される。本能が改めてそう直感する。

 イヤだ。死にたくない。むごたらしい姿が世間に晒されるなんてイヤだ。それに小学校の卒業アルバムは中途半端な笑い方しちゃってるし髪はハネてるし、あまり見られたくない。世間やマスコミのオモチャになりたくない。この世界では、なぜか殺されると晒し者になるというオマケが付いてくる。お墓という石の塊に水かけてお供え物してお経まで唱える風習があるクセに、なんで世間はこんなにも死者をオモチャにするのが好きなんだろうか。

 あーもう! なんで私がこんな目に!

「何なんだよほんとにっ!」

 私は小学校でも中学校でもいつも徒競走ではアンカーだった。自慢の快足を飛ばしてイカれ女との距離をぐんぐん離していく……んだけど、イカれ女だけじゃなく並走していたユリとの距離もどんどん離れてしまう。

「ちょっと! ねぇ! なんでそんな離れてくの!? 一人で逃げる気!?」

「ユリが遅すぎるんだってば!」

 女は足元がたまにふらついてるみたいだし、足もそれほど速くない。このまま全速力で頑張れば私は簡単に逃げられそうだった。でもユリはダメだ。このままじゃナイフでズタズタにされてしまう。マジでユリの骨を拾う羽目になる。

「篝火乙女は誰!?」

 また女が叫んだ。心なしか体の揺れ方がさっきよりも激しくなっている。

 あいつは普通じゃない。捕まる訳にはいかない。捕まったら絶対に殺られる。

「……っ!」

 あの日の出来事が頭をよぎる。そう、私が人を殺したあの日を。

 あぁもうクソったれ。死んでたまるか!

「ユリ! もうちょっと頑張れない!?」 

「これが限界だってば!」

 運動神経が悪いクセに足だけは速い私と違い、ユリはそう速い訳じゃない。このペースだとそのうち追いつかれる。頭の中で最善策を考えるけど何も思いつかない。全く! そのショートパンツからむき出しになっている細くて白くて長い脚はお飾りかこの野郎。足ってのは見せるためじゃなくて走るために付いてんだよ!

「頑張ってよ! 追いつかれたらズタボロにされるよ!」

「頑張っても足は速くならないから!」

「日本人なら根性と気合いと大和魂でなんとかなるでしょ!」

「むしろ限界出しすぎて足絡まりそうなんだけど!?」

「捕まったらマジで殺されるよ! 死ぬ気で頑張って!」

「水飲んでも良いですか!?」

「ダメ!」

 ユリのペースは速くなるどころかどんどん落ちている。さっさとどこかに逃げ込まないと、遅かれ早かれユリは追いつかれてしまう。

 頑張ればなんとかなるよ。気合いが足りない。努力が足りない。そんな言葉をぶつけられ続けてきたけど、世の中は大人たちの間違った教育という名のプログラミングで溢れてるなと強く思う。

 どうにもなんねぇじゃん。マジで。

 なんでこんな事になった?

 なんで私がこんな目にあってる訳?

 どうすればユリを助けられるの?

 理不尽。理不尽理不尽。世の中こんなのばっかりだ!

「篝火乙女はだぁれ!?」

 また振り返る。女は確かにイカれて普通じゃないんだけど、その目は確実に私達を……いや。

 明らかにユリめがけて走っている。目線はユリに向いてるし、ユリがよろよろ右にふらつけばイカれ女も右に寄っていく。

「やっぱりか……」

「え?」

「あいつをチューリングテストにかけたら、どうなるんだろうね」

「なんでそんな冷静なの!?」

 アラン・チューリング。二十世紀に活躍したイギリスの数学者。私は偉大なる先人を想いながら心を落ち着かせた。

 考えろ。考えるんだ。相手は人間じゃない。そこに活路を見い出せ。

 相手の武器はナイフ一つ。私らは手ぶらだけど数では勝ってる。奴は完全にユリだけを狙っている。この状況なら大怪我せずに勝てる可能性はゼロではないかもだけど、だからってナイフを持ち、多分正気を失い人間としてのリミッターを解除しちゃってるであろう人間相手に格闘を演じる勇気は……あると言えばあるけど、戦うのは得策ではないだろうね。戦う勇気はあっても勝つ自信はない。それじゃダメだ。それこそ根性論じゃないか。

「アスカ! どっかに隠れよう!」

「どこに!?」

「分かんないけど!」

 閑静な住宅地を見渡す。街のすぐそばにあるとは思えないほどに静まり返った住宅地。車が三台ほど余裕で走れそうな広い道路。一定の間隔で現れる十字路。無数の一軒家やアパートが適度な間隔で建っている。見晴らしが良すぎて隠れられる場所なんかない。

 どこかの家に逃げ込んで助けを求めるにしても、インターホンを押して「すみませんちょっと今ヤバイ奴に追われて逃げてるんで助けて下さい」と言ってる間に後ろからブスッと刺されるだろう。それに突然そんなこと言う奴がインターホン連打してきたら、私たちの方がヤバイ奴認定されてしまう。

「あっ!」

 キョロキョロ辺りを見回していたせいでバランスを崩した。なんとか受け身を取って大怪我はまぬがれたけど、まぁここでゲームオーバーだよね。

 案の定ユリは立ち止まって私を助けようとしている。そして振り返ると、すぐそこにイカれ女が迫っていた。

 ありえない! こんなの絶対ありえない! そう思った瞬間、頭がズキリと痛んだ。

 ペンラムウェン。アヌンコタン。黒いドレスを着た女。聞いたこともない言葉、観た事もない映像が頭に思い浮かぶ。

 稲穂南海香(いなほなみか)の笑顔が、頭の中にべっとりと映し出される。

 そして。あいつの母親の最後のみっともない姿も。

 私が稲穂の母親を殺したあの日の光景が、なぜかこの瞬間に蘇ってくる。

「篝火乙女は誰!?」

「だから知らねぇよそんなの!」

 私は頭に浮かんだ映像を振り払い、力を込めて立ち上がってイカれ女の腹にローキックをくらわせた。やっぱり何故か女の意識がユリだけに向いていたおかげで、蹴りは綺麗に決まった。

 少女が声にならない声を出してよろめく。その瞬間だけでユリは「勝った」と思ったのか、顔に生気が戻った。そして少女の腹に私と同じように蹴りをぶちかました。私の蹴りよりも遥かに威力がありそうだった。

 少女がその場に倒れ込み、手からナイフがこぼれ落ちた。私はナイフを蹴飛ばし、少女の顔面をまるでサッカーボールのように蹴った。首がガクン! と変な方向に曲がって驚くと同時に、体の芯がゾクっと恍惚感で溢れた。

 なんだか良く分からないけど、この上ない快感があった。

 人を傷つける。

 最高にムカつくヤツを痛めつける。

 自分を苦しめた奴をコテンパンにする。

 たまらない快感で心が満たされる。高揚する。

 大麻をやったらこんな感覚になるんだろうか。なんとなくそう思った。いつかオランダに行って確かめてみよう。

「このやろこのやろ! 死ね死ね死ね!」

 ユリが少女の顔を何度も何度も踏みつけた。ぐりぐりにこね回し、かかとで鼻を蹴りおろす。私も顔を何度も踏んだり蹴ったりした。少女はいつの間にか鼻血ブーしながら白目をむいていた。

 ユリは笑っていた。さっきまでの怯えた顔はどこかに消えて、例えるならそう、夜な夜なベッドで見せるような、快楽にまみれた顔だった。

 ハッとする。見えない何かに身震いする。

 瞬間。うごめく物体。

「ユリ!」

「え?」

 てっきり気絶していると思っていた顔中血だらけの少女が、いつのまにかユリの足を掴んでいた。

 ありえねぇって思った。なんで動けるの?

「ちょ……」

 ユリは慌てて逃げ出そうとしたけど、足を掴まれている状態で無理に動くもんだからバランスを崩して転んでしまった。そして少女が地面に転がっているナイフに向かって走り出す。

「この……!」

 私は女を追いかけたけど、間一髪のところで少女にナイフを奪われてしまった。

 そして。

 少女はスカートのポケットからスマホを取り出し。

「篝火乙女は誰ですかあああ!?」

 ユリの顔面に、ナイフを振り下ろした。


EP2 お前、もう何度も死んでるよ

・明日風真希


記入者:大和谷駆


・第一の事件 七月四日。月谷高校の田村愛(二年生)が、アイカプクル(ネット上で活動している同人サークル)所属で旭岡高校の二年生、稲穂南海香を殺害。

・第二の事件 七月十一日。旭岡東中学校の安城香澄(一年)が、琴別高校の佐々木亜紀乃(三年)を殺害。

・第三の事件 七月十六日。明清東高校の水島真実(二年生)が、月谷高校の佐野島由紀(二年)を殺害。

 

・篝火乙女事件の概要

 夏休み前から、札幌で少女が少女を殺すという事件が頻発している。それだけでも奇異だが、加害者の少女たちは必ず殺している最中の様子をユーチューブにアップする、という理解に苦しむ共通点を持っている。もう一つ、殺す前や殺している最中に『篝火乙女は誰だ!?』と叫び散らすという意味不明な共通点もある。だからこの事件は篝火乙女事件と呼ばれている。

 第一の被害者は旭岡高校二年生で、同人サークル「アイカプクル」のリーダーだった稲穂南海香。俺とアヤも以前はアイカプクルに所属していたが、二人ともアイカプクルを追い出されている。理不尽な形で。

 稲穂が殺された動画は何度も観たが、加害者の女はまさに狂ったように鋭いナイフで稲穂の顔や体をズタズタにしていた。狂気の一言で表現出来る殺し方ではなかった。あんな映像がユーチューブにアップされたなんて、未だに信じられないというのが本音だ。

 もちろんこの事件は頭おかしい系のユーチューバーやニコ生配信者の仕業ではない。どんなに頭くるくるぱーなユーチューバーでも人を殺したりはしない。

 それに加害者の少女たちは三人ともマスクをつけていなかった。彼女たちは堂々と世間に顔を晒して何かを成し遂げる覚悟を持って動画を上げている。顔も名前もひた隠しにしているクセに、やたらと目立ちたがるユーチューバーとは違う人種だ。


注1:第一の被害者である稲穂南海香は、過去に加害者である田村愛、安城香澄、水島真実をアイカプクルに誘い、断られているという事実を確認済み。

注2:そして、稲穂以外の加害者と被害者は「アムリタ・ハント」というカルト組織の信者だった、という見過ごせない共通点もあった。また、被害者は全員アムリタ・ハントでもトップクラスの美少女だった。

注3:とにかく稲穂とアムリタが事件に関わっている以上、俺たちは篝火乙女事件とは全く関係の無い人間とは言い切れない。いや今は関係無いが、今後巻き込まれる恐れは確かにある。注意を怠るな。


アヤ:余計な文章が多すぎる。誰もアンタのくだらない戯言に興味は無いよ。

ヤマト:圧倒的な真理を前にした時、人は無口になる。

アヤだよ:いやなってないし。ていうか結局何も分かってないし。

ヤマトだよ:すまん。

あすか:お風呂の洗剤無くなりそうだよ。ヤマト今度買っておいて。

ヤマト:俺がカースト上位になれる世界はどこにあるんだ?


LOG:二千十八年七月八日


玲音:七月の下旬ごろにさ、『ディラン』っていう映画やるでしょ。あれ凄く面白いと思うのよね。

アスカ:あぁ知ってる。でもあぁいうジャンルは興味ないんだよねぇ。ていうかタイトルセンスに異議を申し立てたい。なんか神話に出てくる名前だっけ。

玲音:タイトルはともかく内容は良いと思うわよ。観てみなさいよ。

アスカ:玲音がそんなにオススメするなんて珍しいね。

玲音:そうでしょ。それに私の選球眼はマジよ。

アスカ:そんなに言うなら行こうかな。友達と一緒に。

玲音:そうしなさい。どこで観るの?

アスカ:え? えーと。ていうかどこでやってんだっけ。マイナーな映画だからディノス? それともシアターキノ?

玲音:札幌はシネマフロンティアだけね。出来れば二十八日に行きなさい。

アスカ:……なんで?

玲音:二十八日にイベントあるのよ。出演者が来場してさ。

アスカ:そうなんだ。じゃあ二十八日に行こうかな。

玲音:えぇ。是非そうしなさい。


 七月二十七日。この日、私たちは翌日の七月二十八日に百合ヶ原百合が殺害されるという可能性に直面していた。

 時刻は十九時三十二分。もう少しで二十八日になる。時間が無い。私たちは絶望的な状況にあった。

「篝火乙女。応答願う」

「こんばんわ」

「百合ヶ原百合は、明日殺されるのか?」

「はい」

「なんで?」

「分かりません」

「なんてこった」

 大和谷駆(やまとやかける)がレーシングカーみたいなデザインのオフィスチェアに深く深くもたれかかった。

 パソコンデスクの上に設置されている百四十四ヘルツのモニタに映し出されている美少女はにゅるにゅる体を動かし、モニタにウェブカメラが取り付けてある訳でもないのに、ヤマトの視線を的確に追い続けている。

「篝火乙女。ユリはマジで死んじまうのか?」

「えぇ。二十八日に」

「詳細を教えろ」

「分かりません」

「今から大急ぎで死んでくれ」

「無理です」

「この野郎」

 モニタ上の仮想少女、通称「篝火乙女」は何度も何度も「二十八日にユリは死ぬ」と宣告する。でも具体的な話は一切してくれない。この不毛な会話はもう何時間も続いている。

「改めて聞くぞ。篝火乙女事件の四件目の被害者が百合ヶ原百合になる。お前はハッキリそう言ったよな?」

「そうです。二千十八年七月二十八日に、百合ヶ原百合は殺されます。篝火乙女事件の四つ目の被害者となるのです」

「なんで」

「分かりません」

「明日殺されるんだよな?」

「そうです。間違いなく」

「どこで? 何時ごろ? 誰に? どんな方法で?」

「知りません」

「お前マジぶっ殺すぞ」

「おい篝火乙女! おめー嘘言ってんじゃねぇだろうな!?」

 ふいに、お前死ぬかもしれないよ宣言された張本人のユリがキレ気味に声を張った。でも……。

「私、嘘、言いません」

「クソが!」

 ヤマトが悪態をつき、落ち着かない様子でセブンスターを吸い始めた。ソファに座って状況を見守っていた私も、つられてセブンスターに火を付ける。

 更にユリもつられたのかハイライトをもくもくし始めた。煙が室内に充満していく。夏にしては涼し気な夜。窓から入り込む冷たい風。心地良い風の中にじんわり潜んでいるジメジメ感と、どこからともなく流れてくるバーベキューの匂い。タバコの煙。愁傷感。夏はいつだってぐちゃぐちゃだ。

 タバコを灰皿でちょんちょんして灰を落とす。吸い殻はてんこ盛り。私は無力だ。

「埒明かないよね」

「あぁ。自分の口から発した言葉の裏付けをしてくれない。まるで空っぽな綺麗事を子供にしたり顔でぶつけるバカ親だぜ」

「困ったね……」

 綾瀬望海(あやせのぞみ)が、お気に入りのアザラシのぬいぐるみを両手で抱きしめながらモニタを覗き込んだ。アヤ先輩はヤマトと同じ旭岡高校の二年生(十七歳)で、ヤマトの彼女だったりする。

「これじゃ何の対策も出来ないよ」

「全くだ。せめて死ぬ場所と時間が分からないと……」

 私は不安気な顔をしたアヤ先輩と、モニタに映る美少女を見比べた。

「……マジで瓜二つ」

「……」

 篝火乙女はどう見てもアヤ先輩の外見をコピーしたとしか思えないような外見をしている。とは言え、その無機質というかムスっとした表情はまったくもってアヤ先輩らしくないけどね。

 アヤ先輩はアイドルみたいな愛くるしい顔立ちで、長くてサラサラな黒髪は甘い良い匂いがして、紫外線とかその他諸々有害なもの全てに中指を突き立てて生きているような色白美肌で、胸は丁度良いくらいに大きくて、長い足が魅力的でなんかもうとにかくスタイル抜群で、頭が良く運動神経も優れていて要するに完璧超人なんだ。こんな素敵な人がヤマトの彼女なんて信じられない。世の中狂ってる。

 更に言えば、アヤ先輩はこの平屋(私たちはケウトゥムハイタと呼んでいる)の新しい主でもある。ケウトゥムハイタは元々アヤ先輩のお父さんの所有物だったんだけど、父親が逮捕されてからは私ら四人のアジトになっている。

 ケウトゥムハイタは平屋とは言えそこそこ広くて、まず大きなリビングの奥にキッチンがあり、隣にダイニング、ダイニングの隣に脱衣所兼洗面所、お風呂場、トイレがあって、他にアヤ先輩とヤマトの部屋、私とユリの部屋がある。四人で住むには十分な広さがあって私は気に入っている。

「おい篝火乙女。なんか言え」

「あー」

「死ね」

「処置なしだね……」

 アヤ先輩がしょんぼりと悲しそうな顔でうつむいた。私はアヤ先輩の悲しそうな顔を見てると心が痛む。アヤ先輩は、不登校で家出中の私をケウトゥムハイタに招き入れてくれた恩人だから。良き人にはいつも笑顔でいてもらいたい。

