第十四打席
「慎二くん、これまとめといて」
「はい、いつ頃までに出せばいいですか?」
「うーん、あたしの机に二時必着で!」
オープン戦を前にして、慎二は大忙しだった。インフルエンザの流行により、オフィス内で欠席者が続出している。しわ寄せで仕事量は倍になり、一日を乗り切るのも一苦労といった有様だった。
「はい、横浜球団です。あ、ほんと? じゃあ今すぐ仕事送るからやってね。タイムカード押しとくから。はいはーい。よっちゃん熱下がったって」
「事務員が復活したぞ。データ溜まってるんだ、俺のも送ってくれ」
「了解。慎二くん、さっき渡したやつやっぱ大丈夫。よっちゃんにやらす」
「いいんですか」
「もちろん、休んだ分しっかり働いてもらうから」
そしてこの書類の山が片付けば、晴れてケビンのもとに行ける。慎二は鼻歌でも歌いたい気分で手を動かしていた。
データも肩も、準備は万全だった。すでに向こう三試合分のフォームは体が覚えており、一時間ほどの調整で再現できる。目に浮かぶのはケビンの打球。それだけのために、自分は日本にいるといっても過言ではなかった。
ゆえに、この社長からの呼び出しには悪い予感を禁じえなかった。
「栗原くん、君はグレアム選手の専属トレーナーだったね」
「はい」
「申し訳ないのだが、オープン戦の期間中だけ広報にまわってくれないか。インフルのせいで広報部がほとんど機能していないんだ」
慎二は断固として断りたかった。しかし今籍を置いているのはこの会社である以上、受けざるをえない。契約にも、非常時には業務を受け持つようになっている。
ゆえに考えるべきことは、ケビンがひとりでオープン戦を戦い抜くことができるかだった。
「うわ、これうま。あー、でも辛。後から来る」
「懐かしいな、この店。前に監督に連れてってもらった以来だ。さすがにテキサスでちゃんとした中華は食べられないもんね。ほれ、これもうまいぞ」
「ピータンはいいよ。こら、近づけるな」
過剰に反応するケビンに対し、慎二はレンゲで一切れすくってケビンに向けた。
「はい、口開けて」
「ええ、やだよ。なんでそんな」
「そういうこと言うんだ。じゃあ明日から昼ごはんの野菜増やすよ」
「それもやだ」
「じゃ食べな。ほらほら」
「もう、わかったから。ん、あ、意外といけるな」
中華料理屋で話しながら、慎二は一ヶ月ぶりのケビンに話を切り出すタイミングを伺っていた。
「そういや、大学リーグって何月からだっけ」
「五月だよ。今はやってない」
「そりゃそうか。祐太郎やコージーの試合が見れると思ったのにな」
「その時はお前が忙しいだろ。撮っといてあげるから、気にせず打席立ちな」
わかったよ。ケビンは肉料理を頬張りながら、それに頷いた。そうして最後の一口を飲み込むと、口を開いた。
「来週の初戦、天狗とだよな。先発は多分畠中。ガワさんが言うには出所が見えなくてスライダーのキレがいいらしい。慎二、頼むよ」
ケビン、聞いてくれ。慎二はその手を取って、はっきりと口にした。
「球団の仕事が立て込んで、開幕まで同行できそうにない。一人でやってくれないか」
「え、ほんとか」
「嘘なもんか。僕だって行ってやりたいが、もう職員だからね」
ケビンはあっけに取られていたが、数秒考えた末に頷く。
「開幕したらいてくれるんだな。任せろ、三月二十九日に甲子園で待ってるぞ」
「ばか、待ってるのは僕だ」
そういってお互いに笑いながら、ふたりは今一度気を引き締めていた。
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