第九打席

「お電話代わりました、代理人の栗原と申します。はい。ええ、日本語で構いませんよ」

ケビンは事情が分からず、ただ慎二の言葉を聞いていた。彼も日本語が話せるため、日本からの打診ならわざわざ英語を用いずともよかったのだが。

「はい、はい。喜んで調整させていただきます。以前提示させていただいた条件さえよろしければ。え、はい、かしこまりました。こちらも代わります」

慎二は受話器をそっと差し出すと、ごめんのサインをした。

「よかった、あとは任せたよ」

「ああ、わかった。はい、代わりましたグレアムです。あ、山岡さんですか。どうもです。はい、やれます。ありがとうございます」

そこから数度の往復を経て、通話を切る。放心状態だったケビンに対し、慎二はただ右手を差し出した。

 手のひら、手の甲、握手から銃のサイン、もう一度手のひら、握って手の甲、最後に拳。互いの笑顔を見て、今起きたことの意味を理解した。

「来年から横スタだ、懐かしいな」

「でもシンジ、どうしたんだいきなり」

「僕も行くんだよ。安心しろ、自分の分は自分で稼ぐ」

彼の提示した条件は、自分を球団職員として雇用することだった。ケビンにとっては寝耳に水だったが、つまりそういうことに決まったのだ。慎二にしてみれば、日本からの打診は当然予期していたことのひとつだ。ケビンはメジャー経験もあるプロスペクトだ。欲しがらぬはずはない。

「お前、いいのか。仕事もあるんだろ」

「やめるに決まってるだろ。今の職場ではいろいろ勉強させてもらった。感謝もしてる。でも、それはこれからのためのことだ。いつかやめることになるとは思ってたよ。とは言え、会社の方とは何も話してないけどね。キャンプから合流だから、それまでに何とかすればいい。そうだ、今のうちに面倒な話しなきゃな」

慎二が取り出したのは一枚のファイル。そこには彼の肉筆で、ふたりの行く末が示されていた。

「僕とお前のための紙だ。読んで、よかったら名前を書いてくれ」

「これに署名ね。はいはい」

「おい、ちゃんと読んでくれ。これは正式な契約書だ」

「わかったよ。そういうのは苦手なんだ、ちょっと待っててくれ」

ケビンは形式ばった書類に目を通す。ひと通り見て細かいところに問題はなさそうだが、しかしひとつ納得できない点があった。

「シンジ、冗談じゃない。代理人報酬なしって。そんなの認められるわけねえだろ。せめて割合にしろ」

「それは無理なんだ。君は日本人選手としてNPBに入るから、代理人も日本式だ。弁護士資格がいるのさ。だからこそ、球団職員というわけ。職員なんだから選手の給料はもらえないさ。それが不満なら、ほら。ここに書いてあるよ」

「どれどれ。出来高の三分の一はもらう、だって。ちゃっかりしてやがる。のったぜ」

苦笑したケビンはペンを取り、その名前を書いた。ケビン・グレアム。いろいろな場面で描いてきた名前だが、そのどれよりも重く感じられた。

「よし、契約の履行にあたり、もうひとつすべきことがある。ちょっと待ってね」

「まだあるのか」

「なに、儀礼的なものさ」

慎二は鞄から、透き通るような蒼のボトルを取り出す。

「日本酒じゃないか」

「佳琳が送ってくれたんだ。契約に酒は付きものだろう?」

言いながらグラスを取ってきて、ケビンの方から注いでいく。

「それじゃあ、僕たちの未来に」

「おう、乾杯」

色のないグラスから、鮮やかに音が響いた。




「では君は本当に辞めるのだね」

「はい、今までお世話になりました。ここで学んだことは忘れません」

書類をまとめていた社長は、新聞を手にした。そこにはケビンが打ったホームランの記事が載っていた。

「栗原君らしいな。その分野でトップを目指す人を支えるのは容易なことではない。が、君なら心配はしていないよ」

「ありがとうございます」

そうして書類にハンを押し、慎二に渡す。

「スラッガーの寿命は短い。彼が君を必要としなくなったら、私が君を歓迎するよ」

では。そう言って全ての書類を渡し、手を振った。慎二はそれに深々と一礼し、社長室を後にした。


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