「何聞いてもダメ?」

「あぁ。単純な質問をすればイエス、突っ込んだ質問をすれば分かりません。ずっとそんな状態だな。政治家の見本だぜコイツは」

「質問変えてみれば?」

「いやもう無理だ。もう腐るほど色んなワードぶつけたよ」

「もうちょっと頑張ってよ! ボキャブラリーひねり出してさぁ……」

「だー! ぐだぐだうるせぇんだよ!」

「いや、でもなんとかしないとヤバイし。もう時間無いよ。私が死んじゃっても良いの?」

「んな事は言ってねぇだろ」

「いや今めっちゃ諦めてたじゃん」

「諦めてねぇよ」

「諦めてたべや!」

「弱音吐いただけだよ!」

「男のクセに弱音吐くんじゃねーよバカ!」

「うるせぇよ! じゃあチンコ切断すれば弱音吐いても良いのか!?」

「あぁそうだね! 弱音吐き続けるなら今すぐ切れよ!」

「お前そろそろぶっ殺すぞ」

「はぁ!? 本末転倒じゃんそれ!?」

「ねぇちょっと。バカなこと言ってないで続けてよ。篝火乙女だけが頼りなのは間違いないんだからさ」

「分かってるよ! おい篝火乙女。お前なんか隠してんじゃねぇだろうな?」

「何を言っているのか、分かりません」

「クソ! この人工無能が! 死ね! 死んじまえクソ野郎! 不良品!」

 ヤマトが発狂してしまった。めっちゃ汗だくだし、ストレスが限界にまで達してるんだろう。私は扇風機の電源を入れて、首をヤマトの方に向けてあげた。

 今日は今の今までエアコンも扇風機も付けてなかった。北海道らしく湿度も大した事なく過ごしやすい夜だとは思うけど、そうは言っても夏は夏。イライラすればあっという間に灼熱地獄だ。

「ブチギレてもしょうがないじゃん。相手は実態の無いポンコツだぜ?」

「努力する気も無いクセに小説家目指してる奴とか見てるとイライラするだろ?」

 ヤマトは吐き捨てるように言い、腕を組んでモニタを睨みつけた。

さっきからヤマトが語りかけている画面上の女の子はただのモデリングではなく、「篝火乙女」という名の人工知能……もとい人工無能である。

 これはケウトゥムハイタに最初からあったパソコンに入っていたソフトで、接続されているストレージから情報を検索して、その情報を3Dモデリングの女の子が機械的な声で喋って教えてくれるという、冷静に考えてみたらしょうもないソフトだ。ちなみにネットワークから情報を引き出すことは出来ない。学習機能も無い。ディープラーニングとは無縁のゴミ。

 一応スマホなどに搭載されている音声認識ソフトみたいなものではあるんだけど、ネットワークに非対応な時点で特に実用性はない。だからあくまでも人工無脳なんだ。

 そもそも学習機能が搭載されていない人工知能は軒並み人工無能と呼ぶべきだし、特定の言葉にしか反応できないモノや人に知能があると認識するべきではない。日本のメディアはどんなものにでも「人工知能」や「AI」という言葉を使いたがるバカで溢れてるけど、せめて強いAIと弱いAIの区別くらいは付けてほしいもんだ。まぁ無能な人間には難しい話なのかもしれないけど。

 でも「篝火乙女」はただの人工無脳とは言い難い。コイツは相当に非常識な存在だから。理由は幾つもあるけど、主に列挙したい理由は三つだ。

 まずひとつめ。篝火乙女はアヤ先輩にソックリな見た目をしている訳だけど、実はこのソフトを作ったのはアヤ先輩の父親、綾瀬源治であるということ。

 ふたつめ。これが本命。篝火乙女は何の前触れもなくとつぜん未来予測を行う事があり、予測した事件は百パーセント必ず発生する。もちろんストレージに死海文書なんて入っていない。

 ちなみに、ネットワークの接続を完全に遮断しても未来を予測して的中させる事が可能だから、ネットワークからへんてこな情報を持ってきてるとも考えにくい。第一、篝火乙女はネットワークから情報を持ってくる機能を搭載していない。

 みっつめ。アヤパパがこのソフトに名付けた「篝火乙女」とは、まさにいま札幌で発生している事件の最重要キーワードである。

 ついでに言うと、アヤ先輩のお父さんはあのアムリタ・ハントの教祖だった。今のところ篝火乙女事件の加害者と被害者は、稲穂南海香以外は全員アムリタ・ハントの元信者たちである。

 アムリタ・ハント。稲穂南海香。この二つが事件の大きなキーワードとなっている以上、私たちは事件と無関係とは言い切れない状況にあった。特にアヤ先輩は十分に巻き込まれる可能性が高いと踏んでいた。そんな折に篝火乙女がユリの死を宣告して今に至る訳だけど……。

「ほんと、訳分かんね……」

 篝火乙女にしても、事件の真相にしても、今後取るべき対応策にしても分からない事が多すぎる。特に篝火乙女は理解の範疇を越えている。

 私は新しいセブンスターに火を付けて、大きく煙を吐き出した。

『二千十八年七月二十八日。百合ヶ原百合は殺されます。篝火乙女事件の第四の被害者となります』

 篝火乙女は確かにハッキリとそう言った。その時の衝撃と言ったらもう、まさに驚天動地だった。

 これまでにも篝火乙女はふいに未来予測をする事が多々あったけど、その的中率は百パーセントだった。ユリが死ぬ訳ないよって安堵出来る訳がない。

「おい篝火乙女! 真実を話せ! 明日どこでどうやってユリは殺されるんだ!? 俺たちはどうやって事件を防げば良いんだ!?」

「何を言っているのか、分かりません!」

「んな訳ねぇだろおおお!!!」

「ヤマト君、汗すごいよ」

「ていうか男のクセにヒステリー起こすんじゃねぇよ見苦しい」

「お前のためにヒステリー起こしてる事を忘れるな」

「落ち着きなって……」

 アヤ先輩がなだめるけど、ヤマトのイライラは癒えない。

 どうしたものかと色々考えてみるけど、唯一心当たりがあるとすればやっぱりディランだった。

 明日、二十八日は私とユリが映画を観に行く予定の日だ。私は行く気無かったんだけど、ツイッターで仲良くなった玲音という女の子にオススメされたから、ユリを誘って観に行くことにした。

 果たして主体性はどこにあるのだろうかと考える。もしあくまでも全てが玲音にあるのだとしたら、それはわりと恐ろしい事実に繋がる。

「勘弁してほしいよ……」

 虚しくぼやき、猫のぬいぐるみ……もとい猫の「にゃん太郎」のぬいぐるみを膝の上に置く。にゃん太郎は「にゃんにゃんニャンダフル」という私が大好きなアニメの主人公で、三頭身でモフモフの毛並みがすっごく可愛らしいんだ。

にゃん太郎は平和な日常を送りつつ、時たま気まぐれで悪い奴を倒しにいく正義の味方だったりする。戦う度に色んな姿になるんだけど、第百四十七話でにゃんブラスト悪太郎を倒した時のにゃん太郎パワフルラグナロクバージョンが特にお気に入り。

 にゃん太郎の耳をぴこぴこ動かしながらあれこれ考えに耽り始めた所で、隣に座っているユリが指で私の腕を突っついてきた。

「ねぇアスカ」

「うん?」

「今なに考えてるの」

「んー……玲音の事とか」

「あぁ。ツイッターの人? そいつがどうかしたの」

「私ら明日ディラン観に行く予定だったじゃん? でもさぁ、そもそもディラン観に行けってしつこく言ってきたのは玲音なんだよね」

「うん聞いた。で? それが何?」

「いやなんか……おかしいなって。誘導されてるみたいで」

「だったら玲音は私にコンタクト取るんじゃないの」

「ユリは最初からディラン観に行くって言ってたでしょ。二十八日に」

「うん。一人で行こうと思ってた。アスカはあぁいう映画嫌いでしょ。だから一緒にディラン観ようとか言われてビックリした」

「そうそう。だからえっとね、玲音はユリが一人じゃなくて、私と一緒に映画を観に行くように仕向けたんじゃないかなって」

「……」

「……」

「本気で言ってる?」

「……」

「玲音と会ったことあるの?」

「ない」

「玲音は私を知ってるの」

「知らない」

「玲音は未来を予測できるの?」

「ギャンブルは嫌いだって言ってた」

 ユリは大きなため息をついて、長い脚をだらんと伸ばした。

「いやまぁ言いたい事は分かるけどね。しつこく、しかも日時まで指定して映画を観に行けって言われて、かと思ったら篝火乙女が私は二十八日に死ぬって宣告したんだからね。関連性が一切無いと断言する訳にもいかないけど……」

 ユリはぶぅたれたような顔で何やらぶつぶつ呟き、テーブルに置いてある缶コーヒーのプルタブを開けて一口飲んだ。

「ねぇヤマト」

「なんだ。今度はどんな悪口だ。どんな文句だ。どんな罵倒だ。受けて立つぜ」

「篝火乙女ってちょちょえ……ちう……ちょーえつ的な力を使ってるんじゃなくて、色んな情報を基に未来予測してるだけなんだよね」

「俺はそう思ってる。決して超越……いやちょーえつ的な力なんて使ってないさ」

 噛む度に茶化すのはやめてほしい。

「なんでそう思うの。教えて」

「だって未来なんてある程度は予測出来るだろ。例えば一週間後が自分の誕生日で、誕生日が日曜日で恋人の仕事が休みなら、近々デートの誘いが来るだろうと予想できるし、その予想が当たる確率は高いだろう。だから予知じゃなくて予測なんだよ」

「じゃあもう自力で色んな情報を参考に推理でもした方が良いんじゃないかな。篝火乙女の予測がマジで情報を基にしてるだけなら、結果に繋がる道が絶対あるはずだもん。それに篝火乙女に出来る事なら私らにも出来るんじゃね?」

「そうは言うけどな……」

 ヤマトがぼりぼりと頭をかいてモニタに向き直る。あまり気乗りしていないご様子。

「どう結びつくんだよ。この事件とお前が」

「それは……」

「もしお前がアムリタの元信者なら、話は別かもしれないけど」

「違うし……」

 ヤマトはふんっと鼻を鳴らした。

「なんかすんげぇ量子コンピュータでもあれば、世界中の情報をあっという間に収集してシミュレーションして、全てを解明してくれるかもしれないけどな。それはまだ夢物語。現実じゃ情報をかき集めて道を作るのは難しいよ」

 と言って、また投げやりな口調で篝火乙女に問いかける。

「篝火乙女。百合ヶ原百合は明日、二十八日に殺されるんだな?」

「そうです」

「そこまで分かってるんなら、場所とか時間も分かるだろ」

「分かりません」

「お前ソフトで良かったな。人間だったらごみ収集車にぶちこんでスクラップにしてるところだぜ」

「ごみ収集。スクラップ。検索します」

「俺はこの怒りをどこにぶつければいいんだろうか」

「分かりません」

 篝火乙女のその言葉を最後に、ヤマトは黙ってしまった。お手上げ。白旗。かわりにアヤ先輩が篝火乙女に話しかけ始めたけど、不毛な会話が繰り返されるだけだった。

 どうしたものか。こうしている間にも時間は刻一刻と進んでいく。

 どうか篝火乙女の未来予測が外れますようにと祈るけど……。

 今の所、篝火乙女の未来予測が外れた試しは一度もない。


UJカシワギ:アヌンコタンのハッキングは順調ですねぇ。このペースだと、UJオメガはあと一ヶ月ほどで制圧されますよ。

凛音:予定より少し早いわね……。

UJカシワギ:そりゃまぁ。量子コンピュータだけじゃなく、こっちのコンピュータも総動員ですから。あ、あともうひとつご報告を。なんとか篝火乙女を媒介にしてあちらにダイブ出来ないか試してるんですけど、もうしばらくすれば実現できそうです。

凛音:ほんと?

UJカシワギ:本当です。ハッキングが極限近くまで進めば歪みが出来ますので、そのタイミングなら可能なはずです。

凛音:なるほどね。

UJカシワギ:でもすみません。それまではダイブどころか、安定的なリンクすらも不可能です。

凛音:それは困るわね……。常にリンク結べてないと、二人に的確な指示が出来ないのよ。

UJカシワギ:分かってます。でも私にはどうする事も……。

凛音:アンタ使えないわねぇ。

UJカシワギ:いやまぁ、私はしがない旧型の量子ゲートですから。私なんてオメガに比べたらクソザコですよ。ぐすん。

凛音:まぁ良いわ。アスカたちの方はもう全て手を打ってあるし。アンタのシミュレーション信じて良いのよね?

UJカシワギ:はい。二十八日に笹岡麻里奈が百合ヶ原百合を襲撃します。百パーセントね。

凛音:オーケー。引き続き働きなさい。この私の奴隷として働ける喜びを噛み締めながらね。

UJカシワギ:サー! イエッサー!


LOG:二千十八年七月十二日


玲音:中世の時代ってね、人間の寿命は三十五歳前後だったのよ。

アスカ:短いね。……あれ、なんだろ。どこかで聞いたような話かも。

玲音:当時は産まれてすぐに死んじゃう赤ちゃんとか戦死する人がいっぱい居たからあまり参考になる数値ではないけどね。でも当時の平均は三十五歳で、五十年も生きれば大往生って感じだったの。

アスカ:織田信長もそんなこと言ってたんだよね。人生五十年。

玲音:着色されてそうな話だけどね。

アスカ:織田信長って第六天魔王とか呼ばれてたんだっけ。

玲音:話戻すわよ。とにかく昔の人間は寿命がすっごく短かったんだけど、今の人間は平気で百歳くらい生きちゃうわよね。そして今、政府は七十歳過ぎても働けとかめちゃくちゃな事を言い始めてる。

アスカ:また一方的な一人語りが始まった。

玲音:うっさいわね! 黙って聞きなさい。……あのねアスカ。確かに人類の寿命は長くなったけど、実のところ遺伝子情報は太古の時代からほとんど進化してないの。ねぇ、ちょっと百歳になった自分を想像してみて。

アスカ:想像中、想像中。

玲音:百歳のアスカは何してる?

アスカ:寝たきり。隣の部屋で孫が婆ちゃん早く死なねぇかな、介護めんどいなって愚痴ってる。

玲音:ね? 大変よね。無駄に長生きしても。

アスカ:うん。てーへんだ。

玲音:でしょう? ねぇ愚かだと思わない? 遺伝子情報そのままに寿命だけイタズラに伸ばしちゃうなんて。

アスカ:だね。見た目も中身も若いまま百歳になれるなら、まだ良いと思うけど。

玲音:そういうこと。つまりね、人間が百歳くらいまで生きるなら、遺伝子だってそれ相応に進化しなければいけないの。それが出来ないなら寿命は伸ばすべきじゃない。なのに人間はどぅんどぅん寿命を延ばしちゃった。

アスカ:どぅんどぅん!

玲音:遺伝子そのままに寿命だけ伸ばした所で、バグが起きるだけだしね。

アスカ:だよね。耐久年数が五十年のロボットがあったとして、そのロボットを百年も使ったらズタボロになる。ロボットに心があれば心までぶっ壊れる。

玲音:その通り。でもバグが起きるのは人間だけじゃない。社会もそうなのよ。鬱病になる老人。犯罪に走る老人。孤独死する老人。コンビニの店員に訳分かんないクレームつける老人。狭い通路を亀のようなスピードで歩いて渋滞を巻き起こす老人。未来ある子どもを轢き殺す老人。介護疲れで死神となって老人を天国に送る若者。いつ崩壊してもおかしくない年金制度。大きな負担となる社会福祉。無駄に寿命を延ばした結果が今の日本。ひどい有様でしょう? でも逆に長生きすることのメリットなんか特に無い。だから遺伝子情報を進化させる技術が無い限り、イタズラに寿命なんか伸ばしちゃダメなのよ。

アスカ:明日からタバコの量増やすね。

玲音:本来ならそれは決して間違った選択とも言い切れない。でも世界は健康と運動を促進してる。長寿社会が引き起こすデメリットを考慮せず、無責任にね。

アスカ:世界は狂ってる。

玲音:そう。だからアスカ。

玲音:真っ向からこの世界を否定しなさい。

玲音:……アスカ?

