門出

 兄貴がこの道場を出ていくとき、どんな言葉を俺に残しただろう?


「龍水、この兄がいなくなれば大変なこともあるだろうが、お前なら必ず乗り越えられる! 頑張るんだぞ!!」


 いや違う。こんな慈愛に満ちた言葉ではない。


「じゃあな」


 そんなそっけない一言だけを残していった……わけでもない。

 兄貴、行雲龍炎は俺が寝ている間にこの道場を出て行ったのだ。

 何も言わないどころか顔さえ見せないままに、俺の前から姿を消したのだった。

 あのとき、俺はさみしいとも、悲しいとも思わなかった。

 いや、心にぽっかりと穴が開いて何も思えなかった。

 兄貴に見捨てられた。

 その事実が俺にはあまりにも信じ難かった……。


 1つ確実なことは、俺が道場を出ても2人ともそんなには悲しまないだろうってことだ。

 まあだからといって、兄貴よろしく黙って出ていくわけにもいかないか。

 そんなことを思いながら俺は荷造りをしていた。

 神の力云々を差し引けば、この道場からはずっと出たいと思っていたからな。ちょうどいい。

 しかし、師匠も尚草も俺が道場を出ることに対して何も言わないんだろうか?

 言わないんだろうな。

 そもそも師匠の命令で道場を出ることになったわけだし、尚草はいつでも師匠と同意見だからな。

 尚草にしてみれば俺がいなくなってくれた方がいいくらいだろう。

 そんな風に思っていたとき、


「先輩。少しいいですか?」


 振り返れば、そこには尚草が立っていた。

 こいつが俺に話しかけてくるとは珍しい。

 唐突なのはいつも通りだが。


「なんだよ。最後に文句の1つでも言いに来たのか?」

「文句ならいくらでもありますが、1つ感謝の言葉を言いに来たんですよ」

「おいおい、気持ちの悪いこと言うなよ。感謝の言葉?? ああ、もしかして師匠からの伝言か?」

「いえ、まぎれもなく私の言葉、私の気持ちですよ。今までありがとうございました。

 先輩がいたから、あの厳しい稽古を私はここまでやってこれたんですよ」

「お前がここまでやってきたのは、師匠がいたからだろう?」

「それは始める理由であって、続けられた理由ではありません。

 愚かな人類最底辺の存在である先輩が、さぼりにさぼっていたとはいえ辞めなかったから、私も続けられたんです。本当に感謝しています」


 結局、礼を言いたいのか悪口を言いたいのかよく分からなかったが、尚草がそんな風に思っていたとはかなり意外だった。

 同時に俺はどうして続けられたんだろうかと考えた。

 簡単なことだ。こいつが辞めなかったから俺も辞めなかったんだ……。

 まったく、こいつと同じこと考えていたなんて本当に気持ち悪い。


「尚草、この俺がいなくなれば大変なこともあるだろうが、お前なら必ず乗り越えられる! 頑張るんだぞ!!」

「先輩がいなくなれば、大変なことはむしろ減りますよ。だから心配は全くの無用です」

「そうかよ。じゃあ元気でやれよ」

「先輩もお元気で」


 荷造りを終えた俺は師匠を探した。

 師匠が俺を探すならともかく、逆の場合は珍しい。

 今日は珍しいことのオンパレードだな。

 道場、離れ、蔵、かわや——いたるところを探しても師匠の姿はなかった。

 どこに行ったんだ?

 カツーン。

 突然外から何かが落ちた音がした。

 音のした方へ行ってみると、どうやら瓦が屋根の上から落ちてきたようだった。


「なるほどね」


 俺はその瓦に「ある言葉」を書き込んで屋根の上に放り込んだ。


 それじゃまあ


「行ってきます」

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