アスカ:いや、ごめん。

アスカ:なんか急に頭痛が。

玲音:……頭痛? もしかして。

アスカ:ごめん玲音。ちょっとマジで頭痛ヤバイから今日は……。

玲音:待ちなさい。

アスカ:あぁ。なんか憂鬱になってきた。

アスカ:シンギュラリティが訪れれば全て解決だろうけど。

アスカ:その時代まで生きる勇気も気力も無いかな。私は。


EP3 アムリタ・ハント

・明日風真希


「見つかんねぇなぁ……」

「このフォルダは?」

「さっき見た」

 ヤマトがモニタを睨めつけながらマウスを操作し、アヤ先輩はオフィスチェアの後ろからあれこれ指示を出している。なかなかお目当てのものが見つかる気配はない。

「あれー? もしかしてDドライブ? あ、これアスカの寝顔撮った動画じゃん」

 私の知らぬ間に何やってんだ。

「Dはさっき見た。外付けのドライブかな……」

「ファイル名思い出せない?」

「すまん。思い出せりゃ検索で一発なんだが」

 さっきよりも重たい空気がずぅんと室内を支配する。

 私たちはこれ以上うんうん唸っても埒が明かないと思って、ユリの提案通り篝火乙女は諦めて、自力で事件の推理をする事でなんとかユリの死を回避しようと方針転換した訳。

 そこで一つ、どうしても確認したい動画があるんだけど……。

「どこにもねぇな」

 そう、見つからないの。行方不明。

「ていうかさ、こういう時こそ篝火乙女使えば良いんじゃない?」

「動画の内容を伝えて、その通りの動画を探してもらうってか? そんなのコイツには無理だよ」

「使えねぇな……」

「ねぇ。間違ってファイル消したとかじゃないよね?」

「さっき一応リカバリーしたけど、それっぽいのは無かった」

「クラウドに保存したとか?」

「あぁいう貴重なファイルはストレージにしか保存してない」

「あ、ねぇヤマト。ここに端子折れ曲がったUSBメモリあるよ」

「それに入ってたら悲劇だな」

 私は皆の会話を聞きながら、ぼんやりスマホを眺め続けていた。

 やっぱり玲音のことが頭から離れなくて、さっき玲音にラインでメッセージを送ったんだけどまだ既読は付いていない。ていうか、ここしばらく玲音からの連絡は途絶えちゃってるんだよね。あの人は何故か頻繁に音信不通になる。

 ズキリ。頭が痛む。玲音のことを考えると、たまに謎の頭痛が発生してしまう。ほんと勘弁してほしい。

「アスカ?」

「うわっ」

 いつの間にかユリが私の前に立ってスマホを覗き込んでいた。どことなく不快感をあらわにした顔。

「何してんの」

「いや、玲音にメッセージ送ったんだけど。既読付かなくて」

「まだ玲音のこと気にしてんの?」

「うん」

「そりゃちょっと怪しいってのは分かるけどさ、玲音とかツイッターで知り合っただけの人でしょ? あんまりネット上の人にのめり込むのやめた方が良いよ。ツイッターのフォロワーなんてさ、自分に都合の良い事しか言わないAIみたいなもんだし。そんな奴がアンタとか私の人生に関係してくる訳ないでしょ」

「分かってる」

「なら良いけど」

 そう言って、ユリはソファに座ってビスケットをぼりぼり齧り始めた。落ち着いているように見えるけど、ビスケットを噛む口の動きは相当に荒っぽい。

 とりあえず玲音のことを頭から振り払い、次はアムリタ・ハントのことを考えてみた。今のところ稲穂以外の関係者は全員アムリタの元信者。教祖は綾瀬源治。何かヒントは無いだろうか?

「アヤ先輩」

「ん?」

「ケウトゥムハイタってさ、お父さんが使ってた頃は一度も中に入れてくれなかったんだよね」

「そうだよ。逮捕されてからここ使うようになって、篝火乙女を見つけたって感じ」

「つーかアヤ先輩のお父さんってさ、仕事なんだっけ」

「IT系のベンチャーで働いてたよ」

「なんか思い当たる節とか無い? 篝火乙女事件に関係する何か」

「あったら今ごろ喋ってるよ」

「ん~」

 何か手がかりはないかと唸ってたら、ユリが突然「そうだ!」と大声を出した。頭にピコン! って電球が灯ったみたいな顔してる。またくだらないこと思いついたな。

「篝火乙女ってアヤパパが作った物なんだからさ、アヤパパに関係する言葉がキーになってたりするんじゃないかな」

「一応お父さんに関係する言葉は一通りぶつけてみたけど、何の反応も無かったよ」

「そっかぁ……」

「おいお前ら。今はそんな話してる場合じゃないだろ」

「んな事言われてもね」

 ユリは投げやりに言うと、パソコンモニタの隅っこに表示されている篝火乙女に向かって声をかけた。

「篝火乙女さん。私……ユリは明日殺されちゃうの?」

「ユリ。花の名前」

「あぁそうだね。花だね。良かったね。凄いね」

「本当に使えねぇなコイツ。肝心な事を言え! クソ野郎! ブス!」

「いや私のどこがどうブスなのよ」

「ややこしいな」

 ヤマトは頭をぼりぼりかくと、脱力したように体を背もたれに預けて嘆いた。

「クソっ。マジで見つからん。無くしたリモコンの電池カバー見つける方がまだ楽だぜ」

 ヤマトの諦めの混じったような言葉で、みんな気まずい表情になってしまった。

「……窓開けるね」

 なんとか空気を変えるため、そして怒りも汗もおさまらないヤマトのために、もう一つ窓を開けた。どこからか楽しそうに騒ぐ子供達の声が聞こえてくる。

 ケウトゥムハイタは札幌市の中央区にあり、目の前に豊平川がある。つい最近までケウトゥムハイタの庭で豊平川の花火大会を楽しく見ていたというのに。なんでこんな事になってしまったんだろうか。

 窓から室内に視線を戻す。アヤ先輩は無駄にLEDでキラキラ光るキーボードやらマウスが置かれてるパソコンデスクに両手をついて、ケツを突き出すようなポーズでモニタをじぃーっと睨んでいる。

 ていうか今探してる動画に大きな手がかりが潜んでる保証なんて無いんだけど、今のところあの動画を観る以外にさして推理する材料はない。だから二人とも必死になって探してるんだろうけど……。

「NASには無い?」

「ねぇな。そもそもNASに動画は保存してない」

「もうさ、片っ端から動画観て確認するしかなくない?」

「マジでそうするしかないかも……」

 この有様である。

 やるせなさを感じながら無造作に物が散らばった室内を見回す。ダイヤトーンのスピーカーやサンスイのアンプ、4Kモニタとその両サイドに置かれたB&Wのトールボーイ。キラキラ光って自己主張の激しい自作PC。いたる所に散らばるPC周辺機器。三枚のモニタやらヘッドホンアンプやらタンノイのスピーカーが鎮座するパソコンデスク。ほとんどヤマトが揃えた物で、なんだか室内は怪しい司令室のようになってるし、どことなく暑苦しい。

 テーブルやカラーボックスには無数の小説やら漫画やらブルーレイやらが散乱していて、大きな本棚の一番上の列にはアヤ先輩が愛してやまない真木柱莉乃(まきばしらりの)というカルト小説家の本がずらりと並んでいる。

 キッチンカウンターにはそれぞれ専用のマグカップ、皆で何度も読み回したエドワード・ブルワー=リットンの『来るべき種族』、レイ・カーツワイルの『ポスト・ヒューマン誕生』などの本が置いてある。

 他にも私が集めているポケモンの食玩フィギュアやら誰が買ったのか分からない水鉄砲やらアヤ先輩の化粧品やらが置いてあり、もはやキッチンカウンターとしての機能を失っている。ちなみにキッチンカウンターだけではなく、ケウトゥムハイタのいたる所に私が集めた食玩フィギュアが飾られている。そのうち博物館を開きたい。

「……ん?」

「どうしたの?」

「え。いや……なんか今ちょっと」

 私はキッチンの窓に駆け寄って外を見回した。なんかいま人影が見えたような気がしたんだけど。

「アスカ?」

「いま誰か居たような気がして……。あ!」

 ケウトゥムハイタ横の道路を、やったら短いスカートを履いた黒髪の女の人が歩いていった。ちらっとしか顔は見えなかったけど、超絶美人だった。

「なんだよ」

 私の後ろから顔を突き出していたユリが、通り過ぎてゆく女の後ろ姿を見ながらどうでも良さそうに呟いた。

「ウチって塀が無くて思いっきり道路に面してるからさ、そりゃ人影くらい見えるでしょ。にしてもなんだあの女。めっちゃスタイル良いじゃん」

「うーん……」

 私は首をひねった。窓に駆け寄る前に見た人は黒髪じゃなくて金髪だった気がするんだけど。それにその人は道を歩いてた訳じゃなくて、しゃがんでこっちをガン見してた気がするんだよね。

「あっ」

 私のスマホがメロディを奏で始めた。慌てて確認すると……。

 ラインの通知。

 相手は玲音。

 メッセージの内容は「ごめん。忙しくてライン見てなかった」という何の変哲もない文章。

 そして。

「お目当てのファイルは、Cドライブのアイカプクルフォルダに入っています」

「……は?」

 篝火乙女の唐突でダイレクトな声。

 呆気にとられて全員でパソコンモニタに目を向けた。アヤ先輩は口をあんぐり開け、ユリは食べようとしていたビスケットを持ったまま静止し、ヤマトは目を点にしている。

 しばらくフリーズした後、弾かれたようにパソコンデスクに駆け寄った。

「ヤマト! 早く探して!」

「お、おう……」

 アイカプクルは第一の被害者、稲穂南海香がリーダーをつとめていた同人サークルで、以前はヤマトとアヤ先輩も所属していた。そして二人は「アイカプクル」という名前のフォルダに色々なデータを詰め込んでたんだけど……。

「うわ。マジであった」

 ヤマトがアイカプクル専用フォルダを開くと、確かにそこにお目当ての動画があった。

「何かのファイルと一緒に、このフォルダに突っ込んじまったんだと思う……けど。そんな事より」

 ヤマトは両手でガシっとモニタを掴んだ。

「おい! 今のは未来予測でも何でもねぇぞ! どういう事だ!?」

「何を言っているのか、分かりません」

「クソっ!」

 私たちは顔を見合わせた。

 篝火乙女は、本当に人工無脳なのか?

 そして……。

 玲音。いま彼女からメッセージが届いたのは……。

 偶然なのだろうか?


「ここで観よう」

 ヤマトがそう言うなり、みんなでテーブルを片付け始めた。テーブルにはシンギュラリティやら量子コンピュータ云々の本とか、灰皿とか空き缶とかゲームソフトの特典として付いてきたポストカードなどが散乱している。

 みんなでそれらを床にまとめ、ヤマトが動画データを移したノートパソコンをテーブルに置いた。

 篝火乙女による突然のメッセージは凄く気になるけど、今はわちゃわちゃ騒いでる場合じゃない。とにかく動画を観てユリの死を回避する方法を考えるのが先決だ。

 と言っても今から観ようとしている動画は、ただ単に以前私たちが篝火乙女事件について議論した時の様子を記録しただけの代物だ。でも過去の脳みそが現在の脳みそを上回る事は普通にありえるし、特に過去の動画にヒントが無かったとしても、頭パニック状態の私たちが頭を整理するためには打って付けの動画と言える。

「つーかさ、これ私のパソコンなんだけど。なに勝手に使ってんの」

「いいだろ別に」

 ユリの声が頭上から降ってくる。私は床に座っていて、ユリは私の後ろでぐいっと腰を曲げてパソコンを覗き込んでるから、顔を上げると真上に中学生の割りにはやたらと大きな胸が良く見える。

「……なに見上げてんの」

「いや」

「状況をわきまえてよね。私が死んだら、アスカはもうこのおっぱい拝めないし揉めないんだから」

「ユリのおっぱいを揉めない人生に、何の価値を見い出せば良いんだろう」

「じゃあ生きる価値を見出すためにも、頑張らなきゃね」

「……うん!」

「おっぱいおっぱいうるせぇんだよ。再生するぞ」

 ヤマトがエクスプローラーに表示されている動画をクリックした。ユリが配信用に使っているノートパソコンのモニタが一瞬真っ暗になり、パッとケウトゥムハイタのリビングとソファに座っている私たちの様子が映し出された。

 この動画を観て何かヒントになるものが見つかれば良いんだけど。

 私はラムネをぐびぐび飲んで、イライラと焦りのせいで乾いた口を潤し、セブンスターの煙を吸い込んで神経を集中させた。

 過去の私たちは、今の私たちに何かを教えてくれるだろうか?


日付:七月十七日

・第一の事件 七月四日。月谷高校の田村愛(二年生)が、アイカプクル(ネット上で活動している同人サークル)所属で旭岡高校の二年生、稲穂南海香を殺害。

・第二の事件 七月十一日。旭岡東中学校の安城香澄(一年)が、琴別高校の佐々木亜紀乃(三年)を殺害。

・第三の事件 七月十六日。明清東高校の水島真実(二年生)が、月谷高校の佐野島由紀(二年)を殺害。


アヤ:篝火乙女事件について、現在分かっている内容などを皆で話し合った時の映像をこれから流します。

アヤ:こうして映像にしてみると、色々と気がつく事が多々あります。……あるよね?

アヤ:えーと例えば……ヤマト君が私の足をチラチラ見ている事とか、ね。

ヤマト:すまん。つい。

アスカ:変態。

ユリ:キモい。

アスカ:エッチ! 思春期!

ユリ:足フェチ!

アヤ:欲求不満。

アスカ:顔を見ろ顔を!

ユリ:死ね! 変態! くたばれ! 変態!

ヤマト:四面楚歌。

アヤ:映像、始まります。

 

「今年の七月四日を皮切りに、札幌では日本……いや世界中を揺るがす事件が連続しています。その事件の名は篝火乙女事件」

「簡潔に言うと、少女が少女を惨殺するっていう前代未聞の事件だね。被害者も加害者も必ず中学生か女子高生。異質の一言では片付けられない狂気的かつ不可解な事件です」

「率直な感想を言うなら、ありえない。非現実的って所だな。そもそも未成年のガキが同じ年頃のガキを殺すなんて事件、そうめったに起きるもんじゃない。それがひと月のうちに三件も起きてる。しかも殺害現場はすべて中央区周辺。普通じゃないな」

「おっそろしいよね。同じ場所でこんな事件が連続するなんてありえない」

アヤ:ちなみに被害者と加害者の中学、高校は全て中央区にあります。更に全員が中央区在住でした。

「もっと普通じゃない点もあるよね。。加害者が少女をぶっ殺すだけじゃなくて、必ず殺してる最中の様子を動画に撮って、ユーチューブにUPするってのも非現実的だし謎すぎるもん。意味不明」

「残虐な殺し方も引っかかるポイントだな」

アヤ:一件目の事件で、稲穂南海香は女の子に追いかけられて捕まって、ナイフで頭も体もめった切りにされました。現場は中央区の盤渓山でした。

「あと、殺してる時って絶対に篝火乙女は誰だーとか叫んでるよね。加害者の人は」

「あぁ。そして何より、今のところ稲穂以外の被害者と加害者が全員アムリタ・ハントの信者だってのも恐ろしい点の一つだ。ていうかこれが俺たちにとって悪い意味で一番重要な問題だな」

アヤ:アムリタ・ハントは私の父親、綾瀬源治が教祖をつとめていた分かりやすくカルトな宗教組織です。ツボは売ってませんでしたが。

アヤ:つまり、私はアムリタ・ハント教祖の娘って訳です。まぁアムリタは解散しているので「元」が付きますけど。

「うん。私たちは誰もアムリタの信者ではないけど、私は何を隠そう教祖の娘。この事件の被害者になってもおかしくはないし、皆が巻き込まれる可能性もゼロじゃない。アムリタが篝火乙女事件に何かしら関係してるのは決定的な訳だから、大なり小なりアムリタと接点のある人間はみんなターゲットになりえるよ」

アヤ:結局のところ、ここが一番重要な点なのです。私がアムリタの教祖の娘という事実がある限り、私と私に関わる人間が危害に合う可能性は確かにあるのです。実際問題として、稲穂南海香は元信者では無かったけど私の知り合いでしたし。

「もちろん加害者になる可能性だってあると思う。もしアムリタの信者が洗脳されて加害者になってるなら、私もあぁいう殺人マシーンになっちゃうのかもしれないね」

アヤ:ここでヤマト君がとても心配そうな顔で私を見つめる表情、要チェック!

「なぁアヤ。改めて教えてくれ。アムリタ・ハントは具体的にどんな活動をしてたんだ?」

「若い女の子ばっかり集めて信者にしてた。中学生と高校生限定でね。で、座談会で生物工学とか遺伝子工学とか、不老不死の実現性について色々説いてたみたい。あとピコテクノロジーがどうだとか」

「……良く分からんな。生物工学も遺伝子工学もピコテクノロジーも、クソ真面目なお勉強の話だ。不老不死は怪しいキーワードだけど、不老不死の可能性について真面目に研究してる研究者は普通に存在する。実現出来るかどうかはともかく、不老不死ってのは一つの研究テーマとしては何らおかしくもない。それに不老不死が実現できなかったとしても、不老不死の研究が何かに生かされる可能性だってあるしな。宗教というより、ちょっとマニアックな学問集団に聞こえるぞ」

「うん。あと人工知能とかナノボットとか量子コンピュータとか、とにかくそういうのひっくるめてシンギュラリティのお話をいっつもしてたみたいだよ」

「シンギュラリティねぇ……。ますます学問集団じゃないか。これで同年代のおっさんおばさんだけ集めて討論してただけなら、ごく普通のサークルもどきと言えなくもないんだが」

「だよね。でも実際は若い女の子ばっかり集めてたんでしょ」

「うん。気持ち悪いよね」

「座談会以外ではどんな活動をしてたんだ? 右手をビシッと伸ばして行進したりしてたのか? それとも白色の三角頭巾でもかぶってたのか?」

「してないと思うけど」

「パワーストーンとか売ってたんじゃない?」

「うーん……。座談会以外で何してたのかは全然知らないんだよね。……あ、なんか座談会ではこの世界の真実についていつも説いてたみたいだよ」

「しんじつぅ? 何それ?」

「さぁ。知らない」

「世界の真実なんて誰でも知ってるじゃん。この世界はマジでクソまみれ。はい終わり」

「アヤ先輩は座談会に出た事ないの?」

「無いよ。座談会に誘われた事なら何回もあるけど全部断ってた。ていうか父親大嫌いだったし疎遠だったもん」

「そうなんだ」

「当たり前でしょ。カルトな組織作って若い女集めてる父親をどう好きになるのよ」

「もう一つ聞く。お前の父親はどうしてアムリタ・ハントを設立したんだ?」

「分かんない。なんか若い頃に立ち上げたらしいけど」

「なんで若い女しか信者にしないんだ?」

「分かんない。変態だからじゃない?」

「なんでシンギュラリティについて説いてたんだ?」

「分かんない」

「なんでお前は何も分からないんだ?」

「そんなこと言われても」

「肝心なことは分からない。お前それ篝火乙女と同じじゃないか」

「はぁ? なに? 喧嘩売ってんのアンタ。えっちょっと待って。今の発言心の底からムカついたんだけど」

「すまん。失言だった」

「いやそんな一言で片付けられないから。なに? 私はあの出来損ないの人工無能と同レベルだって言いたいの? はぁ? 何それ? ねぇどういうこと? どういうことなの? そういうことなの? ねぇ。なんか言ってよ。ねぇ。ねぇってば」

「話進めても良い?」

「……どうぞ」

「えーとさ。やっぱりアヤ先輩のお父さんって良く分かんない組織を隠れ蓑にして女の子をいっぱい集めて、JKリフレの運営を始めたおっさんにしか聞こえないんだよね。札幌にもそういう怪しいお店たくさんあるんだよ」

「まぁ変態なのは間違いないだろうけど」

「でさ、私ってネット配信したりツイッターでエッチな写真アップしたりしてるでしょ? こういう事してるとなんか怪しいお店やってる人からちょこちょこ連絡来るんだよね。男の人とお散歩してお金稼ぎませんか? とかさ。アヤパパもそういう類のクズなんじゃない?」

「俺達は、まずお前の人生の在り方について議論するべきなのかもしれない」

「でも実際さぁ、私もアヤパパってただの変態だったと思うんだよね。だって世の中に変態なんか腐るほどいるじゃん? 私この前なんかさ、道歩いてたらお爺ちゃんに話しかけられて、一万円やるからパンツ撮らせてくれって言われたさ」

「撮らせたの?」

「いや撮らせてない。一万円とか安すぎだし。かわりに足は撮らせたけど」

「……足?」

「スカートちょっとめくって太ももの写真撮らせてあげた。五千円で」

「お前それ絶対に素人系の雑誌に売られてるよ」

「五千円で何買ったの?」

「新しいパンツを何着か」

「アンタねぇ……」

「で、アヤ先輩。実際はどうだったの? アヤパパはリフレってたの?」

「やってなかったと思うよ。だってアムリタが解散したあと色々と徹底的に調べられたけど、そんな話出てこなかったし」

「でも買春は事実だよね」

「うん。そもそもお父さんが信者を買春して、相手に密告されたからアムリタは破滅した訳だしね。いやーほんと買春相手には感謝しかないよ。あのクソ親父を刑務所にぶちこんでくれてさ、涙が出るほど嬉しい」

「やっぱりただの変態だね」

「綾瀬源治が変態だったのは間違いない。でもリフレ云々はともかく、綾瀬源治はただの変態でしたと片付けるのはちょっと違うと思うね」

「それは同感だけどさぁ。だからってアムリタには私たちの知らない真実が隠されてるかも……って考えるのはなーんか飛躍しすぎじゃない? アムリタはただの変態が運営してたヤバイ宗教組織ですって考える方が自然だもん」

「あくまでも現実的な推測を肯定し続けて、非現実的すぎる推測は一切しないってか?」

「そこまでは言ってないけどさ。あれ相当ヤバイ変態だったみたいだし、ただの変態組織って考えるのが今は一番無難でしょ。他の推測を推したくなるような根拠なんか無いし」

「まぁ確かに、アムリタただの変態組織でした論が現状一番強いのは確かだけどな。……それにしても、お前父親に関してはやたら他人事だよな」

「いや実際親だって他人だし。親の不始末のせいで子供が暗い顔する必要ある? 無いよね?」

「……そういえばさ、アヤパパの買春相手って外国人だったんだよね」

「うん。アムリタの名簿にバッチリ名前と写真載ってた。エルノア・エンゲルリック。金髪ツインテールのすっごい可愛い子だった」

「ふーん。その名簿ってもう無いんだよね」

「無いね。あのクソ親父、捕まる直前に全部燃やしちゃったみたいだから」

「残念」

「なぁ。買春したのはそのエルなんたらって奴だけなのか?」

「分かんないけど、もしかしたら他の女の子ともヤリまくってたのかも」

「きもちわるー」

「だね。反吐が出る」

「病気だよね」

「いやもうぜってー病気だろ」

「肛門を縫って閉じてお腹の中破裂させてやりたいね」

アヤ:この後はひたすら雑談が続くだけです。これっぽっちも身のある話は出来ていませんが、事件の内容を軽く整理するぐらいには使えるかもしれません。多分。


「そうだ! 金髪ツインテール!」

「は?」

 私が鼻息荒く叫ぶと、ユリが訝しげな顔で睨んできた。

「そうだよ金髪! 金髪だよ金髪!」

「いや何が言いたいのか全然分かんねぇし」

「おい。まさかとは思うが、さっき見た人影ってのも……」

「うん! 金髪のツインテールだった!」

「えっ。なに、じゃあさっきすぐそこにエルなんたらリックっていう奴がいたの?」

「さすがに断言は出来ないけど。でもね聞いて。実は私、つい最近も金髪の女の子を見たことがあるの」

「説明しろ」

「うん。えっとね、篝火乙女事件が始まる数日前……六月の終わり頃かな。近所で金髪の若い女の子を見かけたの。でね、その時見た金髪もツインテールだったと思うんだ」

「なるほど。二回も金髪ツインテールの女の子を見かけるなんて怪しいよね。しかもさっきはウチの目の前でこっちを見てたんでしょ」

「ケウトゥムハイタを監視してたかどうかは分かんないけどね。もしかしたら、しゃがんで靴紐結んでただけかもしれないし」

「監視してたかどうかはともかく、その金髪が怪しいのは確かだな。札幌もここ数年で外国人はめちゃくちゃ増えたけど、金髪ツインテールの女なんか滅多に見ない。偶然と片付けるのはちょっとな」

「……うーん?」

 ソファに座ってどっしりと足を組んでいるアヤ先輩が、腕を組み首をかしげながら考え込みはじめた。

「どうした?」

「話しかけないで」

 アヤ先輩はついに目を瞑って、本格的に物思いに耽り始めた。腕を組み、偉そうに足を組み、目を瞑っているアヤ先輩はなんだか芸術品のように見えた。

 この人は今年の春、友達に半ば強引に誘われてチア部に入り、ちょっと前まで夏の甲子園南北海道大会予選の応援をしていた。旭岡高校は準々決勝で香蓮高校にサヨナラ負けしちゃったけど、BRAHMANのSEEOFFのリズムに合わせて踊るアヤ先輩は誰よりも美しく輝いていた。九回裏ツーアウト満塁の場面でボールを後ろに逸し決勝点を献上してしまったキャッチャーは、アヤ先輩に気を取られてしまったのかもしれない。

 私とユリとヤマトは野球部じゃなくてアヤ先輩の勇姿を観るために円山球場に試合を観に行って、試合後は円山付近にあるカフェでケーキを食べた。ケーキの味も試合内容もあまり覚えてないけど、楽しかったという事だけはハッキリ覚えてる。

 平和だった。アヤ先輩は綺麗だった。あの日はすっごく暑かった。楽しかった。ほんのちょっと前まで私たちの夏はそれなりに輝いてた。

 でも、今じゃこの有様だ。もうアヤ先輩がチアリーダーとしてぴょんぴょん飛び跳ねていた光景が幻にしか思えなくなっている。夏はまだ終わってないっていうのにね。

「あっ」

 アヤ先輩が目を見開き、口をぽかんと開けたマヌケ面をしながら右手の親指をぱちぃんと鳴らした。

「思い出した。私も金髪の女の子見たことある」

「なんだと」

「去年の秋かな。つどーむで同人イベントに出たでしょ」

 ヤマトは無言で頷いた。去年の秋ならまだ二人ともアイカプクルに居た頃だ。

「それでさ、あの時会場の隅っこでコスプレ撮影会やってたの覚えてる?」

「え? あれって自己顕示欲の強い露出狂女と、それに群がるクソ気持ち悪いオタク野郎たちが織りなす演劇か何かじゃなかったの?」

「なんでヤマト君はそういう極論でしかものを見られないのかな。……まぁとにかくコスプレイベントやってたんだけど、そこでやったらきーきー甲高い声で騒いでる金髪の女の子が居たんだよね。なんかすんごいゴスロリな格好でポーズ決めまくってて……パッと見中学生くらいの子だったと思う。凄く可愛かった」

「ツインテールだった?」

「いや。私が見たのはロングヘアーだった。でもあの長さならツインテールは余裕だと思う」

「話したのか?」

「いや話してないけど、バチバチ目合った記憶はある」

「うーん……」

 ヤマトは眉間に皺を寄せて唸ったかと思うと、とつぜん顔を歪めた。

「ヤマト?」

「どうしたの」

「なんか頭痛が……」

「頭痛?」

「ちょっと待て。金髪と言えば……俺も記憶にあるぞ」

「え。何いきなり。ていうか大丈夫?」

 ヤマトは右手で頭をおさえながら小さく頷いた。

「大丈夫。えーと……レストラン……そうだイポカシ・ウエカルパだ。去年の夏……あそこで……金髪の女を見た覚えがある。俺が見た金髪も中学生くらいに見えたが」

 ヤマトが消え入りそうな声で言うと、ユリが「あ!」と大きな声で叫んだ。

「私も思い出した。金髪の女なら私も心当たりあるよ。小五の時かな? 狸小路を歩いてる時にね、なんか一人でコソコソ後をつけてくる金髪ツインテールの女の子が居たんだよね。その子も中学生くらいだったと思う。服装はめっちゃゴスロリでやったら挙動不審でさ、私が振り返って目が合ったら慌てて逃げてった記憶がある」

 ずっと手で頭をおさえていたヤマトが、疲れ切ったように大きなため息をついた。

「同一人物かどうかは断定できねぇな。アヤが見た女はロングヘアー。で、ユリが金髪を見たのは小五の時だがその時点で中学生くらいの奴だったんだろ」

「うん」

「……アムリタ信者のエルなんたらは外国人なんだよな。お前らが見た金髪は外国人だったか?」

 全員で「うーん」と唸った。私が見た金髪は……どうだろ。外国人に見えたような、見えなかったような……。

 ヤマトはぼりぼりと頭をかいた。

「俺たちが見た金髪は同一人物なのか、そうじゃないのか。アムリタ信者のエルなんたらなのか、違うのか。結局何も分からんぞ」

「それはそうだけど、でもついさっきまで確かにそこに金髪が居たんだよ。もしかしたらあいつがユリを殺すのかも」

「もちろんその可能性が一番ありえる。でもそれだけじゃどう対策を……」

「おい」

「……あん?」

「おい、お前ら」

 沈黙が流れた。

 全員で顔を見回す。

 ……今の声、誰?

「いつまで、無駄な議論を続けるのでしょうか」

 アヤ先輩、ユリ、ヤマトの顔からすぅーっと血の気が引いていくのが分かった。多分、私もそうだったと思う。

 私は恐る恐る、パソコンデスクに置いてあるモニタに視線を向けた。

 モニタの中の篝火乙女、アヤ先輩にそっくりの女の子は腕を組み、頬をぷくっと膨らませていた。

「篝火乙女事件の加害者と被害者は、稲穂以外みんなアムリタの元信者なのですよ。だったらアムリタ元信者の中から犯人っぽい奴に目星を付けるとか、犯人かもしれない奴の動向を調べて対策を練るのがベストなんじゃないですか?」

 篝火乙女の無機質な声が響き渡る。一瞬で体が火照り、心臓の鼓動が加速していく。

「ドキュメントフォルダにパスワードが設定されているフォルダが入っているでしょう。そのフォルダを開きなさい。パスワードはカムイヌレ、です。このフォルダにアムリタの名簿が入ってます。これを見て頑張りなさい」

 ズキリ。頭が痛む。度々感じるこの感覚。

 ズキリ。ズキリ。頭痛が増していく。

 おかしい。

 何が起きてる?

 私はすがるように、アヤ先輩の顔を見た。

 アヤ先輩は……。

「……」

 かつてないほどにマヌケな顔で、口をあんぐり開けていた。


EP4 名前ちゃんと覚えてね

・エルノア・エンゲルリック


「ぶえっくしょい!」

 夏とは言え時刻は夜。さすがに薄着でずーっと外に居ると体が冷えてくる。

「ぶ……ぶえっくしょい! だはーずびずば~。うえーい鼻水出てきた~」

 私はケウトゥムハイタの庭で様子を窺ってるんだけど、今のところアスカたちが出てくる様子はない。うんそれで良いんだよ。下手に逃げたところで予定変更されるだけだろうし。

「さっき篝火乙女からヒントを伝えておいたわ。どこまで手助けするか調節が難しいのよねぇ。事件を未然に防いだらあいつは次の一手を打つだろうし、そもそも篝火乙女事件だけで片がつく可能性もある訳だから、事件は起きてくれないと困るし……」

 それにしてもお腹すいたな。セコマでメロンパンでも買ってくれば良かった。

「エル? 話聞いてる?」

「あーうん聞いてるよ」

 電話相手は相変わらず冷たい声音だ。まぁクソクソ長い付き合いのおかげでもう慣れたけど。

 相聞歌凛音。世界の命運を手にしている、私の大切な友達。凛音とこうして普通に電話できてる事が、エルるんはとっても嬉しい。

「アスカたち、ちゃんと家にいる?」

「いるよ~」

「見つかってない? アンタ金髪で目立つんだからさ」

「だはは~。大丈夫だよ~。私の隠れ身の術は天下一品ですから」

 私はドキドキしながらもごまかした。実はさっき思い切りアスカに見られた。調子に乗って窓から部屋の中を覗こうとしたのがまずかった。てへっ。

「本当かしらね。アンタさ、調子こいて部屋の中まで見たりしてないでしょうね?」

 ほぎょー! ば、バレてる……?

「いやーしてないでござるよ~」

「ケウトゥムハイタには監視カメラ何台も置いてるから、部屋の中までは見なくて良いからね」

「サーイエッサー!」

 ばしぃん! 頭に衝撃。

「バカ。声でけぇよ」

「いたーい! 本気で叩かないでよ」

 私は小声で抗議した。さっきからダルそうにしゃがんでタバコを吸っているこの女は、手加減ってもんを知らない。

「バレたらどうすんだ。あいつらの中じゃ今んとこお前が犯人第一候補なんだぞ。捕まったらどうなるか分かってんの?」

「むぅ。言われなくても分かってるってば~分かってるんる~ん」

「喋っても良いかしら」

「あーはいはい。どうぞ」

「明日の準備は大丈夫?」

「だいじょーぶいっ」

「トラブルは特に起きてない?」

「うん。ていうかりんりんは心配性だねぇほんと。わざわざアスカを護衛に仕立てあげたり、私にケウトゥムハイタを監視させたり……」

「あ? なに言ってんの。アンタらもう四回も失敗してるんだし、今年の夏には全てが終わっちゃうんだからね。なりふり構ってられる訳ないでしょ。その能天気な脳みそほじくって大通公園のハトのエサにしてあげましょうか?」

「どひゃー! ハトがかわいそう」

「……アンタさ、ちゃんと緊張感持ってる?」

「右手にも左手にも見当たらない」

「やる気ある?」

「やる気はあるよ。でもね、私はとっくのとうに緊張なんてしない人間になっちゃったんだ。ねぇ、無能な人間に限って、いつまでもがむしゃらに夢を追いかけちゃったりしてるでしょ。逆に才能がある奴ほど意外とのらりくらりしながら乾いた人生送ってる」

「いきなりなんの話?」

「バカになれない天才はバカではないけど、バカになれない天才が作ったのがこのつまらない世界だと私は思ってる」

「エル? ねぇちょっと、アンタ大丈夫? なに言ってんの?」

「でも、りんりんはバカになれる天才だよね?」

「……まぁ、そう……なのかもしれないけど」

「相変わらずだね。でもバカでも天才でも何でも良いけどさ、単純に良くそこまで頑張れるよねって思うよ。その生き様に敬礼! ビシ!」

 電話相手は黙り込んでしまった。りんりんが何も言い返せず黙っちゃうなんて珍しい。

 べつに難しい話をしてるつもりはないんだけどなぁ。

 ねぇりんりん。私が緊張する必要はないんだよ。

 だって、篝火乙女事件そのものはそこまで重要じゃないんでしょ?

 りんりんが見てるのは、篝火乙女事件の後なんでしょ?

 だったら私がやる事は限られてる。別に緊張なんかする訳ない。

「要するに私はりんりんを信じてるってことだよ。だってりんりんは天才だもん。どうせ全てうまくいく」

「……」

「ちょっと黙んないでよ~。ぶ~ぶ~」

 電話の向こうから、ふっと気の抜けたようなため息が聞こえた。

「テルスに居た頃と変わらないねアンタは。いつも飄々としてさ。そのクセ毎日退屈そうで」

 とか言い出したりんりんの声からは緊張感が抜けて、ちょっとだけ柔らかい喋り方になっていた。

「うん。だって未だに世界は面白くないし輝かない。私は前と同じようになんとなくへらへら笑って生き続けてるだけ。多分人間ってのは、つまらないつまらないお金がお金がーって言いながら生きて、死んでいく生き物なんだろうね」

「はっ」

 隣に座っているタバコ女が、心底不愉快そうに「ぺっ」と唾を吐いた。

「世界も人間も、大したことないよね。ここで人生過ごして改めて思った。やっぱり私はね、永遠に人生にも世界にも価値を見いだせそうにないよ」

「エルも愛を知れば、少しは変わるかもしれないわよ」

「……それはジョーク?」

「穏やかな気持ちで人の頭を優しく撫でてあげられる瞬間が一度でも訪れれば、エルの価値観は変わるかもしれない。私は本気でそう思ってる。この言葉だけは忘れないで。世界がどうなっても。みんなが死んでも、私が死んでも」

「……りん……」

「また連絡する。莉乃には気をつけて……いや、よろしく言っといて。じゃあね」

「え? もしもーし? おーい!」

 あ、切れた。何さもう!

「むかむか~。……ってなんかもう疲れたでござる……ござるんるん……」

「にしてもほんと、あいつも良く頑張るよな。人のこと言えないけど」

「そうだね~」

 私は点々と星が浮かぶ夏の夜空を見上げた。この夜空の向こうにはエイブラハム・リンカーンが居て、この星にはジェファーソン・デイヴィスが居る。夜空の向こうはワシントンで、この星はリッチモンドだ。

 私は強い信念を持ってるし、タバコ女の信念もりんりんの信念も尊敬してる。だけど心の底ではバカみたいだなって思ってる。だって根本的に、生きることにしがみつく人の気持ちが分からないから。

 世界なんて悲惨で最低で最悪な箱庭だ。こんな箱庭の中で長々うごめいてどうするんだ。そこにどんな価値があるって言うんだろう?

「……へくちゅ。あ、女の子っぽいくしゃみ出た~これぞエルるん~だはー!」


EP5 未来の作り方

・明日風真希


 私たちは篝火乙女について一切触れずに作業を開始した。ある意味現実逃避だった。篝火乙女は普通じゃない。理解の範疇を越えている。

 こいつは、明らかに意思を持っている。現代の技術ではありえない存在。

 それは認めざるを得ないけど、認める訳にはいかない。

 だって認めてしまったら、私たちはこの世界の根幹から疑わなきゃいけなくなるから。

「この名簿に書かれてる信者の数は十五人。アヤ、これは全員分だと思うか?」

 アヤ先輩は、さっきからモニタに表示されているPDFをじぃーっと細い目で睨みつけている。アヤ先輩は目が悪いんだけど、コンタクトレンズもメガネも付けない主義なのだ。

「断言は出来ないけど、信者の数は十五人くらいだったはずだよ」

 ちなみに、名簿には金髪もちゃんと載っていた。アホみたいに長いツインテールで凄く可愛い女の子だけど、あまり外国人っぽい顔には見えなかった。なんとなく東欧系っぽい顔立ちに見えなくもないけど、もしかしたらハーフなのかもしれない。

「分かった。とにかくこの十五人のSNSを漁るぞ」

「漁るってどんな風に?」

「消去法だな。例えばいま札幌に居ない奴とか、中央区以外の学校に通ってる奴とかを消してくんだ。篝火乙女事件の法則性が必ず守られる保証は無いけど、犯人と思われる奴の動向を調べて対策を練るなら、法則から外れる奴とか、あるいは遠くにいて物理的にユリを殺すのが不可能な奴を外していくのが無難だろう。大雑把なやり方にはなるけど、このやり方で残った人間を犯人と仮定して動くしかない」

「ん~……」

「なんだ。どうした。何か不満か?」

「いや。さっきから思ってたんだけどさ、アムリタの人間を調べてもし犯人を特定出来たとして、それからどうするの?」

「消臭スプレー百二十本持って襲撃するとか」

「……?」

 時が止まった。ヤマトは十回喋ったら一億回くらい意味分かんないこと言うけど、今のジョークは心底意味が分からなかった。ていうかヤマトも自分で言ったクセにキョトンとした顔してる。どうしたんだろう。頭バグったのかな。

「……訳分かんないこと言わないでよ。あのさヤマト君。私思うんだけど、犯人なんか調べないでどこかに逃げれば良いんじゃないかな。篝火乙女事件は札幌で起きるんでしょ。じゃあ札幌以外の場所に逃げれば良いじゃん」

「今から根室とか稚内に行けってか? それにな、もしどこかに逃げてユリの死を回避出来たとしても、犯人はまた日を改めてユリを殺しに来るんじゃないか?」

「逃げ続けてる間に事件が終わるかも」

「終わらないかもしれない」

「終わるかもしれない」

「仮定の連鎖で人生がうまくいくと思うか? お前は山で遭難したら右かもしれない左かもしれないって当てずっぽうに歩くのか?」

「ヤマト君は、山で熊さんとこんにちはしたら戦うの?」

「俺は戦うんじゃない。待ち伏せして確実に仕留めるんだ。一方的にな」

「……犯人を捕まえようとしてる訳?」

「は? お前今さらなに言ってんだ。当たり前だろ? だからこそ信者の動向を探ろうとしてるんじゃないか」

「でも……」

「犯人を捕まえることが最大の回避方法だ。ユリをどこかに匿ったとしたら、そもそも事件が起きないだろ。事件が起きないってことは、ユリを殺そうとしてる奴は捕まらないってことだ。お前って部屋の掃除を永遠にサボるタイプだったか?」

「私は綺麗好きだよ」

「そうだな。じゃあ厄介事を潰して綺麗になろうぜ」

「それとこれは話が……」

 不毛な会話に終止符をうつべく、私は会話に割って入ることにした。

「ヤマトの言う通りだと思うよ。確かに遠くへ逃げてユリが助かっても、結局その後ずーっとユリを殺そうとした奴がいるこの世界で生きていかなきゃダメだもんね。それに篝火乙女事件が札幌以外では起きないなんて保証はない。逃げるよりも、こっちから先手を打った方が良いと思う」

「嫌われ者の俺に賛成してくれる人間がこの世に居るなんてびっくりだ。母ちゃん、俺産まれてきてよかったよ」

 アヤ先輩はなんか色々諦めたらしく、床にちょこんと座ってタブレットを操作し始めた。どうやらアムリタ信者のSNSを探し始めたらしい。

「やれば良いんでしょ。でも犯人と戦うような事になったらヤマト君が先陣切ってね」

「お前ってさ、結構嫌味な奴だよな」

「うるさい。死ね」

「俺に死んで欲しいと願ってる奴が一人でも居る限り、俺は絶対に死んでやらない。世界中の人が俺に生きて欲しいと願ってるなら喜んで死ぬがな」

 ……この二人って本当に付き合ってんのかな? そういえば二人がデートしてる様子とか全然無いし。

 なんだかなぁと心の中でぼやきつつ、私はソファに座り膝にノートパソコンを置いて、SNSという名の海を泳ぎ始めた。

「座るね」

「ん」

 ユリは私の隣に座って、スマホを操作し始めた。

「ねぇアスカ」

「なぁに」

「私、死んじゃうのかな」

「私が守るよ」

「戦ってくれるの?」

「うん」

「どうして?」

「え? 好きだから」

「なんで私のこと好きなの」

「いや……好きだから好きなんだよ」

「他の子を好きになった事はないの」

「恋愛的な意味で?」

「うん。恋愛的な意味で」

「女の子は大好きだけど、恋愛感情を持ったのはユリだけだよ」

「ありがと。じゃあ私はアスカの気持ちを無下にしないためにも、色んな意味で報いる必要があるね」

「うん?」

「誰かが自分を全力で守るつもりで居てくれるなら、例え人生に興味無くても頑張らなきゃいけない。そうでしょ?」

 そう。そうだよユリ。

 私は貴方を守る。

 貴方は、私のために生きる。

 ……あ。

 あー。

 私って本当に。

 最低だな。

 いや、ユリも最低かもしれない。

 だってさ。

 ユリは私と結ばれてるのに。

 人生に、興味無いんだもんね?


「ある程度は絞れたね」

 ついに二十八日に突入して深夜二時。ソファに右膝を立ててだらしなく座っているアヤ先輩が厳かに呟いた。

 犯人候補の目星をつける作業はそんなに難しくなかった。

 名簿を見れば住所は簡単に分かるし、現在札幌に居るかどうかは個人のSNSを見れば分かる。もちろんSNSアカウントを持っていない(あるいは見つけられなかった)子に関しては調べられなかったけど。

「しかも狙い目の奴が一人見つかったね」

「即断は良くないよ。まず整理しよう」

「ん。そうだね」

「まず十五人の内一人は函館、もう一人は奥尻島に旅行中。この二人はついさっきもツイッターで旅行中の写真を投稿してた。この子たちが犯人の可能性は低いかなって思う。今日中に函館や奥尻から札幌まで殺しに来るのは無茶だもん」

「つーか夏休み早々旅行かよ」

「残り十三人だね。で、この十三人の中で中央区以外の学校に通ってる子が五人いる。この五人を消して残り八人」

「二人は市外だな。一人が北広島、もう一人が小樽。わざわざ小樽から通学なんてご苦労だよな」

「アンタの無駄なコメントなんて誰も求めてない」

「それはちゃんとアスカとユリにアンケート取った上での発言か? ……いや、なんでもない。一つ意見があるんだが、中央区以外の学校に通ってるってだけでその五人を候補から外すのは理由としては弱すぎないか」

「理由の強弱ってそんなに重要? 創作ならノックスの十戒とか色々あるけどさ、現実じゃ関係ないでしょそんなの」

「だよね。つーか今はまともな推理出来るほどの材料無いんだしさ、とりあえず除外で良いでしょ。そうしねぇと話進まないって」

「はーいユリにさんせーい」

 私も心の中で賛成した。そりゃ中央区以外の学校に通ってる人が被害者あるいは加害者になる可能性もあり得るけど、そんなことまで考えてたらキリがない。

「分かった。じゃあ残り八人」

「残った八人の内、二人は大学生だね。今のところ加害者も被害者も全員中高生だから、この二人は省く」

 アヤ先輩がちらっとヤマトの顔を盗み見た。

「ちゃんと黙ってるよ」

「残り六人。ここから頑張って更に絞ろうとしてまぁ無理だったんだけど……」

 アヤ先輩は印刷した名簿のPDFをテーブルに置き、とある人物の箇所をピシッと指さした。

 その人物の名前は笹岡麻里奈。学校は西区にある香蓮高校だけど、住んでる場所は中央区の宮の森だ。

「笹岡麻里奈。こいつは西区の高校に通ってるから本来なら除外する所なんだけど、やっぱり笹岡が一番怪しいんだよね」

「まぁ、そうだよな」

 ヤマトは渋々といった様子で頷いた。けっきょく事件の法則から外れる笹岡が一番怪しい人物だという結論が出たからこそ、さっきヤマトは中央区以外に住んでる五人を候補から除外するのをためらったんだと思う。

「私も笹岡が怪しいと思うな。省いた五人は候補に入れたくなるような材料が無いけど、笹岡は確固たる材料があるもんね」

 私はテーブルに置かれているノートパソコンに視線を向けた。画面には笹岡麻里奈のツイッターが表示されている。名前はシンプルに「まりな」となっているけど、ツイートをほぼ全て読み上げた結果、コイツがアムリタ・ハントの信者だった笹岡麻里奈だと断定した。

 笹岡麻里奈が何故怪しいのか。理由は単純。笹岡麻里奈は二十八日にステラプレイスのシネマフロンティアで「ディラン」という映画を観に行くと書き込んでいたからだ。二十八日はユリもシネマフロンティアで「ディラン」を観る予定だった。

 笹岡以外の十四人に、こんな怪しい材料を持った奴はいない。これで学校が中央区なら完璧に黒だったはずだ。

 にしても首をひねりたくなる。どうも篝火乙女事件は計画的に行われている事件には思えないんだよね。どこか穴があるというか、乱雑というか……。

「とにかく」

 考えにふけっていた私は、ヤマトの声で我に返った。

「奇妙な理由を唯一持ってるのが笹岡だってのは間違いねぇよな。二十八日にディラン。偶然だと片付ける気にはなれん」

「ディランは大衆映画じゃないしね。誰か一人犯人に目星をつけろって言われたら、私は笹岡を挙げるかな」

「つーかぜってーコイツだよコイツ。笹岡をぶっ殺しちまえば良いんだ」

「一応言っておくが、先制攻撃は正当防衛にならんからな。あくまでも笹岡が加害者だと断定できないと俺たちは一切手出し出来ねぇぞ」

「分かってるってば」

「ていうか、まだ笹岡が犯人だと決まった訳じゃないからね」

 と言って、アヤ先輩は両手でスナック菓子の袋をばりっと開けて、ひょいひょいお菓子を口に放り込み、ごくんと勢いよく飲み込んだ。なんだか最前線に出る前にレーションを貪ってる兵士みたいだった。

「だから笹岡だけマークしてれば大丈夫、みたいに油断しちゃダメだよ?」

「ん。まぁ法則から外れてる事実もあるしね」

「とは言っても複数の人間から身を守るなんて無理だし、あくまでも笹岡中心でこれから動いていくのは揺るがないけどね」

 アヤ先輩はそう言うなり、ちらっと横目でパソコンのモニタに視線を向けた。まるで教室の隅っこで一人ニヤニヤ笑いながらカッターを研いでる不審者を見るような目つきだった。

 さっきから露骨に触れないようにしている篝火乙女は沈黙を守っているけど、今もコイツは私たちの話を聞き、理解しているんじゃないだろうか。そう思うと恐怖で吐き気すら覚える。

「まぁアヤの言う通り、やっぱ笹岡に絞って動くしかねぇよな」

 ヤマトはまだどことなく納得してない様子だけど、とりあえず笹岡を犯人第一候補と仮定して動く、という計画はまとまった。後は具体的な方法を……。

「私も、笹岡麻里奈に狙いを絞るという作戦がベストだと判断します」

 お菓子をもぐもぐ食べていたアヤ先輩が、「げほぁっ!」と盛大にむせた。

 ズキリ。

 頭が痛む。

 アヌンコタン。

 ペンラムウェン。

 カムイヌレ。

 イルラカムイ。

 なんだそれ?

 知らない単語が頭に思い浮かんでくる。

 おかしい。

 狂ってる。

 世界が。

 私が?

 分からない。

 でも。

 多分。

 いや確実に。

 おかしいのは、世界の方だ。


EP6 あの時声をかけてくれてありがとう

・綾瀬望海


 七月二十八日、午後十六時過ぎ。私とヤマト君はステラプレイス六階のレストラン街に入っている「ハル・ケラアン」で、笹岡麻里奈を監視していた。ツイッターで「明日は映画の前にハル・ケラアンに行くよー!」っていうアホ丸出しの個人情報を書いてたからここで見張る事にした訳。こういうバカは犯罪をするタイプじゃなくて犯罪に巻き込まれるタイプだと思うけど、私たちの推測が正しければ笹岡麻里奈はこのあと犯罪者になる。

 笹岡麻里奈はカウンター席でサンドイッチを食べていて、今のところ特におかしな様子は無い。とは言え油断なんか出来ないけどね! 犯罪者だってサンドイッチくらい静かに食べるだろうし。

「ねぇ聞いて~。ウチこの前引っ越したじゃん? でさー新しいマンションに無料のネット設備入ってたんだよね~」

 ふいに隣の席に座っている女二人組の会話が耳に入ってきた。うるさいな。

「えーマジ? お得じゃん。速い?」

「どうなんだろー。下りマックス十二メガとか言ってたかもー」

 クソ物件じゃないですか。

「この前スピード測ったらねぇ、大体三メガくらいしか出てなかったけど」

 ひえーっ。最高一ギガの光回線と水と火と電気が無いと生きていけない私には考えられない数字だ。

「そうなのー? でも速いんじゃないのー? だってメガでしょメガー。メガマックだよー」

「んー。わかんなーい」

 何このまとまりの無い徹底的に頭の悪い会話は。黙ってタピオカでも飲んでりゃ良いのに。

「微妙だな」

「うん?」

 さっきまで淡々と無言でカルボナーラを食べていたヤマト君が、ふいにぼそっと口を開いた。

「お前が作ったパスタの方がうまい」

「ありがと」

 私はヤマト君の言葉を通訳する能力を持っている。つまり彼は、光回線の素晴らしさを知っていれば低速の同軸ケーブルを用いたインターネットなんかで満足出来る訳がない。それと同じ理由で、私が作った超おいしいパスタの味を知っていれば、チェーン店のありふれたパスタを絶品とは思えない、みたいなことを言いたいんだと思う。

 私はパスタをひょいっと口に放り込んだ。私の方が美味しいかどうかはともかく、確かに絶賛できるような味ではないかも。普通だ。

 一息ついて、私はきょろきょろ店内を見回した。今日は土曜日という事もあってかステラプレイスはかなり混雑していて、通路を歩く人の波が絶えることはない。みんな笑顔。楽しそう。

 あーもう! 私だってあんな風に笑っていたいよ! なんか良く分かんないけどムカつく!

 ってまぁ愚痴ってる場合じゃないんだけどね。ユリを守るためだもん。しっかりしないと。

「こちら異常無しでーす」

 左耳に差し込んでいるウルトラゾーンのイヤホンからユリの声が響いてきた。アスカとユリは七階のシネマフロンティアで待機中なんだ。一緒にハル・ケラアンで待機する手もあったけど、笹岡とユリたちを近づけさせる訳にはいかないからね。だから笹岡の監視は私とヤマト君の二人が担当して、アスカとユリとはこうして常に通話で連絡を取り合うようにしたの。

「了解。でも警戒を怠らないように」

「うわ。やめてよそんなお固い言い回し」

「シンプルかつ率直なメッセージだと思うけどね」

 言葉を切り、もう一度店内を見回す。もちろん私だって警戒を怠っちゃいけない。

「待ち合わせでもしてんのかな」

 ヤマト君が笹岡麻里奈を遠慮なく見つめながら呟いた。店内はカップルとか家族連れがいっぱい居て騒がしいから、カウンター席で一人サンドイッチをもぐもぐしている笹岡は結構浮いている。

「どうかな。ツイートを見る限りは一人で行くっぽかったけど」

「まぁシネコンで一人で映画を観るなんてのは、別におかしな事じゃないしな。ディランなら一緒に観てくれる友達もなかなかいないだろうし」

「そもそも、映画はわざわざ友達と行く必要性の無い娯楽だけどね。卓球みたいに二人必要な訳じゃないし、どうせ映画観てる時はずっと黙ってるんだから」

「その通り。……にしても細かい情報が全く無いのはやっぱりキツイな。どの時間で観るのか、映画を観てる最中に動くのか、帰りに動くのか。何も分からんと対策方法も練りづらい」

「でもさ、普通に考えたらステラの中じゃ無理だよね……」

 人の波でごった返している通路を眺める。相も変わらず人の波が絶える気配は無い。こんな人混みの中で殺人なんて考えられないけどな。だってここは札幌の中枢と言っても過言じゃない場所だよ?

 ステラプレイスは札幌駅と直結している巨大な複合商業施設で、まぁ駅ビルってやつだね。ステラプレイスには映画館、デパート、無数の飲食店に服屋、他にもありとあらゆる施設が入っていて、食事も買い物も映画も何もかもステラプレイスに行けば全てが完結するんだ。

 ステラプレイスはセンターとイーストに分かれていてセンターは九階建て、イーストは六階まで。そして三十八階建てのJRタワーが併設されていて、JRタワーの地下にあるアピアとパセオという巨大な地下街も毎日賑わっている。更には七階建てのエスタっていうビルも直結していて、ここにもビックカメラとか無印良品とかジーユーとか様々なお店が入っている。

 札幌駅、ステラプレイス、JRタワー、エスタ。そしてアピアやパセオなどを合わせた巨大地下街。その他多数の商業施設。この全てが直結したエリアはJRタワースクエアと称されていて、周辺にも数え切れないほどのお店が軒を並べている。更に地下歩行空間を通れば大通まで行けて、さっぽろ地下街っていうこれまた大きな地下エリアに到達する。

 北海道・東北エリア最大の大都市、札幌。ここはそんな都会のど真ん中。溢れんばかりの自然に囲まれてるせいでたまに熊さんが街の近くに出没する事もあるけど、こんな場所で殺人なんて起きたらそれこそ非常事態だ。

「まぁ、少なくともステラプレイスで殺人なんて聞いた事ねぇな」

「うん。だからやっぱり、あいつが動くとしたら映画観た後じゃないかな」

 ヤマト君は深刻な表情でため息をついた。

「焦れったいな」

「まぁね」

「今すぐとっ捕まえたい気分だが、そうもいかねぇしな」

「ねぇ」

「なんだ」

「ふと思ったんだけど」

「おう、ふと言ってみろよ」

「私がお父さんの娘だってことを打ち明けて色々と話を聞いてもらって……」

「愚策にもほどがある」

「なんでよ」

「常識的な思考は捨てろ。昭和の価値観を押し付けてくる老害を説得できると思うか? ミサイル撃たないでねって言ったら北朝鮮はうん分かった撃たないよって言うのか? それと同じだ。人を殺すようなイカれた人間に対話なんか無意味だよ」

「日本人はすぐ否定から入るけど、ヤマト君がまさにそれだね」

「確かに日本人は否定と嫉妬だけで成り立ってるし素直に他人を称賛できない愚かな劣等民族だが、否定的な俺を否定するお前だって結局は否定から入ってるんだぜ。だってお前はハナから俺の意見を受け入れる気なんか無いじゃないか」

「アンタみたいな男のチンコ舐めてあげてる私って女神級の偉人じゃない?」

「……とは言え、何の対策も考えずここでぼんやりカルボナーラをくるくる巻いてる訳にもいかないな」

「でしょ。だからいま対策を一つ提案したんじゃん」

「もう少しマシな対策を考えろ」

「泣いてやる」

「もし笹岡がユリを襲うとしたら、あいつのカバンの中に武器が入ってるかもしれないだろ」

「……奪うつもり?」

「確認をして、出来れば奪いたい」

「そりゃあ……まぁそれが出来ればベストだけどね。もし武器を持ってれば犯人確定だし、それならこっちから先に取り押さえても大義名分もできる」

「あぁ。武器を持ち歩いてる危険人物を取り押さえる。多少手荒な真似しても問題にはならんだろうな」

「うん。ねぇ、アスカとユリは……」

「予定通り映画館でディランを観る。もちろん俺たちはアスカとユリを挟むようにして座って、二人を守りながら笹岡を監視する。もしもユリが映画鑑賞をキャンセルしたら、笹岡は殺害の計画を変えるだけになるかもしれないからな」

「その飛躍は受け入れられない。予定説とか信じてるの?」

「そういう訳じゃない」

「じゃあ何? もしかしてフランスとスイスの国境まで行って、とんでもない科学技術でも見てきたの?」

「世の中全てが理屈で回ると思うなよ。良いか? 最高の結末は笹岡という名の害虫を抹消することなんだぞ」

「分かってるよ。あれこれ手を打ってユリの死を回避しても意味がない。笹岡が生きてる限り、ずっとユリがいつか殺されるかもっていう運命に怯えなきゃいけなくなるから」

「その通り。だから映画をキャンセルするとか予定を変えるような事はしたくねぇんだ。逃げた先に幸せがあるほど世の中甘くねぇからな」

「うーん……」

 釈然としない。いろいろと、数えきれないことが。

 そもそも、確かに笹岡とユリの二十八日の行動が偶然とは思えないほどに一致してるのは事実なんだけど、それがどう殺人に結びつくのか分からないんだよね。ユリを殺す気満々だとして、わざわざユリの行動をなぞる必要なんてない。それに笹岡がどうやって「ユリが二十八日にディランを観に行く」っていう情報をゲットしたのかも分からない。いや、ゲットなんかしてなくて全てがただの偶然なのかもしれないし。

「……あ! ねぇ。もしかして笹岡麻里奈ってさ」

「お前声でけぇんだよ。あいつに聞かれたらどうすんだ。バカ」

 ヤマト君は心底イラついた顔をしながら、横目で笹岡を見た。笹岡は気づいた様子はなく、のん気にコーヒーを飲んでいる。

「何よ。そんな怒んなくても良いじゃん」

「出たよ。女はすぐに言うんだ。怒らないでとか大きな声出さないでよとかさ。怒らせてるのはお前の方だろってな」

「はぁ!? なに!? なになに!? なんなの!? えっなになにどういうことそれ。ちょっと待ってなにその言い草ひどくない? 差別? 女性差別? 差別なの? ねぇ差別なの? ねぇ。ねぇってば答えてよ今のは差別なの?」

「またやっちまった」

「いや確かに私ちょっと声は大きかったけどさ、別に普通に注意してくれればいいじゃん。なんでそんなキレんの? なんなの? ねぇなんなの? 彼女に対してそれは冷たすぎなんじゃない? なんでそこまでひどい事言われなきゃダメな訳?」

「悪かったよ」

 まだ色々と文句は言いたかったけどグッと堪える。今はこの人に怒りをぶつけてる場合じゃない。私はぐいっとヤマト君に顔を近づけて小声で語りかけた。

「……さっきは映画の帰りに殺すかもって言ったけど、やっぱり映画観てる最中にヤるつもりなのかな?」

「まぁあいつが映画を観ることに何か目的があるならそう考えるべきなのかもしれんが、普通はタイマンの状況で殺すだろ。実際問題として篝火乙女事件はどれも夜の住宅地とかで殺られてるんだぜ」

「まぁそうだけど。でもやっぱりさ、笹岡の行動がここまでユリと一致してる理由が分からないんだよね」

「確かに分からない。それは理由そのものが無いからかもしれない」

 ……ダメだ。これ以上話していても不毛すぎる。

 って思った瞬間、すぐ横でふわっと甘い匂いがした。

 そのミルクのような甘い匂いは、なぜだかとっても懐かしかった。

 振り返ると、大きなリュックサックを背負った長いツインテールの金髪女が通り過ぎていくところだった。かなり幼くて愛くるしい顔立ちの女の子だ。中学生くらいかな。

 ……ん?

 金髪。

 ツインテール。

 ……え?

 私は唖然としながら金髪をガン見した。金髪は右手にアイスコーヒーを持ちながら席を探しているみたいだった。キョロキョロと店内を見回し、そして……。

「よっこらせ」

「……」

「……」

「……?」

 金髪はなぜか私たちが陣取ってるテーブル席に座り、完全にフリーズしている私とヤマト君を見て首を傾げている。

 名簿で見た顔を思い出す。

 ちょっと待って。

 こいつはどう見ても……。

 お父さんが買春した、アムリタ元信者の……。

 エルなんたらって奴なんじゃないの?

 ていうか。

 ねぇ。

 なんでここに座るの?

「あの」

「なに?」

「いや、あの。なんでここに座るんですか」

「ほよ?」

 私は瞬時にヤマト君とアイコンタクトを取った。彼の目は「とにかく合わせろ」と訴えかけていた。私は目で「分かった。冷静に、自然に振る舞おう」と合図を送る。

「……ここは俺たちの席なんだが」

「うん。分かってるよ」

 金髪はヤマト君の苦情なんて素知らぬ顔でグラスを両手で持ち、ストローを「ずごごごごおおぉおおっ」と思い切り啜った。

「おい。そこの席に座れよ。空いてるだろ」

「ここも椅子一つ空いてるじゃん」

「椅子は空いてる。でも席は空いてねぇんだよ」

「ほえほえ?」

「てめぇは出来損ないの精子から産まれてきたのか?」

「感動の再会だね」

「あ?」

「なんでもないでござる」

「……お前さ」

「なんじゃらほいほい」

「イポカシ・ウエカルパで見た気がするんだが」

「イポカシで?」

「あぁ」

 イポカシ・ウエカルパ。安藤愛理という若い女が経営しているススキノに居を構える飲食店で、メニューがやたらと安いから中高生に人気がある。

 ケウトゥムハイタで金髪の話が出た時、ヤマト君は昔イポカシで金髪を見たと言っていた。とりあえず牽制してみることにしたらしい。

「金髪だし、そんな長いツインテール見たことないから、なんとなく覚えてたんだ」

「だはは~なるほど。覚えてるのは私だけ?」

「どういうことだ」

「まぁ今はそんな事どうでもいいや。それでさぁちょっと聞いて欲しいことがあるんだけど……」

 金髪がぐいっとヤマト君に顔を近づけた。

「実はね、私あの子を尾行してるの」

 と言って、目線を笹岡麻里奈に向ける。笹岡はこっちに背中を向けた状態でスマホをいじっているだけで、特に怪しい動きは見せていない。

「理由は言えないんだけどね。あの子イポカシの常連で、ちょーっと色々怪しい人なの。だから尾行してるの」

「なんだそのぎこちない日本語は」

「だはっ」

 私とヤマト君は目を合わせた。コイツは間違いなく、私とヤマト君も笹岡を尾行しているのを分かった上で接触してきたんだろうね。でも味方なのか敵なのかは良く分からない。ただ一つ断言できることがあるとすれば、なんかとにかくコイツめっちゃ怪しいなっていうことかな。警戒警戒! 不用意にこっちの情報を漏らさず、慎重に話を進めなきゃいけない。

「なぁ。お前もしかしてユリのこと知ってるのか?」

 不用意すぎるよバカ野郎。

「理由は言えないって言ったじゃん。ていうか今は悠長に話してる場合じゃないんだけど」

 金髪はまた「ずごっ。ずごごごっ」とアイスコーヒーを啜り、小声でまくしたてた。

「早速だけどちょっと協力してほしいことがあるんだよね。良いかな。良いよね? あ、あと二人もちゃんと小さい声で喋ってね。聞かれたら終わりだから」

 ヤマト君が私をじっと見つめながら頷いた。ここはとりあえず乗っておけと言ってるんだろう。そう信じて言葉を吐き出す。

「とりあえず話してみて。私たちにメリットがありそうなら協力しても良い。無さそうならサヨナラだよ」

「笹岡のバッグを盗みたいの」

「さようなら」

「ただいま。あのね、笹岡のバッグにはとあるブツが入ってるんだ。それを盗むの。別にお金目的とかじゃないよ」

「何が入ってるんだよ」

「ナイフ」

「お前……」

 またヤマト君と目を合わせる。ハッキリ言って何が起きてるのかさっぱり分からないんだけど、ここはコイツが味方だと思って行動するのがベストだと瞬時に悟った。

 もちろん笹岡のバッグにナイフが入ってるなんて安易に信じることは出来ないけど、私たちは笹岡がユリを殺すと仮定してわざわざ尾行しているんだから、ダイレクトに笹岡のバッグにナイフが入ってるなんて言われたら、もう乗らない手はない。

「……分かった。協力してやるよ」

「うん。私も」

「ありがとう」

「あれだろ。笹岡のバッグは」

 ヤマト君が顎で笹岡の横に置いてある荷物入れ用のカゴを顎で示した。中にはonちゃんのキーホルダーが付いた白色のバッグが入っている。

「そうあれ。でも盗むだけじゃダメなんだ」

 金髪が大きなリュックサックをテーブルに置いてチャックを開けた。中には長方形の黒色の箱が入っている。

「何これ」

「ぱかっ」

 金髪が無駄な効果音と共にフタを開けた。中身は切れ味鋭そうな大きなナイフ。

「おい。ナイフを持ってるのは笹岡じゃなくてお前じゃないか」

「違う。これはニセモノ」

 金髪は自信満々にそう言って、人差し指を刃の先端に強く押し当てた。でも血が出る様子はない。試しに触ってみたら、ナイフは明らかにプラスチック製だった。なるほど確かにニセモノだ。

「笹岡のバッグの中にもこれと全く同じ箱が入ってて、その中にやっぱりこれと同じ見た目のナイフが入ってるの」

「そ、そんなのどうやって用意したの? ていうかなんでアンタが笹岡のバッグの中身知ってんのよ」

「知ってるから知ってるんだよ」

「はぁ? ふざけてんの?」

「むぅ。ふざけてなんかないよ」

 金髪は心外だとでも言いたげに頬を膨らませた。

「とにかくっ。本物のナイフとニセモノのナイフをすり替えたいの。あんだすたんゆあおーけー?」

「つまり笹岡からナイフを盗みたいけど、それがバレたら新しい物を調達されるだけ。だからニセモノのナイフを持たせたままユリを襲わせるってことか」

「ぴんぽん」

「やっぱお前全部知ってるんだな。ユリのことも。何もかも」

「あ、バレた?」

「当たり前だろ。でも今の俺たちにとっての再優先事項はユリの命だからな。お前の素性については後回しだ。で、どうやってすり替えるんだ?」

「えっとね、まずもう少しで笹岡の知り合いが店の前を通るんだけど」

「お? お、おう」

「で、その知り合いが笹岡を呼びかけるから、二人が店の出入り口あたりで喋ってる隙に私がサッとナイフをすり替える。でもそれだけじゃ不十分だから、丁度良いタイミングで二人の前を通ってこのグラスを床に落としてほしいの。いきなり知り合いが現れて、更に目の前で誰かがグラスを落として割っちゃえば、さすがに後ろでバッグの中身すり替えてもバレないでしょ」

「ずいぶんと用意周到だな。まるで……」

 ドキッとする。

 まるで篝火乙女みたい。

「まるで、なに?」

「いや。篝火……未来を知ってるみたいだなって」

「だはー残念。未来のことは知らないよ」

「……」

「私は別に未来を見た訳じゃない。何が言いたいか分かる?」

 金髪は首をちょこんと傾け、ニコリと笑った。

「失敗する可能性も、十分にあるって事なんだよ。って事ではい望海、これよろしく」

 私は差し出されたグラスを受け取らず、金髪を睨みつけた。

「ちょっと。なんで私の名前……」

「時間無いよ。早く早く!」

 私は心の中で舌打ちをして、歯ぎしりしたい思いに駆られながらもグラスを受け取った。今はとにかくナイフをすり替えるのが先決だ。

「うまくやってね」

「俺がやっても良いんだが」

「ヤマト君はダメ。こういうの苦手でしょ。いざとなったら緊張してタイミング間違えそうだし、根本的に不器用だし、器量悪いし、バカだし」

「……お前さ」

「しっ。来たよ。ほらほら準備して」

 ちらっと店の出入り口に目をやると、店の外の通路にやったら可愛い女が立っていた。パッと見は二十代前半くらいだろうか? ……ってあれ?

 店の外に立っているあの人は、紛れもなく……。

「あ、麻里奈じゃん。やっほー!」

 佐伯可奈子(さえきかなこ)。アイカプクル創設者その人だった。二十代前半なんてとんでもない。可奈子さんはこう見えてなんとビックリ二十八歳だ。

「おーい。まりな~」

 なんで可奈子さんがここに!? という私の驚きをよそに、可奈子さんは朗らかな声で笹岡を呼び続ける。名前を呼ばれた笹岡は顔だけ店外に向けると、「可奈子さん!」と声をあげて立ち上がった。

「マジちょー久しぶりじゃん。いやー奇遇だねぇ」

 可奈子さんの喋り方は半分棒読みだったし笑顔はぎこちなかったけど、笹岡は気にする風もなく店の外に歩み寄っていく。しかし店の出入り口で止まってしまい、店の外には出ようとしない。

 この状況はあまりよろしくない。もっと席から離れてくれないと、金髪は笹岡の席に近づけない。私は思い切ってグラスを持ちながら可奈子さんと笹岡の間を歩いた。その途端。

「あれ? つーかお前一人?」

 可奈子さんがわざとらしいほどに大きな声で聞いた。チャンス! 私は可奈子さんの声に気を取られたように振り返り、グラスを落とした。

 ガシャン!

 グラスが派手に割れ、笹岡が「わっ」と小さな悲鳴をあげた。

「ご……ごめんなさい!」

「うおー! めっちゃ派手に割れたー! アンタ何してんだー!」

 可奈子さんの棒読み絶叫が響き渡る。可奈子さん、演技下手くそすぎます。

「だ、大丈夫ですか?」

「あ、うん……。ほんと、すみません……」

「うわー! 破片がー! 破片がー! うわ~~」

 だから可奈子さん、演技が過剰すぎますって。

 笹岡はバカナコさんのふざけた絶叫なんかお構いなしに、グラスの破片を拾い始めた。そしてカウンターの方からちりとりを持った店員が駆け寄ってきて、可奈子さんがギロリと睨みつけて舌打ちをした。

 正直、私も舌打ちしたかった。すぐに破片を片付けられたら困るんだ。こっちは少しでも時間稼ぎしたいのにさ。

 だからって店員さんの顔面に右ストレートをぶちこんで追い払う訳にもいかず、結局四人で破片をかき集めた。

「お前ら怪我してない?」

「あ、はい。大丈夫です」

「……私も、大丈夫です」

 私は上目遣いで可奈子さんを見つめた。やれやれといった表情で破片を集めている可奈子さんは、にっこり笑顔を返してくれた。

 その笑顔にちょっと安心して口を開こうとしたけど……。

 可奈子さんの笑顔は、怖かった。

 全くもって、目が笑っていない。

 顔にハッキリ書いてある。

『何も聞くな何も喋るなバカ野郎』

 笑顔の奥に隠れた激烈な感情がびびっと伝わり気圧される。ここは従うべきだと脊髄反射で悟り、私は可奈子さんから視線をそらして黙々とグラスを拾い集めた。店員さんに何度も謝りながら。

「本当に大丈夫ですか? 怪我してません?」

「あ、はい。あの……すみません。弁償します」

「あぁいえ。大丈夫ですよ。わざとじゃないですし。気にしないで下さい」

 そう言うと思った。優しい店員さん。

「もう全部集めたかな?」

「えぇ。もう大丈夫だと思います」

 店員さんが笑顔で言い、私は何度もぺこぺこ頭を下げた。

「あの、えっと。ごめんなさい。手伝ってくれてありがとう」

 もう少し時間稼ぎをするために、私は笹岡にも頭を下げた。

「いやいや。全然、大丈夫です」

「だっは~アイスコーヒーうまうま~」

 とつぜん金髪の声が響いて振り返ると、ヤマト君と金髪は椅子に座ってのんびりしていた。二人の様子を見てすり替えは成功したんだと悟り、私はそそくさと席に戻った。可奈子さんと笹岡は、何事も無かったかのように店の出入り口で雑談を続けている。

 私は金髪のツインテールをぐいっと引っ張り、顔を近づけて小声で聞いた。

「成功したの?」

「うん。手離して」

「アンタ、可奈子さんとどういう関係なの」

「シークレット」

「可奈子さんと笹岡はどういう繋がり?」

「笹岡はね、アイカプクルのメンバーだったんだよ」

「はぁ? 嘘つかないでよ。私あんな子知らないよ」

「うんまぁ、知らなくても無理ないね。あの子幽霊部員みたいな感じだったし」

 金髪は嘘を言っているようには見えなかった。

 店の出入り口で楽しそうに喋っている可奈子さんに視線を向ける。

 佐伯可奈子。

 どういう形であれ、この人が篝火乙女事件に関係しているのなら……。

 私はある程度、希望を見いだせる。

 あの人だけは、敵じゃない。そう信じられるから。


EP7 そして今に至る

・百合ヶ原百合


「篝火乙女は誰ですかあああ!?」

 少女が、私の顔面にナイフを振り下ろした。

 ぶすっ! ぐさっ! ドバー! うわー!

 ……違う。

 ゴツン!

 痛い。確かに痛い。でもそれは脳裏で走馬灯という名のエンドロールを流すほどの痛みではない。

 勝った。

 アヤ先輩とヤマトの連絡通り、このナイフは偽物だ。

「ユリ!」

「すまん! 油断してた」

 アヤ先輩とヤマトが闇の中から走り出してきた。よしっ。これで一安心だ。計画はおおむね大成功。

 二人が出会ったという金髪の指定通り、十六時二十分の回のチケットを買い、うまく四人並んで座席に座ることができた。笹岡は映画鑑賞中に襲ってくることはなかったけど、あいつはステラプレイスからずっと私たちを尾行していた。それに気づいて、アヤ先輩とヤマトは私らと別れる振りをして笹岡を尾行した。

 で、夜道を歩いている最中に笹岡がいきなり豹変して襲ってきて今に至るんだ。まぁアヤ先輩とヤマトが油断して助けに来るのが遅れたこと以外は、順調に計画を進められたと言っても過言はないかな。

「このやろ!」

 走り寄ってくるなり、アヤ先輩は笹岡麻里奈の後頭部をぶん殴った。間髪入れずにヤマトが笹岡の腹に蹴りを食らわせる。こんな時だけコンビネーション抜群だ。

 笹岡は声をあげる暇もなく、その場に倒れた。闇。静寂。……死んでねぇよな?

 一応体に耳を近づける。……うん。大丈夫。息はある。気絶してるだけだろう。これでとりあえず一件落着ってことでいいのかな?

「大丈夫だった?」

 アヤ先輩が潤んだ瞳で聞いてくる。私は笑顔を作って頷いた。

「うん。でもやっぱりコイツ、私のことだけ狙ってたね」

「みたいだね」

「私には目もくれてなかったもんね。ユリ一直線って感じ」

「うん。つーかさ、例の金髪ってマジでなんなの? ナイフのことも映画観る時間帯も知ってたんでしょ?」

「さぁ……。色々謎すぎて……」

「訳分からん奴に違いはないが、少なくとも敵ではないと思う。あいつはちゃんとナイフをすり替えた。金髪が用意したナイフは本当に今ここにあるニセモノだった。そのおかげでユリは助かった。もしも金髪の手助けが無かったら、今ごろ俺たちは本物のナイフを持った笹岡と格闘してるところだったぜ」

「そうだよね。怪しさ満点だけど、敵だとは思えない」

「そういう意味ではさ、やっぱり玲音も怪しいんだよね。玲音のことが無くてもユリを一人になんてさせなかっただろうけど……」

「そうだな。こういう状況になった以上、玲音って奴を部外者だと切り捨てるのは無理があるだろう。玲音はしつこく、日時と場所を指定した上でアスカにディランを観に行けと強く勧めた。これは偶然なんかじゃない。玲音はアスカをユリの護衛にしようとしてたんだ」

 絶対そうだろうね。もし篝火乙女の未来予測と金髪のお膳立ても何も無かったら、私はタイマンで笹岡と戦う羽目になってたはず。あんまり想像したくねぇ光景だ。

「篝火乙女。金髪。玲音。可奈子さん。なんか私たち、色んなものに助けられてるよね」

「ほんとにね。……で、今その金髪はどこに居るのさ」

「帰った」

「はー? とっ捕まえなかったの?」

「いや。えーと、捕まえようとはしたんだが」

「逃げられたの?」

「笹岡が映画を観る予定の時間を伝えるなり帰ろうとしてな、慌てて腕を引っ張ったんだが……」

「いきなりうわあああ! って叫び始めてね」

「やべぇ奴じゃん」

「で、ビックリして手を離した隙にどたーって走り出して、佐伯可奈子と一緒に逃げてった」

「アイカプクルの人?」

「うん。創設者」

「ふーん?」

「……なぁ。これはちょっと考えすぎかもしれないが……。どうもあの二人は何かが欠けてる気がしたんだよな」

「何さ」

「いや、なんていうか……。ほら、人間って理性があるだろ? だから人間ってどんなに追い込まれた緊急事態でも理性が邪魔するというか……」

「んだよ。ハッキリ言えよ」

「俺は金髪に叫ばれた時、痴漢に間違われたらイヤだなと思って手を離したんだよ。そして言わずもがな、金髪はそれを見越して叫んだんだろう」

「だから?」

「つまりだな。俺は理性があるから手を離した。でも、金髪にはそれが無かった。お前、店の中で堂々と何の迷いもなく叫べるか?」

「いや、ちょっとキツイかもだけど……」

「ヤマト君の言いたい事は分かる。可奈子さんも金髪も、妙に自信満々だったもんね。これから何が起きるのか理解してる。だからこそ堂々と、恥なんて恐れずに行動出来てたみたいな……」

「あの。ていうかさ」

 アスカがおずおずと小さく手を振った。

「その前にこれ、どうすんの」

 アスカがピッとくたばっている笹岡を指さした。うんそうだ、まずはコイツをどうにかしないとダメだね。

「警察に突き出すでしょ?」

 アスカはアヤ先輩に向かって言った。アヤ先輩はこくんと頷き、さっきから左手に持っていたスマホを突き出した。

「ちゃーんと笹岡が暴走して二人を襲ってる所、撮影してたよ」

「あぁ。これで俺たちの正当防衛は認められるだろう。こんな暗闇じゃ、相手が持ってるナイフがニセモノだったなんて分かる訳ねぇし」

「完璧」

 アスカはにっこりと微笑んだ。にしてもコイツ、あんな格闘を演じた直後なのに息切れ一つしてないのは何故なんだ。足はクソ速いしどれだけ走ってもスピード落ちないし。……私ももう少し運動した方が良いかな。

「じゃ、さっさと警察に電話しますか。あーでもちょっと待ってね。どう説明するか少し考えさせて」

 アヤ先輩はぶつぶつ何か呟き始めた。こういうのはアヤ先輩に任せておいた方が良い。私ら三人は緊張の糸がほどけたように、大きく息を吐いた。

「普通の子にしか見えないけどな」

 アスカが絶賛気絶中の少女の側にしゃがみこみ、その辺に落ちていた木の枝で笹岡の頬をつんつんし始めた。

「ねぇ。ハル・ケラアンでは普通だったんだよね?」

「あぁ。ユリを尾行してる時も様子自体は普通だったぞ。本当についさっき、いきなり覚醒しておかしくなったって感じだったな」

 訳分かんね。マジで。

「よしっ。決めた」

 アヤ先輩は踊るように言うと、ためらうことなく警察に電話をかけた。

 私は疲れ切ってその場に座り込んだ。

 暑い。

 汗だく。

 風がぬるい。

 湿った草の匂いがする。

 ふと、遠くに浴衣を着た女性二人組の姿が見えた。近所でお祭りでもやっていたんだろうか。二人の甲高い笑い声がこっちまで響いてくる。

 不思議なもんだ。

 今この瞬間、どこかで強盗か何かに殺されてる最中の人がいる。

 育毛剤を頭皮に塗り込んでる人がいる。

 いじめっ子たちにリンチされてる人がいる。

 恋人に振られて、自殺を考えてる人がいる。

 SNSにあること無いこと書き立てられて、理不尽に社会的評判を落としてる人がいる。

 道を歩いてただけなのに、レイプされてる人がいる。

 訳分かんねぇ事件に巻き込まれて、中学二年生の貴重な夏休みを台無しにしてる人がいる。

 それなのに。

 地球は。

 世界は。

 日本は。

 平成という時代は。

 あぁ。そういえばディランは全くもって面白くなかった。

「……映画じゃなくて、お祭りにするべきだったかな?」


UJカシワギ:笹岡麻里奈の回収、完了しました。

UJカシワギ:えぇ、辻褄はつけておきますよ。

UJカシワギ:もちろん、今は無理ですけど……。

UJカシワギ:どうせいつか、全ては改ざんされます。

UJカシワギ:最後の日に、気づいてもらいましょう。


・明日風真希


「アスカ」

 隣のベッドで寝ているユリが、やけに色っぽい声で名前を呼んできた。

「なに」

「アスカはいっつも自分は何も出来ないクズだとか言ってるけど、そんな事ないと思う」

「そんな事あるよ。私はバカ親に育てられたバカ犬だもん」

「卑屈だなぁ」

「ていうか、いきなりなんの話さ」

「だから……ほら。アンタはあいつと戦ったじゃん。勇気あるじゃん。だからさ、もう自分を卑下するのやめたら? って言いたいの」

「戦った? ただひたすら逃げて、転んで、追いつかれて、しょうがなく戦っただけだよ。むしろ転んでユリの足引っ張ってた」

「そんなことない。あの時のアスカ、カッコ良かったよ」

「んな訳ないじゃん」

「アスカは強い子」

「違う。強いのはユリ」

「ありえない」

「いや、ユリは強いし何でも出来る凄い人だと思うよ。私、ユリに憧れてるし」

「はぁ?」

「ユリはご飯作れるし、器用だし、なんでも一人で出来る。何より配信でお金稼いでる。アヤ先輩とヤマトのスネかじってる私とは大違い。憧れる」

「いや私のお金の稼ぎ方に憧れちゃダメだよ。あんなのバカな男どもから金貪ってるだけで私が凄い訳じゃないから。ただ誰でも出来る事をやってるだけ。大多数の人間は何も知らないし何もやってないから何もやり遂げられないだけなの。私はあくまでもお金を稼ぐ方法を少しだけ知ってて、漠然と実行してるだけ。能力なんて無いし別に凄くないよ。強いて言うなら、私が凄いんじゃなくて周りの人間がバカで無知で無気力すぎるだけなの」

「いっつもユリが居てくれて、私は助かってるよ」

「えっ。結構長々語ったんだけど、もしかしてなんにも聞いてなかった?」

「聞いてたよ」

「じゃあ何か今の語りに対してコメント返せよ」

「うーん?」

「あ、分かった。お前いま寝ぼけてるだろ」

「ユリ大好き」

「縦横無尽な奴だな」

 私はうつらうつらしながら、てへっと小さく笑った。

「……ねぇ、アスカはあの時さ、神様に祈ったりした?」

「してない。私にとっての神様はシンギュラらる……シンぎゅりリティだから」

「シンギュラリティは時代の概念でしょ」

「しんぎるら……ししんぎり……しんぎりてぃっていう時代そのものが、もう神様なんだよ」

 シンギュラリティ。人工知能が人を超える時代。人工知能が自分より優秀な人工知能を作り出し、その人工知能はまた更に自分より優秀な人工知能を作り出す。爆発的な連鎖によって作り出された超越的な人工知能は人類の想像のつかない領域へ到達し、やがて世界は人間の手から離れていく。

 超越的な人工知能は全ての問題を解決する。衣食住はフリーになり、エネルギーは無限大になり、病気や老いとは無縁になり、やがて人は死という究極の概念すら超越する。

 それこそがユートピア。すべての夢と願いを叶えられる時代。

 私はそんな世界だけを受け入れたいと思っている。なんの悲しみもない世界で生きたい。ゲームみたいな世界で生きたい。幼稚な願いだろうか。そうは思わない。

 世界は常に間違っている。どうあがいても良くならない。諦めてる。神様もいない。そんな私が唯一心の拠り所に出来るのがケウトゥムハイタとシンギュラリティ、そしてユリだった。

 思い出す。

 あの日の記憶。

 二人の女性の叫び声。

 命乞いをする少女の声。姿。

 立ち去る私。

 全てを知っても尚、私の味方であり続けてくれているユリ、ヤマト、アヤ先輩。

 あの女は死んだ。私が殺した。そして娘も結局死んだ。いや殺された。

 そして、あまりにもあっさり惨めに死んだ父親。

 希望と夢。それは砂場に落としてしまったコンタクトレンズ。絶望と悪夢。それは突き返しても必ず返却されてくる手紙みたいなもの。

 すがるものでもないと、生きていけない。宗教にハマる人はそうなのだろう。あぁ神様助けてください。あぁこんなに悲しいことが起きるなんて。でもこれはきっと神様が下した試練なのです。ならば私は頑張れる……。

「衣食住がフリーで、労働の必要も無くて、ただ生きるだけでいい。体が老いる事もない。そんな世界なら、私は受け入れられるかもしれない」

 沈黙。私の儚い願いに対してユリはどんな言葉を返してくれるんだろうかって期待してたけど、どうやらユリは答えを持っていないらしい。

「……ねぇ、ありがとねマジで。アスカは頼りになる。アスカは凄い人。もしアスカが居なかったら、私ヤバかったかも」

 あぁ。虚しい会話だ。

 私とユリは合わないんだろうな。

 なのにどうしてユリは私と一緒に居てくれるんだろう?

「アスカ? 寝ちゃった?」

「起きてる。……ユリだってめっちゃ頼りになるよ。良い蹴りだったし」

「ありがと」

 私たちはいつもこんな風に、お互いを称賛し合っている。アスカは凄い。ユリは凄いって。ツイッター上で群れてるバカ共と大差無い。中身の無い関係だってのが丸わかり。

 私は愚かな母親から逃げ出してケウトゥムハイタにやって来た。あのクソ親は私に何もやらせてくれなかった。甘やかしまくって子供を育てた。何も出来ない子供に育てた。でも私はそれに気がついた。私はなんか他の子と違うぞって。

 ユリは貧乏な家と、どうしようもない運命に嫌気がさして家を飛び出し、ケウトゥムハイタで暮らす道を選んだ。

 私とユリにとって、家というのは地獄以外の何ものでもなかった。自分の未来を奪う焼却炉だった。

 でも多分、それは他人からしたらしょうもない境遇で、くだらない幼稚な家出にしか思えないんだろうね。私たちが家出をした経緯を聞いて同情してくれる人なんて居ないよ絶対。

 だから私たちは称賛しあう。お互いを認め合う。お互いをかわいそうだねって慰め合う。

 まさに、SNS中毒者と同じような関係だ。

 嫌になる。SNSというお花畑でスキップしてる連中は大嫌いだけど、私にSNSにハマってる奴らをバカにする権利はない。私とユリがそれと同じような関係なのだから。

 SNS中毒者はどんな人間だろうか? 自分の意見に賛成するフォロワーは自分の友達。自分の意見に異を唱える人は害虫。自分を励ましてくれる人だけが善人で、励ましてくれない人は心の無い冷たい悪人。自分と思考回路や考え方が違う人は奇人変人。あと自分が悪い事をして、それに対して説教したり怒ったりするような人間は精神病。

 どいつもこいつも、紛うことなきクズ。頭イカれた失敗作。

 そして、私とユリもそういう失敗作と大差ない人間に成り下がってしまっている。

 ユリはきっと、私がディズニーランドに行きたいという理由で銀行強盗をしたとしても、怒らないと思う。

「ねぇ」

「なに」

「一緒に寝ていい?」

 ユリの甘い声が響く。私は何も答えない。無言は肯定。いつだって、どんな時だって。


EP8 百合ヶ原百合、なんてふざけた名前付けると思う?

・綾瀬望海


 アスカとユリの部屋を覗いたら、二人はぐぅぐぅ寝ていた。それだけならごく普通の光景だけど、ユリはアスカのベッドで寝てるし、二人とも服めっちゃはだけてるしそもそも下着を着てないし、完全に事後だった。

 まぁ良いんだけどね。私はそういうのに理解がある女だし。

 にしても。

「散らかってるなぁ……」

 床には小説やらゲームソフトやらアクセサリーやら、他にも色んな小物などが多数散乱していて、ブラジャーまでもが放置されている。なんなのマジで。この部屋でブラックホールでも爆発したの?

 でも、アスカがコレクションしている食玩のフィギュア(たまにヤマト君にねだって買ってもらってる)とか、ユリが配信の時に使う機材とかはちゃんとカラーボックスの上に並べたり収納したりしている。一応本人たち的には、大事なものはちゃんと整理整頓しているつもりらしい。

「おっ」

 床に落ちている小説を拾い上げる。それは真木柱莉乃というカルトな人気を博している作家の本だった。私は真木柱莉乃が大好きで、著書はほとんど揃えている。

「良い趣味してるじゃん」

 クレハの回忌録、というタイトルの小説を開いて冒頭に目を通す。

『人生は面白くない。つまらない。生きる価値なんてない。だって私は夢や目的を全て果たしてしまったから。夢や目的を達成した後に待っていた人生は、私が最も嫌っていた孤独と平坦な毎日だった』

『でも面白い面白くないの価値観なんて、人それぞれで異なる脆いものだ。もしかしたら世の中には割り箸を見つめているだけで人生面白いと思える奴がいるかもしれない。私は割り箸を見ているだけで面白いと思える人間になりたい。そうなれたらどんなに幸せだろうか』

 夢や目的を達成した後に孤独とか平坦な日常が待っていて絶望するなんて、私には良く分からないしピンと来ないけど、人生はそんなものなのかなって思ったりもする。

 ズキリ。頭が痛みだす。なんなのよもう。真木柱莉乃の小説を読むと、たまーに今みたいに頭が痛むことがある。不思議。いや恐怖?

「ん……」

 アスカのとろけた声でハッとなる。起きたかな? って思ったけど、ただ寝返りをうっただけだった。

「……はぁ」

 アスカとユリのアホ面全開の寝顔を見てたら、なんか起こすのも悪いような気がしてきちゃった。

「……ゴミでも出すか」

 ゴミ箱が視界に入った途端、今日はプラスチックの日だってことを思い出した。どことなくふわふわした気持ちのまま部屋を出て、キッチンの隅っこに置いてあるゴミ袋をよっこらせとかついで玄関から出ようとした時、後ろからヤマト君の声が飛んできた。

「俺が持つよ」

「今起きたの?」

「あぁ」

 ヤマト君がゴミ袋をほとんど強引に奪って外に出た。でもこのまま家に戻るのも変な気がして、なんとなく背中を追いかける。外に出た瞬間、早朝特有の草木の瑞々しい匂いが体を包み込み、ちょっとだけ幸せな気持ちになる。

「なんだよ」

「散歩」

「速攻で終わるな」

「まぁね」

「にしてもさ、なんでゴミってこんなに細かく分別しなきゃいけないんだろうな。効率悪すぎるよ」

「海外はもっとシンプルだけどね」

「おまけに朝八時半までにゴミを出せ、なんて決まりもある。全人類が必ず朝八時半までには起きてるなんて前提でルールを作るのはやめてほしいね。サラリーマンや専業主婦以外の存在を認めてないようなもんじゃないか」

「夜勤の人とか、昼頃から仕事を始める人も居るのにね」

「だからこそゴミを何時から出して良いのか、っていうルールは敢えて決めてないんだろうけどな。この国は真面目過ぎなクセに、厄介な問題は宙ぶらりんにする」

 ヤマト君がゴミ袋をゴミ捨て場の中に放り投げ、私たちはくるりと踵をかえした。途端にズキン! と頭に電流が走ったような痛みを感じる。

 まただよ。この頭痛はなにも真木柱莉乃の小説を読んだ時だけ起きるものではない。

 そして、真木柱莉乃の小説を読んだ時以外で頭痛を感じる時と言えば……。

「げっ」

 視界の端に、近所に住んでる爺さんが映り込んだ。頭痛の元凶。私はこの爺さんを見ると、なぜか頭が痛む。

「またあいつか」

 ヤマト君が舌打ちする。あの爺さんは毎朝ゴミ捨て場の近くをウロウロして、誰かが違法なゴミ捨てをしてないか監視して、ひどい時はゴミ袋の中をあさったりするの。年寄りならではの立派で素敵で楽しい趣味。いやぁ魅力的なご趣味をお持ちで心の底から羨ましいよ。きっと毎日が満ち足りた人生なんだろうな。マジ尊敬しちゃう。羨望の眼差し。年を取るって素晴らしいことなんだね。さっさと死ね。

「お前ら」

 爺さんがぼそりと話しかけてくる。私は何を聞かれるのか分かっている。

「毎日セックスしてるんだろう?」

 いつものこと。もう慣れてる。

「毎日ではないですけど」

「最後にセックスをしたのはいつだ?」

「一週間前」

「その日はどんな下着をつけていた?」

「ブラもパンツも黒」

「それをどうやって脱いだ?」

「彼に脱がされました」

「最後はどんな体位で彼をイカせたんだ?」

「騎乗位でガンガン腰を振って、彼を射精させました」

 爺さんは私とヤマト君が捨てたゴミ袋を凝視した。今日はプラスチックのゴミの日だけど、ゴミ袋の中には割り箸とかティッシュペーパーとか、プラスチック以外のゴミがちらちら混じっている。

 そんなゴミ袋を見つめ、次は私を舐めるように見回した。そして。

「良いなぁ」

 と言って、踵をかえして自分の家に戻っていった。許してくれたらしい。

 ズキン! また頭が痛む。

 何かを思い出しそうになる。

 あの爺さんに何かひどい事をされたような。

 大事なものを、奪われたような。

 ……いや、私じゃない。私もだけど、私じゃない。

 誰かがあの爺さんにひどい事をされて、何かを奪われたような。

 私は別の誰かにひどい事をされて、何かを奪われたような。

 その誰かって誰?

 ズキン。頭が痛む。

 金髪ツインテール。

 ペンラムウェン。

 黒いドレスの女。

 頭痛がひどくなっていく。

 ハル・ケラアンで出会った金髪少女。あの子は本当に赤の他人?

「……」

 右手で鼻をおさえる。あの爺さんはいつも腐った生ゴミみたいな匂いを充満させていて、今もその匂いが辺りに残っているような気がする。

 息が詰まりそうになる。

 これだ。

 私はこの腐った匂いを知っている。

 でも、どこで嗅いだ匂いなのかは、全く思い出せなかった。


・真木柱莉乃


LOG:二千十八年五月二十八日

 

「ユリちゃん。準備は良いかしら」

「はい」

「じゃあにゅるっといくわよ」

「その効果音やめてくれませんか」

 私は注射器をユリの白い腕にぶっ刺した。緊張していたユリの顔が恍惚としていく。体の力が抜けて、ベッドに倒れ込む。深い眠りに落ちていく。

 やっぱり、この程度の刺激じゃ特に影響を及ばさないらしい。綾瀬望海は良い線行ってるみたいだけど、この分じゃ期待薄でしょうね。予定通り篝火乙女事件を引き金にするしか道はない。

 歯がゆくてしょうがないけど、これはもうハンパ者の自分を恨むしかない。

 とにかく私の理想はアスカたちにイレギュラーを引き起こし、ユリを何が何でも存命させること。これに尽きる。

 逆に最悪なのは、篝火乙女事件が無事に進んで第二幕が始まってしまう展開だ。第二幕が始まってしまったら、多分アヌンコタンは負ける。それほどアスカはヤバイ奴なのよね。

 だって、あの子ナチュラルに頭痛を発動してるんだもん。冗談じゃないわ。


 イポカシ・ウエカルパの事務室でユリが目を覚ました。私は優しく声をかける。

「飲みすぎたわね」

「あぁ……私……また……」

「そう。さっきビールをいっぱい飲んで倒れちゃったの」

「そっか……。でもなんで私、事務室にいるんですか」

「そりゃ客席で寝かせる訳にもいかないし」

「あぁ……まぁ……そうですよね」

「一人で帰れる?」

「うん。帰れるよ」

「そう」

「うん。早く帰らなきゃ。アスカが待ってるの」

「大事な人ね」

「うん。大事ナ人ナンダヨ。アスカは。ダカラ、ワタシ、カエラナキャ」

「そうね。帰らないとね」

「ワタシ、アスカガダイスキ。あっちの世界にイたころは、ソウデモなかったケド、ワタシ、イマハ、アスカが好き。アスカアスカアスカアスカ……」


「おいっす~。ただいま」

「おかえり。どこ行ってたの?」

「えエット……さっキマで……」

「ユリ?」

「友達のイエで、お酒のンでタ」

「ろれつ、まわってないよ?」


・相聞歌凛音


 九十八年間、眠り続けていた。アヌンコタンだってバカじゃない。私という存在を放っておくなんてありえない。

 でも私は蘇った。UJカシワギが九十八年間ひたすらにアストラルコードを流し込んでくれたおかげだ。こういう時ばかりは機械の存在が心から有り難くなる。人間だったら九十八年間も努力し続けるなんて無理だろう。

 何はともあれ。残り少ない時間の中で確実に結果を出さなければいけない。とりあえず可奈子とエルがうまくやってくれたおかげでユリの死は回避できたけど、篝火乙女事件を理想的な形で一区切り付けるためにはまだ幾つかのプロセスが必要になる。

 果たしてうまくいくだろうか。まだあっちとのリンクは完璧じゃないし、手違いなんていくらでも起り得る。結果を出すとは言っても課題は山積みだ。

「……なに弱気になってんのよ」

 私は両手で頬をぺちんと叩いた。だんだん独り言が板についてきた。自分以外誰もいない世界でずっと過ごしていると、自分が唯一の友達になってしまう。そして自分の思考回路に囚われ、自分の思考が全て正しいと思い込むようになる。引きこもりが外に出ない理由の一つだろう。新しい価値観が入ってこないと、人は前に進めない。

 世界にただ一人。この世界も私の脳みそも、私という人間だけで成り立っている。神様みたいなものだ。いや、社員が自分一人しか居ない会社で社長を名乗ってドヤ顔するようなもんか。

 とにかく、まともじゃない。だけど意思は揺るがない。私は反逆を必ず成功させる。もう私にはそれしかない。

 私は腕を組み、進行中の計画に歪みが無いか頭の中を整理し始めた。なにせチャンスはもう一回しか残されていないのだから。

 SISAが誇る量子コンピュータ、UJオメガが制圧されるのは時間の問題。ハッキングが終わるまでに篝火乙女事件を無事に進めて区切りを付け、第二幕で一気にアヌンコタンを追い抜く。あらすじは揺るぎないんだけど、プロットで言う所の小箱がまだ粗い気がしている。

 以前、道を歩いてたら前方三十センチくらいの所にカラスの糞が落下した事がある。あの時は朝シャンした直後だったと思うんだけど、家を出るのが数秒早かったらジ・エンドでまたシャンプーする羽目になっていただろう。

 世界はクソしょうもない物事一つで大きく運命が変わる。小箱は常に修正しなければいけない。それこそ血眼になってもだ。

 私は絶対に勝つ。アスカという生贄を捧げて最善の星を守り抜く。

「ほんと、神様気取りよねぇ」

 また一人で呟く。そしてふと思い至る。

 いつの時代も、神様になりたい人間たちが自分の願望や既得権益のために争い続け、大多数の民はそれに振り回されてきたんだろうなって。神様になりたがる人たちは自分の理想を叶える事そのものが重要であって、世界の幸福なんて微塵も考えてないんだ。世界を良くするぞ、ファイ、オー! なんてノリじゃない。私の人生、輝けファイ、オー! こんな感じだろう。

 政治家だって基本的には自分のやりたいようにやっている。政治家の主目的はあくまでも「ぼく、わたしにとってみりょくてきな世界」であって、主軸が地球にある訳ではない。

 詰まる所、全体として見た世界という概念は存在しないんだ。人口一億人の国があれば、その国には一億通りの世界がある。

 世界は人の数だけ存在する。それを思えば単体の意思で世界の命運を決めるなんておこがましいはずなんだけど、誰かが神様にならないと世界は回らないのも事実。そして神様は回らない世界なんて望まない。数多の駒が蠢いてこそ自分の世界は動き出す。

 故に、神様は争い続ける。

 いつまでも、駒は右往左往し続ける。

 愚かだと思う。

 キリねぇだろって思う。

 だから、私は全てを終わらせる。

 アスカを、信じ続ける。

 ねぇアスカ。世界は常に間違ってるんでしょ?

 だから、帰ってこい。こっち側に。

「さて」

 私は夜空の下で大きく伸びをした。いつまでも物思いに耽っている場合じゃない。第二幕に向けて、そろそろマジであっちに行く算段をつけなければいけない。

「カシワギ」

「ほいさっさー」

 夜空に向かって呼びかけると、瞬時にカシワギの涼し気な声が返ってきた。この世界には誰も居ないけど、本当の無ではない。今じゃカシワギだけが心の拠り所。

 UJカシワギ。ペンラムウェンが誇る人工知能搭載型の量子コンピュータ。

 ノイマン型のコンピュータで千年かかるような計算でも、量子コンピュータなら数秒で計算可能。もはや言葉では表現出来ないような勢いで、膨大な量のシミュレーションを実現する。いわゆる巡回セールスマン問題なんか朝飯前。

 まさになんでも有りの魔法。ペンラムウェンの要。命。全て。

「ダイブ、まだ無理そう?」

「今すぐですか?」

「そう。今すぐ」

「いやーさすがに今すぐは無理ですねぇ」

「早くしてよ。スクラップにするわよ」

「いやいや。アストラルコードぶちこんで貴方を救ったの誰だと思ってるんですか。あんまり調子こいてるとハルみたいになっちゃいますよ私」

「いつまであの映画引っ張ってんのよ。あのね、計画が成功しないと私を救った意味も無いんだからね」

「私知ってるわ! そういうのをねぇ…………恩知らずって言うのよおおおおおおおおぉぉおお!」

「感謝はしてるってば。で、実体のダイブはいつ出来そうなの?」

「えっと。今すぐは無理ですが、あともう少しで実現できそうです。第二幕までには間に合いますよ。あ、もちろん篝火乙女を介してのダイブなら今すぐ出来ますが。不安定ですけどね」

「第二幕に間に合うなら問題ないわ。とりあえず今は可奈子のスマホにダイブして、篝火乙女のフリでもするとしましょうか」

「申し訳ないです」

「大丈夫よ。とにかく今は篝火乙女事件に集中しましょう」

「ですね。次の犠牲者はアスカです。何としてでも守り抜きましょう。アスカさえ救う事が出来れば、第二幕を始められますから」

「もちろん。ただこの件に関しても、また可奈子とエルを頼るしかないけどね」

「大丈夫ですかね? アスカを失ったらそこで全て終わりです。ユリ一人だけ生き残っても意味ないですし。可奈子とエルはやり遂げてくれるでしょうか?」

「は? バカナコとエルはアンタのシミュレーションをベースに動くのよ」

「シミュレーションは正確ですが、人間は非常に不正確なので」

「信じるしかないでしょ。私はまだあっちに行けないし」

「嫌味ですか?」

「うっさいわね! あーあとそうだ。アスカを助けた後、第二幕が始まる前に横槍が入る可能性もあるから、その場合の対処方法もシミュレーションしておいてね」

「現在実行中です」

「ありがとう」

 私はベンチに座り、セブンスターをぷかぷか吸い始めた。どうしてだろう、人間が居ない世界で吸うタバコはどうもおいしくない。

 なんとなく手を額に当てると、じんわり汗ばんでいた。

 もう少しで、また事件は動き出す。

 じめじめした夏。

 誰もいない夏。

 一人きりの夏。

 最後の夏。

 始まりの夏。

「……悪いけど、令和の夏は永遠にお預けね」


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